2018年8月13日月曜日

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」
61歳、竹丸さんの出身地鹿児島には戦時中特攻隊の出撃基地があり、多くの若者が飛び立っていきました。
子供の頃祖父母や両親から戦争、特に特攻隊の話を聞かされて育ったと言う竹丸さん、13年前その特攻隊を題材にした創作落語を作り、東京の寄席や学校などを回って上演を続けています。
鹿児島生まれの落語家として特攻の悲劇を伝えて行くことは自分の使命だと言います。
明後日で終戦から73年、戦争を経験された方が少なくなり戦争体験を若い世代に伝えて行くことが年々難しくなっています。
戦後生まれ戦争を知らない世代に、その悲惨さや平和の尊さを伝えて行く一つの手段として竹丸さんが創作した落語とそこに込めた思いを伺います。

演目「ホタルの母」
入門者が多くて現在東京だけで550名いる。
昔特攻の基地がありました。
子供の頃特攻の話を聞きました。
知覧は陸軍の所属の基地だった。
特攻平和会館が建っていて、1036名の遺影があり遺書などが展示されている。
特攻平和観音堂が建立されている。
年間60万人以上が足を運んできている。
出来たのが昭和62年。
鳥濱 トメさん(特攻の母と言われる)が手を合わせていると、ほたるが飛んできて観音様の肩に止まる。
遡ること45年前、昭和16年12月8日アメリカに宣戦布告する。
太平洋戦争が勃発、真珠湾攻撃、あっという間に東南アジアを占領する。
物資不足に苦しんでいた国民には朗報であったが。

知覧に飛行学校が建設される。
昭和17年3月になると少年訓練生が知覧にやって来る。
楽しみは食べること、寝ること、たまの休日の外出でした。
知覧は小さい町なので遊ぶところも無く、富屋食堂の存在が知れ渡る。
休みになると大勢の少年訓練生が富屋食堂にやって来るようになる。
少年訓練生を我が子のように思えるようになる。
その後日本は段々壊滅的状況になって行く。
そこで出した上層部の結論は特攻隊でした。
町長が頼んで軍指定の食堂となって米の支給などはあったが、それでは足りないのでトメさんは自分の箪笥などを売って少年訓練生の為の食料に変えていた。
兵舎ができて全国から特攻の兵隊が来ることになる。
トメさんは特攻の話を聞かされるが、特攻の重みを知る由も無かった。
昭和20年3月28日 知覧は桜がきれいに咲いていた。
富屋食堂に一人の青年将校がやって来る。
小林少尉でした。

ここを去るのでお礼にきたということだった。
行く先を問われたがいえない、特攻との事だった。
トメは溢れる涙をじっとこらえる。
「俺たちの分まで長生きしてください、行ってまいります」と言われると、人前では絶対に涙を見せないトメさんはこの時だけはあふれる涙を止めることができませんでした。
トメさんは何もできないことに気を揉むが、手紙を両親に送ることを思い立つ。
「・・・小林殿は昨日突然やってきて、どちらに行くのと言っても口を開きまん。・・・ハッと気が付きました。・・・特攻隊の隊長として3月29日夕方には立って行きます。私から一筆知らせたいといったら、急に驚かせたくないので長く日が経ってから知らせてほしいと言われたが、父親様には知らせておきます。 お元気で長く長く生きて日本の勝つ日をお待ち下さい。・・・急いでお知らせします。 トメより」
2カ月の間に若い命が何百と飛んで行きます。

トメの気持ちは張り裂けんばかりだがグーッと堪えます。
昭和20年6月5日夜、富屋食堂では明日出撃する宮川軍曹の為に手料理を作っていました。
空襲警報が鳴り出して、防空壕に逃げ込む。
通りすぎると表に出るが表は真っ暗だった。
トメさんと兵士たちが歩いていると、何処からともなくちいさな光が横切る。
「ほたるだ」 川には無数の蛍が飛び交っていた。
宮川軍曹が「明日死んだらおばさんのもとに帰って来たいよ」というと一匹の蛍がスーッと宮川軍曹の前に止まる。
「おばさん俺明日死んだら蛍になって帰って来るから、追っ払ったりしないで」
「おばさんは待っているからきっと帰ってきてね」

一匹の蛍が富屋食堂に入ってきます。
「宮川軍曹が蛍になって帰って来たんだ。」
蛍は柱の梁に止まってほのかな光をともしています。
兵士たちは立ちあがって人前では決して見せない涙、大粒の涙を流して敬礼をしていました。
それから5日間特攻の盛期は続いて、最後は6月11日、たった2カ月で南方に消えた特攻兵の命、439名でした。
8月15日終戦を迎える。
トメさんは思う「あの子たちは死なんでもよかったんじゃないのか」
「誰か教えて下さい」トメさんは観音様に手を合わせ祈り続けます。
昭和62年2月特攻平和会館がオープンします。
トメさんは85歳になっていましたが、車椅子で列席、穏やかな顔をしていたと言います。
「うちの次女は宮川さん、あんたが好きだった。 宮川さんあんたが生きていてくれたらね・・・。 どんな時代になったとしても決して皆さんのことは忘れない。」
兵士の仮の姿だったのか幻だったのかトメさんの祈りが済むと、暗闇にほのかな明かりをともしながらスーッと飛んで行きました。
志半ばにして散った命、我々は宮川軍曹に恥じない人生を送っているんだろうかと問いたいと思います。」

この材材は決して軽いものではないので、涙した人もいたが、落語だから楽しく終わって欲しいというお客さんがいたことも事実です。
「ホタル帰る」の本 著者赤羽礼子さんがいて寄席でやってもいいかと問い合わせたらOKでした。
「ホタルの母」は落語だからこそ柔らかく伝えられると思う。
自分の想像の中で特攻、トメさんを捉えてもらえればいいのかなあと思います。
戦争の事を伝えて行くことが大事だと思います。
2005年にはじめて上演するがお客さんの反応は微妙でした。
泣いて下さる方と複雑な顔をしている人、二つに別れましたね。
平凡な一日、平凡な毎日はどれだけ尊いかということが、戦争を思うと判ると思います。
戦争は人を狂わせる、絶対してはいけないと思う。