白井聡(政治学者)保阪正康(評論家) ・対談「平成最後の夏に」~前編~
来年天皇陛下が退位され、平成が終わります。
残すところ8か月、今日と明日の二日間、その平成という時代を振り返ります。
対談するのは京都精華大学専任講師の政治学者白井聡さん、ノンフィクション作家で評論家の保阪正康さんです。
白井さんがこの春出版した「国体論 菊と星条旗」は、明治維新から現在に至るまでの日本の政治状況を国体という概念から、読み解き注目を集めました。
昭和14年生まれの保坂さんに対して、昭和52年生まれの白井さん、世代の異なる二人が平成はどんな時代だったのか、そしてポスト平成時代はどんな日本になるかを語りあいます。
白井:来年天皇陛下が退位され、平成が終わりますが、30年ぐらいがいったいどんな時代だったのかを語るにいい機会だと思います。
明治維新から150年の節目になり、近代の日本の歴史が何だったのか考えるいい機会ではないかと思います。
保阪:明治150年を分析する方法が色々あると思うが、軍事が中心の77年と、非軍事の73年が有ると思うが、アメリカを軸とした150年が有ると思う。
「起承転結」と見ると 明治が「起」で、大正が「承」で、昭和が「転」(クライマックス)で、平成が「結」と思うが。
白井:明治から150年ということで、途中で折り返し点が有ると思っていて、それが1945年8月15日であるわけですが、挫折が有ったわけで再出発の時点でもあった訳です。
戦前の77年間に関しては明快なイメージが有る、封建社会だった日本を急速に近代国家を建設してやっていった時代が明治としてあって、大正時代は大正デモクラシーといわれ自由主義化、民主主義化が幾分進んだ。
しかし、民主主義的な国家となると思いきや、昭和のファシズム時代を迎えてしまう。
戦後はどうなんだろうと思うと、1868年から1945年までで77年間、1945年から2018年までで73年となるが、戦後の時代を上手く区分を持ってこられるのか。
戦後はのっぺりした連続性で取られてしまいがちである。
保阪:日本人のある種の歴史観、現実と向き合う姿勢のあいまいさを全部含んでいる。
戦後という言葉自体が一つの元号と化すような形で使われている所に、明治大正昭和平成と私達はいうけれども、その戦後という意味づけして使う元号の骨格、国体というのが白井さんが言うところのアメリカだと思う。
白井さんの本を読んだ時に、戦後というのを元号として考えるとよくわかる本だと思いました。
白井:元号とは国内的にしか意味がない訳で、国内では戦後がずーっと続いているような感じがするが、世界の秩序はどうかと言うと冷戦構造が始まるぞいうところだった。
1990年前後に冷戦構造が崩壊してEUが出来、中国の国力が強くなってきてアジアの秩序も大きく変わろうとしている。
日本だけは戦後という時空を生きている。
保阪:冷戦が終わると言うのは戦争が終わったということで、戦争の概念が我々が言うのと冷戦というのと、我々が考えている戦争の概念は近代日本の概念で世界的に通用するものではないということも判りました。
のんびり続いているところに、緊張感の無さの連続性のもっている背景になにがあるかという所を突きつめてゆくと、答えがいいか悪いかは別にしてアメリカなんだよね。
その着眼点は凄く大事だと思います。
1945年戦争が終わって1952年4月28日まで、占領国の中心の国家でアメリカンデモクラシーというのが日本の国の一つの軸になっていた。
アメリカの占領下の中に組み込まれることによって安全、日常生活の保障があって、それは歴然たる事実です。
我々が学生の時に日米安保条約の時など、アメリカ帝国主義とかを実態を何一つ知らないでアメリカ帝国主義を論じている。
昭和21年から昭和27年まで札幌で過ごしたが、食べ物も無くノートも無い時に助けてくれたのアメリカなんですね。
父がアメリカ兵から道を尋ねられ教えてあげたら、僕たち子供にチョコレートを一杯くれたが、父はそれを取り上げて川に投げ捨てました。(鮮烈だった)
GHQが列車からチョコレートなどを投げてくれたり、長靴を送ってくれたり、給食はある、アメリカの恩義が一方であり、複雑なアメリカ観になっている。
頭ではアメリカ帝国主義と言いながら、実際はアメリカに対してかなりシンパシーを持っている。
アメリカは日本にとってどういう国と言われたら判らなかった。
白井:アイデンティティーをどうしたらいいのか躓き、それが今でも尾を引いているのではないか?
保阪:突きつめて行くと親アメリカなんですね。
白井:日本が元気だった頃、バブル経済の頃、日本の経済成長は永久に続くのではないかと感じがした時代を子供の頃の記憶として覚えています。
平成になり万年不況の時代となりおかしいと思ったが、段々見えてきたものがある。
とどのつまりは属国であるということは、ほとんどの日本人は意識していなくなったと思う。
所が冷戦構造が崩壊し、日本がアメリカに従属している姿勢は変わらない。
露骨な形で従属が見えてきた。(政治的な事)
沖縄においては残酷な形態をとってあらわれ、沖縄の人は爆発する。
経済レベルで見ると多国籍資本の横暴が、益々露骨に強くなって行く事態が進行したわけで、日本がどう対応対応してきたのかというと、グローバリゼーションに騙され続けてきたというか、本質を何にも考えないままに社会の内実をすかすかに荒廃させてしまったのが平成時代だと思う。
グローバリゼーションはアメリカ発のものであって、戦後日本の対米従属はただごとならぬ事だと思う。
政治力、軍事力の面で従属している。
魂の次元、価値観に入りこんでいるような、極めて異様な姿になっているというのが、最近強く感じるようになりました。
保阪:3つのキーワードで語る発想を直ぐします。昭和天皇、戦争、国民。
昭和天皇が神格化した天皇と人間天皇。
国民が臣民と市民
戦争が軍事と非軍事
これを組み合わせると昭和が語れる。
平成は天皇と政治と災害だと思う。
天皇は昭和天皇の戦争の精算を行うものと、象徴天皇。
政治は人と制度、55年体制の崩壊(平成5年頃)、平成の政治はそこから始まる。
小選挙区制が政治を日本の社会の根本を変えてきているのではないか、平成の政治に対しては可成り問題だと思う。
災害は天災と人災が有る。
阪神大震災、東日本大震災、熊本地震などが有る。
一方で東京電力の原発の問題もあった。
災害というものの影響が平成時代はまだ十分に現れてなくて、これから出てくるだろうと言う感じを持っています。
関東大震災の時には二つ兆候があって一つは虚無感が社会全体に広がってゆく、大正末期から昭和の初めにかけて都市文化の退廃化、昭和に入っての自殺ブーム、虚無感の延長だと思う。
平成の災害もそういうことが有るのではないか。
原発は人災である。(天災に摺りかえるような分離が出て来る所に何か誤魔化しが有るのではないかと思う。)
白井:平成がどういう時に始まったのかというと、1989年に代替わりが起きているが、ここが大きな転換点だったと思います。
東西対立の構造が終わった。
アメリカにとって日本はアジアで一番大事なパートナーであるということで、庇護しないといけないということで日本は凄く受益をしてきた。
基礎構造が崩れてしまった。
91年にはバブル経済が崩壊してゆく、右肩上がりの構造が崩れる。
日本人のナショナルアイデンティティーの核心は経済成長だと思う。(経済大国化)
90年当たりは曲がり角として凄く大きいと思う。
たまたまそういう時に昭和天皇が亡くなる。
失われた10年失われた20年ということになり、平成時代は丸ごと失われた時代だったという結論にならざるを得ない。
平成時代には虚無観みたいなものが漂っている。
戦後の日本のアメリカの属国性という事、それがソ連が崩壊して属国であることの合理性がなくなったにもかかわらず、むしろ益々属国になっているということが、社会全般を腐敗させている、虚無的にさせていることが有るのではないか。
保阪:こういったことの議論が世代を越えて広がってもいいと思う。
我々の時代は反米という意識を政治化していて、デモをしたりして反米の意志表示をしたが、我々の魂の価値観、精神構造の中に入りこんでこのことに気付くと言うことは、単に反米などというよりも遥かに越える深刻な問題が有ると思う。
我々古い世代がそれを言うと政治化する。
白井:或る意味アメリカナイゼーションして行くそれが正義なんだと言うふうに、覚悟を決めたのならアメリカンデモクラシーを真剣に追求して、全面的、社会的変革に行くかというとそうではない。
アメリカナイズされているようで、実は上手いことやり過ごしている、という奇妙なことをやっている。
こういうあり方は戦前の天皇制の延長線上にあるんだ、ということに仮説を立てるにいたった。
国体論、戦前の天皇中心の体制、敗戦で国体は日本の民主主義の限界を隠すものだった。
ファシズムの温床であるということで解体されたということになっているが、国体の存在感は無くなったが、僕が提示している仮説は国体は二度にわたって形成され、一回安定してそして崩壊にはいってしまう、ということを二度くり返しているという仮説を立ててる訳です。
明治の天皇中心の国作りで一等国へと躍進をする、大正で安定して、その後破滅へと向かってしまう。
戦後もアメリカを頂点に置いていると考えれば、アメリカの子分になることによって見事に復興して経済大国にまでなる。
ジャパン イズ NO1ということでアメリカ何するものぞ、ということで安定期になる。
平成時代に入って或る意味国体の崩壊期に入っていく、というビジョンを出しているが、歴史的存在としての自己を自覚してほしい、私たちはいったい今どこに立っているんだろうか、何を見ているんだろうかということです。
保阪:僕は78歳で講師として大学生と接して、昭和50年代生まれ、平成の人達と近現代史を語ってきたが、社会の中で歴史はどうやって咀嚼され、人はその歴史をどういうふうによすがとして、自己を確立してゆくのかという話で、生きた学問をする。
学生に昭和9年と思って天皇機関説に類する憲法の話をすると学生にいう訳ですが、
そういう授業は案外おもしろがります。
白井:どうしたら忘れずにいられるかというと、或る種何度も何度も思いだす作業が必要で、今起きている現実を過去に起こったことと二重写しにして重ね合わせて見て行くというある種の思考習慣が必要。
アメリカが細かいことを日本に指図してきているのかというと判らないが、アメリカの意志を日本で上手く演出できる人たちが、日本の中で上手い事実権を握っていると思う。。
2018年8月31日金曜日
2018年8月30日木曜日
平野悠(ライブハウス経営) ・ライブハウスは文化のるつぼ
平野悠(ライブハウス経営) ・ライブハウスは文化のるつぼ
74歳、ライブハウスのオーナーとして50年近く経営に携わってきました。
ライブハウスは音楽の生演奏を聴かせるお店ですが、いまではトーク専門のライブハウスも盛況です。
平野さんの活動はいまや全国2000軒以上といわれる全国のライブハウスの先駆けとなりその定着に大きな影響を与えました。
平野さんに波乱にとんだライブハウス人生を振り返っていただき、ライブハウスの醍醐味や社会に対する役割などをお聞きします。
東京、大阪に9つのライブハウスに携わっています、音楽系が4つ、トーク専門のライブハウスが5つです。
1995年7月にトークライブハウスを始めて作りました。
初めは僕の遊び場でした。
隠れ家的な店を作って自分の気になる人、呼んでみたい人、話してみたい人を呼んで話をお客さんにも聞いてもらいという発想でやりました。
最初数人程度で駄目だと思って、トーク内容を変えてマスコミに無視された人達を呼ぼうということで、佐川 一政(人肉を食った人)、奥崎謙三(20数年間刑務所に入って無茶苦茶ちゃな事をした人)を呼び始めたらお客さんがどんどん来るようになった。
トークハウスが成立し始めた。
質問タイムが最後にある。
新宿のヤクザを呼んだこともあり、質問が沢山出るとちゃんと答えていました。
23年経ち私のところだけでも5軒あり、東京でもかなりある。
最初は無視されたのが段々増えてきて、映画館、図書館、本屋などでもトークを始めた。
社会から抹殺された人から聞こうと言うことで、世界で初めてのことだった。
物議をかもしたのは奥崎謙三が出所の日に、うちでイベントをやると言うことだった。
『靖国 YASUKUNI』というドキュメンタリー映画が有り、ほとんどの映画館が右翼に襲われると言うことでやれなくてうちでやりました。
全国の右翼の親分衆に声を掛けて、映画を見ないのに反対はないだろうと思って、タダで見せるからと言って、上映会をやってその後討論会をやりました。
警察は必ず見に来ていました。(スリリングな情報の発生基地)
面白いので多くの客が集まってきました。
「噂の真相」に有料広告を出して色んな人がひっ掛かって来て色んな人が来るようになりました。(今はインターネットがあり便利になりました。)
誰でも受けて、楽しかったと言えるようなイベントをやるのが中心になってきました。
サブカルチャーであるとは思っています。
トークはマイクとプロジェクターさえあれば出来てしまう、安上がりです。
1000人のお客さんだとミュージシャンとお客さんと通じるところまではいかない様な気がするが、小さいライブハウスだと息吹が感じられて、一緒にものを作っているという感覚になれると思っています。
最初にジャズ喫茶をやりました。
職が無くアルバイトをしていたが、100枚近くのジャズのレコードをもっていて、これでジャズスナックをやろうと思いました。
お客さんがレコードを持ってきて話に花が咲くようになった。
店のPRは当時は大変だった。(一人ひとりに店のポリシーを説明した。)
ジャズ喫茶を始めたのが1971年で、その後生演奏ができる店を作りました。
ロックって面白いと思って、ハッピーエンドというバンドを生演奏を聴くには僕が作るしかないと思って店を作りました。
70年代前半は新しいミュージシャンが沢山出て来ました。
店は騒音で苦情が沢山来ました。
ロックが市民権を得てどんどん増えて行きました。
76年に新宿に300人入れる店を作って、ニューミュジックがはやります。
山下達郎、ハッピーエンド、坂本龍一だったり、そういう連中の時代が終わるのが80年代になります。
当時は無名だったアーティストがいたわけです。
自分たちが自由に演奏することができたとミュージシャンから有難がれました。
自由に練習もしてもいいよということでサザンオールスターズ等もやっていました。
大手プロダクション、レコード会社が参入してきて、その後ロックの僕の立ち位置が無くなったなと思って、ロックの興味が無くなりました。
僕は2軒作りましたが、世の中2000軒もできました。
新宿ロフトはロックの聖地だと言われていました。
新宿ロフトの立ち退き問題があって日本に帰ってきました。
音楽はもういい、世界に出たいと思いました。(7年間の放浪の旅)
自分の勝手な店を作ろうと思って、それがトークライブハウスでした。
音楽、トークのライブハウスに共通するものは空間だと思います。
ライブハウス経営のだいご味はいろんな人達と知りあえることだと思います。
出演してくれる人は熱意さえあれば来てくれます、後はお客さんを集めるだけですから。
サブカルチャーは陽に当たることは少ないと思います。
店を作ってから45年になりますが、今の若者は何でもあるが、本当に幸せなのか、僕等の若い時代は何にもなかったけれども夢だけはあった。
吃驚したのは学生と話したことがあるが、音楽に感動した事は無いと言うんですよ。
ライブハウスはコミュニケーション、一つの世界を共有することだと思います。
10から20人程度の小さな空間でライブをやって、そこで表現してゆくことが基本だと思ったらライブはつぶれないと思います。
74歳、ライブハウスのオーナーとして50年近く経営に携わってきました。
ライブハウスは音楽の生演奏を聴かせるお店ですが、いまではトーク専門のライブハウスも盛況です。
平野さんの活動はいまや全国2000軒以上といわれる全国のライブハウスの先駆けとなりその定着に大きな影響を与えました。
平野さんに波乱にとんだライブハウス人生を振り返っていただき、ライブハウスの醍醐味や社会に対する役割などをお聞きします。
東京、大阪に9つのライブハウスに携わっています、音楽系が4つ、トーク専門のライブハウスが5つです。
1995年7月にトークライブハウスを始めて作りました。
初めは僕の遊び場でした。
隠れ家的な店を作って自分の気になる人、呼んでみたい人、話してみたい人を呼んで話をお客さんにも聞いてもらいという発想でやりました。
最初数人程度で駄目だと思って、トーク内容を変えてマスコミに無視された人達を呼ぼうということで、佐川 一政(人肉を食った人)、奥崎謙三(20数年間刑務所に入って無茶苦茶ちゃな事をした人)を呼び始めたらお客さんがどんどん来るようになった。
トークハウスが成立し始めた。
質問タイムが最後にある。
新宿のヤクザを呼んだこともあり、質問が沢山出るとちゃんと答えていました。
23年経ち私のところだけでも5軒あり、東京でもかなりある。
最初は無視されたのが段々増えてきて、映画館、図書館、本屋などでもトークを始めた。
社会から抹殺された人から聞こうと言うことで、世界で初めてのことだった。
物議をかもしたのは奥崎謙三が出所の日に、うちでイベントをやると言うことだった。
『靖国 YASUKUNI』というドキュメンタリー映画が有り、ほとんどの映画館が右翼に襲われると言うことでやれなくてうちでやりました。
全国の右翼の親分衆に声を掛けて、映画を見ないのに反対はないだろうと思って、タダで見せるからと言って、上映会をやってその後討論会をやりました。
警察は必ず見に来ていました。(スリリングな情報の発生基地)
面白いので多くの客が集まってきました。
「噂の真相」に有料広告を出して色んな人がひっ掛かって来て色んな人が来るようになりました。(今はインターネットがあり便利になりました。)
誰でも受けて、楽しかったと言えるようなイベントをやるのが中心になってきました。
サブカルチャーであるとは思っています。
トークはマイクとプロジェクターさえあれば出来てしまう、安上がりです。
1000人のお客さんだとミュージシャンとお客さんと通じるところまではいかない様な気がするが、小さいライブハウスだと息吹が感じられて、一緒にものを作っているという感覚になれると思っています。
最初にジャズ喫茶をやりました。
職が無くアルバイトをしていたが、100枚近くのジャズのレコードをもっていて、これでジャズスナックをやろうと思いました。
お客さんがレコードを持ってきて話に花が咲くようになった。
店のPRは当時は大変だった。(一人ひとりに店のポリシーを説明した。)
ジャズ喫茶を始めたのが1971年で、その後生演奏ができる店を作りました。
ロックって面白いと思って、ハッピーエンドというバンドを生演奏を聴くには僕が作るしかないと思って店を作りました。
70年代前半は新しいミュージシャンが沢山出て来ました。
店は騒音で苦情が沢山来ました。
ロックが市民権を得てどんどん増えて行きました。
76年に新宿に300人入れる店を作って、ニューミュジックがはやります。
山下達郎、ハッピーエンド、坂本龍一だったり、そういう連中の時代が終わるのが80年代になります。
当時は無名だったアーティストがいたわけです。
自分たちが自由に演奏することができたとミュージシャンから有難がれました。
自由に練習もしてもいいよということでサザンオールスターズ等もやっていました。
大手プロダクション、レコード会社が参入してきて、その後ロックの僕の立ち位置が無くなったなと思って、ロックの興味が無くなりました。
僕は2軒作りましたが、世の中2000軒もできました。
新宿ロフトはロックの聖地だと言われていました。
新宿ロフトの立ち退き問題があって日本に帰ってきました。
音楽はもういい、世界に出たいと思いました。(7年間の放浪の旅)
自分の勝手な店を作ろうと思って、それがトークライブハウスでした。
音楽、トークのライブハウスに共通するものは空間だと思います。
ライブハウス経営のだいご味はいろんな人達と知りあえることだと思います。
出演してくれる人は熱意さえあれば来てくれます、後はお客さんを集めるだけですから。
サブカルチャーは陽に当たることは少ないと思います。
店を作ってから45年になりますが、今の若者は何でもあるが、本当に幸せなのか、僕等の若い時代は何にもなかったけれども夢だけはあった。
吃驚したのは学生と話したことがあるが、音楽に感動した事は無いと言うんですよ。
ライブハウスはコミュニケーション、一つの世界を共有することだと思います。
10から20人程度の小さな空間でライブをやって、そこで表現してゆくことが基本だと思ったらライブはつぶれないと思います。
2018年8月29日水曜日
エム・ナマエ(イラストレータ) ・色とことばとゆめぞうと
エム・ナマエ(イラストレータ) ・色とことばとゆめぞうと
69歳、線描画にパステルを乗せた優しい色あいのイラストが特徴で、この番組のマスコットフクロウのゆめぞう君の作者でもあります。
この春からは月刊誌ラジオ深夜便にエッセー「しじまのおもちゃ箱」を連載、少年時代の思い出を軽やかなタッチでつづっています。
エムさんは大学時代からイラストレーターとして活躍していましたが、38歳で視力を失いました。
全盲になっても表現者として生きて行きたいと作家に転向、絵本やエッセー集を数多く出版しました。
そして1990年それまでの経験や色の記憶を生かして、イラストレーターとして再スタートしました。
エムさんの作品に込める思い、創作活動の工夫や支えになっているのは何なのかなどを伺います。
番組の放送開始15周年を記念して、2005年にエムさんがデザインしたゆめぞう君。
ラジオ深夜便が好きで、夜型人間だった、一番好きな生き物がふくろうで、ゆめぞう君を考えました。
絵の描き方
強い筆圧で線を描くと紙の上にへこんだ線が描ける。
輪郭線を頼りにパステルで色を塗っていきます。(アシスタントが手伝ってくれる)
粉をこすりつける。(パステルはチョークのようなもの)
ゴシゴシ塗れば粉が付着する。
その粉をティッシュペーパーで丁寧に擦ってひろげてやる。
別の色を横に塗ってやって、ティッシュペーパーで擦ると色と色がうまくなじんでくる。
赤、青、黄を混ぜると濁色になるが、二つの色だと清色の清らかな雰囲気の絵になる。
混合を計算しながら採色していきます。
目が見えていたころにさんざん描いてきた絵なので、計算しながら勘でやります。
目が見えているころは細かい絵を描いていました。(メカニカルな絵が好きだった)
最初に失明してからは絵を描くつもりはなかったが、絵を描いて見ないかと言ってくれて、それが現在の奥さんです。
失明後に知り合ったんですが、私は人工透析もしていて、彼女はその時の看護師でした。
絵を書いていたんだから描けるはずだと言ったんです。
彼女の前で猫の絵を描いたらバカ受けでした。
絵の前には文字を見えないながらに書いていましたが、最初紙に10円玉を置いて、10円玉を起点に横書きで文字を刻みつけるように書いていきます。
10円玉を下にずらすと一行下の文字を書くことになります。
原稿用紙150枚の長編童話を書いてそれが新人賞になりました。
猫の絵を描いた後、スケッチブックを買ってきて一晩でそのスケッチブックを埋めてしまいました。
翌日彼女に見せたら描いた絵をみんな判ってくれて面白かった。
噂を聞いて新聞社の方などが僕の絵を使うようになりました。
一番難しいのはアクリル系絵具、油絵と一緒でかなりのテクニックが必要。
透明水彩は目が見えないとコントロールはできない。(水を使うので)
コントロールできるのはパステルで色をぼかすのは、ティシュペーパーで行えば水彩と同じように再現できるのではないかと思ってやってきました。
必要な色を手渡してもらって場所にもって行ってもらえば、線がへこんでいるので判ります。
絵を見た妻からの感動とかの感触で、どのようなものかは大体感じることができます。
今150色のパステルセットを使っていますが、それぞれの色にそれぞれの感動があり僕の中に刻み込まれていて、頭の中で再現できるわけです。
絶対色感があります。
出来栄えは彼女が喜んでくれればいいわけ、僕が確かめなくてもいい訳です。
色々な人にサポートを受けながら外を歩いたりするので、失明後の人生は他者にゆだねて生きてきています。
小さいころから絵を描くことは好きでした。
寄席に連れて行ってもらったことがあり、それをわら半紙に描いたら祖母が喜んでくれました。(3歳)
小学校に入って初めて書いた絵が、先生が学校の玄関に貼ってくれたりしました。
高校生の時にやなせたかし先生が書いた漫画入門の本に、漫画は絵で描くポエムだと書いてありましたが、それを見て僕も漫画家になれるのかなと思いました。
イラストレータの道に進みました。
その後、目が段々かすんできて眼科に行ったらアレルギーから来ていると言われたが、もっと悪くなり別の医者に行ったら内臓から来ていると言われ、内科に行ったら腎臓がめちゃくちゃに悪いと言われ、大きな病院にいったら糖尿病だと言われ、眼を見た眼科医からはもうすぐ失明しますと言われました。(34歳)
人生が暗転しました。
子供のころからアレルギーだと言われたが、実は2型(遺伝性)の若年性糖尿病でした。
かすんでいたのがとうとう失明してしまいました。(失明は死の恐怖に勝りました。)
人工透析を失明と共に始めたら不均衡症候群となり、普段聞こえていなかった声が聞こえてくるんです。
僕の人生これから面白のかもと思えました、不思議な転換ですが。
或る晩、一晩中泣いていて神よもしこの世界にいるんだとしたらその答えをくれと訴え続けていた時に、明け方の瞬間に金色の光がはじけました。
天はあまねく全てを愛しているという答えをくれて、その瞬間僕は気が楽になりました。
神が与えてくれた人生だったら、どんなひどい人生でも最後まで見てみようと、その時思えました。
透析導入後の退院から直ぐに僕は文章を書き始めました。
自分の中の世界は目が見えようが見えまいが変わらない。
この春から月刊誌ラジオ深夜便のエッセーも連載を始める。
第一回に書かれたエッセーから一部抜粋。
「しじまのおもちゃ箱」
「気が付けば僕らは仲良し3人組だった。・・・一年坊主で当時珍獣扱いだったデブの僕には、頭でっかちの山下君と美少年だった山口君という大の仲良しがいた。・・・
山下君は和菓子店の息子・・・山口君は画科の息子・・・。
美少年は薄命なのか山口君は若くしてがんで亡くなり、山下君は一昨年骨髄腫で虹の橋を渡った。
僕が書かない限り僕たち3人組の無垢な思い出は、永久にこの地上から消え去ってしまう。・・・3人組時代のかけがえのない時間の流れをピンナップしていきたいと思う。」
子供の頃のできごとはいい事悪い事克明に覚えています。
昭和30年よりも前の時代、焼け野原で遊んでいた貴重な思い出です。
原風景を思い起こしながら書いていきたいと思います。
言葉を書くと風景がバーっと出て来てそれが繋がってきて思いだされます。
1990年にイラストレーターとしても再開。
眼がみえなくなったぼくが、再び絵筆を持つということは全く考えていませんでした。
1998年にニューヨークで僕の展示会が有り、偶然にジョン・レノンの絵を子供のアパレルにアレンジしようとしていた全米最大のメディアの或る副社長が訪れて、ジョンの次はお前だと言ってくれて2000年からジョン・レノンの絵のシリーズと僕の絵のシリーズが全米でならんで展開されるんです。
そういう奇跡が起きるんです。
色んな活動のチャンスをあたえてくれたことに、全力で努力をするということがこれからの僕の夢だと思っています。
どんなことがあってもなんとかなると思っていて、僕は楽観主義です。
ヘレン・ケラーが言っています、「楽観主義が未来を拓く」
諦めたら何とかなる、失明した時に上手く諦められたと思う。
見えなくなったことに対して諦めたら、そこから新しい未来が拓けて来る。
泣いて暮らそうと笑って暮らそうと、どちらも自分の作る一日です。
69歳、線描画にパステルを乗せた優しい色あいのイラストが特徴で、この番組のマスコットフクロウのゆめぞう君の作者でもあります。
この春からは月刊誌ラジオ深夜便にエッセー「しじまのおもちゃ箱」を連載、少年時代の思い出を軽やかなタッチでつづっています。
エムさんは大学時代からイラストレーターとして活躍していましたが、38歳で視力を失いました。
全盲になっても表現者として生きて行きたいと作家に転向、絵本やエッセー集を数多く出版しました。
そして1990年それまでの経験や色の記憶を生かして、イラストレーターとして再スタートしました。
エムさんの作品に込める思い、創作活動の工夫や支えになっているのは何なのかなどを伺います。
番組の放送開始15周年を記念して、2005年にエムさんがデザインしたゆめぞう君。
ラジオ深夜便が好きで、夜型人間だった、一番好きな生き物がふくろうで、ゆめぞう君を考えました。
絵の描き方
強い筆圧で線を描くと紙の上にへこんだ線が描ける。
輪郭線を頼りにパステルで色を塗っていきます。(アシスタントが手伝ってくれる)
粉をこすりつける。(パステルはチョークのようなもの)
ゴシゴシ塗れば粉が付着する。
その粉をティッシュペーパーで丁寧に擦ってひろげてやる。
別の色を横に塗ってやって、ティッシュペーパーで擦ると色と色がうまくなじんでくる。
赤、青、黄を混ぜると濁色になるが、二つの色だと清色の清らかな雰囲気の絵になる。
混合を計算しながら採色していきます。
目が見えていたころにさんざん描いてきた絵なので、計算しながら勘でやります。
目が見えているころは細かい絵を描いていました。(メカニカルな絵が好きだった)
最初に失明してからは絵を描くつもりはなかったが、絵を描いて見ないかと言ってくれて、それが現在の奥さんです。
失明後に知り合ったんですが、私は人工透析もしていて、彼女はその時の看護師でした。
絵を書いていたんだから描けるはずだと言ったんです。
彼女の前で猫の絵を描いたらバカ受けでした。
絵の前には文字を見えないながらに書いていましたが、最初紙に10円玉を置いて、10円玉を起点に横書きで文字を刻みつけるように書いていきます。
10円玉を下にずらすと一行下の文字を書くことになります。
原稿用紙150枚の長編童話を書いてそれが新人賞になりました。
猫の絵を描いた後、スケッチブックを買ってきて一晩でそのスケッチブックを埋めてしまいました。
翌日彼女に見せたら描いた絵をみんな判ってくれて面白かった。
噂を聞いて新聞社の方などが僕の絵を使うようになりました。
一番難しいのはアクリル系絵具、油絵と一緒でかなりのテクニックが必要。
透明水彩は目が見えないとコントロールはできない。(水を使うので)
コントロールできるのはパステルで色をぼかすのは、ティシュペーパーで行えば水彩と同じように再現できるのではないかと思ってやってきました。
必要な色を手渡してもらって場所にもって行ってもらえば、線がへこんでいるので判ります。
絵を見た妻からの感動とかの感触で、どのようなものかは大体感じることができます。
今150色のパステルセットを使っていますが、それぞれの色にそれぞれの感動があり僕の中に刻み込まれていて、頭の中で再現できるわけです。
絶対色感があります。
出来栄えは彼女が喜んでくれればいいわけ、僕が確かめなくてもいい訳です。
色々な人にサポートを受けながら外を歩いたりするので、失明後の人生は他者にゆだねて生きてきています。
小さいころから絵を描くことは好きでした。
寄席に連れて行ってもらったことがあり、それをわら半紙に描いたら祖母が喜んでくれました。(3歳)
小学校に入って初めて書いた絵が、先生が学校の玄関に貼ってくれたりしました。
高校生の時にやなせたかし先生が書いた漫画入門の本に、漫画は絵で描くポエムだと書いてありましたが、それを見て僕も漫画家になれるのかなと思いました。
イラストレータの道に進みました。
その後、目が段々かすんできて眼科に行ったらアレルギーから来ていると言われたが、もっと悪くなり別の医者に行ったら内臓から来ていると言われ、内科に行ったら腎臓がめちゃくちゃに悪いと言われ、大きな病院にいったら糖尿病だと言われ、眼を見た眼科医からはもうすぐ失明しますと言われました。(34歳)
人生が暗転しました。
子供のころからアレルギーだと言われたが、実は2型(遺伝性)の若年性糖尿病でした。
かすんでいたのがとうとう失明してしまいました。(失明は死の恐怖に勝りました。)
人工透析を失明と共に始めたら不均衡症候群となり、普段聞こえていなかった声が聞こえてくるんです。
僕の人生これから面白のかもと思えました、不思議な転換ですが。
或る晩、一晩中泣いていて神よもしこの世界にいるんだとしたらその答えをくれと訴え続けていた時に、明け方の瞬間に金色の光がはじけました。
天はあまねく全てを愛しているという答えをくれて、その瞬間僕は気が楽になりました。
神が与えてくれた人生だったら、どんなひどい人生でも最後まで見てみようと、その時思えました。
透析導入後の退院から直ぐに僕は文章を書き始めました。
自分の中の世界は目が見えようが見えまいが変わらない。
この春から月刊誌ラジオ深夜便のエッセーも連載を始める。
第一回に書かれたエッセーから一部抜粋。
「しじまのおもちゃ箱」
「気が付けば僕らは仲良し3人組だった。・・・一年坊主で当時珍獣扱いだったデブの僕には、頭でっかちの山下君と美少年だった山口君という大の仲良しがいた。・・・
山下君は和菓子店の息子・・・山口君は画科の息子・・・。
美少年は薄命なのか山口君は若くしてがんで亡くなり、山下君は一昨年骨髄腫で虹の橋を渡った。
僕が書かない限り僕たち3人組の無垢な思い出は、永久にこの地上から消え去ってしまう。・・・3人組時代のかけがえのない時間の流れをピンナップしていきたいと思う。」
子供の頃のできごとはいい事悪い事克明に覚えています。
昭和30年よりも前の時代、焼け野原で遊んでいた貴重な思い出です。
原風景を思い起こしながら書いていきたいと思います。
言葉を書くと風景がバーっと出て来てそれが繋がってきて思いだされます。
1990年にイラストレーターとしても再開。
眼がみえなくなったぼくが、再び絵筆を持つということは全く考えていませんでした。
1998年にニューヨークで僕の展示会が有り、偶然にジョン・レノンの絵を子供のアパレルにアレンジしようとしていた全米最大のメディアの或る副社長が訪れて、ジョンの次はお前だと言ってくれて2000年からジョン・レノンの絵のシリーズと僕の絵のシリーズが全米でならんで展開されるんです。
そういう奇跡が起きるんです。
色んな活動のチャンスをあたえてくれたことに、全力で努力をするということがこれからの僕の夢だと思っています。
どんなことがあってもなんとかなると思っていて、僕は楽観主義です。
ヘレン・ケラーが言っています、「楽観主義が未来を拓く」
諦めたら何とかなる、失明した時に上手く諦められたと思う。
見えなくなったことに対して諦めたら、そこから新しい未来が拓けて来る。
泣いて暮らそうと笑って暮らそうと、どちらも自分の作る一日です。
2018年8月28日火曜日
國中 均(宇宙科学研究所所長) ・日本型宇宙探査
國中 均(宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長) ・日本型宇宙探査
日本の小惑星探査機はやぶさ2号は目的地であるリュウグウに到達していよいよ探査を始める。
小惑星は地球から3億km以上離れたはるか遠くにあります。
探査機が地球と小惑星との間を往復できるのは、イオンエンジンという新しいエンジンが積まれているからです。
このイオンエンジンを手にしたことで日本の宇宙探査が大きく変わろうとしています。
イオンエンジンの開発者、今年4月宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長に就任した國中 均(58歳)に日本型宇宙探査と題して伺いました。
小惑星探査機はやぶさ2号が6月27日にリュウグウに到着できました。
打ち上げたのは2014年12月、3年半かけて到達しました。
この部分は読める部分です。(出来て当然と思っている)
ここからは本当に判らない、難しいミッションに挑戦します。
小惑星の形は着くまでは全然情報が無くて判らなかった。
丸ければ自転軸がどういうふうに回転しているのか判りにくい。(課題)
最悪自転軸が横倒しになっている状態を想定して計画を立てていましたが、幸いに自転軸が垂直に立っていて凄く私たちにとって有難いことでした。
つまり北極、南極が見えるし、赤道はいつも回っているので小惑星を1日見れば全部判ることになります。
はやぶさ1号のイオンエンジンの改良型が搭載されている。
イオンエンジンの特徴はジェット噴射の速度が速いということを最大の特徴としています。
H2ロケット等は燃焼を使う方式で噴射速度は秒速3kmの速さです。
イオンエンジンのはそれより10倍速い秒速30kmです。
速いほど使う燃料の総量が減るという特性がありますから、燃料は1/10で済みます。
世界の宇宙研究開発者はジェット噴射をどうやったら速くできるかという事を研究してきました。
アメリカ方式のイオンエンジンのは家庭にある蛍光灯を思い浮かべていただいて、あの中で起こっていることとほとんど同じです。
両端に電極が有り電圧をかけて中に入っている電子を加速して、中に入っている薄いガスにぶつけて電離をする。
プラズマができてイオンが出来る。
イオンは発光する(紫外線)、紫外線がガラス管に塗ってある蛍光塗料にぶつかって、可視光線に変わって照明器具として用をなす。
古くなると両端が黒くなって点かなくなってしまうが、アメリカ方式のイオンエンジンにも発生する。
できたイオンも今度は逆側に加速されてゆく。
電子はマイナスの電気を持っていてイオンはプラスの電気をもっているので、イオンはものすごい速度で電極に突進します。
ぶつかると電極が溶けて行き、溶けた粉末がガラス管に付くので両端が黒くなる。
電極が削れてきて結果として最後には点かなくなる。
ほぼ同じことがアメリカ方式のイオンにも起きて寿命を縮める要因にもなる。
私達はアメリカよりも20年遅れて研究開発をしたので、アメリカよりも優れたエンジンを実現しようと言うことで、マイクロ波という電波を使う方式のイオンエンジンを考えました。
電子レンジと同じ様な原理です。
皿は温まらないが食材だけが温まる。(選択的加熱)
電子だけ選んで温めてイオンは温めない。
温まった電子がガスにぶつかって電離がおきて冷たいイオンが出来る、こういうことを狙った。
冷たいイオンであればイオンエンジンを壊さないで済む。
長寿命で長く運転できるシステムが実現するかもしれないということでした。
太陽電池で出来る電力に見合う推力が出来る。
数グラムの推力をだすことができる。
はやぶさは500から600kgですが、それを2~3gの力で押し続ける。
この開発は他に例が無かったので苦しかった事ばっかりでした。
一番苦しかったのは中和機、これは加速したイオンが安定に速度を維持して飛んでいくように後から電子を混ぜるために、電子を発生させる装置ですが大変難しかった。
解決策を見出す為に2~3年かかりました。
初代のはやぶさは中和機が思う様に動かなくて苦労させられました。
地球帰還が危ぶまれたが、イオンエンジンのクロス運転でエンジンを復活させて地球に戻すことができました。
同時期にアメリカがディープスペース1という探査機を打ち上げたが、アメリカの方が技術の蓄積が格段に高い。
日本では打ち上げを決めてから探査機を作り上げるまでに7年かかりました。
アメリカでは3年で作りあげてエンジンは一式しか搭載しませんでした。(自信が有った)
日本では一機の推力が少ないので3機必要で、予備を1機搭載しました。(日本は劣る)
普通イオンエンジンと中和機は一対だが他のエンジンとの組み合わせも考えた。(奥の手)
いろいろプレッシャーで一時食堂に行って食べられなくなってしまったこともありました。
1960年愛知県生まれ。
子供のころは新しい電気製品などに興味を持って分解したりしていました。
飛行機も大好きでした。
天文観測も好きでした。
小学生高学年には望遠鏡を買ってもらって天体観察しました。
写真を撮って現像などもしました。
高校では天文クラブが有り、太陽観測部で黒点の数の観測などしていました。
幼稚園の時に研究者へというようなイメージは持っていました。
京都大学航空工学科から東大の大学院に行きました。
ロケットの研究をしたかったが、研究になるような課題は残っていないと言われました。
電気推進ロケットがあるが,まだこれは研究もされていないということでした。
栗木恭一先生の所でやっているので見学させてもらいました。
当時はミューロケットを取り扱っていたが、早晩限界が来る、日本ではもっと大きなロケットという訳にはいかないので、そのためにはロケットを大きくするのではなくて人工衛星に乗せる推進装置を高性能化する手立てしかない、ということで日本独自の研究開発が必要になると言うことで、電気推進を研究開発して将来に適応できる電気推進をラインアップするべきだと言うことになりました。
500kgのサイズに見合う電気推進をラインアップするということが栗木先生の未来設定でした。
1KWで動く電気推進ロケットでした。
私が担当したのがイオンエンジンでした。
予算は潤沢ではありませんでした。
研究室では工作機械が有り自分で図面を書いて、技官さんに工作機械を教えてもらって、自分で作ったりしてきました。(サイクルの早い研究が必要だと思います)
人と違う事を挑戦する。
みんなが簡単に思い付くことをやったんだとすると、きっと誰かが気が付いているはずだと思います。
マイクロ波は当時通信に使うもので、電波を発生させる装置は効率が悪く10から30%程度。
効率が良くなると電波でプラズマを作ろうという考え方は理にかなっている。
10月にはベピ・コロンボというヨーロッパとの共同ミッションで水星に探査機を打ち上げます。
火星には二つの月が回っていますが、そこにたどり着いてサンプルを採取する計画MMX
があり、小惑星をフライバイする計画とか、彗星からサンプル取ってくる計画とか、木星のガニメデという衛星を調べる計画とかを温めています。
10年後には水星から木星まで日本の探査機を送り込むことができる。
金星探査機「あかつき」が今金星の周りをまわっています。
太陽系に探査機を沢山打ち上げてデータを総合して太陽系の生い立ちを調べることができると思います。
地球の水や大気は木星の向こう側から運ばれてきて、岩石の地球が出来上がった後に気体や水があとから送られてきたという仮説が有ります。
水や大気を送りこんできた主体は小惑星、彗星、コスミックダストが太陽系の物質移動になっていて、後から水や大気が地球に持ち込まれて、アミノ酸などの有機物も一緒に入っていて、地球で合成されて私たちのような生物になったという仮説があるが、こういった証拠を調べて探査機を使って証明していきたいと私は考えています。
日本の小惑星探査機はやぶさ2号は目的地であるリュウグウに到達していよいよ探査を始める。
小惑星は地球から3億km以上離れたはるか遠くにあります。
探査機が地球と小惑星との間を往復できるのは、イオンエンジンという新しいエンジンが積まれているからです。
このイオンエンジンを手にしたことで日本の宇宙探査が大きく変わろうとしています。
イオンエンジンの開発者、今年4月宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長に就任した國中 均(58歳)に日本型宇宙探査と題して伺いました。
小惑星探査機はやぶさ2号が6月27日にリュウグウに到着できました。
打ち上げたのは2014年12月、3年半かけて到達しました。
この部分は読める部分です。(出来て当然と思っている)
ここからは本当に判らない、難しいミッションに挑戦します。
小惑星の形は着くまでは全然情報が無くて判らなかった。
丸ければ自転軸がどういうふうに回転しているのか判りにくい。(課題)
最悪自転軸が横倒しになっている状態を想定して計画を立てていましたが、幸いに自転軸が垂直に立っていて凄く私たちにとって有難いことでした。
つまり北極、南極が見えるし、赤道はいつも回っているので小惑星を1日見れば全部判ることになります。
はやぶさ1号のイオンエンジンの改良型が搭載されている。
イオンエンジンの特徴はジェット噴射の速度が速いということを最大の特徴としています。
H2ロケット等は燃焼を使う方式で噴射速度は秒速3kmの速さです。
イオンエンジンのはそれより10倍速い秒速30kmです。
速いほど使う燃料の総量が減るという特性がありますから、燃料は1/10で済みます。
世界の宇宙研究開発者はジェット噴射をどうやったら速くできるかという事を研究してきました。
アメリカ方式のイオンエンジンのは家庭にある蛍光灯を思い浮かべていただいて、あの中で起こっていることとほとんど同じです。
両端に電極が有り電圧をかけて中に入っている電子を加速して、中に入っている薄いガスにぶつけて電離をする。
プラズマができてイオンが出来る。
イオンは発光する(紫外線)、紫外線がガラス管に塗ってある蛍光塗料にぶつかって、可視光線に変わって照明器具として用をなす。
古くなると両端が黒くなって点かなくなってしまうが、アメリカ方式のイオンエンジンにも発生する。
できたイオンも今度は逆側に加速されてゆく。
電子はマイナスの電気を持っていてイオンはプラスの電気をもっているので、イオンはものすごい速度で電極に突進します。
ぶつかると電極が溶けて行き、溶けた粉末がガラス管に付くので両端が黒くなる。
電極が削れてきて結果として最後には点かなくなる。
ほぼ同じことがアメリカ方式のイオンにも起きて寿命を縮める要因にもなる。
私達はアメリカよりも20年遅れて研究開発をしたので、アメリカよりも優れたエンジンを実現しようと言うことで、マイクロ波という電波を使う方式のイオンエンジンを考えました。
電子レンジと同じ様な原理です。
皿は温まらないが食材だけが温まる。(選択的加熱)
電子だけ選んで温めてイオンは温めない。
温まった電子がガスにぶつかって電離がおきて冷たいイオンが出来る、こういうことを狙った。
冷たいイオンであればイオンエンジンを壊さないで済む。
長寿命で長く運転できるシステムが実現するかもしれないということでした。
太陽電池で出来る電力に見合う推力が出来る。
数グラムの推力をだすことができる。
はやぶさは500から600kgですが、それを2~3gの力で押し続ける。
この開発は他に例が無かったので苦しかった事ばっかりでした。
一番苦しかったのは中和機、これは加速したイオンが安定に速度を維持して飛んでいくように後から電子を混ぜるために、電子を発生させる装置ですが大変難しかった。
解決策を見出す為に2~3年かかりました。
初代のはやぶさは中和機が思う様に動かなくて苦労させられました。
地球帰還が危ぶまれたが、イオンエンジンのクロス運転でエンジンを復活させて地球に戻すことができました。
同時期にアメリカがディープスペース1という探査機を打ち上げたが、アメリカの方が技術の蓄積が格段に高い。
日本では打ち上げを決めてから探査機を作り上げるまでに7年かかりました。
アメリカでは3年で作りあげてエンジンは一式しか搭載しませんでした。(自信が有った)
日本では一機の推力が少ないので3機必要で、予備を1機搭載しました。(日本は劣る)
普通イオンエンジンと中和機は一対だが他のエンジンとの組み合わせも考えた。(奥の手)
いろいろプレッシャーで一時食堂に行って食べられなくなってしまったこともありました。
1960年愛知県生まれ。
子供のころは新しい電気製品などに興味を持って分解したりしていました。
飛行機も大好きでした。
天文観測も好きでした。
小学生高学年には望遠鏡を買ってもらって天体観察しました。
写真を撮って現像などもしました。
高校では天文クラブが有り、太陽観測部で黒点の数の観測などしていました。
幼稚園の時に研究者へというようなイメージは持っていました。
京都大学航空工学科から東大の大学院に行きました。
ロケットの研究をしたかったが、研究になるような課題は残っていないと言われました。
電気推進ロケットがあるが,まだこれは研究もされていないということでした。
栗木恭一先生の所でやっているので見学させてもらいました。
当時はミューロケットを取り扱っていたが、早晩限界が来る、日本ではもっと大きなロケットという訳にはいかないので、そのためにはロケットを大きくするのではなくて人工衛星に乗せる推進装置を高性能化する手立てしかない、ということで日本独自の研究開発が必要になると言うことで、電気推進を研究開発して将来に適応できる電気推進をラインアップするべきだと言うことになりました。
500kgのサイズに見合う電気推進をラインアップするということが栗木先生の未来設定でした。
1KWで動く電気推進ロケットでした。
私が担当したのがイオンエンジンでした。
予算は潤沢ではありませんでした。
研究室では工作機械が有り自分で図面を書いて、技官さんに工作機械を教えてもらって、自分で作ったりしてきました。(サイクルの早い研究が必要だと思います)
人と違う事を挑戦する。
みんなが簡単に思い付くことをやったんだとすると、きっと誰かが気が付いているはずだと思います。
マイクロ波は当時通信に使うもので、電波を発生させる装置は効率が悪く10から30%程度。
効率が良くなると電波でプラズマを作ろうという考え方は理にかなっている。
10月にはベピ・コロンボというヨーロッパとの共同ミッションで水星に探査機を打ち上げます。
火星には二つの月が回っていますが、そこにたどり着いてサンプルを採取する計画MMX
があり、小惑星をフライバイする計画とか、彗星からサンプル取ってくる計画とか、木星のガニメデという衛星を調べる計画とかを温めています。
10年後には水星から木星まで日本の探査機を送り込むことができる。
金星探査機「あかつき」が今金星の周りをまわっています。
太陽系に探査機を沢山打ち上げてデータを総合して太陽系の生い立ちを調べることができると思います。
地球の水や大気は木星の向こう側から運ばれてきて、岩石の地球が出来上がった後に気体や水があとから送られてきたという仮説が有ります。
水や大気を送りこんできた主体は小惑星、彗星、コスミックダストが太陽系の物質移動になっていて、後から水や大気が地球に持ち込まれて、アミノ酸などの有機物も一緒に入っていて、地球で合成されて私たちのような生物になったという仮説があるが、こういった証拠を調べて探査機を使って証明していきたいと私は考えています。
2018年8月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者} ・【絶望名言】宮沢賢治
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】宮沢賢治
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『注文の多い料理店』とか沢山の童話でよく知られています。
『雨ニモマケズ』という詩も有名です。
フランツ・カフカの名言集を本で出した時に、読んだ方からカフカは宮沢賢治とよく似ていますねという反響をかなりの方から頂きました。
読んでみたら似てるんですね。
父との確執、妹を凄く好きという所も似ているし、二人とも菜食主義ということです。
二人とも生涯独身で子供もいなかった。
二人とも生前は可成り無名に近くて、サラリーマンをしていた。
二人とも若くして結核で亡くなった。
亡くなる前に自分の原稿を処分してほしいと遺言した事も同じ。
死後に頑張ってくれた人がいて、今ではとっても有名、ということも同じです。
清六という弟がいたが、宮沢賢治に関する本を書いているが、「正面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど悲しいものをうちに持っていたと思うのである」、と言っている。
イーハトーブは地名で宮沢賢治の理想の世界で、イーハトーブに対して宮沢賢治はこう説明している、「そこではあらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し、大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花盃の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている。」と言っている。
理想郷なのに罪や悲しみが有る、だけどそこでは罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている訳です。
これが宮沢賢治の作品の特徴なんではないでしょうか。
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
は童話の中の作品の中の言葉ですが、宮沢賢治自身にもこのような気持ちが有ったのではないでしょうか。
自分は人のように上手く生きられず、立派でもなく美しくも無く、仕事もうまくいかず、ちゃんと笑えていなかったんじゃないか。
誰の心にもこいう気持ちは多少なりともあると思います。
「お前たちはなにをしているか。 やめてしまえ。 エイ、解散を命ずる。
こうして事務所は廃止になりました。 僕は半分獅子に同感です。」
(寓話「猫の事務所」の最後のシーン)
「猫の事務所」のあらすじ
猫の事務所には大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫は夜竈の中に入って寝る癖があるから釜猫という) がいる。
竈はいつも薄汚れているので釜猫は煤で汚れている。
優秀だったのと事務長が黒猫だったので黒く汚れている釜猫に寛大だったので、本来なれない第四書記になっている。
かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。
或る日かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三匹の書記の讒言により、黒猫もそれを信じてしまう。
病み上がりでかま猫がやってくると、黒猫の事務長含め全員がかま猫を無視してしまう。
かま猫は仕事を取上げられて呆然と座って泣き出してしまう。
そこでさっきのラストがやって来る。
外から獅子が見ていて辞めてしまえ、という事になる。
最後に語り手が急に顔を出す。(宮沢賢治自身)
「僕は半分獅子に同感です。」と云うんです。
いまあるパワハラ、差別、いじめとかそういうものそのまま。
なんで半分しか賛成していないのか、色んな説がある。
解散ではパワハラとかの根本的な解決策にはならない。
かま猫も職を失ってしまうので、半分なのではないかという説がある。
「猫の事務所」には下書きがあって、「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。
3匹の猫も可愛そう、事務長も、獅子もかわいそうと言っている。
虐めの加害者だけではなくて加害者も黙認した人もそれをしかりつけた人も全員がかわいそうというんです。
だれの心の中にも加害者側の気持ち、傍観者の気持ち等がある、どこか全部弱さだし、良いことではない、人間はそういう弱さを持っている、だから可愛そう。
やってしまう方もやられてしまう方もみんな人間は哀れで、可愛そうなもんだなあと思います。
罪のないものだけが石を投げろと言ったら、誰も投げられない、それが悲しいということではないですかね、だから半分なんでしょうね。
自分がいじめる側に立ってしまったことから、成長してからそういうことをしないようにしようと繋がった面がある、反省する気持が自分を止める気持ちに、それが後あと大人になってあった。
*「G線上のアリア」
「永訣の朝」を書く時にこの曲を聞きながら書いたんじゃないかとも言われている。
演奏時間に合わせて「永訣の朝」は書かれているという説もあります。
「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
うすあかくいっさう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
(どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変わって 改訂版)
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
37歳で宮沢賢治亡くなっているが、残したした作品の分量は大変なもの。
「カンパネルラ 又僕たち二人きりになったね。 何処までもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。
ウン 僕だってそうだ。 カンパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。
けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。 ジョバンニが言いました。
僕わからない。カンパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」の一節)
ジョバンニが持っている切符はどこまでへもいける特別な切符。
何を探すのかというとほんとうの幸い。
ほんとうの幸い、宮沢賢治の作品の全ての根底にあるテーマかもしれません。
「僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。」
その前にサソリの話が出て来る。
サソリは色んな虫を食べて生きているが、或る日自分がイタチに食べられそうになって、井戸に逃げて溺れそうになりながら、以下のようなことを言う。
「ああ、あたしは今まで幾つもの命を取ったかわからない。
そしてその私が今度はイタチに取られようとした時はあんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。」
サソリは食べられた側の気持ちが判ってしまう。
むなしく命をすてるのではなく、誰かのために生きたいと思うと、サソリの身体は真っ赤な美しい火になって燃え始める。
気が付くと夜空にいて、闇を照らして星になれた。
自己犠牲の素晴らしさを物語っている。
「僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。」と言っている。
本当の幸いはこれだ、という様になった時にジョバンニは
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」 とジョバンニが言って
「僕わからない。」 カンパネルラがぼんやり言いました。
この展開は凄い。
本当の幸い、自己犠牲の素晴らしさを物語っていながら、本当にそうなのかなという迷いが出て来る。
「僕わからない。」というカンパネルラは実は自己犠牲をしてる、なのに「僕わからない。」と言っている。
本当の幸いは一体何なのか、いくら追い求めて見てもやっぱり本当は何だろうと問わずにはいられない、そうしてみると「やっぱり僕判らない」って答えるしかない、ここが宮沢賢治の凄いところではないかと思います。
「新たなるよき道を得しということは、ただ新たなる悩みの道を得しと言うのみ」
新しくいい道を知ったと、真実の道、本当の幸いの道だと知ると、新たなる悩みの道を知ったということなんだと、これがいいんだと思ってもでも本当にそうなのかなと思う。
何処までも迷い続ける。
河野:歳を取って来ると、朝起きて手が動き水も飲めると言う事に幸せを感じる。
頭木:若い時には大きな幸せを考えるが、病後はハードルがずっと下がって来る。
朝起きて何処も痛くなかったりすると大変な幸せを感じるわけです。
「僅かばかりの才能とか、器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分の身体に付いたものでもあるかと思い、自分の仕事をいやしみ同輩をあざけり、今に何処からか自分をいわゆる
社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想にのみ生活をしてかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが虚しく過ぎてようやく自分の築いていた蜃気楼の消えるのを観ては、ただもう人を怒り世間をいきどおり、したがって親友を失い幽門、病を得ると言った順序です。」
(1933年9月11日に元の教え子に書いた手紙の一節 亡くなる10日前の最後の手紙)
文語詩
「いたつきてゆめみなやみし」
病気になってしまい夢はみんな終わった。
私(頭木弘樹)が20代、30代病気で過ごして、そこから社会に出るのがきつく、こういう人生でこれだけで、この歳で何も起きないなあと思うと泣けたりしました。
元の教え子に書いた手紙の続き
「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとか言うようなことは、できないものから見れば神の技にも等しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際とあまり遠いものです。」 (亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
賢治は病気になって日常が奇跡だという様な事をしみじみ感じる訳です。
そんなのは当然と思っているのは間違いで、実は大変貴重な人生、日々を送っていたという事に思いいたる。
元の教え子に書いた手紙の続き
「どうかいまのご生活を大切にお守りください。
上の空でなしにしっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
「苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」と言う人はなかなかいない、まさに自分が苦しんでいるのに。
1933年宮沢賢治が亡くなる。
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『注文の多い料理店』とか沢山の童話でよく知られています。
『雨ニモマケズ』という詩も有名です。
フランツ・カフカの名言集を本で出した時に、読んだ方からカフカは宮沢賢治とよく似ていますねという反響をかなりの方から頂きました。
読んでみたら似てるんですね。
父との確執、妹を凄く好きという所も似ているし、二人とも菜食主義ということです。
二人とも生涯独身で子供もいなかった。
二人とも生前は可成り無名に近くて、サラリーマンをしていた。
二人とも若くして結核で亡くなった。
亡くなる前に自分の原稿を処分してほしいと遺言した事も同じ。
死後に頑張ってくれた人がいて、今ではとっても有名、ということも同じです。
清六という弟がいたが、宮沢賢治に関する本を書いているが、「正面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど悲しいものをうちに持っていたと思うのである」、と言っている。
イーハトーブは地名で宮沢賢治の理想の世界で、イーハトーブに対して宮沢賢治はこう説明している、「そこではあらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し、大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花盃の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている。」と言っている。
理想郷なのに罪や悲しみが有る、だけどそこでは罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている訳です。
これが宮沢賢治の作品の特徴なんではないでしょうか。
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
は童話の中の作品の中の言葉ですが、宮沢賢治自身にもこのような気持ちが有ったのではないでしょうか。
自分は人のように上手く生きられず、立派でもなく美しくも無く、仕事もうまくいかず、ちゃんと笑えていなかったんじゃないか。
誰の心にもこいう気持ちは多少なりともあると思います。
「お前たちはなにをしているか。 やめてしまえ。 エイ、解散を命ずる。
こうして事務所は廃止になりました。 僕は半分獅子に同感です。」
(寓話「猫の事務所」の最後のシーン)
「猫の事務所」のあらすじ
猫の事務所には大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫は夜竈の中に入って寝る癖があるから釜猫という) がいる。
竈はいつも薄汚れているので釜猫は煤で汚れている。
優秀だったのと事務長が黒猫だったので黒く汚れている釜猫に寛大だったので、本来なれない第四書記になっている。
かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。
或る日かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三匹の書記の讒言により、黒猫もそれを信じてしまう。
病み上がりでかま猫がやってくると、黒猫の事務長含め全員がかま猫を無視してしまう。
かま猫は仕事を取上げられて呆然と座って泣き出してしまう。
そこでさっきのラストがやって来る。
外から獅子が見ていて辞めてしまえ、という事になる。
最後に語り手が急に顔を出す。(宮沢賢治自身)
「僕は半分獅子に同感です。」と云うんです。
いまあるパワハラ、差別、いじめとかそういうものそのまま。
なんで半分しか賛成していないのか、色んな説がある。
解散ではパワハラとかの根本的な解決策にはならない。
かま猫も職を失ってしまうので、半分なのではないかという説がある。
「猫の事務所」には下書きがあって、「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。
3匹の猫も可愛そう、事務長も、獅子もかわいそうと言っている。
虐めの加害者だけではなくて加害者も黙認した人もそれをしかりつけた人も全員がかわいそうというんです。
だれの心の中にも加害者側の気持ち、傍観者の気持ち等がある、どこか全部弱さだし、良いことではない、人間はそういう弱さを持っている、だから可愛そう。
やってしまう方もやられてしまう方もみんな人間は哀れで、可愛そうなもんだなあと思います。
罪のないものだけが石を投げろと言ったら、誰も投げられない、それが悲しいということではないですかね、だから半分なんでしょうね。
自分がいじめる側に立ってしまったことから、成長してからそういうことをしないようにしようと繋がった面がある、反省する気持が自分を止める気持ちに、それが後あと大人になってあった。
*「G線上のアリア」
「永訣の朝」を書く時にこの曲を聞きながら書いたんじゃないかとも言われている。
演奏時間に合わせて「永訣の朝」は書かれているという説もあります。
「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
うすあかくいっさう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
(どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変わって 改訂版)
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
37歳で宮沢賢治亡くなっているが、残したした作品の分量は大変なもの。
「カンパネルラ 又僕たち二人きりになったね。 何処までもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。
ウン 僕だってそうだ。 カンパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。
けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。 ジョバンニが言いました。
僕わからない。カンパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」の一節)
ジョバンニが持っている切符はどこまでへもいける特別な切符。
何を探すのかというとほんとうの幸い。
ほんとうの幸い、宮沢賢治の作品の全ての根底にあるテーマかもしれません。
「僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。」
その前にサソリの話が出て来る。
サソリは色んな虫を食べて生きているが、或る日自分がイタチに食べられそうになって、井戸に逃げて溺れそうになりながら、以下のようなことを言う。
「ああ、あたしは今まで幾つもの命を取ったかわからない。
そしてその私が今度はイタチに取られようとした時はあんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。」
サソリは食べられた側の気持ちが判ってしまう。
むなしく命をすてるのではなく、誰かのために生きたいと思うと、サソリの身体は真っ赤な美しい火になって燃え始める。
気が付くと夜空にいて、闇を照らして星になれた。
自己犠牲の素晴らしさを物語っている。
「僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。」と言っている。
本当の幸いはこれだ、という様になった時にジョバンニは
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」 とジョバンニが言って
「僕わからない。」 カンパネルラがぼんやり言いました。
この展開は凄い。
本当の幸い、自己犠牲の素晴らしさを物語っていながら、本当にそうなのかなという迷いが出て来る。
「僕わからない。」というカンパネルラは実は自己犠牲をしてる、なのに「僕わからない。」と言っている。
本当の幸いは一体何なのか、いくら追い求めて見てもやっぱり本当は何だろうと問わずにはいられない、そうしてみると「やっぱり僕判らない」って答えるしかない、ここが宮沢賢治の凄いところではないかと思います。
「新たなるよき道を得しということは、ただ新たなる悩みの道を得しと言うのみ」
新しくいい道を知ったと、真実の道、本当の幸いの道だと知ると、新たなる悩みの道を知ったということなんだと、これがいいんだと思ってもでも本当にそうなのかなと思う。
何処までも迷い続ける。
河野:歳を取って来ると、朝起きて手が動き水も飲めると言う事に幸せを感じる。
頭木:若い時には大きな幸せを考えるが、病後はハードルがずっと下がって来る。
朝起きて何処も痛くなかったりすると大変な幸せを感じるわけです。
「僅かばかりの才能とか、器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分の身体に付いたものでもあるかと思い、自分の仕事をいやしみ同輩をあざけり、今に何処からか自分をいわゆる
社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想にのみ生活をしてかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが虚しく過ぎてようやく自分の築いていた蜃気楼の消えるのを観ては、ただもう人を怒り世間をいきどおり、したがって親友を失い幽門、病を得ると言った順序です。」
(1933年9月11日に元の教え子に書いた手紙の一節 亡くなる10日前の最後の手紙)
文語詩
「いたつきてゆめみなやみし」
病気になってしまい夢はみんな終わった。
私(頭木弘樹)が20代、30代病気で過ごして、そこから社会に出るのがきつく、こういう人生でこれだけで、この歳で何も起きないなあと思うと泣けたりしました。
元の教え子に書いた手紙の続き
「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとか言うようなことは、できないものから見れば神の技にも等しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際とあまり遠いものです。」 (亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
賢治は病気になって日常が奇跡だという様な事をしみじみ感じる訳です。
そんなのは当然と思っているのは間違いで、実は大変貴重な人生、日々を送っていたという事に思いいたる。
元の教え子に書いた手紙の続き
「どうかいまのご生活を大切にお守りください。
上の空でなしにしっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
「苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」と言う人はなかなかいない、まさに自分が苦しんでいるのに。
1933年宮沢賢治が亡くなる。
2018年8月26日日曜日
デヴィ・スカルノ(タレント) ・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~
デヴィ・スカルノ(タレント)・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~
1940年(昭和15年)東京生まれ、旧名・根本 七保子。
大工の父と先妻の3人の子供に母、弟という家族で、戦中戦後の混乱の中、貧しい生活だったと言います。
終戦間際には福島県浪江に疎開、足の不自由な母と弟の助けとなって、戦後間もないころは闇市に買い出しに行くなど、幼いころから母と弟の為に自分が頑張らなければと思ってきたと言います。
少女時代は読書に夢中になり海外の名作のヒロインに憧れて、いつかは日本を離れ華やかな世界で暮らしたいと夢見るようになりました。
優秀な成績で中学を卒業しますが、家族を支えるために生命保険会社に就職、定時制高校に通います。
当時を振り返って人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生を切り拓いてきたと言います。
そして1959年19歳の時、来日していたインドネシアのスカルノ大統領とホテルのお茶会で逢い、運命は大きく変わってゆきます。
母と弟をしあわせにしたい、日本を離れ世界で羽ばたきたいと願っていた少女がどの様に人生を切り開いてきたのか、伺いました。
78歳になります。
母は足を45度に曲げなければならないほどの身体障害者でした。
1940年(昭和15年)東京生まれ、旧名・根本 七保子。
大工の父と先妻の3人の子供に母、弟という家族で、戦中戦後の混乱の中、貧しい生活だったと言います。
終戦間際には福島県浪江に疎開、足の不自由な母と弟の助けとなって、戦後間もないころは闇市に買い出しに行くなど、幼いころから母と弟の為に自分が頑張らなければと思ってきたと言います。
少女時代は読書に夢中になり海外の名作のヒロインに憧れて、いつかは日本を離れ華やかな世界で暮らしたいと夢見るようになりました。
優秀な成績で中学を卒業しますが、家族を支えるために生命保険会社に就職、定時制高校に通います。
当時を振り返って人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生を切り拓いてきたと言います。
そして1959年19歳の時、来日していたインドネシアのスカルノ大統領とホテルのお茶会で逢い、運命は大きく変わってゆきます。
母と弟をしあわせにしたい、日本を離れ世界で羽ばたきたいと願っていた少女がどの様に人生を切り開いてきたのか、伺いました。
78歳になります。
母は足を45度に曲げなければならないほどの身体障害者でした。
浪江というところに疎開していて、空襲警報がなると竹やぶに入るわけですが、母が足が悪いので一番最後になる訳で、周りから見つかるからはいってくるなといわれたが、何とか入りました。
警報解除後に母が村人たちに囲まれて、竹やぶが見つかり爆弾が落とされたら、何人の人が死ぬと思うと詰め寄られ、ある人が手をかけようとしたので、母をかばうために躍り出ました。
私の剣幕に驚いてその人たちは引き下がっていきました。
この時に母と弟を守るのは私しかいないんだと思いました。(4歳)
終戦後東京に帰って来ました。(5歳)
上野の地下道には浮浪者、浮浪児で一杯でした。
私の袖を引っ張ったので振り返ったら私より更に幼い子が「何かちょうだい」といって手を出したので、もし自分が不幸だと思ったら更に自分より不幸な人を思い浮かべればいいんだと心に決めました。
電車の中は満員だったが米兵が二人乗ってくると、その二人を中心に隙間ができ、一層苦しくなったが、米兵が私を抱き上げました。
しかし、あまり驚かず金髪など触ったりしていました。
そんな姿に母は得意げだったようです。
私の家は焼けていませんでした。
夜は満天の星で、いつかは日本から飛び立ちたいと思い浮かべていました。(5,6歳)
アメリカ兵がクリスマスになるとサンタクロースの格好をして袋にキャンディーとか入れて、街に出て配るんですが、可愛かったと思われたのか、キャンディーなどを一杯もらいました。
可愛い子は得をするのかと子供心に思ったことがありました。
買い出しのおばさん達と一緒に闇屋の買い出しを毎週行ったと思います。
摘発だというと窓から米を入れた袋をおばさんたちは涙を浮かべて投げ出していました。
小学校に入学するころ、私は可愛い特殊な子だという記憶が有ったが、プライドを滅茶滅茶にする事件がありました。
母が父のマントをほぐしてスカート、セーラー服を作ってくれました。
校門に入ったらピンクの洋服に頭に大きなピンクのリボンをしていた子がいて、先生がたが一斉にその子の処に駈け寄って行きました。
先生方は公平に見なければいけないのにエコひいきが有るんだと心に傷が付きました。
理不尽、公平ではないという意識が高まりました。
小さい時から絵が上手だと思っていて、画家になると決めていました。
そのために母が色々内職をして週に1回絵を習いに行っていました。
或る時絵の先生が男性の名前を使って絵を出展していることを知って、当時は女性のものは1/20程度にしかならなくて、画家になっても母と弟を幸せにすることはできないんだと思いました。
画家は諦めようと思いました。
母と一緒に演舞場に水谷八重子さんを見に行った時に美しさに魅せられて、女優さんになりたいと思うようになりました。
当時は本を沢山読んでいて、主人公、ヒロインと自分を重ね合わせたりして、いつか自分もそういう中に身を置いてみたいと強い憧れを持ちました。
当時ペンフレンドがはやって英語での文通をして英語が良くできるようになりました。(中学生)
母が同級の母親から借金をしている事を障子越しに聞いてしまって、何の躊躇も無く就職をすることに決めました。
当時大卒は1万円、高卒が8000円、中卒は4000円でした。
千代田生命の試験を受けて、その時に英語も出て、ソロバンもできたので、受かることができ、人事秘書課に配属されました。
夜は都立三田高の夜間部に行きました。
その頃人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生をという思いを持ちました。
学校にいきながら東芸プロダクションでレッスンを受けたり、エキストラとして行ったりしていました。
父が亡くなったのをきっかけに、母と弟と生活をしたいと思いました。
或る時フィリピンの女性歌手と知り合い、誘われて夜の世界に導かれました。
ナイトクラブに出て歌を歌ったりもしました。
アメリカ人のボーイフレンドが出来て日本の随一の社交場に行き、そこは97~98%が外国人のお客さんでした。
フランク・シナトラ、ポール・アンカなども歌っていました。
高校を中退してそこで働くことになりました。
そこはテーブルチャージが1時間1000円でした。
一晩で8000円位の収入がありました。(それまでの月の全収入はアルバイトを含めても8000円程度)
18歳で小さなバーを買うことができたが、騙されて区画整理で数年後駄目になってしまいました。
お花、お茶、日舞などを勉強しました。
日舞の初舞台が5月にあり藤娘を踊らせてもらいました。
その1カ月後にスカルノ大統領とお会いすることになります。
アメリカ人の大富豪と、フィリピンで大事業していたアメリカ人がいて、二人から求婚されていました。
大統領からお招きを頂き、インドネシアに行くことにしました。
本当に国民に愛されている姿を間近に見ました。
2週間の滞在中、帰るころにプロポーズされました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式をしました。(19歳)
その後数年で大統領は失脚、70年に亡くなります。
2018年8月25日土曜日
大野 彩(フレスコ画家) ・最古の画法を現代に
大野 彩(フレスコ画家) ・最古の画法を現代に
フレスコ画家の技法のひとつ、ブオン・フレスコ (Buon Fresco)はイタリアルネッサンスのころに発展したが画法で、絵の美しさが半永久的に保たれるのが特徴です。
大野 彩さんは1967年多摩美術大学を卒業後、東京芸術大学大学院でフレスコ画を学びました。
その後イタリアに留学、ルーマニアで研修も受けました。
帰国後、美術系の大学でフレスコ画を教えながら壁画ラボを主催しています。
作品は三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画など数多くあります。
今、身寄りのない方の霊体供養のための合葬墓を作りたいと思って仕事を始めました。
募集をしたら現在夫婦で入りたいとか増えてきて、将来の合葬墓の形が出来てきていると思います。
上が古墳のような感じで、その地下がフレスコ画の制作現場になっています。
左官屋さんが壁を作っていてそこに絵を描きますが、レンガを積みたいと言うことでその準備の壁を作っています。
下絵もいくつかできています。
お寺からの要求もあり、自然のもの(花、鳥など)を中心にアサガオ状の3本の柱が立ちあがっています。
それを釈迦の三聖樹(無憂樹・印度菩提樹・沙羅の樹)に見立てて、3本の木を描きながら花を描いていこうと思っています。
2年前に始めて水対策もあり、まだ年の単位で掛かります。
フレスコは長く持って2000年とかもっと古いものもあります。
多摩美術大学では油絵を勉強していましたが、日本の風土に合わないのではないかと思っていて、芸大に壁画科があり、大きな絵が描けるということであこがれもありました。
芸大の大学院の壁画科に入りフレスコ画を描くことにしました。
砂と石灰と水を船の中で鍬で混ぜます。
コテ板にとって壁を濡らしてその壁にコテで当日分を塗り、その日の内に描いてしまう事を毎日続けるわけです。
個展を開くようにもなりました。
石灰の面白さに気が付き、どんどん深みにはまってしまいました。
1995年から96年にかけてイタリアに留学しました。
武蔵野美大でフレスコ画を教えていて、長谷川路可先生の弟子の人が教えているものと違うと言われて、本場のフレスコ画を知りたくてイタリアに留学することになりました。
私たちが知っているフレスコ画はブオン・フレスコと言ってフレスコ画の一つの種類であることが判りました。
ニコライ・サバ先生(ルーマニアから来た先生)は4つのフレスコを教えていました。
①湿式法 ブオン・フレスコ (Buon Fresco)
②乾式法 フレスコ・セッコ (Fresco Secco)
③半湿式法 メッゾ・フレスコ (Mezzo Fresco)
④掻き落とし法 ズグラッフィートまたはグラッフィート (Sgraffito/Graffito)
シルクロードの要所要所に色んなタイプがあることに気が付きました。
石灰の作り方も違う。
面白い経験をしました。(地域と時間によってタイプの違うものが沢山ある)
ブオン・フレスコ (Buon Fresco) は顔料には何もいれず水だけでといて、絵を描いて壁の化学反応によって絵の顔料を止めてもらうと言うことになります。
フレスコ・セッコ (Fresco Secco)は接着材を持ちいます。
フレスコ画は人類が絵を描き始めたころに出来たもの。
石灰岩の洞窟の中に描かれた。
人工的にはトルコの遺跡の中に雄牛の絵などがあります。(5000~6000年前)
宗教画と結び付いたのはブオン・フレスコ (Buon Fresco)の手法を確立したジョットという絵描きさんがいますが、教会に文字が読めない人にキリストの話をする為に祭壇に絵を描き
続けるわけです。
ミケランジェロも学んでヒスティーナの礼拝堂を描いています。
その日にある決まった絵を描かなくてはいけないので(時間が限られる)、大きい壁画を描く時には構想をそこに定着させなければならない。
油絵とか水彩画とは全然違います。
ある時間帯が来ると筆から顔料が壁の上に置かれる、その瞬間に入って行き、ガラス質のものが貼る感じが判るんです、それがだいご味です。
栃木県の葛生町(佐野市)が石灰石の産地で初期のころ葛生町に関するものが多い。
「栃木県石灰石工業会館のフレスコ壁画」など
新しい建物が出来るたびにフレスコ画を描かせてもらいました。
「三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画」
花、鳥、蝶、果物など沢山描かれている。
宮崎駿さんの要望がありました。
ドーム状で卵型なのでした絵を完璧に作るにはどうやったらいいか難しかった。
本作業の前には模型を作ったりもしました。
作業は猛暑の時で天井はなお暑くて大変でした。
九州のつくみ図書館
天正遣欧使節団をモチーフにという依頼がありました。
沢山資料を頂き勉強し、一つの絵をつくりました。
色んな石灰を利用して共同で作れるようにしました。
埼玉県さいたま市 健常者と傷害のある子供達と両方使えるような施設になっていて、真ん中のホールに大きな鏡があるが、鏡を怖がらないようにしたいと言うことで大きなものを前面に入れてしまって、「あなたが生まれてきたことはとてもうれしいことなんですよ」というような意味のテーマで描いて下さいと言うことで、周囲に絵を描かせてもらいました。
栃木県の葛生町の庁舎跡地にフレスコ画をという要望がありました。
色んな石灰を使わせてもらってトンネルを作りました。
未来の栃木県の葛生町を考えましょうというふうにしました。
中学生たちにフレスコ画の事を知ってもらえるように観てもらいました。
フレスコ展 最初展覧会を開いたが30人が参加、2年後には50名、その2年後には60名になりました。
仲間の交流の場として展覧会があればいいと思っています。
人と人、人と団体を繋ぐことをフレスコをきっかけにして貰えればいいと思っています。
初心者には最初薄いレンガに砂と石灰を混ぜたものを塗って筆で絵を描いてもらいます。
壁画の仕事が来た時にはみんなで一緒にやりましょうと、繋がりを作りながら壁画を作れる人達と一緒に何かが出来ていければ嬉しいと思います。
フレスコ普及協会の立ち上げが2010年12月19日で翌年3月には大震災が起こって、陸前高田の
高田松原を守る会の後に会長さんになる方がきて、避難所で話をうかがっていまでも繋がっています。
壁画の制作を去年やって、プレゼント先をその会長さんに紹介していただき小学校にプレゼントしました。
フレスコ画家の技法のひとつ、ブオン・フレスコ (Buon Fresco)はイタリアルネッサンスのころに発展したが画法で、絵の美しさが半永久的に保たれるのが特徴です。
大野 彩さんは1967年多摩美術大学を卒業後、東京芸術大学大学院でフレスコ画を学びました。
その後イタリアに留学、ルーマニアで研修も受けました。
帰国後、美術系の大学でフレスコ画を教えながら壁画ラボを主催しています。
作品は三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画など数多くあります。
今、身寄りのない方の霊体供養のための合葬墓を作りたいと思って仕事を始めました。
募集をしたら現在夫婦で入りたいとか増えてきて、将来の合葬墓の形が出来てきていると思います。
上が古墳のような感じで、その地下がフレスコ画の制作現場になっています。
左官屋さんが壁を作っていてそこに絵を描きますが、レンガを積みたいと言うことでその準備の壁を作っています。
下絵もいくつかできています。
お寺からの要求もあり、自然のもの(花、鳥など)を中心にアサガオ状の3本の柱が立ちあがっています。
それを釈迦の三聖樹(無憂樹・印度菩提樹・沙羅の樹)に見立てて、3本の木を描きながら花を描いていこうと思っています。
2年前に始めて水対策もあり、まだ年の単位で掛かります。
フレスコは長く持って2000年とかもっと古いものもあります。
多摩美術大学では油絵を勉強していましたが、日本の風土に合わないのではないかと思っていて、芸大に壁画科があり、大きな絵が描けるということであこがれもありました。
芸大の大学院の壁画科に入りフレスコ画を描くことにしました。
砂と石灰と水を船の中で鍬で混ぜます。
コテ板にとって壁を濡らしてその壁にコテで当日分を塗り、その日の内に描いてしまう事を毎日続けるわけです。
個展を開くようにもなりました。
石灰の面白さに気が付き、どんどん深みにはまってしまいました。
1995年から96年にかけてイタリアに留学しました。
武蔵野美大でフレスコ画を教えていて、長谷川路可先生の弟子の人が教えているものと違うと言われて、本場のフレスコ画を知りたくてイタリアに留学することになりました。
私たちが知っているフレスコ画はブオン・フレスコと言ってフレスコ画の一つの種類であることが判りました。
ニコライ・サバ先生(ルーマニアから来た先生)は4つのフレスコを教えていました。
①湿式法 ブオン・フレスコ (Buon Fresco)
②乾式法 フレスコ・セッコ (Fresco Secco)
③半湿式法 メッゾ・フレスコ (Mezzo Fresco)
④掻き落とし法 ズグラッフィートまたはグラッフィート (Sgraffito/Graffito)
シルクロードの要所要所に色んなタイプがあることに気が付きました。
石灰の作り方も違う。
面白い経験をしました。(地域と時間によってタイプの違うものが沢山ある)
ブオン・フレスコ (Buon Fresco) は顔料には何もいれず水だけでといて、絵を描いて壁の化学反応によって絵の顔料を止めてもらうと言うことになります。
フレスコ・セッコ (Fresco Secco)は接着材を持ちいます。
フレスコ画は人類が絵を描き始めたころに出来たもの。
石灰岩の洞窟の中に描かれた。
人工的にはトルコの遺跡の中に雄牛の絵などがあります。(5000~6000年前)
宗教画と結び付いたのはブオン・フレスコ (Buon Fresco)の手法を確立したジョットという絵描きさんがいますが、教会に文字が読めない人にキリストの話をする為に祭壇に絵を描き
続けるわけです。
ミケランジェロも学んでヒスティーナの礼拝堂を描いています。
その日にある決まった絵を描かなくてはいけないので(時間が限られる)、大きい壁画を描く時には構想をそこに定着させなければならない。
油絵とか水彩画とは全然違います。
ある時間帯が来ると筆から顔料が壁の上に置かれる、その瞬間に入って行き、ガラス質のものが貼る感じが判るんです、それがだいご味です。
栃木県の葛生町(佐野市)が石灰石の産地で初期のころ葛生町に関するものが多い。
「栃木県石灰石工業会館のフレスコ壁画」など
新しい建物が出来るたびにフレスコ画を描かせてもらいました。
「三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画」
花、鳥、蝶、果物など沢山描かれている。
宮崎駿さんの要望がありました。
ドーム状で卵型なのでした絵を完璧に作るにはどうやったらいいか難しかった。
本作業の前には模型を作ったりもしました。
作業は猛暑の時で天井はなお暑くて大変でした。
九州のつくみ図書館
天正遣欧使節団をモチーフにという依頼がありました。
沢山資料を頂き勉強し、一つの絵をつくりました。
色んな石灰を利用して共同で作れるようにしました。
埼玉県さいたま市 健常者と傷害のある子供達と両方使えるような施設になっていて、真ん中のホールに大きな鏡があるが、鏡を怖がらないようにしたいと言うことで大きなものを前面に入れてしまって、「あなたが生まれてきたことはとてもうれしいことなんですよ」というような意味のテーマで描いて下さいと言うことで、周囲に絵を描かせてもらいました。
栃木県の葛生町の庁舎跡地にフレスコ画をという要望がありました。
色んな石灰を使わせてもらってトンネルを作りました。
未来の栃木県の葛生町を考えましょうというふうにしました。
中学生たちにフレスコ画の事を知ってもらえるように観てもらいました。
フレスコ展 最初展覧会を開いたが30人が参加、2年後には50名、その2年後には60名になりました。
仲間の交流の場として展覧会があればいいと思っています。
人と人、人と団体を繋ぐことをフレスコをきっかけにして貰えればいいと思っています。
初心者には最初薄いレンガに砂と石灰を混ぜたものを塗って筆で絵を描いてもらいます。
壁画の仕事が来た時にはみんなで一緒にやりましょうと、繋がりを作りながら壁画を作れる人達と一緒に何かが出来ていければ嬉しいと思います。
フレスコ普及協会の立ち上げが2010年12月19日で翌年3月には大震災が起こって、陸前高田の
高田松原を守る会の後に会長さんになる方がきて、避難所で話をうかがっていまでも繋がっています。
壁画の制作を去年やって、プレゼント先をその会長さんに紹介していただき小学校にプレゼントしました。
2018年8月24日金曜日
田村セツコ(イラストレーター) ・【人生のみちしるべ】あなたにハッピーを!(1)
田村セツコ(イラストレーター) ・【人生のみちしるべ】あなたにハッピーを!(1)
東京生まれ、80歳、現在も第一線で活躍するイラストレーターで、エッセイストです。
1950年代に可愛い少女のイラストで雑誌界にデビュー、60年代は少女雑誌、「リボン」や「なかよし」の人気イラストレーターに、70年代にはキャラクターグッズが人気を博します。
鉛筆やノート、レターセット、小物いれや、エプロン、食器まで田村さんの描く可愛くロマンチックな女の子の絵が描かれ少女たちの心を掴みました。
田村さんは独身で一人暮らしです。
ここ数年は自分のライフスタイルやファッションを語る本を次々に出版、今年出版した「孤独を楽しむ本 100の私の方法」は若い世代から田村さんの同世代まで多くの女性たちの心を掴み人気を呼んでいます。
子供のころから好みが変わらなくて、白のブラウスと黒のベストに、スカートは色々変えてますが、パターンは似ています。
1950年代に少女雑誌でデビュー。
ファッションとしては大きなリボンと縞々ソックスに黒い靴は、私のイメージの女の子のパターンです。
そうすると気分が落ち着く感じです。
表情はなるべく明るいお茶目な感じの女の子の表情が好きです。
初めに普通の鉛筆で下書きをして、仕上げの輪郭は色鉛筆のこげ茶色、色は水彩絵の具で仕あげています。
イラストについ一言囁きの言葉を入れて、その延長線上に絵以外でも書くオファーが増えました。
昭和13年生まれ、父は警視庁の警官で母は専業主婦でした。
小学校で4回転校しました。(栃木に疎開もしました。)
栃木では農家の家で飼っているいる食事とそっくりなオーガニックなものを食べて育ちまましたが、ガリガリでしたが元気で育ちました。
弟をいつもおんぶして遊んだりしていました。
隣りの子と会話が出来るようになると転校することになり、心もとない時期でした。
日記を書くようになりました。
空白の部分に絵を描いたりしました。
綺麗な衣装などを見ても絵を描いたりして、人のものを欲しがるということはなかったです。
日記帳が親友になりました。
ラジオで聞いたりしたら登場人物を想像して書くのは習慣的に書いていました。
高校時代にはテニス部と美術部に入りました。
或る少女雑誌に「あなたの好きな先生にお便りを出しましょう」というページがあって先生方の住所が書かれていて、松本かつぢ先生の絵が一番好きだったので、往復はがきに質問を書いて送りました。
1週間もしないうちに返事がきました。
あなたの絵を送って下さいとのことで送りました。
一度訪ねていらっしゃいと連絡が来ました。
私がイメージしていた先生とは違っていました。
ちゃきちゃきの江戸っ子の奥さんと7人のお子さんがいました。
自由に描いたものを物を1カ月に一遍見てもらうような事をしていきました。
高校卒業後安田信託銀行に入社するも、月に一度は松本かつぢ宅に通い指導を受ける。
先生から小さなカットなども頼まれるようになり、退職願を書いて会社を辞めました。
18,9歳の時の決断でした。
銀行の屋上から東京駅をみていたら、ゴミ拾いのおじさんがゴミ拾いをしているのを見てそれも悪くないなあと思いました。(かっこ悪くても自由にと思ったと思います。)
辞めたものの仕事が無くて、神保町の古本屋で海外の雑誌を見たり、気に入ったものを
切り取ってスクラップブックを作ったりしました。
映画もよく観に行き、ファッションとかヘアスタイルなどを勉強していました。
人生初めての孤独感も味わいました。
松本かつぢ先生に「絵の世界でやっていけるでしょうか」と聞いたんですが、「そんなこと誰も判らない」と言われました。
凛とした感じは受け止めました。
東京生まれ、80歳、現在も第一線で活躍するイラストレーターで、エッセイストです。
1950年代に可愛い少女のイラストで雑誌界にデビュー、60年代は少女雑誌、「リボン」や「なかよし」の人気イラストレーターに、70年代にはキャラクターグッズが人気を博します。
鉛筆やノート、レターセット、小物いれや、エプロン、食器まで田村さんの描く可愛くロマンチックな女の子の絵が描かれ少女たちの心を掴みました。
田村さんは独身で一人暮らしです。
ここ数年は自分のライフスタイルやファッションを語る本を次々に出版、今年出版した「孤独を楽しむ本 100の私の方法」は若い世代から田村さんの同世代まで多くの女性たちの心を掴み人気を呼んでいます。
子供のころから好みが変わらなくて、白のブラウスと黒のベストに、スカートは色々変えてますが、パターンは似ています。
1950年代に少女雑誌でデビュー。
ファッションとしては大きなリボンと縞々ソックスに黒い靴は、私のイメージの女の子のパターンです。
そうすると気分が落ち着く感じです。
表情はなるべく明るいお茶目な感じの女の子の表情が好きです。
初めに普通の鉛筆で下書きをして、仕上げの輪郭は色鉛筆のこげ茶色、色は水彩絵の具で仕あげています。
イラストについ一言囁きの言葉を入れて、その延長線上に絵以外でも書くオファーが増えました。
昭和13年生まれ、父は警視庁の警官で母は専業主婦でした。
小学校で4回転校しました。(栃木に疎開もしました。)
栃木では農家の家で飼っているいる食事とそっくりなオーガニックなものを食べて育ちまましたが、ガリガリでしたが元気で育ちました。
弟をいつもおんぶして遊んだりしていました。
隣りの子と会話が出来るようになると転校することになり、心もとない時期でした。
日記を書くようになりました。
空白の部分に絵を描いたりしました。
綺麗な衣装などを見ても絵を描いたりして、人のものを欲しがるということはなかったです。
日記帳が親友になりました。
ラジオで聞いたりしたら登場人物を想像して書くのは習慣的に書いていました。
高校時代にはテニス部と美術部に入りました。
或る少女雑誌に「あなたの好きな先生にお便りを出しましょう」というページがあって先生方の住所が書かれていて、松本かつぢ先生の絵が一番好きだったので、往復はがきに質問を書いて送りました。
1週間もしないうちに返事がきました。
あなたの絵を送って下さいとのことで送りました。
一度訪ねていらっしゃいと連絡が来ました。
私がイメージしていた先生とは違っていました。
ちゃきちゃきの江戸っ子の奥さんと7人のお子さんがいました。
自由に描いたものを物を1カ月に一遍見てもらうような事をしていきました。
高校卒業後安田信託銀行に入社するも、月に一度は松本かつぢ宅に通い指導を受ける。
先生から小さなカットなども頼まれるようになり、退職願を書いて会社を辞めました。
18,9歳の時の決断でした。
銀行の屋上から東京駅をみていたら、ゴミ拾いのおじさんがゴミ拾いをしているのを見てそれも悪くないなあと思いました。(かっこ悪くても自由にと思ったと思います。)
辞めたものの仕事が無くて、神保町の古本屋で海外の雑誌を見たり、気に入ったものを
切り取ってスクラップブックを作ったりしました。
映画もよく観に行き、ファッションとかヘアスタイルなどを勉強していました。
人生初めての孤独感も味わいました。
松本かつぢ先生に「絵の世界でやっていけるでしょうか」と聞いたんですが、「そんなこと誰も判らない」と言われました。
凛とした感じは受け止めました。
2018年8月23日木曜日
前橋汀子(バイオリニスト) ・まだ成長できる
前橋汀子(バイオリニスト) ・まだ成長できる
74歳、日本を代表する国際的ヴァイオリニスト前橋さんは去年演奏活動55年を迎えました。
これまでベルリンフィルを初めとする世界一流の多くのアーティストと共演を重ねて来ましたが、最近は小品を中心とした親しみやすいプログラムによるリサイタルも開いてます。
4歳でヴァイオリンを手にし、17歳でソ連のレニングラード音楽院に留学をした後、アメリカのジュリアード音楽院に留学し、スイスでもヴァイオリンの指導を受け花々しい活躍をしてきました。
1980年代に日本に帰国し、以後日本を根拠地として多くのコンサートを開いてきました。
去年演奏活動55年を迎えた前橋さんに伺いました。
2004年、日本芸術院賞受賞。
2011年6月、紫綬褒章受章
2017年4月、旭日小綬章受章。
こんなに長い事ヴァイオリンを弾き続けるとは思わなかった。
55年、あっという間の時間でした。
*チャイコフスキー メロディ( Mélodie) 演奏
自分にいま何ができるのか考えた時に、日本の中ではまだ多くの方が会場に足を運んで、生のヴァイオリンの音を聞いたことも無い方が大勢いるのではないかと思いました。
ラッシュアワーで夕方改札口から疲れた顔ででてくる方がたを見た時にこういう方々に是非聞いてほしいと思ったんです。
15年前に、料金は3000円、会場はサントリーホール、土日か祭日の午後という事で始めました。
毎回沢山の人が来てくれました。
11時30分から1時間、料金は2500円ということで平日もやりました。
やはり会場で味わっていただけたらという強い思いがあります。
歳を重ねて同じ曲を弾いても見え方感じ方が変わってきます、なんでこんなことが気が付かなかったのだろうとか、指使いをこうしたらという思いがあり、それが弾き続けていられたことだと思います。
1943年生まれ、戦時中1歳6か月の私を背負って母親がバケツリレーの訓練をしていた時に、子供を置いてこいと怒鳴られても母は子供を離さなかった。
他の子供達は防空壕にいたが直撃を受けて全員が亡くなった。
今母親は95歳で元気でコンサートに聞きに来てくれます。
幼稚園で情操教育の一環でヴァイオリンを弾くことになる。
母の考えだったと思います。
白系ロシア人音楽教師の小野アンナ さんを紹介する方がいました。
小野アンナ さんはペトログラードで同地の日本人留学生・小野俊一(ロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年5月に結婚。
翌1918年革命が起こりロシアを離れ、東京に来ることになる。
小野アンナさんは素晴らしいヴァイオリニストだった。
日本の子供達にヴァイオリンを教えることを生き甲斐としました。
後にソビエトに行きたいと思う一つの大きなきっかけでした。
子供心に先生の気迫みたいなものが伝わってきてレッスンに行くのが新鮮な気持ちがありました。
小学3年生の時に学芸大学附属大泉小学校の補欠試験に受かって転校する。
小学6年生で毎日学生音楽コンクールで2等。(母は優勝すると思っていてがっかりした。)
母が渋谷公会堂のコンサートに連れて行って、チケットの入手が困難なので私だけが聞きました。
ソビエトのダヴィッド・オイストラフという大ヴァイオリニストのコンサートを聞いた時に本当に素晴らしいと思いました。
ソビエトに行って勉強すればあのように弾けるのではないかと思って、それが夢になりソビエトに勉強に行きたいと思いました。
桐朋学園子供のための音楽教室の斎藤秀雄先生に週1回学びました。
高校は桐朋の音楽科に入って、2年の1学期の終わりにソビエトの留学が叶うことになります。
都立高校の道も考えて斎藤秀雄先生に相談に行ったら、「そんな生半可なことで音楽の勉強が続けられるか」と凄く怒られました。
奨学金も出すからということで桐朋に入りました。
17歳でレニングラード音楽院に留学することになる。
ロシア語は日ソ協会の日曜日の午後に講座があること知って、中学から通いました。
留学先では周りの学生達のレベルが高くて、指の細かいところが微妙に違っていて、変えれば弾きやすくなるだろうとは思ったが、それは一からやり直すことになる。
私の指は小さいし細いので人差し指を基本に弦を押さえていたが、小指を軸にして人差指で調整する方法でその方が本来弾きやすい、だがそれをするのには悩みました。
奏法をなんとか身につけようと思いました。(10時間、11時間練習をしました)
3年間の留学後はまだ中途半端でした。
帰ってきた年にジュリアード弦楽四重奏団の音楽に触れてみたいと思って、ロバート・マン先生のニューヨークにいけたらいいと思ったら、奨学金まで用意していただいて渡米することになりました。
ソビエトの社会主義体制とは違って、アメリカに行ったら糸が切れた凧のように生活の解放感を味わいました。
オーディションを受けたり、コンクールを受けたりすることがニューヨークでは可能で、カーネギーホールを27歳でデビューしました。
有名なオーケストラとの共演に繋がりました。
積極的に挑戦することは必要だったと思います。
ヨーゼフ・シゲティも渋谷公会堂で聞いて頭を撫ででもらった記憶もありました。
ヨーロッパに行ってみたいと言うこともあり、スイスに伺いモントルーにてヨゼフ・シゲティとナタン・ミルシテインに学びました。
小澤さんからも言われたが、音楽の基本は室内楽カルテットだよと言われていました。
4年前にカルテットに挑戦しました。
妹の前橋由子は東京芸術大学音楽学部ピアノ科を卒業して、妹とも一緒に演奏しましたが
1999年事故で妹が亡くなってしまいました。(53歳)
1736年のガルネリウスのヴァイオリンを使っていますが、やはり違います。
改めてヴェートベンの素晴らしさを感じます。
74歳、日本を代表する国際的ヴァイオリニスト前橋さんは去年演奏活動55年を迎えました。
これまでベルリンフィルを初めとする世界一流の多くのアーティストと共演を重ねて来ましたが、最近は小品を中心とした親しみやすいプログラムによるリサイタルも開いてます。
4歳でヴァイオリンを手にし、17歳でソ連のレニングラード音楽院に留学をした後、アメリカのジュリアード音楽院に留学し、スイスでもヴァイオリンの指導を受け花々しい活躍をしてきました。
1980年代に日本に帰国し、以後日本を根拠地として多くのコンサートを開いてきました。
去年演奏活動55年を迎えた前橋さんに伺いました。
2004年、日本芸術院賞受賞。
2011年6月、紫綬褒章受章
2017年4月、旭日小綬章受章。
こんなに長い事ヴァイオリンを弾き続けるとは思わなかった。
55年、あっという間の時間でした。
*チャイコフスキー メロディ( Mélodie) 演奏
自分にいま何ができるのか考えた時に、日本の中ではまだ多くの方が会場に足を運んで、生のヴァイオリンの音を聞いたことも無い方が大勢いるのではないかと思いました。
ラッシュアワーで夕方改札口から疲れた顔ででてくる方がたを見た時にこういう方々に是非聞いてほしいと思ったんです。
15年前に、料金は3000円、会場はサントリーホール、土日か祭日の午後という事で始めました。
毎回沢山の人が来てくれました。
11時30分から1時間、料金は2500円ということで平日もやりました。
やはり会場で味わっていただけたらという強い思いがあります。
歳を重ねて同じ曲を弾いても見え方感じ方が変わってきます、なんでこんなことが気が付かなかったのだろうとか、指使いをこうしたらという思いがあり、それが弾き続けていられたことだと思います。
1943年生まれ、戦時中1歳6か月の私を背負って母親がバケツリレーの訓練をしていた時に、子供を置いてこいと怒鳴られても母は子供を離さなかった。
他の子供達は防空壕にいたが直撃を受けて全員が亡くなった。
今母親は95歳で元気でコンサートに聞きに来てくれます。
幼稚園で情操教育の一環でヴァイオリンを弾くことになる。
母の考えだったと思います。
白系ロシア人音楽教師の小野アンナ さんを紹介する方がいました。
小野アンナ さんはペトログラードで同地の日本人留学生・小野俊一(ロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年5月に結婚。
翌1918年革命が起こりロシアを離れ、東京に来ることになる。
小野アンナさんは素晴らしいヴァイオリニストだった。
日本の子供達にヴァイオリンを教えることを生き甲斐としました。
後にソビエトに行きたいと思う一つの大きなきっかけでした。
子供心に先生の気迫みたいなものが伝わってきてレッスンに行くのが新鮮な気持ちがありました。
小学3年生の時に学芸大学附属大泉小学校の補欠試験に受かって転校する。
小学6年生で毎日学生音楽コンクールで2等。(母は優勝すると思っていてがっかりした。)
母が渋谷公会堂のコンサートに連れて行って、チケットの入手が困難なので私だけが聞きました。
ソビエトのダヴィッド・オイストラフという大ヴァイオリニストのコンサートを聞いた時に本当に素晴らしいと思いました。
ソビエトに行って勉強すればあのように弾けるのではないかと思って、それが夢になりソビエトに勉強に行きたいと思いました。
桐朋学園子供のための音楽教室の斎藤秀雄先生に週1回学びました。
高校は桐朋の音楽科に入って、2年の1学期の終わりにソビエトの留学が叶うことになります。
都立高校の道も考えて斎藤秀雄先生に相談に行ったら、「そんな生半可なことで音楽の勉強が続けられるか」と凄く怒られました。
奨学金も出すからということで桐朋に入りました。
17歳でレニングラード音楽院に留学することになる。
ロシア語は日ソ協会の日曜日の午後に講座があること知って、中学から通いました。
留学先では周りの学生達のレベルが高くて、指の細かいところが微妙に違っていて、変えれば弾きやすくなるだろうとは思ったが、それは一からやり直すことになる。
私の指は小さいし細いので人差し指を基本に弦を押さえていたが、小指を軸にして人差指で調整する方法でその方が本来弾きやすい、だがそれをするのには悩みました。
奏法をなんとか身につけようと思いました。(10時間、11時間練習をしました)
3年間の留学後はまだ中途半端でした。
帰ってきた年にジュリアード弦楽四重奏団の音楽に触れてみたいと思って、ロバート・マン先生のニューヨークにいけたらいいと思ったら、奨学金まで用意していただいて渡米することになりました。
ソビエトの社会主義体制とは違って、アメリカに行ったら糸が切れた凧のように生活の解放感を味わいました。
オーディションを受けたり、コンクールを受けたりすることがニューヨークでは可能で、カーネギーホールを27歳でデビューしました。
有名なオーケストラとの共演に繋がりました。
積極的に挑戦することは必要だったと思います。
ヨーゼフ・シゲティも渋谷公会堂で聞いて頭を撫ででもらった記憶もありました。
ヨーロッパに行ってみたいと言うこともあり、スイスに伺いモントルーにてヨゼフ・シゲティとナタン・ミルシテインに学びました。
小澤さんからも言われたが、音楽の基本は室内楽カルテットだよと言われていました。
4年前にカルテットに挑戦しました。
妹の前橋由子は東京芸術大学音楽学部ピアノ科を卒業して、妹とも一緒に演奏しましたが
1999年事故で妹が亡くなってしまいました。(53歳)
1736年のガルネリウスのヴァイオリンを使っていますが、やはり違います。
改めてヴェートベンの素晴らしさを感じます。
2018年8月22日水曜日
土屋時子(演出家・俳優) ・ヒロシマの"炎の時代"を伝えたい
土屋時子(演出家・俳優) ・ヒロシマの"炎の時代"を伝えたい
被爆地の青春群像劇『河(かわ)』
この作品は広島の原爆詩人峠三吉が中心になって、平和を願う若者たちが芸術か政治か、愛か平和運動か、生活か志か、と葛藤しながら命を燃やして生きる姿を描いたものです。
峠三吉の生誕100年に当たる去年の暮れに広島で上演され、来月京都で再演されることになりました。
それを前に演出家の土屋さんに何故今、爆心地広島の青春群像劇を上演するのか、作品『河(かわ)』に対する思いを伺いました。
出演者もプロの方はいなくて一般市民の方が出演する平和を願う広島人の手で作った市民劇と言います。
みなさんそれぞれ職業を持っています。
1950年6月に朝鮮戦争が始まっていますが、その前後の5年間の広島が舞台です。
峠三吉が主催する「われらの詩(うた)」の会という文芸サークルが有ったが、様々な仕事を持った青年たちが集まり、県下に支部が18あり700部の雑誌を発行しました。
峠三吉を中心に詩を武器にして平和の為に戦った青年たちの姿を描いた物語です。
峠三吉さんは28歳の時に爆心地から3kmの処で被爆しました。
原爆詩集を残して36歳で亡くなりました。
1963年に『河(かわ)』の初演を行い、(作、演出は土屋清さん(土屋時子さんの夫))
20年以上亡くなる間際まで繰り返し上演しました。
土屋は1987年末期がんで余命6カ月という宣告を受けて57歳で亡くなりました。
土屋は峠三吉と言う人にあこがれていたと思います。
風のように炎のように生きた峠さんの時代、あの平和運動の原点こそが私たちの立ち返る原点であるはずだと土屋が短い文章の中で書いています。
フランスの詩人ルイ・アラゴンと言う人の書いた詩の一節、
「髪にそよぐ風のように生き、燃えつくした炎のように死ぬ」という一節。
峠三吉とそこに集まった人達もみんなそのような生き方をした。
峠さんはその言葉が好きで実践した人なのでまわりの人も影響を受けたと思います。
平和運動の原点、自分とは違う意見を持っている人も包み込むような優しさと同時に強さも兼ね備えないと平和は実現できない。
言葉でいうことは簡単だが現実は難しい。
土屋自身は核兵器禁止という大きな目標があるのに、政治的な立場で対立した場面に何度も直面しています。
その時代で周りの状況が変わっているので、その時々で戦ってゆくためには何が必要なのか、台本の筋も一縞から四縞までは大きく変わっています。
『河(かわ)』30年振りに広島で上演しました。
芸術論争の場、活動家が加わって、芸術か、政治か、個人か、組織か、激しく言い争う場面。
かつて政治が芸術をひきまわしたり、組織が個人をつぶした時代があって、その自己批判として「河」を書いたと土屋は言っています。
劇に出て来る左翼の三田青年は土屋清がモデルだと当人も言っています。
土屋清は1930年に広島に生まれる。 中学3年生で海軍予科練習生になる。
戦後演劇に夢中になり朝鮮戦争のころには反戦運動に関わり、地下活動に入った経験がある。
広島で劇団を作り、峠が亡くなって10年後、1963年に「河」を上演する。
逮捕状が出されて、九州に3年間逃げ回る。
非公然活動、その時に自分に生き方は周りの人達を変える力にはならなかったということで、あえて左翼青年三田を描いたと思います。
私は若い頃、学生運動が盛んなころに、卒業してから図書館に就職しました。
生きる意味が判らず悶々としていた25歳の時に、1973年に上演された「河」を初めて見て衝撃を受けました。
峠三吉、三田青年の生き方に衝撃を受けました。
いつの間にか土屋の劇団に入っていました。
「なんでも命がけでやれ、そういう中で本物がつかめる」と土屋から言われました。
32歳の時に土屋と結婚しました。
市川睦子役に憧れました、市川睦子は「広島の空」という有名な原爆詩を書いた林幸子さんがモデルで16歳で原爆孤児になった人です。
この歳になってもやり続けているのも「河」という台本と巡り合ったおかげだと思います。
去年は峠三吉の生誕100年で、土屋清の没後30年でした。
どうしても今やらなければいけないと思ったのは、作品に描かれた時代と背景が去年の状況と全く似ている状況がありました。
北朝鮮が核実験、ミサイルを発射して凄く危機感を感じました。
戦争は何かのはずみで本当に起こってしまうかもしれない。
核兵器禁止を要求するストックホルム・アピール 署名活動が広島でも繰り広げられた。
世界で5億人、日本で640万人の人が署名に協力している。
1950年8月6日は平和式典、ピアノリサイタルのような集まりも禁止されたらしい。
でもそれだけの署名が集まったということは凄いことだと思います。
1951年には原爆詩集が出版された。
出版社がどこも引き受けてくれず、ガリ版摺りで自費出版しました。(500部)
広島で4回公演をしましたが、お客さんからの熱い視線と息を凄く感じました。
私自身は芝居の出来栄えに凄く不満でした、というのは稽古時間が非常に少なかった。
仕事と稽古の関係で全員揃って通し稽古をしたのは本番の前日でした。
2時間45分の長い舞台です。
再演にあたって台詞を自分の言葉で出来るように丁寧に本読みを始めました。
広島の豪雨があり家を流された人もいますが、台本は持って逃げたので参加出来ますと言われて感動しました。
「あきらめるな、押し続けろ、光が見えるだろう、そこに向かって這ってゆくんだ」
どんなにしんどくっても諦めないで京都公演まで光を見出そうと思っています。
被爆地の青春群像劇『河(かわ)』
この作品は広島の原爆詩人峠三吉が中心になって、平和を願う若者たちが芸術か政治か、愛か平和運動か、生活か志か、と葛藤しながら命を燃やして生きる姿を描いたものです。
峠三吉の生誕100年に当たる去年の暮れに広島で上演され、来月京都で再演されることになりました。
それを前に演出家の土屋さんに何故今、爆心地広島の青春群像劇を上演するのか、作品『河(かわ)』に対する思いを伺いました。
出演者もプロの方はいなくて一般市民の方が出演する平和を願う広島人の手で作った市民劇と言います。
みなさんそれぞれ職業を持っています。
1950年6月に朝鮮戦争が始まっていますが、その前後の5年間の広島が舞台です。
峠三吉が主催する「われらの詩(うた)」の会という文芸サークルが有ったが、様々な仕事を持った青年たちが集まり、県下に支部が18あり700部の雑誌を発行しました。
峠三吉を中心に詩を武器にして平和の為に戦った青年たちの姿を描いた物語です。
峠三吉さんは28歳の時に爆心地から3kmの処で被爆しました。
原爆詩集を残して36歳で亡くなりました。
1963年に『河(かわ)』の初演を行い、(作、演出は土屋清さん(土屋時子さんの夫))
20年以上亡くなる間際まで繰り返し上演しました。
土屋は1987年末期がんで余命6カ月という宣告を受けて57歳で亡くなりました。
土屋は峠三吉と言う人にあこがれていたと思います。
風のように炎のように生きた峠さんの時代、あの平和運動の原点こそが私たちの立ち返る原点であるはずだと土屋が短い文章の中で書いています。
フランスの詩人ルイ・アラゴンと言う人の書いた詩の一節、
「髪にそよぐ風のように生き、燃えつくした炎のように死ぬ」という一節。
峠三吉とそこに集まった人達もみんなそのような生き方をした。
峠さんはその言葉が好きで実践した人なのでまわりの人も影響を受けたと思います。
平和運動の原点、自分とは違う意見を持っている人も包み込むような優しさと同時に強さも兼ね備えないと平和は実現できない。
言葉でいうことは簡単だが現実は難しい。
土屋自身は核兵器禁止という大きな目標があるのに、政治的な立場で対立した場面に何度も直面しています。
その時代で周りの状況が変わっているので、その時々で戦ってゆくためには何が必要なのか、台本の筋も一縞から四縞までは大きく変わっています。
『河(かわ)』30年振りに広島で上演しました。
芸術論争の場、活動家が加わって、芸術か、政治か、個人か、組織か、激しく言い争う場面。
かつて政治が芸術をひきまわしたり、組織が個人をつぶした時代があって、その自己批判として「河」を書いたと土屋は言っています。
劇に出て来る左翼の三田青年は土屋清がモデルだと当人も言っています。
土屋清は1930年に広島に生まれる。 中学3年生で海軍予科練習生になる。
戦後演劇に夢中になり朝鮮戦争のころには反戦運動に関わり、地下活動に入った経験がある。
広島で劇団を作り、峠が亡くなって10年後、1963年に「河」を上演する。
逮捕状が出されて、九州に3年間逃げ回る。
非公然活動、その時に自分に生き方は周りの人達を変える力にはならなかったということで、あえて左翼青年三田を描いたと思います。
私は若い頃、学生運動が盛んなころに、卒業してから図書館に就職しました。
生きる意味が判らず悶々としていた25歳の時に、1973年に上演された「河」を初めて見て衝撃を受けました。
峠三吉、三田青年の生き方に衝撃を受けました。
いつの間にか土屋の劇団に入っていました。
「なんでも命がけでやれ、そういう中で本物がつかめる」と土屋から言われました。
32歳の時に土屋と結婚しました。
市川睦子役に憧れました、市川睦子は「広島の空」という有名な原爆詩を書いた林幸子さんがモデルで16歳で原爆孤児になった人です。
この歳になってもやり続けているのも「河」という台本と巡り合ったおかげだと思います。
去年は峠三吉の生誕100年で、土屋清の没後30年でした。
どうしても今やらなければいけないと思ったのは、作品に描かれた時代と背景が去年の状況と全く似ている状況がありました。
北朝鮮が核実験、ミサイルを発射して凄く危機感を感じました。
戦争は何かのはずみで本当に起こってしまうかもしれない。
核兵器禁止を要求するストックホルム・アピール 署名活動が広島でも繰り広げられた。
世界で5億人、日本で640万人の人が署名に協力している。
1950年8月6日は平和式典、ピアノリサイタルのような集まりも禁止されたらしい。
でもそれだけの署名が集まったということは凄いことだと思います。
1951年には原爆詩集が出版された。
出版社がどこも引き受けてくれず、ガリ版摺りで自費出版しました。(500部)
広島で4回公演をしましたが、お客さんからの熱い視線と息を凄く感じました。
私自身は芝居の出来栄えに凄く不満でした、というのは稽古時間が非常に少なかった。
仕事と稽古の関係で全員揃って通し稽古をしたのは本番の前日でした。
2時間45分の長い舞台です。
再演にあたって台詞を自分の言葉で出来るように丁寧に本読みを始めました。
広島の豪雨があり家を流された人もいますが、台本は持って逃げたので参加出来ますと言われて感動しました。
「あきらめるな、押し続けろ、光が見えるだろう、そこに向かって這ってゆくんだ」
どんなにしんどくっても諦めないで京都公演まで光を見出そうと思っています。
2018年8月21日火曜日
宝田明(俳優) ・少年 宝田明は撃たれた
宝田明(俳優) ・少年 宝田明は撃たれた
84歳、2歳の時に家族で当時の満州に渡った宝田さん、小学2年の時ハルピンに移り住みました。
昭和20年8月15日、日本が降伏した直後、ソ連軍はハルピンに侵攻し病院や学校など全てソ連軍の宿舎になりました。
宝田さんは或る日お兄さんを探して駅に向かい、駅に近づいたところで見周りの兵士から腹部に銃撃を受けました。
すべての病院に機能が停止するなかで医者にも診てもらえずに、宝田さんは一時生死の境をさまよいました。
このような経験をした宝田さんが、73年たった今その経験を通して戦争や平和にどのような思いを抱いているのか伺いました。
父は満鉄の技師でした。
祖父が朝鮮総督府の海軍武官として行っていて、その後父は朝鮮鉄道の技師として働いていて、私が2歳の時に満州に行きました。
黒竜江に近いテイアン、ハイロンという所に行きまして、最終的にはハルピンに落ち着きました。
白系ロシア人が多く住んでいましたが、色んな国の方々が暮らしていました。
満州鉄道は日露戦争で東満州の鉄道の一部を割譲してもらって、その付属として南満州の方の鉄道を半官半民で作り上げて、明治39年に後藤新平さんを総裁として作り上げた鉄道会社です。
満鉄は国策会社で肩で風を来るような勢いで、燃料、穀物も豊富で豊かに過ごしていたという記憶があります。
小学校3年生では北京漢話が必須科目として週に3時間ほどありました。
日本語、ロシア語、中国語を柱に生活していました。
小さい時におぼえた言葉は覚えていて、日本人には読めない様な漢字なども読めます。
ハルピンにはアジア映画館があり、全校生徒で見に行きました。
本編の前にニュースがあり、富士山、二重橋、白馬にまたがる昭和天皇がいらっしゃり、その時は全員が起立して画面をみるなといわれ、頭を下げていました。
厭が応でも軍国少年にならざるを得なかった。
軍事教練があり、兵隊さんと歯を食いしばって木の銃剣で付きっこをしたりしました。
北の防波堤になるんだと、勉強もし日々の生活をしていました。
8月6日広島に化学爆弾が落ちたということで、十数万人が一瞬で焼け死んだという放送がありました。
8月9日に長崎に同じ様に爆弾が落ちたということでした。
その日の夜物凄い音とともに空襲がありました。
日本が間違って爆弾を落としたのかと疑ったが、ソ連軍が8月9日に参戦してきて満州に流れ込んできた。
不可侵条約があると言うことでたかをくくっていたが、ドーッと入ってきた。
8月15日に大事な放送があるということだったが、玉音放送があり日本が負けたと判りました。
8月24日になって物凄い轟音とともにソ連軍の機甲部隊が入ってきました。
ハルピンでは軍は武装解除で、日本の特務機関の本部が有ったがあっという間にいなくなりました。
日本の全ての学校、病院はソ連軍に接収されました。
婦女子は頭の髪の毛を落として下さいと言うことで丸坊主になって、4,5人で徒党を組んで陽の明るいうちに買い物をしてくる様にという指示がありました。
色々防御態勢を取りました。
ソ連兵は72連発自動小銃を抱えていました。
或る日社宅の奥さんが一人で買い物に行って帰ってくると、ソ連兵が二人歩いて来て掴まって倒されて引きずって「助けて下さい、助けて下さい、」と叫んでいました。
なんとかせねばと交番があるので日本の警察がいるかと思って行ったら、ソ連の憲兵がいて現場に引っ張っていったら凌辱されている最中でした。(小学5年生でそんな光景を見てしまう)
憲兵は追い払ったが、その人は引き揚げる時には中正常な精神状態ではなく夫にひきつられて帰って行きました。
或る日家族で夕食を食べていたら、突然ソ連兵が二人入ってきてラジオ、化粧品、電気コンロなどを持って行きました。
冷たい銃口が私の頬に当たった時はガタガタ震えました。
「夕餉時 露兵二名の侵入に 歯の音だけが ガタガタと鳴る」
後にこういった歌を作りました。
ソ連軍から命令が出て強制使役に出るように言われました。
石炭をモッコで貨物列車に運ぶ作業でした。
或る時石炭を普段より大きな弁当箱に入れて帰ろうかと思ったが、見つかって物凄い勢いで殴られました。
次の時に仕返しにもう一回やってうやろうと思いまして、その後何度か持ち帰りました。
或る時駅の方に向かって行ったら、兵隊が帰れといっていましたら、ソ連の兵隊が来て撃ってきました。
からがら逃げてきたら右わき腹が熱くて仕方なかった。
見たら血だらけだった。
血が止まらず、3日後にはばい菌が入ったらしく化膿してきて、5日目に母が昔軍医だった人を呼んでくれて、ベッドに両手両脚をしばりつけられました。
立ち鋏を焼いてもってきてくださいと言われました。
ブスッと傷口に立ち鋏を入れられ、十文字に腹の肉を切られました。
妙にその時の切られる音を覚えています。
鉛の球だった。(後で判ったが、国際法上使ってはいけないことになっていた)
鉛の球は鉛毒で人間を腐らせる。
明らかに子供だと判るはずなのに、ソ連の兵士がどうして撃って来たのかはわからない。
傷口は針も糸も無く縫わずに脱脂綿とガーゼを重ねて傷口を抑え込み、やっと傷が治ってきたのは1カ月以上たってからでした。
80歳過ぎた今でも冷たい銃口を突き付けられた時と、自分の肉を切られた音は決して忘れられないです。
日本に引き揚げてきて、その後むさぼる様に映画を観ました。
高校に通っている時に「シベリア物語」を観に行ったんですが、5分もたたないうちに吐き気がして出てきてしまいました。
あの当時のソビエトをどう考えても赦せない、これは個人的な感情ですけれども。
ソ連が崩壊した時には私は心の中で万歳と叫びました。
旧日本軍もあちこちで同じ様なことをやってきたわけで、彼我共にそういうことはあった訳だと思います。
平和でなければいけないと思います。
1954年にデビューして130本を越える映画に出演、現在も撮影中。
昭和29年に東宝に入りまして、3本目に主役をやらせるということで「ゴジラ」ということだった。
昭和29年第五福竜丸が水爆実験で死の灰を受けたた。
西に沈んだはずの太陽のどでかいのが又上がってきたぞと、或る人が叫んだそうです。
数時間後に使の灰が降ってきて母港に戻ってきたが亡くなられた。
日本は約10年のうちに3回の被爆国家になってしまった。
核廃絶を目指して世界に向けて堂々と声を大きくして発することができるのは日本しかいないのだから、この映画を作るんだと言うことだった。
「ゴジラ」も核実験の被害に遭って目を覚まして地球で暴れると言うことでした。
「ゴジラ」も被曝者です。
50年のうちに28本「ゴジラ」の映画を作り6本に出演しました。
戦争で350万人強の人が尊い命を亡くしている。
戦争へある一握りの意志決定で国民に多大な迷惑をかける、こんなことが有ってはいけないと思っています。
確かなメセージを持った人のバトンを、若い人たちにバトンタッチできるようなアクションなり、メッセージを渡して行かなければいけない責務があると思います。
「不戦不争」 政治、社会、文化、教育全て平和でなければ立脚しない。
安全で平和な社会で過ごせる様な国であってほしいと乞い願います。
84歳、2歳の時に家族で当時の満州に渡った宝田さん、小学2年の時ハルピンに移り住みました。
昭和20年8月15日、日本が降伏した直後、ソ連軍はハルピンに侵攻し病院や学校など全てソ連軍の宿舎になりました。
宝田さんは或る日お兄さんを探して駅に向かい、駅に近づいたところで見周りの兵士から腹部に銃撃を受けました。
すべての病院に機能が停止するなかで医者にも診てもらえずに、宝田さんは一時生死の境をさまよいました。
このような経験をした宝田さんが、73年たった今その経験を通して戦争や平和にどのような思いを抱いているのか伺いました。
父は満鉄の技師でした。
祖父が朝鮮総督府の海軍武官として行っていて、その後父は朝鮮鉄道の技師として働いていて、私が2歳の時に満州に行きました。
黒竜江に近いテイアン、ハイロンという所に行きまして、最終的にはハルピンに落ち着きました。
白系ロシア人が多く住んでいましたが、色んな国の方々が暮らしていました。
満州鉄道は日露戦争で東満州の鉄道の一部を割譲してもらって、その付属として南満州の方の鉄道を半官半民で作り上げて、明治39年に後藤新平さんを総裁として作り上げた鉄道会社です。
満鉄は国策会社で肩で風を来るような勢いで、燃料、穀物も豊富で豊かに過ごしていたという記憶があります。
小学校3年生では北京漢話が必須科目として週に3時間ほどありました。
日本語、ロシア語、中国語を柱に生活していました。
小さい時におぼえた言葉は覚えていて、日本人には読めない様な漢字なども読めます。
ハルピンにはアジア映画館があり、全校生徒で見に行きました。
本編の前にニュースがあり、富士山、二重橋、白馬にまたがる昭和天皇がいらっしゃり、その時は全員が起立して画面をみるなといわれ、頭を下げていました。
厭が応でも軍国少年にならざるを得なかった。
軍事教練があり、兵隊さんと歯を食いしばって木の銃剣で付きっこをしたりしました。
北の防波堤になるんだと、勉強もし日々の生活をしていました。
8月6日広島に化学爆弾が落ちたということで、十数万人が一瞬で焼け死んだという放送がありました。
8月9日に長崎に同じ様に爆弾が落ちたということでした。
その日の夜物凄い音とともに空襲がありました。
日本が間違って爆弾を落としたのかと疑ったが、ソ連軍が8月9日に参戦してきて満州に流れ込んできた。
不可侵条約があると言うことでたかをくくっていたが、ドーッと入ってきた。
8月15日に大事な放送があるということだったが、玉音放送があり日本が負けたと判りました。
8月24日になって物凄い轟音とともにソ連軍の機甲部隊が入ってきました。
ハルピンでは軍は武装解除で、日本の特務機関の本部が有ったがあっという間にいなくなりました。
日本の全ての学校、病院はソ連軍に接収されました。
婦女子は頭の髪の毛を落として下さいと言うことで丸坊主になって、4,5人で徒党を組んで陽の明るいうちに買い物をしてくる様にという指示がありました。
色々防御態勢を取りました。
ソ連兵は72連発自動小銃を抱えていました。
或る日社宅の奥さんが一人で買い物に行って帰ってくると、ソ連兵が二人歩いて来て掴まって倒されて引きずって「助けて下さい、助けて下さい、」と叫んでいました。
なんとかせねばと交番があるので日本の警察がいるかと思って行ったら、ソ連の憲兵がいて現場に引っ張っていったら凌辱されている最中でした。(小学5年生でそんな光景を見てしまう)
憲兵は追い払ったが、その人は引き揚げる時には中正常な精神状態ではなく夫にひきつられて帰って行きました。
或る日家族で夕食を食べていたら、突然ソ連兵が二人入ってきてラジオ、化粧品、電気コンロなどを持って行きました。
冷たい銃口が私の頬に当たった時はガタガタ震えました。
「夕餉時 露兵二名の侵入に 歯の音だけが ガタガタと鳴る」
後にこういった歌を作りました。
ソ連軍から命令が出て強制使役に出るように言われました。
石炭をモッコで貨物列車に運ぶ作業でした。
或る時石炭を普段より大きな弁当箱に入れて帰ろうかと思ったが、見つかって物凄い勢いで殴られました。
次の時に仕返しにもう一回やってうやろうと思いまして、その後何度か持ち帰りました。
或る時駅の方に向かって行ったら、兵隊が帰れといっていましたら、ソ連の兵隊が来て撃ってきました。
からがら逃げてきたら右わき腹が熱くて仕方なかった。
見たら血だらけだった。
血が止まらず、3日後にはばい菌が入ったらしく化膿してきて、5日目に母が昔軍医だった人を呼んでくれて、ベッドに両手両脚をしばりつけられました。
立ち鋏を焼いてもってきてくださいと言われました。
ブスッと傷口に立ち鋏を入れられ、十文字に腹の肉を切られました。
妙にその時の切られる音を覚えています。
鉛の球だった。(後で判ったが、国際法上使ってはいけないことになっていた)
鉛の球は鉛毒で人間を腐らせる。
明らかに子供だと判るはずなのに、ソ連の兵士がどうして撃って来たのかはわからない。
傷口は針も糸も無く縫わずに脱脂綿とガーゼを重ねて傷口を抑え込み、やっと傷が治ってきたのは1カ月以上たってからでした。
80歳過ぎた今でも冷たい銃口を突き付けられた時と、自分の肉を切られた音は決して忘れられないです。
日本に引き揚げてきて、その後むさぼる様に映画を観ました。
高校に通っている時に「シベリア物語」を観に行ったんですが、5分もたたないうちに吐き気がして出てきてしまいました。
あの当時のソビエトをどう考えても赦せない、これは個人的な感情ですけれども。
ソ連が崩壊した時には私は心の中で万歳と叫びました。
旧日本軍もあちこちで同じ様なことをやってきたわけで、彼我共にそういうことはあった訳だと思います。
平和でなければいけないと思います。
1954年にデビューして130本を越える映画に出演、現在も撮影中。
昭和29年に東宝に入りまして、3本目に主役をやらせるということで「ゴジラ」ということだった。
昭和29年第五福竜丸が水爆実験で死の灰を受けたた。
西に沈んだはずの太陽のどでかいのが又上がってきたぞと、或る人が叫んだそうです。
数時間後に使の灰が降ってきて母港に戻ってきたが亡くなられた。
日本は約10年のうちに3回の被爆国家になってしまった。
核廃絶を目指して世界に向けて堂々と声を大きくして発することができるのは日本しかいないのだから、この映画を作るんだと言うことだった。
「ゴジラ」も核実験の被害に遭って目を覚まして地球で暴れると言うことでした。
「ゴジラ」も被曝者です。
50年のうちに28本「ゴジラ」の映画を作り6本に出演しました。
戦争で350万人強の人が尊い命を亡くしている。
戦争へある一握りの意志決定で国民に多大な迷惑をかける、こんなことが有ってはいけないと思っています。
確かなメセージを持った人のバトンを、若い人たちにバトンタッチできるようなアクションなり、メッセージを渡して行かなければいけない責務があると思います。
「不戦不争」 政治、社会、文化、教育全て平和でなければ立脚しない。
安全で平和な社会で過ごせる様な国であってほしいと乞い願います。
2018年8月20日月曜日
十文字中学・高等学校 能楽部 ・【にっぽんの音】熱中!能楽の世界
十文字中学・高等学校 能楽部 ・【にっぽんの音】熱中!能楽の世界
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
豊島区北大塚にある私立十文字中学高等学校 創立1922年年 能楽部を訪問。
全員で9名(高校生と中学生)で「高砂」の稽古中。
生徒:高校1年の時に担任の先生が能楽部の顧問をしていて、見学に行って先輩が薙刀を使って「巴 (ともえ)」をやっていてかっこいいと思いました。
歌っているのも淡々とした雰囲気が良くて入部しました。
能楽部の顧問:シテ方 宝生流の小林晋也先生
シテ方とは能はシテと言う物語の中心人物になるのが「シテ」
「ワキ」はわき役だが能の場合は「シテ」の相手をする人。
2002年からやっています。
初代校長が、人間国宝だった近藤乾三(一八九〇~一九八八年)に謡を教わっていた縁で、その弟子の小林麟一に部の指導を頼んだ。
私ども小林家が近藤先生の弟子でもあったので私で4代目で学校に来させてもらっています。
生徒:謡本を覚えるのも大変ですが、発表の時にテストとかぶっていたりすると学業との両立が大変です。
小林先生 :謡は台本なるものがあり、歌とセリフの部分をお稽古します。
仕舞(しまい)は能の一部分、見せどころ、面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞う。
自分たちで舞い自分たちで謡うのが一つの特徴になっています。
「皇帝」の謡いの練習風景が流れる。
*あらすじ
(病に伏した楊貴妃を気遣う玄宗皇帝の前に、一人の老人が現れ、枕元に鏡を置けと告げて消え失せる。
鏡を置くと中に鬼神の姿が映り、皇帝は刀を抜いて戦うが見失う。そこに鍾馗の霊が現れ、鬼神を成敗し、楊貴妃の病を治し、今後の守護を誓って消え失せる。 )
小林先生:謡いは先ずは耳で聞いて覚える様にしなさいと言っています。
生徒:筋とかがわからないときがあって予想とは違う筋があって混乱して間違いたりする時などもあります。
正座はきつい時があったりします。
字も難しい(変体かな=くずし字)
小林先生:練習は4時~6時迄やっています。
生徒:家に帰っても練習します。(先生の録音したものを聞いて自分のと照らし合わせ復習したりします。)
先生への質問
生徒:凄く長い時間正座して痺れていると思うが、去る時のサッと立ち上がって帰って行く態度に出ないで不思議だと思いましたが?
小林先生:最大3時間座っていることもありましたが、それは気合です、といいたいですが、
足を組みかえたりして痺れを調整します、自分で工夫します。
絶対にやってはいけないのは、舞台上ではどんなに足が痛かろうが真顔で一生懸命にシャキッと帰って来る気迫が必要です。
大藏:舞台の上では決して恥ずかしい恰好を見せないという世界です。
しびれてはいます。ただ慣れは若干あります。
生徒:辛いなあと思ったことはありますか?
小林先生:今年で芸歴38年になりますが、辛いなあと思ったのは38年間毎日です。
一生涯研鑽をしなくてはいけない。
永遠の受験生だと思っています。最後の試験は死ぬ前にある最後の舞台だと思います。
永遠に試験です。
大藏:楽しいなあと思ったことは?
小林先生:自分で舞台をやることもそうですが、稽古をしてお弟子さんの出来がいいと嬉しいと思います。(本番の舞台)
教え甲斐が有ったなあと思います。
大藏:演劇は世界で沢山色んな国でありますが、シェイクスピアよりも遥か昔に能楽は存在していたので、今後皆さんが社会に出た時に、日本を紹介する時に日本にはもっと古い演劇があったと紹介することができるし、皆さんは謡いまで出来るので聞いてもらえることも出来、今後グローバルな世界で生きていくうえで役に立つのではないかと思います。
小林先生:世界に出て初めて日本人が日本の文化を知らないことに気付くとよく言われる。
そうなる前に日本文化を知っておくと言うことは必要だと思います。
大藏:能というものはかっこいいと思っています。
エンターテイメントになりずらいものがあるが、神道から来ているというか、奉納すると言う芸能の一つであるので、解釈に戸惑う部分もあるが、日本の芸能の中ではかっこいいと思います。
日本っぽいと、日本らしいという言い方があるが、能楽は日本らしさだと思います。
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
豊島区北大塚にある私立十文字中学高等学校 創立1922年年 能楽部を訪問。
全員で9名(高校生と中学生)で「高砂」の稽古中。
生徒:高校1年の時に担任の先生が能楽部の顧問をしていて、見学に行って先輩が薙刀を使って「巴 (ともえ)」をやっていてかっこいいと思いました。
歌っているのも淡々とした雰囲気が良くて入部しました。
能楽部の顧問:シテ方 宝生流の小林晋也先生
シテ方とは能はシテと言う物語の中心人物になるのが「シテ」
「ワキ」はわき役だが能の場合は「シテ」の相手をする人。
2002年からやっています。
初代校長が、人間国宝だった近藤乾三(一八九〇~一九八八年)に謡を教わっていた縁で、その弟子の小林麟一に部の指導を頼んだ。
私ども小林家が近藤先生の弟子でもあったので私で4代目で学校に来させてもらっています。
生徒:謡本を覚えるのも大変ですが、発表の時にテストとかぶっていたりすると学業との両立が大変です。
小林先生 :謡は台本なるものがあり、歌とセリフの部分をお稽古します。
仕舞(しまい)は能の一部分、見せどころ、面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞う。
自分たちで舞い自分たちで謡うのが一つの特徴になっています。
「皇帝」の謡いの練習風景が流れる。
*あらすじ
(病に伏した楊貴妃を気遣う玄宗皇帝の前に、一人の老人が現れ、枕元に鏡を置けと告げて消え失せる。
鏡を置くと中に鬼神の姿が映り、皇帝は刀を抜いて戦うが見失う。そこに鍾馗の霊が現れ、鬼神を成敗し、楊貴妃の病を治し、今後の守護を誓って消え失せる。 )
小林先生:謡いは先ずは耳で聞いて覚える様にしなさいと言っています。
生徒:筋とかがわからないときがあって予想とは違う筋があって混乱して間違いたりする時などもあります。
正座はきつい時があったりします。
字も難しい(変体かな=くずし字)
小林先生:練習は4時~6時迄やっています。
生徒:家に帰っても練習します。(先生の録音したものを聞いて自分のと照らし合わせ復習したりします。)
先生への質問
生徒:凄く長い時間正座して痺れていると思うが、去る時のサッと立ち上がって帰って行く態度に出ないで不思議だと思いましたが?
小林先生:最大3時間座っていることもありましたが、それは気合です、といいたいですが、
足を組みかえたりして痺れを調整します、自分で工夫します。
絶対にやってはいけないのは、舞台上ではどんなに足が痛かろうが真顔で一生懸命にシャキッと帰って来る気迫が必要です。
大藏:舞台の上では決して恥ずかしい恰好を見せないという世界です。
しびれてはいます。ただ慣れは若干あります。
生徒:辛いなあと思ったことはありますか?
小林先生:今年で芸歴38年になりますが、辛いなあと思ったのは38年間毎日です。
一生涯研鑽をしなくてはいけない。
永遠の受験生だと思っています。最後の試験は死ぬ前にある最後の舞台だと思います。
永遠に試験です。
大藏:楽しいなあと思ったことは?
小林先生:自分で舞台をやることもそうですが、稽古をしてお弟子さんの出来がいいと嬉しいと思います。(本番の舞台)
教え甲斐が有ったなあと思います。
大藏:演劇は世界で沢山色んな国でありますが、シェイクスピアよりも遥か昔に能楽は存在していたので、今後皆さんが社会に出た時に、日本を紹介する時に日本にはもっと古い演劇があったと紹介することができるし、皆さんは謡いまで出来るので聞いてもらえることも出来、今後グローバルな世界で生きていくうえで役に立つのではないかと思います。
小林先生:世界に出て初めて日本人が日本の文化を知らないことに気付くとよく言われる。
そうなる前に日本文化を知っておくと言うことは必要だと思います。
大藏:能というものはかっこいいと思っています。
エンターテイメントになりずらいものがあるが、神道から来ているというか、奉納すると言う芸能の一つであるので、解釈に戸惑う部分もあるが、日本の芸能の中ではかっこいいと思います。
日本っぽいと、日本らしいという言い方があるが、能楽は日本らしさだと思います。
2018年8月19日日曜日
鈴木 徹(東京海洋大学大学院教授) ・【"美味しい"仕事人】冷凍を学問する
鈴木 徹(東京海洋大学大学院教授) ・【"美味しい"仕事人】冷凍を学問する
美味しいものがあふれている日本の食、その美味しいものの舞台裏で食を支えている人達がいます。
今日は今や家庭の食卓や外食産業に無くてはならない存在となった冷凍食品についての話です。
冷凍学の一人者、東京海洋大学大学院教授の鈴木徹さん(62歳)は30年以上に渡って研究してきました。
鈴木さんが主導している食品冷凍学研究室は国内で唯一の研究室です。
冷凍学はただ単に食品を保存するためだけではなく、料理のおいしさに役立ったりフードロスやエネルギーロスの解決にもつながる学問として注目されています。
冷凍食品はスーパーマーケットとかコンビニエンスストアーとかで売られているものが一般の皆さんには冷凍食品と思われているかもしれませんが、ファミリーレストラン、外食産業、お弁当屋さんの裏方を支えているのが冷凍食品なんです。
ドライブインのうどんとか大学の食堂で出て来る昼のご飯などまあ多いんじゃないでしょうか。
原料の物流、魚、肉などの輸入の冷凍技術が無いと食品産業は成立しない。
生鮮野菜は冷凍が難しい。
食文化は国ごとに違うのでそれに対応した冷凍技術がそれぞれあります。
寿司、刺し身だとかなま物をいかに冷凍して元の状態に戻すかという技術に関しては日本の独壇場です。
クッキングされた野菜であり、最終的に火を通すものならば野菜も問題はない。
前の東京オリンピックの前には魚系のものは冷凍で物流は始まっていた。
冷凍食品がはじまったのが前の東京オリンピックです。
レストランはまだなかった。
選手団が来た時にどういうふうに食事を提供するかが問題になった。
帝国ホテルの村上さんにJOCの人が相談した。
料理してそれを解凍調理して提供することを考えたそうです。
調理した料理もやれるんだと言うことでメーカーさんが市販にも売り出したし、業務用にも提供、学校給食にも冷凍の物が増えてきたようです。
電子レンジの普及も冷凍食品を加速させました。
大学院の食品工学の修士を終わってから、ガス関係の会社で冷凍の機械、冷凍食品を作ってる研究開発部門に入りました。
冷熱のアプリケーションのセクションで食べ物に使うと言うところに配属されました。
当時ピラフが出始めていました。
ソテーはなにをやっているかというと最初は水分を飛ばすわけです。
蒸発している間はいくら加熱しても温度は上がらない。
水分が飛んでしまうとどんどん温度は上がってくる。
なまの場合は細胞がしっかりしていて、細胞の中に水が入っていてその水は飛びづらい。
冷凍すると、細胞の膜が壊れているんで、直ぐに水が出て来る。
それで1/3の時間で出来るというメリットがある。
冷凍、解凍するとうま味が増えると言うのは、茸類ではグアニンの成分が増える効果があります。
茸類はいい方向に作用していると考えられています。
シジミも同様です。(オルニチンという物質が増える。 最大8倍に増えた実績がある。)
家庭で冷凍をうまく利用しようと考えた場合、保管と解凍でほとんど駄目にしている。
肉類を保管する時に購入したパッケージのまま入れておくことは駄目、何故かと言うと乾燥してしまう。
氷も冷凍庫の中では段々気体になって出て行くので、冷凍したものも同様に出て行ってスカスカになってしまってまずくなる。
薄いラップだとどんどん水分が飛んで行き酸素も入ってくる。
氷が抜けると肉の場合は油とタンパク質が残っていてむき出しになっている。
そこに空気の酸素がアタックすると油が酸化して色が変になりタンパク質も変化して戻らなくなってしまうという現象が起こる。
乾燥しないように工夫すればいい。
買ってきてすぐに取り出して別のラップで空気が入らないように隙間のないように(三重程度)巻いて、保存袋に入れてやる。
きっちり遮断するとラップだけで保存袋はいらない。
小さなアジ、イワシなどを内臓はそのままにして水に浸けて保存袋に入れそのまま氷らしてしまう。
そうするとバリア性があり、3カ月ぐらい持ちます。
貝類あさり、しじみなどを買ってきて、パックに水と貝を入れて、それを氷らしてしまう。
氷の中に貝が埋まっている感じになる。(長持ちをしていつで取りだして使える)
解凍は冷蔵庫で解凍しては駄目。
氷っているまんま一気に加熱してあげる。
魚は解凍する時に酵素が残っているので、フライパンなどに水をはってそこにいれておく。
冷たい状態の水の時にスプーンで叩いて氷を割る。(流水では駄目)
気を付けなければいけないのは魚の表面の温度が上がってしまうと言う事。
ウニも永遠の課題だったがうまく戻るようになってきた。(研究中)
ウニの殻付きで冷凍して解凍して殻を取ってやると何割かで上手く身が復元できる。
その原因を現在追求中です。
ウニはシーズン性があり、殻をむいて市場に出す訳だが、地方には人がいない、冷凍、解凍して出荷することで一定に供給できることになる。
握り寿司の冷凍の研究も今しています。
電子レンジで10数秒するとご飯が70℃、ネタは熱くならない、半解け状態です。
その後3~4分置いておくとご飯は温度が下がり人肌となり、ネタは20℃位になりベストになる。
ご飯は37℃位、ネタは20℃位が一番美味しいと感じる。
日本で握って海外で美味しい寿司を食べると言うことも夢ではなくなるかもしれない。
冷凍技術を使ってフードロスを解決していきたい。
食べ物は口に入るまでエネルギーをどんどん使っている。
食料もエネルギー問題として捉えるべきだと思っています。
解凍
美味しいものがあふれている日本の食、その美味しいものの舞台裏で食を支えている人達がいます。
今日は今や家庭の食卓や外食産業に無くてはならない存在となった冷凍食品についての話です。
冷凍学の一人者、東京海洋大学大学院教授の鈴木徹さん(62歳)は30年以上に渡って研究してきました。
鈴木さんが主導している食品冷凍学研究室は国内で唯一の研究室です。
冷凍学はただ単に食品を保存するためだけではなく、料理のおいしさに役立ったりフードロスやエネルギーロスの解決にもつながる学問として注目されています。
冷凍食品はスーパーマーケットとかコンビニエンスストアーとかで売られているものが一般の皆さんには冷凍食品と思われているかもしれませんが、ファミリーレストラン、外食産業、お弁当屋さんの裏方を支えているのが冷凍食品なんです。
ドライブインのうどんとか大学の食堂で出て来る昼のご飯などまあ多いんじゃないでしょうか。
原料の物流、魚、肉などの輸入の冷凍技術が無いと食品産業は成立しない。
生鮮野菜は冷凍が難しい。
食文化は国ごとに違うのでそれに対応した冷凍技術がそれぞれあります。
寿司、刺し身だとかなま物をいかに冷凍して元の状態に戻すかという技術に関しては日本の独壇場です。
クッキングされた野菜であり、最終的に火を通すものならば野菜も問題はない。
前の東京オリンピックの前には魚系のものは冷凍で物流は始まっていた。
冷凍食品がはじまったのが前の東京オリンピックです。
レストランはまだなかった。
選手団が来た時にどういうふうに食事を提供するかが問題になった。
帝国ホテルの村上さんにJOCの人が相談した。
料理してそれを解凍調理して提供することを考えたそうです。
調理した料理もやれるんだと言うことでメーカーさんが市販にも売り出したし、業務用にも提供、学校給食にも冷凍の物が増えてきたようです。
電子レンジの普及も冷凍食品を加速させました。
大学院の食品工学の修士を終わってから、ガス関係の会社で冷凍の機械、冷凍食品を作ってる研究開発部門に入りました。
冷熱のアプリケーションのセクションで食べ物に使うと言うところに配属されました。
当時ピラフが出始めていました。
ソテーはなにをやっているかというと最初は水分を飛ばすわけです。
蒸発している間はいくら加熱しても温度は上がらない。
水分が飛んでしまうとどんどん温度は上がってくる。
なまの場合は細胞がしっかりしていて、細胞の中に水が入っていてその水は飛びづらい。
冷凍すると、細胞の膜が壊れているんで、直ぐに水が出て来る。
それで1/3の時間で出来るというメリットがある。
冷凍、解凍するとうま味が増えると言うのは、茸類ではグアニンの成分が増える効果があります。
茸類はいい方向に作用していると考えられています。
シジミも同様です。(オルニチンという物質が増える。 最大8倍に増えた実績がある。)
家庭で冷凍をうまく利用しようと考えた場合、保管と解凍でほとんど駄目にしている。
肉類を保管する時に購入したパッケージのまま入れておくことは駄目、何故かと言うと乾燥してしまう。
氷も冷凍庫の中では段々気体になって出て行くので、冷凍したものも同様に出て行ってスカスカになってしまってまずくなる。
薄いラップだとどんどん水分が飛んで行き酸素も入ってくる。
氷が抜けると肉の場合は油とタンパク質が残っていてむき出しになっている。
そこに空気の酸素がアタックすると油が酸化して色が変になりタンパク質も変化して戻らなくなってしまうという現象が起こる。
乾燥しないように工夫すればいい。
買ってきてすぐに取り出して別のラップで空気が入らないように隙間のないように(三重程度)巻いて、保存袋に入れてやる。
きっちり遮断するとラップだけで保存袋はいらない。
小さなアジ、イワシなどを内臓はそのままにして水に浸けて保存袋に入れそのまま氷らしてしまう。
そうするとバリア性があり、3カ月ぐらい持ちます。
貝類あさり、しじみなどを買ってきて、パックに水と貝を入れて、それを氷らしてしまう。
氷の中に貝が埋まっている感じになる。(長持ちをしていつで取りだして使える)
解凍は冷蔵庫で解凍しては駄目。
氷っているまんま一気に加熱してあげる。
魚は解凍する時に酵素が残っているので、フライパンなどに水をはってそこにいれておく。
冷たい状態の水の時にスプーンで叩いて氷を割る。(流水では駄目)
気を付けなければいけないのは魚の表面の温度が上がってしまうと言う事。
ウニも永遠の課題だったがうまく戻るようになってきた。(研究中)
ウニの殻付きで冷凍して解凍して殻を取ってやると何割かで上手く身が復元できる。
その原因を現在追求中です。
ウニはシーズン性があり、殻をむいて市場に出す訳だが、地方には人がいない、冷凍、解凍して出荷することで一定に供給できることになる。
握り寿司の冷凍の研究も今しています。
電子レンジで10数秒するとご飯が70℃、ネタは熱くならない、半解け状態です。
その後3~4分置いておくとご飯は温度が下がり人肌となり、ネタは20℃位になりベストになる。
ご飯は37℃位、ネタは20℃位が一番美味しいと感じる。
日本で握って海外で美味しい寿司を食べると言うことも夢ではなくなるかもしれない。
冷凍技術を使ってフードロスを解決していきたい。
食べ物は口に入るまでエネルギーをどんどん使っている。
食料もエネルギー問題として捉えるべきだと思っています。
解凍
2018年8月18日土曜日
大野裕之(脚本家・チャップリン研究者) ・チャップリンと「独裁者」
大野裕之(脚本家・チャップリン研究者) ・チャップリンと「独裁者」
大野さんは43歳、喜劇王チャップリンが二役を演じて制作した映画「独裁者」は第二次世界大戦の開戦とともに撮影が始められ公開されました。
ドイツのヒトラーをモデルにしたトメニア国の独裁者ヒンケルとユダヤ人居住区に住む床屋さんがそっくりなことから起こる喜劇で、ヒンケルがでたらめなドイツ語でヒトラーそっくりに演説するシーンやヒンケルに間違えられた床屋さんが大群衆を前に自由と平和の素晴らしさを訴えるラストシーンが有名です。
映画史に残るこの作品、実は四面楚歌の困難な状況で制作されたと言います。
チャップリンはこの映画にどんな思いを込めたのか脚本家でチャップリン研究者の大野さんに伺いました。
大阪生まれ、京都大学から京都大学大学院に行き、その後京都を拠点に劇団の代表をし、舞台、映画の脚本家で、2014年『太秦ライムライト』の脚本・プロデューサーを担当。
2006年には日本チャップリン協会を設立、研究者の全国ネットワークを作り、チャップリン研究者の第一人者。
小学生の時にNHKTVで世界名画劇場をやっていて、チャップリンの「独裁者」を見ました。
そうしたら本当に感動しました。
民主主義を訴える崇高な演説をする訳ですが、それは本当に子供心に物凄い感動をしました。
1940年という時代、ヒトラーの全盛期にヒトラーを痛烈に批判しているということが、物凄い社会批評性を感じました。
一本の映画の中にいろんな要素が詰まっている凄い映画だと思いました。
京都大学で新しく総合人間学部ができて映画を研究する事が出来る新しい学問だと思って、チャップリンが好きだったので卒業論文でチャップリンにしました。
大学院に進んだ時にはやっぱりチャップリンは巨大な存在なので、チャップリンで修士論文を書こうと思いました。
当時の指導教官からチャップリンは修士論文では辞めておきなさいといわれました。
研究し尽くされているのでやるのだったら、余っぽど凄い資料を見つけないとだめだと言われました。
チャップリンは完ぺき主義者で大量のNGフィルムが発生して、それがイギリスの国立研究機関の倉庫にあり、頼み込んだら吃驚され(国宝級)、拒否されました。
日本に一旦帰ってきて、英国映画協会に手紙、電話、FAX、メール等で猛攻撃をして、半年後に向こうが根負けしてOKとなりました。
400巻あるが、すべてみることができました。
自分が納得するまでに人間チャップリンが如何に苦闘して作っていったかが判りました。
面白いギャグを2分位演技していてめちゃくちゃ面白いが、何回もやりなおしているがこちらにはどうしてなのか判らない。
テイク2、テイク3・・・・・テイク20までやり直して、完成テイクは10秒になっている。
エッセンスをどんどん煮詰めて行く、どんなに面白くてもストーリー、テーマに関係のないものはけずって行く、これは凄いと思いました。
例えばユダヤ人を馬鹿にしたギャグだったら、ユダヤ人の人は笑ってはくれない。
ほかの人種に対しても同じ。
チャップリンは純粋に笑いを突きつめて世界中の人が心から笑える笑いを追求して、その結果チャップリンはヒューマニズムを体得したと思う。
だからあのチャップリンのヒューマニズムは力強いんだと思います。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれる。
両親がミュージックホールの俳優だった。
生まれた所は貧困地区だった。
幼いころに両親が離婚、父はアルコールが原因で亡くなる。
母は貧困のあまり精神異常をきたしてしまう。
チャップリンは色んな施設に入れられながら、力強く這いあがってくる。
母は色んな仕事をして子供達を支え、たまに屋根裏部屋から行き交う人の事を作り話をして笑わせる。
人間が生きていくうえで衣食住は大切だが、人間が生きていくうえで衣食住と同じ位笑いというものが大切だと極貧の幼少時代に体得したんだと思います。
アメリカに渡り24歳(1914年)に映画デビューして瞬く間に喜劇王になる。
「独裁者」あらすじ
トメニア国、ユダヤ人居住区に住んでいた床屋さんは第一次世界大戦に参加、けがをして記憶を無くして病院に収容される。
20年後に病院を抜け出し理髪店を再開、穏やかな暮らしを取り戻す。
入院している間に政変がおこって、トメニア国ではヒンケルによる独裁政権が誕生していた。
ヒンケルはユダヤ人迫害を行う。
反抗した床屋さんは収容所にいれられるが、軍服を盗んで逃げだす。
ところがこの床屋さんは独裁者ヒンケルに間違われて、大群衆の前で演説をすることになってしまう。
登場人物にはほとんど名前を付けない。
全世界の人に共感が得られるように或る象徴的なキャラクターとして考えていたのではないか。
チャップリンは20世紀の色んな戦争に巻き込まれている。
人の命の大切さ、困難な中でも生き抜く大切さにずーっと興味が有った。
1931年に「街の灯」という大傑作を作るが、その後1年半に渡って世界旅行に出る。
政治家などとも意見交換をして世界情勢を学ぶ。
ドイツではファシズムの萌芽を目の当たりにする。
東洋ではバリ島の独特の文化を親しく体験し、その後憧れの日本に来る。
チャップリンの秘書が高野虎市という日本人だったので非常に日本に興味が有った。
5・15事件に巻き込まれて、チャップリンをも標的にして暗殺しようとしていた。
犬養総理と晩さん会で会う予定だったが、その朝に行かないで相撲を見ると言うことでキャンセルして命拾いをした。
ファシズムの勃興を肌で感じて、より社会問題にコミットする作品を作る。
1936年に機械文明を批判した「モダンタイムス」を作り、次に「独裁者」を作ることを計画する。
アメリカでは不況に苦しみ、ドイツでは第一次世界大戦でボロボロの国になっていたものをヒトラーが強力な国へと復興させて、あれぐらいリーダーシップのある人がアメリカの大統領ならば、アメリカでも不況から復活できるのになあということでヒトラーは人気もあった。
西側にとっては共産主義の防波堤にもなっていると政治的には思われていた。
財界もナチスドイツに色々投資をしてきて、ヒトラーを支持していたことも事実だった。
チャップリンがヒトラーを揶揄する映画を発表した時に、各方面から非難ごうごうだった。
一般大衆からも反発がでた。
アメリカの政財界からマスコミを通じて、チャップリンに対して色んなキャンペーンがはられて、ごく普通の主婦とかからの強迫の手紙が沢山あって吃驚しました。
イギリスでは外務省が役人を派遣して、チャップリンの独裁者の制作をなんとか辞めさせるように動く。
イギリスでも公開されないという事はイギリス植民地国、ドイツ同盟国、南米諸国も駄目で、アメリカでも見通しがたたない。
チャップリンは作っても公開の見通しが立たない中で、自分の全財産をかけて作っていた。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれているが、僅か4日後にヒトラーはオーストリアで生まれている。
「チャップリンとヒトラー」という本を書こうとしたら、次々に面白いことが判ってきた。
ちょび髭 1914年8月1日の開戦を祝う広場での写真が残っている。
チャップリンとヒトラーはほとんど同時期にちょび髭を生やしていた。
髭が接点になってお互いに意識し始めると思われる。
1926年にドイツによるチャップリン攻撃が突如始まる。
きっかけがプレミア上映のパンフレットにドイツの偉い文化人が3人推薦文を寄せたが、3人全員ユダヤ人だった。
ユダヤ人が褒めた映画「黄金狂時代」はそれだけでナチスにとって目障りになる。
チャップリンお前もユダヤ人だろうと言うことになる。(これは恐ろしいことである)
チャップリンは歴史上初めてのメディアにおけるスターです。
世界的に影響力のある人間がヒトラーと同じ髭をしている、ヒトラーが滑稽なイメージになってしまうことをナチスは恐れた。
ヒトラーはメディアを使った政治家、映像、メディアを駆使してあの権力に昇りつめた人。
チャップリンとヒトラーは1920から1930年代メディア上で戦っていたと言うふうに言えることができる、これは重要なことだと思っている。
恐怖と笑いの戦いが始まっていたと言える。
四面楚歌の中チャップリンは制作の準備を始める。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまる。
その8日後に独裁者の撮影が始まる。
フランスにも攻め入ってフランスを占領する。
ヒトラーは元々画家になりたかった人で自分の人生の夢でもあった。
1940年6月23日にパリに入場して、そこがヒトラーのピークで世界が恐怖におびえて、その翌日にラストの民主主義を訴える演説をハリウッドで撮影する訳です。
戦争が激しくなるとイギリス、アメリカなど世論が今作るべきだと言うことになる。
1940年10月に映画が公開されると記録的な大ヒットになる。
ヒトラーの武器は迫力があり神々しい演説であったのに、映画の中ではヒトラーの演説をパロディーにしたことで笑いになってしまった。
映画を公開してしばらくするとヒトラーの演説は激減してしまった。(映画が一つの影響)
映画の最後の6分間に静かに語り掛けるように演説する。
周りからは長い演説シーンに対し大反対されたが、チャップリンは押し通した。
その演説の一部
「人は自由に美しく生きていけるはずだ、なのに私たちは道に迷ってしまった。
貪欲が人の魂を毒し、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の歩調で私達を悲しみと殺りくへと追い立てた。
スピードは速くなったが人は孤独になった。
富を生み出すはずの機械なのに私たちは貧困の中に取り残された。
知識は増えたが人は懐疑的になり、巧妙な知恵は人を非情で冷酷にした。」
「兵士たちよけだものに身を委ねてはいけない。
あなたたちを軽蔑し奴隷にし生き方を統制し、何をして何を考えてどう感じるか指図する奴らに」
この演説が本当に感動的なのは平和と民主主義を訴えている。
この演説には当時アメリカでも批判が有ったが、これを映画の中で必死に訴えている。
戦争の真っただ中で、言いたいことがいえない時代にカメラに向かって自分の言いたい事、信念を貫き通す、これがいかに大事なことかを教えてくれます。
「映像には毒が入っている」その言葉はメディア、映像を考えるうえで凄く重要な言葉だと思っている。
インタネット、映像等 嘘が混じっているので、人間の想像力で本当かどうか見極めなければといけないと教えてくれた感じました。
フィクションの「独裁者」がその想像力で或る種の本質を暴いていったというのは多くの事を教えてくれると思います。
大野さんは43歳、喜劇王チャップリンが二役を演じて制作した映画「独裁者」は第二次世界大戦の開戦とともに撮影が始められ公開されました。
ドイツのヒトラーをモデルにしたトメニア国の独裁者ヒンケルとユダヤ人居住区に住む床屋さんがそっくりなことから起こる喜劇で、ヒンケルがでたらめなドイツ語でヒトラーそっくりに演説するシーンやヒンケルに間違えられた床屋さんが大群衆を前に自由と平和の素晴らしさを訴えるラストシーンが有名です。
映画史に残るこの作品、実は四面楚歌の困難な状況で制作されたと言います。
チャップリンはこの映画にどんな思いを込めたのか脚本家でチャップリン研究者の大野さんに伺いました。
大阪生まれ、京都大学から京都大学大学院に行き、その後京都を拠点に劇団の代表をし、舞台、映画の脚本家で、2014年『太秦ライムライト』の脚本・プロデューサーを担当。
2006年には日本チャップリン協会を設立、研究者の全国ネットワークを作り、チャップリン研究者の第一人者。
小学生の時にNHKTVで世界名画劇場をやっていて、チャップリンの「独裁者」を見ました。
そうしたら本当に感動しました。
民主主義を訴える崇高な演説をする訳ですが、それは本当に子供心に物凄い感動をしました。
1940年という時代、ヒトラーの全盛期にヒトラーを痛烈に批判しているということが、物凄い社会批評性を感じました。
一本の映画の中にいろんな要素が詰まっている凄い映画だと思いました。
京都大学で新しく総合人間学部ができて映画を研究する事が出来る新しい学問だと思って、チャップリンが好きだったので卒業論文でチャップリンにしました。
大学院に進んだ時にはやっぱりチャップリンは巨大な存在なので、チャップリンで修士論文を書こうと思いました。
当時の指導教官からチャップリンは修士論文では辞めておきなさいといわれました。
研究し尽くされているのでやるのだったら、余っぽど凄い資料を見つけないとだめだと言われました。
チャップリンは完ぺき主義者で大量のNGフィルムが発生して、それがイギリスの国立研究機関の倉庫にあり、頼み込んだら吃驚され(国宝級)、拒否されました。
日本に一旦帰ってきて、英国映画協会に手紙、電話、FAX、メール等で猛攻撃をして、半年後に向こうが根負けしてOKとなりました。
400巻あるが、すべてみることができました。
自分が納得するまでに人間チャップリンが如何に苦闘して作っていったかが判りました。
面白いギャグを2分位演技していてめちゃくちゃ面白いが、何回もやりなおしているがこちらにはどうしてなのか判らない。
テイク2、テイク3・・・・・テイク20までやり直して、完成テイクは10秒になっている。
エッセンスをどんどん煮詰めて行く、どんなに面白くてもストーリー、テーマに関係のないものはけずって行く、これは凄いと思いました。
例えばユダヤ人を馬鹿にしたギャグだったら、ユダヤ人の人は笑ってはくれない。
ほかの人種に対しても同じ。
チャップリンは純粋に笑いを突きつめて世界中の人が心から笑える笑いを追求して、その結果チャップリンはヒューマニズムを体得したと思う。
だからあのチャップリンのヒューマニズムは力強いんだと思います。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれる。
両親がミュージックホールの俳優だった。
生まれた所は貧困地区だった。
幼いころに両親が離婚、父はアルコールが原因で亡くなる。
母は貧困のあまり精神異常をきたしてしまう。
チャップリンは色んな施設に入れられながら、力強く這いあがってくる。
母は色んな仕事をして子供達を支え、たまに屋根裏部屋から行き交う人の事を作り話をして笑わせる。
人間が生きていくうえで衣食住は大切だが、人間が生きていくうえで衣食住と同じ位笑いというものが大切だと極貧の幼少時代に体得したんだと思います。
アメリカに渡り24歳(1914年)に映画デビューして瞬く間に喜劇王になる。
「独裁者」あらすじ
トメニア国、ユダヤ人居住区に住んでいた床屋さんは第一次世界大戦に参加、けがをして記憶を無くして病院に収容される。
20年後に病院を抜け出し理髪店を再開、穏やかな暮らしを取り戻す。
入院している間に政変がおこって、トメニア国ではヒンケルによる独裁政権が誕生していた。
ヒンケルはユダヤ人迫害を行う。
反抗した床屋さんは収容所にいれられるが、軍服を盗んで逃げだす。
ところがこの床屋さんは独裁者ヒンケルに間違われて、大群衆の前で演説をすることになってしまう。
登場人物にはほとんど名前を付けない。
全世界の人に共感が得られるように或る象徴的なキャラクターとして考えていたのではないか。
チャップリンは20世紀の色んな戦争に巻き込まれている。
人の命の大切さ、困難な中でも生き抜く大切さにずーっと興味が有った。
1931年に「街の灯」という大傑作を作るが、その後1年半に渡って世界旅行に出る。
政治家などとも意見交換をして世界情勢を学ぶ。
ドイツではファシズムの萌芽を目の当たりにする。
東洋ではバリ島の独特の文化を親しく体験し、その後憧れの日本に来る。
チャップリンの秘書が高野虎市という日本人だったので非常に日本に興味が有った。
5・15事件に巻き込まれて、チャップリンをも標的にして暗殺しようとしていた。
犬養総理と晩さん会で会う予定だったが、その朝に行かないで相撲を見ると言うことでキャンセルして命拾いをした。
ファシズムの勃興を肌で感じて、より社会問題にコミットする作品を作る。
1936年に機械文明を批判した「モダンタイムス」を作り、次に「独裁者」を作ることを計画する。
アメリカでは不況に苦しみ、ドイツでは第一次世界大戦でボロボロの国になっていたものをヒトラーが強力な国へと復興させて、あれぐらいリーダーシップのある人がアメリカの大統領ならば、アメリカでも不況から復活できるのになあということでヒトラーは人気もあった。
西側にとっては共産主義の防波堤にもなっていると政治的には思われていた。
財界もナチスドイツに色々投資をしてきて、ヒトラーを支持していたことも事実だった。
チャップリンがヒトラーを揶揄する映画を発表した時に、各方面から非難ごうごうだった。
一般大衆からも反発がでた。
アメリカの政財界からマスコミを通じて、チャップリンに対して色んなキャンペーンがはられて、ごく普通の主婦とかからの強迫の手紙が沢山あって吃驚しました。
イギリスでは外務省が役人を派遣して、チャップリンの独裁者の制作をなんとか辞めさせるように動く。
イギリスでも公開されないという事はイギリス植民地国、ドイツ同盟国、南米諸国も駄目で、アメリカでも見通しがたたない。
チャップリンは作っても公開の見通しが立たない中で、自分の全財産をかけて作っていた。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれているが、僅か4日後にヒトラーはオーストリアで生まれている。
「チャップリンとヒトラー」という本を書こうとしたら、次々に面白いことが判ってきた。
ちょび髭 1914年8月1日の開戦を祝う広場での写真が残っている。
チャップリンとヒトラーはほとんど同時期にちょび髭を生やしていた。
髭が接点になってお互いに意識し始めると思われる。
1926年にドイツによるチャップリン攻撃が突如始まる。
きっかけがプレミア上映のパンフレットにドイツの偉い文化人が3人推薦文を寄せたが、3人全員ユダヤ人だった。
ユダヤ人が褒めた映画「黄金狂時代」はそれだけでナチスにとって目障りになる。
チャップリンお前もユダヤ人だろうと言うことになる。(これは恐ろしいことである)
チャップリンは歴史上初めてのメディアにおけるスターです。
世界的に影響力のある人間がヒトラーと同じ髭をしている、ヒトラーが滑稽なイメージになってしまうことをナチスは恐れた。
ヒトラーはメディアを使った政治家、映像、メディアを駆使してあの権力に昇りつめた人。
チャップリンとヒトラーは1920から1930年代メディア上で戦っていたと言うふうに言えることができる、これは重要なことだと思っている。
恐怖と笑いの戦いが始まっていたと言える。
四面楚歌の中チャップリンは制作の準備を始める。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまる。
その8日後に独裁者の撮影が始まる。
フランスにも攻め入ってフランスを占領する。
ヒトラーは元々画家になりたかった人で自分の人生の夢でもあった。
1940年6月23日にパリに入場して、そこがヒトラーのピークで世界が恐怖におびえて、その翌日にラストの民主主義を訴える演説をハリウッドで撮影する訳です。
戦争が激しくなるとイギリス、アメリカなど世論が今作るべきだと言うことになる。
1940年10月に映画が公開されると記録的な大ヒットになる。
ヒトラーの武器は迫力があり神々しい演説であったのに、映画の中ではヒトラーの演説をパロディーにしたことで笑いになってしまった。
映画を公開してしばらくするとヒトラーの演説は激減してしまった。(映画が一つの影響)
映画の最後の6分間に静かに語り掛けるように演説する。
周りからは長い演説シーンに対し大反対されたが、チャップリンは押し通した。
その演説の一部
「人は自由に美しく生きていけるはずだ、なのに私たちは道に迷ってしまった。
貪欲が人の魂を毒し、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の歩調で私達を悲しみと殺りくへと追い立てた。
スピードは速くなったが人は孤独になった。
富を生み出すはずの機械なのに私たちは貧困の中に取り残された。
知識は増えたが人は懐疑的になり、巧妙な知恵は人を非情で冷酷にした。」
「兵士たちよけだものに身を委ねてはいけない。
あなたたちを軽蔑し奴隷にし生き方を統制し、何をして何を考えてどう感じるか指図する奴らに」
この演説が本当に感動的なのは平和と民主主義を訴えている。
この演説には当時アメリカでも批判が有ったが、これを映画の中で必死に訴えている。
戦争の真っただ中で、言いたいことがいえない時代にカメラに向かって自分の言いたい事、信念を貫き通す、これがいかに大事なことかを教えてくれます。
「映像には毒が入っている」その言葉はメディア、映像を考えるうえで凄く重要な言葉だと思っている。
インタネット、映像等 嘘が混じっているので、人間の想像力で本当かどうか見極めなければといけないと教えてくれた感じました。
フィクションの「独裁者」がその想像力で或る種の本質を暴いていったというのは多くの事を教えてくれると思います。
2018年8月17日金曜日
鎌田七男(医師) ・"被爆の継承" その意味を問う
鎌田七男(医師) ・"被爆の継承" その意味を問う
81歳、50年以上に渡り広島の原爆で被爆した人たちの染色体を調べ、放射線がもたらした影響を第一線で研究してきました。
被爆者を長年診察し、その人生を見守り続ける中で、原爆による放射線が身体だけでなく、精神的にも被爆者を苦しめてきた実情を目の当たりにしてきました。
鎌田さんは原爆の恐ろしさを自らの体験を通して語ることのできる被爆者が少なくなる中、原爆の放射線の影響を正しく理解し、その非人道性を訴え続けることが必要だと話しています。
原爆による放射線の恐ろしさとは何なのか、どのようにすれば被爆の実態を伝えられるのか、被爆者を見つめ続けてきた鎌田さんに伺いました。
原子爆弾は普通の爆弾と違う爆弾で放射線を含む爆弾であることを強調したいです。
遺伝子が傷つけられて、5年たって身体が不自由に、弱くなって十分に働くことができなくなる。
いつ癌になるかしれないと言う不安がある。
生涯に渡って虐待が続いている、そういう人生になっている。
染色体を調べるとどのぐらいの傷が付いているのかが判る。
被爆した線量、どの程度被爆したのかが判ります。
身体には細胞が60兆個あるが、細胞の中に染色体があるが、遺伝子というものは染色体という器の中に入っていて、放射線が当たることによって、切られます。
近くにある切られた染色体同士が元に戻ると言うのが98%ありますが、2%が他の染色体とひっついてしまう。
遺伝子の傷も中に入っていて後々色んな災いを作って行く。
100個の細胞を調べて60固の半分以上の細胞に染色体異常が有ったと言う人がいます。
その方々から色んながんが出来て来る。
病気になる素地を作っている。
白血病が被爆から7年、甲状腺が10年、肺がんが15年、胃がん、結腸癌とかが20年、30年でだんだん増えて来る。
皮膚がんも4年、50年たっても増えてきている。
そういった病気になる予測は不可能です。
被爆者はいつ何の病気になるのか判らないという不安を持ちながら生活をしている訳です。
被爆者の心を痛めている。
原爆が落ちて7年までは日本人でさえ広島、長崎に原爆が落ちたことを知らなかったんです。
プレスコードということで一切原爆に関する書物、材料を公表したらいけないということがあって世に知らせなかった。
昭和29年、第五福竜丸の被爆をきっかけにして、広島、長崎の研究が始まりました。
昭和30年私は鹿児島から広島に来ましたが、被爆という概念、知識が何もなかったです。
当時、帽子を深々とかぶったり、夏でも長袖を着ている人がいて、ケロイドを隠しているんだなということはありましたが。自分から被爆者ということは言っていませんでした、隠したがるんです。
被爆者だと企業に雇ってもらえないというようなことがありました。
大学の友人も被爆者で、みんなと一緒には風呂には入りませんでした。
亡くなる前に実は被爆者であるという書類を書いてくれないかと私に言ってきましたが。
学生時代はかけ離れた問題でしたが、昭和37年に広島大学が被爆内科という外来を作って、被爆の病棟を作って、その頃から被爆者を診察するんだと切り替わりました。
その後55年以上に渡り関わることになりました。
胃液の検査から始まり外来の診察、入院患者の診察、夜には研究と言う様にめまぐるしい毎日でした。
教授は2つのテーマを準備していて染色体を鎌田が研究しろ言うことになりました。
遠くで被爆した人は染色体異常が少なく、近くで被爆した人は沢山の異常がありそこに驚きました。(それまでは判らなかった。)
半径500m以内で被爆した方で奇跡的に生き残った78人の方を調査するプロジェクトが昭和47年に広島大学の研究所で始まりました。
その人達の健康管理をするように言われました。
どの程度染色体異常があり、どの程度の影響を受けているのか、どういう病気が潜んでいるのか、どういう病気が表になってきているのか調べて行ったわけです。
昭和50年になって初めて被爆者に骨髄性染色体異常があるという事を話したという経緯があります。
データがでたが社会に発表するまでに5年のギャップがありました。
言っていいかためらっていました、子供への影響があると受け取り易かった。
研究すればするほど被爆者にマイナスになるようなデータしか出てこない。
被爆者は「ピカドン」という、ピカッと光ってドンという音がするが、500m以内で被爆された方はどなたも「ピカドン」を感じなかったとおっしゃいます。
異句同音に目の前が真っ暗になり気をうしなって、目が覚めた時には目の前が真っ暗で薄明かりが段々見えてきたという証言をされています。
外に出ると火が回ってきて竜巻みたいに炎が舞うわけです。
防火用水には傷ついた人がその中に入って何人もいる訳です。
助かったその人たちは奇跡としか言いようがありません。
その時の事を理解してくれる人が居ないので言ってもしょうがないと思われる方が多いんです。
首のない人、内臓が出ている人、目の玉が突き出て顔がただれている人、そういったことを言ってもなかなか信用してもらえない状況ですから喋りたくない。
喋りたくない期間がある。
或る方は65,6年目にして初めて語ってくださいました。
娘さんを見て合点がいきました、生きて行くためにはそういう外国の人と付き合いをしなければいけない状況が有ったということです。
家も親も兄弟も失って原爆孤児になるとかいっぱいありました。
一人一人によって色んな出来事がある訳です。
原爆孤児として住み込みに入り24歳で結婚して、流産をして離婚をして再婚した後に又流産して、家庭らしきものを持った後に病気が出て最初甲状腺、次が大腸がんで、髄膜腫などで、2年前に亡くなっていったという方がいました。
後半生は貧困と病気、病気の連続だった。
50%の細胞が染色体異常があり病気になり易い状況でした。
その方の人生は生涯に渡っての虐待が続いている、身体的、精神的、社会的に虐待が続いている人生になっていると考えていいと思います。
それを生じさせる放射線、原子爆弾は決してあってはならないと思います。
一旦放射線によって傷ついた染色体、遺伝子を治すすべは持ち合わせていません。
私の役目は明日への影響を明らかにして行くという事で、明らかにされたら嫌なことを私が探求して言っているということになるので、それはよかったねという受け止められ方はないわけです。
そういう意味では私自身は悲しい研究の連続であると思います。
つまびらかにしたら被曝者にとってネガティブな事ばかりですから。
逃げ出す訳にはいかない、やるしかない。
放射線の影響を一般の人に説明して行くこと、役立つこともあるが、放射線が暴走すると身体に悪影響をしてしまう。
その悪影響の最たるものが原爆です。
伝える人間が放射線の事をその影響を理解していないとうまく伝わらないので、少しでも役に立てれば嬉しいと思う。
81歳、50年以上に渡り広島の原爆で被爆した人たちの染色体を調べ、放射線がもたらした影響を第一線で研究してきました。
被爆者を長年診察し、その人生を見守り続ける中で、原爆による放射線が身体だけでなく、精神的にも被爆者を苦しめてきた実情を目の当たりにしてきました。
鎌田さんは原爆の恐ろしさを自らの体験を通して語ることのできる被爆者が少なくなる中、原爆の放射線の影響を正しく理解し、その非人道性を訴え続けることが必要だと話しています。
原爆による放射線の恐ろしさとは何なのか、どのようにすれば被爆の実態を伝えられるのか、被爆者を見つめ続けてきた鎌田さんに伺いました。
原子爆弾は普通の爆弾と違う爆弾で放射線を含む爆弾であることを強調したいです。
遺伝子が傷つけられて、5年たって身体が不自由に、弱くなって十分に働くことができなくなる。
いつ癌になるかしれないと言う不安がある。
生涯に渡って虐待が続いている、そういう人生になっている。
染色体を調べるとどのぐらいの傷が付いているのかが判る。
被爆した線量、どの程度被爆したのかが判ります。
身体には細胞が60兆個あるが、細胞の中に染色体があるが、遺伝子というものは染色体という器の中に入っていて、放射線が当たることによって、切られます。
近くにある切られた染色体同士が元に戻ると言うのが98%ありますが、2%が他の染色体とひっついてしまう。
遺伝子の傷も中に入っていて後々色んな災いを作って行く。
100個の細胞を調べて60固の半分以上の細胞に染色体異常が有ったと言う人がいます。
その方々から色んながんが出来て来る。
病気になる素地を作っている。
白血病が被爆から7年、甲状腺が10年、肺がんが15年、胃がん、結腸癌とかが20年、30年でだんだん増えて来る。
皮膚がんも4年、50年たっても増えてきている。
そういった病気になる予測は不可能です。
被爆者はいつ何の病気になるのか判らないという不安を持ちながら生活をしている訳です。
被爆者の心を痛めている。
原爆が落ちて7年までは日本人でさえ広島、長崎に原爆が落ちたことを知らなかったんです。
プレスコードということで一切原爆に関する書物、材料を公表したらいけないということがあって世に知らせなかった。
昭和29年、第五福竜丸の被爆をきっかけにして、広島、長崎の研究が始まりました。
昭和30年私は鹿児島から広島に来ましたが、被爆という概念、知識が何もなかったです。
当時、帽子を深々とかぶったり、夏でも長袖を着ている人がいて、ケロイドを隠しているんだなということはありましたが。自分から被爆者ということは言っていませんでした、隠したがるんです。
被爆者だと企業に雇ってもらえないというようなことがありました。
大学の友人も被爆者で、みんなと一緒には風呂には入りませんでした。
亡くなる前に実は被爆者であるという書類を書いてくれないかと私に言ってきましたが。
学生時代はかけ離れた問題でしたが、昭和37年に広島大学が被爆内科という外来を作って、被爆の病棟を作って、その頃から被爆者を診察するんだと切り替わりました。
その後55年以上に渡り関わることになりました。
胃液の検査から始まり外来の診察、入院患者の診察、夜には研究と言う様にめまぐるしい毎日でした。
教授は2つのテーマを準備していて染色体を鎌田が研究しろ言うことになりました。
遠くで被爆した人は染色体異常が少なく、近くで被爆した人は沢山の異常がありそこに驚きました。(それまでは判らなかった。)
半径500m以内で被爆した方で奇跡的に生き残った78人の方を調査するプロジェクトが昭和47年に広島大学の研究所で始まりました。
その人達の健康管理をするように言われました。
どの程度染色体異常があり、どの程度の影響を受けているのか、どういう病気が潜んでいるのか、どういう病気が表になってきているのか調べて行ったわけです。
昭和50年になって初めて被爆者に骨髄性染色体異常があるという事を話したという経緯があります。
データがでたが社会に発表するまでに5年のギャップがありました。
言っていいかためらっていました、子供への影響があると受け取り易かった。
研究すればするほど被爆者にマイナスになるようなデータしか出てこない。
被爆者は「ピカドン」という、ピカッと光ってドンという音がするが、500m以内で被爆された方はどなたも「ピカドン」を感じなかったとおっしゃいます。
異句同音に目の前が真っ暗になり気をうしなって、目が覚めた時には目の前が真っ暗で薄明かりが段々見えてきたという証言をされています。
外に出ると火が回ってきて竜巻みたいに炎が舞うわけです。
防火用水には傷ついた人がその中に入って何人もいる訳です。
助かったその人たちは奇跡としか言いようがありません。
その時の事を理解してくれる人が居ないので言ってもしょうがないと思われる方が多いんです。
首のない人、内臓が出ている人、目の玉が突き出て顔がただれている人、そういったことを言ってもなかなか信用してもらえない状況ですから喋りたくない。
喋りたくない期間がある。
或る方は65,6年目にして初めて語ってくださいました。
娘さんを見て合点がいきました、生きて行くためにはそういう外国の人と付き合いをしなければいけない状況が有ったということです。
家も親も兄弟も失って原爆孤児になるとかいっぱいありました。
一人一人によって色んな出来事がある訳です。
原爆孤児として住み込みに入り24歳で結婚して、流産をして離婚をして再婚した後に又流産して、家庭らしきものを持った後に病気が出て最初甲状腺、次が大腸がんで、髄膜腫などで、2年前に亡くなっていったという方がいました。
後半生は貧困と病気、病気の連続だった。
50%の細胞が染色体異常があり病気になり易い状況でした。
その方の人生は生涯に渡っての虐待が続いている、身体的、精神的、社会的に虐待が続いている人生になっていると考えていいと思います。
それを生じさせる放射線、原子爆弾は決してあってはならないと思います。
一旦放射線によって傷ついた染色体、遺伝子を治すすべは持ち合わせていません。
私の役目は明日への影響を明らかにして行くという事で、明らかにされたら嫌なことを私が探求して言っているということになるので、それはよかったねという受け止められ方はないわけです。
そういう意味では私自身は悲しい研究の連続であると思います。
つまびらかにしたら被曝者にとってネガティブな事ばかりですから。
逃げ出す訳にはいかない、やるしかない。
放射線の影響を一般の人に説明して行くこと、役立つこともあるが、放射線が暴走すると身体に悪影響をしてしまう。
その悪影響の最たるものが原爆です。
伝える人間が放射線の事をその影響を理解していないとうまく伝わらないので、少しでも役に立てれば嬉しいと思う。
2018年8月16日木曜日
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた
「銀河鉄道999」などのSF漫画で知られる松本さん、もう一つのライフワークとして戦場マンガと呼ばれるシリーズを手がけています。
戦争にかりだされた若者達の姿を描くもので、昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
この戦場漫画を始め松本さんの全ての作品には自身の戦争体験と陸軍のパイロットだった父親の言葉が大きく影響していると言います。
今年で80歳になります。
15歳から新聞連載を始めて、漫画家になってから60年になります。
昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
私の父親が陸軍航空隊のパイロットで飛行機の羽が複数あった最初の時代の飛行士でした。
戦艦武蔵がやられたころ、父はフィリピンにいて部下の2/3をうしない、バンコックに移って終戦の当日正午は空中戦をやっていて、部下の3/4以上失って着陸したら様子が変なので聞いたら負けたということで、2年半抑留されて帰ってきました。
私は昭和18年まで兵庫県明石にいました。
父が昭和19年に戦場に行ったので愛媛県大洲市に移りました。
7歳の時に終戦です。
父親が帰ってきて小倉に行きました。
父親が公職追放されて路上の八百屋など色々しました。
新しい戦闘機が飛び始めるし、電車道はトラックは走ってはいけないと言いながら、米軍の戦車が走って来る。
帰還した兵隊たちから一杯戦地の出来事などを聞いて漫画にしてきました。
戦場マンガの一つ「音速雷撃隊」
旧日本軍の特攻兵器の桜花、飛行機に取りつけて切り離してロケットエンジンで体当たりする。
私はパイロットになりたかったが、中学で近眼になりパイロットを諦めた。
原爆を落としたという情報が伝わってアメリカ軍の兵士が「敵も味方もみんな大馬鹿だ」と言って最後終わるというもの。
私は機械マニアでした。
戦争の悲惨さも経験しました。
戦争漫画を書く時にメカの問題と心の問題とを通じ合わせて書く癖が付いてしまいました。
8月15日家に帰ったら雨戸が閉め切ってあって、こじ開けては入ったら婆さんが日本刀、槍、薙刀を持ち出して磨いているんです。(昔武家の家だった)
どうするのか聞いたら「敵が来たら刺し違えて死ぬんだ、お前も侍の子だから覚悟せい」
といって、家族で刺し違えて死ぬと言うことだった。
戦争が終わったと聞いた時はピンとこなかった。
父親が帰ってきて、小倉に来ました。
線路わきの処のボロ長屋(5軒長屋)に住んでいました。
いつも列車が通っていて「銀河鉄道999」で列車を正確に書けたのはそのせいなんです。
当時食い物が無くて海に行って魚を取ったりして食いつないでいました。
戦場マンガの一つ「帰還影の老兵」
戦地から帰還した兵士の自殺がある。
戦地から帰還した兵士は食べるものも無く家族も全員居なくなってしまっている。
実際に3人見ました、それは無残です、子供心に衝撃でした。
鉄道には柵も無く身体が真二つになっていました。
校舎から道を挟んでアメリカ軍専用の連れ込み宿がありました。
そういった日本人女性をみて最初は厭だったが、途中から彼女らも全てを失って生きる為、戦争の結果だと言うことに気が付いて、気の毒だなあとみんな同情しました。
そうしないと家族を養えないということが判ってきて、戦争が全てだと思いました。
「いつかまたやっつけんといかん」といったら、親爺に怒られて「そんなことを言う奴がいるから、こんな戦争になるんじゃ。 何人死んだと思う、二度と戦争はやってはいかん」と怒鳴られました。
十分惨めさを味わいました。
アメリカのコミックを沢山捨ててあったのでミッキーマウスなどを見て英語の勉強をして読めたり喋れるようになり、漫画の道にも繋がっていきます。
アメリカ兵が摺れ違うとものをばらまいてくれるが、私は受けないと言って踏みつけました。
学校の門前で付きつけるが、いらないと言うと怒鳴って来る、子供なりのプライドがある。
私は外国に行く時に小さい子にものを上げる時は膝を付いて手を握って渡すと受け取ってくれる。
絶対に馬鹿にしてはいけない。
負けると言うことがどんなに無残で悔しいものかという事を厭っと言うほど味わった訳です。
世界中を相手にするので漫画の内容の表現には十分注意しています。
相手にも相手の家族がある、それが前提でないと書けない。
関門海峡の海底には手りゅう弾とか戦争の機器類が一杯捨ててあってそれを運んできては遊んだりしていました。
機銃掃射に会った時もありますが、ダダダダダと音が聞こえてきて1回の音で6発出てきていました。
父は新型機のテストパイロットをしたり、南方戦線でも部隊長をしていて、相手を撃ち落としたりもしました。
相手にも家族があり、個人には何の恨みも無い、相手の顔も見え一瞬ひるむが、鬼になって戦わなくてはいけない。
部下が次々に撃ち落とされてゆく場面も父は見て来ました
そういった父親の話を聞いて戦争とはつらい残酷な出来事だと感じてきました。
父が公職追放された後に、又パイロットにならないかとのは話が来たが、アメリカの飛行機に乗れるかと言って断ってしまいました。
父は沢山の部下を失ってきてどの面さげて飛ぶのか、絶対飛ばないと言って生涯飛びませんでした。
「人は生きる為に生まれてくるので、死ぬために生まれて来るものではない」と父は言って、「それを頭に叩き込んでしっかり頑張らねばならんのだ」と言っていました。
書く時にはついそういう癖が付いているんです。
敵にも生きる命がある、殺し合わなければいけないという事は悲劇である。
人は限りある命であるから生涯の中で成し遂げようとして頑張る。
世界中の戦死した若者たちの中には生きていれば人類の文明に本当は物凄い貢献をした人たちが一杯いたはずだが、大勢死んでいる。
人は争っている場合ではない。
戦場漫画も沢山翻訳されているので、外国人も見てくれているので判ってくれる。
漫画には国境が無くなって、どうしても歴史を学んでおかないと、どうかして侮辱したり傷つけることになる、決して傷つけてはいけない。
「銀河鉄道999」などのSF漫画で知られる松本さん、もう一つのライフワークとして戦場マンガと呼ばれるシリーズを手がけています。
戦争にかりだされた若者達の姿を描くもので、昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
この戦場漫画を始め松本さんの全ての作品には自身の戦争体験と陸軍のパイロットだった父親の言葉が大きく影響していると言います。
今年で80歳になります。
15歳から新聞連載を始めて、漫画家になってから60年になります。
昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
私の父親が陸軍航空隊のパイロットで飛行機の羽が複数あった最初の時代の飛行士でした。
戦艦武蔵がやられたころ、父はフィリピンにいて部下の2/3をうしない、バンコックに移って終戦の当日正午は空中戦をやっていて、部下の3/4以上失って着陸したら様子が変なので聞いたら負けたということで、2年半抑留されて帰ってきました。
私は昭和18年まで兵庫県明石にいました。
父が昭和19年に戦場に行ったので愛媛県大洲市に移りました。
7歳の時に終戦です。
父親が帰ってきて小倉に行きました。
父親が公職追放されて路上の八百屋など色々しました。
新しい戦闘機が飛び始めるし、電車道はトラックは走ってはいけないと言いながら、米軍の戦車が走って来る。
帰還した兵隊たちから一杯戦地の出来事などを聞いて漫画にしてきました。
戦場マンガの一つ「音速雷撃隊」
旧日本軍の特攻兵器の桜花、飛行機に取りつけて切り離してロケットエンジンで体当たりする。
私はパイロットになりたかったが、中学で近眼になりパイロットを諦めた。
原爆を落としたという情報が伝わってアメリカ軍の兵士が「敵も味方もみんな大馬鹿だ」と言って最後終わるというもの。
私は機械マニアでした。
戦争の悲惨さも経験しました。
戦争漫画を書く時にメカの問題と心の問題とを通じ合わせて書く癖が付いてしまいました。
8月15日家に帰ったら雨戸が閉め切ってあって、こじ開けては入ったら婆さんが日本刀、槍、薙刀を持ち出して磨いているんです。(昔武家の家だった)
どうするのか聞いたら「敵が来たら刺し違えて死ぬんだ、お前も侍の子だから覚悟せい」
といって、家族で刺し違えて死ぬと言うことだった。
戦争が終わったと聞いた時はピンとこなかった。
父親が帰ってきて、小倉に来ました。
線路わきの処のボロ長屋(5軒長屋)に住んでいました。
いつも列車が通っていて「銀河鉄道999」で列車を正確に書けたのはそのせいなんです。
当時食い物が無くて海に行って魚を取ったりして食いつないでいました。
戦場マンガの一つ「帰還影の老兵」
戦地から帰還した兵士の自殺がある。
戦地から帰還した兵士は食べるものも無く家族も全員居なくなってしまっている。
実際に3人見ました、それは無残です、子供心に衝撃でした。
鉄道には柵も無く身体が真二つになっていました。
校舎から道を挟んでアメリカ軍専用の連れ込み宿がありました。
そういった日本人女性をみて最初は厭だったが、途中から彼女らも全てを失って生きる為、戦争の結果だと言うことに気が付いて、気の毒だなあとみんな同情しました。
そうしないと家族を養えないということが判ってきて、戦争が全てだと思いました。
「いつかまたやっつけんといかん」といったら、親爺に怒られて「そんなことを言う奴がいるから、こんな戦争になるんじゃ。 何人死んだと思う、二度と戦争はやってはいかん」と怒鳴られました。
十分惨めさを味わいました。
アメリカのコミックを沢山捨ててあったのでミッキーマウスなどを見て英語の勉強をして読めたり喋れるようになり、漫画の道にも繋がっていきます。
アメリカ兵が摺れ違うとものをばらまいてくれるが、私は受けないと言って踏みつけました。
学校の門前で付きつけるが、いらないと言うと怒鳴って来る、子供なりのプライドがある。
私は外国に行く時に小さい子にものを上げる時は膝を付いて手を握って渡すと受け取ってくれる。
絶対に馬鹿にしてはいけない。
負けると言うことがどんなに無残で悔しいものかという事を厭っと言うほど味わった訳です。
世界中を相手にするので漫画の内容の表現には十分注意しています。
相手にも相手の家族がある、それが前提でないと書けない。
関門海峡の海底には手りゅう弾とか戦争の機器類が一杯捨ててあってそれを運んできては遊んだりしていました。
機銃掃射に会った時もありますが、ダダダダダと音が聞こえてきて1回の音で6発出てきていました。
父は新型機のテストパイロットをしたり、南方戦線でも部隊長をしていて、相手を撃ち落としたりもしました。
相手にも家族があり、個人には何の恨みも無い、相手の顔も見え一瞬ひるむが、鬼になって戦わなくてはいけない。
部下が次々に撃ち落とされてゆく場面も父は見て来ました
そういった父親の話を聞いて戦争とはつらい残酷な出来事だと感じてきました。
父が公職追放された後に、又パイロットにならないかとのは話が来たが、アメリカの飛行機に乗れるかと言って断ってしまいました。
父は沢山の部下を失ってきてどの面さげて飛ぶのか、絶対飛ばないと言って生涯飛びませんでした。
「人は生きる為に生まれてくるので、死ぬために生まれて来るものではない」と父は言って、「それを頭に叩き込んでしっかり頑張らねばならんのだ」と言っていました。
書く時にはついそういう癖が付いているんです。
敵にも生きる命がある、殺し合わなければいけないという事は悲劇である。
人は限りある命であるから生涯の中で成し遂げようとして頑張る。
世界中の戦死した若者たちの中には生きていれば人類の文明に本当は物凄い貢献をした人たちが一杯いたはずだが、大勢死んでいる。
人は争っている場合ではない。
戦場漫画も沢山翻訳されているので、外国人も見てくれているので判ってくれる。
漫画には国境が無くなって、どうしても歴史を学んでおかないと、どうかして侮辱したり傷つけることになる、決して傷つけてはいけない。
2018年8月15日水曜日
梅本安則(元球児) ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ
梅本安則(元球児) ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ
長い歴史の中でこの全国高校野球大会、昭和16年から20年まで戦争の為開催されなかった空白の期間があります。
しかしこの期間に一度だけ全国大会が甲子園球場で行われました。
全国から16代表が参加しておこなわれたこの大会は、国が戦意高揚のために開催した大会だったために、公式の記録には残されていない幻の甲子園と呼ばれています。
徳島市出身の梅本さんはこの幻の甲子園で優勝した徳島商業の7番ファーストで、今では当時を知るただ一人のレギュラーメンバーとなりました。
梅本さんに当時の記憶をたどっていただいて100回大会に臨む選手たちへの思いをお聞きしました。
今91歳です。
昭和17年、太平洋戦争が状態が悪くなってきている年で、4月には東京大空襲、6月にはミッドウエー海戦で大敗北という様な年でした。
一般の国民には知らされてはいなかったというのが実情です。
当時学校では軍事訓練、軍事教練が教育に組み込まれていました。
戦闘に必要な基本訓練を軍人さんが来て色々教えると言う教科でした。
徳島商業の場合は恵まれていて、野球部の猛練習を高く評価していただきました。
日本全体としては敵勢のスポーツをやるとは何事かというような考え方がありました。
昭和16年全国大会が辞めると言うことになって残念な気持ちでした。
監督さんはどういう状況であったとしても必ず野球をやれる時期が来るはずだ、という信念を持っていたのでついて行きました。(稲原幸雄監督)
昭和17年文部省から全国大会が開催されることになる。
目標が出来て素直に嬉しかった。
監督さんが優勝戦迄の1週間分の米を持って来いと選手全員に伝えられました。
優勝を目指すんだと言う事を暗に固く申し渡すという感じで言っておられました。
厳しい状況だったが母親がなんとかしてくれました。
徳島から毎日新鮮な牛肉を旅館まで送ってくれました。(後援会の配慮がありました。)
大日本学徒体育大会というふうな大がかりな大会でした。
野球以外に柔道、剣道など戦時色豊かな体育、運動競技がありました。
昭和17年8月22日に橿原神宮外苑広場(奈良県)で開会式が行われました。
手りゅう弾を投げる、銃を携えて走る、土嚢を運搬して走るなどといった競技もありました。
それ以外に柔道、剣道等多岐にわたりました。
人数も7500名という大変な数の若人が集まりました。
東条英機総理大臣がきて若人を激励するという意味合いの話をしました。
8月23日 甲子園で中等野球だけの開会式が開催されました。
球場に入るとスコアーボードの両横に「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」という横断幕が掲げられていた。
国民の士気高揚が大義名分にあるので、試合のルールも戦時色が濃かった。
デッドボールもよけてはならんというようなルールでした。
朝日新聞主催ではなくて文部省の主催なので、伝統の優勝旗も無かった。
その後その大会は幻の甲子園と言われるようになりました。
観客席は超満員でした。
甲子園の土は柔らかい、心情的には温かいそういう気持ちで初めての甲子園の土を歩きました。
観客の皆さんの温かい気持ちが伝わってきました。
16チームのなかには当時日本の統治下であった、台湾の台北チームの台北工業も参加しました。
みんな台湾で生まれて内地に一度も渡ったことのない日本人の選手たちだったようです。
東シナ海、台湾海峡などはアメリカの潜水艦が出没する戦場なので、学校関係者は出場を取りやめた方がいいのではないかという話が出たそうですが、部員らは死んでも本望だと言うような気持で話あったそうです。
14人の家族に承諾書を出してもらう事を決めました。
彼等は無事神戸港に着くことになりました。
空襲と勘違いされるので大会開始のサイレンは使うことができないので、ラッパが合図になりました。
1回戦で東京の慶応商業と戦って延長14回戦って2-1で勝利。
2回戦は水戸商業に1-0で完封勝ち。
準決勝は近畿代表海草中学に1-0で勝利。
決勝は京都滋賀代表の平安中学と戦う。
平安は準決勝が決勝当日の午前中に行われた。(雨で順延のため)
平安中学の富樫投手はこの大会でノーヒットノーランを達成するなど前評判は高かったが、終盤疲れからコントロールが悪くなるということが見られた。
試合はシーソーゲームになった。
11回の裏まで行って、6-7で追いつめられていた。
監督は選手を全員集めて「最後の1秒まで諦めるな、君たちのプレーが徳島県の歴史を塗り替えるのだ」と力強い声でおっしゃいました。
ツーアウト満塁となる。
フォアボールを8番が選び7-7の同点となる。
9番の林がバッターボックスに入る。
2ストライク-3ボールとなり、つぎのボールが外れて押し出しで勝つことになる。
終わった時には何かいいしれぬ解放感を覚えています。
文部大臣の表彰状を一枚頂くだけだったが、観客の皆さんは平和な時代と全く同じようにプレーを喜んでみて下さいました。
戦時下という事を忘れてプレーをすることができました。
私は神戸の三菱重工神戸造船所にいって働きました。
その後神戸が空襲を受けて職場が被災して徳島に引き上げざるを得なくなりました。
昭和20年7月に徳島市の大空襲がありました。
実家も学校も空襲で焼失しました。
野球に夢を抱き慶応商業の宮崎さんは野球をやることに執念を燃やし満州に渡って社会人野球をしていたが、ソ連軍に抑留されてそれは大変だったようです。
平和な時代に思いきり野球に打ち込むことができると言うことは、大変な幸せだと思います。
若い人たちには自分たちの出来うる限りの力を尽くして、自分を更に大きくするように頑張っていただきたいと思います。
長い歴史の中でこの全国高校野球大会、昭和16年から20年まで戦争の為開催されなかった空白の期間があります。
しかしこの期間に一度だけ全国大会が甲子園球場で行われました。
全国から16代表が参加しておこなわれたこの大会は、国が戦意高揚のために開催した大会だったために、公式の記録には残されていない幻の甲子園と呼ばれています。
徳島市出身の梅本さんはこの幻の甲子園で優勝した徳島商業の7番ファーストで、今では当時を知るただ一人のレギュラーメンバーとなりました。
梅本さんに当時の記憶をたどっていただいて100回大会に臨む選手たちへの思いをお聞きしました。
今91歳です。
昭和17年、太平洋戦争が状態が悪くなってきている年で、4月には東京大空襲、6月にはミッドウエー海戦で大敗北という様な年でした。
一般の国民には知らされてはいなかったというのが実情です。
当時学校では軍事訓練、軍事教練が教育に組み込まれていました。
戦闘に必要な基本訓練を軍人さんが来て色々教えると言う教科でした。
徳島商業の場合は恵まれていて、野球部の猛練習を高く評価していただきました。
日本全体としては敵勢のスポーツをやるとは何事かというような考え方がありました。
昭和16年全国大会が辞めると言うことになって残念な気持ちでした。
監督さんはどういう状況であったとしても必ず野球をやれる時期が来るはずだ、という信念を持っていたのでついて行きました。(稲原幸雄監督)
昭和17年文部省から全国大会が開催されることになる。
目標が出来て素直に嬉しかった。
監督さんが優勝戦迄の1週間分の米を持って来いと選手全員に伝えられました。
優勝を目指すんだと言う事を暗に固く申し渡すという感じで言っておられました。
厳しい状況だったが母親がなんとかしてくれました。
徳島から毎日新鮮な牛肉を旅館まで送ってくれました。(後援会の配慮がありました。)
大日本学徒体育大会というふうな大がかりな大会でした。
野球以外に柔道、剣道など戦時色豊かな体育、運動競技がありました。
昭和17年8月22日に橿原神宮外苑広場(奈良県)で開会式が行われました。
手りゅう弾を投げる、銃を携えて走る、土嚢を運搬して走るなどといった競技もありました。
それ以外に柔道、剣道等多岐にわたりました。
人数も7500名という大変な数の若人が集まりました。
東条英機総理大臣がきて若人を激励するという意味合いの話をしました。
8月23日 甲子園で中等野球だけの開会式が開催されました。
球場に入るとスコアーボードの両横に「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」という横断幕が掲げられていた。
国民の士気高揚が大義名分にあるので、試合のルールも戦時色が濃かった。
デッドボールもよけてはならんというようなルールでした。
朝日新聞主催ではなくて文部省の主催なので、伝統の優勝旗も無かった。
その後その大会は幻の甲子園と言われるようになりました。
観客席は超満員でした。
甲子園の土は柔らかい、心情的には温かいそういう気持ちで初めての甲子園の土を歩きました。
観客の皆さんの温かい気持ちが伝わってきました。
16チームのなかには当時日本の統治下であった、台湾の台北チームの台北工業も参加しました。
みんな台湾で生まれて内地に一度も渡ったことのない日本人の選手たちだったようです。
東シナ海、台湾海峡などはアメリカの潜水艦が出没する戦場なので、学校関係者は出場を取りやめた方がいいのではないかという話が出たそうですが、部員らは死んでも本望だと言うような気持で話あったそうです。
14人の家族に承諾書を出してもらう事を決めました。
彼等は無事神戸港に着くことになりました。
空襲と勘違いされるので大会開始のサイレンは使うことができないので、ラッパが合図になりました。
1回戦で東京の慶応商業と戦って延長14回戦って2-1で勝利。
2回戦は水戸商業に1-0で完封勝ち。
準決勝は近畿代表海草中学に1-0で勝利。
決勝は京都滋賀代表の平安中学と戦う。
平安は準決勝が決勝当日の午前中に行われた。(雨で順延のため)
平安中学の富樫投手はこの大会でノーヒットノーランを達成するなど前評判は高かったが、終盤疲れからコントロールが悪くなるということが見られた。
試合はシーソーゲームになった。
11回の裏まで行って、6-7で追いつめられていた。
監督は選手を全員集めて「最後の1秒まで諦めるな、君たちのプレーが徳島県の歴史を塗り替えるのだ」と力強い声でおっしゃいました。
ツーアウト満塁となる。
フォアボールを8番が選び7-7の同点となる。
9番の林がバッターボックスに入る。
2ストライク-3ボールとなり、つぎのボールが外れて押し出しで勝つことになる。
終わった時には何かいいしれぬ解放感を覚えています。
文部大臣の表彰状を一枚頂くだけだったが、観客の皆さんは平和な時代と全く同じようにプレーを喜んでみて下さいました。
戦時下という事を忘れてプレーをすることができました。
私は神戸の三菱重工神戸造船所にいって働きました。
その後神戸が空襲を受けて職場が被災して徳島に引き上げざるを得なくなりました。
昭和20年7月に徳島市の大空襲がありました。
実家も学校も空襲で焼失しました。
野球に夢を抱き慶応商業の宮崎さんは野球をやることに執念を燃やし満州に渡って社会人野球をしていたが、ソ連軍に抑留されてそれは大変だったようです。
平和な時代に思いきり野球に打ち込むことができると言うことは、大変な幸せだと思います。
若い人たちには自分たちの出来うる限りの力を尽くして、自分を更に大きくするように頑張っていただきたいと思います。
2018年8月14日火曜日
村上敏明(旧満州からの引き揚げ者) ・ぼくは、妹と母を手にかけた
村上敏明(旧満州からの引き揚げ者) ・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰が決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。
詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
[文子、文子]だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」
毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。
4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に、父が徴兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかで、その他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
学校の男子の先生なども徴兵されてしまって若い男性はいなくなりました。
関東軍が南(沖縄、フィリピンなど)に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
1945年8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか、北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
我が家にもソ連兵が強引に入ってきて、必要なものがないということで帰って行きましたが。
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。
四平を奪回するために国民党が攻撃してくる訳で、3~5月まで緊張して怖い目にも逢いました。
日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。(日本には帰ってくるなということです。)
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島の港まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
四平では2000人ぐらいが亡くなりました。(友人、先生なども亡くなりました。)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって、最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを僕が進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。
黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
親友の小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
妹が死んだ時には君は泣きじゃくりながら僕の家に来た。
それでこういうことをしたと。
彼は怒って、日本人会を殴りつけたのかと言ったわけです。
日本人会がこの子は衰弱して連れていけないから組織的な決定があったのかも。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
葫蘆(コロ)島迄行って、駅の近くに病院がありの畳の上で寝ていたりしていました。
或る時に母にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら、飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやったお気に入りの着物の綺麗な色は覚えています。(記憶は断片的)
8月6日に港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
京都の亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後私は京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話を一切したことはないです。(罪の意識を持っていたのかも)
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
きっかけは3・11が起こり近所に避難してきた人達に、話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。
今また日本は戦争をする国になるのではないかとか、福島のことが又起こるのではないかとかの思いがあり、若い人が声を上げなければいけないと思って話しています。
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰が決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。
詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
[文子、文子]だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」
毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。
4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に、父が徴兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかで、その他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
学校の男子の先生なども徴兵されてしまって若い男性はいなくなりました。
関東軍が南(沖縄、フィリピンなど)に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
1945年8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか、北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
我が家にもソ連兵が強引に入ってきて、必要なものがないということで帰って行きましたが。
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。
四平を奪回するために国民党が攻撃してくる訳で、3~5月まで緊張して怖い目にも逢いました。
日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。(日本には帰ってくるなということです。)
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島の港まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
四平では2000人ぐらいが亡くなりました。(友人、先生なども亡くなりました。)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって、最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを僕が進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。
黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
親友の小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
妹が死んだ時には君は泣きじゃくりながら僕の家に来た。
それでこういうことをしたと。
彼は怒って、日本人会を殴りつけたのかと言ったわけです。
日本人会がこの子は衰弱して連れていけないから組織的な決定があったのかも。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
葫蘆(コロ)島迄行って、駅の近くに病院がありの畳の上で寝ていたりしていました。
或る時に母にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら、飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやったお気に入りの着物の綺麗な色は覚えています。(記憶は断片的)
8月6日に港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
京都の亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後私は京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話を一切したことはないです。(罪の意識を持っていたのかも)
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
きっかけは3・11が起こり近所に避難してきた人達に、話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。
今また日本は戦争をする国になるのではないかとか、福島のことが又起こるのではないかとかの思いがあり、若い人が声を上げなければいけないと思って話しています。
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