2025年4月30日水曜日

長田昭二(医療ジャーナリスト)      ・末期がんをどう生きる

長田昭二(医療ジャーナリスト)      ・末期がんをどう生きる

 ステージ4の前立腺がんを患っているという長田さん、抗癌剤の効果が薄れてきた2024年10月に余命半年の宣告を受けました。  医療ジャーナリストとして医療の現場近くにいた長田さんに何故がんの治療をしっかり受けなかったのか、がんにかかった時どのような選択が必要なのか、伺いました。

前立腺がんは骨に転移します。  背骨、肩甲骨とかに今転移が進んでいます。  肩甲骨は今痛みが出てきています。  左手が上にあがらない。  2024年10月に余命半年の宣告を受けましたが、半年たちました。  2020年に血尿がありました。  それより10年前にマラソンをしていて脱水状態でおしっこをしたら真っ赤な血が出ました。  病院に行ったらそれは血尿ではなかったんです。  血液検査ではPSA値が高かった。  段々PSA値が高くなっていってがんが見つかりました。  ステージ1でした。  医師は手術を進めましたが、前立腺を取ってしまうと性機能を失う可能性があるので、超音波治療をやりました。  がんが生き残っていて急速に勢いを増して行きました。  2021年7月に手術でとることになりました。  手術の前の検査で転移が見つかってしまいました。  

尿道口検査は凄く痛いと聞いていたので、敬遠していたが、技術が進んで痛くなくなって来ていた。 (受けるべきだった。)   現在抗癌剤治療をしていてその副作用が出ます。  骨髄にダメージが行くので貧血になります。  だるくなる。  一か月に一回抗癌剤をしていますが、月の半分はだるさとの戦いになります。  髪の毛は抜けるんですが、また生えてきてその繰り返しになります。   最初経口抗がん剤を飲みましたが、身体に合わなくて、食欲が全く止まってしまいます。  いまは点滴のみです。  いずれ抗癌剤は効かなくなるという事はわかっていたので、何時まで効くのかは使ってみないと判らない。  

東京生まれの59歳。  日本大学農獣医学部を卒業して、新聞社、出版社に勤務して2000年にフリーになりました。  草野球、マラソン、スキーなどをやっていましたが、辞めてしまいました。  合唱はやっていますたが、貧血になると歌えないので、一昨年の演奏会で引退しました。  大学では落語研究会にいたのでしゃべるのも、聞くのも好きでした。   これも一昨年でしゃべるのは辞めました。 今は聞くだけです。  

29歳で結婚して39歳の時に2回目の結婚をしました。  こうして余命宣告を受けるとなると一人でよかったなと思います。 (気が楽です。)  『末期がん「おひとりさま」でも大丈夫』と言う本を出しました。 (昨年10月)   或る程度の知識をもっていれば、そんなにうろたえることなく前向きになるのではないかと思いました。  

余命宣告はPSA値が上がってきて、医師との間ではそろそろ来たかと言うような感じでした。  自暴自棄にはならなかったです。  変に医療に高望みをすることもなかった。   かかりつけの先生と仲良くしてゆく事、自分をさらけ出す事が重要だと思っています。   患者さんに合う先生を捜してくれたりします。   仕事は続けたいと思っています。      終活を進めています。  友達が多くて助かっています。  検査は重要だと思います。   お医者さんの言うとおりに必要な治療は受けた方がいいと思います。  自分にしか気が付かない変化とかは、なんでも先生に言った方がいいと思います。  がんはこういう風に進んでいくんだなという事を知ってゆく一つの手がかりにしてもらえれば、医療ジャーナリストとしてこんなにありがたい事は無いです。  ウェブサイトに載っています。

 




























2025年4月29日火曜日

山﨑努(俳優)              ・演じることに向き合う

 山﨑努(俳優)              ・演じることに向き合う

山﨑努さんは1936年千葉県生まれ。  高校卒業後俳優座養成所を経て、文学座に入団しました。  1963年黒澤明監督の映画「天国と地獄」で注目を集め、以来、映画や舞台、テレビで存在感のある役を演じ続けています。 

88歳になりました。  『「俳優」の肩ごしに』、と言うタイトルで文庫本にまとめました。   与えられた枠で一生やらなければならないわけです。  それは役と似ていると思います。   役も誰かが決めてくれた人物と枠の中で何を表現するかと言う事を、枠から外に出られないわけですね。  今まで生きて来た山崎努と言う役は、どういう風に産まされたのか、産まされてされていないのか、何があったのか、自分と離れて自分を見つめる。  これは役つくりと一緒で、役の人物の中に入っちゃったらおしまいなんで、出たり入ったりしなければいけない。 山崎努と言う男を半歩離れたところから見て、思いつくことが有ったら書いてみようと思っただけです。  人生も少ない訳だから、自分の嫌なところを何とか少しでも克服したいという気持ちがあって、自伝も出しました。 

読むのも好きですが、書いているうちに考えることも出来るし、スピードを落とさずに考え込まずの書くようにして、考えるようにして同時進行で、演じる事と書くことは僕の中では連動しています。   言葉を選ぶことは大変です。  日記は2001年からつけています。(24年になる。)   俳優は稽古中にメモを付けます。  それを集めたのが「俳優ノート」という本です。   役を作るうえでも参考になります。  

子供時代は太平洋戦争のさなかでした。  疎開の記憶は完全に抜け落ちています。  いい事は無かったと思います。  父は戦地から無事に帰ってきました。  裸足で迎えに行きました。  父親が帰ってきたことを長男の僕が喜ばないといけないのではないかと、演技していました。  父親と目が合って、その後の僕の演技プランは僕にはないんです。  いやらしい少年です。  自意識はそういう年頃に芽生えてくるんだと思います。  その裸足の疾走は、本当に親父にばれているのか、はっきりしないんです。  1年半後に親父は亡くなっているので、聞くチャンスもありませんでした。  その後ずいぶん気になりました。  本を書いた時点でリピートしてみると、僕と目を合わせたのが2秒ぐらいで、無表情の目だった。  という事はばれていなかったのではないかと言う気がします。  僕はずーっとばれていると思っていた。 8歳の時でした。    

芝居の好きな同級生がいて、誘われて芝居を見ているうちに好きになって行きました。  高校卒業後俳優座養成所にはいって、 その後文学座に入団しました。  憧れていた芥川比呂志さんとの出会いがありました。  日常の中に面白いことを見つけて楽しむ人でした。  話もうまい人でした。  1963年黒澤明監督の映画「天国と地獄」で注目を集めることになりました。  オーディションを受けました。(その時だけです。)  黒澤さんは、「映画つくりは半端じゃ出来ない、毎日毎日目の前にある仕事を一つ一つ片付けて行けば、いつかは終わっているんだ。」と教えてくれました。  その後の僕の人生の参考になりました。

演技をしている最中に、もやもやしたものがあるんですが、危ないんです、衝動なんですから、脳のチェックを受けていないんです。  衝動を演技に出来た時にはすごく快感があるんですね。  役を離れるわけですから、役に戻れなかったら自分が死んじゃうんです、物語のなかで自分の居場所がなくなっちゃうんです。  どうやって戻るのかがコツなんです。 

「俳優ノート」 リア王をやった時の、2年半に渡ってリア王と向き合った記録。  その時には、それで芝居を辞めようと思っていたので細かくメモを付けていました。  僕は役を引きずっちゃうほうです。   舞台に出てゆく時には怖いです。 一番怖かったのは「ダミアン神父」という一人芝居で1時間半ぐらい独りでしゃべり通さないといけない。  初日怖かった。 最初のセリフが出てこないんです。  そのうちにお腹が痛くなってきて、今日は中止かと思いました。  5秒ぐらい前に、神父の顔写真が浮かびました。  これから喋ったりするのはあいつなんだと、お前は勝手にやれと、俺は身体を貸すだけだと、思いました。  そうしたら気が楽になってパニックが解けて、出てゆく事が出来ました。

役の人物を生きてみせるのが、俳優の仕事だと思います。  うまいなあと思わせる俳優は芸を披露しているだけで、役の人物を見えてこない、そういう言い方で判りますかね。 だからどっちがいいというわけではなくて、芝居にはいろいろあっていいと思います。 

本は数を読まなければ駄目です。  好きな作家を持つと本が好きになります。  好きな作家は全部読みます。  昨年入院しました。  お腹が痛くなったのと食事が飲み込みにくく成りました。  がんでステージ4で生存率もあまり高くないという事でした。 3か月半入院して退院して今があり、命拾いをしたという事です。  科学療法で副作用も結構ありました。 手術が出来ない部位でした。  体重が20kg少なくなりましたが、10kg取り戻しました。   頭に中でいろいろ考えることがあって、頭が忙しいです。  自分からこの役をやりたいと言った事は一度もありません。  舞台はリア王でおしまいと決めていたので、舞台には立たないです。  テレビ、映画、本か、死ぬまで興味のあることをやって行きたいと思います。  









2025年4月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 物理学者 アルベルト・アインシュタイン

頭木弘樹(文学紹介者)     ・〔絶望名言〕 物理学者 アルベルト・アインシュタイン

アインシュタインは1955年4月18日に76歳で亡くなりました。  今年が没後70年になります。  

「誰もが自分を知っているのに、本当に知っている人はごくわずかしかいない。」 アインシュタイン

20世紀最高の物理学者と評されノーベル物理学賞も受賞しています。  ドイツ生まれのユダヤ人でスイスの大学を卒業後、特許局の技師として働きながら研究を続け、画期的な論文を発表、ナチスから逃れてアメリカに渡りプリンストン高等研究所の教授に就任しました。  生まれたのは1879年(明治12年)  

チャーリー・チャップリンの「街の灯」という映画のプレミア賞にアインシュタインが招待されて、その時にチャップリンが以下のようなことを言った言葉が有ります。

「みんな私のことは理解しているからはやし立てる、そしてあなたのことは誰も理解していないからはやし立てる。」 チャップリン

誰も自分と言う人間のことを本当には理解されていない。  

「私が一番不思議なのは宇宙が理解できることです。」  アインシュタイン

「言葉をしゃべり始めるのが遅かったので、両親が心配したのは確かです。  それで両親は医者に相談することまでしたのです。  その時わたしは幾つだったかは判りません。  ただ3つになっていたのは間違いありません。」   アインシュタイン

アインシュタインは生涯に渡って言葉でものを考えなかった。  

「言葉で考えることはめったにありません。  考えが浮かんできてそれからそれを言葉で表現するのです。」    アインシュタイン 

アインシュタインは記憶力もあまりよくなかった。  身体もあまり丈夫ではなく、22歳の時の健康診断で兵役義務を免除されている。  胃も丈夫ではなくて酒も飲まずに菜食主義です。  

「大事なのは疑問を持つのを辞めない事です。  永遠なるものの生命の実在の驚くべき構造の神秘を観察するとき、恐れ敬わずにはいられません。  毎日この神秘を少しでも理解するだけで十分です。  決して神聖な好奇心を失ってはいけません。」  アインシュタイン

「こうも確信しています。  精神的なものからもっとも純粋な喜びが得られるのは、そういうものが生計と結びついていない時だけだ。 」    アインシュタイン

「嘘に欺かれたことのないものには幸せの意味が判らない。 」 アインシュタイン

「涙と共にパンを食べたことがないものには人生の本当の味は判らない。」  ゲーテ

アインシュタインは大学卒業後、大学に残りたかったが残れなかった。(教授に嫌われていた。)   他の大学にも行けずに、友達の紹介で特許局に行くことになる。   特許局に務めている間に重要な論文を5つ発表する。  その中に特殊相対性理論も含まれている。(1905年 26歳)  

「この理論がこの分野の同業者の間でこれほど早く注目されるようになったのは主にプランクが決然と熱心にこの理論を支持してくれたおかげです。」  アインシュタイン

家庭の方が上手くいかなくなる。 

「結婚とは偶発的小事件から何か永続するものを作り出そうとする成功しない試みだ。」アインシュタイン

アインシュタイン自身が上手くいかなく離婚することになる。(16年間)

「夫の無作法は天才だとみなされますが、私の無作法は無教養だとみなされます。」  エルザ(再婚相手) 

アインシュタインは音楽が好きだった。  自分でヴァイオリン、ピアノを弾いている。 特にモーツアルトが好きだった。  文学も好きでドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など絶賛している。 カフカの作品には理解を示さなかった。 

「何故少数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることが出来るのか。  戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに。  何故彼らは少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか。  国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ自分の身を犠牲にしてゆく。  このようなことがどうして起こりうるのだろうか。  答えは一つしか考えられません。  人間には本能的な欲求が潜んでいて、憎悪にかられ相手を絶滅させようとする欲求が、憎悪と破壊と言う心の病に侵されないようにすることが出来るのか。」 アインシュタイン

アインシュタインが精神分析医のフロイトに出した手紙です。 ( 1932年 53歳) 翌年にドイツでナチスが政権を握る。 

「私は人生の中で一つ大きな間違いを犯しました。  原子爆弾を作るようにルーズベルト大統領に進める手紙に署名したことです。 」  アインシュタイン

ナチスドイツが原子爆弾の製造に取り組んでいて、成功する見込みが高いと言われる。  ナチスが原子爆弾を手に入れると世界中がナチスに・・・。(よく聞こえず) それを恐れていた。

「ドイツが原子爆弾の製造に成功しないと知っていたら、私は指一本動かさなかったろう。」 アインシュタイン  (原子爆弾が日本に落とされ深く後悔する。)

「私の平和主義は本能的な感情です。  この感情が私を捉えるのは、人々を殺すことがむかむかするほど厭だからです。  戦争の理由が何であれ、私は戦争への奉仕は直接的なものも間接的なものも絶対に拒否するし、同じことをするよう友人たちを説得する。」 アインシュタイン(1929年 フロイトへの手紙に前)

「私の考えでは戦争で殺すのは、普通の殺人を犯すに比べてすこしもましではない。  良心に逆らう事を決してするな。  例え国家が命じても。  第三次世界大戦がどのように行われるのか私にはわからないが、第四次世界大戦で何が使われるのかお答えできる。  石だ。」 アインシュタイン

「前途には、もし私たちが選べば更なる幸福、知識、英知の増進がある。  それとも私たちは争いを忘れることが出来ないために、反対に死を選ぶのだろうか。  私たちは人間として人間に訴え、自らの人間性を忘れるな。  そしてほかのことは忘れよと。」       (ラッセル、アインシュタイン宣言  アインシュタインの遺言のようなもの)

「成功した人間になろうとするな。  むしろ価値のある人間になろうとせよ。」 アインシュタイン  

「どれほど仕事に打ち込んで富を築いていたところで、人類を前進させるのには役立ちません。  モーゼやキリストやガンジーがお金をいっぱい持っていろんなものを買いあさっている姿を想像できますか。 」 アインシュタイン 

「本当に価値のあるものは野心や義務感からではなく、人間に対する愛情や献身から生まれます。  私のゆくてを照らし前向きに人生に立ち向かう勇気を与えてくれたのは、親切心と美と真理でした。」 アインシュタイン  

「他の人の喜びを喜び、他の人と共に苦しむ事、これが人間にとって一番の指針です。  人間の最も重要な努力は道徳的に行動しようと努める事です。  私たちの行動が道徳的であることだけが、人生に美と尊厳をもたらすことが出来るのです。 」 アインシュタイン

「自主的に考え判断する事の出来る独創的人格なくして、社会の上向きの発展が考えられないのは養分を与えてくれる社会と言う土壌無しに、個人の人格の成長が考えられないとの同じである。」  アインシュタイン

「後世の皆さん あなた方が今の私たちより公正に平和的になっておらず、もっと分別を持っていないのなら、悪魔にさらわれてしまいますように。  敬意をもってこの心底からの願いを表明している或いはいたのは、アルベルト・アインシュタインです。」 アインシュタイン


























2025年4月20日日曜日

岡﨑育之介(映画監督 脚本家)     ・忘れてしまうその前に(岡﨑育之介)    

岡﨑育之介(映画監督 脚本家)     ・忘れてしまうその前に(岡﨑育之介) 

 岡﨑さんは東京都出身の31歳。  祖父である放送作家の永六輔さんの背中を追うように、芸能の道に進みました。  18歳で俳優としてデビュー、その後バックパッカーによる世界一周や脚本学校での学びを経て、26歳から作品制作をはじめました。  来月2日からは監督、脚本を務めた最新作「うおっしゅ」が公開される予定です。  風俗店で働く女性が認知症の祖母を一週間限定で介護することになり、とまどいつつも新たな関係を紡いでゆく物語。  岡崎さん自身の祖母とのかかわりが、ヒントになったと言います。 

一見かけ離れている様な認知症と風俗との二つを結びつけて描こうと思ったのは、脚本を書く時に二つのことを共通項として見出そうと思って、共通点として洗うという事、二つ目が忘れられるという事。  祖母が老人ホームにいます。  たまに見舞いに行くが全く僕のことを覚えていない。  行く意味があるのかなあと思う様になりました。  本作を作ろうと思った時に取材をしようと思って面会を求めました。  寝坊して時間に行けませんでした。   これを描くべきだと思いました。  

僕は認知症の原因は孤独なんじゃないかと思っています。会う意味がないのは祖母が僕を忘れているからだと思っていましたが、 逆でぼくが祖母をないがしろにしているから、祖母が後天的な認知症になったんじゃないかと思いました。 人と関わる機会が減る、人から覚えられている機会が減ることによって、認知症は後からなるんじゃないかと言う解釈をしたんです。  忘れられているから忘れてしまう。  それがソープ嬢、風俗嬢がお客さんと一時的な愛情関係で接するが、店から出るとすぐ忘れてしまう。  そういったことと近いと思いました。  その二つを結びつけたのがこの作品の起点です。

「うおっしゅ」は柔らかいイメージという思いがあり平仮名にしました。 中尾優香さんと研ナオコさんのダブル主演になっています。  研ナオコさんはファニーなキャラクターとしてイメージが合うと思ってお願いしました。  「妥協するなら出ません。」と言われました。  徹底してやりました。  決められた介護は決していいものではないと思うんです。  見終わって、おじいちゃんおばあちゃんに会いに行こうと思って電話してもらえることが起きたら、作った意味があると思います。 行動の端緒になってくれればうれしいと思います。   デビュー作が「安楽死の勧め」  コメディーに描いています。  死は僕にとっては切っても切り離せない人生の重要な事柄です。  

高校生で芝居の面白さを知りました。  18歳で俳優としてデビューしました。  いまは 監督、脚本家です。  22歳の時に祖父が他界したことは大きかったです。  演者側として祖父と並ぶことは出来ないから、作り手側に回ろうと思いました。  祖父永六輔は怖かったです。  祖父は照れ屋で愛情表現はしなかったけれど、ちゃんと僕たちのことを見守ってくれていたんだと、エッセーを読んで衝撃でした。   18歳の時に俳優になるという事を母と共に祖父のところへ行っってどういわれるのかなと思ったら、「楽しめ」と言われて、やっぱり相手にされていないんだなあと思いました。  今になってみると「楽しむという事」はどれだけつらい、どれだけ大変な仕事でも「楽しむ」という事がどれだけ重要な事かというのが、10年以上たって身に染みています。  祖父は晩年パーキンソン病にかかってしまいました。  祖父は10秒間無言の放送をして、その10日後に他界しました。















2025年4月19日土曜日

岡山容子(訪問診療医)          ・ゆれる心にとことんつきあって

岡山容子(訪問診療医)          ・ゆれる心にとことんつきあって 

岡山さんは4人姉妹の2番目として生まれ、子供の頃から人の死に関心を抱き、医師の道を選びます。  17年間麻酔科で経験を積んだ後、終末期医療の最前線、在宅医療の現場へと進みます。  10年前に自身のクリニックを開業、その翌年母親のがんが見つかります。  現在は訪問診療医として、患者とその家族に向き合う岡山さん、人生の最後を迎えるにあたって直面する人々の心の揺れについて伺います。

子供の頃はよく変わった子と言われていました。  身体も小さく運動も苦手で、勉強だけが得意でもあり好きでもありました。  本を読むのが楽しかったです。   中学の時の塾が「学力3分人間7分とういうスローガンを掲げていた塾がありました。  学力よりも物事を実践する子供を育てたいと言う様な先生の考えでした。  そこでの実践力がフットワーク軽く飛び出してゆける原動力を培ってきたのかなあと思います。

予備校に通っている処で、医学部を目指す学生を同じクラスになったのが、医学部に進学するきっかけとなります。  当時注目され始めた終末期医療と出会い、心を惹かれます。  私は小さいころから死と言うものをよく考える子供でした。   最初は幼稚園の頃だったと思います。  当時は見捨てられるような、あまり手厚いとは言えないようなケアを受けているように学生の時に思いました。   治らないと判っても大切にされる医療をしたいなあと思いました。  麻酔科では、麻酔をする時には生命の危険が伴いますから、生命の危険を解決するような仕事を沢山します。  救急医療にもつながるし、在宅医療をする中で急な変化にも対応できるような基礎力になるのではないかと思って麻酔科を選びました。  

集中治療室の橋本先生が、困っている人がいたらすぐ動くという事をする先生でした。  これは橋本先生から強く学んだことです。  17年間麻酔科を務めて、2013年に在宅医療部のある病院に勤務します。  医師で有っても女性であるが故の軽視される面と、逆に話をしてくれる面とがありました。   そういったことが診療スタイルを形づける原点となって行きました。  拒否されたりする場合はどうやって行けばいいんだろうというう事を常に考えながら仕事をせざるを得ない状況でした。  「弱り」が出てくると、自分が自分でなくなるという事があり、心が揺れます。  私は死ぬのかなあとか、死にたくない、早く死にたいとかいう方もいます。   心の揺れに付き合っていくようにしています。 

在宅医療に入って2年後にクリニックを開業します。  その人の生きている日常生活がベースになります。  病院は安全管理、健康管理とか管理が必要ですが、在宅での管理は難しい。  支援と言う意味が大きくなります。   押し付けない医療を大切に思っています。  私自身も納得医療を受けたいと思っています。   開業翌年母親に末期がんが判明しました。   抗がん剤治療をしていましたが、自分の判断で治療を中断してしまいます。  言って聞く人だったら一生懸命言うんですが。   高齢者向けの施設に入って、私が訪問して診療ができる様な形です。   母の意識がなくなり、呼吸も亡くなる前の呼吸になり、顔色も真っ青になり、もうなくなるなと思っていました。   父が大きな声で「よし子(?)死ぬなよ」といって、私も「お母さん 生きよう」と言った直ぐ後、呼吸が落ち着いてきました。  意識も戻って叔父とは凄く仲が悪かったが、抱き合って再会を喜んでいました。 

その後数日間は穏やかな日を過ごすが、残された時間が後僅かと言う時間がやって来ます。  父は最高のはなむけの言葉で見送って、私自身感動しました。  最新の医療で亡くなったこと(患者の気持ちを一番に考えて、辛いことを最小にしながら、自分の思いに沿った医療をうけれた。)を兄弟たちから言われました。  

クリニックには現在120名程度います。  終末期の人も多いが、そうでない方もいます。  患者さんと家族の間では抗癌剤の治療などで考え方が違う事が良くあります。  ①積極的治療を続ける、②積極的治療を辞める。  第3の選択肢として、③決められない。  ③を選ぶと結果はなし崩し的になります。  患者さんと共に私も揺れてゆく。  患者さんのご遺族に持ってゆく手土産としてお経を書いています。  クリスチャン、違う宗教の場合はお花を持っていきます。   

患者本人、家族、訪問診療医など医療従事者に対して、「心を消耗しないための講座」を定期的に開催しています。   講座の内容はこれからどんなことが起こるのか、それに対する心持、など看取りの安心勉強会をやっています。  拒否に対するコミュニケーション講座も行っています。  子供の頃から興味のあった仏教を本格的に学ぼうと僧侶の資格を取得しました。  自分の人生の中の大きなよりどころになっています。   信仰心の中の神様は絶対変わることなく私のことを必ず守って下さるので、身体の中から温めれ呉れるような力強さがあります。 

人生の最後を迎える人の心、普段通り、いつも通り、普通と言うのが私の答えになります。 本人は家の中で生活しているなかの生、生活のなかでそのときがやってくるという中で、 本人は変わることなく人生の最終段階だという事が判っている方でも、普段通りなんだなと言う事を感じています。  「一番大きなケアは、ただそこにいるという事ですよ。」と言って、「いつも通り。」と言ってお伝えするのが私の役目かなと思っています。





























2025年4月16日水曜日

山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 前編

 山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 前編

今年東京で34年振りに陸上の世界選手権が開かれますが、前回東京で開かれた1991年の大会では男子マラソンで谷口浩美さんが金メダル、女子マラソンで山下佐知子さんが銀メダルを獲得するなど日本マラソン勢の大活躍がありました。 山下さんの銀メダルは日本の女子マラソンにおける最初のオリンピック世界選手権でのメダルであり、陸上競技の女子としては1928年アムステルダムオリンピック800mでの人見絹江さんの銀メダル以来63年振りのオリンピック世界選手権でのメダルでした。  その後山下さんは第一生命グループ女子陸上競技部監督を28年に渡って務められ多くのトップランナーを育ててこられました。 

昨年監督を退任してコーチをしています。 私はコーチングが大好きでした。  生まれたのは大阪で両親の出身が鳥取です。  大阪の小学校に入学しました。  校内マラソンでは小学校2年生で学年で一番でした。  球技は駄目でした。  本格的に始めたのは中学に入って陸上部に入ってからです。  大学も鳥取大学に進みます。  鳥取大学教育学部を卒業。   4年生の1987年の時に、第5回全国都道府県の女子駅伝で一区区間賞(20分44秒)。  一旦教育職に就くが、陸上競技への思いを断ちがたく教員退職後、1987年京セラに入る。 父は中学2年の時に43歳で亡くなりました。  母は教員になることに誇りに思っていたので陸上の道に進む事にたいしては反対で、口をきいてもらえなかった。    

京セラの浜田監督は理論立てられているし、練習量も多くはなくすんなり入れました。   当時、佐々木七恵さん、増田明美さんが有名でした。  テレビでのマラソンを見て触発されました。  初マラソンは1989年3月の名古屋国際女子マラソンでした。  当時の初マラソン日本女子最高タイ記録をマーク。(2時間34分59秒)  北海道マラソンでは日本人トップ2位でした。  1991年3月の名古屋国際女子マラソンでは、自身念願のマラソン初優勝を果たす。  同年8月の世界陸上選手権女子マラソンでは、日本人トップの2位入賞を果たして銀メダルを獲得、日本女子マラソンのメダリストの嚆矢となった。  ゴールした時にはオリンピックにも出られるので嬉しかったです。(2時間29分57秒)  

「志あるところに道ありき」は本を読んでいてこの言葉はいいなと思いました。(大学時代)   







2025年4月15日火曜日

野田忠(産直市場運営会社名誉会長)     ・“四方良し”で日本農業の再生を

 野田忠(産直市場運営会社名誉会長)     ・“四方良し”で日本農業の再生を

野田忠さんは89歳和歌山県田辺市にお住まいです。  農家が直接消費者に適正な価格で農産物を販売できる直売所の良さと多店舗で量を稼ぐス-パーマーケットの良さを組み合わせた新たな農産物の流通システムを和歌山県を中心に展開中です。  野田モデルとも呼ばれるこの事業はどのようなものなのか、野田さんの人生の歩みと日本農業再生にかける野田さんの思いを伺います。 

野田さんの会社の32番目の直売所が3月にオープンしました。  今回のは2万坪の大きさがあります。  イベントホール、レストラン、カフェ、フルーツ公園などがあります。  販売だけではなく、地域の人にくつろいでいただくために併設しています。  高台にあるので大災害の時の避難場所としても利用いただけるようになっています。  直売所は多店舗展開をしています。  農産物を中心に地域の加工食品も扱っています。  地域で作られたものを中心に全て品ぞろいをしています。  生産者と消費者が直結するようになっています。   例えば蜜柑の生産者の名前が判るようになっています。   旬を感じるのが大きな特徴になっています。  23年前立ち上げ以来、約1万名の人に登録して頂いています。  売価は当人たちが決めるシステムになっています。  棚など店舗すべてが地元の木材を使っています。  

醤油、味噌などにしても全て地元の加工品です。  肉、魚も地元の物です。 魚は漁師さんがその日にとってきたものその日に出していただいています。  販売品はすべて朝早くから持ち込んで売価を決めていただいています。  売れ筋がいいと2回、3回と臨機応変に補充に来ていただいています。  今では1000万円以上を売っている生産者の方が300名以上になってきています。  1億円以上の人が10名以上います。  登録者は1万名ぐらいで毎月出荷いsている方が5000名ぐらいいます。  100円で売れた時の農家さんの手取りは75円から80円入るようになっています。  普通は35円から40円のレベルです。  収入は倍増していると思います。  私たちはローコストの運営を目指していて、商品ロスも出なくて、ローコストの運営が出来ています。  特別な時にはチラシも出しますが、普段は一切チラシは出しません。  

“四方良し”と言うのは、生産者に喜ばれ、消費者にも喜ばれ、地域循環型なので地域の方にも喜んでもらって、 社員にも喜んでいただいています。  農産物は鮮度が大事で支配?センターから1時間30分ぐらいの距離のところに店舗展開をしています。  近畿地方を中心にやってゆく計画です。  

出社は毎日のようにしています。  睡眠は8時間程度とっています。  ゴルフが好きで80歳ぐらいまでは週に一回ラウンドしていました。  昭和11年生まれで、物心ついた時には太平洋戦争のさなかでした。   農家の3男に生まれました。  高校卒業後、おじさんのところに就職しました。  卸業、小売り業の仕事につきました。  営業、集金などもしました。  昭和33年ごろまでやっていました。  新聞でスーパーの存在を知りやることにしました。  セルフサービスで毎日現金がもらえることに魅力を感じました。   昭和34年に出店しました。  ダイエーはその2年前にオープンいていました。  開店当時は色々と苦労が多かったです。(「特売合戦など)   接客サービスなどでやって来ました。  たまたま直接農家から仕入れることが出来て、品ぞろえが出来ました。  3,4軒の競合店舗がありましたが、徐々に店が潰れて行きました。  うちの店は残ることができました。  

スーパーマーケットの理論を勉強しました。  私よりも10歳以上、上の方々が中心でした。 (ダイエー、ジャスコ、イトーヨーカ堂、ニチイなどいずれも凄い経営者の方々でした。) 海外視察も行い驚きました。  駐車場を広くところでないとなかなお客さんは来てもらえないと思いました。  経営は順調に進んでいきました。  その後地産地消でえスーパーとは違った商品の品ぞろえをすれば、お客さんにも喜ん貰えるのかなと思って、直接農家さんから仕入れるビジネスが成立するのではないかと思って、1号店をオープンしました。(2001年 66歳の時)   半年は苦労しましたが、直ぐに2号店、3号店と出店させて行きました。   日本の農家さんが減少しているという危機感があり、 支援をする機関を設立しました。    55歳以下で新しく農業を始める方に、書類選考、面談をして、年間支給額を60万円として、今年で8年目を迎えます。  毎年20名近くの方を支援しています。  

令和4年のデータ、日本の農業従事者の平均年齢が68,4歳、後継者がいないという事が大きな問題になっている。  20年前は全国で200万戸ぐらいの農家数でしたが、現在は100万戸を切っているのではないかと言われています。  気象変動も激しくなってきています。  国際紛争もあり、輸入にも頼っていきにくい時代が近づいてきているのではないかと思います。   国も国内の農家さんへの支援等、もっと予算をとって頂く様にして頂かないと、食糧事情が大変なことになると思います。  














 









 

2025年4月13日日曜日

山本むつみ(脚本家)           ・時代劇と女性たち

山本むつみ(脚本家)           ・時代劇と女性たち 

山本むつみさんは北海道旭川市の生まれ。 北海道大学卒業後、出版社に勤めながら脚本の勉強をし、NHKのラジオドラマ脚本懸賞で最優秀賞を受賞したのをきっかけに、2004年御宿かわせみ』でテレビドラマの脚本家デビュー。  以来NHK連続テレビ小説ゲゲゲの女房NHK大河ドラマ八重の桜』、現在放送中のあきない世傳 金と銀』など多くの脚本を手掛けています。  時代劇は日本が世界に誇れるコンテンツと言う山本睦さんに伺いました。

子供の頃は時代劇が大好きでした。  父が歴史や時代劇が大好きでした。  当時は毎日テレビで時代劇をやっていました。  昔の方が一杯種類がありました。  青春もの、恋愛ものホラーっぽいものなどいろいろのジャンルがありました。  司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」など印象があります。  北海道大学では剣道部に入りました。  卒業後は出版業界にに入りました。  中学ごろから短編小説を書いたりしていました。  脚本家になることは全然考えていませんでした。  図書館では脚本をたくさん読んでいました。  時代小説を書こうと思ってシナリオ・センター「シナリオ作家養成講座」を受けました。  

2001年ラジオドラマに応募して『川留め騒動始末』の脚本がBKラジオドラマ脚本賞佳作に選ばれました。 2002年四国放送公募の入選作『阿波藍の唄が聴こえる』が開局50周年記念ラジオドラマとして放送された。 2003年、第31回NHK創作ラジオドラマ脚本懸賞に『唐木屋一件のこと』で応募し、最優秀賞を受賞。  2004年、『御宿かわせみ』でテレビドラマの脚本家デビュー。  その後も編集者と脚本家を兼業していました。  2006年に出版社を辞めました。  2010年前期のNHK連続テレビ小説ゲゲゲの女房』の脚本を担当しました。  出版社にいたので水木しげるの事は理解できました。  自分の家族のことも織り込みことが出来ましたので、良い題材だったと思います。  

2013年には、NHK大河ドラマ八重の桜』の脚本を担当しました。  東日本大震災の復興、地元の人たちを力づけようという思いもあり、計画されました。   私自身余り八重さんの事は知りませんでした。  調べ始めたら凄く引き込まれて行きました。   大河ドラマとして世の中に伝えなくてはいけないと思いました。  私は鉄砲で戦いたいといった唯一の女性なわけです。  女性には「かせ(制約)」があり、ドラマを面白くするのは「かせ」です。   「かせ」から葛藤が生まれて、ドラマと言うものは葛藤を描くものですよと、教わりました。時代の「かせ」、女性としての「かせ」があり、ドラマは乗り越えなければいけない困難があり、葛藤があり、それを乗り越えることにより面白くなって行く。  

八重さんの資料が乏しくて、苦労しました。  幕末の資料を段ボール何箱分も読みました。 書いているうちに私の知らなかった新事実も出てきたりしました。  現代人の視点で当時を断罪?するような形のものではいけないと思います。  暮らしのところまで踏み込まないとリアルなシーンは描けない。  

「あきない世傳 金と銀」  江戸中期、兄と父を亡くし大坂天満の呉服商に奉公に出た学者の娘・幸(さち)が商才を発揮し商人へと成長する物語。  原作がとても面白い作品です。  こちらも様々な「かせ」があるわけです。  時代劇ですが、テンポよくしていきたかった。

日本では時代劇は高齢の人しか見ないと言う様な雰囲気があるのは残念だと思います。  当時の日本の素晴らしい文化をリアルに再現していて、当時の生きて行った女性、商いの姿を描いています。  時代劇は日本が世界に誇れるコンテンツだと思います。

「新しいことを始めるとすれば必ず邪魔をする人がいる。  蹴散らして前へ進め。」と言う気持ちがないと、突破していけない。  これはやるべきだと思ったら、突破して貫いてゆくという事を、自分が書いていることから学びました。




 









2025年4月12日土曜日

井上さやか(奈良県立万葉文化館)     ・〔歩いて感じて万葉集〕 山の辺の道~前編・桜井ルート

 井上さやか(奈良県立万葉文化館) ・〔歩いて感じて万葉集〕 山の辺の道~前編・桜井ルート

万葉集と呼ばれている歌集は、現存する最古の和歌集といわれています。  全20巻で出来ていて歌の数は4500以上です。  近畿の歌が当時都の有った場所という事で多いと思いいます。  天皇が詠んだ歌もありますし、防人、東歌と言った歌なども入っていて、様々な階層の歌が入っています。  当時は片仮名や平仮名がない時代ですので、全て漢字で書かれている。 

山の辺の道は昔懐かしい自然を楽しみながら歩くコースにもなります。  古墳群、古い神社、お寺、遺跡もあります。  海柘榴市つばいち)は山辺の道の南の起点。 古代には飛鳥や難波に向かう道が合流する交通の要所で、わが国最古の市とされる海柘榴市が開かれ賑わった。  春と秋には男性と女性が集まって即興で歌をかけあって、歌がきと呼ばれる風習が当時ありました。(結婚相手を探すような風習)  

男性から女性へ 

 紫は灰さすものぞ、海石榴市(つばいち)の、八十(やそ)の街(ちまた)に逢へる子や誰れ」

女性が答えるのが

 たらちねの、母が呼ぶ名を、申(もう)さめど、道(みち)行(ゆ)く人を、誰(た)れと知りてか」

男性の意味                                                紫は古代ではとても高貴な色として知られていました。  紫の色を出す植物で草木染してゆくときに、触媒として椿の灰の汁を入れるとよいと言う知識が踏まえられています。 紫色を凄く鮮やかに出すのには、椿の灰の汁を入れるものだよとまず言って、女性を美しい紫色に例えている。  あなたは非常美しいけれども、そのままだけではなくて自分を受け入れるとさらに美しく輝きますよ、と言うような意味合いです。  要は求婚しています。 八十(やそ)の街(ちまた)で出会ったあなたの名前を教えてください、と言っています。 本名と言うのは当時は魂と同じ重さで、本名を教えるという事は魂を相手に渡すような、信頼した相手にしかしない行為だというのが当時の風習です。  名前を答えたら結婚はOKという事になったようです。

女性の意味                                             当時は基本的には女性が家を守って、 女性がいる家に男性が通っていきます。 結婚を願うのはそのお母さん。  母が呼ぶ(私の)名をお教えしたいけれども、通りすがりの人が誰かは分からないのでお教えできませんことよ、と断っています。   微妙で一度断るのが礼儀だと言う様な言い方もされています。   歌のやりとりでお互いの情報を知ってゆくような、そういうやり取りをしていたのではないかと言われています。                                       

日本ではこういった風習はなくなりましたが、中国の少数民族の間では歌がきの風習は現代まで残っていて、当時は東アジア全域にこういった風習は有っただろうと言われています。 

通い婚で一夫多妻制であったので、 どこの誰かと確認しないと訪ねていけないわけです。  機知に富んで歌が上手くないと持てないだろうと思います。

大神神社(おおみわじんじゃ)

うまさけを三輪の祝が斎ふ杉手触れし罪か君に逢ひがたき」

丹波大女娘子 ( たにはのおほめのをとめ)が詠んだ恋の歌                            「うまさけ」は「味酒」と書いてあるが、美味しい酒と言うのが三輪にかかる枕詞に使われている。  三輪は神様のことを指さす言葉でもある。  酒そのものも三輪と言うい方をされています。  お酒を入れる器自体も三輪と言う言い方をしていたと考えられています。  杉の御神木に手を触れてしまった。  その罪であなたに会えないんでしょうか、と言う恋の歌です。  大神神社は古事記にも記されている日本最古の神社の一つです。 ご神体が三輪山です。  拝殿はあるが、本殿はない。(山そのもの) 三つ鳥居の独特な鳥居があり三輪山を拝すという形になっています。  三つの鳥居を横に並べたような鳥居。  大物主を祭る神です。  国土を形成するときに重要な役割を果たす神様。  疫病退散の神としても信仰を集めている。  縁結びの神としても知られている。  

大和三山が見えますが、 香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)の三山をいいます。  

額田王の歌碑 (歌碑は3つ建てられている。)

味酒三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積るまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや」

この長歌の一番言いたいところは、三輪山を隠さないでほしいという事ですが、それを繰りかえすように反歌が付け加えられている。 

「三輪山(みわやま)を、しかも隠すか、雲(くも)だにも、心あらなも、隠さふべしや」

三輪山を隠さないでほしいという反歌。

三輪山が見えなくなる、違う場所に行ってしまうという事を嘆くというのは、三輪山がいかに大事な山として認識されていたか、いにしえの人にとっては象徴的な山として認識されていた。 

日原神社は大神神社の摂社?で大神神社と同様に本殿はなく三つ鳥居があります。 

「いにしへに、ありけむ人も、我がごとか、三輪(みわ)の桧原(ひはら)に、かざし折りけむ」  

神聖な三輪山のひのきを髪にさすことで、パワーが自分の身に付く、植物のパワーを貰うという感覚が当時の人にはあったようです。  

穴師山

巻向(まきむく)の、穴師(あなし)の山に、雲(くも)居(い)つつ、は降れども、濡(ぬ)れつつぞ来し」 (男性から女性へ)  雨が降るのに濡れながら来たよと歌いかけた。

ひさかたの 雨の降る日を わが門(かど)に蓑笠(みのかさ)着ずて 来(け)る人や誰(たれ)」  (女性から)  ひさかたのと言うのは雨とか天とかにかかる枕詞。 私の家の門に蓑笠もつけずに来ている人は誰ですか、と聞いている歌になる。



 











2025年4月11日金曜日

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌 

とよたさんが作る絵本は赤ちゃんや幼児に向けた小さい子供たちへの絵本です。  日本絵本賞を受賞した「どんどこももんちゃん」のシリーズや「わにのばるぼんさん」のシリーズなど子供たちに支持されロングセラーとなっている作品を数多く生み出してきました。  とよたさんは1947年宮城県仙台市生まれ。(77歳)  高校まで仙台で暮らし、大学は早稲田大学第一文学部に入学、卒業後はフリーのイラストレーターとして働きますが、長女の誕生をきっかけに絵本つくりをはじめます。  1983年36歳で絵本作家としてデビューしますが、その後思う様な絵本を作ることが出来ず、イラストレーターとしての収入を得ながら、絵本つくりに挑戦を続けます。  転機が訪れたのはデビューから14年後、50歳で発表した絵本「でんしゃにのって」だと言います。  小さな子供達への絵本つくりに込める思いを伺いました。

絵を描くという仕事は肉体労働なので、病と付き合いながらベストな状況でやらないと、表現するのに知らず知らず出てきちゃうので注意するという事で規則正しい生活が大事だなあと思います。  自分を鼓舞するという事は知らず知らずやっています。  今生きている子供は独特の反応をしてくれるので、知らず知らず自分の作品に反映されているんだなという事は考えたことはあります。  

「どんどこももんちゃん」 2001年出版  日本絵本賞を受賞

全身が桃色の桃のような頭の形をした小さな子供が主人公。

「どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。
橋をわたり、坂道をのぼり……ももんちゃんが、いそいでどこかへ向かっています。
山の上でくまさんにとうせんぼされても、どどどどどどどーんとたおし、どんどこ進んでいくももんちゃん。・・・・・どんどこ どんどこ。 ももんちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 どーん」

とうせんぼしたくまさんを投げ飛ばして、先を急ぎます。 ところがたいへん、さかでころんで頭をぶつけちゃった! それでもたちあがり、涙をこらえてかけていくももちゃんがどんと飛びついたのがエプロンをしたお母さんの両腕の中でした。

自立したあかちゃん。  中学2年生にこの本を読み聞かせたこともあるそうで、「走れロメス」と「どんどこももんちゃん」が走る姿を重ね合わせた非常に哲学的な解釈をした感想文が多くありました。 

28歳で結婚して32歳で長女が生まれました。  子供の頃は絵が好きでした。  機関車を書いたり溶鉱炉の断面図を書いたりしていました。  小学校4年生の時に宮城県庁を描く時間があり、そこに馬車も描いたらそれが宮城県の特選第一席になりました。  48色のクレパスも貰いました。  

大学卒業後或るプロダクションに入りました。 長女が生まれて、始めて絵本と向き合いました。   肩の力が抜けた絵がとっても多いんです。  こんな絵でいいのかと思いました。  でもその絵に子供は反応するんです。  1983年36歳の時に「ぼくはやっぱりとりなんだ」を出版。(デビュー作)   作品の力と言うものがあるということに気付きました。 デビューから14年目に「でんしゃにのって」を出版。(50歳)  これは祖母からの話が元ネタになっています。  動物が乗って来る淡々としていて、いい仕上がりではなかったと自分では思っていました。  出版社の方から面白いと言われました。  ここから作り方を変えていきました。  繰り返し読んで貰える絵本を作ろうと心がけています。  絵が好きだという事が基本的になります。  乳幼児向けの絵本を深堀りしていきたいです。 









 



2025年4月10日木曜日

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして 

まぜこぜの社会という理念のもと、障害の有無、国籍、年齢、性別と言った違いを越えて、誰もが共に生きられる社会の実現を目指し、様々な活動を続けています。  多様な活動の原動力、活動を通じて見えて来た社会の課題、まぜこぜの社会に込めた思いについて伺いました。

一般社団法人 Get in touch 代表という側面があります。  多様性社会を目指して、アート、音楽、映像、舞台などのエンターテーメントを通じて、私たちは多種多様な人たちと暮らしているんですよという事を、見える化、可視化、体現化する活動をしています。  舞台を作ったり、映像制作をしたり、アート展を開いたり、障害の有るアーティストの作品と企業さんを結び付けて商品開発をしたり、音楽を作っていろいろなアーティストに歌ってもらったり、沢山のコンテンツを展開しています。  報道番組からこの世界に入りました。  政治と報道は困った人のためにあるんだよと或る人から教えてもらいました。  白血病などの患者さんのための治療法である骨髄移植のための骨髄バンクを知ってもらうための活動からスタートしました。(33年前)    

白血病の18歳の少年のテレビ番組を見て、いろいろ考えてしまって自分は芸能界にいる意味があるのかなあとか考えました。  最初はポスターを作りました。  活動を続ける中で患者さんとそのご家族、ご遺族の方とつながりが出来て、全国各地でいろいろなことをする様になりました。  1999年からドイツ国際平和村と携わるようになりました。  ライフワークにしようと思って今も続いています。  戦争で傷ついた子供たちを救う団体と一緒に活動しています。   始めた当時は芸能人としてデメリットしかありませんでした。  

2011年から一般社団法人 Get in touchを立ち上げました。  東日本大震災があり被災地の避難所が日本の縮図でした。  普段から生きづらさを感じている人たちが不安に陥りました。  いざと言う時に支え合う社会作りだと思っていたが、こういう時に置いてきぼりになってしまう人がいるという事は寂しいなあと思いました。  社会的弱者が避難所に入ることを遠慮したり、躊躇したり、十分な救援物資が入手できなかったりしたんです。  企業、福祉団体、政治家等々とつながった方がいいんだなと思いました。  東日本以外の障害の有る人たちが自分たちも役に立ちたいと、彼らが描いた絵を東京で売って福祉施設にお金を送るとか、といったやり方を始めました。(今でも続いている。)  

企業とかほかの団体ともつなげてゆきました。   Get in touchは訳としては「報告する・」ですが、感覚的には「繋がりましょう・」と言う感じです。  今は企業さんとかとも繋がり易い時代になりました。  巻き込んでいきたい、自分事としてほしいということです。    多様性などと言うと遠いい感じがするので、「まぜこぜの社会」という表現にしています。   浅く広く緩く依存しあう方が自立できるので、皆で頼り合うという事です。  それをエンターテーメントで拡げて行っています。  笑いが重要です。  最後には見ている人がこれでいいのかなあともやもやして貰う。  

夫も難病になってしまいましたが、最初の2年間は病名が判りませんでした。  身体が思うように動かなくなってしまいました。   1年ちょっと寝たきりになりました。  病名(ジストニア)がわかりましたが、治療法はないと言われて、対処法で回復していきましょうと言われました。  今は車椅子で移動できます。  車の運転も出来ます。  仕事にも行けるようにもなりました。   人生順風満帆などないという事は活動のなかからは知っていました。  或る程度の覚悟があってよかったと思います。  人間は凄い回復力があるということは信じています。   冷静な覚悟と冷静な希望ですね。  私も出血性胃潰瘍になっています。  普段の生活の不摂生と直ぐに病院に行かなかったことです。(コロナ禍)  大きな仕事が入っていて、入院中に電話、オンライン会議して、家事もしなくていいので集中して仕事が出来ました。(東京オリンピックパラリンピック文化プログラム)  

東京オリンピックパラリンピック文化プログラムについて実際にやってみるとすごく大変でした。  ありとあらゆるマイノリティーと呼ばれる特性のあるプロのパフォーマー、アーティストの人たちです。  何か月間も会議をして、メチャクチャ勉強になりました。  説得したり譲歩もしたりしました。   彼らの活躍するチャンスが増えました。  「妖怪まぜこぜ大百科」と言う本を出しました。   妖怪を使って、いろいろな社会課題を述べさせています。 映画 「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり」と言う映画に私も出演しています。  人に役立つ社会を作ろうという風に思っています。





 





2025年4月9日水曜日

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い 

越尾さんは1948年東京生まれ。  茶道の稽古を通じて、やなせさんの妻暢(のぶ)さんと親しくなってやなせスタジオに入社、秘書としてやなせたかしさんを支え続けました。  現在はやなせスタジオの代表を務めています。 

やなせたかしさんご夫妻をモデルにした連続テレビ小説「アンパンマン」がいよいよ放送が始まりました。  暢(のぶ)さんは親しみやすいけれども、教えることはきっちり教える人です。   深く知ろうとはしませんでした。  会社を辞めたことを暢(のぶ)さんに話したら家に来ないかと誘われました。  やなせさんが亡くなった後も数えると30年近くになります。  暢さんはやなせさんに対しては、仕事のことは一切言いませんでした。  事務関係、経理のこと、通帳、印鑑などどんと渡されました。  「もし私が悪い人だったらどうするんですか。」と聞いたら、「私の見る目が無かったと諦める。」と言ったんです。  驚くだけでした。  

やなせさんはきちんとデスクの前に座らないと書けないという性格でした。  建物の中に自宅もあれば、仕事場もあるというところでした。  自宅には奥さんのお茶室もあります。   働き者でした。  「ハチキンお暢」と言われていました。  ハチキンとは「男勝りの女性」を指す土佐弁。 高知県の女性は、話し方や行動などがはっきりしており快活、気のいい性格で負けん気が強いが、一本調子でおだてに弱いといわれる。二人だけの時には暢さんのことをやなせさんは「おぶちゃん」と言っていました。         

やなせさんは、「作品は人生で書く。」と言っていました。  自分の人生が作品に反映される。   書いているうちにこの性格は奥さんに似ているとか、お母さんに似ているとか、と言った感じです。  最初からモデルにして書くという事ではないです。  奥さんはドキンちゃんに似ていると言われますが、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラみたいな性格で書こうと思って、書いているうちに奥さんに似て来たりする訳です。   敵役を作ろうという事で後から出来たのがばいきんまんなんです。  ばいきんまんは蝿がモチーフになっています。  羽根もちいさくなっていきました 。 

 *「私はどきんちゃん」 作詞:やなせたかし  作曲:いずみたく

最初アンパンマンは大人には不評だった。  顔を食べさせるのは残酷だとか、幼稚園の先生は良くないとか言っていました。  子供たちが大好きになって、そのうちに先生方も理解してくれるようになりました。  やなせ先生も子供たちがなんで好きになったのかわからないと言っていました。  やなせ先生が子供の頃はアンパンが主流だったので、その印象が強いからアンパンに使ったと言っています。   弟さんを亡くしていますが、歳を取って来るにつれて寂しさがより凄く強くなったと言っています。  弟さんは千尋さんと言って海軍に志願して行きましたが、戦死してしまいました。  

アンパンマンが注目されるようになったころ、暢さんは乳がんに罹られました。  アニメで放送されて3年目ぐらいから徐々に悪くなって亡くなってしまいます。  先生は仕事をしながら少しづつ元気を取り戻して行きました。  暢さんが亡くなられてから20年後、2013年10月に94歳で亡くなりました。  目も段々と見えなくなって太い線で描いているんですが、「絵を描く面白さがわかった。」と言っていました。  絵を描くことで別の楽しみを見つけた様です。  

「やなせたかし先生のしっぽ  やなせ夫妻のとっておき話」を出版しました。 

「神様、仏様 ありがとう。 ありがとう。  お父さん、お母さん ありがとう。 ありがとう。  おぶちゃん 千尋 ありがとう。 ありがとう。  越尾さん ありがとう。 ありがとう。  越尾さん 越尾さん ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。」 

先生は戦争を体験しているが、その後94歳まで生きて、「ありがとう」と言う言葉しかやなせ先生はなかったんだなと思いました。  生きる工夫をすべてして、生き切ったなと思っています。

 







2025年4月8日火曜日

カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

 カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

北海道釧路市出身。  映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞しました。  この映画は三島有紀子監督が47年間向かい続けたある事件をモチーフにした性暴力と心のきずがテーマだと言います。 ー20℃の北海道での撮影でとても過酷なロケだったと言います。  カルーセル麻紀さんは1942年生まれの82歳。  1972年にモロッコで性別適合手術を受け、2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  当時は差別が大きかったのですが、今はLGBTQ性的少数者への理解が広がりつつあります。 10年ほど前から足の痛みが脳梗塞、目に痛みに襲われましたが、いまは元気になっています。 

 映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞。   貰って初めて嬉しかったです。   鉄工所の一人息子が見合い結婚をして、子供が2人出来てから、どうしても自分は違うと気が付いたそうです。  どうしても女になりたくて奥さんに隠れて女装などしていたそうです。  今回の映画は手術をうけて女性になった父親演じました。  一人で5役をしなくてはいけなくて、難しかったです。  大変でした。  性暴力と心のきずがテーマになっています。  一回見ただけではなかなかわからない。 

カルーセルと言う意味はフランス語で、メリーゴーランドと言う意味です。  1972年にモロッコで性別適合手術を受けました。(53年前)  2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  日劇に出た時にマスコミが大騒ぎしました。  グラビアのヌードの仕事ばっかりでした。   9人兄弟で姉が4人いました。  名前が徹男でした。 女性の着物を着たくて姉の着物を着たりしていました。   自分のことは自分でしようと思って新聞配達をはじめました。  夏休みはアルバイトもして、親には面倒掛けないようにしました。  小学校6年までは銭湯で女湯に入っていて、中学になった時に父親から男湯に連れていかれました。(女になりたいとは思っていなかった。)  

姉が本をよく読む人で、三島由紀夫さんの「禁色」があり、それを読んでこういう世界があるんだとぼんやり思いました。  そのころに丸山明宏さんが出てきました。  週刊誌でゲイバーも出ていました。  高校は受からないと思っていたが、受かっちゃいました。  美容師になりたいと思っていましたが、高校に行くことにしました。  演劇部に入り、女役が似合いました。  15歳で東京目指して家出しました。  年齢を誤魔化して北海道札幌市ゲイバーに勤務しました。   親が探して、掴まってしまいました。 母は寝込んでしまいました。   兄からは出て行ってもいいから、もう二度とうちの敷居をまたぐなよと言われました。  店にまた戻りました。(16歳)  その後いろいろなところを流れ歩きました。   その後東京の銀座のバーに行きました。  「麻紀」と言う名前になりました。 

その店からも逃げて全国を転々としました。  名古屋の「カルーセル」と言う店で働きました。  それが芸名になりました。  酒もたばこもやります。 2011年に閉塞性動脈硬化症と言う病名になりました。  70歳で足が痛いと思い歩けなくなりました。  もうちょっと遅かったら足を切断するところだったと言われました。   足を9回手術をしました。  昨年末にも手術をしてロケがあるから返してくださいと言いました。  又5月にも手術があります。  タバコと酒がいけないそうです。  2020年には脳梗塞となってしまいました。  救急車で運ばれて脳梗塞の手術をしました。  3日間で退院しました。 後遺症は幸いなかったです。  右目もちょっと見えなくなっています。  血管が原因のようです。  2回手術をしましたが、全然治りませんでしたが、その後見えるようになりました。  目薬をつけると物凄く痛いです。   100歳まで生きたいと或る所で言ってました。  仕事のためにその衣装を着たく邪魔だったんです。  女になって結婚したいとは思わない。 それぞれの考え方は違っていていいと思います。   生きていれば楽しい事はいっぱいあります。  仕事はやって行きたい。 





2025年4月5日土曜日

2025年4月2日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

ペギー葉山さん 7年前に亡くなる。 1933年生まれ。 30代の半ばに直木賞を頂いた時にペギーさんがお祝いにかけつけてくれました。   CMソング、ミュージカルの時代からずーっと一緒に長い間仕事をしてきましたので同士的な感じがします。 (年齢がほぼおなじ)   亡くなった時にはガックリしました。   デビュー曲が「ドミノ」 ジャズの歌い手として出ました。 「南国土佐をあとにして」を貰った時には最初随分抵抗したそうです。  歌った結果大成功でした。  「「学生時代」もぴったりでした。  歌の幅が広い、実力派でした。    役者魂の有る人で体当たりで演じていました。(妊娠していたのにも関わらず坂道を一生懸命走ったり)   

 都はるみさん  一緒に京都中を歩いて一冊本を作ったことがあります。 (対談集)  自分が演歌を歌うようになったきっかけの話を伺いました。  帰りにジャズ喫茶に行った時にかかっていた曲があって本当はこんな曲を歌いたかったんだとぽつんといったのが、とても印象的でした。  八代亜紀さん デビュー前はジャズを歌っていました。  演歌を歌っている人たちは現代音楽みたいなものの洗礼を受けている人が多い。  都はるみさんの歌い方は譜面よりも微妙にちょっと上に有ります。  だから明るい感じになる。  ジャズを歌っても凄く上手く歌ったのではないかと思います。 

井上陽水さん 「青空二人旅」という本になっています。  対談なので二人旅としました。  彼は福岡で僕も福岡なのでどこかあいますね。  麻雀なんかも一緒にやりました。  対談では直ぐ答えるというのではなく、自分で質問をかみ砕いて答えを出してゆくという人でした。  理論的側面のある音楽家でした。  才能が有りました。  その時代の空気感を無意識のうちに歌の中には感じられるところがあり素晴らしいです。 

歌作りの現場に触れることが出来たという事は作家としては大きな収穫だったと思います。 

浅川マキさん  石川県の人です。  役場に勤めていたという事を聞いたことがあります。 東京に出てきて寺山修司と出会って、「かもめ」とか曲を提供してもらって、あの当時を代表する大スターでした。   「夜が明けたら」僕はあの歌が一番好きです。

山崎ハコさん 音楽生活50年と言っていました。  「織江の歌」 僕が作詞。 大分の方です。  

日本の歌い手は一色ではないという事が素晴らしいと思います。 一つの歌でも違う歌い手さんが歌うとガラッと違う感じになります。  

*「青年は荒野をめざす」 作詞:五木寛之 作曲:加藤和彦 ザ・フォーク・クルセダーズ                       週刊『平凡パンチ』に、1967年3月から10月まで連載した青春小説で人気がありました。 

1965年に一般人の海外渡航がOKになりました。  外国に行くという事は荒野をめざすという様な時代でした。  今はレジャーといった感じです。 

専属作詞家として働いた時期があります。  

 






2025年4月1日火曜日

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄さんは文化功労者でもあります。  大正5年現在の東京都千代田区神田駿河台生まれ。幼少のころから母にピアノを習い、 大学時代諸井三郎から作曲を学びました。  東京芸術大学を初め多くの大学で作曲や音楽理論を教え、後進を育成しました。  音楽評論家としてもNHKの番組でもおなじみです。  平成8年2月に亡くなられました。(79歳)

お話は仙道作三さんです。  柴田さんがラジオの音楽番組に出演したのは戦後まもなくです。 (昭和22年 31歳)   その後テレビ、放送大学の先生を担当。  先生とは1971年にお会いしました。  私は中卒で集団就職で東京に出てきました。  クラシックギターを習って町工場で働いていまた。  25歳でクラシックギターを教え始めましたが、理論を知りたいと26歳で柴田先生のところに飛び込みました。  柴田先生の家柄は学者の家柄で、森鴎外の「雁」に出てくる柴田承桂さんと言う人のセリフで「ドイツに渡航するのであれば柴田承桂君に聞き給え。」と書いてありますが、ドイツの薬学を持ってきて薬剤師の名前を付け、東京大学の医学部教授になられたのが柴田承桂さんです。  柴田先生の父親は柴田雄次さんでドイツから化学を持ってきて、東京大学の教授になられた方です。 柴田先生も東大を出られて、私も弟子にしてもらいました。  1週間に一回の稽古でした。  1年目は月謝を払いまいたが、2年目からはいらないよと言われました。 (7年間無料) 

ハーモニーの連結 4つの旋律の和声?がありますが、それをどのように連結すれば、美しいハーモニーが出来るかと言う、8小節、16小節の和声、連結の仕方です。 それをチェックして貰います。  2年目には万葉集にメロディーをつけて、ハーモニーを作るという宿題をあたえられました。   自分で考えた旋律を作る。  万葉集を100冊買いました。 (月賦)  古典文学を勉強して大変勉強になりました。  3年目に私の故郷に先生も同行することになりました。  先生とフィールドワークの調査、研究をしました。  録音してきたものをNHKのラジオから流れるわけです。   柴田先生は芸大の先生を辞めて民俗学に入り、日本の民俗学の研究をはじめました。(フィールドワーク)  静岡県の念仏踊りを取材しました。  越後瞽女、田沢湖の方とか様々なところに行きました。  貴重な記録です。  

先生がシアターピースと言う方法で作った漫才流しの2曲目は強く印象に残っています。   一般的に合唱団は左からソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという6種類の形態で並んで歌います。  シアターピースと言うのは、舞台でやってホールの方に階段で降りてきて演奏する訳でです。  劇場全体が歌う場。  今も私は継承しています。   漫才流し 三河漫才から始まって、秋田の方に移って発展して来ました。(秋田漫才、横手漫才)   漫才を新しい感覚で自身で合唱を作りました。(シアターピース方式)  

*合唱曲 「漫才流し」  柴田南雄作品

柴田先生の一番すごいところは、「人間について」と言う曲があって、宇宙について、人間と死、自然についてとかいろんな曲、未来につながる永遠のテーマを作っています。  柴田さんは東大で植物学、哲学を学ぶ。  先生は縄文土器、弥生土器も研究して、縄文土器の笛を使って音程を出したりしました。  私の知識と教養を柴田先生が育ててくださった。  とても好奇心の旺盛な方です。  

先生からは「民俗学を研究して新しい自分の様式を作り、研究する人間になりなさい。」と言われました。  私も自然と民族学の方に入って行きました。   宮沢賢治世界、いろんな日本の古典文学、樋口一葉、明治の歌人、文学者の人たちなどをテーマにオペラを作ったり音楽を作って来ました。   今111曲になりました。 

*「利根川322」 第一楽章冒頭の部分 (利根川は322km流れている。)

4月26日に「鳥獣戯画」を発表します。  9月には「清少納言」を発表する予定です。