2013年1月29日火曜日

平良とみ(女優85歳)      ・沖縄芝居の心と方言


平良とみ(女優85歳)      沖縄芝居の心と方言  
沖縄の石垣島で小学校6年生の時に劇団に入りました 以来70年 夫の平良進さんと一緒に沖縄芝居の心と方言を次世代に伝えようと励んでいます
平成13年NHK連続TV小説「ちゅらさん」で沖縄のお婆さん役を行い、大ブレークしました

小学校4年の時に、母と一緒に石垣島に行った  
貧乏侍の家だった 食べ物はいも、野菜等問題は無かったが、貧しかった 
6年生の時に芝居に入った(貧しかったから その頃自分と同じくらいの生徒が夜お芝居して学校に来ていたので自分でもできるのではないかと想い)
女学校ができたが、そこにはいけないと思い、高等小学校はでたいと思った 
お給金を貰えればいいと思っていた(芝居が出来るかどうかは解らなかった)
最初に5円を頂いた 座長も苦労人だった 
 
当時教科書はお下がりだったが、参考書まで新しく本を購入出来た 
昼間は学校に行って夜は掃除したり、幕を引いたり、お茶を入れたり雑用をしていた
身長は130cm位 (小さい頃に脊髄を患ったため)  初舞台は踊りだった 背の高いきものだった 幅は大きいし、高さも余ってしまう着物だった
今思うとよくこういう事が出来たと思っている 
かつらをかぶったら、額の下の方に来てしまっていた 化粧も自分でやらなければいけなかった
鏡を見たら、泣いてしまって 目は真っ黒になるし、自分の顔がひどくて 座長に叱られて、出たものの、笑い声で一杯に成ってしまいどうして入って言ったか解らなかった   
辞めますとは言えないで、続ける  方言が使えない劇に成ってしまった
(戦時中だったので 規制が出た)  
大人たちは標準語が出来なくて この頃から子役として使われる様になった  
石垣島はマラリヤ蚊が多くてマラリヤで亡くなった人が多かった  
戦火にはしのげることが出来た
戦争が終わって喜んだ  座長が慰問をして、一緒にやった

大島劇団等が沖縄に来ていて公演していた  露天の芝居小屋が出来た  
沖縄は芝居が好きだった 20数劇団が有った
沖縄本島に出て来る 露天の芝居小屋で雨が降って来ると舞台まで大変な水浸しになったが、当時の娯楽は芝居しかないのでお客は帰らなかった
お客はやっぱり情の世界 先輩を敬う 親に孝行  一度会えば皆兄弟(沖縄の心) 
「いちゃればちょう」と沖縄では言う
優しさを若い人にも伝えたい だからあえて沖縄芝居をやってほしい 
そこに人情とか、人間の優しさ 悪と善 がある

沖縄の言葉は沖縄の文化  沖縄の自分の島 国の言葉を忘れたら、親も思う大事な心だと思います
ちゅらさんで一躍有名になった  おばあ おばあと呼ばれる 方言で読んでくれる
昔はおばあと呼ばれると嫌だったらしい  
映画「ナビーの恋」でおばあ役をやってブレークする   
30代ぐらいからおばあ役が多かった
沖縄でも方言が一杯ある  首里(主都)、那覇(庶民)でも言葉が違う  
方言について教えている 方言口上とちょっとした芝居をやっている
言葉には歴史が有る   遊びながら言葉を教える その方がいい
沖縄は癒しの島 家族、血縁関係を大事にする  
お盆でも従兄、兄弟 とか挨拶言ったりするが、段々若い人は薄れてきている
ご先祖様が中心に成っているが薄れつつあるので、薄れないようにして貰いたいと思う

2013年1月28日月曜日

天野祐吉           ・隠居大学(早坂暁)


天野祐吉             隠居大学(早坂暁
四国・松山中学の天野さんの4年先輩  中学は5年生 旧制高校3年 その上に大学が有った 平賀源内を主人公にした ドラマが有ったが 現代の時事問題を織りこんだドラマで画期的だった 散歩の達人 心臓をやられて倒れて医者が 貴方は余りにも運動不足だと言われて、始めた  
散歩はつまらないと思っていた  
猫がいると思って、猫に会いたくて散歩を続ける様になった 心筋梗塞から始まって 余命2~3年と言われた
朝から肉が好きで 肉ばっかり食べ、仕事をめちゃくちゃやっていて、夜も寝ないで仕事をして、終わると麻雀で遊んで、酒を飲む という生活をしていた

「夢千代」の途中だった  病院で書いていた 
1時間ドラマだったら4時間位で書いてしまう
野良猫を集めて、100匹位世話をした  旅先で猫を見つけて、連れて歩いていた 
貰ってくれる人を探して 中々貰い手が無く苦労した
殆ど猫に名前を付ける 「あまてらす」という名前を付けるがこの猫がいると回りが旨く行く
猫は死ぬ前にいろいろなところに挨拶に行く  
生前葬を行った 
病気ばっかり50歳からしており、今度死ぬかと思うと怖いので 見せまいとして 強がっていたが化けの皮が剥げて来て、本当に苦しくなってきて、もう1年か あと3カ月かと思って あんまり苦しい物だから 先に死んでしまおうと思った

生前葬をやった  お坊さんも呼んで、やって貰った やってよかった
 何が良かったと言えば 香典が沢山貰って自分で使えるのが、良かった
3回忌 7回忌とか やる  弔辞を読んで貰った 
貶すことは無い 自分がどのぐらいのものかを弔辞で評価して貰える
正岡子規が死ぬ2日前に作った俳句  
ユーモアのセンスが有る
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」 
「螽焼く爺の話や嘘だらけ」 
「渋柿は 馬鹿の薬に なるまいか」 
 
俳句というのはユーモアを大事にするものでは、自分の命も 自然の中の一つとして、特別なんだけれど そこに飛んでる蝶とかトンボだとか と同列に見て詠む物ですからユーモアが出て来る  
そういうところが俳句の面白さだと思う
戦争で帰ってきて、広島の惨状を見て 悲惨な思いで家に帰ってきたら、句会をやっていて なんだこの人達はと思ったが やっと戦争は終わったと感じた
「生きたくば 蝉の世になけ 八月は」  人の命と蝉の声が同列何ですね  
人間が威張り腐っていると言う事ではなくて、小さな虫、トンボ、蝶 そんな弱い者と いたいけのものと 人間の命が同列にして ろんぐり引いて読むものですから 非常にユーモラスな光景に成ることもある  
元々物書きになろうとは思わなかった 
親戚の医者の後を継ごうと思っていたが、手術等は嫌いだった
受験受験は無かったので、旧制高校は青春を謳歌した   渥美清 小沢昭一  友達だった  海軍兵学校を出たが乗る戦艦はもうなかった

医者の道は嫌だった、東大、東京医科歯科大学 慶応を受けた  
全部落ちて、日大の演劇科に入った 
郷里に芝居小屋をもっていたので、演劇界に入って行った  
役者になるのはむかない様な気がして、途方にくれる  
雇ってくれるところが無く 駄目な人間だと思い知らされる  
翻訳をやることになる  広告を取って来るように言われて、行くが全部断られる  
見下していた連中が広告を取って来る
自分のみじめなところを見せたのが(その時にはずぶぬれでみじめな状況だった) 
広告を取ることが出来た   東京に来てから食う事には困った

2013年1月26日土曜日

絹谷幸二(画家70歳)      ・古事記というテーマに挑む

絹谷幸二(画家70歳)       古事記というテーマに挑む   
去年は古事記をテーマにした大作を描き精力的に活動しています  
古事記というテーマに挑むことで故郷奈良の新たな魅力に気付かされたといいます    
純然とした空の青を背景に、限定された形の中に明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。アフレスコという壁画技法の国内第一人者でもある    
  
奈良県立美術館から記紀、万葉の絵を描いてほしいとの依頼が有った  2
00号にして20点以上が必要 館内に半分の面積を依頼された   
片方で又新作展覧会が予定されていた  パリ、ロンドンに飛んだ 
アフリカ等の原始の時代の絵が展示されているので、参考にするために出掛けた   
熊や鹿の着物を着ていると、地面にもごろりと寝ころんでも大丈夫だし、雨の時にも大丈夫  
古代の人はどんな感じだったのかなあと想いをめぐらした
  
大和にも高天原が有る 奈良に有る  葛城山のふもとに有った  
昔の時代に自分が移った様な感じで考えると 綿の着物よりも 、毛皮だと思った   
古事記に出会って、奈良というものがいかに 素晴らしい処かということに気付いた    
奈良は青柿山に囲まれた狭い盆地だと思っていた  
大阪平野の方が広いだろうと 関東平野の方が広いだろうと 思うが、大きな誤りだと思った   
記紀 万葉の時代 どの程度 人間の数がいたでしょうか  
奈良時代 奈良が一番人口が有って 最大見積もって20万人 7万人程度と言われる   
記紀の時代にはもっと少なかった  もっと少ない人数で 筑後川を制御できるか  
今平野に流れている川をちゃんと安全に堤防を作って出来るか   
とても平野として使えない そうすると人はいけない  
奈良の田原本 大和高田 このあたりの傾斜が非常に米作りには適している   
川は大きくなく 氾濫がおきにくい 
糞尿が下の方に流れて行くので(病原菌が)健康が維持される 
  
吉野は遠いと思ったが、一つ山を越えればすぐにたどり着く   
丘の上に住むか、山の上に住む  はえもいない 蚊もいない   
インカとか、ああいう人達は何故高い山に住むのかなあと思ったが、病原菌から避けるために高いところに住んだのではないだろうか   
当時の人はやまさちひこ うみさちひこ 天と地に広さ  20m位のところに住むサメは小さい サメの話が出てくる   
昔の旅は そのまま歩く 夜も歩く  絵描きは時間の観念が余りない  
フレスコ画家(壁画) 壁が乾かない状態で書かなければならない   
最近の旅は8~10時間 私は(絵描きは)24時間働く  昔の人は余り死を恐れてはいなかった    
宇土神社は凄いほこらがある 天照大神がほこらに隠れる 真っ暗になると色彩が無くなる  岩戸が開けられると色彩が復活する    
全体に渡って見渡すような思考が現代人には無い (専門化しすぎてきているため)  
昔の人は足の裏で見ていた   
天孫降臨  奈良の高天原がふさわしいと思う  故郷はその人そのもの   
自然は美しくなければいけない 自然とは一体   
故郷と私達 風景と自分  故郷の物を食べている様な循環方式がいい   

絹谷幸二(画家70歳)     ・古事記というテーマに挑む

絹谷幸二(画家70歳)         古事記というテーマに挑む  
去年は古事記をテーマにした大作を描き精力的に活動しています  
古事記というテーマに挑むことで故郷奈良の新たな魅力に気付かされたといいます 
純然とした空の青を背景に、限定された形の中に明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。アフレスコという壁画技法の国内第一人者でもある  

奈良県立美術館から記紀、万葉の絵を描いてほしいとの依頼が有った  
200号にして20点以上が必要 館内に半分の面積を依頼された
片方で又新作展覧会が予定されていた  
パリ、ロンドンに飛んだ アフリカ等の原始の時代の絵が展示されているので、参考にするために出掛けた
熊や鹿の着物を着ていると、地面にもごろりと寝ころんでも大丈夫だし、雨の時にも大丈夫  
古代の人はどんな感じだったのかなあと想いをめぐらした
大和にも高天原が有る 奈良に有る  葛城山のふもとに有った  
昔の時代に自分が移った様な感じで考えると 綿の着物よりも 、毛皮だと思った
古事記に出会って、奈良というものがいかに 素晴らしい処かということに気付いた 
奈良は青柿山に囲まれた狭い盆地だと思っていた 
 
大阪平野の方が広いだろうと 関東平野の方が広いだろうと 思うが、大きな誤りだと思った 記紀 万葉の時代 どの程度 人間の数がいたでしょうか  
奈良時代 奈良が一番人口が有って 最大見積もって20万人 7万人程度と言われる  
記紀の時代にはもっと少なかった  
もっと少ない人数で 筑後川を制御できるか、今平野に流れている川をちゃんと安全に堤防を作って出来るか、とても平野として使えない そうすると人はいけない  
奈良の田原本 大和高田 このあたりの傾斜が非常に米作りには適している  
川は大きくなく 氾濫がおきにくい 糞尿が下の方に流れて行くので(病原菌が)健康が維持される 
吉野は遠いと思ったが、一つ山を越えればすぐにたどり着く   
丘の上に住むか、山の上に住む  はえもいない 蚊もいない
インカとか、ああいう人達は何故高い山に住むのかなあと思ったが、病原菌から避けるために高いところに住んだのではないだろうか
当時の人はやまさちひこ うみさちひこ 天と地に広さ 
20m位のところに住むサメは小さい サメの話が出てくる
昔の旅は そのまま歩く 夜も歩く  絵描きは時間の観念が余りない  
フレスコ画家(壁画) 壁が乾かない状態で書かなければならない
最近の旅は8~10時間 私は(絵描きは)24時間働く  昔の人は余り死を恐れてはいなかった 
宇土神社は凄いほこらがある 天照大神がほこらに隠れる 真っ暗になると色彩が無くなる  岩戸が開けられると色彩が復活する 
全体に渡って見渡すような思考が現代人には無い (専門化しすぎてきているため)  
昔の人は足の裏で見ていた
天孫降臨  奈良の高天原がふさわしいと思う  故郷はその人そのもの   
自然は美しくなければいけない 自然とは一体
故郷と私達 風景と自分  故郷の物を食べている様な循環方式がいい 

2013年1月25日金曜日

諏訪内晶子(バイオリニスト41歳)   ・新たなステップ芸術監督への挑戦


諏訪内晶子(バイオリニスト41歳)    新たなステップ芸術監督への挑戦
バイオリニストの諏訪内さんは1990年 18歳の時に最年少でチャイコフスキー国際コンクールのバイオリン部門で優勝しました
以来20年余りパリを拠点に演奏活動を繰り広げ、日本を代表するバイオリニストとして活躍しています
その諏訪内さんが10年以上温めてきた企画、国際音楽祭でみずから芸術監督を務める事になりました 
これはこれまで演奏家として培ってきた音楽体験を若い芸術家と共有すると、ともに音楽を社会の為に生かそうと言う試みです
新しい音楽祭の名称は 「国際音楽祭 日本」です 今回は横浜を中心に東日本大震災で被災された仙台でも行います

今年は国際音楽祭が始まるのでそのための準備をしている 10年以上温めてきた企画  20代後半の時に ソリストとして活動してゆくだけでいいのかと思い始めた
自分で何かできることは何かと考えてきて、10年経ってこの様な音楽祭を開催する事が出来た  日本でズーっとバイオリンをして育ってきて何の経験もなく国際的な評価を頂いたので、 20数年海外で活動してきたが、矢張り日本にいろんな機会を頂いた  
事、活動出来てきたことに対して、日本の社会、日本のかたがたにお返しが出来ないかと 、しっかり目を向けて活動したいと思った

音楽祭で3つ大事にしていて 、
①もう少し私達が出来る事は何かという事で同じ世代の現役で活躍している演奏家と一緒に共演をして音楽祭をしてゆく
②作曲家と演奏家が別れてしまったので、中々日本では現代音楽は難しいと言われていますが、現代作曲家の新しい作品を紹介する
(どういう意図で作曲したのかという事を含めて紹介したい)  
現代作曲家と話すことによって逆にその前の世代の作曲家の事も判る様になると思う
作曲家が演奏会に出ることによって曲が変わって来ることが有るので楽しいと思う
今回はエサ=ペッカ・サロネンさんというフィンランドの作曲家 元々は指揮者として活躍された方  その方の指揮で行う
普通の演奏会とはちょっと違った演奏会が出来ればいいと思っている  
シビルイウスの作曲したバイオリンコンチェルトを演奏して第二部にサロネンさんが演奏

③教育的な部分もある マスタークラスを一応企画 ちょっとしたアドバイスは自分を振り返るきっかけに成るので 入れたかった(小学生~25歳以下が受講)
培ってきたものを子供達に機会を与える  仙台にも伺う  被災者の支援を含めていく
美術館でも演奏会をする  港みらいホールで主におこなうが、近くに美術館が有るのでコラボレーションを考えて美術館の中でも演奏を行う事になる
マスタークラスに受講した人にも演奏をして貰う  

1990年 18歳でチャイコフスキーコンクールで優勝  モスクワに留学したかったが出来なかったのでコンクールにいけばモスクワにいけると思って参加した
1989年ベルギーでバイオリンコンクールが有り、東西冷戦の時代であり それまで13年間ソ連のバイオリニストは来ていなかったが今回来ることになった
当然1,2,3位を独占するつもりでソ連は来たようであった 
その時に私が2位に食い込むことが出来た
1990年 審査員が15名いるが8名がソ連人 残りがほかの方々  15名全員の評価を得て優勝することが出来た

その後勉強期間に入る  桐朋学園大学 ジュリアード音楽院 コロンビア大学 ベルリン芸術大学 4つの大学で勉強する
長い期間 活動したいと想いが有って そのまま演奏活動をするよりも自分の時間を取った方がいいのではないかと思って充電期間を設けた
コロンビア大学では政治思想史を勉強した (音楽とは全然違う分野) 
先生が広く勉強した方が人間として豊かになるとの話が有りそういう選択をした
人間としての土台を作ってから活動したいと思った  見えて来るまではいろいろ悩みが有った
10代の頃はいろいろ良い先生に恵まれた 日本に居ながら世界レベルのテクニックを短期間に学べた 
明確にいろんなコンクールに行く為の目標を与えられた
20代は いろんな国で文化を吸収しながら勉強できた アイザック・スターンから1年に一度ぐらい指導を受けた 
スターン先生から音楽家だったら新聞を隅から隅まで見なさいと 言われた 世界で何が起こっているのかを理解しなさいと言われた
30代は自分の拠点をニューヨークからパリに移したので ヨーロッパで寄り活動の幅を広げていろいろな演奏家と意識的に交流を深めるようにした

17歳の時に演奏活動もしたのですが、ヨーロッパの歴史、重み、深みみたいなものに何となく自分には重すぎて仕舞って、何故重すぎてしまったのか
と言うと、そこに立ち向かうだけの物が自分になかった  
アメリカでいろんなことを吸収した後にヨーロッパに行って活動していきたいと思った
いろんな国が有るので言語、文化も違うし、ヨーロッパならではの難しさを沢山実感した
いろんな方、いろんな機会を頂いて、自分のなかに納めているだけではなく、自分の出来る範囲内で恩返しできたらいいと思って音楽祭で、活動出来たらいいなと思いました
 
自分で企画することによって、ただ演奏して自動的にいろんなことをするのではなくて、伝えて行きたいメッッセージをより明確に伝えたい
いろんなところでしてきたことに、日本の皆さんに伝えられればいいなと思ってきました  
20代の終わりころから頭に浮かんでいたことを実現出来れば良いと 思っていて、継続していきたい 隔年出来ればいいと思っている
自分の演奏活動を通して寄附する予定 (東日本大震災の被災者に対して)

2013年1月22日火曜日

加藤武(俳優83歳)       ・芝居をせんとや生れけん 2



加藤武(俳優83歳)  芝居をせんとや生れけん
文学座養成所は当時は塾の様なものだった  俳優コースは無かった 
演出部コースのみで、裏方ばっかりやっていた
いずれそのうちは開けるのではないかとかすかな希望の元にやっていた  
杉村春子 中村登 長岡輝子 宮口精二 そうそうたるメンバー
チャンスが来て飯田忠「換婚記」の芝居に抜擢された  これが初舞台だった  
生活は苦しかった もう一遍親のすねをかじりなおしたと言う感じ

500円/月 他に手当はもらえない  NHKラジオに出られた  
文学座の師匠は 弟子、師匠の関係は無かった 
マニュアルは無く、いい面ではあるし、悪い面でもある 杉村春子さんには非常に参考に成った
浄瑠璃台詞の勉強になる 竹本住太夫(杉村さんのファンだった) 
「芝居をしないで芝居している」 (極意ですね 役に成りきってしまう)
具体的に厳しいことを言われた (大きな声で言っていても何を言ってるか分からない 小さな低い声でしゃべってもどのお客さんにもスーッと聞こえる様な言い方でないと駄目だとか)    
褒められたことは無かった  
準主役級の役が多かった 森本薫 小説を舞台にした 
「富島松五郎伝」で主役(無法松)を演じた  暴れ太鼓(本当は無いのだが創作した)
丸山定夫 芝居が旨かった 田村秋子  友田恭助 

昭和11年か12年 文学座創立 友田さんに召集が来て中国の戦線で戦死してしまう
戦争は名優を殺してしまう  田村さんはがっかりして文学座を止めてしまう 
その代わりに杉村さんが来ることになる
民芸座、俳優座 と文学座が有った  大滝秀治 奈良岡 朋子  劇団分裂がいろいろあった 大滝さんはずーっとひと処に居た  これは大変なことだ
戦後新劇の人が活躍 したのは映画への進出が大きい  
「犬神家の一族」では、等々力警部、署長役のおっちょこちょいの役 凄惨な事件におけるほっとする役割
「黒部の太陽」  今では出演した俳優はほとんど亡くなってしまった

太地喜和子 自分の生き方を貫いた 後輩として可愛かった  ひたすら一生懸命にやる  
酒の飲み方が凄かった 好き嫌いが激しかった
飲ませ上手だった ふんわかしたムードを作る  人間の幅を感じさせる  人間性やね  
どんなにうまくても嫌な芸はある つつみこむような人柄
人間性 これが普遍的にお客を包容する芸に繋がる  
「唐人お吉」 お吉役 事故が起こったのが伊東 下田(お吉の故郷)に行く一日前のことだった
勝新太郎は喜和子が好きだったらしい 二人で飲んで喜和子の宿にきて 一緒に部屋で飲まないと言って、変なことはしないからと喜和子が言ったとの事
三味線を勝さんが弾きだして 棺の前で弾き語りを (喜和子への追悼の曲)ずーっとやっていた 映画、TV 舞台 演技することにおいては変わらないと思う  
舞台は一回こっきり 全体が旨く行った いかない言うことはある お客の性格が有る  
舞台もお客全員の息が旨く行くということはまずない  
1ヵ月やっていて1回あるかないかだと思う  舞台の魅力 面白さであり怖さでもある

「殿様と私」 旅が有る 東京は1日だけある  登場人物全員が「私」  殿様との係わり  
明治維新に成って殿様はかわらない  牧野望
「夏の盛りの蝉のように」 葛飾北斎を扱ったもの  吉永仁郎 劇作家   
(大滝さんが嘗てやった) 渡辺崋山 国吉 北場(北斎の付き人みたいに陰に隠れていた絵描き)  おえい 娘 (北斎の代筆をする これがうまくて売れてしまった)  
北斎は100歳まで生きようと決心するが、90歳前で亡くなるが精力的な人間    
進藤兼人の言葉  「人は生きている限り、生き抜きたい」  肝に銘じていることばです

2013年1月21日月曜日

加藤武(俳優83歳)       ・芝居をせんとや生れけん



加藤武(俳優83歳)  芝居をせんとや生れけん
昭和4年生れ東京築地 仲卸業の家庭に生まれる近くに歌舞伎座、新橋演舞場、築地小劇場という地の利の良さ 
中学区の同級生には小沢昭一フランキー堺内藤法美さんがいて演劇の世界に導いています 
昭和27年念願の文学座に入り、以来60年間硬軟自在の幅広い演技力で舞台のみならず
映画、TVでも活躍してきました  
83歳の今も現役で舞台を踏む加藤さんにこれまでの様々な出会いと芝居どっぷりの人生を語って貰います

進藤兼人 再現ドキュメンタリードラマ 進藤兼人役をやるが、凄く似ていた 
音羽信子 癌でいつ亡くなるか分からない状況  
ドラマを取ったときが進藤さんが83歳の時の事 原爆の子で 一回だけ一緒に進藤監督とは仕事をしたことが有る
仲卸業 寿司屋、料理屋に降ろすための卸業だった 
甥が継いでいる 3時、4時には起きて出掛ける  セリは見たことは無い
泰明小学校に行く 島崎藤村も居た 全国でも有名な小学校 先輩は河原崎国太郎 殿山 泰司矢代 静一 森田誠吾 後輩が沢村田之助(歌舞伎座)  双葉山が69連勝で敗れた時に6代目菊五郎と一緒に見ている 
   
沢村田之助は幕内力士から部屋出身地、しこ名を全部覚えていたと言う
小学校にいくのにバスで通っていたが、そのうちに戦争で歩いて来いと歩いて行ったが皆がバスに乗ってしまった  
一人で歩いていると田之助がたまに一緒に歩いてくれた 
その時に芝居の話をしてくれて面白かった 家では晴れ着をきて芝居を見に行くのが皆好きだった  
開始が午後3時半から4時ごろ はねるのが午後10時頃 一家で出かけた 
学校を早退してゆく為の口実に苦労したが、先生も粋な計らい(嘘を言っても判らぬふりしてくれて)をしてくれた

姉たちは踊りのお師匠さんがいてそこに習いに行っていた 母は三味線を弾いていた 
清元 等を弾いていて、それが耳に入って来ていた
日ごろ聞きおぼえていたので芝居でもいっていることが解って面白かった 
歌舞伎座も戦争で焼けてしまう (5月25日) 焼夷弾が落ちて 姉と2人で大八車にお婆さんを乗せて逃げた 
魚河岸の方に逃げたがそちらにも、焼夷弾が落ちて引き返したりして、ちりぢりに成った 
歌舞伎座の燃えているのを目撃する  
アスファルトが火事のためにお汁粉のように溶けてしまった
建物が崩れ落ちるところを見て、家に戻ったら家は燃えてはいなかった
 しかしお婆さんが其の時には亡くなって仕舞った
歌舞伎座の建物を ここで新しくなり出来上がれば3代の建物をみることになる 
4代ぐらいの歌舞伎役者を見てきた
軍需工場に行かされた 兄は学徒出陣 幸いに命は取り留めて復員した 
今ペットブームでいろんな犬を飼って大事にしているが 家に犬がいて、可愛がっていた 
淡路島に似た模様が背中に有り「マップ 」という名にした  
少ない食料の中で分けて育ててきた その犬を役所から通達が来て いつまでに連れて来いと言われた  
何のためにするのかと言ったら毛皮にするとの事 寒さ対策とのことだが ぜんぶ殺してしまっただろう

当時人間でも食い物の無い時代なのだろうからしょうがないと思うが、誰が連れていくかという事に成り 誰も連れて行くことが出来ない
母親が一番可愛がっていたが、遂に母親が連れて行った 
戦後落ちついてから、遂に母親は犬を飼わなかった
中学は麻布中学 受験校 当時からそうだった  府立3中(両国高校)久保田万太郎 芥川龍之介が出たところ  受けたらおっこってしまった

内藤法美 (越路吹雪の夫ピアノ アコーデオン 成績も抜群だった) 代々木練兵場に先生が教連と称して連れて行きそこで内藤にアコーデオンを弾かせたり小沢昭一にハーモニカをやらせたり、フランキー堺に落語をやらせたり、粋な先生だった  
小沢昭一は海軍兵学校に行った(当時の最高学府 海軍の幹部養成校)  フランキー堺はネタを取りに寄席に言っていた(戦争中なので年寄の落語家ばっかり)
いずれはお国の為に死ぬと言う事を叩き込まれた  早稲田に行く  
今村昌平北村和夫 大西信行(劇作家) 小沢昭一等が集まった

小沢は俳優座養成所 北村は文学座養成所に同時に行っていた  私は堅くて兼ねてはいけないと言う様な事で 素人で芸を楽しむことは良いけど
それに成ると言うことは特に母はうるさかった 大変さを知っていたので   
早稲田を出て1年間は先生(英語)をやった
志とは違って 決心を固めて、両親は許してくれて昭和27年文学座に入る

2013年1月20日日曜日

山田昭男(未来工業社長82歳)  ・社員全員の総幸福をめざす



山田昭男(未来工業社長82歳)    社員全員の総幸福をめざす
2005年にブータン政府が行った国勢調査で国民の45%が回答したと言われてますが 実はブータン国民に勝るとも劣らないほど幸せや生き甲斐をもって 働いている会社が岐阜県に有ります  
住宅 オフィス 工場などで使われているコンセント、電気ソケット、配線器具などの電設資材等を製造、販売    している会社です   
従業員の満足度を高めることが、企業業績の向上につながるとの方針の元、給料や、福利厚生面で他社とは一味違う  
さまざまな工夫を凝らして社員の生き甲斐作りに繋げているのです  
2011年出版「日本一社員が幸せな会社の変な決まり」 韓国企業から
ら関心を持って読まれている   
従業員満足度が高い企業とは他とどこがどのように違うのか 伺いました

1965年創業以来 1年も赤字が出ていない  48年ぐらい  
商売というのは金もうけなんだから 金を儲けるにはどうするか
儲からない会社の反対をやればいい 報告、連絡、相談  どこが儲かってるのか やっている ホウレンソウ(報告、連絡、相談)を止める 差別化
社員の方々の福利構成が凄い 定年が70歳 65歳の平社員で700万円 60歳過ぎても給料は下げない 
サラリーマンは給料が高い、休みが多いほどいい 餌をやれば頑張ってくれるのだからと思う

休みは140日 社員は喜ぶだろうと休暇を利用してアルバイトでお金を貰える  
社員は喜ぶし、意識が高まるし、そうすれば頑張ろうと言う気が起きる よそで働いてもいい  
有給休暇 権利だからとりますよと  取っては良いですかと言ってはいけない  
感動につながる    ノルマもない 貰ったら貰うだけの働きはするだろうと思う    
育児休暇3年  5年に一回海外旅行  800人の中で650人は行く  
これは大失敗 2年目 150万円/月  月が1億円になったら海外旅行に連れて行ってやると言ったら 6年目に達成してしまった
台湾が最初  中国、パリ、ハワイ、オーストラリア、ラスベガス等 5年に一回行っている  
東南アジアへ行くのに10か所 飛行機に乗ってその後はどこに行くか判らない(ミステリー旅行  旅行会社が真似をする)

小さな倹約 大きな浪費  日中電気を点けない  乗用車が無い ライトバン トラック ワゴン 一杯あるが商売に使う 社長も個人の車
ノブを回すと減るから回さない 押したり引いたり」するだけ  コピーする紙は裏側だけ  
小さな倹約もちりも積もれば溜まる
コピー機も一台で大丈夫  やってみたら殆どコピー機が遊んでいる 
 
壁のスイッチ の箱  ビル関係 天井裏 床の下 パイプに入れて電線を通すが そのパイプを作っている ビニールパイプでパイプを作る
大企業の寡占化 鼠色 戦後は色は関係ない 綺麗な色で良いだろうと色を変えた  
シェアートップに成りました
先手必勝 先にやれば勝てますよ  差別化が会社のテーマですから    
箱 大きさ 厚みが決まっている 穴をあける 木ネジを入れるため
2か所のねじ穴があいている(今までのすべての会社)  内は4か所に穴をあける 
これがヒットした   柱に無いところにも取り付けられる
日ごろからアイデアを生み出す力  営業がまず要望を受け入れる  会議を行う  
開発部が有り ここで工夫する  そして出発する

考えることを土台にする  改善、提案制度をする  いいものはお金を貰える 
これはどこでもやっている 1件出したら500円
作業環境でも良い(自分の仕事の環境がよくなればいい)  現金で払う  
給料は全部振り込み かみさんが握ってしまう これは現金なので喜ぶ
年間14000件が出る  最多勝で20万円  最高で30万円 年間貰える  金3万円 銀2万円 銅1万円  5万円貰った物が有る
電話のベルが鳴るのが女性のみとする  男は電話にはでない  女性が電話当番制にして 
1時間ごとにする 電話機にランプがつく

3名程度が交代ででる(全女性で15名)  一覧表を作って展開する
組織の管理では問題が有るのでは? 常にマイナスを考えると駄目 週休2日制の導入に関しては役員から全員反対された(お客が休んでないときに休んでしまうとお客から逃げられてしまうからという事で)  やってみないと解らないのでやってマイナスならば辞めればいい  
報告を聞いていないとかは無い  下からのお伺い話無し  必ず説得して納得させるこれは上の人の役割 納得すると自分でやる気になる 命令ではいやいややる   
よそよりいい物を安く売る  これは絶対間違っている
 
いい物を安く売ったら儲かるわけがない(過当競争 儲かるわけない)
経常利益率 10%  お客は喜べばいい 「三方よし」 大事なことはお客さんを感動させればいい 品物で感動する 値段では感動しない
安かろう悪かろうでは無く 高かろう良かろう  同じものならば安い方がいいかもしれないが
従業員の満足度 はじめからそう 従業員を満足させたならば、お客さんが満足してくれる
年末年始20日間休む 赤字経営で悩んでる会社へのアドバイス 馬鹿な金は使わない 
何故か郵便で書類が届くとぜんぶファイルに入っている
メール便 折って持ってこない なかの紙は絶対に真っ直ぐぴんぴんとしている
(皺皺に成らない) 今のファイルはぜんぶファイルに入っている

ファイルを貯めて売りに行きます   書類が来ると必ず1枚の紙が来る 紙一枚無駄になる 
その紙を使ってコピーの裏利用にする
見えない赤字が多すぎる 無駄が多すぎる そういう無駄を辞めれば十分プラスが出る 
社員を感動させる だらだら働くよりもバーっと働いた方が
効率が良いと思う  短い時間に集約させてそこにエネルギーを傾注した方が商売に成ると思う

2013年1月19日土曜日

加藤隆久(78歳)        ・蘇えりの力

加藤隆久(78歳)             蘇えりの力  
生田神社(兵庫県神戸市)の宮司を務めています  
生田神社は長い歴史の中で、災害や戦争で幾度も被害に遭いましたが、その度ごとに復興し、いつの間にか 蘇りの社と言われるようになりました 
阪神淡路大震災の時には拝殿が倒壊するなど大きな被害に遭いましたが,神戸の復興のシンボルになろうと加藤さんが陣頭に立って再興をなし遂げました 
その体験を踏まえ、東日本大震災の被災地の支援にも,取り組んできましたご自身の体験と 復興の想いを伺いました  

東日本大震災の支援、少しでも義援金を送ってあげようと思った  
阪神淡路大震災の時は水も無かったので,タンクに一杯水を持ってきくれた経験から,水を贈るような対応を取った  
地震に遭って苦労した水に有り難さを感じた       お宮さんの支援も考えた  
宮城県女川町 白山神社が被災されていることを聞いて若いメンバーを行かせた  
多くの死者と壊滅的な建築物の被害  津波に流されてしまったり、原発の問題 これが非常にお気の毒だったと思った
孤独死 絆を深める 年寄ばっかりではなく若者を隣に住まわせることが必要だったと思う
父親は滋賀県多賀大社の大造営を担当して、造営ノウハウを体得する  
之から神社のお勤めを遣って行こうとした時に 岡山の吉備津彦神社が焼失する  
そこへ復興に行く事を人選した処,父親に白羽の矢が立ったが、最初は断ったが、神社局から是非行ってほしいと言われた 
復興を成し遂げたら,大きな神社を紹介すると言う事になった 
焼失した宮司が借金をしていたことが判明 自分の財産を持って借金をしていた人に返したらしい  
そうしたら翌日正装した総代がそれを持って、なにがしかを加えて持ってきた 
その話が氏子にも伝わったのか、瓦礫の後始末をするは、エプロン姿の婦人会の人が来て、炊き出ししたりして、起爆剤に成って 瞬く間に 復興に弾みがついて、尊敬される宮司に成った(その時に私は生れた)  
氏子の人から信用されたことが良かった

生田神社 日本書紀にも出て来る 稚日女尊(わかひるめのみこと) 言われて神功皇后によってまつられたと言う古い社
806年に生田の神を守る44軒が出来る  かんべ村 神戸の街が出来る元  
生田川が流れている 六甲山系は水に弱いところが有る
松の木が倒れてきて 祠が壊された 神主が御神体を背負ってここだら水害が起こらないだろうと移ってきた
松がタブーに成っている  
正月には角松の替わりに杉盛と言って 杉の葉っぱで山を作って,そこにすずき(稲穂を象徴する)とさかき  平年は12本閏年は13本を張り巡らす  水害に懲りてきた
   
昭和20年6月5日 B29から焼夷弾を落とされて石の鳥居を残して 一木一草焼失する  
父は御神体を移す 防空壕も駄目  さまよっていけに有る弁天様に移して 本人は池に入って助かった
母親と姉は防火用水(何故か父親がその防火用水に6/4日に水を張っておいた)に入って助かった 
境内に野菜やサツマイモ、ジャガイモを作りながら、復興という事で お粗末な社を立てながら、過してきた  戦後で困っている時期
神社の寄付を募った 
神社の復興のために何度も何度も足をはこんだが断られたが、ある時にそこの主人が許してくれ 私の考えが間違っていた
私は自分の利益の事ばかり考えていた 

それに対して貴方は自分ことでは無しに、神様の事を考えていると言って 希望して多額の10倍の小切手を渡ししてくれた 
それを元手に昭和24年に立派な朱塗りの社殿を作り上げた  
神社の復興も一遍や二遍で諦めるのではない事が必要と思った
阪神淡路大震災の状況 揺れの恐ろしさは言葉では言い尽くせない  
拝殿は崩れて落ちてしまっていた 楼門も傾いていた
本殿は崩れていなかった  石の鳥居が根元から崩れていた(戦争では大丈夫だったが)  
神戸の街全体が崩壊してしまった

その時に 父親の声が聞こえてきた 貴方は何しゃべってるのだ 
私の神社の造営ボーイと言われた 神社を復興するのはお前の使命だと 言う声
柱は鋼管 強度のコンクリートを入れて そこに木造の社殿をつくろうと思った  
平素からまさかの時にと言う事を考えていて 営膳費蓄財していた
又氏子の有力な方が 神戸の氏神をそのままにしておくわけにはいかないと言う事で 立ち上がってくれて、又全国の神社の支援も有った
鳥居は伊勢神宮からの寄付が有りそれを石の鳥居が有った所に設置することが出来た 
(木の鳥居)
地震の時に困ったのは水 川は埋めたてられてしまって無くなっている  
川を作ろうと 森の中に80mの井戸を掘ったら、水が出てきた

池のところにもポンプを作ってまさかの時の為に消火栓を作った 常に備えようと思った
神戸の街の中心であるので 復興のため 芸能関係の人達 が来てくれて 舞台を作ってくれてそこで公演してくれて 皆が喜んでくれた
お祭りはそれぞれの役割が有り、役割を旨くやって行くのがお祭り  一つの纏まりとなる  
祭の心が大きな力に成っているんじゃないかと思います
祭はお互いが助け合い、絆を深め、そこで一つの心になる 
 
お祭りは大切なものだと思う       心の復興に成る
挫折は誰にでもあり その時に自分は駄目だと思ってしまうのかそれとも それを苦しい時、ピンチ挫折をしたときに如何に良い方に乗り越えて行こうと言う風に,心の持ち方を転換してゆくか 口で言うことは簡単だが中々出来ないことだが 清く明るく正しく直く神道の心でもあるわけですが 落ち込んだ時に前向きのやろうと言う活力 それを転換することを常々皆さん考えていただきたい

2013年1月18日金曜日

秋山弘子(69歳)        ・働くセカンドライフを創り出す


秋山弘子(特任教授69歳)    働くセカンドライフを創り出す  
東京大学 教育学部卒業後 ミシガン大学で老年学の研究を続け、2006年から東京大学高齢社会総合研究機構で特任教授を務めている 
超高齢化社会を迎えつつある日本で、高齢者のセカンドライフを考えるにあたっては働く事にもっと価値を見出すべきだと考えています
この考えを社会で実現させようと 千葉県柏市の団地で生き甲斐就労の取り組みを始めました この事業は東京大学や柏市が共同で取り組んでいて会社などを退職した住民が無理をせず働く事が出来、しかも生き甲斐も感じられるようにしようと言うものです  
新しい取り組の元、柏市の住民はどのように働いているのか 、老年学(ジェロントロジー)の研究者としてどのような 人生を歩んでこられたたのかを伺いました
 
定年退職した後も働く事は個人にとっても、社会にとっても良いと思います 
健康にも良いと思います 
60代で殆どの人が元気で知識、技術 を持ち 仕事関係のネットワーク持っている 
何かしたい、とは思うが何をしていいかわからない
社会にとっては60歳までの方が社会を支えて、65歳以上はささえられる人  
今後騎馬戦から肩車に成る(ささえる人が少なくなる)
何らかの形でリタイアした後でも働き続けられるような、社会の仕組みを作っていくかということは社会にとっても重要だと思います
25年ぐらい 高齢者の6000人の追跡調査をしています 75歳ぐらいまでは約8割は一人暮らしが出来るレベルで元気です

その辺りからすこしずつ身体の機能体力が低下して、支援が必要になる  
之から75歳の方が全人口の2割を占める時代が来る
75歳を80歳ぐらいまでは元気でいられるようにすることが大切だと思っています
厚生労働省での高齢者の就業率と医療費の研究が有るが、高齢者の就業率が高い県は医療費も低いというデータが有る
働くと言う事が高齢者の健康寿命を延ばすと言う事を確信して プロジェクトを始めました
研究者は伝統的に大学の中で研究していたので、実際の社会に出てコミュニティーで底の課題を解決すると言うことは無かった
行政、自治体、商店街の方とチームを組んでやらなくてははいけないと言うのは初めてなので、小さいハードルから大きなハードルまでいろいろありました 
 
一番大きいものは全ての組織が縦割りだと言う事、大学も、地域も縦割り  学部が10個有るが学部間の壁が大きい 又市役所に行っても部局の壁が厚くて、健康保健課と農政課、商工課は全く連携が無い これが一番のハードルでした   
近未来 20年先の未来を皆で語ってどういう社会が良いかと、理想の社会の絵を描いて 皆でそれをめざして皆で協力しようと同じゴールをめざして
自分の処から何が出来るか、という事に発想が変わりました 
市役所も同様に それから非常に効率が良くなりました
これから人口が高齢化するのは都市近郊のベットタウンである 柏市を選びました  
40万人の都市  大きな団地が有る
高度成長期で多くの地方の人が入居 現在の高齢化率(住民の65歳以上の率)が35%を越えている 

日本の2030年の人口構成と非常に似ている長寿社会の街作りのフィールドとしては非常に適している   プロジェクトを進めることになる
リタイアした人にいろいろ話を聞きました 従来の様な仕事のスタイルはしたくない 
自転車、或は歩いていける場所で働く フルタイムで働きたくない
自分で時間を決めて働きたい    
柏市の資源 肥沃な農地がある 農家の方が高齢化して休耕地に成っている 
長期に借入てそこで働く
ホワイトカラーだった人には農業が合う (全く違って)現在50~60人が働いている

人生90年時代 2つの仕事が出来る   二毛作人生   やってみると意外と面白い 
農家の経理を見てみるとみていられない(経理経験者の目)農家の経理を見てあげる 時間がいろいろで労務管理が難しい(労務経験者が対処)
専門性を生かしながら農業をする  休耕地を開墾して農作業、新しい仕事を作ってゆく  
健康的な生活に成った 繋がりが出来た 笑顔が見られる 
学童保育 海外駐在者であった人が英会話を教える  
助成金が有る時だけでその後は止めてしまうのではなく継続性を、重視している(採算性重視)   新しいビジネスモデルに関しても出来るだけ支援をしたいと思っている  
当時大学紛争終了後、余り変わらなかったので失望してアメリカに渡った、老年学が芽生えた時だった 
高齢社会の個人問題、社会の問題の解決型 やりたいのはこれだと思いました  
私はお爺さんお婆さん子だった  高齢者に親しい感情を持っていた(関心を持っていた)  
日本が高齢化社会を迎える 勉強もきちんとしたカリキュラムは無かった 
ほかの分野の教育をした方が高齢者の学問をして進めた
アメリカの高齢者 生き方が日本とは違うと感じた 当時日本は3世代  アメリカでは一人暮らし 自立が非常に重要
高齢期における自立を掘り下げてみたいと思った(博士論文)  
大学院で教べんを取ったが、社会人の人が多かったので、この理論がこの問題解決に如何役立つかという視点からいろいろ質問された  
 
東京大学で非常勤講師の話が有り、アメリカでは良い研究環境であったので帰って来ることは考えていなかった
院生の半分は女性、老年学という学問が日本の大学には無いと気がついて、日本も高齢化社会を迎え今貢献できるのはと思って単身で帰ってきました 
大学は完全な縦割り社会 文部科学省の予算、人材が学部に来る  
予算も付かない、人も付かない 組織を作ることが非常に難しかった  
大学が法人に成った 小見山総長 真理の探究においては貢献してきたけれども、社会の課題を解決することに貢献していかないといけないとの話が有り高齢社会総合研究機構の前身となる組織が企業の寄付を募って出来た
 
フィールドでの研究  社会の中に介入して解決して行こうという研究  研究者にとって非常に学ぶことが多い(住民、よその方から)啓発される
研究が喜びであるとか、これを解決するためにはもっともっと考えなくてはいけないとか、議論も活発に行われたし、自分のバックグラウンドには無い視点が飛び交うわけです 
異なるもののぶつかりあいから新しいアイデア新しい解決法を見つけて行くということは研究者にとってこの上ない喜びです  
75歳以上の方と聞きとりしたが、そうなんだと思ったことは 今住んでいる処で自分らしく歳を取っていきたい 
その様な生活環境を作って行く事が老年学の大きな課題の一つだと思います
 
①人生一毛作 のプラン  今柏等でやっていることを自分の街でやろうと言う事  
②土いじりが好きだが 空き地が無いので今はどういう形で農業が、始められるか情報収集して
 いて プランターとか小型の野菜工場とか マンションの庭でも出来る様な農業を考えている 
③外国で行った先で住んでみたいと思った国が有るのでそこで生活してみたいと思っている 他にも有るがここ2~3年で絞ってセカンドライフをしてゆきたいと思います

2013年1月17日木曜日

三潴正道(みつま64歳)     ・中国文化の掛橋となって

三潴正道(みつま64歳)   中国文化の掛橋となって
1948年生れ 東京外国語大学大学院修了 麗澤大学で中国語、中国文化を教えている  
時事中国語、日中異文化コミュニケーションの専門家
日本企業の中国研修講師としても幅広く活躍しています 
中国の人民日報に掲載された記事から60点を選び、翻訳した 「今中国が面白い」は
2007年に第1冊を発行して以来 6冊目に成りました 
尖閣諸島の領土問題が発生して以来厳しい緊張関係に陥っています 
日中の異なる文化を理解する視点に立ち、お互いのコミュニケーションを成立させるために何が必要か伺います

吉川英治 三国志 水滸伝を読んだのがきっかけ 何十回と読んだ 本が好きだった 
父親の本を引っ張り出して読んでいた(父は憲法学者だった)
小清水先生(現代中国語) 金丸先生(中国歴史) に教えて貰う事が出来た 
その道の権威の人だった
戦前は、書き言葉は文語文みたいな話し言葉は全く違うものだった  
1920年代ぐらいから中国は白話運動が有り 書き言葉を出来るだけ話し言葉に近づけることに
して言ったが、やっぱり違う事が有り、一つのジャンルを形成
しかし 其れがおろそかにされて、つけが回ってきた 教育システム カリキュラムがすっぽりぬけてきた 
論説体が読めないと新聞雑誌、学術、論文インターネットで情報が収集出来ない 
「今中国が面白い」を刊行してきた  人民日報の記事を訳した
1か月に100本の記事をピクアップして、それを8本まで精選し、年間で約100本になり これをさらに
60本に精選 分野別区分して提示した

胡錦濤温家宝政権が成立したころからです  それまでも人民日報を読んでいたが、
その頃からアレと思った それまでと違うぞ と
2003年ごろからこんな記事でも出していいのかと思うような記事が出るようになった
党や政府の腐敗を暴く記事、環境破壊に対する警鐘 地方政府の暴走についての紹介記事 
そういったものは今までだったらあり得ない
言論弾圧を深めていると言う論調が日本ではあった  
環境破壊、地方政府の暴走 とか腐敗とかはもう自助努力では制御できなくなった
メディアの力を借りてやろうと しかし反共、反中的なメディア等では困るので、そういったメディアからの記事は徹底的に取り締まる 
自分達の持っている道具である、人民日報とか中国青年報とかそういったものについては今まで,では考えられないような幅広い権限を与えて其れをやらせる
限度を超えるとびしっとやられるが 私が吃驚するような物が出てきた  

之は紹介しない手は無いなと思った
2007年が一冊目  2005年ごろから環境破壊が極点まで行ってしまって 2006年にはどうしようと言う様な時期だった
2006年の記事を集めて 2007年に出版した  昨年 2013年版が出る  日本に関する論文 
第1章は日本を対象
温家宝首相の福島訪問 等のほほえましい風景が有った
①中国を一つの面から見るのは危険だと思う 民間レベルは理解し合って 強化しようとの話も有る
②中国は面白いと書いているが、面白くなくなってきている  「南方週末」の問題も有ったりして、言論統制がなされてきている
政権交代の時期で 取り締まりが厳しくなってきている 10月後半から楽しい記事も出てきている 
「南方週末」の問題  先頭の事を言う様な言論をしているので目の敵にされている  
中国の中で民間の人達が自分達の意見、声を反映させようと言う声が強くなってきている
2008年に08憲章と言って知識人たちが中心に成って そういう共産党の一党独裁に対する転換を求める様な声明を出して、物議をかもしたのですが、これにも似たような声明が出されて、どういう風に扱うかは大きな問題ですが、抑えれば抑えるほど 内圧は高まる
どこでどう「ソフトランディングさせるか、出来るか というのは大変大きな問題ですね
日中異文化交流  与えられた自然風土は違う なりわいをどうするか 漁業か、農業か違ってくるので どうしてもそれに合わせた生産体制,社会制度が出来て来る、それぞれがそれぞれの与えられた中で、独自の生活をする

それを代代受け継がれた中で磨かれて行くと、そこにそれぞれ違ったダイアモンド、フルーツが
なってくるわけで、それを異文化というわけですが、 我々を豊かにしてくれる、多様性を与えてくれるのだが この触れ合いは本来は楽しいものであるはずだが其れが解っていないと、異文化に接すると、まるでインベーダーのように眉をしかめたり、むかついたりしてしまうと言う事が現実の世界では双方に起こる
凄く残念なこと 日中で誤解が7,8割有る  歴史が長い交流が有っても違ってくる
「協議」するは  中国では「合意」・「協定」(相談する事ではない)「就職」は中国では「就任
(部長に成ったの、となる)誤解はいろんな面からある
「夫婦」は中国では夫妻(丁寧な言葉に相当)  親捜しを 探親これは中国では里帰りとなる
 (戦災孤児の事でひんしゅくにあう)

思考、行動を理解するために3つの要素が有る
①歴史的な側面から来る特徴が有る中国の長い封建時代の歴史が有って どうのし上がっていくか
 社会で浮かびあがって行くかは大きな問題で 、権力者に対してどう立ち向かっていくか、
 自分達をどう防御するかという問題
 中国の家族その他の命がけの助け合いグループ の様な 「じこじん」 絆を重んじてゆくと言う 
 そこにすべての価値観を集約させると言う側面が有る
②商業民族という側面がある  彼らの考え方 行動の殆ど 商業民族というコンセプトから理解できる  
③日本人と中国人の礼儀の違い 日本人は基本的に迷惑をかけない負担を掛けない 
 中国人は私は貴方に対してどれだけ誠意を尽くしているか 
 を貴方に知って貰おうと言うところに礼儀の基本が有る  全くお互いに理解しにくいところです
 初対面でも中国人は相手のあらゆることを知りたいと思う   
 それが誠意を示すこと  その様にされると日本人は引けてしまう

中国の北京オリンピックの時に「初対面の人に 根ほり、葉ほり聞かないように」との新聞掲載が有った
中国人が横に居て黙って煙草を吸う事、あめを食べる 
本人はその気持ちが無くても 大変な侮辱  お前は眼中にないと言う事
私は貴方に人間関係を求めない だからお前なんかにたばこを勧めない 
お前なんかに価値は無いと言う事 だから必ずタバコは勧める
人に物をあげた場合に、日本人は物を贈られた場合直ぐにお返しをする傾向が有る 
中国人は 日本の団地に引っ越してきて中国のゲッペイを廻りに配ったが、泣いてしまった  
良く聞くと 贈って直ぐにバナナとかお返しが来た
それで付き合う事を拒否されたと思ってしまったとの事 自分がゲッペイという形で誠意を上げたのに バナナという形で誠意を丁重に送り返された

あんたとは付き合いたくないという意思表示だと思った  
大学でも同様なことが起きている 身近な行き違いについて治すことが必要
中国人はミスをしても謝らない みられていても私ではないと言い張る 
モラルが無いとの感想が企業で良く聞かれる
日本人と中国人の「謝り構造の違い」 があると論文にもなっている
日本人はそれは私がやりましたと 謝り終了の合図と捉える  
それを中国人は謝り返しの合図と捉える
日本人の場合は謝れば チャラにしえてくれるか 悪くても半減位にペナルティーが減るわけです 
処が中国人は誤りを認めたと言うことは,それに相当するペナルティーを文句を言わず受け入れると言う事です 
 
それをやらなかったら償いに成らない
尖閣諸島で船長が体当たりした あの問題の時にもろに出てきた   
後で日本が日中友好の事を想って、船長を釈放した
日本はなにも日本の処置が間違ったとして釈放したのではなく、あくまで日中友好のためですね中国政府はそれを国民にはそうは説明しません
日本の側が逮捕の手続きは間違ったと、いうことを認めて釈放をしたという事になります  
日本はそれで終わったと思っても中国側は賠償を求めなかったら、誤りが完了しないんですね
翌日中国は日本に対して賠償請求した  日本は殆ど怒った
日本が譲ってやったのに、何で調子に乗って倍賞まで要求するとは いい加減にしろと 
それをしないと中国政府は国民に説明がつかない 

翌日に日本向けに 我々は賠償する権利が有ると言った これは日本に対するシグナル 
(棚上げにしていいよという)問題が如実に反映されている
日本を代表する様な大企業であっても必要な部署に読める人が配置されているというかというと、非常にお寒い限り 多くの場合は中国人に頼る
中国人に頼ると言うことは、自分達で自分達に必要な情報を、差別化してとると言う事が出来ない
中国人の人が上げてくる情報というのは、中国人が見て必要か、必要でないか 
面白いか、面白くないか という風に判断してしまう
それだと差別化出来ない 日本人の目から見て中国人が気がつかないけども、こんなところに
ニーズがあるという風に出て初めて勝負が出来る
其れをぼろぼろ逃してしまっていると言う側面が有ります
ビジネス中国語のシステムを作っていかなくてはいけない 
随分多くの企業が中国語研修をやっていて基本的なベースを培うが問題はそこから先新聞、インターネットを読めるようにするには語彙、文法が随分違うので、キチンと比較して講じて,それを理解したうえで、いろいろな経済用語とか,法律文書とかに、行かなくてはいけないのに、そこの間のベーシックな部分での論説体と会話体の違いの教育がすぽっと抜けてしまっているので,そこで崖を飛び越えられずにダウンしてしまう橋渡しが必要 ビジネス中国語の教材、
カリキュラムを作って、ピラミッドを構築して本当に役に立つ人材を企業の中に育てて行こうと
している訳です 

 
論説体 書き言葉の一種 新聞、論文、インターネット等々 感も働かないといけない
生徒が「美女配隊」を「美女整列」と訳した  全然違う
 美=アメリカ 女配=女子バレー 隊=チーム  美女が整列ではない
意義素=意味の最小単位 でも単語ではない 「発展」 発だけでも意味が有る 
動詞か名詞か解らない(自分で判断要)口語体の方が解り易い
尖閣諸島の領有権問題  国益がらみの問題が有るので冷静に見てゆく必要が有る  
中国の外務省の外郭団体 大陸棚に関しては、日本とベトナムに対して逆のことを言っている
そのことに対して交渉に当たっては中国では、その様にするのは当たり前との事だと言っている
国益がらみ、海底の地下資源が中心  イラクに匹敵するような資源が有ると言われている
  
中国の漁民の問題が非常に大きい 中国の場合は沿海漁業は壊滅に瀕している
一切がっさいを全部取ってしまう様な強力な網で、根こそぎやってしまった  
渤海当りは1歳位の魚しか取れない それでは漁業が成り立たない
結局北朝鮮、韓国の領海まで入ってって取る 殺傷問題まで起きる 
さらに大変な量の基準を越えた汚染の排水が何百万トンと流れ込んでいる
さらに沿海が殆ど全部第15次5カ年計画の終了時には工事が行われていて、中国の沿海が
工業団地、港に成ってしまう 
 
沿海の魚は産卵に来る時には浅瀬に来て産卵する  これを全部潰すと産卵場所がなくなる
水運が今、発達して 中国は水運を世界一の中心にしようとしている  
その航路に 海面を囲まれてしまうと 漁業が出来ない
中国の600万人弱の漁民が生きて行くためには、尖閣諸島沖合、だとか南シナ海だとかに行って
やらない限り生活が成り立たない
沿岸の地方政府がコントロールすると大変な事になる (暴発するので) 
やらせるしかないと言う事が一つの大きな要素です
シビリアンコントロールについて  これは推測でしか言えない部分が有るが 状況証拠から見ていろいろな問題が有る

日本が明治維新後に維新の西郷隆盛、勝海舟等が武士でありながら、政治もやって、
シビリアンコントロールが一緒くたになっていた
途中から完全なプロパーの軍人と完全なプロパー政治家に分かれて それが主導権を競って 
日本は最後には太平洋戦争まで来たが 
中国は似たような軌跡を歩んでいる 最初は毛沢東 鄧小平 とかは軍の総参謀長もしている 
文官 武官両方の要素を自分の内に持っているが
処が江沢民以降 胡錦濤等は特に胡錦濤は完全に中国共産主義青年団に育てられたプロパーの
党の人 軍と完全に別れて来る
胡錦濤時代から軍のさまざまな突出が見えてきている  
今度の近習平政権がそこのところをどういう風な関係を築いてゆくか大変大きな問題です
やっぱりコントロールがきちんとできていないのではないかと思います
領土問題は最終的にはうやむやにして、凍結して、棚上げにするしかない 
中国側は領土問題が有ると言う事を少なくとも認めさせたうえでの凍結でないと、矢張り説明がつかない 
それまでごり押しをするでしょう  ただそれ以上は今解決することは アメリカその他の関係も
有るので得策でないとは解っていると思います
軍がどこまでそれを言う事を聞くかという 大きな問題が有ります
中国、日本の民間の人達がやっぱり我々が主役にならないと駄目だと 政治だけに任せておくと、
積み上げたものが全部壊されてしまう
これは日本側にも中国側にも 政治に携わる人達の中にそういうものを一挙に葬ってしまう様な 
そういう方向性が有る
其れをやらせると民間の本当に日中の友好を考える人が疲弊してしまう  
矢張り補完関係が大分有るので これをしっかり考えないといけない
民衆レベルで理解し合ってみると本当に良い人が多い 
学生連れて中国の路地裏歩くと本当に良いおじさん 良いおばさんがいる
惑わされずに、兎に角、民衆レベルでお互いにしっかり理解を深めようと それからですね

2013年1月16日水曜日

河野耕三           ・照葉樹林が育てたエコパークの街



河野耕三       ・  照葉樹林が育てたエコパークの街  
宮崎県 県立高校で生物を教えるかたわら、全国各地の森林を調査し、自然保護の活動に長年携わってきました 
そして綾町に広がる照葉樹林に魅せられ、30年あまりに成ります  
綾町は宮崎県のほぼ中央にあり、東京ドームの535個分の照葉樹林が広がり
その広さは日本で最大級です そして昨年7月 ユネスコエコパークに登録され、国内では1980年以来という事で注目を集めています
ユネスコエコパークは人間と自然との共生に向けてユネスコが1971年に発足させた中心的事業で
生態系の保全と持続的活用を目的とする地域の事で
日本ではエコパークの愛称で呼ばれています  エコパークの登録までの道のりをお聞きします

森林が8割 その中の半分近くが綾町外の限定した場合 全体としては1/4位が照葉樹林です 照葉樹林 しい かし たぼ の木が代表的な木  原生的な森としては日本で最大級 1700ヘクタール(繋がっている領域で) 離れているところも   
合わせると2500ヘクタール 古い二次林まで入れると 3000ヘクタール  
他にも森としては御蔵島、沖縄本島 西表島等が有るが島であるのでまとまった自然林は意外と少ない  
農耕文化が日本に入って来てから、一番最初に破壊されてきたのが照葉樹林です。  
水田 畑で 建築用 杉檜の植林(明治、大正、昭和) でことごとく破壊されてしまった  
自然林の見られない山に成ってしまった

針葉樹の方が古い 針葉樹はある程度温度が低くて水分状況が比較的いいところで発達した  温暖化で それに対応することで広葉樹が発展してきた
条件が良ければ広葉樹が競争に勝つ  針葉樹は比較的厳しいところでも育つ 
針葉樹は急斜面、高いところ、寒いところに降りて行ってしがみつくようにして逃げて行った  
針葉樹は都合の良い材質を持っていた 広葉樹を切って針葉樹を植えた
針葉樹は根が浅く広くはるので 地滑りに弱かったり葉が脂分が多くて微生物の分解が遅くて永く残る そこにカビが生えて、カビが水をはじいて、地下に水がしみ込んでいかない  
土地がやせる 雨が降ると土砂崩れしやすい いろんなところで土砂崩れがしやすくなった 

昔は不安定だが土地がいいところは広葉樹、安定しているが土壌が無くて厳しいところが針葉樹 と棲み分けして自然を押さえていたが それが解き離れたために自然のバランスが壊れてしまった  
生物の先生を36年やった 植物社会学を大学で勉強した」
有る種類グループ 仲の良いグループと 仲の悪いグループが出来る 
時間を掛けて有る共存する社会を形成する 
その共存する社会を調査して分類する其れが植物社会学 分析して考察する 
(どうしてコロニーが出来たか)  

郷田さんが町長に成られて 1966年に森林伐採の問題が出てきて、一人町長のみが反対して、翌年67年から森を切らないでも住むような地域作りを始めて私と出会ったのが1983年なんです 約半世紀に成る  綾町の照葉樹林を守ろうとした  
自然が持っている価値を町内外の人に証明してほしいとのことで声を掛けられた 
表側は切れない状態だったので 綾町の裏側から切り始めた どうにかしなければと言う事で反対の取り組みを始めた  
森林伐採の会社に雇われていた 伐採された木 加工会社が加工して 外部に出荷していた  労働者としてのメリットはあったが資源としては無かった

パルプ、次が建築材としていた  安かった  原生林として構成してた当時は殆どパルプ 
安いため 杉、ひのきに転換しようと国策が拡大造林、樹木の 
(昭和20年代後半から)転換 として進められ、 その結果 原生林を切って、安くパルプ材、として出して植林をして行った
何故森が切られるかというと 木を切る為の労働力が雇用に繋がっており、これを転換するために町長は森に頼らなくてもいいようなそういった街作りを一生懸命に取り組んだ  
自然が無くなると日本の独特な文化が無くなってしまう  
そういった視点から森を見ようと言う事に成り総合的に、詩、短歌、文学、絵画、音楽、歴史、
考古学とかありとあらゆる分野の人を呼んで、森をいろんな角度から見直そうというシポジュームを 展開したのが2年目に始めた  

単なる資源の森ではなくて日本人の無くてはならない日本人を育ててくれた、文化をはぐくんでくれた非常に重要な生態系であると言うのを多くの人が知り始めた  
そこで初めて綾町の森が注目され始めた  
発酵文化 東アジアだけ 高温多湿独特の文化 カビを使った文化 他には無い 
お茶、 アジア 漆 乾燥地域では旨く乾かない 湿度の高いところでないと旨く乾燥しない 
 藍染め 繭 藍 等等 いろんなものが繋がって来る
針葉樹林では発酵しない  染色では木の灰を燃やして定着にしたり、全部照葉樹林 に繋がっている

いろいろな生活の処に繋がっている  それが判って貰えるまでには10数年かかっている
短歌和歌 日本的な表現の手法も非常に繊細  繊細な日本人独特な感性は ブナ林とか 
四季が有る メリハリがはっきりしている
針葉樹林は変化の無い 季節の移ろいが無い  観察力を磨ぎ澄まされた古代、中世の人達 日本独特の表現の手法技術を打ちたてた
実際の生活が安定しないと駄目 有機農業で町民が体験した 
それが売れると言う事を体験した  そしてそれがお金に成る 生活の安定に成る
綾から宮崎に 宮崎から日本全体に広がってきていろんなところから注文が来るようになる 
あやのブランドが確立するようになる

森を切らなくても、綾の生活するエリアの中で自然の恵みを利用して経済的な自立が出来る  農業で先行的にやって山からの地下水を利用して酒を作る (カビ文化)  経済的に潤ってくる100万人が来るようになった(7000人の街に)  自然保護が地元に人に支持された  
ある時期は人が逃げてゆく時期が有った 昭和28年 ダムを作って発電するという事で 
35年ごろ人口が増えた パチンコ、映画館 、飲み屋  工事が終了するとこの人達が夜逃げするようになる その様な時に1966年に郷田さんが町長に成る

現在は自然と共生して持続可能な循環型社会をめざしている 
考え方は必要だがそのまま綾をまねようと思っても旨く行かないかもしれない
いい自然が有っても旨く行かないかもしれない 全住民が参加出来るシステムが出来上がった (木工、地下水 釣り橋を作ったり) 
22公民館を作って、そこに交付金を与えて、館長を設けて、運営する役員会を設けて
 毎月役員会を行って いろんな分野の事を年間予算を立てて
やってゆく   行政の末端としての働きは役場の職員が行う 
 一区一品運動 有機農業 (小さな面積のところに) 健康になる
作ったものが余って段々青空市場で売るようになり どんどんそれが口コミで広がって 
発展して行って本物のセンターを作る そこで3億数千万円   年間で持続的に売る様になった  零細の一坪菜園運動から始まってこの様になった 中規模農家はJAを通して全国に販売する  
綾町がユネスコのエコパークに登録された 屋久島 白山 志賀高原 そことは違う 
国が勝手に申請 登録した 
地方自治体が提案したのは日本ではここだけ基本的には手を付けない
植林は出来る 人は住むことが出来る  
原生林と共存出来るシステムが整った状態で申請できる(綾は人が住んでいない) 
高齢化 過疎化  がいわれるが 新しく移住してくる人がいる  自然減ではある  
Iターン 最近では若い子供連れが来ている
孤独死は都会では言われているが、ここではない 地域の繋がり(公民館制度等で話し合う場が密にある)が有るので之から如何に維持するか 入込客 最近は若干減っているので100万人を維持したい  どうしたら綾の街並み空間が出来るか 観光、歴史等町民の手でやっていきたい   
エコパークにふさわしい街作りをしようと(とりあえず100年かけて)提案して体制作り、 組織作りをやっている  
それぐらいかけないと人間と自然との本当の営みは戻ってこないし、確立しない  
正直言ったら200年か300年ですかね それだけの時間はかかる
世の中は破戒の方向に動いてる中で 綾は地道にゆっくりとやってゆこうとしているので 
持続と我慢が必要だと思っている

2013年1月15日火曜日

工藤夕貴(女優42歳)      ・女優も農業も楽しむ



工藤夕貴(女優42歳)   女優も農業も楽しむ
工藤 夕貴(くどう ゆうき、1971年1月17日 - )は、日本の歌手、女優
父は井沢八郎 12歳の時にアイドルとしてデビュー  歌手として女優として活躍 
英語を勉強して18歳の時にハリウッド映画ミステリートレインに出演
その後「ヒマラヤスギに降る雪」等に出演 話題となる  
今月19日に上演される「カラカラ」が第36回モントリオール世界映画賞で世界に開かれた視点賞 
観客賞を受賞  ハリウッド映画に出演した経験等もエッセーも 発表される予定です 
現在静岡県富士宮市に住んでいて 農業をしながらカフェを出店している 

2010年再婚する 夫は元刑事だった人 柔道をやっていて学生の時に空手をやり始めた
ダイエット 食べ合わせで 夫が13kg痩せる  
「カラカラ」は舞台が沖縄 沖縄ムード全開 人間がシンプルに生きる美しさ 
世界に開かれた視点賞は カラカラの為に出来た特別賞
外国の方だからこそ描けた日本の中の文化、景色、人間とかを上手に描けた  
監督は現在も沖縄に住んでいる
フランスの詩的なコメディーだと思っている  主人公が一生懸命に生きれば生きるほど ちょっと笑えて来ると言うか、不器用さが面白かったと言うか  
そこはかとない笑いを誘う ちょっとしたおしゃれなコメディーだと思う  
余分なものが一切ない DVの問題を抱える人 自分を殺して行ってしまう

自分として生きる楽しさ 人間としてお互いの違いをそのまま素直に受け入れることで凄く良い関係性が生れて来ると言うことは凄く極上の友情に値すると言うか そんな感覚を持っていて 二人ともお互いに、ピエールさんも永いこと結婚してたんだけれど 自分でないものを奥さんの 為に演じて ずっときたけれども 結局そういう自分も滑稽だと思い、子供にも見放され、
仕事もリタイア 奥さんにも居なくなられて仕舞い、 親友も無くして   生きるのも怖い、
死ぬのも怖い そういう状態で沖縄に旅をしてきて、そういう出会いみたいなものから人ってそれがきっかけに成ってあらゆる方向が変わってゆくと言うか 私の再婚そうだと思うし、
再婚する気持ちなど無かったのに、ある出会いから 自分の人生が違う色をもつというか  
そういう事って誰にでも起こりうることで カラカラと言うのはウエット、ユーモアを持ち合わせて大人の人が見て面白い映画だと思います 

人生が疲れたなと思ってきた時に あーなにか別に捨てたものではないかもしれないなあ 
自分にもそういう一つのきっかけが有れば 何かの形で自分の人生が又輝きを取り戻す事だって実際有るんだと言う気持ちにさせてくれることが大好き  
ハリウッド映画にも出る 外国で自分のやりたい役を自分で攻撃してとって来ることに凄く憧れたと言うか 恋愛とかもそうだと思うが その人と心が通い合うまでが一番ドキドキして来る時だと
思うし 仕事とかもそうだと思うんですが、攻撃している時が人間一番楽しい時だと思うんですが、 日本で仕事をしている中で守りに入っちゃうと言うか そんなことを子供時代に感じたことが
有って どんなにやりたい役が有っても取ることが出来ない

待つことしかできない といういらだたしい気持ちが ある監督から言われた 
外国というのは主演女優賞を貰った人でもオーディション行かないと  役がとれない 
外国をめざした方が良いと その言葉が凄く頭に有って それから外国で仕事をしてみたいと思うようになった  
外国にでなかったらどんな人生だろうと思う時が有るが、外国にでなかったら今の自分は
無いし、多分こういう風に自分が満たされると言うか
ある意味自分自身に満足が出来る生き方が出来た自分に出会えなかっただろうと思います
外国に出た時に多少の苦労をしたけれども、アルバイトしたり、友達の中でも芸能人だとは知らない人もいたし、そういう中で生まれた時から芸能界の父に育てられて 12歳で芸能界に
スカウトされてデビューして 子供時代から芸能界と言う感じだった  

無名なアジア人として普通の人生を経験できたのが有る意味豊かにしてくれたことはあると思う日本だといろんな人が自分を支えてくれたり、普通に生きていても 日本は親切な人が多い 
外国だと普通に生きてても親切な人は少ない  
アジア人という偏見で見られて 年齢も若く見られて扱いも良くなかったり、そういう辛い思い
をしたり差別を受けて 完全に一人暮らしで、本当にマネージャーも無く一人で動いていましたので自分自身が見えなかったもの 如何に自分の少女時代が恵まれてきたかが判ったので良かった  
考えないから良いのかもしれない 失敗したらどうしようとは考えなかった 
絶対うまくいくと言う風に思っていた
食べられなくなったらその時は、其の時は又考えようと思った  
お金が稼げないときに、日本語教師をやってみて芸能界以外でも生きていけると言う  
自信がついて、新たな心の支えになった   
英語はかなり悔しい思いはしているが、子供でもしゃべれるので、如何に自分の生活に密着するかでその言葉のなじみ方は違う  どこの国に行っても2週間位で解る様に成って来る  
1カ国語をマスターすると次の外国語が楽になる
 
本当に必要になれば臨機応変に対応する生き物だと思う 切羽詰まった状態にする 
絶対そう思う  矢張り苦労するが その国の言葉に浸かる
使わないと英語は駄目になってゆくので使うようにしている  
褒められた事が凄くうれしかった もっと褒められたいと思うようになった
スカウトされたときに両親は大反対だった 土下座して仕事を始めた 
子供時代は家庭内のトラブルも有って自分自身を自分で自立できるように なりたいと思った   子供のころは必要以上に大人に見られたいと思っていた

富士宮市に住んでいる  芸能人は借金が怖い 仕事が無くなったら、本当に無くなるので 
借金が無い状態で家を作った
26歳からアメリカに住む  体調も芳しくなかった 異形細胞が有り癌に成る可能性が有るとのことで 現代医療薬に頼るようなタイプだった 
しかし 身体を直すのは自分だと 病気を予防してくれるのも自分の身体だと言う事に気がついて 食べ物の大事さに気がついて農業にも興味を持って自分で育てたものを食べるようになった昔は家から出ない様な若者であった 
 
今は山へ行ったり 空手をしたり 農業したり 走ったりしている  
矢張り食べ物の力だと思う 体質改善をした  10代のころは好きなものをお腹がいっぱいに成ればいいと思っていた
自分の身体が何で出来ているのか判らなかった 
食べ物でも粗悪なエネルギーに成ってしまうものが有る 
生のものに含まれている酵素、身体の中で綺麗に燃えるもの、身体を汚さないもの  
良い減量ダイエット(食習慣) 継続できる食べ方  実際の食生活にもとづくものでないといけない    
自分の好きな大好きだった伯父と父親ががんで亡くしてしまっているので、病気に成らない様にしていきたい
周りの人達も健康で長生きして貰いたい  それを形にしてゆきたい 
第二の使命として考えてゆきたい
食、農業の有り方 想い を人に伝えられるようなシステムを作って行きたい
安全な食材、安全な食事 を日本中に食べてみたいと言う人がいるのでそういう事をしてみたいと思う
女優をしながら半エックス(農業他)をしてみたいと思う

2013年1月14日月曜日

木村たか(92歳)        ・着物の美 しぐさの美

木村たか(92歳) ・着物の美 しぐさの美
大正9年 京都 染め織職人の長女として生まれる  戦争で「贅沢は敵」という事で禁止令が
出て、職人も戦場に召集され、職人を失い店を閉じました
その後結婚され永い間、海外で生活されましたが、洋装の文化に接するほど和装の良さに
惹かれて行きました
帰国されてから着物文化の素晴らしさを本に書いたり、講演会等でお話をされています 

和服 着物着て電車に乗って来ると視線が集まる 特に女性の視線が集まる
緑色が好き 錆び青磁 (薄い緑)
着物を着ると姿勢が良くなる  シャンとする 出来るだけ見綺麗にしている  (若く見える) 
父は染色家  一色染め  平安時代  純粋に色を追求する  中京区付近で生まれた 
 一番いい水脈の処
和の色名はみやびやか  英語の方が簡単 ピンクだけでも日本語では一杯ある
  
24歳の時には新聞社の記者に成る ここで物を描く事を教えて貰う  
女の子に何が出来るかというような目で見られながら、仕事をしてきた
ロンドンに5年いた 30歳過ぎまで京都 結婚適齢期日本には男がいなかった  
多くの日本語を取り入れることが出来た   
職人の代弁者になりたいと思うようになった そうして書き始めた
父の姿を見て、(無口な職人) 書き始めた  いろいろ鍛えられた 
折角着物と帯とを旨く良い取り合わせをしたと思ったが、合わないと言われたりする
若い時は粋な物 新しいものに飛びつきたいが それはいけない 
 
古い中に新しさが有って 人が求めているものが有る(若いうちは理解できないが)
人には似会う物が有るし、着こなせる年齢も有るし おたふくではその様なものは似合わないと言われた
物を作っている時ほど楽しいことは無い  新しがったら駄目 一歩後退する  
今でも古典の方を求める(古典模様を求める)
浴衣は普段着 振りそでは人に着せて貰うもの(晴れ着)   綺麗だけど着こなしていない
階段を歩くときはハラハラする 袖は長いので邪魔になる 袖を袖口の下を持って歩く  
舞妓さんは左手でつまをもつ
お嬢さんと花嫁は右手でつまを持たないといけない   左鍔をとっていた時には 芸者さんに出てゆく時に持つもの
舞子 肩のところに縫い上げがある(これはまだ成長するため)
  
無地の洋服ほどドレシー 着物の場合は 友禅染め 美しいカラフルな色合い 
化学染料が入ってきてもっとあでやかな色に成った
定型であるために 色を書いて色を載せることで それを着る人の立場 年齢 趣旨
(着てゆくところへの趣旨) 着物には模様と色彩が絶対必要になる
森羅万象 あらゆるものが模様になる  冬の着物と夏の着物は透けて見えるものを使う 
 桜の季節、夏草の季節  秋の紅葉  俳句のように詩の様に季節感を表現する  
松竹梅 お目出度い時    平安時代は庶民はまだ 日本人の美意識が全部入っている
 
色を大切にしないといけない 模様が一つのテーマだとするとそれに装飾を加えるのが色 メロディーが模様とすると、メロディーに装飾音が無かったら一歩指でピアノを弾いている様なもの  装飾音を加える時に なにがしかの優しい色、強い色、成をして来る人の引きたてとするものではないでしょうか  
自分の悪いところを着物は隠してくれる 振りそで 高い帯で 年を取ったら段々下にしてゆく  
洋服は宝石が必要 和服は宝石の必要が無い  日本の民族衣装 
 毎日着る必要が無いが礼装の時には着用してほしい
本当にかしこいと言う事は 自分よりも先に相手の事を想って、相手を生かしておいて、
自分も共に生きる のではないでしょうか
どちらも仕事を持っていれば、話せばわかる(喧嘩には成らない  小さな小競り合いはあるが)  
日本人は男を立てなくてはいけないのではないか  
古いと言われるようだが男が前に歩くのが良いと思う
行ってらっしゃい おはようおかえりやすと言って主人を送り出していた(女性が男性を立てる)
「白鳥はかなしからずや 空の青 海のあおにも 染まずただよふ」  
職業がいろいろあるとしても本質的にはなに色にも染まらない 水の下で足で努力している
百人一首  恋しい、世の恨み、つらみ等世の移り変わりを嘆くのもすべて入っている 
「花の色は うつりにけりな いたつらに わか身世にふる なかめせしまに」   
若さは時間が持ってゆく 若さに頼らないで、若い間に物を記憶して物を覚えて、
いつか年を取ったときにも、若い時に習い覚えたことが楽しく思い出されるような生き方をしてもらったら  日本の和歌、短歌  
詩 が生活の中に生かされるのではないでしょうか日本人の誇るべきものは何だとうと思っている 其れを伝えないといけない 
人様に伝えて 伝えたことが代代伝承されなかったらその国の文化は永続きしない  
女性の力で文化を伝承してもらいたいと思っています

2013年1月13日日曜日

斉藤和男(44歳)        ・私の相撲道を語る


斉藤和男(44歳)        私の相撲道を語る
1968年立川市生れ 日本体育大学武道学科卒業 文部省から海外研修員としてオーストラリアにへ派遣され、その後弘前大学医学部助手などを経て、現在日本体育大学で教鞭をとり相撲部の監督をしています  
小学生の頃から相撲を始め 全国高校総合体育大会では 昭和58年から、団体優勝3連覇 60年高校生の横綱  大学3年生でアマチュア横綱 平成4年第一回世界相撲選手権 団体優勝 個人優勝 体力だけでなく精神力 心の強さも求められる相撲道  海外体験や医学的研究も含め 相撲を一筋30年 相撲道と魅力をお聞きします  

相撲道7段 医学博士 身長182cm 体重は102kg(最高時は135kg) 立川は相撲の盛んな土地 町内の相撲大会に周りから言われて参加
双子が授かる(最近) 町の大会では個人優勝したが市の大会では準決勝で自分よりも小さな子に足を取られて負けてしまった(今でも悔しさを想う)
スポーツは特に得意ではなかったが学校で3番に入るほど走るのは早かった  
学科は算数系は得意だった 算数の先生に成るのが夢だった
褒めて貰う事によって強くなった 中学に成ると自分でトレーニングするようになった 
どうしたら相撲が強くなるか考えた
ウエートトレーニングをしている力士がいて これだと思って 図書館に行って体力を付ける方法 身体を作る方法を実行した

運動 栄養 休息が 3本柱であるがすべて実行した  
腕相撲も強くて全日本選手権に出て高校生で2位に成った
世界選手権大会では 2mを越える人 体重は247kgのエマニュエル・ヤーブロウ アメリカ人  
当時出島(大関)が出たが 同じ大会で負けている  
その後 琴光喜 栃のなだをやっつけている   私は右からのすくい投げで勝てた 
良く勝てたと思う 自然に体が動いた  
日本で大会が有ったときで おーーと湧きあがった    
団体戦をやるのは日本独特な感じがする 
相撲をやっていた時は勝つことのみを考えていたが、知らない間に相撲を教えられてきたが私が現在預かっている学生に、繋いでいきたい

私が一つの繋ぎ手として相撲を広めて行くのが現在の私の仕事だと思います
プロからの要請は 自分は他のところでも出来るのではないかと思って、違う進路を進んだが矢張り相撲に戻ってきた
1年間 シドニーで相撲を普及するかたわら、外国の様々なトレーニング法等を勉強させていただく制度で 行かせていただきました(相撲と離れた時代)
関心は 国民性が有り (フランスは柔道は盛ん) イギリスはそうでもないので、オーストラリアもイギリス系なので相撲に対する気持ちはそれほど高くなかった
私が教えた選手は世界大会で3位に成った  世界大会の競技者は増えている  
ジュニアの世界選手権大会も出来た

バルト、琴欧州関 とかがこの大会に出ている  
ロシアでは1万人の競技者がいる 国を挙げて支援している
4.55mの土俵以内で戦う ルールが独特  砂 俵が上がっている  
土俵は調子がいいと広く感じるし、不調だと狭く感じる
心技体 が必要   武井義男先生が師匠で中学、高校と教えて貰った  
現在指導の立場に立たされて非常に先生のいう事が参考になった
教えることにブレが無かった  知らない間にやらされていると言うより、やっていた  
褒めるのが旨かった
負けるとすぐ稽古をしていた 辛いけれども其れが後後良いと思う  
こういう先生に成りたいと素朴に思った

修士論文は「相撲の崩し技と決まり技の分布の統計学的検討」 決まり技に移行するための前の段階でどういう風に技を掛けて決めたか を調べた
相撲の格言 「押さば 押せ 引かば 押せ 押せは相撲の極意なり」  やはり前に押して崩す 上手投げ下手投げ 横からの崩し技、はたき、引き 相手の重心を崩す  
矢張り相手を押して崩す技がその後の価値に非常に繋がりやすい という結果が出ました  
引きは墓穴を掘り易い  引き技が得意な横綱はいない  
柔道の古賀選手とは仲良くなって大学院時代も含めて友達になっている
舞の海は同級生 高校時代から戦っていた  舞の海は左下手に入ると強かった  
プロの人は形にしてくれる人が多かった

弘前大学 身体の身体密度 体脂肪率 脂肪以外の体重がどの程度か アスリート 高体重者等の研究をしていた
相撲の世界も緻密に研究しながらやってきている   
学生指導をしているが逆に学生から教わることは多くある
アーこうしとけばよかった あの一言は言わなかった方が良かったと想ったりする
学生と接するに 言葉は80%90%を占める  技術力とかは皆同じことを教える 
学生と接するのは1日、2時間か3時間 この時間を100点満点としても  、一日の内1/8 100点取るだけだが  残りのすべてを100点にすれば 24時間が100点に成ると思うんです   
そういう意味では私が見ているとか、見ていないとかで 彼らがやる様では彼らが持っている能力は上達しませんし どうやれば良いかというと 、彼らにやる気を持って貰う  
どうすればいいかというと  褒められると嬉しかったなあと思いだし 彼らの心に火をともすのが私の仕事だと思います

彼らの残す成績が私の通信簿なんです  毎年毎年私は彼らから通信簿を貰っているんです ここ一番の相手 100回やって百回勝つのはどんなに緊張していても勝てるが、百回やって一回でも負けると自分が変な緊張していると負けることが有る  
プレシャー このプレシャーを説明する時に 30cm幅の木があるとしよう 
地面に置いてこれを歩けと言えば歩けるけれど、これを50mの高さに橋渡ししておいて、歩けと言われれば、皆大変だろうと、でも同じ板だろうと これがプレシャーだ 自分がいかに物事を考えるか 大きなことなんだ 自分に自信を持つような変なプレシャーを感じずに、自分に自信が持てる様な 毎日を送らないといけないし、生活を送らないといけない 

私が見てる、見てないか、では無くて、自分にプライドと誇りを持って、感謝の気持ちを持って、毎日毎日を過ごしなさいと 言って居る  
一日一言 全員に言葉を掛けています  今年世界規模の大会を2回開催します
42.195kmのマラソンに置き換えると 私は折り返し地点を過ぎたところかなあと思っています  30kmが一番きつい その辺かなと思います
その頃を一生懸命走ったのが良い結果を生んでいると思います  
私が預かった学生が大相撲に行って 横綱に成って貰う事
又私が預かった学生が全員 幸せになって貰う事です  これが私の最大の目標です
是非相撲がオリンピックの種目に成ってほしい

2013年1月12日土曜日

堀内正美(俳優62歳)      ・支え合う心を忘れない


堀内正美(俳優62歳)         支え合う心を忘れない
神戸市在住 NHK連続TV小説「純と愛」で主人公の相手役の町田いとしの父親役で出演しています 
阪神淡路大震災時にはいち早く被災者の救済に取り組み、現在被災者支援活動を展開する認定NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」の理事も務めていらっしゃいます  
あの時の心を継いでいこうと続けられる18年目の被災者支援活動と役者としても活動の中で込められた支え合い、人とつながる想いを伺います  

純と愛 評判だが、どたばたした劇であり、賛否両論あり  
検事としての役 家庭に居る時には男たちは気使う 演じていて違和感はない
純 実際に朝8時~夜遅くまでみっちりとやっていく中でボロボロになっているが、笑顔を絶やさない 半年間あるので擬似的な家族が生れて来る
控室でもクールにしていたり(演技の関係で)している    
32歳の時に神戸に引っ越してきた  22歳で俳優デビュー  
最初演出助手だったが、装置を治したり、俳優に演技付けたり、しているうちに民放のTV局 で原作が夏目漱石の一高生の暗い俳優を探していたが、オディションでも見つからなかった
 
ちょうどその時に 裏方で雪駄を履いてやっていたら、監督から口説かれた  
父が映画監督 堀内甲 伯父が堀内完(日本におけるモダンバレエの創始者)
俳優として 人の前で何かやるのは苦手だった  
若い頃は暗くて屈折している様な役が多かった
60年代 学生運動が盛んなころ 社会を真っ直ぐ見ないような青年時代だった  
人を泣かせる芝居は楽だが、人を笑わせる芝居は難しい
今回の役は晴天の霹靂 今までと違った役割で  ちょっとひょうきんな感じを出している

三里塚闘争 一緒に入っていて運動をやった  お爺さんがつぶやいた 行き場所が無い 
お金を貰ってもお金などは欲しくない ただただこの土がようやく作物が実る様になった  
自分としてはこの土に帰りたい、と聞いたときに 農労学市民の連帯 自分達も革命運動に、みたいな気持ちでいたんだけど何だったんだろうと  そこで照合した  
自分が考えていた革命 社会を変えるとう事が非常にガタガタと崩れてゆく  
それまではどんな論争しても負けなかった 
自分でも強くいれたが 、その時はお爺さんの一言で見事に崩れ落ちて、三里塚から逃げ帰った どう生きたらいいんだろうと 映画館に行って、喫茶店に行ったりしたが芝居を友人から行かないかと言われた      蜷川幸雄さんの舞台だった  
こんな生産的でない物が有ったのかと思った 

であればこの世界(虚構の世界)にもぐれるのではないかと思った
最初のころは何にもできなかった ちょっとうつむいててくれればいいと言われた  
二本目 山田洋二さんからぼこぼこに怒られた
練習します と言ったら 練習すればいいというわけではないと 言われてしまった 
10年やって矢張り俳優は無理だと思って 東京から神戸にきた
(その時に結婚、子供が出来ていた)  兎に角東京を一歩離れて見ようと思った 
神戸 山が有り海が有り 適度に都会的で、来る者拒まず 去るのも追わずと言うようなところだった
阪神淡路大震災に遭遇する  家は倒壊しなかったが一部損壊  これで死ぬのかなと思うぐらいの揺れだった 

床下から思いっきり突きあげられて 淡路島の方角から地底を巨大な鉄球がごーーーーとそしてその音が家の真下にくる  
そうすると家がバリバリバリと揺れるわけですよ  
真っ暗な状態で、シェーカー状態に成っている  家族4人とも何でもなかった  
早朝から安否、透析の病院 水の場所等の放送した  
2日間やっていたが、震災から1週間後に自分達が出来ることは自分達でやろうよと
「頑張ろう神戸」を立ち上げ 受け入れのプラットホームを作った 
来てほしいので神戸市内、看護師、大工、料理屋さん とかがお手伝い出来ると 、米なら送れる赤ちゃんのおむつかぶれ  シートが欲しい とか欲しいものの 掲示   提供できるもの 等の掲示  幼稚園に赤ちゃんのお風呂場製作
 
希望者の情報提供 旨く情報のコーディネートして有効に提供した
「頑張ろう神戸」  は発展解消  「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を立ち上げる  
凍りついて時計が止まってしまった方、うずくまっている人 家族を失ったり 、仕事を失ったり絶望しているまさに非歎にくれている人達をどうしたらいいかと、思った時に 死という事 喪失を見て行く事を通してどうやって新たな再生をするかという仕組みを考えなければいけなという事で NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を立ち上げて12年目です  
モニュメント 「希望の灯り」  碑文の文字  皆の声を書きとめておいたのを繋いだだけ 
震災が奪ったもの(上の句) 命 仕事 団欒 街並み 震災が残してくれたもの(下の句) 
優しさ 思いやり 仲間 絆  (そして上の句と下の句の間に) 
たった一秒先が予知できない人間の限界を描き入れた
 
予知出来ない 誰にでもありうる災難   新たな喪失、さまざまな非歎  希望の光は 寄り添っていてくれれば ちょっとだけぬくもりを感じて、そういう仕組みを作っていきたいと思った  
依存すると言う言葉が母子依存薬物依存 アルコール依存 マイナスのイメージで依存を捉えているが、河合速夫  自立とは 他に依存していることをしっかり自覚することである  自分がこの人の存在によって やってくれたことに対して助かっている   
ありがとうという気持ちを持った時には 自覚していれば 依存というのはとっても良い言葉なんだと認識するようになった
「純と愛」 破壊と再生のドラマ だと思っている  
喪失 悲しみ 絶望  非歎 が有り、その中でどう新たなる再生をしてゆくのか  
大きなテーマだと思う

東日本大震災  支援  どこまでできるかが有ったが、動き出した時に 阪神淡路大震災の時の失敗であり、また繰り返しなのかという事にあきれる
現状が見えた   市民の物は要らない 国が、行政が 事業者を活用してそういう事をするから市民は来ないでくれ、物を送らないでくれ、それは無いだろうなと思った  
阪神淡路大震災の時には 飢えと寒さは出てこなかった 
全国から送られた者の中にくるまれば暖はとれたが、食べるものもいろいろ届いた  
しかし 飢えと寒さ が有った  
国は事業者に依頼して送るからと言ったが最初の1回 2回だけであとは自分達でやらなければいけないように成って行って、という事に対して 阪神淡路大震災の時に 正直全国から送って貰ったものにあとで ゴミに成ったものが有った
 
かといって初動にはどんものでも必要 送れる仕組みが無ければいけない  
仕分けも大変 ごみで現地で出さない 
経験を整理すると 被災地で仕分けをしない  ゴミを出さない  
被災された人が最初に探してほしいのは思い出(アルバム) 預金通帳、貴金属 現金 という人はゼロでした  
アルバム、賞状だとか まさにアルバム  思い出なんです  
たすきプロジェクト  自分と等身大の人 に送る(着物 自分の好きだった物手紙も入れる)  
そいうバッグを4万5000バッグを全国から募集して送った

落ちついてくると皆さんが提供してくれた人に感謝の手紙 獲れたもの等(さんま、リンゴ等)  を送ってくれて 繋がりが出来てきている
自分だったらどうなんだと 社会的な出来事に対してたえず そういう目で見るし そういう視点は大切なんだと思う
依存  そこにありがとう が有ればいい   ありがとう 何いってんの お互い様じゃない  
日本の社会で どうやって支え合っていくのか、この二つのキーワードに展開して行ったら国難というか これからの時代を乗り切れるヒントが有ると思う  
歴史に学ばなければいけないと思う

2013年1月11日金曜日

米山文明(耳鼻咽喉科医87歳)   ・呼吸と発声を極めた我が医師人生


米山文明(耳鼻咽喉科医87歳)      呼吸と発声を極めた我が医師人生
今も、声を大切にする歌手、落語家、俳優などが治療とアドバイスを求めてやってきています  
アメリカのマイケルジャクソン、ドイツのソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップ等欧米の一流歌手も多数治療を受けていました  
声だけでなく、聴きやすい声 歌だけでなくて聴きやすい声  、良い声は人の心を捉え、人と人とのコミュニケーションをスムーズにする  
そのためには正しい訓練が必要で、欧米のボイストレーナー制度を取り入れる  
必要があるという事です   1925年静岡県生まれ。
1950~1965年東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室で、音声言語医学を専攻

日本語そのものの構造の問題も有る  母音が5つ あとは子音に必ず母音が付く  
ぜんぶ母音がつく言語他の国では無い 母音は声帯を使わないと、
出てこない言語です  (どこの国でも)  母音と言われる各国の言語ですべて声帯の振動をともなって声帯で作る音が入っていないと母音とは云えない  
処が日本語は母音の5つ以外に全部子音に母音を伴っている、と言うことは全部声帯を使っている   声帯にとっては凄く負担がかかる
声帯を使う量は日本語は非常に過酷になっている  
がむしゃらに声帯を使うとガラガラ声に成る

外国では殆ど発声 声作りの専門の人がいる  日本には無い  教育システムが無い   
喉を痛めない様な声とかの教育は無い
選挙 ケネディー大統領 の専門の発声の事を面倒を見る先生がボストンの大学の先生がいた  生徒の発声の教育を熱心にする先生だった
政治家が演説している光景には吃驚したでしょう  
一番吃驚したのは教員、と政治家の声が気になったとの事
授業で一日5,6時間話すので、声が壊れる  子供達も教わらないで過してしまう 
 先生も声を使う職業の人もどういう声を使えば喉を壊さなくて、大事に保てるかと自覚すべきだと思う   
職業病と認定したらとの話も有ったが、そうすると予算が全然足りなくなるとの事
 
使い方そのものを解決しないといけない  
教育学部に入学している生徒たちに授業をやる時のこえの使い方を教える必要が有る
教育は50年単位でやらないと本格的に定着しない  
イタリアのローマで 生まれた子供からやろうという教育をやり始めた人がる
教育は早い方がいいと思う  声帯は太さ、長さが変わって来る(声変わり)  
年齢の応じた教育をしなくてはいけない(知能、体力に合わした教育)
声は体全体を使います  
呼吸、足の裏から頭のてっぺんまで使わないと呼吸のコントロール、発声のコントロールが出来ない特に下半身、足を使わないといけない  通る声は声の大きさではない  響きです 
 
響き方 共鳴の仕方  呼吸の取り方を旨くとらないと遠くの人には届かない  
一番基本的なことから子供に教えなくてはいけない   茶摘唄 身体を動かしながら歌う、吐く息で声を作るが、効率よく呼吸をコントロールするが 、横隔膜を調節する神経が手を調節する神経と同じ処から出ている 連動している    
ミュージカル 良く飛んだり跳ねたりしながら声を出せる 
舞台で動きながら 走りながら声を出せと言われて昔ながらの声楽の人には出来ないと言われたが、実際には動いて出来る   
いろんな意見が有っても実際にやらないと駄目  明治以降の教育は形式的  
声に関しての関心は持っていない

具体的にこうやろう という方式が無いと実現できない  
頭で解って自分で表現しないと駄目  病気の場合は今の医療でもやってくれるが(ポリープ炎症)ある高さの音が出ないという時には、それだけ声が出ればいじゃないかと耳鼻科等では言われてしまう  
一般の人ではそれでもいいかも しれないが、その音域の声が出ないといけないような人にとっては問題  それを解って貰えないといけない  
ボイストレーナー 資格の認定試験が日本ではない 外国ではある  
国家試験が有る国も有る (アメリカ等)

歌の教え、治療が必要な場合が有る場合は 医者に回したり、する場合もある  
発声の先生、歌の先生(オペラの先生)最低二人いる  (欧米では)
タイガーウッズ イチロー  天才的なプレーヤーでもコーチが付くがいつもやっていることの僅かな違いに当人は解らない場合があるが脇で見ていてそれを、指摘するのがコーチの役割 シュヴァルツコップ 20世紀を代表するソプラノ歌手  段々年を取ってきて身体も変わる、そういう人でも自分では解らない  
年齢的でも変わるかも知れないし、一日一日でも変わるかもしれない  
身体の変化に対応して発声するものをすこしずつ修正するんだと、其れが出来ないと年齢に応じた発声はできない

歌えるけれども今までのように歌えないと言う時に相談に来る   声帯 太さと長さ   
女性でも一流の歌手 は太くて長い人がいる
呼吸が無いと声が出ない 吐く息で二次的に声に使っている  
コミュニケーションするのは30% あとは言葉が無くてもいい  声でも良い声のほうがいい
声が悪くてもいい言葉がだせる  理想は両方良ければいい 
しかし実際に個人思っている楽器は決まってしまっているので替えることはできない
言葉は音源が有ればいろいろ作れる   
その人が持っている持ち声 を如何に旨く応用できるかが勉強であって 自分に有った種類を沢山出せるか、声と言う物は 声帯の変動ではない 哺乳動物は膜が有って振動する膜を持っている 
鳥には声帯が無い 鳥は軟骨の筒を持っているだけ(笛の音)  
言葉は作れない、だから声というのは声帯を使って声帯に空気を当てて振動させて、それで音を作る         声は振動する音ではない
バイオリンの弦が振動して音が出るが それで音源に成ってるのとは人間の声は全然違う
声帯の振動は空気を断続するだけ 閉まったときにく気が止まる空いた時に空気が出る  
空いた時に出る 空気が断続気流を作る 
それの渦巻きの空気の波動の音を聞いて声に成る  声帯の振動音ではない  
あくまで空気の波動です
医者に成る前から音の事に興味を持った  
患者は殆ど喉に関するプロの方が多い(歌手、落語家、俳優等)

2013年1月10日木曜日

奥澤武治(67歳)         ・モダン結城を世界に



奥澤武治(67歳)   モダン結城を世界に
慶応大学卒業後 京都の老舗と奄美大島紬の勉強を経て、実家の結城紬の販売会社に
入社しました  
現在は専務取締役で合わせて結城紬染織資料館長を務めています  
伝統的処方の結城紬は昭和31年に国の重要無形文化財に 2010年には
ユネスコの無形文化遺産に登録されました

結城の街は鎌倉時代から明治に至るまでの古い城下町で 特に明治に成って火災に強い街にすると云うので 店蔵という蔵作りにした建物が31軒 今も残っている   
古い街並みが残っている ユネスコに結城紬が登録されたと言うので幟が建てられたりしている 世界でも絹織物の中でまれに見る織物  原始的でその原料の糸は真綿から手でつむぐ、
世界に類を見ない 空気をたくさん含んだ よりの無い糸で  織る、それもじばた織りと言って世界でも一番古い織り機で織る  そういうところが認められた  
手織り資料館 (「手緒里」資料館 鳩子の海で結城へ来て結城の勉強ながら機織りの店を出すそれが 手緒里 という資料館の名の由来)

着物の事を一から勉強しようと思って、京都に行った  
大島紬は何十台という機械で織っている  友原さんの家でも勉強した
紬と普通の絹織物の違い  着物には先ず2つある  後染めと先染めがある 
後染めは振りそで、友禅、小紋 白い生地を織ってからあとから模様を作る
先染めは糸の段階で先ず絣と言って糸の段階で模様を作って、織って、模様を織りなす
紬は糸を手でつむぐ  生糸は繭から細い糸を取りだし 1400~1500m 3デニール (糸の太さ)  それを7本 なら7本 1mにつき350回転によりを掛けて1本の糸を作り それを用途によって 
7本 (7×7本 49本)の糸を作る 
    
結城紬の場合は 繭から真綿を作る  そしてそこから手で糸をつむぐ 
全く違う性質の糸が出来て来る  そういう商品です
生糸の場合は糸をよるという作業を何回もやるので、空気を排斥してくる  
結城の場合には真綿から手でつむぐ 唾液を付けながら固めてゆくというか
よりの無い糸 世界にこれしか無くて よりが無いために軽くて温かいこれが結城の最大の特徴ですね
絹織物は弥生時代に大陸から渡ってきて、養蚕が生れて、織り物が生れる  
綿は新しくて江戸中期 栽培が楽だったので全国に広がる
その時に綿花  綿は本当の綿は弥生時代からあったので 真の綿 真綿と言う名前が生れたと思う

植物の繊維を繋いで織ってきた  くずふ、しなふ、あさとかが最初  弥生時代が絹  
綿が江戸時代  それまでは麻が中心
良い繭 お湯の中で煮て 糸口を探して それを引き出して何本かをよりながら1本の糸を作るが出がら繭 玉繭 染みが付いた繭 捨てるのがもったいないと言うので お湯の中で煮て盥の水の中で冷やしてから 指先で穴をあけて引っ張って 袋にして それを指先に5個ぐらい重ねて真綿を作りだした  
最初は軽くて温かいから寒さから身を守る道具に使ったのではないかと思う  
こんなに軽くて温かいのなら自分達の着る物をつくろうと思ったのが 全国の紬の起こりだと思います
最初は普段着に着るものとして生まれてきたと思う   
地ばた 世界で一番古い織る機械  世界手織物博覧会 結城紬の実演をしてほしいと言われたやった  高幡でやったのは  大島紬 西陣織り  地ばたでやったのは結城紬だけだった 日本はハイテク産業国なのにこんな原始的な織物が残っていたのかと吃驚していた  
地ばたは自分の腰で縦糸を固定して、そして足、腕、手、目、全身を使って織る   
織り子さんが織機に成って織る 

高幡の場合は 縦糸ははたに固定されるので常にぴんと張っている  
織り子さんの身体と一体となって縦糸が動くのが地ばたの特長です
縦糸がピンとなったり緩んだり、して難しい織り方ですが、糸に優しい織り方 
原始的だが上手にできている
地ばたで日本で残っているのは 小千谷縮 越後上布 結城紬  あと東北で裂き織り
津軽裂き織り 南部裂き織りで一部有る程度    地ばたで織る人は 100軒近くある 
 一人で一反 最後まで織る そうしないとムラになったりするので  
一反の縦糸横糸を作るのに 16km、 横糸で14km  30km作る必要があるので  数人で行っている   結城だけは小麦粉の糊で補強して織る

湯通しといって何回か糊を取る工程がある それを終了するとふわっとした物に仕上がる
手作りのものは、みな出来た時が良いのではなくて、大切に使っているうちに 物の良さが出る 
それを着る人と物との間に心の交流が始まる    これが手作りの本物の良さだと思う    
モダン結城 世界の人に認めて貰いたい 
 昨年9月パリ プルエービレン 世界最高のテキスタイル展が有るが 出店することになり 
世界に埋もれている 手作りの技だけを集めて別コーナーを作りたいと言う事でそこに実演も兼ねて展示した 吃驚する
   
2反依頼があり、パりコレにメンズのイブニングスーツで作品がでた  
70cm幅までできるが、新たに90cm幅のものを作成した
洋服にどうかとチャレンジしている  手ばたで90cmは中々出来ない 動力を使ったものも今後検討してゆきたい
衣川→絹川→鬼怒川  へと名前が変わった
結城紬は男物(武士と町人)  明治に成り洋風化が進む中で男が洋服を着だして、
それから女物の縞や無地が出てきた  (パリコレでも男物で行う)   

2013年1月9日水曜日

高野直明(シルクロード愛好会)     ・シルクロードの夢を語る


高野直明(69歳)             シルクロードの夢を語る 
地球と話す会(シルクロード愛好会) 中国の西安からイタリアのローマまで遥かな道の踏破をめざす旅や、その文化を学ぶ活動などしています
高校生のころシルクロードに強く惹かれ、卒業後はガス会社に就職して、技術スタッフとして勤務を続けながら、シルクロードを踏破する夢に一歩一歩近付いてきました  
憧れのシルクロードに第一歩を印したのは1992年の事で30年あまりが経っていました  
高野さんがシルクロードの全行程を走破したのが2003年 定年退職の年でした  
少年の頃の夢を実現した どのように歩んできたのかお聞きします

自転車や徒歩で古代の都西安からローマまでの踏破する  90名位で構成している  
勉強もする シルクロードエリアの歴史、文化をまなぶ
講師は探検家、歴史、地理、日本に来ておられる現地の方 会員の研究発表 イスラムの宗教関係、料理 等日本で勉強している(地球小学校)
昨年8月 ローマに集まって、記念行事をした 
東大寺からのメッセージをローマ教皇に渡す 39パーティー 900人を越えるメンバーが達成した
安寧を祈願、届けた  東大寺の別当北河原 公敬 世界平和のメッセージを書いて頂いてローマ教皇に渡すためのメッセンジャーとして行動した
世界で1000人ぐらいいた  地球と話す会は90名が謁見した
高校時代に偶然読んだ一冊が有った スウェン ヘディン 「さまよえる湖」 
すこしずつ動いてゆくという内容の話しだった どんな場所なんだろうと思った
シルクロードに段々引き込まれていった  
中国 中央アジア、中東 ローマまでの道が有ったと言う事に吃驚した
ガス会社に就職 ルーブル博物館、に展示されたものとか、国内の展覧会、写真展等に見学した 

1972年日中国交回復し身近に感じるようになる  2回のラクダのキャラバンに行っている  
計画が新聞に乗っていたので参加した
最初1カ月間の休暇が有ったので悩みながらも 上司に相談 会社から辞めてから行けよと言われてその時は挫折した
会社の長期休暇がもてはやされるような状況に成って、1991年に地球と話す会が出来て 翌年にラクダの旅が実現することが出来た
私は副隊長として出掛けた 中国850km ラクダ80頭 隊員は58名 一か月間 大学生から71歳の人まで参加 男女比は6:4だった

本当に現地に行って気が付くのは砂漠という平らなところと思うが、実際には山脈が有ったり (4000m位) 本では実感できないものだった
砂漠の暑さは普通に思うが、寒さも有って 朝はキャンプ地洗面器が凍るようなことが有り、段々昼に成ると 真夏の暑さに成り、日が暮れて夜になると、急に寒くなり、寝袋に入っていても寒さのために中々寝付けられないと言うような状況だった  
一番予想をしていなかったのが、仲間内のけんかが始まる  
些細なことの言い回しで喧嘩になることが有った
休養日を設けた 険悪なムードは無くなった  
24時間ずーっと一緒に居るとストレスが溜まる ストレスを開放する事が必要
何でわざわざ砂漠に来るのと言われた 
正倉院展に瑠璃碗が展示されたが、ああいうものがガラス器がこういうところを通ってきたのかと思うと感概深い

1992年以来 33回に成る ラクダでの旅が2回 (合計1800km)   
国境を12か所自分の足で越えた
中央アジアから中東の国境を越える時は緊張した 
2から3時間をかかって国境を越えたことも有った  陸路の国境越えは緊張の連続だった
日本との比較文化を考えながら歩いていた  
妻と一緒の方が現地人との接触が旨く行くことが出来た
シルクロード地域の人は生活がシンプルで道具は余りない  
定年前にソフトランディングの休暇が有ったのでそれを利用して全行程を踏破できた
長かったなあとの思いが有った  1500km を線で結ばれた(西安~イースタンブール)  
一緒に旅をしていた人も病気等で道半ばで亡くなった方も居た

費用の捻出、休暇の確保   長期休暇の抵抗感はあった 言い出す辛さはあった  
費用を含めて家族の協力が有ったからこそと思っている
子供は無かったものですから妻がいろんな役割を担ってくれた 
(秘書てきなこと、カメラマン、健康への補助 等々)
両親の介護を含めた家庭 地域についてはおろそかにしていたので地域の事(民生委員等)、シルクロードの趣味に係わる事
小学校への講演 砂漠  現地で培ってきた経験 異文化に対する価値観  
「少しの努力と継続をすれば願いはかならず叶う」
多くの道を丁寧に歩いて行きたいと思う  
日本の奈良京都 絹文化  群馬県の富岡工場 繭を貰ったら蛾が産卵をして、蚕を飼いだした
ざくり:繭から糸を繰り出す道具  糸を作りだして、草木染めにチャレンジしたいと思っている 桑を数回やらなければならないので、妻に手つだって貰って育てている