2011年9月28日水曜日

野村進(ノンフィクションライター)     ・アジアと日本を見つめ続けて 2

野村進(ノンフィクションライター 拓殖大学教授) アジアと日本を見つめ続けて
「島国チャイニーズ」 中国人は日本に約70万人居る 日本国籍をとった人も入れると80万人以上 
と言われている
留学生別科を担当して中国人留学生と付き合うようになり、抱いていたイメージが崩れて、書いて
みようと思うようになった
6~7年前から執筆 会って話を聞いたのが200人以上(通常単行本を書く時はこの程度)
 取材した量の1/0~1/20程度が書かれている 
第1章 劇団四季 日本を代表するミュージカル劇団 かなりの中国人俳優が出ている 7人に1人は
中国人の俳優で主役級が続々と務めている
綺麗な日本語で話す 努力の凄まじさは驚嘆するよう 日本人が忘れている努力さ、向上心を
持っている

劇団四季 能力主義(浅利さん) 開かれた目を持っていた 
第2章 日本の大学で活躍している教授 科学方面ではニンさん(福島大学) 教授、准教授で
2600人ぐらいいる 中国、台湾を除くと世界一 アメリカより多い
文化大革命、天安門事件を乗り越えてきた人達 人間としてのスケール感を感じさせる  
80年代に来日して苦労して博士号をとる(50歳代後半の人達が多い)
女性、法政大学教授 ワンミンさん 専門が宮澤賢治研究 「雨にも負けず」を読んで日本人に対する
尊敬心が波のように押し寄せてきた という事
宮澤賢治の本を一番中国語に訳している人  日本に来るきっかけになったのは文化大革命で
選んだ先が日本で大学院を出て着々と教授まで上り詰めた方々
中途で帰ろうとしたが天安門事件が発生して帰れなくなった
  
当時は日本の方が条件は圧倒的に良かった
中国本土では失われた文化が日本では残っている 
それを発見する面白さが日本を研究する面白さの一つであるとの事
日中間の相互理解とかそういうのを進める上でもキーパーソンになるのでしょう もっと自分たちを
使ってほしいと言っている
自分たちも日本の社会に貢献したいという気持ちがあるのだから、良い意味で自分達を使って
ほしいと言っている
第3章 中国人の芥川賞作家のヤン・イーさん 元々と語学学校の先生 取材の動機は→芥川賞受賞
以前から取材していた 
中国現代史の激動の中を生き残ってきた人達 この家族を取り上げることで中国の現代史が
浮かび上がってくるだろうと云う意味もあった

文化大革命でインテリは迫害された人達 地主階級で差別された 
中国は日本と比べ物にならないぐらい階級社会 
彼は非常に優秀で知的瞬発力がずば抜けていると思った  
たくましさ 生き残って来て異国で才能を発揮した 
1年ぐらいで日本語をマスターした(日本語検定1級)
日本語で小説を書き始めて3年で芥川賞受賞 
第4章 留学生の反日感情  中国から来た留学生を支えている日本人も沢山いる 
中国に係わらず留学生は部屋探しに苦労している
反日だったら日本には来ていない アニメ世代 ポップカルチャーにあこがれて日本に留学したと
云う人が非常に多い  言って見れば日本大好き人間
バイト先でどうせ日本語は話せないだろうと日本人に替わってと言われるのが辛い
 彼らの心を傷つけている 日本人は狭量だと思う
 
日本が好きでやってきた学生たちを冷たい対応をして失意のまま返してしまうと云う事は
ナショナリスティックに言ってもマイナス 日本の国益にならない
愛国者だったら留学生を温かく迎えるべき 愛国者と排外主義は違う 
(日本の場合重なっちゃっている様)
反日デモのリーダーの一人がかつて日本に留学していたなんて事を聞くとやっぱりがっかりする 
第5章 中国人妻  山形は多い 今も子連れの中国人女性が多い
 残念ながら巧く行っていない場合の方が多い 最初から双方の目論見が違う
事前の知識が双方に必要だなと思う 
きちんとお互いの事情を知った上で結婚すればいいのだが、目的先行でお互いの事情を知らない
で結婚してしまい、巧く行かない
息子さん結婚相手がほしい、跡継ぎも生んでほしい
 
中国から来る人は新天地でリッチな生活をしてみたい 
中華動○学校? 取材 日本人のゆとりある家庭から子供を通わせている 
日本各地の中華学校の1割は両親ともに日本人 神戸の中華学校に限って言うと4人に3人は
日本国籍者 中華学校に通っているのは日本人が殆ど  理想とするのはかつての日本の村の
学校だと校長先生がおっしゃって、年上、年下の子がくんずほぐれつして 
育ってゆくような 先生と生徒の関係も 先生を尊敬し、生徒を厳しく教え導くみたいな 
そういう昔の村の学校が自分の学校の理想なんだとおっしゃって
逆に日本の学校が失ってしまったものを実践している
民族、国籍によるいじめ等がない 学級崩壊もない、しつけもきちんとしている 
日本語、中国語をきちんと教えてくれる ・・・日本の学校ではなくわざわざ中華学校に通わせている
かつて日本の学校が持っていた良さを中華学校が持っている 
 
池袋のチャイナタウン ここ10年ぐらいの動きで中国人が集まるようになってきた 
東北三省 (黒竜江省 遼寧省 吉林省)の人達が多い  (旧満州当り) 
中国の女性たちは総じて元気 いろんな困難を乗り越えて活躍している姿を最後にポジティブにと
 持ってきた
在日韓国朝鮮人の1世、2世の方々は日本国籍をとることに抵抗感が強い(かつての差別体験) 
在日チャイニーズの場合はそういう抵抗感が意外なくらい少ない
あっさり日本国籍をとるし、あっさり日本名に替えてしまう  
生年月日を聞いたときに昭和○○年と答える そういう人が実に多い
私自身、今の中国政府のは批判的なんですが、中国政府のやることなす事が気に入らないから
中国人と見るだけで、毛嫌いするのは真っ当な大人の対応じゃないと思う
政府のやっていることと人は分けて考えるべきで、私の対応は人に依りけりという対応の仕方を
している

メディアが作ってきた在日チャイニース象゙はネガティブなものがある まずは現実を知ってほしい 
そのうえで考えていただきたいというのが一番強い思いです
戦前、日本はアメリカに憧れてアメリカに行った 
着いた時には親米、好米だったが、処がアメリカで黄色人差別があり、日米間の対立が激しくなると
日本に対する親近感が強まってゆくその中で、戦争がはじまると彼らは強制収容所に連れられていった
 同じ敵国であるドイツやイタリアの住民に対してはそういう措置は
取られず、日系人にだけそういう措置が取られた  
当時日露戦争に勝利した日本に抱いた恐怖感とか得体の知れなさと同じようなものを今の日本人
は台頭する中国に
抱いている様な気がして、時代は変わるし、かなり違うが似ている部分も可なりあるなという事で
そこを書いた
恐怖の元にあるのは無智なわけです 

無智に基ずく恐怖は止めた方がいい ろくなことにならない  
まずは知ることから始めていただきたい
認知症の取材がかなり進んでいるとか→前の「救急精神病棟」というものを3年ぐらい取材して
書いたが、山形の精神科病院に重度認知症病棟がある
ある極限状態にある人の事を書きたいと常に思っている 
私の母が認知症という事もあるが、今まで認知症というと灰色のどんよりした重いイメージで
捉えられていた
この病棟を取材してどうも違うんじゃないかと もっと極彩色なカラフルな人生の最晩年に個性を
開花している部分もあるんじゃないかと そっちの見方から書きたい
非常にユニークなお年寄りに出会えたのでそれを出来るだけ再現したいと思っている

日本の森を歩いているが日本はアジアでも珍しい、世界でも珍しい森林に覆われた国 
7割近くは森に覆われている 日本の文化はそこから出発していると思われる
老舗の延長線上にある 老舗の文化を生んだのも森の延長線上にあるのではないかと思う 
人間以外のものにまで魂を見出すような価値観が日本の老舗には息づいているが、それは
やっぱり精霊信仰になっちゃうわけですが、森から来ていると思う
手っ取り早く言えば宮崎駿さんの世界から日本の老舗も生まれてきていると思う 
宮崎駿さんの世界を生んでいるのが森だと思っている
矢張り自分の関心を持った世界に入って行って、そこにいる人達の話を聞いて、自分自身が
少しずつ豊かになってゆく 内面的に豊かになってゆくような感覚がずっとある

まったく知らなかった自分が教えられていく過程で前よりもちょっとましな人間になりつつあるのか
なというそのあたりでしょうか
嬉しかったのは私のあるプロジェクトを担当してくれた青年がメールをくれた 
僕は在日3世なんです 野村さんの「コリアン世界の旅]を読んで自分が日本で生きていてもいいと
初めて実感として感じた・・・吃驚したが書いていて良かったなと思った
浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、東京都出身の演出家、実業家である。
劇団四季創設者の一人で芸術総監督
1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘や石原慎太郎などの政治家との
関係を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を大劇団へと成長させる

2011年9月27日火曜日

野村進(ノンフィクションライター)     ・アジアと日本を見つめ続けて

野村進(ノンフィクションライター 拓殖大学教授) アジアと日本を見つめ続けて
父は通信社に勤務 大学は上智大学英語学科へ→トレーナーになりたかった (ボクシング)
 大学3年目からフィリピンへ交換留学に行く 
ベトナムへの関心から東南アジアに向かう 
「フィリピン新人民軍従軍記」を帰国後書く フィリピン作家の家に下宿するようになる→反マルコス運動
を地下でやっている人だった、フィリピン共産党のシンパだった人 
ゲリラ地区に招待され行く 貧富の格差のひどい処で問題意識を持った スラム街、農村の子供は
学校にはいけない状態 
紛争地で怖くはなかったのか→生きて帰れなかったときはそれまでだみたいな考えがあった
4か月半ゲリラ軍と一緒に生活する 神父でフィリピン新人民軍に入る人がいた(インタビューは世界初)
 マルクス主義と宗教は相いれないのになぜか

神父として貧しい人達を救おうとするのであるが、そのたびに妨害に会う カトリック組織の上から
、地域の警察、軍から嫌がらせを受けて、彼自身の命が危ない状況になる
追い込まれてゆき最後には暗殺されてしまう 
叫ぶ男→伝達方法がなくて大声で連絡する ジャーナリズムの根源 ・・・ジャーナリストとして現代版
「叫ぶ男」になりたかった
2年間フィリピンにいた 得たものは→今思うに 一番得られたものは許す力、許容力 
いろんなものを受け入れる力を一番学んだのではないか
反日感情が一番強い時期であった 35年経って今一番親日的な国 
フィリピンはマレー系の人達 スペインの植民地になってカトリックの信仰を押しつけられた
それをうまく取り入れて土着カトリシズムという独特な信仰を持っている 

そこに許しの心があって日本軍は確かにフィリピンでひどい事をいろいろしたけれども、もう許そうと
そこが他のアジアの国と違う 日常いろんなところで許しの心がある 
3/11の大震災の時にすぐに募金が始まり、生活レベルを考えたら決して募金を呼び掛けている
様な状況ではない 40~50人が呼びかけ 泣きながら募金を訴えている
本を書く 大変さでは事実しかかけないのでどうしてもうずまらない部分がある 
一番大事な部分を知っている人が亡くなっていたりとか、空白を空白のまま出さなければならない
サイパン移民の話 「海の果ての祖国」 「天才たち」 時代への関心から人への関心と移っている
 その時代の最先端にいる人達はどのような人なのだろう
時代を動かしている突端にいる人に会いたいと云う気持ちはある 「救急精神病棟」 
「コリアン世界の旅」(大宅壮一賞、講談社ノンフィクション賞) 
コリアンへの興味は→前から在日外国人には関心があったのですが、自分自身が日本社会に居場所
がないと云うか、居心地が悪いところがどこかに有って、
マイノリティーの方がその社会の事がよく見えているんじゃないかという思いがずっと有った
いつか在日韓国朝鮮人をきちっと取材して書いてみたいと云う気持ちがあって、たまたま依頼が
あって(雑誌連載)取材して書いてみようと思った

いろんな角度からコリアン世界を書いていてパチンコ屋、焼き肉屋、済州島であったり、ベトナム戦争
に参加していた韓国兵とかアメリカで商売をやっているコリアンの人とか
Jリーグ等々幅広く取材 ある程度納得できる作品が書けたのがこれが初めて これが賞を戴けた
のは嬉しかった(39歳の時)
読者からの反応→在日コリャンの方々から多くの手紙等を頂いた 
日本人にこういう者を書いてもらったのが、非常に嬉しいと云う反響が多かった
初めて自分が日本社会で存在していいんだと日本の人に語ってもらったという反響もあった
インタビューするときに心がけている事→私自身結構辛辣な人間なんです 
人の欠点とか嫌なことがすぐ目についてしまう人間なのでなるべくいいところを見ようとしている
なるべくその人のファインプレイを引き出して書くようにしている 
人生の中で必ず人はファインプレイをしていると思う そのファインプレイをその人から引き出したいと
思っている

作家はイマジネーションで作品を作り上げている 英語での表現はノンフィクションライターという
 作家ではないのでノンフィクションライターとしている
私がアジアに関心を持った1970年代 アジアに関心を持つ人が非常に少なかった 
日本人の目は欧米に向いていて、変わったところがあったので
アジアの中でどう生きて行くかというのがこれから私にとって大きなテーマになるだろうと思っていた
マイノリティーになった日本人の目で見たそれぞれの地域、マイノリティー程その地域が良く見えている
ので 例えばカンボジアに定住した日本人から見たカンボジア社会
ジャカルタに定住した日本人から見たインドネシア社会というのはもしかするとその国で生まれた
人よりも良く見えているかもしれない
同時に離れた処に居るので日本社会、日本人の事も良く見えている 2つの意味でこの様な人達を取材した
浮かび上がってきたアジアとは何か、日本とは何かがテーマだった 
「日本の老舗企業 1000年働いてきました」 →アジアを30年位取材してきて 30数年前に私が感じ
てきたアジアと云うのが、違う方向にアジアが行っている様な気がしてきた

中国もインドも経済的に確かに発展しているのだけれども、経済主導主義といえば聞こえはいいが
、拝金主義に侵されつつあるわけです
そういうものの防波堤にアジアはなるんではないかと思っていたが、意外と簡単に飲み込まれてしまった  
拝金主義はアジア全体に広がりつつあって、アジアは経済発展
で沸き立っていると云う見方ばっかりされるが、精心的な荒廃が進んでいると思っている
それは私の中で失望させられるものがあって、30年ぐらい取材して日本に帰って来て、足元の日本
をきちっと見てみたいと思って、日本と日本以外のアジアとは何なんだろうか
行ったときにたまたま新聞で世界で一番古い会社が日本にあるという記事が有って、それが
金剛組という大阪の建設会社で飛鳥時代から1400年続いていると吃驚する
日本には100年以上続いているのが沢山ある 
調べてゆくと老舗が古いものをつくっているわけではなく、携帯電話の最先端の部品を作って
いたり、暖められた技術が
使われている事が判り、これは面白いと思い、老舗を書く事で日本文化が書けるし、ひいては
日本とは何かみたいな私がずっと自分に問いかけてきた問いに答える

一つの糸口になるんじゃないかと、調べて行ったらどんどん面白くなってきたと云う事です
どちらかというとアジアに比重が多かったが、バランスが変わって来て今は日本への関心が強く
なってきている
30年の前アジアでは貧しいけれども何か人間としての優しさがあった世界 変わってきたのでは→
東南アジアに惹かれたのは東南アジアが持っていた根本というか
カオスと言いますか、あの中に惹かれるものがあったが、今や都市部はどんどん東京のように
なって来ている
私にとってはアジアが段々つまらなくなってきている 日本の真似をしてきた 
日本のように成長したくてやって来てその通りになって来ているのだけれども
日本が高度成長で背負いこんだマイナス部分を全然見ていない 
結局同じ問題を背負っている 公害問題、精神面でのいろんな問題にしても 何でちゃんと日本を
見なかったのか

グローバリズムが押し寄せてきたわけですが、インドが防波堤になるかと思っていた 
(インドは強固な文化、文明を持っているので)
意外ともろく崩れつつあるような気がする ITの潮流にのってITで伸びてゆこうとしている 
昨年行ったが貧富の格差がますます拡大していっている
高層ビルのとなりがスラムが広がっている様な光景が段々ひどくなっている 
アジアンの魅力が薄れてしまってきているなあと思う
精神面の輝きみたいなものに惹かれていたが、そこがどんどん薄れて行って、やはり荒廃しつつある
日本の高度成長期みたいな事が短期間に繰り返されていて、人の心の変わり方も激しい  
拝金主義もかつての日本以上のよう 残念ですが

2011年9月23日金曜日

隈 研吾            ・建築の魅力、都市の魅力2

隈 研吾  建築の魅力、都市の魅力
世界建築会議 9月27日から開催 建築の世界ではオリンピックといわれる大きなイベント
3年に一度開催される
世界から約1万人の人が集まってシンポジウムがあったり、コンペティションがあったりする 
国際フォーラムを中心に行われる 今年のテーマが「デザイン2050」
後40年先 1番創造力が湧くところ(10年先では短すぎ、100年先では想像できない) 
世界の学生たちの審査委員長をやることになる  都市計画なので大きいものなので
チームでおこなう

都市が抱えている問題は物凄く多く エネルギーをどうするか、地球温暖化、災害、
地方都市の産業、・・・政治家が悩んでいる問題は殆ど都市問題
デザインする人間が回答をだせないか それで予算とか後から付いてきてくれるのでは
 何とか光が見出せるのではないか
ただ斬新なものを作るだけでなく、防災、人の住みやすさ、コミュニケーションをとり 全て盛り込む
20世紀都市 自動車、産業→前提を変えてみようというのが、今回の趣旨 
ぴかぴか型の(中国の上海)未来都市ではなく、地味な未来都市を考えてみたい 
私自身、ポスト高度成長時代の建築家だと思っている 1990年代以降 沈滞というか
成熟期 成熟期の建築はどうあるべきか 高度成長期の真逆だと思っている

デザインもまだ高度成長期の惰性でやっている様な気がする それを逆転して 
一極集中→分散  成長→縮小 そういうものに合ったデザインとは何かを考えると 
素材もその場所場所の素材を使う 場所場所の職人さんを使う 面積が大きい事が
いい事でなく小さい事、高いのではなく低いのがいいのではないか・・・ 基本的考え
考えが変わった理由は→バブル崩壊 東京の仕事が一件もない 地方を歩きまわった
小さな建物をつくるようになる(東北、四国) これが日本の一番の財産なのではないかと思う
それで自分の建築のスタイルがガラッと変わった 自分にとって不況はチャンスだった 
(それまでは目立つ建築、大きな建築をめざした)

バブル崩壊が私の建築哲学の転換点になった  負ける建築(場所に建築が負ける 
高度成長期は建築が場所に勝、場所を破壊)、自然な建築
根津美術館 竹をふんだんに使っている 竹垣、 竹林 (50mの道がある)入るとほっと
する様な気持  日本独特の空間技術
竹の色の変化がいいと思う 建築も年をとるようなものがいい 
和紙の光の効果がいい 現代建築は上から下に向かって光の方向があるが和紙を使う
事で下から上に向かって柔らかな光を通す
建築で癒されたいと云う傾向が世界で広がりつつある(工業社会流の建築に疲れてきて
いるのでは) 日本が建築家が世界で求められている
コンクリートの建築は図面書くのも簡単 あんまりよくわからなくてもコクリートの建築は作れちゃう 
木造の建築はジョイント(梁、柱、壁等)が判っていないと図面が書けない

世界でいろいろ仕事をしていて日本の職人の技を持つ程の人には出合わない 
名職人と言われない人でも日本の職人は吃驚するほどの技を持っている
歌舞伎座 共同設計した あと2年弱で出来上がる   1951年に4代目の歌舞伎座が
出来て5代目はそれを踏襲して材料もできるだけ使って独特の空気観を作ってゆきたい
そのまま桃山様式 再現 (屋根のカーブ等) 後ろのビルは出来るだけ引っ込めて印象が
薄くなるように工夫(屏風のような壁)
楽屋 使っている人は質感で考える(設計者は平面図で考える) 床が柔らかなくなくては
いけない でないと疲れてしまう 
如何に楽屋から廊下、舞台まで床を柔らかくするかを考えた  役者との話し合いの中に
意見を取り入れて設計に取り入れている
建築と都市との関係→20世紀型の建築は場所を殺すような建築が多かったので場所を
生かす建築出来ないかなと思う

東京にはかつて地形の襞があったが、全部高層建築で無くなってしまった 
襞に合わせて神社、仏閣が有った それに合わせて文化があった それを掘り起こしたい
東京とは千の村 それが詰まって大都市のように見える 
村の個性をもう一回発見するような街作りをすべきではないか
長岡の市役所 木、和紙を使って 土間を作り 温かい市役所にしたい  
人間て質感の柔らかいものに集まる 囲炉裏端も温かいところに集まる
空間作りにおいて日本人て今まで世界に凄い影響を与えてきた  
日本の空間の技を売って行った方がいいと思う

2011年9月22日木曜日

隈 研吾(東京大学教授)    ・建築の魅力、都市の魅力

隈 研吾(東京大学教授)    建築の魅力、都市の魅力
世界建築会議 日本で開催される 専門家1万人が集まる
東北との建築での繋がりある  1997年から東北中心に仕事をやっていた時があって
一番のきっかけは石巻から北に上がっていた処ですが、
森の中に木造の能楽堂をつくりまして、 北上川沿いに運河交流館 等小さな建物を点
々と作って行った  思い出深い場所
地形自身が纏まりが良くてそこの場所に力がある、個性がある 
日本の財産である そこが元気が無くなってしまってはまずいなと思った
どうしたらもう一回空間を残せるか 考えていろんな事を始めた
 
帰心の会を立ち上げたそうですが→5人の建築家の頭文字を並べた 隈(K) 伊東豊雄(I)
 妹島和世(S) 山本理顕(Y) 内藤廣(N)
定期的に集まって定期的に東北に行って地元の人たちと意見交換をしたりしている
今まで東京の建築家が地方に作る時はどうしても東京の流行を地方に持ってゆくみたいな
一番現代的なデザインで地方に元々あった文化を破壊すると云うような事があったように思う
そういう作り方じゃなくてその場所というものをもっと大事にした作り方、場所の文化、
伝統 そこに居る職人の技 その場所の力を吸い上げるような建築を作るべきじゃないか
「帰心の会」を付けたもう一つの理由なんです いくつかプロジェクトをやっている

みんなの家というプロジェクトは仮設住宅は面積を確保するだけで潤いがなくなっちゃう
のでその仮設住宅の脇に、のんびり出来るような心温める事が出来るような
小さな居間、リビング、囲炉裏端と言っていいかも知れないが、そういう小さなスペースが
出来ないか 世界中から募集した
欧米の有名な建築家からもスケッチが寄せられたりして、アイデアをちょっとでもいいから
実現したい
仮設住宅の中から作ってほしいと要望のあるところを対象に、お金も寄附が沢山集まって
来ていて(海外のブランドからもぱっと来たりしている)

家自身はちっちゃなものなのでいくつか実現できそうな勢いが出てきた  これから作ってゆく
仮設住宅に住んでいると人と人とのつながりが無くなってしまうんで、・・・
20世紀の建築の作り方は機能主義という言葉があったように人間の生活というものを、
機能に振り当てて、その機能にどのくらい面積が必要かと言って
人間を機械に見立てたような家の作り方をしていた それは個人住宅でも集合住宅でも
機能主義で本当の意味での人間と人間とが絆を結ぶ空間というのが無くなっちゃた
それが20世紀の大きな問題だったと思うので「みんなの家」はもう一回機能の空間から
心の空間に戻すと云うのが目的です

昭和30年代はちゃぶ台を挟んでみんなで食事をしたり、団らんを取ったりして居たのが
、段々一人一人の部屋が確保されて、そういう方向になってきた
N-LDK N人の人用の機能を言って居るだけの住居 そのような住居はもう卒業しなければ
いけないなと思っている
日本の畳みの部屋なんて機能はすごく曖昧だけれども、その曖昧の中に人間と人間を繋ぐ
絆の仕掛けがいっぱいあった
絆の仕掛けがいっぱいあるような家を作りたい

1995年の阪神大震災の復興住宅がいろいろある中でお年寄りが孤立してしまって、
自殺する人が多くなったと云うような 孤立というか そのような問題が阪神大震災
の時には出てきた  建物が壊れる異常にこわいのは孤立という事だと思う 
孤立を救えれば多少建物が小さくても、隙間風があっても人間というものは生きてゆける
機能主義を越えた新しい住居観みたいなものを打ち出してゆきたい …→「みんなの家」
仙台市の若林区に民間の復興支援プロジェクトを「ハートクエイク」 ボランティアの人達が一杯いるが
、その人達の溜まり場がない
「ハートクエイク」という活動を始める その拠点になるような建物を瓦礫を再利用して作れな
いかなあというプロジェクトをやってまして まず東京の大学のキャンパスの中に
作ってばらして現地に持ってゆくと云うようなことを考えている

瓦礫を骨にして発砲ウレタンを吹き付け(材料費はタダみたいなもの)てユニットを作り、
ユニットを組みあげていってキャンプの為の施設にする
ボランティアの人が集まったり、寝泊まりしたり、瓦礫を使って何かを作りだしたいと云う人
の作業場にもなる
大学生、卒業してデザイナーを目指している人とか一杯いる 
私も加わりいろんな事やり始めている  
出来上がるものも大切だと思うが、それに至るプロセスが大変大事だと私は思う
 建築とか都市って、できあがったものばっかり考えるんですが
実はそこに至るプロセスが物凄く大事でそのプロセスこそが一番の財産じゃないかと思う
現在は瓦礫をどうやって纏めてゆくか 意外と難しかった 
瓦礫を管理しているひとたちともいろいろ交渉しなくてはいけなくて、新しい人間と人間の
関係が生まれている

素材というものが建築に命だと思っている 建築が何で出来ているか というのが私の
建築の命だと思っていて 例えばそこの場所の森の木を使うとか石を使うとか
していたのですが、瓦礫というのは今回の震災の物凄く大事な記憶を残している材料なので
、それを命にして建築を作りたいと思っている
20世紀の建築の材料は外から持ってくる 上等なものというイメージがあって、
上等な大理石を貼って作るといい家になるとか、ぴかぴかしたアルミを貼ると新しい感じの
家になるとか
そういう感じで材料を選んできたけれども、材料ってもっと自分たちの中から探してくるもの
だと思う
 
ゴミだと思っていたものが使い方次第で宝石よりももっと凄いものになる
というのがこれからの建築の作り方ではないかと思う  
そういう点でも瓦礫ミュージアムは一つの社会に対するメッセージになるんじゃないかと思っている
全壊しないで残った建物を手直ししてカフェにしたり、ボランティアの人達の宿泊所にしたり、 
手直しのプロジェクトもとっても大事で 価値転換(新しい建物をつくることだけが建築ではない)
20世紀的工業社会の価値観だと全部つぶして新しく作る方がいい事 それが経済も活性化するし、
それがいいことである それが建築の目的である
これからの社会というのは今あるものをどれだけ大事にして磨いて行って 
それを価値に替えてゆくか という方向転換になると思う
建築の歴史をおさらいしてみると、災害が物凄く大きな影響を与えている 

関東大震災1923年 震災後都市は燃えてはいけないと言って不燃化が一気に進む
それまでは木造の2階建都市東京だったのが、一気に建築の法律も変えて不燃都市に
変えようと  当時としてみると必然性があったが今となってみると
木造都市の魅力の大事な部分が失われてしまった  
木造の都市の魅力というのはスケールが小さいと云う事 路地にしろ建築物本体にしろ
 木はおおきな空間が作れない
人間の身体と余り大きく違わないスケールで建築が作られていた 道路も人間とあんまり
違わないスケールで出来ていた 全て人間と違ったスケールの都市になってしまった
日本の都市にとって非常に残念なことであったと思う  今回の震災はそれを逆転できる
震災ではないかと思う 
工業社会的な文明ではなくて、その逆の文明に舵を切るためのきっかけになるんじゃないかと
 震災はショックだがそれを逆の力に変えてゆく
 
住と職を別に考える政府の考えが出てきているが→20世紀には職の場所は騒音出す
ので町中に纏めて、静かな郊外に住む ・・・職住分離で20世紀には理想的かも
郊外で自然破壊をしていてしまって、エネルギーを沢山使うライフスタイルになってしまった  
今コンパクトシティーというのが言われ始めた
もっと住む処も働くところも一緒 近くにあったらいいんじゃないか 
移動のための車も必要ないし、エネルギーもそんなに使わないし、にぎわいもそこそこあるし
寂しくない町ができるのではないか コンパクトシティーが世界中で注目され始めている 
政府の考えはコンパクトシティーとは逆行する考え方 これからの人間のライフスタイルとして
はどうかなあと思う

東北の職人さんとのコラボレーション 新しい民芸みたいなものを作って世界に発信して
いけないかなあと思って 世界に売れないかなあと思って世界の美術館に売り込みに
行っている
世界の皆さんが日本に対して温かい目で見ていてくれて 今はチャンス、売り込みを始めている  
今まで職人さんと若い人との接点がなかった 若い世界と繋いでしまおうと云う流れが
出来て来つつある 
新しい文化交流が出来るのではないかと思う   
都市計画のアイデアは→白紙から絵を描くのではなく、今のものの上に絵を描いてゆく
都市計画 コンパクトな都市 文化、伝統を生かした上で再構築してゆく
都市計画の究極の姿というのは家の改修みたいなものだと思う 手直しみたいな
このと云うと都市計画と全く逆なコチョコチョしたものと思われるかも知れないが
これからの都市計画というのは今の都市をよく観察して手直しのうえに新しい強くて
住みやすい都市をつくると云うそういうものだと思う

2011年9月19日月曜日

鯨エマ(女優)          ・シニア劇団花舞台

鯨エマ(女優)                  シニア劇団花舞台  
作・演出は鯨えま タイトルは「ねこら」(猫等) 
新宿を舞台にしたキャッツ  「完熟座」現在41名 全員60歳以上 2006年に9月立ち上げる 最初13名が集まる 女性が多く男性を誘い 14名でスタート 劇場のバリアフリー化 お年寄りへ展開 きっかけは人それぞれ どこかで一回は舞台に立ちたかったと云う人がおおい 正座が出来なくなってきた人が居たら、それなりに変更する
(座敷でやっていたのをテーブル、椅子でやるとか)  
(耳が片方遠くなった人は悪い方の反対側に立たせて芝居するとか) 
兎に角全員が舞台に立ち続けられる様にやっている

素人っぽさを越えているようなところまで来ているのでは→素人かプロかではなく、お芝居は面白いかどうかだと思う 
一回目の公演の時の印象→思いのほかお客さんが笑った 
「笑い」とったという感覚に変わった 笑われる事に快感を覚える 
ここから二回目の公演に行くまでに大きく伸びたと思う 
一回目にやった人は全員残る 週2回の練習は厳しく 2年目は19名
3回目でNHKに取り上げられて、問合せが殺到して、週1回の練習のチームを作るようになり、人が増えた
親子ほどの年の差有り 高校を卒業してから劇団の養成所に入り、3年間勉強して劇団に入る(21歳から仕事をした)
役がすぐ来るわけでもないので、直ぐ自分でプロデュース公演を立ち上げて小劇場を借りて芝居をやっていた
作品は→自分の苦手なものを書くようにしていた 
新宿の街が大嫌いだった ホームレスが多くいてそれが大嫌いで 何でこれが嫌なんだろうと思った
それを知るために焚きだしに行ってみようと思った 
焚きだしにボランティアで1年間ぐらい通っているうちにこれは芝居になるかも知れないと思った 芝居に書いた そこから自分が苦手にしているものを書くと云うそういう傾向に走って来た  
新聞ネタというか、社会問題をベースにしたものと言われる  
自分も興味があるので題材はそういったところから来る
芝居をやって来て変わったことは→いろいろな職業の人で構成されているが、出来るだけそのようなものを色眼鏡で見ない様に心掛けていた 
それで4年ぐらいやってきたが、広告代理店の人が入って来て 宣伝をどうするかを問われその人に任せる事となる 水を得た魚のように生き生きとこなす

従来の姿勢(出来るだけ均質に人々を捉える)からちょっと変えなくてはいけないのかなと、考えるようになった
くたびれた背広を着ているサラリーマン 実際のホームレスはダウンジャケットとか凄いいいものを着ている 一目瞭然にホームレスだと判る
何が違うのか そこら辺から役作りをしてゆくと最初はずれくじだと思っていたホームレス役がある瞬間当りくじになる これが面白い
その人がいきなり稽古場で生き生きし始める時があーっやっててよかったなーと思う瞬間ですね
私は一つの役を演じる時はこのバックグラウンドをずっと掘り下げて考えると云う事を習ってきたし、その方が面白いと思うのでなるべく、その役の人の生い立ちを、書いてもらってこの人がどうやって生きてきてこの舞台に立っているのか、というものを作ってもらうようにしている 台本に書かれている事はあるが、それは本当に一部で細かく作ってみると、舞台に立つのが楽になる  
その役の人の事を書いてゆく中で、自分の体験が入ってくるからだと思う 
自分との共通点というのが沢山その役の中に出来てきて 逆に違う処はなんでこの人はこういう言葉 を吐いたんだろうかと、判らないところが明らかになる 
そうすると取り組みやすくなるし、舞台での所作が楽にできるようになる  
どうしても人と一緒ではないと出来ないので、自分の家で一人でやる趣味とかよりも刺激が大きい様な気がする
声を出さないといけない、動かないといけない事で良い意味での緊張感がある  
生き生きしている 伸び伸びとやってもらいたいと思っている
今回全国演劇大会に参加する劇団が16劇団がある (シニア劇団) 形態が様々  
日本全体では50~60ぐらいあるのでは 
全劇団に言えることはやる気満々なところ
演劇は出会いの宝庫であって 自分の役と出会って、役を演じるときに相手役とであって、お芝居を作る時に仲間と出会って、 演じるときに自分の知らなかった自分と出会う 最終的には沢山の御客さんと出会う  劇団同士の交流も図ってもらいたい 池袋「シアターグリーン」で開催される

2011年9月18日日曜日

笹本恒子(96歳 写真報道家)  ・真実を撮り続けた70年

笹本恒子(96歳 写真報道家)             真実を撮り続けた70年  
女学校の修学旅行に行くときに、親戚の伯父からイーストマン・コダックの蛇腹 にフィルムを入れ持って行った
林 謙一氏(おはなさんの原作者 毎日新聞の記者)が報道カメラマンになりませんかと勧められる
絵を書いていた   林氏が写真協会をつくる 
毎日新聞社会部の林謙一という人が特派員として現地に行き「日本は宣伝戦で立ち後れているから、ぜひ何とかしなくちゃいけない」と会社を辞めて写真協会をつくったところでした
昭和15年戦争真っ只中 写真を見せてもらった(報道写真) 
報道写真家になりませんかと云われる 一晩考えた承諾し、事務所に通う   
当時女性写真家は居ない
ヒトラーヒトラーユーゲントムッソリーニなどの写真を色々見せてくれました
読売新聞の鬼部長と云われる稲葉さんが来ていて「貴方はカメラマンになりたいと言ったそうですけれどもここは学校でも教習所でもないから,どうしてもなりたいならば、明日からすぐ仕事をしてもらいます 

もしそれが出来ないならば他の部署に回してあげますけどどうしますか と云われる  
やりたいと思いますと答える (25歳) これが出発となる 
最初は都内で撮っていた
3か月後に女性の目で見たシリーズものを作ってみませんかといわれる 
芸術家シリーズを始める (主に海外に送る写真 作家の佐多 稲子  絵画の三岸 節子等 ) 最初は親切にしてくれたが(脚立貸してくれたり)、男性と同等に仕事をこなすようになると(戦後)大変な意地悪をされたりする様になる  
戦後 本格的な活動を始める 
婦人民主新聞刊行にあたり、写真を担当 (新聞記者と同じ様にイベントをとる)

マッカーサーの写真  女性解放でデモの先頭に立っている女性の写真 
バラックの家、女の人はもんぺ姿、 メード学校(進駐軍が来て住み込みではたらく女性の為の学校 英会話、ベットメーキング、料理等習いに行った学校) 
芸妓学校(大阪 道頓堀 芸妓が逆立ちしている写真 英会話 社交ダンス等)の写真
マッカーサーに声をかけてはいけないのに声をかけてしまった 
テープカットの写真を後から撮って貰った
個人の写真をも結構撮った 
三笠宮崇仁殿下(とても庶民的な人) 
帰りがけ玄関で宮様が靴ベラを「はい」と言って出してくれた(昭和22年) 
これには本当に吃驚した

石黒啓七 (NHKのトンチ教室) 花森安治 (暮しの手帖を作った方) 
昭和25年初めて写真展を開催する(丸善ギャラリー) タイトル「生きたニュールック」
展示するもの ファッション写真を並べなさいと忠告される 
ファッション写真が溜まっていたので(アメリカの人の写真)
力道山の写真 バーベルを上げる写真を撮る  
写真嫌いの人に対しては大変だった  三木 武吉 室生犀星 丁寧にお願いするしかない

三木 武吉 6時間待たされた(8時に行って) 部屋での写真を撮ってもらう様に依頼 
庭での写真も撮る (おれは女に弱いんだ 写真撮影を聞き入れてくれる)
雑誌社に渡すのにネガもと渡してしまっていたので無くなってしまったものが多い 
食事は全部自分で作る、 
ラジオ英会話、ラジオ体操 朝食を食べる 夜は肉、醤油味の日本料理 サラダ 赤ワイン  報道カメラマンとしてやってゆく一番大事なことは→頭 好奇心  
目立たないけどいい仕事をしている方を発見して取材したい

2011年9月17日土曜日

中島哲円(妙通寺住職 69歳)  ・若狭から福島を思う

 中島哲円(妙通寺住職 69歳)    若狭から福島を思う  
15基の原子力発電所が集中している 
関西電力が美浜、大井、高浜に11基 日本原子力発電が敦賀に2基 日本原子力開発機構が敦賀に高速増殖炉もんじゅ,ふげん(廃炉)を持っている  
それらに囲まれている小浜市はこれまで原発や使用済み核燃料中間貯蔵施設野設置を住民の意志で拒否してきました   
小浜市は原発からの脱却を求める意見書を全会一致で可決した  
国に対してエネルギー政策の抜本的な転換を図り期限を定めて原発から脱却することを求めている

福島は東の原発銀座 10基 若狭は西の原発銀座 決してよそ事ではなかった 判りすぎるほど判るような気持ちを抱いていた 非常に心を痛めている 
鳩ぽッぽ通信 原発反対小浜市民の機関紙 2010年10月号 もし101回目にオオカミが来たらうそつき少年の世評を得る どうやら原発の森のど真ん中に,凶暴なオオカミが住んでいる事は本当らしいし、平和な原発の内部に悪魔が隠れ潜んでいることも間違いないようだ  
だからこそ辺境の地に原発は作られてきたのではなかったか スリーマイルアイランドやチェルノブイリの原発大事故は上記の杞憂が決して無効でなかったことを証明したのではないだろうか

日本の原発は大丈夫という声高な保証は果していかが 加えて日本は地震大国と来ている 
地震の静穏期から動乱期に既に入った事は専門家の指摘を待つまでもなく,私達市民でも直感できる  
それから5カ月で事故が発生してしまい何故世論をかきたて防げなかったのかと、忸怩たる思いがある  
①立地差別 過疎地に原発が設置されてきた  
②被爆管理手帳をもって被爆を条件に働かなければならない そういう人たちによって日本の原発は運転されてきた
③原発の災害弱者は子供たちである事がはっきりした (子供、乳幼児、妊産婦)  
④人間だけが被爆するんじゃなくて大気も水も土も生きとし生けるもの全てが被災
最終的に人類全体に跳ね返ってくる

100万KWの原発が1年間何のトラブルもなしに稼働したとしてもその中は 使用済み核燃料の中には広島原爆1000発分の死の灰と、長崎原爆30発分のプルトニュームが
嫌がおうにも生成されてしまうと云う 40年も前に化学者の講演で聞きました→過疎での建設 インフラ整備との差し替え 用地買収、漁業補償 ・・・等々の誘惑はあった  
小浜市は2度阻止した 日本全体では20数地点が阻止している 
安全に対する説明 →5重の壁で守っているから大丈夫 事故が起こってもすぐに止めて原子炉を冷やすことが出来る 放射能を外に出す事はありません
セシウム137は広島原爆の168倍の量が出てしまっている 報道がある 

使用済み核燃料の説明は→もったいないから再利用しますと云う回答  再処理をしてプルトニュームを取り出し高速増殖炉に利用します
六ヶ所村に使用済み燃料を再処理出来る施設をつくったが、満杯状態になり 青森県陸奥市に施設を作り始める
小浜市も候補地に挙がったが、2004,2008年に阻止をした
若狭湾沿いでの原発事故→1991年2月9日に起こった美浜2号のギロチン破断の事故が一番大きな最初の事故
放射能を含んだ蒸気も噴出 電話が鳴りっぱなし  
長男が放射能なんかで死にたくないよと訴える

もんじゅ建設を止めてほしいと1985年に提訴 第1回目の口頭弁論 4月25日 原告団長 磯辺仁三さんが意見陳述 最初原発賛成だったが、いろいろ視察、本を読んだりして,原発は反対だと訴えた 
弁論の最終で「科学者たちよおごるなかれ」と法廷中に響き渡るような声で一喝をされた 
大拍手→翌日チェルノブイリ原発大事故が起きた  
1995年にもんじゅがナトリウム火災事故を起こす  
水の代わりに液体ナトリウムを使って冷やすやり方 千数百トンという量 配管は薄くないと熱交換効率を考えると駄目

原発で作業する人達の被爆実態は→80年代当初からの現場の生の声は聞いている 
被爆労働者を束ねている親方 経営者の方は新聞等に断片的に出ている
2009年のデータですが、13基の原発の中で正社員として働いてきた人はトータルで2300人 
下請け、孫請け、4次、5次の前近代的な下請け構造で成り立っている
下請け被爆労働者は18604人いた 
一定程度放射線を浴びてはいけないと云う基準を越えてしまうと下請けの被爆労働は出来なくなってしまう 使い捨てられる
40年間での累計は被爆管理手帳を持って働いている労働者の数は去年の3月末現在で45万人を突破した

今度の事故で1万人は居るのではないか  
既に45万人の中には国の外郭団体がやっている疫学調査の中でもすでに2000~3000人の人が亡くなっている
但し因果関係は認められてはいない 
白血病、癌で亡くなっているが直接、間接には効いている 
公的には因果関係は認められない状態
これからどういう方向で行けばよいのか→エネルギーの転換を考える前に 大量生産、大量輸送、大量消費、大量廃棄・・・に安住してきた私達の生活スタイルを見直す必要がある

省エネ、節電を基礎に置かなければならないと思う  
そのうえでどういう発電方法、やエネルギーに私達は頼って行けばいいのか 
エネルギーの代替え案というものを議論する
原発の廃炉を如何してゆくのか 
原発が生み出した大量の放射性廃棄物どう処理し、管理し、処分してゆくのか 
これは当然コストを必要としている
核の後始末をコストの面でも保証してゆくことが大事 
戦後科学技術立国を目指したが(文明開化の延長戦上)  
富国強兵→経済大国 (軍隊の復活強化) 戦後の光と影というものを見定める必要があると思われる 

影の部分の行きついた処が福島第一原発事故であるように感じる
もし地球の生命環境を私達の子供や孫たちに引き渡したいのであれば、その道はただ一つ 小欲知足しかありません・・・科学者の小出さんが言っている
まさに仏教の言葉 
小欲・・・自分から自発的に欲を抑制してゆく 
他者、社会にも負担や犠牲を強いないで済むことになる  
自然環境とも相い和してゆく  そういう事に繋がってゆく
そして人間としての本当の満足が得られてゆくのではないのだろうか

2011年9月16日金曜日

乙武洋匡(作家)         ・東日本大震災

 乙武洋匡(ひろさだ、作家)    東日本大震災  
先天性四肢切断 早稲田大学政治経済学部卒業  「五体不満足」
5月、7月に仙台への訪問 衝撃は半年を過ぎ、薄れてきてはいる 
被災した家に4か月振りに戻って我が家の跡地を見た・・・ようやく振り返ってばかりいても駄目だと、前を見ることが出来るようになった
僕は被災当日 都内で音楽の演奏をしていた 
揺れが激しくなって100kg車椅子で今まで倒れることはなかったが、倒れてしまうのではないかと思った
5階だったので エレベーターが止まってしまっており、階段から友人たちが抱え降ろしてくれた
家に帰ろうにも1日半帰れなかった
 
バッテリーで車椅子は動いているので大規模な停電があったらどうやって出掛けたり移動したらいいんだろうと思った
息子 2人居て 3歳、0歳 どうやって息子を助け支えられるのか 自分自身を守ることが出来るのか 不安を感じた やっぱり自分は弱者なのかなあ
自分を取り繕った中で、被災者の事を書いてゆくのは ウソになるし 自分の葛藤をさらけ出すことで初めてきちんと伝わるのではないかなあと思う
ツイッターで友人たちがボランティアをしている事を知り、素直に素晴らしい事をしているなあと思う反面、残り半分は悔しいなあという思いがあった

自分が今被災地に行っても、足手まといになるだけだ、何も手助けする事は出来ないという思いがあった
1カ月経って救援物資が行き渡るなるようになって、次に必要なものは何かと考え、被災地の方々がもう一度前を向いて頑張ってゆこうと気持を取り戻してゆく事なのかなあ
そのためのお手伝いなら何か僕にも力になれる事があるんじゃないかと(瓦礫撤去、ヘドロの除去とうはできないけれども)思うようになる・・・4月の中旬
5月の上旬に1週間ほど伺った →報道で現地の様子は入っていたけれど、あまりに現実とかけ離れていたので映画のセットのようにしか捉えられていなかったのが,実際に現地に行ってみると 映像だけでは気付かなかった瓦礫の間に 子供たちが使っていたであろう  
色鉛筆だったり、上履きの片っ方だったり泥にまみれて落ちている
 
そういうのを目にしたときに、やっぱり映画のセットではなくここに生活があり、命が有ったんだなあと実感させられ、胸をしめつけられたのが何度もあった
大河小学校 児童の7割が津波の被害に遭ってしまった 
教員も校長先生ともう一人の先生を除いてみんな被害に遭ってしまった
壁が全部剥がされてしまっているし、鉄筋も曲げられてしまっていた 
中身のヘドロや瓦礫でめちゃめちゃになっていた
綿の葉小学校で授業を担当することになっていた 突然命を失ってしまった無念さ それを胸一杯に受け取ったからこそ生き残った者の責任というものを伝えてゆく
それが今日の授業じゃないかと思った

授業終了後、お母さんが震災後あんな笑顔を見たのは初めてでしたと言ってくれた  
障害者の施設にゆく 東京で体験した時の比ではない もっとしんどい状況で強さだったり、笑いだったり乗り越えようとしている人達がいる 自分でももっとやれると思う
受け入れる大切さなのか 障害のある人とない人との関係と、被災した事のある人とない人との関係って似ている部分があると感じた
障害の無い人は障害を持った人に対して可哀そうだ、何かお手伝いしたいなと思っても何をしたらいいのか判らないし、下手に何かをしたり言葉をかけることによって,却って傷つけてしまったらどうしようと臆病になってしまう面がある
 
被災してない人が被災地の方々に対しての思いと似ていて何かして差し上げたい、何をしたらいいんだろう 下手に何かして傷つけたらどうしようとか
凄くそういう空気が日本中にあったと思う  なんかそれに似ているなと気付く 
僕は普段自分を見た方から「感動しました」とか「頑張ろうと思いました」という言葉をかけられても僕は普通にやってるだけなんだけれどもなあという思いでいた
処が僕は今回被災地で前向きに頑張っている方々の取り組み、活動を見て凄く励まされたり、勇気付けられたりして、でも彼らは僕らを感動させるためにやっているのではなく,自分の為、自分の家族の為に自分の街の為にもう一度頑張ろうと思ってやっていて、それを見て僕たちが勝手に心を動かされている  

もしかしたら皆さんが僕を見て感動しましたとか凄いですねって言って下さったのはこういう気持ちだったのか知れないなと初めて気が付く事が出来たんです
楽天イーグルスの開会式に始球式をする事になるが、いろいろ案が出たが自分で投げさして下さいと云った この事に自分自身驚いている
僕はちっちゃい頃から皆さんと同じことをしただけで、褒められると云う事が多かった(例えば歩く、食べる、字を書く)
あっそうか障害者だからなにも出来ないという前提があるから褒められるんだなと思う 褒められて居ながらどこかで馬鹿にされている様なそんな気持ちも多少あった
持ち前の負けず嫌いと相まって みんなと同じだけじゃ自分は満足できない みんなよりも旨く、上手にやりたいと云う気持ちが凄く強かった

始球式で自分が投げると云うのはその延長線上にあると思う そうするとみんなが凄いと褒めてくれるんだろうな・・・それは自分自身では余り良い感情ではないと思う
それでも僕に投げさして下さいと云ったのは、優先すべきは僕の感情ではなくて、それを被災地の方々がどう受け取って下さるか、それが大事なことなのではないかと思う
僕がボールを投げる姿を見て あーっ乙武さんも手や足を失って生まれてきたけれども、残された部分を使ってああやってボールを投げるんだと,私達も震災で失ったもんはあまりに大きいけれども、この残された命と残された人達との繋がり生かしてもう一度頑張って行こうと一人でも二人でもそんな気持ちになって下されたら、是非自分にやらして下さいとそんな気持ちになれた
 
始球式はほっぺたと短い左腕の間にボールを挟み、上半身を思いっきり後ろにひねるような形にして、反動を付けて大きく前に身体を倒す 
それと同時にボールを放すと,ボールが投げられるんですけれども、想像していた以上に皆さんは受け取って下さったみたいです  
最初どよめきが起こって、本当に温かな拍手で包んで下さった 
同情での拍手でなくそのボールしっかり受け取ったよという風に僕自身は受け取った
「みんな違ってみんないい」・・・鈴木みすずの詩
僕は炊き出しが出来ない、瓦礫の撤去が出来ない、皆と同じような肉体を使ったボランティア、支援はできないと云う事に苦しさを感じていたが ,その後1カ月考えに考えてこれなら自分にもできるかも知れない という事で石巻小学校の特別授業であったり、始球式であったり僕なりの出来ることをさせて頂いた
 
支援の仕方もいろいろあっていいと思えた
何かをしなければと思うとそれに潰されてしまう 
何かを見つけるにはまず自分としっかり見つめ合い、自分のいいところ、得意な事をしっかり見つめる
それと同時に自分に出来ない事、苦手な事を見つめてゆくと云う事が大事なのかなあと思う 人との繋がりが如何に大切で人生を豊かにするものという事に気付いた人が多かったんじゃないかと思う  
被災してない人間でも矢張り自分の価値観や人生における優先順位を考え直す機会になったと思うし、実際に大きな被害に遭われた方であれば,人と人との繋がりの温かみ、有難味を感じた
と思いますし、現代社会は人と人との繋がりが失われつつあるという警鐘が鳴らされていた今だからこそ,矢張り今回の震災を機にもう一度その素晴らしさ、人間は決して一人では生きていけないし、一人で生きて行こうとしたってつまらないものだよねと再確認する
 
そんな機会に出来たらいいなと思ってます
復興に向けての活動は→一つは届ける もう一つは持ち帰る  
この二つが出来たらいいなと思っている
ツイッター等を通じて国内、海外から一杯僕の元に寄せられていて.皆が思っていますよと被災地に行って伝える・・・届ける作業
現地は今どんな状況で人々はどんな事を感じ、どんな事を伝えてもらいたと願っているのか、そのメッセージをしっかりと受け止めてまた僕が発信してゆく・・・持ち帰る作業
この二つを継続的に出来たらいいなと思う

2011年9月15日木曜日

片田敏孝(群馬大学大学院教授)  ・防災教育

 片田敏孝(群馬大学大学院教授)    防災教育  
子供への防災教育 岩手県の釜石市の小、中学生に8年前から教えてきた
教えてきた核となるもの→どんな津波が来ても兎に角逃げると云う事 それしかできない 
それに徹してきた
中学生は守られる立場ではなく、守ってあげる立場だ (近くの小学生やお年寄り)
3/11の津波では本当に多くの小学生を救ってくれたし、お年寄りや保育園の子供を連れて逃げてくれた 中学生が救った命はおおいと思う
津浪警報、避難勧告がでても逃げないと云う事が何時も報道される 
おかしな状況だなと思っていた
日本の防災というのはあまりにも行政主体でおこなわれてきた 
防災人任せ、防災行政任せみたいなところがある 

他人任せみたいになってしまったのが日本の防災なんですね (堤防は作ってくれる等)
子供たちはそのような環境の中で育ってきたので自分の命は自分で守るということが徹底できていない
子供たちに言ってきたのは 
①想定を信じるな 具体的に言うとハザードマップ(明治三陸津浪を想定)から自分の家は大丈夫と   思っているかも知れないが
 それより大きな津波が来たらどうするの というとあーそうかと納得する
②いかなる状況においても君はそのなかで最善を尽くすんだ(相手は自然 どのように変化するか判らない 固定的な考えで居ると対抗の固定化を招いてしまう)
 最善を尽くしても死んでしまうかも知れない それは仕方のない事だ
③率先避難者たれ 誰よりも真っ先に避難せよ 疑心暗鬼の状態の中でまさか自分はそんな状況に置かれているはずはないと思いながら不安定な状況にある
 そんな中で一番最初に堰を切ったように走り始める 誰かが逃げ始めると付いて行っちゃう (集団同調) 

 率先避難者になることによって自分が助かると同時に皆を助けることが出来る
 倫理観に反するのでは→ 自分が助からないと人を助けることはできない
学年をまたいで教えることは非常に難しい 
小学校1年生向きに優しい言葉でしゃべると6年生等は面白くなさそうにする 
6年生を対象に話すと低学年は付いてこれない
中学生になってくると 人間てなかなか逃げられない 逃げられない自分を教える
 14校3000人に教えることが出来ないので先生の協力を仰ぐ
学年進行に伴う教え方について相談した  
小学低学年 中学年 高学年 中学生の4グループに分けて相応の教育内容にする

防災教育に時間があまり取れないので、先生たちに工夫してもらい、各教科のなかで少し取入れて展開してもらった
最初8年より前に大人を対象に講演をしていたが、同じ人しか来ない(防災意識の高い人しか来ない)
大人より子供に教育した方がいいと判断してその後は子供対象の防災教育へと変更した・・・子供には7年間防災教育をした
当日は八戸で防災の講演会をしていた 
携帯電話の緊急地震速報が一斉に鳴り響いた 
初期微動が長いと遠いい 短いと震源地が近いので測ってみようとした
 いきなりドドドーンときたのでただ事ではないと感じた

もしリヤカーでお年寄りを助けるような行動をしていたら助からないだろうなとTV画面を見ながら思った (リヤカーでの教育訓練もしていた)
逃げていてくれ まずは自分の命だろうと 画面を見ながら思った
14日NHKの番組の後、釜石に入った かなり内陸でも跡形もなく破壊されている 
どう考えても子供たちは多く残っていないはずだと思った
市の災害対策本部に入る 何とお詫びしようかと考えていた 
初代防災課長が飛んできて開口一番「先生 ありがとう」と言ってくれた

釜石の子供たちはみんな生き残りましたと言われた 
これまで50年生きてきたが一番嬉しかった情報です
後でわかったが休んでいた子供含め5人の子供が亡くなった
期待以上の事をやっていた 
ハザードマップでは大丈夫な学校でも避難警報が鳴る前に、先生から指示されるまでもなく、揺れている中、一目散に逃げている
最初に逃げたのは指定避難場所 「津波がくるぞーと学校に叫びながら」 近くの小学校にも声をかける 
小学校の先生は生徒を3階に避難させていたが,中学生の声に従い(合同避難訓練を実施していた)中学生と一緒に逃げた
 
最初の避難場所の崖が崩れているのが判り 一段高いところに市の避難場所があるのでそこに逃げようと提案したのも中学生だった
小学生の手をひいて新たな避難場所に向かうが、中途でお年寄りや幼稚園の人々に会い一緒に逃げる
大人に拡げてゆくためには→ 難しい 子供に教える事の副次効果として お母さん(普段時間がなく防災教育を受ける機会がない) 伝える手段 家庭に拡げる
もし君が家に一人でいるときに、大きな地震がありました 
君ならどうする→お母さんに連絡するが大半→家に持って帰らせた→保護者の方へと文を付けくわえた
 
「御自身の御子さんの回答を見てみてください 貴方の御子さんは次の津波の時に生きることの出来るお子さんですか?」→学校の電話が一杯鳴る→学校の防災教育はどうなっているのか 
お母さんと共闘態勢を持って子供たちを守りましょうと云うプロジェクトが立ち上がったようなもの子供が学校に居るのは高々20% 80%は家庭にいる  
連携しなければ子供の命は守れない 家庭の防災に力を入れた  地域にも広げる 
今後津浪が来るであろうと思われている 東海、 東南海  静岡県下では5分で全地域に津波が来てしまう 
愛知、三重 和歌山 徳島 高知 津浪危険地域に足を運びたい  
釜石に学ぶべき点は、反省点はどこかを実直に話をして間違いを繰り返すな   
成功した部分は学べ より多く展開したい

2011年9月14日水曜日

桑山紀彦(代表理事)       ・国際ボランティアが被災者となって2

桑山紀彦(「地球のステージ」代表理事)  ・国際ボランティアが被災者となって
知らないひとからもメールやら手紙やら電話やら励ましがあり吃驚した
カナダから最初の支援がある カンボジア(今まで日本にお世話になったと、食事を削って救援資金
を送って来てくれた)、アメリカ
2年前からカナダとは公演活動をしており 国際クリニックを応援しようと立ち上がってくれました
熱い思いが直接伝わってきた  お互いの協力関係で成り立っていると思う  
カンボジアは我々に協力する
 
我々もそれをカンボジアに還して日本も復興に頑張ってるから
みんなも頑張ろうねとやり取りがあったとおもう まさに国際協力が今回も成り立ったんだと思います
こうやって人間て支えられ、支え合う 人間の本来の姿なんだなあと思いました 
どちらかが一方的に支えるだけと云うのはおかしい 
世界中が支え合っているいるんだと言う事が身近に感じることができた大切なきっかけだったとおもう
国内の問題と世界の問題は同時進行だと思う 地球は一つであり 世界は一つですから
 いろんなところで起きている問題に皆が一様に関心を持つことが大事
思いが同じであれば同時進行で良いと思う ある人はアフリカに、カンボジアにある人は名取に
でいいと思う 思いは同じですから

震災に協力することも大事だし世界に目を向けることも今だからこそ逆に大事なんだとおもいます
地球のステージ3月下旬に再開 今までは海外の支援が終わって作品にしていた 
今は現在進行形 いま語っている内容は来月には変わるかもしれない
良い方向かもしれないし、悪い方向かも知れない 
そして今語っているのは僕がいるその場所の事 非常に迷いもあるし、辛さもある
本当の事を現場から発信してゆく時期に来ていると思うので、皆さんにとってあの震災、津波は
何だったのかな 

それを考えるきっかけになればなと思ってステージ展開している
地球のステージでは名取の個人に絞って紹介しているが狙いは→人がどう苦しみ、どう越えてゆく
のかちゃんと具体的に知ってほしいと思った
許可を得て一人一人の復活の物語を伝えさせてもらっている 
特に僕が感銘を受けたのは漁師のふとしさんでした
太さんは親爺さんから船を受け継いで、2代目の漁師さんなのです 
だけど彼の船は津浪で流されてしまって、5kmやまの方に流されてしまった 
家も流された   僕が船を見に行ったら治せるんじゃないかと思った
当人に進言したがとてもそのような気持ちに成れないと云う 信じていた海に裏切られた
 悔しいという

自然の災害だからしょうがないとおもってきたけど本当に俺は悔しいんだと言うんですね  
太さん今悔しいといったよね その言葉を見逃さなくて
じゃあ太さん 悔しいと云う気持ちを忘れないでねと念を押す 
ある時を境に「俺 船を直す事に決めた」という 
もう一回あの穴を塞いで海に出てもう一回漁をやるんだと云いだしたんです 
確かに全てを奪っていった海だけど、いろんな事を与えてくれていた恵みの海だと云う事に気付け
たと思う  一度諦めたけどもう一回考え直してみたら
諦め無い気持ちが出来てきた太さんに教えられたし こんな人に成りたい
こんな風に復活したいと思った

食堂のお兄ちゃんの場合→食堂を失い、大切な彼女を失い、途方に暮れていた隆さんなんです
けれども、失った食堂跡から、
彼女からプレゼントしてもらった腕時計を発見 それが何と4か月間動き続けていたんです
 7月11日 ちょうど4カ月目に見つけた 動いている事の奇跡 これは天国に行った彼女から
もう一回プレゼントされたものだと
もう一回元気出して、もう一回人生を復活させようと彼は思えた 
たった一個の時計が人生をかえてゆく そんなドラマが被災地で起き上がっている
そんなことを伝えることによってやっぱり人間は強い生き物だ、諦めなければ必ず未来がやってくる
んだと云う事を感じてほしい

ステージでそのようなことを伝える事によって、今へこんでいる人や、もういいやと言って諦めかけ
ている人に そうか被災地でそんな事が起きているか
じゃあ俺もがんばんなきゃあ と思ってもらえればどんなにいいかな そう思って伝えるようにしている
痛みに耐えながらそれを伝えることがやっぱり僕たちの仕事だなと思うので、苦しい時も多いのですが、 
これが本当の被災地の姿ですとステージをいろんなところで開催出来ればと思う
震災から半年が過ぎて少しずつ記憶が薄れたり 本当はどうだったんだろうと心の中で整理を付け
たくなっている方がいるとおもうんですね
そんなときに被災地から生の声や音楽そういったものを加えたライブとして伝えてゆくことで皆さんが成るほど今回の震災、津浪は大変だったけどやっぱり人間は強い、皆復活してゆこうとしてるんだとそんな思いとともに納得して
帰って行かれるとおもいます(ライブでの客の感想として)

「君にあいたい」 歌
「歩いた道の数だけ 数えた雲の数だけ人は出会い 又別れ また立ちつくす 流れた風の数だけ
 流した涙の数だけ 
人はすれ違い やがて また人は夢に出会う   瞳閉じれば やがて そこに浮かび上がる
熱い思い乗せて また歩きだし 空より青くて 光を通すもの 海より広くて かけ替えの無い君に
会いたい」
消防車の物語→桜井歩さん 空港の近くで農業と駐車場を営んでいた 消防団員で熱血漢 
夏祭りは何時も汗だくになって地域を盛り上げていた
災害があった時に消防車に乗って2人の消防団員とともに駆け巡っていました 
その2日前の震災時、津波がこなかったのでおじいちゃん、お婆ちゃんが動きたがらない
腰痛、神経痛があるので 一人一人丁寧に説得していて、それで時間を食ってしまって津波に
流されて亡くなってしまいました

歩さんは助手席でマイクを握ったまんまの姿勢で亡くなってました 
歩さん達は人の命を救うために命を投げ出したのではなくてやっぱり誠実に生きようとしたのだと思う
自分に嘘のつけない人だから自分だけ逃げてたら一生後悔する事があの人たちは判っていた 
頑張り続けて踏ん張り過ぎて亡くなったんだと思います
そんな生き方をした人がついそこにいたんだと思うとこの消防車をスクラップにしちゃいかんだろうと思った
私が市役所とかけ合い貰いうけた 痛みがひどく塩水の為腐食が進む 病院の近くに設置する 
息子と友達が清掃する 
息子は津波による遺体、倒壊した建物等の光景を見てショックを受けたとおもう 
高3の彼はそれを見て変わった これは何とかせねばいかんと 
自分にできることは何だろうと あいつなりに考えたとおもう
 
それまで中々目標を見つけにくかった彼が一気にそれに火が付いていろんな事をするようになった
サッカー大会の企画、瓦礫の撤去、消防車の清掃 街を綺麗にしたい 
自分が出来ることは何でも手伝いたいと思うようになった
津浪記念資料館を建設したい 消防車を置きたい 建設目標二つの大きな意味がある  
①人々が自分の受けた被害をきちんと物語に出来る為の資料を提供する事
  被害を受けた人達はあまりに大きなショックを受けているので記憶が一部かけてしまう 
 記憶がかけているとそこが何時までも
  キズが原因になって 夜悪夢を見たりフラッシュバックに襲われる 

  記憶をつなげる事によってそれが無くなる  人に語れるようになる 
  そうすると心の中に整理が出来てもう二度と苦しいトラウマの記憶にさいなまれることがなくなる
  言われている
  そのための資料を提供したいんです だからこれは治療の為の記念館なんです
 治療の為の記念館です まったく今までのコンセプトと違う 
②物語を完成した人は誰かに聞いてもらいたくなる 奉納する事によって重荷を下ろす
  誰かが受け止めなければならない 受け止める役割が資料館なんです 絵として書いてみた、
  焼き物として創ってみた、詩に書いてみた、 受け入れる

 日々資料は増えてゆくはずです 膨大な人々の物語がそこに蓄積されてゆく  
 そしていつでも引き出せてそれを聞いた人が次に又自分の物語りを語ってゆけるそんな生きた
 ライブの資料館を考えている 
精神科医としての仕事がそうさせたのでは→正にその通りで患者さんに教えてもらった 
語れなくて苦しい人に聞いてみるとどうもあの時間の記憶が抜けているとかあのあとが思い
だせないと言っている
 写真とかを見せれば思いだすのかなあと思った 形にしたらビデオにしたら周りに見せられる 
患者さんからのヒントでした

心の傷の病は記憶の病と言われている 記憶が欠損してしまう事によって人々はトラウマに苦しむ 
だったらその記憶を蘇らせてつなぎ合わせ物語にして奉納する
この一連の過程をこの記念資料館が可能にすることによって人々が癒されてゆく 
そんなイメージが僕らの資料館の役割です  
ある人は云うかもしれない 寝た子を起こすなと 忘れてるんだから思い出させるなと しかし 
大きな間違いです 
無理やり蓋をしてしまっているから悪夢に苦しむ

ちゃんと引っ張り出して時系列に並べて語る事によって心の引き出しに入れる事が出来る  
そうやって人々は心の傷から解放される 
臭いものには蓋 諺はあるが その時は臭いは一瞬無くなると思われるが、中では腐敗が進んでいる  
膿になる ジクジクと 全身を蝕んでゆく 
そうさせない為に絆創膏を剥がし、膿を絞り出し、消毒をする 心の傷も同じです
津波の被災者の皆さんの為の資料館なのです 
心の傷はなにも震災によってだけではない 家庭内の暴力、犯罪の被害、さまざまなもとで人間は
心に傷を受ける そのひとたちにも来ていただきたい
そして語って物語にして奉納する言う事はどういう事か判っていただけたら それまで口をつぐんで
いた暴力の被害者の方が「よし 私もちゃんと語ろう 

そして心の傷をちゃんと癒そう」と勇気を得ることを期待している 心の傷は人間にとって普遍的
ものになっている
語るべき時が来た時には何時でも来て下さい(人によって語るべき時期はちがう) 
資金的な処で現在止まっている 市も宮城県も国もそろそろこういう話も出てきている 
ばらばらにやるのではなくてコンセプトは私達が、資金は公的なものそんなかたちでもいいと思います
募金活動も始まっている 必ず実現したいと思っている 
治療ベースにした資料館なので東北国際クリニックの近くに作りたい
見て見ぬふりはしたくない(目の前でずぶぬれのお婆ちゃんが居たら自分がどんなに疲れていても
 やっぱり人間として大丈夫ですかと一声かけたい)    
自分には嘘をつきたくないので  目の前のお婆ちゃんが「いかった いかった」と云ってもらえたら
どんなにいいかなと ただそれだけでやってきました 

今回の震災は目の前にいる人に自分は何ができるのか試されるとても大切なきっかけだったと
おもいます
そんな中で一人では無理だけど仲間と一緒だったら何とかなると教えてもらったし、人々の心に
寄り添って共感する 同感するってどういう事なのか
学ばしてもらったので これからの国際支援に活かしていけたらなと思っています
人間は困難に出会って試され、より一層強くなる生き物なんだなあと思う 
仲間が増えて絆が深まり、本当に知り合いが沢山増えました 
悪い事ばかりじゃない 失った事ばかりじゃない 得たものも沢山あるなあって最近特に思う 
津浪なんてこないに越したことはないけれども 来たらきたでその後いろんなものが 
増えていったな 前向きになれたなとつくずく思います
人間て困難が来たらじっと耐えながら きっとこれに意味があるぞと信じてゆけば やがて
プラスに転じる事が出来るものなんだと改めて思いました

2011年9月13日火曜日

桑山紀彦(代表理事)       ・国際ボランティアが被災者となって

桑山紀彦(NPO法人地球ステージ代表、精神科医) 国際ボランティアが被災者となって
<概要>
宮城県名取市在住 岐阜県出身の48歳 山形県で勤務医のかたわら 国際ボランティア活動を続けて
2年前に宮城県名取市に移り 開業しました
医師としての仕事の傍ら国際ボランティアとして世界各国の紛争地や災害現場に緊急支援活動等を
行い 訪れた国は50カ国を超えます
ギターの弾き語りが得意だった桑山さんがいま力を入れているのは海外で撮影したビデオヤやスライド
を上映しながら自ら作曲した歌をトークとともに伝えるステージ活動です
10年前にはNPO法人地球のステージを発足させてこれまでに全国の学校、公民館などで約2400回
も開いています

そんな桑山さんを襲ったのが3月11日の東日本大震災 病院では地震の発生直後から住民の
治療に追われました 
桑山さんは大震災編としてステージで伝える一方で津浪記念資料館を開設する構想も進めている 
国際ボランティアとして活躍してきた桑山さんが被災者となって感じた事、又今年半年の活動を語る
JICA 埼玉県で公演中に大地震に会う 偶然レンタカーを借りていたのですぐさま故郷の宮城に
向かう 高速道路が不通の為ナビを駆使して裏道を行く
9時間かけて午前1時にようやく名取に着きました 日本中が停電している様な状況  
これは大変な事になったと戦慄した
事務局が水浸しなので津波が来たことが判った 
中途でラジオを聞いて一番ショックだったのは仙台市若林区で100~200の遺体が発見されたと
云うあのニュースには涙が止まりませんでした
号泣しながら車を運転したのを今でも思い出します 我が名取市に及んでいるとは知らなかった
3月9日にも大きな地震があったが津浪は50cm程度だった
 
仙台平野の海岸にまさか津波は来るとは全く予想していませんでした  
東北国際クリニックあたりも全部停電状態 ゴーストタウン状態 だった
病院にたどり着く 幸い建物は崩壊していなかった 
副院長始めスタッフの人達は近くの小学校に避難していてそこで再開することが出来た
(時々携帯が繋がり判る)
停電による情報の寸断がこんなに恐ろしいものとは思わなかった  
5つクリニックがあったが3つは倒壊、1つは水没 うちのクリニックだけ助かった 
床下まで浸水(ちょっと高い位置に有った) 
翌朝は天気がよく瓦礫の山に愕然とする

これで病院経営もステージに立つことも無くなり、明日から如何していこうかと途方にくれた 
自分に未来はないとあの朝思ったのを忘れられない
一人じゃ無理だけど副院長はじめスタッフが固まっているのを見て、この人たちと一緒に立ち上がれ
ばなんとかなるかも知れないと思った
この人たちとやれるところまでやってみようかな 2時間ぐらいしたら不思議と思えてきた
3/12朝の9時に病院を開ける 電気、水の無い中でやれるかどうか不安だった 
どっと患者さんが来た ずぶぬれの患者さんが  野戦病院のような感じだった
「よかったー  あいてたー」と言われた 開けててよかったなーとつくづく感じた 
これが病院の役割だとあのとき感じた 

自分が開業した病院が人々に頼ってもらえる そんな病院に成れたんだと思ったら
経営できるかどうかなんて吹き飛んだ とにかくこの人たちの為にやれる精一杯の事をやろうと
スコーンと思えた あの逆転劇は凄かった
漁師の方がいらっして「いやー先生 俺ーっ泣いてもいいかーっ ここで泣いてもいいかーっ」 って
言うんですよ 「どうぞ どうぞ 泣いてください」
「先生 俺よーっ 船もみんな失ったんだ 家もなんにもねー だけどよー この病院開いてて
よかったーっ 俺ここで泣いていいか―っ」 2人で泣きました
その時お互い支え合うと云うのが判って、僕は其の漁師の親爺さんにこの人に元気になって貰う為
だったら、24時間寝ないで頑張っちゃおうと思ったし
おっちゃんはクリニックが開いて居て良かったと思ったんでしょうね 

その瞬間お互いが支え合えればあんな悲惨な出来事も乗り切れるかしれないなあと思った
最初の一週間は内科と外科と小児科が中心だった 薬の供給元もしまっていたので在庫しかない 
在庫量を把握してどのように量を調整するか しのいできた
停電、断水、制限された薬 その中で人間いろいろと智慧が出てくる 工夫する  
2日目から発電機を借りてくる 薬を作る機械をうごかした 
小、中、高校といい思い出がなく、自分に対するコンプレックスが酷くて日本に居場所がないと思っていた 
20歳のときに初めてインドにアルバイトで貯めた金で放浪の旅を続けていました
ひょんなことでフィリピンに行ってロヤナスという女の子と出会ってどんな環境の中で暮らしている人でも
友達になれると教えてもらった

それが国際ボランティアのきっかけで後はもう怒涛のようにいろんな世界に行かして貰いました
お世話になったフィリピンの国から 女の人達が山形にお嫁さんに来ていた 
海外でボランティアするのも大事だけれど自分の暮らしている処で外国の方に
サービスするのも同じ事だろうと思って日本語教室を開いたりだとか多文化交流のイベントをやったり
していました   
医療ボランティアとしてはカンボジアとかパレスチナのガザとかそういった方にも行くようになる 
カンボジアは僕にとって本格的に活動するきっかけになった国でもありますし、
内戦が抜けてようやく復興に向けたカンボジアで病院を立て直すという仕事をしていました
パレシチナのガザ地区では戦闘状態の日々ですから子供たちの心の傷が心配で心のケアを今も続け
ています  あっという間に10年近くなっている

最近多いのが東ティモール 数年前に独立をした中でまだ経済的には難しい 
人の命を守る為の保険医療を中心にパイロクテ病院というところの支援とやまの中に入って行って
お母さんや子供たちの健康を維持するためのプログラムを続けています
何が自分にできるかというのがスタートだったのですが、世界というのは人と人との繋がりによって
支えられていると
思いますのでボランティアはプレゼントの交換会みたいなものですからね
プレゼントしている様でプレゼントを貰ってたりして途上国での活動が多くなってきました
2年前まで山形で勤務医をしながら国際ボランティアをし、それから地球のステージと云う音楽活動も
して忙しかったが
2年前に山形から宮城県の名取市に移った →国際ボランティアの活動や音楽活動が忙しくなって
病院にあまり居られなく 本当に申し訳ないと思った

自分がやりたい事を見つけてたのであれば自分の責任は自分で取ろうと開業医の道を選びました
名取を選んだのは音楽活動が多かったのと仙台空港、仙台駅が近かったから 
一階がクリニック、二階が地球のステージの事務局になっている 地震と津波に出合ってしまった 
ある意味運命かも知れない 
津浪が襲ってきたことをいつまでも後悔する
のではなくそれを転じてなにかプラスに変えていかなければいけないなと最近思えるようになってきた
毎日3つ落ち込んでは2つ元気を貰ってたからなんか後ろ向きになっていた 
本当に少しでも前を見るのが怖くって明日や明後日を想像するのは恐ろしくてできなかった
大震災後、足元ばかり見ていて 今日を生きることに精一杯で明日の事を考えることが不安で
出来なかった 

多くのショックを受けた理由の一つが名取市には沢山の友人、知人が出来て、かなり大勢の方を
なくしてしまった 患者さんだけで28人失う 友達も6人失う
これからだと思った矢先に多くのものを失って正直言うと心底落ち込んだ 
特に津波が恐ろしいなと思ったのは面で襲ってくる 全てを破壊してしまう 
 大切な記録も歴史も面で持っていかれてしまうので取り返しのつかないような気持ちになってしまう
救済者から被災者になってしまって感じたこと→本当に心の落ち込みがひどいものだと云う事が
自分でも良くわかりました
どう頑張っていいか判らない人間に「頑張って」と声かけたらやっぱり良くないんだなと自分でも
体感しました
でもある時期を越えると「頑張って」と声をかけられた時に「はい 自分なりに頑張ってみます」そんな
風に言える心の変化がようく判りました

1週間単位で、1カ月単位で心がどう復活してゆくのか自分の復活とともにそれを理解していけて
よかったと今は思います
「この国へ」 震災の歌
住民たちへの心のケア→最初の3週間は精神医療は必要なかった 3週間目から心の問題を抱えた
人がどっと多くなった
殆どが失ったものに対する落ち込みと将来に対する不安 判りやすい内容ではあるが私達は対峙
してゆかなければならなくなった 
その時に思ったのはそれは理屈ではない 一緒に泣こうと云う事でした 
同じ目線で付きそう、寄り添うそれが心のケアにとって一番大切なことなのだと思いました
その人の心にどう寄り添えるのか、寄り添えるのであれば一緒に泣いてもいいじゃないか 
僕にとっては大発見だった 

何も語らない ただおいおいと泣くだけです 2人で  その後にすっきりした顔をされた患者さんが
帰って行くのを見てこれで良いのだろうと思った
矢張り人間はすこしでも自分の事を判ってくれる人を探しているのだと思う   
僕自身も沢山癒されました
一緒に泣く事で僕自身の心も軽くなった覚えがある 
被災2週間後に子供サッカーを開催 どのようにして出来たのか→大人の人は泣いたりして感情を
表現出来るんですよね
子供たちは避難所を回っていると元気っぽく見える 逆に心配になって
「おいおい みんな大丈夫か 本当は泣きたくないか 他にもっと言いたい事があるんじゃないか」と思った
これはスポーツだろうと スポーツで一杯発散して 勝った、負けたで涙を流したらきっと、彼らの心の
ある部分心が軽くなるんじゃないかなと思った

無理やりだけど話したらやろうやろう言う事になりうちのスタッフ中心に第1回のサッカー大会が
実現出来た  やれてよかったなあと思う
インターネットでの情報交換 ブログを書くと20も30も書き込みが有って 「あーっみんな 見守ってて
くれる」と思うと俄然元気が出てくる
やっぱり人間は人間によって支えられているんだなとつくづく思った 
国際ボランティアの人達からの応援もあった お前たちを休ませたいから来たんだ 
お前ら夜の当直は俺に任せろ 
(第一線でバリバリやりたかったに違いないが)クリニックの方と避難所回りで休む間もない 
仲間と一緒になんとか、やれたなあという充実感が日々を支えていたように思う
ボランティアの経験が大いに活かせた あるもので勝負 あるもののなかで自分たちが何をどう出来る
か 考えて行動に移す 諦めない気持ち
3月下旬 地球のステージ 作品を作って話す 
スリランカの津波の救援に行った時の歌

2011年9月12日月曜日

藤田俊彦(49歳)        ・石巻市復興を考える市民の会

藤田俊彦(49歳)           石巻市復興を考える市民の会  
退職して医者になるために勉強して離島の医者になるのが夢であった 
受験勉強を開始していた  3/11は受験の為の勉強中だった
まず「ズドン」という下からの突き上げが有った
 ロディオにまたがったような感じの揺れが襲ってきて亀の子のようにしているのがやっとだった  揺れは2分間ぐらい続いた
母は1階に下り、2階に上がるように声をかけたが、家具等が散乱して足の踏み場がない状態で上がれず、荷物をかたずけていた
叔母が買い物から帰って来て家の中に入ろうとするが散乱物があるために玄関、お勝手の戸口を空けることが出来なかった

玄関は一部透明なアクリルで出来ていたため外の風景が見る事が出来、そこで4トントラックが、瓦礫が、人が流されて行くのを目撃
すぐに瓦礫とともに海水が家の中に侵入、階段部分に居たので水に押し上げられる 
呼吸が出来る状態だったので、もぐったりして母親と叔母を探した
自分の家族がいない 
小金浜は3mぐらいの水位があり3/14ごろから徐々に水がひき始めた 
胸のあたりにまでなったので2階から飛び降りた
この地域は警察も自衛隊もレスキュー隊も来れない状況だった
 
2階にはお年寄りが居ることは判っていたので自分しかないと思いボランティア活動へと行動する
被災して自宅で避難した頑張っている人達がこの地区は多い 
小学校の体育館等で避難している人達に対してはメディアも注目して全国の人達が支援物資を送ってくれる
自宅で被災生活をしている避難住民に対してはボランティア団体も来ないし、メディアの皆さんも来てくれなかった 
小金浜会館を拠点にして道路でボランティアの人たちに対して声をかけて呼び寄せた 
トラックに立ちはだかり止めて物資を分けてくれるように交渉したらようやく対応
100人以上の人が物資に群がり運んできた人達にも事の重大さに理解、帰ったら対応策を考えてくれる事になる 

それから徐々にボランティアが来てくれるようになる
どんな相談でも対応するように活動を開始する 
小金浜会館も建物を改修しなくてはいけないような状況なので行政に依頼したが行政の建物ではないので対応できないと云われる
金がないのであれば何とか知恵で解決できないものかと鉄筋3~4階の建物の建設を考えた 
従来と同規模では又津波が来た時には元の木阿弥になってしまう
1階は物を販売できるスーパーにしたいと思う 

ある建築家が居る 阪神大震災 建築というのは被害、災害を受けた人達、社会的弱者にこそ建築学はあるべきだとテーマに掲げている
彼のような使命感を持っている建築家はおそらくスポンサーも見つける事が出来る人だと思った
何故新たに小金浜会館を作るのかという必要性、重要性、熱い思い、哲学、使命感を切々と訴えた方がいい 
彼を動かすことが出来れば資金は自然と後ろからくっ付いてくる
ボランティアで来ている人達は結構身分を隠してきてくれている人がいる 
大会社の社長、銀行の取締役 六大学の教授等 その人達がその建築家の先生をしている
だから私が直接折衝しなくても我々がコンタクトしようと言って来ている 
失ったものも大きかったがボランティアの皆さんと巡り合えることによって大きな宝物を得たような気がする
災害時に必要なものは何ですか→水、食べ物、毛布  
圧倒的な大災害の時は人は無力ですから 水、食べ物は喉を通らない 
本当に必要なのは通信手段の確保
携帯電話こそ最上位に位置するライフラインだと思う 
これからは地域に一台衛星携帯電話のようなものを鉄筋3階に設置 電源はソーラー発電による電源確保を主張したい

一つの地域で行政、警察、消防、自衛隊 あるいは中央政府をひっくるめて複数の人間が接触できるパイプを構築しておかないと駄目だと思っている
複数の通信ルートを確保する    全てその土台にあるものは「絆」なんです 
災害に会うとお金は必要ない  何に価値があるかというと「絆」なんです
人間なんて一人では何にもできない 
大きな避難所が2つある 1つはお爺さんの時代から人間関係が強固な処 
そこには有名なお祭りがある
お祭りの実行準備委員会を立ち上げる 
打ち合わせをなんどもなんどもする
 
お祭りを通して相手の事を深く理解する ものの考え方、人柄、特技、
そうするとお祭りは進化してゆく 
そういう事を繰り返した結果 絆がどんどん強固になって行った地域がある 
その地域は震災後数日のうちに自分たちで焚きだしが出来た
もう一つの地域は新興住宅街なんです 
いろんな人が入って来てお話の出来ない地域があった 
そこは最後まで自分たちで焚きだしが出来なかった
どうしてできないのか直接に聞いたことがある
 
あの人は知らない 知らない人にはこれをやって下さいとは言えない 
言っていいかどうかも判断できない
絆を強める魔法が1つだけある 
それはお祭りをする事です 
お祭りは実行準備委員会が必要 どんな地域でもお話し合いをすると絆が強くなる
話し合い、信頼関係、人間関係、相手の人柄と特技が判る