2012年10月19日金曜日

伊藤智也(車椅子ランナー49歳)   ・自分の命を輝かせたい

伊藤智也(49歳) 自分の命を輝かせたい
今年ロンドンパラリンピックにプロの車椅子ランナーとして出場し、陸上4種目100mで5位 
200m、400m、800mではそれぞれ2位の銀メダルを獲得
引退を決意していました  34歳の時に難病 多発性硬化症を発生し、両足が動かなくなり、
左目を失明しました  
その2年後36歳で車椅子ランナーとして、スタート、めきめき実力を付けて 世界的な車椅子ランナ
ーとして活躍しました
3年前に再婚した奥さんが専属マネージャーとなり、二人でロンドンに向けて調整してきました
上半身の腕の筋肉が凄い  ピーク時は一日6時間はトレーニングをした  
400m、800mはディフェンディングチャンピオンで有ったので、金メダルは取りたかった
全力で取り組んだので悔いの残る気持ちは無かった  
人が前に走っている後ろでは70%の力で走ることができる 300mを後ろで走っていて残り100mで
刺し返すことができなかったというのは、圧倒的な力を持っているということで素晴らしチャンピオン
でした(後ろは空気の抵抗が無い)
2004年アテネ、2008年、北京と ロンドン 出場  アテネは5000m、マラソン それぞれ4位、 
北京は400m、800m共に金メダル 

強いランナーとして臨めた大会だったと思う  今は満足な気持ちでいっぱいです
1963年三重県に生まれる 2001年大分国際車椅子マラソンで2位  2003年世界選手権 
400m,1500m、マラソンで金メダル 800mで銀メダル
そのほか数々の世界大会に出場し、素晴らしい成績を残した  
2005年45歳のときにプロの車椅子ランナーになる
多発性硬化症とは  基本的には脳を中心とする神経が石のように堅くなってくる   
出た場所に麻痺が出たり、しびれが出たりする後遺症が残る 
徐々に進行してゆく可能性がある  症状が起きた時は突然だった  
タクシーから降りた時に転んで、段差につまずいたのかと思った 
その後コーヒーを飲んで、ホテルの部屋に入ろうかと思ったら、足が動きづらかった  
それがスタートですね

病院に行って、検査をしたら、多発性硬化症の疑いが強いと言う事になる  
今あるけているのは不思議なぐらいの病巣が有ると言われた
今は歩けるので誤診では無いかとあまりショックは感じなかった  
入院して1週間目に、動かなくなって、両目失明 喉の障害で口がきけない 両手両足が動かない
植物人間状態、すべて自分の意志では動かない このまま死ぬのかなと思った  
その後少し明るく見えたり、指先が動けるようになったり、言葉には成らないが、
声が出せるようになったり、少しずつ回復基調になったのが、1ヵ月位  落ち込む日が無く嬉しい
日が重なるばっかりだった
周りからは大変だったでしょうと言われるが、そうではなかった

車椅子の陸上を始めたきっかけは  たまたま同じ病院に入院していた人の息子さんが車椅子の
会社に勤めていたので、車椅子を買ってほしいとの話が有って
カタログの請求をしたのがきっかけ、 自分の好きな車椅子を選んだのが陸上用の車椅子だった
(病院の車椅子しか見てなかった)
スポーツ用の車椅子だけが載っているカタログだった(カタログを持ってきた人も余り解っていなかった)
陸上用の車椅子(採寸作業が必要でその後に製作を開始する)はとりあえず倉庫にしまっておいた  
別の車椅子を購入して、生活をしていた
間違ったと言えば違う車椅子に交換は可能であったが、遠いところから来てくれたために
断りずらくて、 2台の購入になった

車椅子の販売に来てくれた人も車椅子を利用している人で、その人が岐阜県で車椅子の
ハーフマラソンをやるとのことで、見に来ないかとさそわれる
地元の人間たちがやるふれあいマラソンなので見に来てくれないかとの事だった  
どうせ見に行くのなら車椅子があるので、走ってみようかと言うのがスタートだった
結果は2時間45分だった 遅い方でも1時間20分でゴールする  
一番遅い方からでも倍以上で走っている  悔しかった 子供からお年寄りまで全部に抜かれて
倍以上で走っている  こんな屈辱が世の中に有ったのかと思いました   
それから翌日から毎日60km走った合言葉は「こんちきしょう」ですね
多分毎日、盆も正月も無かった  我流なので筋肉も余りつかず、そんなに早くも無かった
先頭集団を走れるようなランナーではなかった 
 
その後いろんなレースに参加をして、友達ができるので、友達に知識を入れていただいて、
それからですね
練習の仕方、漕ぎ方を段々学んでいった   
かつては基本原則を知らないでやっていたので、がむしゃらにやっていたのみだった
書店に行って、筋肉の研究を大分やった   10年近く続いた様に思う  
高校受験 プログラマーになりたかった  鈴鹿  工業が盛んな地域だった  
時代の先端を走る世界だと思って受験するが不合格だった
初日の2時間目を授業を受けて、2日目には退学届を出した(工業大学に行きたかったので)  
現場に入ってしまえば勉強出来ると思って働きながらプログラマーになろうと思った
会社の中のプログラムを組むのは半年で体得できた
  
20歳で人材派遣会社を起業する(広い世界を見てみたいと思うようになって)
惜しまれつつ辞めたと言うのが自分の自信になった(大卒と同等の等級になった時点)
順風満帆だった  バブルに向かう途上  技術者を派遣する会社だったので、珍重された  
こんなに儲かっていいのかと思うほど儲かった
企業なのでいろんな浮き沈みが有った  自分の方向と違う事が有った  
結婚して4人の子供がいる(孫までいる)
42歳でプロの車椅子のレーサーになったのか  
これだけの努力と、これだけのものを犠牲にしてやっているのに、なぜこの障害者スポーツに光が当たらないのかと
非常に理不尽を感じた  じゃあ俺がやる 俺が光を当てて見せると いう意気込みでやった  
自分にスポンサーがいても企業が名前を出してくれないようにと言っていた
スポンサーの名前を公表するようにした

企業が応援するのが企業のイメージアップになってきている   
経済の状況が良く無くなって居ているので厳しいが、優秀な人は健常者同等に成ってきつつある
プレッシャーが好きなのかもしれない  
企業のトップとしては何千人と言う人の生活を背負うと言う事は凄い嬉しい  頑張れる
2009年に結婚  プロになってから  やっぱり幸せですよね  
基本がずぼらなのでついつい甘えてしまうので
もう引退を決意して、さっぱりしている 今は選手ではない   
競技場を走るという意味では本当にやりきったというイメージです  大会には一切出ない
これからの目標は障害者ドリームを完成させる  それに向かって全力疾走したい
 
障害者になると、障害者として生まれると、障害者と言う世界で生きて行きなさい
という教育を受ける   障害者でも夢があっていいだろうを思う  諦めからスタートしてしまう
大反対で、障害者であろうが、健常者であろうが、意識を持った心を持った人間に変わりはない  
何故か判らないけど小さくなってしまう 同じ夢を持てなくなって仕舞う
それは理不尽でしょうがない  私の生き方は障害者でも頑張れば、良い車にも乗れるし、
いい家にも住めるし、自由に旅行もできる

世の中一般社会から見た成功者、 信用される人、信頼される人  
そんな目指すべき人間になって見たい
障害者社会と健常者社会との懸け橋になってみたい
   やる方法、全部決まっていますので、「絆」と言う本も出させていただきましたけれど
講演、執筆活動を通じてこれまでの感動、多くの皆さんからいただいた叱咤激励 も含めて 
すべて感動ですから 感動を伝えてゆく
きちんとした報酬を頂く事を含めて今後の活動をしてゆきたい