2018年8月14日火曜日

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰が決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。

詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
[文子、文子]だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」

毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。

4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に、父が徴兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかで、その他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
学校の男子の先生なども徴兵されてしまって若い男性はいなくなりました。
関東軍が南(沖縄、フィリピンなど)に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
1945年8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか、北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
我が家にもソ連兵が強引に入ってきて、必要なものがないということで帰って行きましたが。
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。
四平を奪回するために国民党が攻撃してくる訳で、3~5月まで緊張して怖い目にも逢いました。

日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。(日本には帰ってくるなということです。)
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島の港まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
四平では2000人ぐらいが亡くなりました。(友人、先生なども亡くなりました。)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって、最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを僕が進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。

黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
親友の小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
妹が死んだ時には君は泣きじゃくりながら僕の家に来た。
それでこういうことをしたと。 
彼は怒って、日本人会を殴りつけたのかと言ったわけです。
日本人会がこの子は衰弱して連れていけないから組織的な決定があったのかも。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
葫蘆(コロ)島迄行って、駅の近くに病院がありの畳の上で寝ていたりしていました。
或る時に母にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら、飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやったお気に入りの着物の綺麗な色は覚えています。(記憶は断片的)

8月6日に港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
京都の亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後私は京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話を一切したことはないです。(罪の意識を持っていたのかも)
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
きっかけは3・11が起こり近所に避難してきた人達に、話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。
今また日本は戦争をする国になるのではないかとか、福島のことが又起こるのではないかとかの思いがあり、若い人が声を上げなければいけないと思って話しています。