奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師) ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年
横浜市保土ヶ谷に英連邦墓地があります。 ここには戦時中シンガポールや香港などで日本軍の捕虜になって日本に送られ、命を落とした英連邦の捕虜など1800人余りが眠っています。 墓地では平和を願う日本人の呼びかけで戦後50年の1994から毎年英連邦捕虜追悼礼拝が行われています。 なぜ追悼礼拝が始まったのか、 追悼礼拝の背景にはどのような経緯があったのか、「平和と和解 横浜追悼礼拝の30年」という事で英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会代表の奥津隆雄さんに伺いました。
今年31回目になります。 英連邦墓地は日本人に知らない負の遺産ではないかと思います。 日本に連れてこられた方は約3万6000人と言われています。 そのうちの約1割が日本で亡くなられたと言われています。 日本には捕虜収容所が約130か所あったと言われています。 英連邦墓地には約1800人が埋葬されています。 追悼礼拝の呼びかけ人は3名いました。 永瀬隆さん(元日本陸軍通訳)、斎藤和明先生(国際基督教大学名誉教授)、雨宮剛先生(青山学院大学名誉教授)が呼びかけ人となり始めました。
永瀬隆さんはタイに通訳として送られましたが、泰緬鉄道建設現場でした。 捕虜とタイ人が使われて多くの方々が亡くなられました。 捕虜の虐待の場面に出くわしました。 戦後墓地探索に通訳として同行する経験がありました。 遺骨が沢山出てきて、日本軍はこんなことをしていたのかという思いから、日本に帰ってきてから慰霊をしなければいけないと思ったそうです。 捕虜の方は6万何千人と言われています。 そのうち1万3000人が亡くなったと言われています。 アジア人労務者は25万人以上の方々が動員され、数万人が亡くなられたと言われています。 その鉄道は「死の鉄道」と呼ばれ枕木一本一人亡くなったという事で、日本に対する嫌悪感を長く持っていた。 捕虜に対する扱いが、非人道的、人間としては見ていなかった。 熱帯病の蔓延する場所であったにも関わらず、薬もほとんどない、食料も乏しい、加えて重労働、虐待があった。
1944年8月5日オーストラリアのカウラで日本人の捕虜の方たちが一斉蜂起して脱走を試みる。 捕虜になって生き延びるぐらいだったら死んでしまえ、というような軍の教育で、脱走を試みた カウラ事件です。 永瀬さんがカウラに訪問した時期があったようです。 戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、オーストラリアの帰還兵の方が中心になって新たに日本兵の立派な墓地をオーストラリア戦没者墓地の隣接地に作って、日本公園も設置、桜並木も作った。 カウラ市民1万人が一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。 それを知った永瀬さんは、保土ヶ谷には英連邦戦没者墓地があるので、追悼行事を始めようと戦後50年を機に始めたというのがきっかけになります。斎藤和明先生は2008年、永瀬隆さんは2011年、雨宮剛先生、関田先生も亡くなられています。
1987年青山学院大学に入学した後、英語の先生が雨宮剛先生でした。 授業ではよくフィリピンの話をされて、貧困の問題、戦争の傷跡、国際協力などのことについて話していました。 先生の話に惹かれ、先生との交流が深まって行きました。 先生からアメリカに留学しないかという事と、フィリピンに行ってくれないかという事を言われました。 生の体験から学んでほしいという事でした。 アメリカではキリスト教の信仰を持つようになって、クリスチャンになり牧師の道を進みました。 フィリピンには1989年に行きました。 今日本人として生きているのはどういう意味があるのか、という事を深く考えさせられました。 雨宮先生から追悼礼拝のことを知ってかかわる様になりました。 アメリカではいろいろな人とのいい出会い、いい交流がありました。
以前、エリザベス女王、ダイアナ妃、王族、首相も日本に来ると墓参に訪れます。 2007年7月、雨宮先生と追悼礼拝の下澪に来ていた時に、アルバート・ベイリーさんという方の墓碑(26歳で亡くなる)に刻まれた言葉にグッときました。 どんなに家族に会いたかったのだろうと思たら、涙がこみ上げてきました。 そこにアルバート・ベイリーさんの甥の方が見えて吃驚しました。 話をしてその年の追悼礼拝に来てくださいました。
平和を継承するというのは地道な作業の積み重ねだと思います。 追悼礼拝の参加者は200名ぐらいですが、地元の高校生が先生と共に参加してもらっています。 去年は岩手県釜石市から中学の先生と高校生2名が参加して頂きました。 釜石では軍需産業があるという事で艦砲射撃を受けたという歴史があります。 連合軍捕虜収容所も攻撃を受けて32名の捕虜の方が亡くなっています。
永瀬隆さんは「英連邦墓地はかけがえのない宝物だ。日本と各国の親善と平和を繋ぐ太いロープだ。」と書いています。 雨宮剛さんは「この墓地を訪れ瞑想してほしい。 これに勝る歴史の教科書はない。 日本人の良心の発信地として100年後も継続することを夢見る。」と書いています。 関田先生は「武力による平和ではなく、愛と共生の社会を作ることによる平和を作って欲しい。」と、斎藤先生は追悼礼拝の趣旨文を書いた先生で、書いた数日後に亡くなられているので、これは斎藤先生からの遺言になっています。 「平和を作り出すことは困難だが、困難だからこそ私たちの考えや行為が平和を作り出しことへ向けられるべきです。」とおっしゃっています。
継承は愛のある人間関係の広がりによって行われるんだと思います。