2018年8月21日火曜日

宝田明(俳優)             ・少年 宝田明は撃たれた

宝田明(俳優)             ・少年 宝田明は撃たれた
84歳、2歳の時に家族で当時の満州に渡った宝田さん、小学2年の時ハルピンに移り住みました。
昭和20年8月15日、日本が降伏した直後、ソ連軍はハルピンに侵攻し病院や学校など全てソ連軍の宿舎になりました。
宝田さんは或る日お兄さんを探して駅に向かい、駅に近づいたところで見周りの兵士から腹部に銃撃を受けました。
すべての病院に機能が停止するなかで医者にも診てもらえずに、宝田さんは一時生死の境をさまよいました。
このような経験をした宝田さんが、73年たった今その経験を通して戦争や平和にどのような思いを抱いているのか伺いました。

父は満鉄の技師でした。
祖父が朝鮮総督府の海軍武官として行っていて、その後父は朝鮮鉄道の技師として働いていて、私が2歳の時に満州に行きました。
黒竜江に近いテイアン、ハイロンという所に行きまして、最終的にはハルピンに落ち着きました。
白系ロシア人が多く住んでいましたが、色んな国の方々が暮らしていました。
満州鉄道は日露戦争で東満州の鉄道の一部を割譲してもらって、その付属として南満州の方の鉄道を半官半民で作り上げて、明治39年に後藤新平さんを総裁として作り上げた鉄道会社です。
満鉄は国策会社で肩で風を来るような勢いで、燃料、穀物も豊富で豊かに過ごしていたという記憶があります。
小学校3年生では北京漢話が必須科目として週に3時間ほどありました。
日本語、ロシア語、中国語を柱に生活していました。
小さい時におぼえた言葉は覚えていて、日本人には読めない様な漢字なども読めます。

ハルピンにはアジア映画館があり、全校生徒で見に行きました。
本編の前にニュースがあり、富士山、二重橋、白馬にまたがる昭和天皇がいらっしゃり、その時は全員が起立して画面をみるなといわれ、頭を下げていました。
厭が応でも軍国少年にならざるを得なかった。
軍事教練があり、兵隊さんと歯を食いしばって木の銃剣で付きっこをしたりしました。
北の防波堤になるんだと、勉強もし日々の生活をしていました。
8月6日広島に化学爆弾が落ちたということで、十数万人が一瞬で焼け死んだという放送がありました。
8月9日に長崎に同じ様に爆弾が落ちたということでした。
その日の夜物凄い音とともに空襲がありました。
日本が間違って爆弾を落としたのかと疑ったが、ソ連軍が8月9日に参戦してきて満州に流れ込んできた。
不可侵条約があると言うことでたかをくくっていたが、ドーッと入ってきた。
8月15日に大事な放送があるということだったが、玉音放送があり日本が負けたと判りました。

8月24日になって物凄い轟音とともにソ連軍の機甲部隊が入ってきました。
ハルピンでは軍は武装解除で、日本の特務機関の本部が有ったがあっという間にいなくなりました。
日本の全ての学校、病院はソ連軍に接収されました。
婦女子は頭の髪の毛を落として下さいと言うことで丸坊主になって、4,5人で徒党を組んで陽の明るいうちに買い物をしてくる様にという指示がありました。
色々防御態勢を取りました。
ソ連兵は72連発自動小銃を抱えていました。
或る日社宅の奥さんが一人で買い物に行って帰ってくると、ソ連兵が二人歩いて来て掴まって倒されて引きずって「助けて下さい、助けて下さい、」と叫んでいました。
なんとかせねばと交番があるので日本の警察がいるかと思って行ったら、ソ連の憲兵がいて現場に引っ張っていったら凌辱されている最中でした。(小学5年生でそんな光景を見てしまう)
憲兵は追い払ったが、その人は引き揚げる時には中正常な精神状態ではなく夫にひきつられて帰って行きました。

或る日家族で夕食を食べていたら、突然ソ連兵が二人入ってきてラジオ、化粧品、電気コンロなどを持って行きました。
冷たい銃口が私の頬に当たった時はガタガタ震えました。
「夕餉時 露兵二名の侵入に 歯の音だけが ガタガタと鳴る」 
後にこういった歌を作りました。
ソ連軍から命令が出て強制使役に出るように言われました。
石炭をモッコで貨物列車に運ぶ作業でした。
或る時石炭を普段より大きな弁当箱に入れて帰ろうかと思ったが、見つかって物凄い勢いで殴られました。
次の時に仕返しにもう一回やってうやろうと思いまして、その後何度か持ち帰りました。
或る時駅の方に向かって行ったら、兵隊が帰れといっていましたら、ソ連の兵隊が来て撃ってきました。
からがら逃げてきたら右わき腹が熱くて仕方なかった。
見たら血だらけだった。
血が止まらず、3日後にはばい菌が入ったらしく化膿してきて、5日目に母が昔軍医だった人を呼んでくれて、ベッドに両手両脚をしばりつけられました。
立ち鋏を焼いてもってきてくださいと言われました。
ブスッと傷口に立ち鋏を入れられ、十文字に腹の肉を切られました。
妙にその時の切られる音を覚えています。

鉛の球だった。(後で判ったが、国際法上使ってはいけないことになっていた)
鉛の球は鉛毒で人間を腐らせる。
明らかに子供だと判るはずなのに、ソ連の兵士がどうして撃って来たのかはわからない。
傷口は針も糸も無く縫わずに脱脂綿とガーゼを重ねて傷口を抑え込み、やっと傷が治ってきたのは1カ月以上たってからでした。
80歳過ぎた今でも冷たい銃口を突き付けられた時と、自分の肉を切られた音は決して忘れられないです。
日本に引き揚げてきて、その後むさぼる様に映画を観ました。
高校に通っている時に「シベリア物語」を観に行ったんですが、5分もたたないうちに吐き気がして出てきてしまいました。
あの当時のソビエトをどう考えても赦せない、これは個人的な感情ですけれども。
ソ連が崩壊した時には私は心の中で万歳と叫びました。
旧日本軍もあちこちで同じ様なことをやってきたわけで、彼我共にそういうことはあった訳だと思います。
平和でなければいけないと思います。

1954年にデビューして130本を越える映画に出演、現在も撮影中。
昭和29年に東宝に入りまして、3本目に主役をやらせるということで「ゴジラ」ということだった。
昭和29年第五福竜丸が水爆実験で死の灰を受けたた。
西に沈んだはずの太陽のどでかいのが又上がってきたぞと、或る人が叫んだそうです。
数時間後に使の灰が降ってきて母港に戻ってきたが亡くなられた。
日本は約10年のうちに3回の被爆国家になってしまった。
核廃絶を目指して世界に向けて堂々と声を大きくして発することができるのは日本しかいないのだから、この映画を作るんだと言うことだった。
「ゴジラ」も核実験の被害に遭って目を覚まして地球で暴れると言うことでした。
「ゴジラ」も被曝者です。
50年のうちに28本「ゴジラ」の映画を作り6本に出演しました。
戦争で350万人強の人が尊い命を亡くしている。
戦争へある一握りの意志決定で国民に多大な迷惑をかける、こんなことが有ってはいけないと思っています。
確かなメセージを持った人のバトンを、若い人たちにバトンタッチできるようなアクションなり、メッセージを渡して行かなければいけない責務があると思います。
「不戦不争」 政治、社会、文化、教育全て平和でなければ立脚しない。
安全で平和な社会で過ごせる様な国であってほしいと乞い願います。