2018年8月22日水曜日

土屋時子(演出家・俳優)         ・ヒロシマの"炎の時代"を伝えたい 

土屋時子(演出家・俳優)         ・ヒロシマの"炎の時代"を伝えたい
  被爆地の青春群像劇『河(かわ)』
この作品は広島の原爆詩人峠三吉が中心になって、平和を願う若者たちが芸術か政治か、愛か平和運動か、生活か志か、と葛藤しながら命を燃やして生きる姿を描いたものです。
峠三吉の生誕100年に当たる去年の暮れに広島で上演され、来月京都で再演されることになりました。
それを前に演出家の土屋さんに何故今、爆心地広島の青春群像劇を上演するのか、作品『河(かわ)』に対する思いを伺いました。

出演者もプロの方はいなくて一般市民の方が出演する平和を願う広島人の手で作った市民劇と言います。
みなさんそれぞれ職業を持っています。
1950年6月に朝鮮戦争が始まっていますが、その前後の5年間の広島が舞台です。
峠三吉が主催する「われらの詩(うた)」の会という文芸サークルが有ったが、様々な仕事を持った青年たちが集まり、県下に支部が18あり700部の雑誌を発行しました。
峠三吉を中心に詩を武器にして平和の為に戦った青年たちの姿を描いた物語です。
峠三吉さんは28歳の時に爆心地から3kmの処で被爆しました。
原爆詩集を残して36歳で亡くなりました。

1963年に『河(かわ)』の初演を行い、(作、演出は土屋清さん(土屋時子さんの夫))
20年以上亡くなる間際まで繰り返し上演しました。
土屋は1987年末期がんで余命6カ月という宣告を受けて57歳で亡くなりました。
土屋は峠三吉と言う人にあこがれていたと思います。
風のように炎のように生きた峠さんの時代、あの平和運動の原点こそが私たちの立ち返る原点であるはずだと土屋が短い文章の中で書いています。
フランスの詩人ルイ・アラゴンと言う人の書いた詩の一節、
「髪にそよぐ風のように生き、燃えつくした炎のように死ぬ」という一節。
峠三吉とそこに集まった人達もみんなそのような生き方をした。
峠さんはその言葉が好きで実践した人なのでまわりの人も影響を受けたと思います。
平和運動の原点、自分とは違う意見を持っている人も包み込むような優しさと同時に強さも兼ね備えないと平和は実現できない。
言葉でいうことは簡単だが現実は難しい。
土屋自身は核兵器禁止という大きな目標があるのに、政治的な立場で対立した場面に何度も直面しています。
その時代で周りの状況が変わっているので、その時々で戦ってゆくためには何が必要なのか、台本の筋も一縞から四縞までは大きく変わっています。

『河(かわ)』30年振りに広島で上演しました。
芸術論争の場、活動家が加わって、芸術か、政治か、個人か、組織か、激しく言い争う場面。
かつて政治が芸術をひきまわしたり、組織が個人をつぶした時代があって、その自己批判として「河」を書いたと土屋は言っています。
劇に出て来る左翼の三田青年は土屋清がモデルだと当人も言っています。
土屋清は1930年に広島に生まれる。 中学3年生で海軍予科練習生になる。
戦後演劇に夢中になり朝鮮戦争のころには反戦運動に関わり、地下活動に入った経験がある。
広島で劇団を作り、峠が亡くなって10年後、1963年に「河」を上演する。
逮捕状が出されて、九州に3年間逃げ回る。
非公然活動、その時に自分に生き方は周りの人達を変える力にはならなかったということで、あえて左翼青年三田を描いたと思います。

私は若い頃、学生運動が盛んなころに、卒業してから図書館に就職しました。
生きる意味が判らず悶々としていた25歳の時に、1973年に上演された「河」を初めて見て衝撃を受けました。
峠三吉、三田青年の生き方に衝撃を受けました。
いつの間にか土屋の劇団に入っていました。
「なんでも命がけでやれ、そういう中で本物がつかめる」と土屋から言われました。
32歳の時に土屋と結婚しました。
市川睦子役に憧れました、市川睦子は「広島の空」という有名な原爆詩を書いた林幸子さんがモデルで16歳で原爆孤児になった人です。
この歳になってもやり続けているのも「河」という台本と巡り合ったおかげだと思います。

去年は峠三吉の生誕100年で、土屋清の没後30年でした。
どうしても今やらなければいけないと思ったのは、作品に描かれた時代と背景が去年の状況と全く似ている状況がありました。
北朝鮮が核実験、ミサイルを発射して凄く危機感を感じました。
戦争は何かのはずみで本当に起こってしまうかもしれない。
核兵器禁止を要求するストックホルム・アピール 署名活動が広島でも繰り広げられた。
世界で5億人、日本で640万人の人が署名に協力している。
1950年8月6日は平和式典、ピアノリサイタルのような集まりも禁止されたらしい。
でもそれだけの署名が集まったということは凄いことだと思います。
1951年には原爆詩集が出版された。
出版社がどこも引き受けてくれず、ガリ版摺りで自費出版しました。(500部)

広島で4回公演をしましたが、お客さんからの熱い視線と息を凄く感じました。
私自身は芝居の出来栄えに凄く不満でした、というのは稽古時間が非常に少なかった。
仕事と稽古の関係で全員揃って通し稽古をしたのは本番の前日でした。
2時間45分の長い舞台です。
再演にあたって台詞を自分の言葉で出来るように丁寧に本読みを始めました。
広島の豪雨があり家を流された人もいますが、台本は持って逃げたので参加出来ますと言われて感動しました。
「あきらめるな、押し続けろ、光が見えるだろう、そこに向かって這ってゆくんだ」 
どんなにしんどくっても諦めないで京都公演まで光を見出そうと思っています。