2025年2月7日金曜日

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年 

横浜市保土ヶ谷に英連邦墓地があります。 ここには戦時中シンガポールや香港などで日本軍の捕虜になって日本に送られ、命を落とした英連邦の捕虜など1800人余りが眠っています。 墓地では平和を願う日本人の呼びかけで戦後50年の1994から毎年英連邦捕虜追悼礼拝が行われています。 なぜ追悼礼拝が始まったのか、 追悼礼拝の背景にはどのような経緯があったのか、「平和と和解 横浜追悼礼拝の30年」という事で英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会代表の奥津隆雄さんに伺いました。 

今年31回目になります。  英連邦墓地は日本人に知らない負の遺産ではないかと思います。  日本に連れてこられた方は約3万6000人と言われています。 そのうちの約1割が日本で亡くなられたと言われています。  日本には捕虜収容所が約130か所あったと言われています。  英連邦墓地には約1800人が埋葬されています。 追悼礼拝の呼びかけ人は3名いました。 永瀬隆さん(元日本陸軍通訳)斎藤和明先生(国際基督教大学名誉教授)雨宮剛先生(青山学院大学名誉教授)が呼びかけ人となり始めました。 

永瀬隆さんはタイに通訳として送られましたが、泰緬鉄道建設現場でした。 捕虜とタイ人が使われて多くの方々が亡くなられました。 捕虜の虐待の場面に出くわしました。 戦後墓地探索に通訳として同行する経験がありました。 遺骨が沢山出てきて、日本軍はこんなことをしていたのかという思いから、日本に帰ってきてから慰霊をしなければいけないと思ったそうです。  捕虜の方は6万何千人と言われています。 そのうち1万3000人が亡くなったと言われています。 アジア人労務者は25万人以上の方々が動員され、数万人が亡くなられたと言われています。 その鉄道は「死の鉄道」と呼ばれ枕木一本一人亡くなったという事で、日本に対する嫌悪感を長く持っていた。 捕虜に対する扱いが、非人道的、人間としては見ていなかった。  熱帯病の蔓延する場所であったにも関わらず、薬もほとんどない、食料も乏しい、加えて重労働、虐待があった。 

1944年8月5日オーストラリアのカウラで日本人の捕虜の方たちが一斉蜂起して脱走を試みる。  捕虜になって生き延びるぐらいだったら死んでしまえ、というような軍の教育で、脱走を試みた カウラ事件です。 永瀬さんがカウラに訪問した時期があったようです。 戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、オーストラリアの帰還兵の方が中心になって新たに日本兵の立派な墓地をオーストラリア戦没者墓地の隣接地に作って、日本公園も設置、桜並木も作った。 カウラ市民1万人が一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。 それを知った永瀬さんは、保土ヶ谷には英連邦戦没者墓地があるので、追悼行事を始めようと戦後50年を機に始めたというのがきっかけになります。斎藤和明先生は2008年、永瀬隆さんは2011年、雨宮剛先生、関田先生も亡くなられています。 

1987年青山学院大学に入学した後、英語の先生が雨宮剛先生でした。 授業ではよくフィリピンの話をされて、貧困の問題、戦争の傷跡、国際協力などのことについて話していました。 先生の話に惹かれ、先生との交流が深まって行きました。  先生からアメリカに留学しないかという事と、フィリピンに行ってくれないかという事を言われました。 生の体験から学んでほしいという事でした。  アメリカではキリスト教の信仰を持つようになって、クリスチャンになり牧師の道を進みました。  フィリピンには1989年に行きました。 今日本人として生きているのはどういう意味があるのか、という事を深く考えさせられました。 雨宮先生から追悼礼拝のことを知ってかかわる様になりました。 アメリカではいろいろな人とのいい出会い、いい交流がありました。 

以前、エリザベス女王、ダイアナ妃、王族、首相も日本に来ると墓参に訪れます。  2007年7月、雨宮先生と追悼礼拝の下澪に来ていた時に、アルバート・ベイリーさんという方の墓碑(26歳で亡くなる)に刻まれた言葉にグッときました。 どんなに家族に会いたかったのだろうと思たら、涙がこみ上げてきました。  そこにアルバート・ベイリーさんの甥の方が見えて吃驚しました。 話をしてその年の追悼礼拝に来てくださいました。  

平和を継承するというのは地道な作業の積み重ねだと思います。 追悼礼拝の参加者は200名ぐらいですが、地元の高校生が先生と共に参加してもらっています。 去年は岩手県釜石市から中学の先生と高校生2名が参加して頂きました。 釜石では軍需産業があるという事で艦砲射撃を受けたという歴史があります。 連合軍捕虜収容所も攻撃を受けて32名の捕虜の方が亡くなっています。 

永瀬隆さんは「英連邦墓地はかけがえのない宝物だ。日本と各国の親善と平和を繋ぐ太いロープだ。」と書いています。  雨宮剛さんは「この墓地を訪れ瞑想してほしい。 これに勝る歴史の教科書はない。 日本人の良心の発信地として100年後も継続することを夢見る。」と書いています。 関田先生は「武力による平和ではなく、愛と共生の社会を作ることによる平和を作って欲しい。」と、斎藤先生は追悼礼拝の趣旨文を書いた先生で、書いた数日後に亡くなられているので、これは斎藤先生からの遺言になっています。 「平和を作り出すことは困難だが、困難だからこそ私たちの考えや行為が平和を作り出しことへ向けられるべきです。」とおっしゃっています。

継承は愛のある人間関係の広がりによって行われるんだと思います。 






















2025年2月6日木曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 後編

 母親は戦前は芸者で小唄・端唄の師匠で三味線などの芸を身に付けていました。 子供の頃はよく民謡等を歌っていました。 

*「アキラのダンチョネ節」 作詞:西沢爽 作曲:遠藤実 歌:小林旭

役者は台本があり、作られた世界の中で台本通りにしゃべってそれに感性を乗せて、それなりの世界を演じないといけないという役目があるけれど、歌の場合は書かれたものにメロディーがついて、メロディーという隙間の間でもって出てくる言葉は自分なりに解釈が付くから、全然世界が違う。 歌の場合には一つの言葉についても自分の解釈の中で表現の仕方が変って来る。  制約されないから歌の世界は八方破れで、とっても気持ちがいい。 芝居の方は制約されるだけに、堅苦しいところがあり、やりにくいところはやりにくいところがあります。

ひばりが持っていた歌の世界は裕ちゃんと同じようなオーラを持っていて、歌が始まった時の世界は360度どこから何を突っついてもゆとりばっかりの大変な世界です。 別の道を歩むようになって偶然福岡で再会しました。  「何故待っていてくれなかったのか」と言われましたが、よく判らないが考えると思い当たることはいっぱいあります。 一緒にいたかったという事はあるのかも知れません。 美空ひばりという人の周りの連中が、一人の歌手美空ひばりとして取り扱っゆく世界が別個にあったのが良くなかったんじゃないかな。   人間加藤和江という中で、美空ひばりという世界に溶け込まずにいる部分でもって生活する別の路線があれば、小林旭とも上手く行っていたかもしれない。 

1967年(昭和42年)には女優青山京子と再婚。 長女の真実と長男の一路の二子に恵まれる。 青山京子さんは回顧録のなかで、家庭での素顔について、「スクリーンのうえでは華々しく観られる小林旭はその実仕事を離れると孤独な一面がございます。 内気でもございます。 その人の好さのためから、弱さを女の強い一本芯、そっと目立たない程度に末永く支えることが出来たと思っております。」と述べています。  莫大な負債を抱えている時も支えていきました。 何十億という負債を平気な顔をして後ろで計算していてくれた。 大変で凄かったと思う。 

歌の仕事があって小林旭は助かったと思います。 借金の返済が出来た。

昔の名前で出ています」  作詞:星野哲郎 作曲:叶弦大 歌:小林旭

昔はスターが頂点にいて、憧れがあった。 今は平べったくなってしまって、憧れというものがない。 それだけ世の中がつまらなくなってきている。  

オンラインだけで学ぶサイバー大学に入って4年間ITなどを勉強して卒業しました。 パソコンをやるうえで必要なことは学べたけれど、どこにどう活用できるかというと、ただ自分で楽しむだけになっちゃっています。  ユーチューブを開設する。 ユーチューバーでお金が儲かるみたいなバカげた世界になってきて、ユーチューブは今はピンとこない。 

熱き心に」 雄大な歌です。 1年ぐらいは歌を掌握できなかった。 或る時歌っている時にピリッと掌握しました。 

*「熱き心に」  作詞:阿久悠 作曲:大瀧詠一 歌:小林旭

86歳になりますが、言われるままに好き勝手なことをバリバリやってきて、よくやってきたと思います。 来年は芸能活動70周年になります。  ここまで来られたことがとっても不思議です。 目に見えない多数の力に対して、責任感は感じます。 やれるうちはやろうと思います。















2025年2月5日水曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編 

小林旭さんは1938年東京生まれ。  1956年映画デビューし、マイトガイの愛称で国民的スターとなりました。 歌手としても多くのヒット曲があります。 映画の黄金時代を中心に伺います。 

マイトガイは死なず 小林旭回顧録」を昨年出版。 すべての歯車が良好に回っていた時期で、何をやっても許されると言う様な感覚を持つぐらいに大事にされた時代です。 昭和36年にアメリカに行きましたが、そのころはまだあまり海外に行くことは盛んではありませんでした。 日活に入ったのが昭和30年、デビューが昭和31年。 川島雄三監督映画『飢える魂』で正式にデビュー。  1959年(昭和34年)、映画『南国土佐を後にして』がヒットし、石原裕次郎と並ぶ日活を代表するスターとなる。  シーンを撮るのにも奇跡的なことが映画の中に仕事中の最中にありました。  アクションでもギリギリのところで上手くいっていました。 

昭和36,37,38年ぐらいまでの、ひばりが結婚を申し込んできてごちゃごちゃいう様なことが起きるまでの3,4年の間はやりたい放題やってはしゃぎまわっていました。  すべてついていました。 その後「渡り鳥シリーズ」、「流れ者シリーズ」など沢山あります。 石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。 毎月1~2本撮っていました。  1本撮るのに2週間ぐらいでめちゃくちゃでした。 当時は興行成績で会社の株価が上がったり下がったしました。 映画が産業と言われた時代でした。 ですからアクション一つでもいい加減なことはやらないと、仕事で死んだら本望だとそういった責任感で仕事をしていました。 ビデオでは消せるけれどフィルムの世界は一遍撮ると消えないんだと、厭というほど言われました。 

ジャッキー・チェインは幼少のころから日活の映画をよく観ていたそうです。 その中で小林旭のアクションというのは、とっても面白かったといっていて、小林旭の作品は全作品を観て、アクションが目に焼き付いて、そのアクションを少しでも良く見せようという事をやっていきたくて鍛えて努力した。 だから貴方は俺のアイドルだと彼は言っていました。  会場で「マイ アイドル」と言って飛びついてきましたが、ちょっと照れ臭かった。

石原裕次郎さんは4歳上ですが、錆びたナイフ』で共演することになりましたが、ツーカーの中で兄弟みたいに付き合っていました。 彼は「役者なんていう仕事は男一生の仕事じゃあねえぞ」と言っていましたが、彼は早死したけれど死ぬ間際まで石原軍団を大事にして頑張っていたので、やっぱり男一生の仕事だったんだね。 

銀座で裕ちゃんと飲んで、酔った勢いで京都に行こうと言いう事になり、萬屋錦之助さん、勝新太郎さんと一緒に遊びました。 石原裕次郎という人は稀代のスターですよ。 何ともいえない人間の魅力、でかさは皆さんお持ちではなかったですね。 360度どこから突っついても隙がなくふんわりと受け止めてくれるゆとりがあった。   

歌手デビュー第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名されることになる.。 宍戸ジョーにはエースのジョーと付けることになりました。 ○○ガイというのではなかったので不貞腐れてはいました。 ○○ガイとつけて売り出したかった時代の産物です。  ダイアモンドラインと称していましたが、そこが崩れて新しく赤木圭一郎、和田浩治を加えて新しいダイアモンドラインを作りましたが、中途半端に終わってしまいました。 

アクションがあり正義が勝ち、悪が滅びてというような単純な映画を作るものは今はないです。 












2025年2月4日火曜日

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

 若竹さんは岩手県遠野市出身。(70歳)  63歳にして小説「おらおらでひとりいぐも」で作家デビュー、2017年に文芸賞を最年長で受賞し、翌年には芥川賞も受賞、その後映画化もされました。 若竹さんは20代を臨時採用教師としてすごしたのち結婚、現在千葉県に暮らしています。  夫の死をきっかけに長年の夢だった作家を目指し、55歳で小説講座に通いました。 「おらおらでひとりいぐも」は世界で10か国を越える国々で翻訳され、ドイツでは著名な文学賞リベラトゥール賞を受賞しました。  第二作は「かっかどるどるどぅ」でフリーターや高齢女性たちの共同生活を描き、好評を得ました。 昨年秋には初のエッセー集「台所で考えた」を出版しました。  作家デビューから7年、70歳を迎えた若竹さんに、老いや一人暮らし、作品に込めた思いなどを伺いました。 

おらおらでひとりいぐも」ですが、主人公が方言で内面を語るという小説は今までなかったという事で、属性としてある登場人物を語るために方言で語ることはあっても、主人公が方言を言うのはとても珍しいという事で、印象的だったみたいです。 台所で考えた」の最初のところに最初に受賞した文芸賞受賞した言葉が有ります。 「いつかきっと小説を書くのだと子供の頃から思っていました。」と書いてありますが、本当にそうです。 目指すは青春小説とは対極の玄冬小説(老いとか)。 私自身がそういう風に生きていかなくてはいけないと思っていたので、自分を励ます小説を書こうと思っていました。

子供の頃は本は読みましたが、たくさん読んだという風ではありませんでした。 小説家がキラキラした目標でした。  そこそこ幸せではあったが、自分が学んだことを生かしてなくて、家庭で収まているという事が悔しいというい思いはありました。  その想いが63歳まで続いたと思います。  テーマが見つからなかった。 55歳ぐらいで夫が亡くなったり、考えることが一杯あって、判ったことを書くんだと思いました。 夫は急逝したのでショックでした。 想っていることなどをノートに書き記しました。 長男からのすすめをきっかけに、小説講座に通い始めました。(四十九日の翌日) 小説講座には8年通いました。 

おらおらでひとりいぐも」を書いたのは60歳過ぎてからです。 2017年、『おらおらでひとりいぐも』で第54回文藝賞を史上最年長で受賞しました。  夫が亡くなった悲しみもありましたが、自由というものもありました。 私は私の責任で何もかもやってゆくんだと思いました。  私が経験して判ったことが小説のテーマなので、探しているものがやっと見つかったという感じです。  老いは今までの経験を通して、自分が生きることはどういうことかという結果で成案を得る。  

一作目は一人で力強く生きる70代の女性、二作目は人とつながりを求める、分かち合う喜び、助け合う喜び、但し弱者です。  強い女で孤独を良しとしている人間ですが、世のなかにはそうではない人がいっぱいいる。  その人たちが孤独をどう生きるんだろう見たいな、桃子さん(主人公)は内側に向かう人間ですが、それだけではいけないなあと思っていました、後は私の個人的な体験で、100日入院したこともあり、リハビリで老人ホーム的なところもあり、そこでの生活も結構楽しく過ごせました。 皆とわいわいしているのが楽しかったです。  皆で連帯して生きてゆくというような小説を書いてみたかった。

20代を臨時採用教師としてすごし、挫折の時代でした。 非正規の人の気持ちはよくわかります。 (非正規の人が)4割とかで子供がいないというのが少なくなっているのは当たり前ですよね。 世の中は絶対おかしいなと思っています。  

台所で考えた」はエッセー集です。 エッセーを書くという事は好きじゃないです。 小説の方がやりがいがあるような気がします。  感情がこもった文体、語り物の文体が好きです。 私は若い頃は判らないことが一杯ありました。 歳を取って来ると判ることがいっぱいあります。  衰えはあるが、知性、物事の判断、洞察する力は絶対大きくなっている。  人間は経験を通して大きくなるんだと思います。  















 

2025年1月31日金曜日

野村宏(大島青松園 自治会副会長)    ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ

野村宏(大島青松園 自治会副会長)  ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ 

香川県にあるハンセン病の国立療養所大島青松園で、88歳になった今も記憶を語り続ける野村宏さんとその記憶を後世に繋ぐ役割を担う青松園の学芸員都谷禎子さんお二人にお話を伺います。 ハンセン病はライ菌によって皮膚や神経が侵される感染症です。 感染力は弱く現在は治療法が確立された病気ですが、治療法がなかった時代には不治の病として恐れられ、かつて国は誤った隔離政策を取り続けていました。 強制隔離、差別、堕胎、絶望を生き抜いてきた野村さんの支えになったものとは、野村さんが人生をかけて伝えるメッセージを受け取った都谷さんの覚悟とはなにか、伺いました。

大島に来たのは中学卒業したばっかりでした。 隔離、撲滅のためにハンセン病に罹った人のすべてを隔離するのが、国の法律ですから、強制収容が酷かった。  私の場合は軽症だったので、新しい薬が出来たのですぐに帰ってこられるので、行って直してこいと言われました。 直ぐに帰れるものと思ったがそうではなかった。  もう一生亡くなるまでこの島で生活する、そういう事が大島に入ってから判りました。  私が入所した当時は入所者が700名ぐらいいました。 先生が5人、看護師さんが18人でした。  軽症者の人たちによって園内の維持管理がなされていました。 大工仕事、重症者の足の切断、義足製作、亡くなった人の火葬迄やりました。 一人の人を火葬するためには約100kgの薪が必要で、山から木を切ってきて、5~6人の薪を確保しなければいけなかった。

一緒に仲良く生活していた友達が自殺して亡くなってしまいました。(昭和30年)  8月9日の暑い時で安置所まで運びましたが、遺体の冷たさは今でも忘れることはないです。 そういう風にして数十人の人が亡くなっています。  私の身体も悪くなりましたが、結婚していたのでお互いに支え合って頑張ってきました。 私が結婚した昭和32年当時は21畳に4組が共同生活です。 金がないのカーテンもなしです。  妻が妊娠しましたが、堕胎されました。 堕胎した子供をホルマリンに浸けて研究室の棚に一杯並べられていました。 

妻も中学2年生の時に病気になりここに入って来ました。 妻は家を出てから一遍も家に帰っていないんです。  妻は8人兄弟でしたが、兄弟は妻が最初からいないものとしているんです。(後で判った事)  私も8人兄弟で、家には帰ることが出来たので、妻も連れて帰りました。 母からは「私が元気でおらんと、お前さんたち二人の帰って来る家が無くなってしまうから私は頑張る。」そう言われました。 今でもその言葉は忘れることは出来ない。 それが支えになりました。 

平成8年に熊本裁判に勝訴して、国はいつ帰ってもいいですよと言ってるんですが、我々はもう帰る家がないんですよ。 兄弟も親も亡くなってしまったり、高齢になってしまっている。  後遺症も残るのでいずれどこかの施設に入らなくてはいけないので、差別偏見は無くなったにしても自分で考えてしまう。  大島にいると安心するんです。  一番情けないのは、大島で亡くなって火葬されて大島に安置されますが、偽名のまま置いておくんですね。 骨になっても本名を打ち明けていない。  

平成8年にライ予防法が廃止されました。 その2年後にハンセン病の元患者たちは国の誤った隔離政策で」人権を侵害されたとして、各地で国に賠償を求めた裁判を起こします。平成13年(2001年)5月に熊本地方裁判所が国に賠償を命じる判決を言い渡ししました。  この裁判の原告団には当時の大島青松園に暮らす入所者のおよそ三割に当たる 59人が名を連ね、そのうちの一人が野村さんでした。  小泉総理の時代で、どうぞ控訴しないようにと言う事で総理官邸前で鵜割り込みをしました。 控訴を断念して私たちは勝訴しました。 あの時の嬉しさは忘れられません。 法律が廃止になって子供たちも来てくれるようになりました。 大きな戦いでした。 

園内作業をすると僅かなお金を呉れますが、それでもほしいんです。 作業賞与金と言いますが、刑務所で作業して貰える作業賞与金と同じお金を貰っていました。 70年ぐらいいてよく頑張ったなあと思います。  今納骨堂に2千数百人が安置されています。 見てもらうだけでもいい勉強になると思います。  

大島は、3年に一度開かれている現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の会場の一つにもなり、国内外から幅広い世代の方が大島に足を運んでいます。 しかし今年1月1日時点で入所者は29人まで減り、平均年齢は87,2歳と高齢化が進んでいます。 壮絶な経験をした人たちの記憶の継承が課題となる中で、彼らの人生を残そうと奮闘しているのが島に常駐している専属の学芸員です。 

青松園の学芸員都谷禎子さんにお話を伺います。 野村宏さんは大島の生き字引みたいな方です。 着任が2018年3月で、7年目になります。 仲間との支え合いを大事にして生きてこられた方たちです。 人にとって一番根本的なことを学べる場所であろという風に思っています。  義務教育を終えていない年代で入ってこられた方たちが、どんなふうに大人が過ごしている世界を眺めて、どんな風に成長していったのか、そういった過程の話を聞いたりすると、胸に刺さる思いがあります。  ハンセン症問題はお子さんを残すことが出来なかったのがほとんどなので、やがて語り継ぐ人もいなくなってしまう。 100人居たら100通りの人生をきちんと残して、伝えていかなければならないと思います。 そこから多くのことを学べるように、一つのツールとして後世に活用してゆく事が、その人たちが語ってくれたことへの報い、お礼の形にもなるのではないかと思います。 

ハンセン病の療養所はアクセスの悪い場所になっています。 VRにして遠くにいる方でも大島の状況を知っていただくために活動しています。 五感をもってハンセン病の歴史を体感し、学んでいただきたいと思っています。  知ったからには、この職についている以上はちゃんと社会に還元していかなければいけないと強く思っています。 ここにいる人たちは仲間の死、自ら命を絶った人などを見送った方なので、凄く命の大切さを身をもって判っていらっしゃいます。  人が生きてゆくために、どの世代にも共通する大切なことを教えてくれる場所がここかなと思います。 生きるヒントを貰える場所という形で後世まで残していけたらと思っています。 







 


2025年1月30日木曜日

堀ちえみ(歌手・タレント)        ・歌うために 私は負けない ~舌がん闘病記~

堀ちえみ(歌手・タレント)        ・歌うために 私は負けない ~舌がん闘病記~ 

堀ちえみさんは1967年大阪府堺市出身の57歳。 第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンで芸能界入りして、1982年潮風の少女/メルシ・ボク』でデビューしました。 1983年のテレビドラマ「スチュワーデス物語」で注目を集め、アイドルとして歌とドラマで活躍してきました。 2019年の1月に舌のがんを宣告され、舌全体の6割以上と左首のリンパ節を切除して、舌に太ももの組織を移植しました。 その後食道がんも見つかりましたが、そちらは早期発見の為に事なきを得ました。 舌がんからの復活の道のりは長く厳しいものでありながら、懸命なリハビリの結果みごと復活を遂げ。2023年にはデビュー40周年コンサートを行い、多くのファンの前で歌声を披露しました。 ご主人や7人のお子さん、その他周囲の人たちに支えられてがんを克服した堀ちえみさんに、歌手復活までの道のりやその思いを伺いました。

*「君といる世界」 作詞:堀ちえみ、作曲:杉真理  歌:堀ちえみ

昨年の4月に収録をし直しました。 昔とは違う歌唱法で歌わなくてはいけない状況になって、でも違う味を出せばかなと思って歌いました。  よくここまで来られたなあと自分でも思います。 明日もないかなと言う経験もして、子供達、家族のこと、歌のことが何とも言えないものが押し寄せてきて、命が存続できたあかつきには歌を歌いたいと思たのですが、命は助かったがしゃべる事すら容易ではありませんでした。 病気とまず戦って乗り越えられたら、これを糧にして素晴らしい人生に変えていくチャンスかなと思いました。

34歳の時は特発性重症急性膵炎、48歳の時が特発性大腿骨頭壊死症、2016年ごろからはリュウマチもありました。 リュウマチは今でもあって薬で調整しています。 病気には戦う病気と寄り添って付き合っていく病気があります。  舌がんは51歳、2019年1月に判りました。  ステージ4になっていて、痛みが凄くて戦わずして死をまとうと言う様な状況でした。 手術では5年の生存率は高いという事で、娘(16歳)からはもう一回頑張ってほしいと言われました。 自分だけの命ではないんだなと思いました。  リンパ節への転移があって、11時間に及ぶ手術でした。  舌の6割以上をカットして、太ももから組織を40cmぐらい切って形成して、無くなった舌の部分にあてがうようにして舌の代わりとして作っていただきました。  血管は繋がっていますが、筋肉とか神経は繋がっていません。 脳から指令が行ってもその部分は動きません。 残った部分で動かしているような感じです。

今迄しゃべれていたが出来ないもどかしさがありました。 今迄とは違う発声法と舌が上手く動かない部分、歯とか歯茎、頬の内側、唇などが補ってくれて音を出すようにしてきました。  母音は大丈夫ですが、子音があると結構大変です。 気圧、温度、季節、体温、自分のメンタルな部分なのか、いろんなことを自分なりに研究、実験してみましたが、判りませんでした。 冷やしたりすると血行が悪くなって良くないことは判りました。 夏の方が声を出しやすいです。 やればやるほど良くなってゆく事は判りました。 人生やることがあるという事は幸せなことだと思います。 家族がプラス思考という事はとっても大事です。  主人は超プラス思考です。 前向きな言葉で家族を明るく持って行かないとどうしようもなかったと後で言っていました。 「人生の悩みをシンプルにする50の言葉」という本を主人と一緒に出しました。 告知を受けた直後はプラスに持ってゆこうなんて思えない、不安しかない。 でも諦めないという事は大事だと思います。 

40周年記念コンサートに向けては、本当に出来るのかなとは思いました。 やると決めたらやろうと主人から言われました。 日程を決めて自分を追い込んでいきました。 しゃべるのと歌うのでは違います。 言葉がたどたどしいと、リズムに乗れない。 新しい発見があり、リズムに乗った方が話をしやすいという事でした。 メトロノームを使ってしゃべり出したら体も動いてきて、言葉も早くしゃべれるようになりました。 歌を歌う事によって得たプラスな事です。 コンサートで26曲歌いましたが、最後の方になってゆくほど調子が良くなっていきました。 

2023年デビュー40周年記念コンサートを迎えました。  泣かないようにしようと思いました。 「お帰り。」なんて言われたら大号泣になってしまいました。 「生きていてくれてありがとう、」という言葉がとっても嬉しかったです。 10分でも時間が惜しいし、10分あればいろんなことが出来ます。  年齢を重ねることはマイナスという風に思うかも入れませんが、今年も無事に誕生日を無事に迎えることが出来たという事は有難い事です。 すべてのことが有難いと感じるようになりました。 いい贈り物を頂いたと思います。 今後、もっと歌が上手くなりたいし、ライブで全国を回りたい。 出来る限りのことをやって楽しく笑顔で歩んでいきたいと思います。  

FUWARI」 作詞:堀ちえみ / 作曲・編曲:白山タカシ 歌:堀ちえみ

医療従事者、家族、周りの人たちへの感謝の気持ちを込めて書きました。













 

 








2025年1月28日火曜日

柳澤寿男(指揮者)            ・希望のタクトを振り続ける

柳澤寿男(指揮者)            ・希望のタクトを振り続ける 

柳澤さんは長野県出身、53歳。  旧ユーゴスラビアのコソボ共和国でコソボフィルファーモニー交響楽団の首席指揮者を務めています。 2007年には多民族の音楽家によるバルカン室内管弦楽団を設立しました。 かつて深刻な民族紛争が生まれた地で、音楽を通して共存共栄を目指したいという柳澤さんの願いが込められています。 こうした平和への活動が評価されて令和6年度外務大臣賞を受けました。 

日本とコソボの相互理解の促進やバルカン地域での共栄への功績が評価されたという事で外務大臣賞を受けました。 コソボフィルファーモニー交響楽団の首席指揮者になって17年が経ちました。 その間にいろいろな出会いがありました。  これも皆さんのおかげだと思っています。 表彰式は去年コソボで行われました。  戦後まもなくは生活自体が困難な時代でした。  コソボの音楽史をずっと一緒に作ってきたという思いがお互いにあります。  家族のように仲良くなって、授賞式にも来てくれて本当に嬉しかったです。 

コソボはバルカン半島の真ん中あたりの内陸国です。 かつて同じユーゴスラビアに属していたセルビアと深刻な民族紛争がありました。 2008年に独立を宣言、コソボ共和国になりました。 最初にマケドニアという国に知人の紹介でオペラの指揮をしてマケドニアに住むようになりました。 コソボ紛争が終わって間もない頃、国際機関の或る人がコソボにもオーケストラがあることを教えてくれました。 2007年3月に大事な演奏会があるので指揮をしてほしいと言われて、コソボと繋がって行きました。  演奏会でヴェートーベンの交響曲の第7番を振り終わった時に、凄い拍手が来ました。 知り合いの「バキ」さんというアルバニア人(アルバニア人とセルビア人の紛争だった。)の音楽家がいて、身内の方を2人亡くしていて戦争になったら銃を持って戦争に行きたいと言っていましたが、やはり自分は音楽家だからそういってはいけないと、これからは人に優しく生きていきたいと、涙目になりながら言ってくれました。  凄く嬉しくてコソボフィルハーモニー交響楽団の首席指揮者になって現在まで続いています。 

暮らしは限りなく大変でした。 電力が足りなくて一日の1/3は電気のない生活でした。  いつから停電になるのか判らない。  私が住んでいたのは細長い3畳一間みたいなところでした。(コソボフィルハーモニー交響楽団から借りてもらっていた。) 冬は暖房がないので外とおなじ寒さです。 健康な時には頑張れますが、一番大変だったのは一回盲腸になりましたが大変でした。  12時間以内に処理しないと死んでしまいます、と医師から言われてしまいました。  24時間後に何とか飛行機にキャンセルがあって、それに乗って行ってデュッセルドルフ(ドイツ)に行くことが出来て助かりました。 マケドニア時代は家族っで暮らしていましたが、コソボでは単身生活でした。 家族は日本に戻っていて、私が日本にたまに帰って、また戻る時にはこれで帰ってこれなくなるかもしれないという思いはありました。 「バキ」さんの言葉が有ったので、自分も一緒に何とかやりたいとい思いはありました。 

バルカン室内管弦楽団を設立し音楽監督を務めることになりました。 紛争以後痰民族での楽団になってしまっていて、何とか多民族での宗教とかを越えて共存共栄のオーケストラを設立したかった。  強い反対の意見などもありましたが、国連の支援の下に作って行きました。 2009年に初めてセルビアの方とアルバニアの方が合同で演奏するという事になりました。(立ち上げから2年)  演奏者は賛同者が多かったが、出来ないと言う様な人は多かったです。  演奏会をするにあたっては、3日前までは公表しないことと、名前は公表しない(セルビアの方とアルバニアの方が判ってしまうと危険なことがある。) 2009年5月17日に演奏会を行う事が出来ました。  川を挟んで南と北で行いました。 演奏会が終わると凄くお客さんが盛り上がりました。  国連の方がテレビの収録をしていましたが、メンバーにアルバニア人がいるという事を言うと、喜んでいたセルビア人のお客さん達がシーンとなりました。 

小さい頃親からピアノをやれと言われてピアノを習っていました。 小学校4年生の時にNHKのシルクロードのテーマがあり、クラスでやることになりました。 ピアノをやっていたのでアコーディオンを弾くことが出来ました。 家にヴェートーベンの交響曲第9番がありました。 レコードを聴いているうちに感動して涙が出てきてしまいました。 中学で吹奏楽部に入ってトロンボーンをやり、そこから本格的に音楽をやるようになりました。 高校、大学と音楽の道に進みました。 たまたまウイーンに旅行に行き、演奏会場に行きました。 小澤征爾さんの指揮によるウイーンフィルファーモニー交響楽団の演奏会でした。  演奏が終わった時には指揮者になりたいと思いました。  

2015年に音楽監督坂本龍一さんが東日本大震災復興支援のひとつとして立ち上げた東北ユースオーケストラですが、小学生から大学院生までの学生を集めて(120名程度)、坂本さんがピアノを弾いたりしながら、私が指揮をしながら、東北の震災をした子供たちが書いた詩を吉永小百合さんが朗読をしながら、10年やって来ました。 東北ユースオーケストラは震災復興オーケストラ、バルカン室内管弦楽団は戦後復興オーケストラで似ているところがあり、音楽を媒体に心の復興をしてゆこうという活動です。 坂本さんは病状が悪化いている中で私と連絡を取って指示してくれていました。  亡くなる前に声が出ない中で、東北の子供たちのことを思って、声を振り絞って「ありがとう ありがとう」と言ってくださって、凄く感動しました。  

ウクライナ、ガザとか世界中でいろいろありますが、中東にも思いを寄せて、バルカンの方々と一緒に平和を願ったコンサートを戦後80年の節目にしたいと思います。 平和の尊さをもう一度思い描いていきたい、音楽を通じてメッセージを伝えていきたい。
















 





















2025年1月26日日曜日

熊本マリ(ピアニスト)          ・ピアノも介護も楽しみながら

 熊本マリ(ピアニスト)          ・ピアノも介護も楽しみながら

熊本さんは5歳からピアノを始め、10歳で父の仕事の関係で家族と共にスペインに移り住みました。 スペインでは周りからピアノの天才少女と褒められピアノが大好きになりました。 14歳でピアにストになることを真剣に考えてレッスンに励みます。 1975年からスペイン王立マドリード音楽院で学び、スペイン青少年音楽コンクールで優勝、1982年奨学金を受けてジュリアード音楽院に入学、様々な賞を受賞して1986年プロデビュー、1991年にはスペインの作曲家フェデリコ・モンポウのピアノ曲全集の収録したピアニストとして知られています。 軽快なトークを交えたコンサートは人気が高く、世界的に活躍しています。  2012年には日本各地の民謡をピアノで奏でるアルバムをリリースしました。 来年はデビュー40年になります。 

10歳から17歳までスペインで過ごして、スペインは第二の故郷です。 フェデリコ・モンポウの作品を世界で初めて私は全曲録音しました。  モンポウはしっとりして神秘的で優しい心を癒してくれる音楽です。 

*「湖」 作曲:フェデリコ・モンポウ 

1964年生まれ、東京都出身。 5歳からピアノを始める。 ピアノは好きでしたが、練習は大嫌いでした。  10歳でスペインに引っ越しました。  ピアノを弾く子があまりいなくて天才だと周りから褒められてピアノが好きになってしまいました。  14歳になる時にピアニストになろうと決心しました。  手が小さかったんですが、お風呂のなかでストレッチをすれば伸びるといわれて、それをやって伸びてきたことと、工夫すること、選ぶ曲で十分対応は可能です。  指を怪我する事は駄目なのでスポーツ的なことはやっていないです。  褒められることは最高の喜びですね。  現在は大阪芸術大学で指導もしています。  その子によって、目的に合わせた教え方をしています。  大学で教えて16年になります。  話さなくてもその子の奏でる音楽で性格が判ります。 心理的なことまで出てきます。  他の楽器を聞いたり、オペラ、映画なのでリフレッシュします。 

父は新聞記者でした。 スペインでの生活は楽しかったです。 日本にいる時には恥ずかしがり屋で凄くおとなしい子でしたが、スペインに行って黙っていると相手にされないので、段々オープンになって行って、褒められて仲間が増えていきました。 ニューヨークに3年いて本当に自己主張しないと相手にされなくて、積極的になって行きました。 

脳梗塞に2回なりました。 1回目は血栓が出来て一瞬で終わりました。 2019年にコンサート中に発症してしまいました。  最後までやり切って楽屋から救急車で運ばれました。  入院中とても苦しくて話すことも出来なくて、何か聞きたいと思いました。   綺麗なメロディーでゆっくりな曲でした。  観客の側の弱い立場の人の気持ちが初めて判りました。  2週間で退院しました。   ピアノに対しての後遺症は全くありませんでした。  後遺症がすこしありましたが、段々治って行きました。  

父が95歳、母が93歳になります。 両親ともに身の周りのことは大丈夫です。 一瞬で違う世界へ行ってしまう事を脳梗塞で知りました。 毎瞬、毎瞬楽しまなければいけないと思って、したいことはする、言いたいことは言う、食べたいものは食べる、そういう考え方になりました。  入院生活を経て、完璧を目指していたものから80%でいいかなと、20%のこして 余裕をもって生きること、演奏する事にと思っています。 

旅をもってしてみたいです。 ジャマイカ、キューバ、とかいろいろ行っていない国に生きたいです。 日本の民謡をもっと世界に広めたいという思いもあります。 音楽が人々の生活のなかで役に立ったり、そういったことをもっと研究してみたいと思います。 鳥が好きでオームの研究をもっとしてみたいと思います。  

*「おてもやん」  ピアノ演奏:熊本マリ












2025年1月25日土曜日

平田満(俳優)              ・〔私の人生手帖〕

 平田満(俳優)              ・〔私の人生手帖〕

平田満さんというと1982年の映画「蒲田行進曲」のヤスを思い出される方が多いと思います。 その演技が高く評価され日本アカデミー賞最優秀男優賞などを受賞、その後も舞台、映画、テレビと活躍の場を広げて来ました。 平田満さんは1953年愛知県生まれ。  早稲田大学在学中に劇団つかこうへい事務所の旗揚げに参加、「熱海殺人事件」の刑事役など人気を集めました。  確かな演技に定評の或る平田さんですが、その原点は演出家、劇作家のつかこうへいさんとの出会いがあるといいます。 が、その後大きな戸惑いを抱えるようになります。 どの様にその日々を乗り越えて行ったのか、大切にしてきたつかさんからの人生訓などを伺います。 

「アンダーニンジャ」という映画が公開されたばかりです。 元々は漫画が原作。 高校生の学園もので、忍者もいる。 僕は高校の主事の役です。  昨年はテレビの連続テレビ小説の「つばさ」の最高裁判所の初代長官を演じました。  大学に入る前はお芝居とかとか全く関係ない生活をしていました。 大学に入って、新入生歓迎公演とやっている劇団がありました。 それを見た後打ち上げがあり参加して、その後入団することになりました。   半年もしないうちに自分には向いていないと思う様になりました。  恥ずかしいしセリフも言えない。 アングラ劇などをやっていました。  秋のつかさんの劇に参加するように誘われ芝居に出ることになりました。  即興性のある演技指導とかで、面白く感じました。  

「熱海殺人事件」では、気が付いたら毎年やっていたという感じです。 役ちゅうの人物が、表舞台、社会で注目されないような人物が多いです。 そういうのが向いていたと思います。  つかさんからは「お前がちゃんと生きていないから、芝居がつまんねえんだ。」みたいなことは言われました。 「客に媚びるな。」というも言われました。 客を意識してうけ狙い、つまり下品な芝居をするなという事で「芝居は品が良くなくてはいけない。」と言われました。 「お前の身体には哲学がねえんだ。」とも言われました。  生き方に見るべきものがないんだという事だと思いますが。  愛がないお芝居なんて観たくない、愛したり愛されたりることがない人生なんて、そこになんの喜びがあるんだろうと思っていたりします。  上手くいかなかったりすると、この作品、この本を愛してはいないんじゃないだろうかとか思ったりします。 

映画「蒲田行進曲」については幸せだったなと思います。 銀四郎を風間杜夫さん、小夏を松坂慶子さん、ヤスを僕がやりました。  これがなかったらこれまで俳優をやってこれなかったと思います。  その後テレビ、映画とかの仕事を頂く様になりました。  つかさんのころはセリフを覚えて言われたことをやれば、つかさんが作って下さって指示待ちでした。  引き出しがないので段々駄目になって40代のころになると芝居が少し面白くなくなってきました。 悩んで、事務所を辞めてフリーランスになって、仕事を捜しました。  

最近リーディングの仕事もしていますが、魅力は何でもできるという事ですかね。  舞台装置とか大掛かりになればなるほど形が決まって来ますが、リーディングは言葉しかないが、凄く遠くまで行けたり、時間も移動できるし、どんな人にもなれるし、とても自由な感じがします。  想像力が凄く搔き立てられる。  いろんなお芝居の原点を感じられます。
















2025年1月24日金曜日

谷川俊太郎(詩人)           ・〔ことばの贈りもの アンコール〕 詩人スペシャル対談

 谷川俊太郎(詩人)      ・〔ことばの贈りもの アンコール〕 詩人スペシャル対談

去年11月に92歳で亡くなった谷川俊太郎さんを追悼して、2018年に放送した谷川俊太郎さんと工藤直子(詩人)さんのアンコール放送をします。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post.htmlをご覧ください。

2025年1月23日木曜日

山下裕二(明治学院大学教授・美術史家)  ・〔私のアート交遊録〕 今年の美術界を展望して

山下裕二(明治学院大学教授・美術史家) ・〔私のアート交遊録〕 今年の美術界を展望して 

1958年、広島県呉市生まれ。 専門の日本美術史から現代アートに至るまで、その評論活動は幅広く数多くの美術展の開催にも関わってきました。 日本美術ブームの火付け役でもある山下さんは時代やジャンルにとらわれず、既存の価値観を一度取り払い自分が良いと思った作品を世に出し応援する事にも力を注いできました。 山下さんは江戸時代中期の絵師伊藤若冲と丸山応挙の合作を発見し、去年の11月にはこれが確認され大きな反響を呼びました。 今日はいくつもの美術展に関わる山下さんに去年2024年の美術展を振り返り、今年2025年の美術界の動きについてお話を伺いました。

基本的には首都圏で開催される美術展は全部見ています。 あと小さなギャラリーもこまめに回っています。 年間1000本越していると思います。  砂の中から砂金を拾うような作業ですね。 やっぱり実物を見ないと駄目です。 30代から加速度的に見ることが増えていきました。  有望な新人を発掘することも出来ました。  

国立西洋美術館でやっていたモネの展覧会ではとぐろをまいていました。 大坂の中之島美術館でも別のモネ展がありましたが、40数万人だそうです。 モネは日本のことを大好きだったようで、日本人がモネを好きなのは、ジャパニズムに対する日本人が誇らしいような刺激するところがあるんじゃないでしょうか。 モネの絵は目に優しいですね。 

現代美術で素晴らしかったのが二つあります。  京都の京セラ美術館でやっていた村上隆の「もののけ京都」の展覧会と、六本木の国立新美術館での田名網敬一さんの初めての大々的な個展、この二つは展示のスケール感も本当に素晴らしかったし、内容も充実していました。  村上隆という現代美術のトップランナーの個展でしたが、或る意味日本の古美術に対するオマージュを奉げるような展覧会でした。 巨大な洛中洛外図(ベースは江戸初期の岩佐又兵衛)を下敷きにして巨大に拡大して村上のキャラクターを色々入れる。 琳派の作品が有ったりします。 村上隆は僕の師匠の惟雄先生を凄く尊敬しています。 辻先生は若冲ブームの火付け役です。 

参照  https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/08/blog-post_7.html 

    https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/08/blog-post_8.html

田名網敬一さんは1960年代からデザイナーとしていろいろグラフィックの仕事をしていました。 2000年ぐらいからペインティングの作品を大量に作って海外で凄く評価されました。  去年の8月から始まりましたが、開幕2日後に亡くなってしまいました。

田中一村の展示会、近年の研究成果がいかんなく発揮されていました。  副館長の研究成果が十分に反映されていました。 動員も30万人近かった。 僕は一村が大好きです。 デパートの展示会で見ましたが震えるような感じでした。 戦後の日本画家で一番すごいと思います。 

「超絶技巧を未来へ」、明治工芸における超絶技巧のDNAを受け継いだ現代工芸と、超絶技巧が駆使された明治工芸を改めて紹介する展覧会。 発掘した若い作家を紹介するいい展覧会になったと思います。

2025年の展覧会は西の方が盛り上がると思います。 万博です。 京都国立博物館、奈良国立博物館、大阪市立博物館の3つで国宝メインの展覧会があります。  中之島美術館の「日本美術の鉱脈展、未来の国宝を捜せ」については僕が企画しました。 知名度はないが、皆さんをびっくりさせるような企画です。 若冲ですら20数年前は一般の方はご存じない、眠っていた存在でした。  

伊藤若冲と丸山応挙の合作をメディアの方に見ていただいたら、大変な話題となりNHKのニュースでも取り上げられました。 片方は若冲が鶏を描いて、もう一方には応挙が鯉を描いています。 中之島美術館で披露します。 東京でも展示する予定です。 

西洋美術ですと、ゴッホの展覧会が2か所であります。 神戸と大阪です。 「夜のカフェテラス」、「アルルの跳ね橋」もきます。 「大覚寺展」が関東ではあります。 狩野 山楽という江戸初期の画家の襖絵が沢山展示されるらしいです。 

30代までは学術雑誌に論文をたくさん出していましたが、30代半ばで赤瀬川源平さんと出会って、日本美術には素人ですが目の鋭い人でした。 アカデミズムの内部を一般の人に向けて開いてゆく仕事が自分に向いているなと思いました。 それで仕事量も凄く増えていきました。  昨年「日本美術をひらく」という本を出版しました。 日本美術応援団に南伸坊さん(イラストレーター)、井浦 新さん(俳優)、山口晃さん(現代美術家)、壇蜜さん(女優)などがいます。 

明治時代に渡辺省亭という人がいますが、ほとんど一般的な知名度はなかった。 研究して新しい作品を見出して展覧会をしました。 今では一般の人も知るようになり、人気も高まってきました。 知名度の低い作家の作品を購入しています。  若い貧乏の作家にとって買ってあげることが一番の応援になると思います。 そういったものがたくさんたまっています。  埋もれた作家の見つけ方は、足を棒にして歩くということ以外はないです。  あと現物を見るという事です。 小さなギャラリーに行くと、凄いと思う作家は向こうから話し掛けて来たりしないです。  これは駄目だなあと思う作家に限って、話しかけてきます。 砂の中に砂金を捜すような作業です。 毎日1万~2万歩歩いています。 お薦めの一点は伊藤若冲と丸山応挙の合作の屏風です。 初めて伊藤若冲と丸山応挙の接点を物語る資料として出て来たし、それぞれお互いを意識して、一対の作品としても成立するように描いた作品です。 


















 








2025年1月22日水曜日

井野修(元NPB日本野球機構審判長)   ・〔スポーツ明日への伝言〕 マスク越しに見たプロ野球

井野修(元NPB日本野球機構審判長)・〔スポーツ明日への伝言〕 マスク越しに見たプロ野球

ペナントレースで2902試合出場しています。(34年間)  34年出来たことは自分に対しての誇りになっています。 リタイアしたのが55歳でした。(現在は58歳になっている。) 一番多いのが岡田功さんの3902試合。  岡田さんは昭和44年の日本シリーズで巨人対阪急で巨人の土井選手がホームに入ってきて、みんなのタイミングがアウトだと思ったがセーフにした人ですが、自分では自信のある宣告をしたのにもかかわらず、相手チームなどは納得していませんでした。 反省会でも仲間からも嬉しい答えは貰えなかった。 家に帰ってきて妻に首になるかもしれないと話していた。  新聞社から電話が入って「岡田さん、足が入っていますよ。」という事を聞いた時には、自分のジャッジが正しかったんだという事が判って嬉しかったと言っていました。(写真で判明) 

第2位が富澤宏哉さん3775試合。 富澤さんからは審判のイロハから教えてもらいました。 これからはアメリカの審判システムを学ばなければ駄目だとおっしゃっていました。 あの頃メジャーリーグに詳しい人は富澤さんが第一人者と思っています。 富澤さんはほとんど自費でアメリカに行って学びました。 左袖口に番号がありますが、それを取り入れたのも富澤さんでした。 これからは長く担当することになる人に1番をつけさせるべきだといって私に1番を振り当ててくれたのも富澤さんでした。 

1954年群馬県生まれ。 大学在学中の1976年セントラルリーグの審判部に入る。  20問の設問があって、かなりの人が10分かそこらで答えを提出して、球場の方に向かっていきましたが、私はなかなかできませんでした。 他の人はきちんと審判服を持ってきて着ていましたが、私は持っていなくて白いTシャツにGパンを膝までまくって裸足でした。(2月) アメリカの考え方を取り入れた富澤さんから見出されて受かったようなものです。  マスクの外し方、プロテクターの外し方など基本の基本から教えてもらいました。  アウトのジェスチャーの研究も銭湯の鏡の前でやったりしました。 投手が300球投げると、300回のスクワットをしているわけです。 歳をとっていつの間にか姿勢が前のめりになってしまいました。 星野監督は審判に対して厳しい監督ではありました。 優しい顔で選手へアドバイスもしていました。 

試合の流れとかありますが、審判は絶対に予想したりしてはいけません。 変なジャッジに繋がって行くので。  自分の見たままを判定するのが素晴らしい審判員です。 1球1球きたボールを判断するしかないですね。  雑念が入って、アウトだと判断したのにもか変わらず、ジェスチャーでセーフと出る場合が時にはあります。 後で考えると培ってきた第6感が正しい判定だったという時があります。 そういう場合には意識の切り替えを早くしないといけない。 判定をしたことに対しては抗議があっても、変えることは出来ないことが鉄則になっています。  野球人口が少なくなると同時に審判員も少なくなってきています。  ただプロ野球の審判員の応募は増えてきています。 














2025年1月21日火曜日

堤剛(チェリスト)            ・恩師との出会いが紡いだチェロの軌跡

 堤剛(チェリスト)            ・恩師との出会いが紡いだチェロの軌跡

堤剛さんは1942年生まれの82歳。 日本を代表するチェリストです。 音楽家の齋藤秀雄ヤーノシュ・シュタルケルに師事し、チェリストとして世界的に活躍すると共に、後進の育成の育成にも力を注いできました。 その一方で桐朋学園大学特任教授、霧島国際音楽祭音楽監督、サントリーホール館長など数々の要職を歴任し、日本の芸術文化の振興に寄与した功績が認められて、去年文化勲章を受章しました。 西洋楽器奏者としては初めての受賞となりました。 

両親は音楽がしたいという事でそれぞれ東京に出てきました。 父はNHK交響音楽団でコントラバスを弾いていて、母はずっと小学校で音楽の先生をしていました。 小さいころから音楽が自分の周りにありました。  最初は6歳からヴァイオリンをやっていました。 8歳のころに子供用のチェロを始めました。 10年齋藤秀雄先生に師事して頂きました。 日本の西洋音楽のレベルを世界レベルにしたいという先生の思いがあり、先生は子供たちへの教育もしました。 

齋藤秀雄先生の言葉としては「歌え」という事です。 演奏というのは歌う事、自分を表現するという事です。 シュタルケル先生は「自分を知れ」という言葉が印象に残っています。  自分を十全に表現するためには、自分がどういう事をやって、どういう考えで、どういう風にしていかなければならないのか、自分を知るといことは結構難しいです。 

1963年(昭和38年)にミュンヘン国際音楽コンクールで第2位、ブダペスト国際音楽コンクールのパブロ・カザルス・チェロ・コンクールで第1位を獲得。 当時は国際コンクールは少なかった。 これをベースにウイーン、ベルリン、ニューヨークなどでデビューリサイタルを行う事が出来ました。 これが世界的に演奏する土台になりました。 演奏は創造活動で、演奏家としての創造活動はお客様と一緒になって、その場を共有して何か新しいものが出来た時に本当の創造活動だと思っています。  チェリストはお客様に正面から向かい合うので、お客様にリアクションが目に見えてしまいます。 時と場所を共有することによって新しい発見があったり、リアクションが有ったりするとこちらも嬉しいです。 

齋藤秀雄先生が力を入れたのが室内楽です。 そこからオーケストラに入って作ると本当にいいオーケストラになると言っていました。  すべての基本は室内楽的なものだと思っています。 

シュタルケル先生は、自分にとって教える事と、演奏する事は車の両輪みたいで、自分はその心棒みたいなものだといって、自分としてはどちらが 欠けても物足りないという事で、それを心掛けて演奏活動、教育活動もしていると言っています。 シュタルケル先生のティーチングアシスタントにして頂きました。 ですから教える事と演奏活動をずっとやって来ました。 教育活動はお互いにとっての創造活動だと思っています。 共有することによって生きざまみたいなものを学んでほしいと思っています。 先生の役割はいち早く一人一人の生徒の才能を見出してあげることだと或る人が言っています。 

霧島国際音楽祭ゲルハルト・ボッセ先生がわざわざ欧米に行かなくても日本の学生が先生方から素晴らしい教えを受けることができるという事で始められました。(約50年前から) 霧島国際音楽祭は全面的に鹿児島県が応援してくれています。  地元のサポートがあるのがうれしいです。 1/3~1/4の受講生は海外から来るようになりました。 音楽祭自身も海外から注目されるようになりました。 

文化勲章受章については、クラシック音楽では6人目だそうです。 器楽では初めてだそうで栄誉なことだと思っています。  館長を務めているサントリーホールも来年で40周年を迎えます。 室内楽アカデミーとオペラアカデミーと2つのアカデミーを開講しています。  大学を卒業してオペラ歌手になる人たちの橋渡しをする目的でオペラアカデミーが出来ました。 私が館長になってから室内楽のアカデミーを立ち上げました。 今では世界のトップクラスのホールになりました。 責任も生まれてきます。 もっと盛んにしていきたいし、新しい道も切り開いていきたいと思ています。 











2025年1月19日日曜日

2025年1月18日土曜日

溝渕雅幸(映画監督)           ・命のバトンを渡す時

 溝渕雅幸(映画監督)           ・命のバトンを渡す時

溝渕さんは福岡県生まれの62歳。 大学を卒業後新聞記者などを経て映像制作の道に入りました。 これまで終末期医療や在宅医療の現場を取材して、テレビや映画で伝えてきました。 今月10日からは最新作のドキュメンタリー映画「近江ミッション願いと祈りと喜びと」が公開されています。 これは滋賀県近江八幡市にある病院のホスピス病棟を中心に余命宣告を受けた患者たちの最後の願いとそれを叶えようと力を尽くす医療従事者たちの姿を捉えたものです。 溝渕さんは何故命の現場を撮り続撮るのか伺いました。

ドキュメンタリー映画「近江ミッション願いと祈りと喜びと」は命の限りが見えた人達の日常、と言ったものです。  人は常に希望とか願い、喜びとか祈りを持っていると思います。  命の限りが見えた時に その希望とか願い、喜びとか祈りとかはどういうものなんだろうと。 多くの人たちは死にたくないとか、病気を治したいとか、もう少し生きたいとかを最初に思い浮かべると思います。 死を目の前にしても持つ願い、それが叶った時の喜び、それが幸せの重要なポイントになるのではないかと思います。 ホスピスから簡易病棟に家って退院して自宅で過ごして最後を迎えることもあるし、自宅で過ごしても容態がよくなくなって又病棟に戻ってと言う事もあります。  今回の映画はホシビス病棟が中心ではあるけれども、在宅という面もあります。 クランクインが2022年11月で、アップしたのが2024年6月末です。

2013年『いのちがいちばん輝く日 あるホスピス病棟の40日』の映画と同じ病院です。前回はホスピス病棟だけの「希望館」という建物でした。 新築移転に合わせて2022年11月から今回入りました。 ホスピスケアのマインドがどのように受け継がれてきているかを観察するつもりでした。  クランクインした最初は絶望しました。 単なる閉鎖病棟でした。(コロナによる影響だけではなかった。) ホスピス緩和病棟は本来は開かれているはずのところでした。 絶望から怒りにも繋がりました。 

或る70代の男性の方が何年も抗癌剤治療得押していた大病院から無理やりこの病院に連れてこられたそうです。 家に帰りたいという事で聞きましたが、せめて孫と一緒にいたいという事でした。 前回の映画の時でも同じようなことがありました。 10年以上たっても人の願いとかは変わらないと思いました。  医療者の願いを叶えてやりたいという思いも変わらないです。 希望とか願い、喜びとか祈りは変わらない。 これをちゃんと映せばいいと思いました。 ありのままを撮ればいいと思いました。  

生まれは福岡で育ったのは大阪です。 大坂で新聞記者をやっていました。(警察担当) その後広告制作、映像の制作をやりました。  病棟の映画製作に関わるようになった元となったのが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災だったと思います。(後で考えると)その当時は新聞記者でしたが、命に係わる記事について取材をしていましたが、命に関する実感がありませんでした。  阪神・淡路大震災の光景を見て初めて人の死を実感しました。 人の死と向き合うようになりました。  1995年に亡くなった人を調べてみると90万人ぐらいいました。  阪神・淡路大震災では6400人ぐらいでした。 自分の知らない多くの死があることに気付きました。 報道にはならない死を調べてみようと思いました。  死のありようによって残された人の時間が停まったり、そのまま動いていったりして、取材をすることで見えてきました。

5作作りましたが、全部人が亡くなって行きますが、そこには喜びの場所であったりもします。  お孫さんと最後を過ごしたいと言って、寝ているところに何も言わないお孫さんがいても、そこには喜びの空間がある訳です。  この先生に最後を看ていただければ、それで十分だという方もいます。 昭和50年ごろが病院死と在宅死がクロスする時です。  在宅死の時には死が手の届くところにありました。 50年ぐらいの間に病院死が急激に伸びて、在宅死が減ってきて死が見えなくなった。  社会の変容に伴って、終末期は在宅でという流れになってきている。 

日本に死生学を広めた上智大学名誉教授でカトリック司祭のアルフォンス・デーケン先生とは非常に仲良くさせていただいています。  デーケン先生は自分が懇意にしているホスピス病棟に子供たちを連れていくんです。  死の準備教育と言います。 62歳になりますが、自分の死についてはなるようになるんだなと考えています。 多くは三人称の死についてだと思います。(自分とは直接関係ない死) ようやく二人称の死を知るようになる。  次に一人称の死、自分の死という風に段階がある。 僕の場合は取材ということでかなりの数があり、自分の死と向き合わざるを得なくなります。 去年10月に母を看取って、自分にとっても大切なものでした。  会いたい人には会える時に会う、行きたい所があれば行く、と言うような事を出来るだけやれるようにする。 

ドキュメンタリー映画「近江ミッション願いと祈りと喜びと」が公開されていますが、「ためになりました。」と言ってもらえるよりも「面白かった。」と言ってもらった方が嬉しいです。 















2025年1月17日金曜日

室崎益輝(神戸大学名誉教授)       ・阪神・淡路30年から 分かち合いたいこと

 室崎益輝(神戸大学名誉教授)       ・阪神・淡路30年から 分かち合いたいこと

災害が発生したのは1月17日5時46分。 日本災害学会などを歴任、阪神淡路、東日本大震災などその後の災害での復興や防災に携わってきた神戸大学名誉教授室崎益輝さん(80歳)のお話です。 

2024年10月に亡くなった小林郁雄さん、震災直後から都市計画プランナーとして支援のネットワークを立ち上げ、地域の人たちの復興、街つくりを支援してきました。              10年前2014年9月に亡くなった黒田裕子さん、災害看護の第一人者で阪神淡路大震災をきっかけに、NPOを立ち上げて見守地活動を続けてきました。 

30年経って街はづ極よくなったけれども、本当に復興はこれで正しかったのか、という想いは凄く強いです。 この5年、10年大きな災害があります。 災害の時代を迎えていることを実感します。  もう一度振り返ってみることによる視点、見方が違ってくると思っています。  社会の中心は私たちの世代から子供たちの世代になっている。  教訓をバトンタッチしたかという事が問われる。 

日米都市防災会議の会場が1月17日に大阪でやることになっていました。 私は準備に為に前の晩から泊まり込んでいました。 そして阪神・淡路大震災に直面することになりました。 当日は動くことが出来ませんでしたが、翌日神戸にタクシーで行きましたが、中途から動くことが出来ずに歩いていきました。 押しつぶされた街が繋がっていました。 その光景を見た時に何故か自然と涙が出てきました。  私自身が、兵庫県に地震が起きた時にどういう被害が起きるのか、被害想定をしていましたが、私の筋書きにはないことが起きていました。 

50万棟の調査をすることにしました。 2000名ぐらいの学生の協力を元に一軒一軒歩いて、どういう形で壊れたのか、全壊か半壊かなど丹念な調査をし地図を作成しました。 人の被害の状況も調査をして、どうすれば人の命を守れるのか、生きるためのアイディアが出て来ます。  きちっとしたデータを残すのが被災地にいる専門家の責任で、それを果たさなければいけない。  避難場所でも亡くなる方がいる。 過酷な環境で雑魚寝状態で食べ物も充分にないという状態でした。  やらなければいけないことが沢山あり、つい目先のことに関わっていた。 

小林郁雄さん、震災直後から都市計画プランナーとして支援のネットワークを立ち上げ、地域の人たちの復興、街つくりを支援してきました。  小林さんがいなければ今の神戸の復興は成し遂げられないと思います。  彼は冷静に客観的の分析する能力を持っています。 いろいろな人たちを繋ぎ合わせて、皆の力を引き出しながら、コディネートする力が凄くあります。 連絡調整網を作るとともに、どういう方向に向かうべきかという方針を提示する、神戸復興の街づくりの指揮官としての大きな役割を果たしています。 

住民の方に目を向ける、そこがまさに私は災害復興に一番重要なことだと思います。 ほぼ1か月後に突然復興の行政方針がでますが、市役所に押しかけたり、一斉に反発が起きました。 大枠の復興はトップダウンで示すが、具体的な中身はボトムアップで住民自身が決める。  小林さんは各地に街づくり協議会を作って街づくり協議会で合意形成をしながら、住民の被災者の声を計画に反映してゆく事をやられたと思います。 

小林さんは復興の道筋についても客観的にしっかりとらえていました。 出来るところから徐々に進めてゆく、ステップバイステップで、復興は進めなくてはいけない。  被災者が空いている敷地に花を植えて元気になって、元気になったら自らが計画を作ってゆくという風に、復興のエネルギーをどういう風に育んでいくのか、という事を考えながら今やるべきことを示して、上手に言われるんです。  皆が小林さんの言葉に耳を傾けるようになりました。 

東日本大震災では、優れた街つくりの計画を作っても、住民の納得を得なければ失敗すると話したうえで、行政と住民の間に立つコーディネーターが街づくりが上手くいくかのカギになると指摘しています。 医者で言うとセカンドオピニオンという立場です。 少なくとも3年ぐらいは住民の人たちと生活をしながら、その地区で先のことを考えるタイプに人ですね。 そういう人を派遣することが大事ですね。  小林さんは復興はプロセスだと言っています。 プロセスさえ正しければ必ずそのプロセスから正しい答えが出てくるんだと言っています。 プロセスとは、いろいろな意見を聞きながら、意見を戦い合わせながらみんなが納得できる道筋を見出してゆく。 「想いは先に、形は後に」、想いを出してぶつけることが重要で、それがなければ結果は生まれてこない。  コーディネーターは声を引き出す役割に徹しないといけない。 

黒田裕子さん、災害看護の第一人者で阪神淡路大震災をきっかけに、勤めていた病院を辞めて一人暮らしの高齢者の孤独死を防ごうと、NPOを立ち上げて見守地活動を続けてきました。 新潟県中越地震、東日本大震災でも避難所や仮設住宅に寝泊まりして、被災者の心のケアや孤独死を防ぐ取り組みに力を注いできました。(2014年9月に亡くなる。) 

当時黒田さんが支援に入っていたのは、大規模な仮設住宅で、1800人もの人たちが暮らし、高齢化率は50%近くに達していました。 黒田さんが心がけたのはコミュニティーの強化です。(孤独死、自殺をなくす目的)   被災者が元気になるにはコミュニティーの中で支え合う中で元気になってゆくための基盤として、その場を作り上げてゆく事です。  メッセージを入れたりして、1年かかってようやく戸を開いてくれた方もいました。   被災者の気持ち、に耳を傾けることが大事です。  大事なことは押し付けないという事です。 待つ事、沈黙ですね。 相手が受け入れてくれないと、ボランティア活動をしたくてもボランティアなんてできません。  自分の中に信念と責任をもって相手と向き合う事が出来ているか。 本気で関わらなうと相手は受け入れてはくれない。 

黒田さんは一人一人の状況を聞いたりせずに、見て感じたことをこまめにノートにメモしていました。 その人の置かれている状況を把握いたうえで、必要な支援を提供することが重要です。 被災者の心の中に入らないと支援できないという事を黒田さんから学びました。  

繋がりを作ることが重要です。 被災者と支援者の繋がり、環境をどういう風に構築するかという繋がりが重要です。  最後に必ず復興は成功すると思っています。 希望を共有する。 場合によっては希望を作り上げてゆく。  皆が共有できる目標を作ってゆくという、どういう形で合意形成をどういう形で進めるのか、という事だと思います。 








2025年1月16日木曜日

未唯mie(歌手)             ・〔わたし終いの極意〕 まずは自分を喜ばせよう!

未唯mie(歌手)         ・〔わたし終いの極意〕 まずは自分を喜ばせよう! 

未唯mieさんは静岡県の出身67歳。 1976年にピンクレディーとしてデビュー、国民的アイドルとなりその活躍は社会現象にもなりました。 その後ソロ歌手としてデビュー、毎年1月にピンクレディーの楽曲を大胆にアレンジしたソロライブを全国各地で開催して人気を集めています。 今年で芸能生活45年、多くの出会いから学んだ生き方仕舞い方のコツ、新たな年にかける思いなどを伺いました。

ここ16年ほど年が明けてすぐに「新春ピンクレディーナイト」というライブ作品を続けています。 邦楽器を中心にピンクレディーの楽曲を全然違うアレンジした奇想天外のものです。 着物を着てブーツを履いて大胆に踊ったりします。  着物を多く手がけたのがデザイナーの桂由美さんです。 私が24歳の時にコレクションに出させていただいて、3億円のウエディングドレスを着させて頂きました。 ダイアモンドがちりばめられていました。 そこからスタートして可愛がっていただきました。  紅白歌合戦では「透明人間」を歌った時に工夫をして或る時には衣装だけが歌って踊っているようなこともやっていただきました。 アイディアが泉の様にあふれ出てくる方です。 

ドラマーの村上ポンタ秀一さん、私がライブ活動を始めたのが2007年からですが、ピンクレディーのオリジナルのドラムを叩いてくださった人です。 毎回日本屈指のメンバー集めてくれました。  音楽家とはこういう風にして音を大切にしながら、皆さんにお届するものなんだなという事を心に感じました。  料理の服部先生の番組で先生との出会いがありました。  食について勉強したいなあと思って、食育インストラクターの勉強を服部先生のところで行いました。  服部先生が言うのには、食というのは人間形成において凄く大事で、ファーストフードを子供が一人で食べるような環境は、心と身体が育たない、切れやすい人に育ってしまうので、ちょっとでもいいから手をかけて楽しい話をしながら一緒に食べることをしてほしいと言っていました。  そういう思いを繋いでいきたいと思っています。  志を持って生きた方たちの思いは残りますし、私たち残された後輩は繋いでいきたいと思います。 

ピンクレディーの時代は濃かった時代です。 多くの出会いがあって、多くのことを学んだ時代でもあります。   30代になって改めて歌おうと思って歌詞を味わい直すと、この曲ってこんな深いことを伝えていたんだという事に改めて気づいたりしました。 体力的な事とか衰えを感じる部分がありますが、どんなトレーニングをしたら自分のしたい表現がし続けられるのかを考えた時に、機械を使ったトレーニング方法、インナーマッスルとかで行ってきましたが、もっと深くアプローチしたいと思った時に、ボーンメソッド(骨の関節の使い方)と言って、骨を正しく使う方法です。  身体が動いてくれるような感覚になって来ました。 人って老いてくるのではなくて進化してゆくものだと思うんですね。 

バランスよくいろんな食材を頂くという事も大事です。 食べる順番で身体の負担を軽減する。  肉、魚などのタンパク質から先に食べて、野菜を食べて一番最後に炭水化物を少しだけいただくみたいなことをしています。 自分の身体と仲良くしていきたいと思っています。  いつの時代も今が一番楽しいと思えるような生き方が出来てきたのが一番褒めてあげたいです。 

「新春ピンクレディーナイト」を始めた時から、着物の所作が綺麗になるようにと、日舞を習い始めて、コロナで外に行けなくなって、名取になりたいと思って稽古を積んで1年弱ぐらいで名取になりました。 ギターも始めました。 アコ―スティックギターの第一人者の吉川忠英さんにレッスンを受けました。 ステージでもちょっと弾くようになりました。  

「ハレルヤ」という楽曲ですが、 ハレルがあがめる、ヤが神という意味です。 私自身はヤは貴方をたたえるという風に解釈して、そうすれば温かい世の中になると言う思いがあり、この曲を歌っていきたいと思っています。 何時亡くなったとしても後悔のないような生き方をしていきたいと思っています。 心地のいい状態,楽しく好きな仲間たちと過ごすことが沢山あったり、そんなふうにしていくといつでも楽しいなと思います。 〔わたし終いの極意〕 としては、いつでも自分を喜ばせてあげることを一番にして、ご機嫌さんで居ることが、自分にとっても周りにとっても一番いいんじゃないかと思っています。 








 










2025年1月14日火曜日

千住真理子(バイオリニスト)          ・50年、その先をみつめて

千住真理子(バイオリニスト)          ・〔50年、その先をみつめて

千住さんは1962年東京都の生まれ。 2歳半からヴァイオリンを始め、12歳の時にNHK交響楽団と共演してプロデビューしました。 以来、国内外の多くの指揮者、オーケストラと共演、映画やドラマのテーマ曲の演奏やテレビやラジオ番組の司会など精力的な活動を続けています。 そんな千住さんには20歳になってからの数年間ステージに立つ自信を失い、演奏することが出来なくなった挫折の日々があります。 この辛い時期があったからこそ今の自分があるという、千住さんのヴァイオリン人生とこれから先への思いを伺いました。

自分の人生を何回も何回もやっているような、そんな気がします。 1975年1月、12歳の時NHK若い芽のコンサートNHK交響楽団と共演しましたが、凄くよく覚えています。  中央に行くまでの急いで歩く練習をしました。  それが今でも大股でさっさと行くことが癖になってしまっています。  ライトが強くて目を閉じて演奏して、これも今に繋がっています。 後音を大きく演奏するようにいわれて、この3点を覚えています。 15歳で日本音楽コンクールを最年少で優勝。 1979年、17歳の時、第26回パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞。 、12歳頃から「天才少女」と呼ばれてきた。 10代は私にとって一番忙しくて、一番つらくて、ヴァイオリンと勉学の両立は出来ていなかったと思います。   

練習をすれば弾けるという達成感、面白さはありました。 プロとして演奏しなければならないことの責任の重圧は凄くありました。 「天才であり続ける」こととのギャップに心身が悲鳴を上げた。 学校がない時には1日14時間ぐらい練習をしていました。 食事をする間もないぐらいで、ストップウオッチで自分の行動時間を計算していました。 山本直純先生からは笑顔と「おおきくね、」という身体の表現を今でも覚えています。 

10代で追い詰められて、精神的にも肉体的にも一杯いっぱいになってしまっていて、毎晩身体に湿布剤を貼って、母にマッサージをしてもらって、それが何年も続くとこんな人生が一生続くものなんだろうかと思って、20歳の時には人生を止めるか、ヴァイオリンを止めるかという様なところまで考えるようになってしまいました。  母に相談して一緒に泣いてくれて、ヴァイオリンを止めることに家中できめました。  一生ヴァイオリンは弾かないという決心で母にヴァイオリンを預けました。 たまたまホスピスの方から電話があって、「最後に千住真理子に会いたい」という末期患者を見舞いのため、ホスピスにヴァイオリンを持って行ったんですが、途中からヴァイオリンを弾けない自分に驚きました。 でもその方が「ありがとう、ありがとう」と言って握手してくれました。 不思議な感動と罪の意識(この人の一番大切な時間を穢してしまったという)、いろんな感情が入り混じって逃げるように家に帰って来ました。 何の意味もなくヴァイオリンの練習をはじめました。(再デビューではなくて、いたたまれなかった。) 

24歳の時に1986年NHKの『ワールドネットワーク 世界はいま』のキャスターを担当しました。 再デビューをしようかなという時期でもありました。 番組ではクラシックとは別のものの考え方、見方、感じ方、全部違う事に驚きました。 人間っていろいろな人がいるんだなあと、知りました。 しゃべることの勉強をするうちに、自分の考えが段々まとまって来ました。 自分の言葉で自分の意見を述べるという事を段々覚えていきました。 再びヴァイオリンを持ってから7,8年目に再デビューすることが出来ました。  それまで練習では指が動くんですが、ステージに立つと指が動かないという時が続いていました。 足ががくがく自分でも不思議に思うぐらい震えていました。 

少しずつ直って行くと思っていました。 チャイコフスキーの曲を都内で演奏していて、1分ぐらい経過した時に、すべての感覚がいきなりワーッと戻ってきて、身体がぞくぞくして弾きました。 その時が私の再デビューだと思います。(29歳)  再デビュー後は音楽がやりたい、人と音で繋がりたい、聞いてくれる方の心に入っていきたい、音で人を慰めることがしたい、という風に私の望むことが全く変わりました。 10代はテクニックばっかり追い求めていました。  

2002年(40歳)スイスの或るディーラーの方から電話がかかってきて、1716年製のストラディヴァリウスが手元にあるという事で、その「デュランティ」(ストラディヴァリが製作してすぐにローマ教皇クレメンス14世に献上されたと伝わる。)を日本に持ってきて、ついに購入することになりました。(千住家が2億円から3億円(正確な金額は非公表)で購入 300年近くほとんど演奏されることはなかった。)  なかなか言う事を聞かない「デュランティ」でした。  なかなか言う事を聞かないというのがストラディヴァリウスの特徴です。 ヴァイオリニストの言うままにはならない。  私も頑張って弾けるようにしようと思いましたが、身体を壊してしまい、点滴を受けながら演奏会をやるようになりました。  毎朝生卵を3つ飲みました。  そうしたら負けなくなって筋肉が付くようになりました。  そうすると弾けるようになりました。  筋肉をつけるために水泳もやるようになって一日3km泳ぐようになりました。  

2013年二人三脚でやってきた母が亡くなりました。 私たちは3人兄弟ですが、「芸術家は悲しんでいる人のためにあるのよ。 だから真理子は悲しんでいる人のために弾きなさい、辛い思いをしている人のために弾きなさい、そのためには貴方はまだつらさが足りない、悲しみが足りない、だからもっと辛い思いをしなければいけない、悲しい思いをしなければいけない。」と言いました。 自分自身で痛み止めを飲まないと決めて、最後までその姿を見せる。 3人の兄弟で痛み止めを打って欲しいと言ったんですが、母は最期まで打たずにただただ最後まで苦しんで亡くなりました。  

5月には3兄弟コンサートがあります。 日本画家、作曲家、ヴァイオリニストのコラボです。(25年前にやったきり) 意見のぶつかり合いの中で進めています。 クラシック音楽が難しいものではないという事を判っていただくような、トークを交えながらの演奏会をやっていて、クラシック音楽って聞きやすいねと思っていただけるような音楽をやりたいと思います。 ヴァイオリニストとして生きてきたのでヴァイオリニストとして死んでいきたいと思います。  人の声のようなヴァイオリンの音楽が奏でることができるのが、私の夢、理想でそうなるために、そこを目指して頑張っています。 












2025年1月11日土曜日

永島昭浩(元ヴィッセル神戸選手・スポーツキャスター)・阪神・淡路大震災30年 “復興のシンボル”とは

永島昭浩(元ヴィッセル神戸選手・スポーツキャスター)・阪神・淡路大震災30年 “復興のシンボル”とは

ヴィッセル神戸は1995年にチームとしての活動を開始、初めての練習が予定されていたのが1月17日(阪神・淡路大震災の日)でした。 震災のあの日に歩み始めた姿は当時復興のシンボルと言われました。   永島さんは神戸市の出身で、1993年のJリーグ開幕当初は国内屈指のフォワードとしてガンバ大阪で活躍し、震災当時は清水エスパルスに在籍していました。 しかし震災で神戸市須磨区の実家が被災、神戸を勇気づけたいと、当時はまだアマチュアリーグに所属していたヴィッセル神戸に加入し、Jリーグ昇格に貢献しました。 引退後は民放のスポーツキャスターとしても活躍された永島さんに当時の記憶、そしてヴィッセル神戸への思いを聞きました。

阪神・淡路大震災から30年、あっという間です。 震災があった当日は静岡にいました。  電話を受けてテレビを見たら、これが現実に起こっているんだという事を確認しました。 実家が神戸市の須磨区にありました。 新幹線で移動中に何百回と電話をかけましたが繋がりませんでした。  車の大渋滞で夜中に須磨区に到着しました。  街灯は消えていましたが、周りは火の海でその光で様子が見えました。  実家にはたどり着けましたが、両親はいませんでした。 避難所で知り合いから、怪我をしているが命は助かったという事は聞くことが出来ました。  一山越えるとコンビニもやっていて、食料を購入して避難所へ持っていく事を何度も繰り返しました。 現実を受け入れなければいけない、冷静さを欠いてはいけないという事、自分には何が出来るかという事を考えました。 

清水エスパルスでプレーしていましたが、当時アマチュアのヴィッセル神戸への移籍については迷いはなかったです。 加入当初は大変でした。 練習場がないのでどこかの学校の運動場を借りたり、シャワーもなく自分の手入れもしなくてはいけない。 しかし周りのことを考えると、不満等は一切なかったです。 サッカーだけでなく野球とか、ラグビーも一緒になって神戸で結果的には「頑張れ神戸」というキャッチフレーズが出来ました。 多少なりとも復興のシンボルにという風に思ってもらったことに、責任感は一神戸市民として背負わなければという思いはありました。  

練習場の近くには仮設住宅があり、毎日見に来てくれるおじさんがいました。 「頑張ってくれ。」と声を掛けられて、その存在は大きかったです。 2年目にJリーグ昇格を決め、本当に嬉しかったです。 パレードをしましたが、皆さんが大変な中、「おめでとう。」と言ってくれて嬉しかったです。  自分がベストを尽くすことがメッセージだと思ってプレイしました。 もちろん結果を出すこともキャプテンとしても重要でした。 

スポーツの良さは喜怒哀楽を全身で出して、人としての感受性を高めることが重要だと思っています。 ヴィッセル神戸が昇格するときにはそのすべてが出来たと思います。 キャスターとして接する中で、分析、考えることができました。  その後、いろいろな被災地へ行って、如何に環境を整えてあげることができるか、そして喜怒哀楽が出るような環境へという風なことをやりました。 

ヴィッセル神戸へは3連覇を目指してもらいたい。 アジアのチャンピオンリーグで優勝してもらいたい。 プレイに影響しない範囲で、日常でコミュニケーションが取れる機会を沢山作ってもらえればいいと思います。 人としてのチャンピオンになってもらいたいです。 社会に貢献することも大事なことだと思います。  






2025年1月10日金曜日

2025年1月9日木曜日

小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト)    ・母の遺した我が家の歩み 後編

小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト)    ・母の遺した我が家の歩み 後編 

小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。

ラグビーで指を怪我した征爾はピアノを諦め、親戚の斎藤秀雄氏のお宅に一人で伺って指揮をしたい旨話したら、来年音楽学校が出来るからそこに入って来なさいと言われて、それが桐朋学園の音楽科だったんです。 母が讃美歌を教えてくれたのが、我々4人の音楽に対してのきっかけだったと思います。  征爾は中学で合唱団を作って僕も入りました。 その時に歌ったのが全部讃美歌でした。  その合唱団が今でも続いています。  音楽に対する才能がありそうだという事で、父がピアノを購入する決心をするわけです。  ピアノの値段が3000円でした。 父は高級カメラなどを売ってようやく3000円を作ったらしいです。 父はカメラが趣味で家族を撮りまくって、アルバムが10冊ぐらいありました。  それを母が引き上げる時に全部持ってきました。 兄たち二人が横浜からリヤカーで3日かけて立川の家まで持ってきました。 心配で父も途中から参加した様です。 征爾は弾いてみて、音が「綺麗だね。」と言ったのを覚えています。(運んできて調律もしていないのでそうではなかったと思いますが。) 4人のために買ったピアノでしたが、翌日から征爾がほとんどずーっと弾いていました。

ラグビーに対しては母が指を怪我するからやめた方がいいと言われていたが、母に内緒でラグビーを続けてとうとう試合で指を何本も骨折して、鼻の骨も折って包帯だらけでピアノの先生のところにいったら、「小澤君ピアノだけが音楽ではないよ。指揮というものがあるよ。」と先生がおっしゃったというんですね。 素晴らしい征爾の一生を決める一言だったと思います。 豊増昇先生という方は当時は日本を代表するピアニストでしたが、征爾にはバッハしか教えなかったというんです。(他の生徒にはショパンとか教えたのにも関わらず。)  征爾はバッハをやったことが後々役だったと言っていました。 先生の兄さんとうちの父が中国で一緒に政治団体で政治活動をしていた。 そういった関係で弟子にしてくれたようです。 

フランスの国費留学生の試験に落第してしまって、それでもフランスに行ってしまいました。 自分では受かるつもりだったが、フランス語が全然できなくて落ちてしまったらしいです。 スクーターを貨物船に積み込んでフランスに行っちゃったようです。  マルセーユからパリまでスクーターで1週間ぐらいかかって行ったそうです。 宿は安いユースホステルや野宿をしたそうです。 掲示板にブザンソン指揮者コンクール募集と書いてあったが、締め切りが過ぎていました。 諦めずに日本大使館に行って交渉したが何もしてくれず、諦めずアメリカ大使館にいったらブザンソン音楽コンクール事務所に連絡をして、締め切りが終わってしまっていたのに特別に受け付けて貰いました。 課題曲を一生懸命練習して優勝してしまいました。 

フランスではカラヤン、バーンスタイン、シャルル・ミュンシュと言った指揮者から師事する。 井上靖さんがローマオリンピックの件でパリに取材をしに来ていたそうです。 出会って、コンクールで優勝したのにもかかわらず仕事が来ないので日本に帰ろうかと弱音をはいだら、先生は怒って「小説は書いても翻訳されなければ読まれない。 音楽は演奏すれば世界中の人に聞いてもらえるんだから、もっとフランスで頑張れ。」と言われたそうです。以後征爾は先生が亡くなるまで親しくしていました。  

ヨーロッパで指揮者としてデビューした当初、新聞記者、評論家から「お前は日本人なのによくモーツアルト、ヴェートーベンが判るな。」と言われたそうです。 褒め言葉みたいではあるが、本当は判っていないだろうという差別的なニュアンスで、言われたというんです。(何年にも渡って言われた。) 東洋人が西洋人の音楽をどこまで理解できるかの実験が俺の使命だというようなことをよく言っていました。 言葉が通じないオーケストラでも俺は大丈夫だといっていました。  集中力があり、舞台の30分ぐらい前に15分ぐらい鼾をかいて寝たりするんです。 パッとタキシードに着替えて舞台に出てゆくんです。  朝4,5時に起きて集中的に勉強して覚えるらしいです。 

立川は米軍が来て治安の悪い街になってしまったので、父は田舎に行って百姓をやろうという事で神奈川県の足柄の田んぼばっかりの藁ぶき屋根の家に引っ越して田んぼをやりましたが、会社を作って倒産したりしました。 僕が高校1,2年のころにはどうにもやっていけなくなって、歯科医院を作って何十年ぶりに歯医者を始めました。 母は愚痴一つ言わずにやって来ました。 

征爾が高校をどこにするかという時に、玉川学園と成城学園があり、玉川学園は一貫教育で成城学園は来たいときに入って出たいときには出ればいいという事で、母と一緒に決めて成城学園に入ったそうです。 成城学園で音楽の仲間がいっぱいいたので、いい3年間を送りました。 いつか「俺が成城学園に行っていなかったら音楽家になっていなかった。」と言っていたことがありました。  或る合唱団に入って、指揮によって音楽が変ることを知ったそうです。 兄から指揮の練習方法などを教わりました。  貧乏で中学の授業料の滞納があり、掲示板に良く征爾と僕の名前が張り出されていました。 征爾は小田急小田原線新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学しましたが、小田急電鉄の重役さんと知り合って、電車がただで乗れる株主券を呉れたと言って通っていました。 

征爾が北京中央楽団で指揮を執ることになった中国再訪では、家族4人で行きましたが、大感激の中国再訪でした。 残念なのはあんなに行きたかった父が亡くなってしまっていました。 譜面台には父の写真、斎藤先生の写真、シャルル・ミュンシュの写真を置いて振っていました。 母が作って売っていた九重織りのネクタイは結構有名になり、銀座の有名な洋品店のショーウインドウに展示してあったそうです。 両親はこんなことをしてはいけないとか言わずに、自由にやらせてくれました。 母は明るくて前向きでした。 今考えると母が征爾を音楽の道に導いてくれた様な気がします。 














2025年1月8日水曜日

小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト)    ・母の遺した我が家の歩み 前編

小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト)    ・母の遺した我が家の歩み 前編 

小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。 

小澤征爾の二つ下です。 長男克己は昭和3年うまれ、次男俊夫は昭和5年うまれ、三男征爾は昭和10年生まれ、幹雄は昭和10年生まれ12年生まれ。 父は元々歯医者でしたが、政治団体の幹部として入って、政治活動をやっていました。 小澤開作山梨県西八代郡高田村出身で、草履を作って本代に当てた。  勉強が人一倍好きだった。 上京して東京歯科医専(現・東京歯科大学)で学び、歯科医の選定試験に最年少で合格。 24歳で満洲に歯科医として行く。 五民族の協和思想に共鳴し、政府を批判して「華北評論」という雑誌を編集発行する。 日本の軍などを批判したらしい。 睨まれて憲兵が毎日朝から来て父親の行動を監視していたらしい。 私は憲兵の顔を覚えているし、庭で遊んでもらった記憶があります。 小山さんという憲兵が父と酒を飲む交わすうちに、段々父に染まってしまって父の子分みたいになってしまった。 

昭和53年に征爾さんが中国の楽団の指揮で北京に行くという事で、家族で当時住んでいた家に行きました。 父は中国にいきたいといっていたが、文革の間は駄目で、ようやく昭和53年に楽団の指揮で北京に行くという事で大歓迎を受けました。 北京中央楽団にコンサートマスターの楊秉孫さんという方は四人組を批判したために、監獄に入っていた人だそうです。 「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」は文庫本にもなっています。 母が喋ったことを聞き取って本にまとめたものです。 中国から引き揚げてくる時に父は日本を批判したために追放になってしまったらしいです。  昭和16年の3月に母と我々4人兄弟だけは日本に引き揚げてこれました。  

私は早稲田大学在学中に学士演劇に夢中になり、卒業を待たずに東宝演劇部入団する。 学校に行きながら東宝の舞台を2年ぐらいやりました。 菊田一夫さんの面接を受けてそれだけで入ることになりました。 先生は「鐘のなる丘」「君の名は」などを手掛けるが、本当は演出家であり、劇作家です。 先生は小学校しか出ていなくて、養子に出されて点々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった。 兄の征爾とは顔つき、声なども似ていてよく間違われたりしました。  初舞台が五味川純平の「人間の条件」でした。  ベストセラーでした。 テレビで上演されてその後映画にもなりました。 「がめつい奴」「放浪記」などにも出演しました。  その後ミュージカル、東宝歌舞伎、現代劇などに出ました。 

昭和35年「がめつい奴」では「がめつい」という言葉が流行語になりました。 大阪から上京してきた天才少女と言われる小学5年生の中山千夏さんと仲良しになりました。 お兄ちゃんお兄ちゃんとなつかれました。 「がしんたれ」は菊田一夫先生の自伝です。  「がしんたれ」は大阪の子供を軽蔑した様な言葉です。 菊田一夫先生の子供時代を中山千夏さんがやりました。 先生は大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめますが、僕はいじめる兄弟子の役をやりました。 中山千夏さんは絵をやっていて個展を見に言ったりしました。 

東宝ミュージカルの「王様と私」では王様の秘書役をやりました。 越路吹雪さんの付き人を会社の命令でやっていました。 越路さんが本格枝的にミュージカルをやるようになったのは「王様と私」だと思います。  母はクリスチャンで讃美歌を一杯覚えました。 日本に変えてきた時に母から4人兄弟は讃美歌を教わって沢山歌いました。 それが音楽との出会いでした。 そのころから征爾に耳は良かったです。 母は引き揚げてくる時にアコーデオンを持ってきてそれが役立ちました。 そのうち征爾も弾くようになってたちまちうまくなり、中学に通っていた兄が音楽室のピアノを使って手ほどきをしたらいです。 直ぐに上手くなって本格的にやらせたいという事で、食べるのも苦しい時代に父がピアノを購入してくれました。  3日かかって横浜から立川までリヤカーで兄たちが運びました。 

父は歯医者はやりたくなかったが、食べてゆくために歯医者を始めましたが、72歳で亡くなってしまいました。 父は急死だったので父のことについては聞けなかったので、母から娘時代から現在までをしゃべってもらって、まとめたのが「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」です。 征爾は成城学園に入って、音楽が盛んで征爾はラグビーもやって指を怪我してしまって、ピアノが出来なくなり、先生から指揮というものもあると言われて、親戚に斎藤秀雄という人がいるという事で、指揮の勉強をするようになりました。 

立川の家では水が飲みたくれ防空壕から出て行った時に、アメリカの戦闘機から銃撃を受けました。 何とかあたらないで助かりました。 一生忘れられない思い出です。 8月15日の終戦の日はラジオの前にみんな集まって聞きました。 その時に父は「日本は戦争に負け得て良かったんだ。」と言っていました。 父は日本に戻って来てからも特高の監視がありました。 特高の人が、父が亡くなった時に母への手紙が来て、「小澤さんほど立派な人はいなかったというようなこと、ひそかに尊敬していました。というようなことが書いた手紙が来ました。 母はその手紙を読んで泣いていました。 

父は行動的な人でベトナム戦争を何とかしたいという事で、アメリカのロバート・ケネディー氏に会って意見具申をしました。 長男は若くして亡くなりましたが、芸大の彫刻でしたが、ピアノも出来るし作曲も出来ました。 征爾に音楽を教えたのは兄でした。 兄がいなかったら音楽はやらなかったかも知れないです。 働き過ぎたのか病気で倒れてしまいました。 NHKの大河ドラマ「勝海舟」の時には、英語が出来たのでジョン万次郎の役をやりました。 



























2025年1月4日土曜日

近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと

近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと

 1995年1月17日早朝、大都市を襲った阪神・淡路大震災は震災関連死を含めると6434人が亡くなる大きな災害でした。 犠牲者の7割から8割が圧死、窒息死でした。 多くの人が住んでいる家が崩れて、その下敷きになって亡くなったのです。 近藤さんはいまは建築物の安全、街の安全を考える建築都市計画を専門に研究していますが、当時は神戸大学工学部建設学科の1年生でした。 建築を学んでいた近藤さんはあの時何を目撃したのか、その後どのように研究テーマを模索したのか、今回は神戸大学工学部の教室で後輩の学生たちを交えて公開収録を行いました。 

建築の都市計画、建築の単体の性能を安全にすること、建築が集まったときにできる街をどのように安全にしてゆくか、というようなことをやっています。 入学した時には建築学科だったので普通の建築士になろうと思っていました。 

当時私は滋賀県の実家にいたので震度4ぐらいでした。 母親が神戸が大変なことになっていると言いに来ました。 ニュースで自分が通っているところが激震地だと初めて判りました。 10日後ぐらいの神戸の街に戻りました。  電車の車窓から被害状況を見ましたが、今でも目に焼き付いています。  工学部の説明会が1月31日にありました。 学生の安否についての情報を掲示板に貼り出して、情報を集めました。 全学では39人の生徒が亡くなっていて、工学部は10人が亡くなっています。  建設学科では2人亡くなっています。 国際文化学部の体育館の武道場も避難所になりました。 

被災地の住宅の調査を行いましたが、私は実家でそのことを聞いたんですが、参加はしていませんでした。(怖かった。 今では後悔があります。)  4月には学校も再開しました。  防災については関心がありませんでした。  都市計画に関心があり、その研究室に行こうと思いました。  建築を安全に作るという事は教えていたが、どういう風に壊れたか、壊れるかという事は教えてなかった、そういう事を勉強しないといけないとある先生が言っていました。  建築が人の命を奪ったわけですから、それは安全ではなかったという事です。 復興の街作りが必要と思いました。 住民は元に戻りたい、行政は安全な街つくりをしたいという事で意見の対立も起きました。  住民主体の街つくりを支援する建築士、都市プランナーが組織しているNPOがアメリカ、イギリスなどにあり、5年間ぐらい調査していました。 

安全でよりよい環境にしようと思っているのが復興で、こういうことをしたら自分たちも安全になるし、説得している専門家のドキュメンタリーを見て、こういう事をしていたんだと思いました。 こういう方向に行きたいと思っていました。 1998年大学院の1年生の時に震災犠牲者聞きがたり調査に加わりました。  建築がどうやって人を殺したのか、どうやって壊れたのかと言った事です。 聞いて間取りの図面を起こしたりもしました。  30人ぐらいのご家族の遺族の方から聞きました。  倒壊に対する技術があっても、それが社会で使われるという事には大きな隔たりあって、そこをどうやって埋めていくのかという事が課題です。 

2005年アメリカのハリケーン、かトリーナの時には現地に入って、災害からの復興という事で取り組みました。 現地に入ったのは、発生後半年後ぐらいでした。 津波が来たような破壊状況でした。 復興計画に市民の声をどういう風に反映させて、対話をして計画が作れるかどうかという事でした。 阪神と同じで、最初は対立の状況でした。 ニューオリンズの市長が出した復興計画を白紙に戻しました。  地域ごとに、地域づくり協議会を作って、皆で考えて行こうということで、下からやり直しました。 

2011年東日本大震災の時も妊娠中でした。(カトリーナの時も同様) 地元の高校生を定点観測を行いました。 町の状況がどいう風に変わってゆくのかという事を調べて、復興のきっかけにしてほしかった。  若い人たちが復興の担い手になって欲しかった。 災害に対して市民、研究者、行政などがアクションしてゆく事が進んで行けば、防災という事はそんなにいらないのではないかと思います。 






2025年1月1日水曜日

柳家さん喬(落語家)          ・私を会長とよぶな!

柳家さん喬(落語家)          ・私を会長とよぶな!

柳家さん喬さんは東京都墨田区出身、1948年生まれ76歳。 1967年に柳家小さん師匠に入門、前座は「小稲」、1972年二つ目に昇進して「さん喬」、1981年に真打に昇進ました。 さん喬さんは古典落語の名手として知られていて、古典落語の神髄を語る正統派落語の雄とか、上手くて面白い伝統派の代表選手、人情話も魅力的に出来る噺家などと言われています。 2012年度芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞、2014年に国際交流基金賞 受賞(落語家としては初受賞)、浅草芸能大賞奨励賞受賞など多くを受賞しています。去年6月に落語協会会長に就任した柳家さん喬さんに伺います。 

去年で落語協会創立100年になりました。 入門して50年以上になります。 会長職はまだ自分ではつかみ切っていないです。  一日5席は当たり前にこなしているような状況です。 6席というときもまれにあります。  若い頃にある落語を話していて、葛藤があるところで神経を入れ過ぎて酸欠になってしまったことがあります。  感情というものを入れるのはそういう事ではないんだ、お客様にどういう風に伝わるかであって、自分の感情を無理やり押し付けるという事は違うよねと思うようになりました。 或る落語会に有名な方たちが来たことがあり、そこで「高砂や」をやったんですが、笑わそうと一生懸命やったんですが、師匠のおかみさんから「くさく」やったんだろうと言われてしまいました。 過剰演技と「くささ」はちょっと違うかも知れませんが。 感情を伝えることが或る意味「くさい」という事になるのかもしれませんが。 先々代のつばめ師匠に「くさい」というのは良くないのか聞いたことがあるんですが、「若いうちにくさくなかったら、歳をとってからどうするの」と言われました。 若いうちにくさくやるから、歳をといってからは大げさな表現をしなくても角が取れて行って、真ん中の部分だけがお客様に伝わる。  若いうちにくさくやらないと角が取れない。 

うちの師匠はいいところはいいと、悪いところはこうだと言ってくれました。(普通、良いところを弟子には褒めないが) ネタはざっと300ぐらいあります。 直ぐにやれるのは50ぐらいですかね。  話は百篇しゃべって初めていろいろなものを見い出せるものじゃないかなと思います。  お蔵になっていたものを引っ張り出して、年齢でものの見方、考え方が違うので、違うような話になって行く気がします。  

2017年度に紫綬褒章受章しています。 師匠からは60代を頂点にするように言われました。 そうするとゆっくり下がって行く。 勉強を怠るとスパーンと落ちる。 人情話でも若いときと歳を取ってからでは随分と違ってくると思います。 すべて総合されたものが一人の噺家です。 先輩たちが残してくれたのは話の幹で、その幹から枝葉を付けてきたのがその時代その時代の噺家たちだと思います。 その花がその時代に有っているかどうかは演者の判断だと思います。 先々代彦六師匠がうちの師匠に私のことに対して、人情話をさせた方がいいと、言って下さったことがあるそうです。 ではやってみようと背中を押された思いはあります。 落とし話と人情話の両方ともちゃんとできる噺家になりたいとは思っています。 

高校卒業してすぐに願っていた小さん師匠に入門出来ました。 師匠はくどくど言わずい一言いうだけで、返ってそれが考えることになります。  或る時に師匠に内緒で旅に出てしまいました。 帰ってきたら凄く怒られました。 何で一言言わないんだ、誰それ師匠に頼まれましたと、その師匠に会った時にうちの弟子がお世話になりましたと礼が言えるだろう、それが言えないことで俺が恥を掻くことになる、という事でした。 首になるのは覚悟しましたが、他に弟子がいっぱいいるのに、この着物たたんでおいてくれと穏やかに言うんです。 どれだけ救われたかわかりません。 大切な教えだと思います。

柳家喬太郎を初め沢山の弟子を抱えるようになりました。 芸は一代限りだと思っています。 芸を継承する事は大事だと思っていますが、芸の継承は本質的な部分であって表現の仕方を師匠そっくりにやって見ても、本来の継承にはならないと思います。 幹をちゃんと伝えてゆく、枝葉は自分が作る、そこは一代限りの枝葉、花であって、花は赤い花であっても次が黄色い花でもいいと思います。  落語にどっぷり浸かって行って、落語が兎に角好きですね。