2018年8月29日水曜日

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと
69歳、線描画にパステルを乗せた優しい色あいのイラストが特徴で、この番組のマスコットフクロウのゆめぞう君の作者でもあります。
この春からは月刊誌ラジオ深夜便にエッセー「しじまのおもちゃ箱」を連載、少年時代の思い出を軽やかなタッチでつづっています。
エムさんは大学時代からイラストレーターとして活躍していましたが、38歳で視力を失いました。
全盲になっても表現者として生きて行きたいと作家に転向、絵本やエッセー集を数多く出版しました。
そして1990年それまでの経験や色の記憶を生かして、イラストレーターとして再スタートしました。
エムさんの作品に込める思い、創作活動の工夫や支えになっているのは何なのかなどを伺います。

番組の放送開始15周年を記念して、2005年にエムさんがデザインしたゆめぞう君。
ラジオ深夜便が好きで、夜型人間だった、一番好きな生き物がふくろうで、ゆめぞう君を考えました。
絵の描き方
強い筆圧で線を描くと紙の上にへこんだ線が描ける。
輪郭線を頼りにパステルで色を塗っていきます。(アシスタントが手伝ってくれる)
粉をこすりつける。(パステルはチョークのようなもの)
ゴシゴシ塗れば粉が付着する。
その粉をティッシュペーパーで丁寧に擦ってひろげてやる。
別の色を横に塗ってやって、ティッシュペーパーで擦ると色と色がうまくなじんでくる。
赤、青、黄を混ぜると濁色になるが、二つの色だと清色の清らかな雰囲気の絵になる。
混合を計算しながら採色していきます。
目が見えていたころにさんざん描いてきた絵なので、計算しながら勘でやります。

目が見えているころは細かい絵を描いていました。(メカニカルな絵が好きだった)
最初に失明してからは絵を描くつもりはなかったが、絵を描いて見ないかと言ってくれて、それが現在の奥さんです。
失明後に知り合ったんですが、私は人工透析もしていて、彼女はその時の看護師でした。
絵を書いていたんだから描けるはずだと言ったんです。
彼女の前で猫の絵を描いたらバカ受けでした。
絵の前には文字を見えないながらに書いていましたが、最初紙に10円玉を置いて、10円玉を起点に横書きで文字を刻みつけるように書いていきます。
10円玉を下にずらすと一行下の文字を書くことになります。
原稿用紙150枚の長編童話を書いてそれが新人賞になりました。
猫の絵を描いた後、スケッチブックを買ってきて一晩でそのスケッチブックを埋めてしまいました。
翌日彼女に見せたら描いた絵をみんな判ってくれて面白かった。
噂を聞いて新聞社の方などが僕の絵を使うようになりました。

一番難しいのはアクリル系絵具、油絵と一緒でかなりのテクニックが必要。
透明水彩は目が見えないとコントロールはできない。(水を使うので)
コントロールできるのはパステルで色をぼかすのは、ティシュペーパーで行えば水彩と同じように再現できるのではないかと思ってやってきました。
必要な色を手渡してもらって場所にもって行ってもらえば、線がへこんでいるので判ります。
絵を見た妻からの感動とかの感触で、どのようなものかは大体感じることができます。
今150色のパステルセットを使っていますが、それぞれの色にそれぞれの感動があり僕の中に刻み込まれていて、頭の中で再現できるわけです。
絶対色感があります。
出来栄えは彼女が喜んでくれればいいわけ、僕が確かめなくてもいい訳です。
色々な人にサポートを受けながら外を歩いたりするので、失明後の人生は他者にゆだねて生きてきています。

小さいころから絵を描くことは好きでした。
寄席に連れて行ってもらったことがあり、それをわら半紙に描いたら祖母が喜んでくれました。(3歳)
小学校に入って初めて書いた絵が、先生が学校の玄関に貼ってくれたりしました。
高校生の時にやなせたかし先生が書いた漫画入門の本に、漫画は絵で描くポエムだと書いてありましたが、それを見て僕も漫画家になれるのかなと思いました。
イラストレータの道に進みました。
その後、目が段々かすんできて眼科に行ったらアレルギーから来ていると言われたが、もっと悪くなり別の医者に行ったら内臓から来ていると言われ、内科に行ったら腎臓がめちゃくちゃに悪いと言われ、大きな病院にいったら糖尿病だと言われ、眼を見た眼科医からはもうすぐ失明しますと言われました。(34歳)
人生が暗転しました。
子供のころからアレルギーだと言われたが、実は2型(遺伝性)の若年性糖尿病でした。
かすんでいたのがとうとう失明してしまいました。(失明は死の恐怖に勝りました。)

人工透析を失明と共に始めたら不均衡症候群となり、普段聞こえていなかった声が聞こえてくるんです。
僕の人生これから面白のかもと思えました、不思議な転換ですが。
或る晩、一晩中泣いていて神よもしこの世界にいるんだとしたらその答えをくれと訴え続けていた時に、明け方の瞬間に金色の光がはじけました。
天はあまねく全てを愛しているという答えをくれて、その瞬間僕は気が楽になりました。
神が与えてくれた人生だったら、どんなひどい人生でも最後まで見てみようと、その時思えました。
透析導入後の退院から直ぐに僕は文章を書き始めました。
自分の中の世界は目が見えようが見えまいが変わらない。
この春から月刊誌ラジオ深夜便のエッセーも連載を始める。

第一回に書かれたエッセーから一部抜粋。
「しじまのおもちゃ箱」
「気が付けば僕らは仲良し3人組だった。・・・一年坊主で当時珍獣扱いだったデブの僕には、頭でっかちの山下君と美少年だった山口君という大の仲良しがいた。・・・
山下君は和菓子店の息子・・・山口君は画科の息子・・・。
美少年は薄命なのか山口君は若くしてがんで亡くなり、山下君は一昨年骨髄腫で虹の橋を渡った。
僕が書かない限り僕たち3人組の無垢な思い出は、永久にこの地上から消え去ってしまう。・・・3人組時代のかけがえのない時間の流れをピンナップしていきたいと思う。」
子供の頃のできごとはいい事悪い事克明に覚えています。
昭和30年よりも前の時代、焼け野原で遊んでいた貴重な思い出です。
原風景を思い起こしながら書いていきたいと思います。
言葉を書くと風景がバーっと出て来てそれが繋がってきて思いだされます。
1990年にイラストレーターとしても再開。

眼がみえなくなったぼくが、再び絵筆を持つということは全く考えていませんでした。
1998年にニューヨークで僕の展示会が有り、偶然にジョン・レノンの絵を子供のアパレルにアレンジしようとしていた全米最大のメディアの或る副社長が訪れて、ジョンの次はお前だと言ってくれて2000年からジョン・レノンの絵のシリーズと僕の絵のシリーズが全米でならんで展開されるんです。
そういう奇跡が起きるんです。
色んな活動のチャンスをあたえてくれたことに、全力で努力をするということがこれからの僕の夢だと思っています。
どんなことがあってもなんとかなると思っていて、僕は楽観主義です。
ヘレン・ケラーが言っています、「楽観主義が未来を拓く」
諦めたら何とかなる、失明した時に上手く諦められたと思う。
見えなくなったことに対して諦めたら、そこから新しい未来が拓けて来る。
泣いて暮らそうと笑って暮らそうと、どちらも自分の作る一日です。