女学校の修学旅行に行くときに、親戚の伯父からイーストマン・コダックの蛇腹 にフィルムを入れ持って行った
林 謙一氏(おはなさんの原作者 毎日新聞の記者)が報道カメラマンになりませんかと勧められる
絵を書いていた 林氏が写真協会をつくる
毎日新聞社会部の林謙一という人が特派員として現地に行き「日本は宣伝戦で立ち後れているから、ぜひ何とかしなくちゃいけない」と会社を辞めて写真協会をつくったところでした
昭和15年戦争真っ只中 写真を見せてもらった(報道写真)
報道写真家になりませんかと云われる 一晩考えた承諾し、事務所に通う
当時女性写真家は居ない
ヒトラーやヒトラーユーゲント、ムッソリーニなどの写真を色々見せてくれました
読売新聞の鬼部長と云われる稲葉さんが来ていて「貴方はカメラマンになりたいと言ったそうですけれどもここは学校でも教習所でもないから,どうしてもなりたいならば、明日からすぐ仕事をしてもらいます
もしそれが出来ないならば他の部署に回してあげますけどどうしますか と云われる
やりたいと思いますと答える (25歳) これが出発となる
最初は都内で撮っていた
3か月後に女性の目で見たシリーズものを作ってみませんかといわれる
芸術家シリーズを始める (主に海外に送る写真 作家の佐多 稲子 絵画の三岸 節子等 ) 最初は親切にしてくれたが(脚立貸してくれたり)、男性と同等に仕事をこなすようになると(戦後)大変な意地悪をされたりする様になる
戦後 本格的な活動を始める
婦人民主新聞刊行にあたり、写真を担当 (新聞記者と同じ様にイベントをとる)
マッカーサーの写真 女性解放でデモの先頭に立っている女性の写真
バラックの家、女の人はもんぺ姿、 メード学校(進駐軍が来て住み込みではたらく女性の為の学校 英会話、ベットメーキング、料理等習いに行った学校)
芸妓学校(大阪 道頓堀 芸妓が逆立ちしている写真 英会話 社交ダンス等)の写真
マッカーサーに声をかけてはいけないのに声をかけてしまった
テープカットの写真を後から撮って貰った
個人の写真をも結構撮った
三笠宮崇仁殿下(とても庶民的な人)
帰りがけ玄関で宮様が靴ベラを「はい」と言って出してくれた(昭和22年)
これには本当に吃驚した
石黒啓七 (NHKのトンチ教室) 花森安治 (暮しの手帖を作った方)
昭和25年初めて写真展を開催する(丸善ギャラリー) タイトル「生きたニュールック」
展示するもの ファッション写真を並べなさいと忠告される
ファッション写真が溜まっていたので(アメリカの人の写真)
力道山の写真 バーベルを上げる写真を撮る
写真嫌いの人に対しては大変だった 三木 武吉 室生犀星 丁寧にお願いするしかない
三木 武吉 6時間待たされた(8時に行って) 部屋での写真を撮ってもらう様に依頼
庭での写真も撮る (おれは女に弱いんだ 写真撮影を聞き入れてくれる)
雑誌社に渡すのにネガもと渡してしまっていたので無くなってしまったものが多い
食事は全部自分で作る、
ラジオ英会話、ラジオ体操 朝食を食べる 夜は肉、醤油味の日本料理 サラダ 赤ワイン 報道カメラマンとしてやってゆく一番大事なことは→頭 好奇心
目立たないけどいい仕事をしている方を発見して取材したい