大野裕之(脚本家・チャップリン研究者) ・チャップリンと「独裁者」
大野さんは43歳、喜劇王チャップリンが二役を演じて制作した映画「独裁者」は第二次世界大戦の開戦とともに撮影が始められ公開されました。
ドイツのヒトラーをモデルにしたトメニア国の独裁者ヒンケルとユダヤ人居住区に住む床屋さんがそっくりなことから起こる喜劇で、ヒンケルがでたらめなドイツ語でヒトラーそっくりに演説するシーンやヒンケルに間違えられた床屋さんが大群衆を前に自由と平和の素晴らしさを訴えるラストシーンが有名です。
映画史に残るこの作品、実は四面楚歌の困難な状況で制作されたと言います。
チャップリンはこの映画にどんな思いを込めたのか脚本家でチャップリン研究者の大野さんに伺いました。
大阪生まれ、京都大学から京都大学大学院に行き、その後京都を拠点に劇団の代表をし、舞台、映画の脚本家で、2014年『太秦ライムライト』の脚本・プロデューサーを担当。
2006年には日本チャップリン協会を設立、研究者の全国ネットワークを作り、チャップリン研究者の第一人者。
小学生の時にNHKTVで世界名画劇場をやっていて、チャップリンの「独裁者」を見ました。
そうしたら本当に感動しました。
民主主義を訴える崇高な演説をする訳ですが、それは本当に子供心に物凄い感動をしました。
1940年という時代、ヒトラーの全盛期にヒトラーを痛烈に批判しているということが、物凄い社会批評性を感じました。
一本の映画の中にいろんな要素が詰まっている凄い映画だと思いました。
京都大学で新しく総合人間学部ができて映画を研究する事が出来る新しい学問だと思って、チャップリンが好きだったので卒業論文でチャップリンにしました。
大学院に進んだ時にはやっぱりチャップリンは巨大な存在なので、チャップリンで修士論文を書こうと思いました。
当時の指導教官からチャップリンは修士論文では辞めておきなさいといわれました。
研究し尽くされているのでやるのだったら、余っぽど凄い資料を見つけないとだめだと言われました。
チャップリンは完ぺき主義者で大量のNGフィルムが発生して、それがイギリスの国立研究機関の倉庫にあり、頼み込んだら吃驚され(国宝級)、拒否されました。
日本に一旦帰ってきて、英国映画協会に手紙、電話、FAX、メール等で猛攻撃をして、半年後に向こうが根負けしてOKとなりました。
400巻あるが、すべてみることができました。
自分が納得するまでに人間チャップリンが如何に苦闘して作っていったかが判りました。
面白いギャグを2分位演技していてめちゃくちゃ面白いが、何回もやりなおしているがこちらにはどうしてなのか判らない。
テイク2、テイク3・・・・・テイク20までやり直して、完成テイクは10秒になっている。
エッセンスをどんどん煮詰めて行く、どんなに面白くてもストーリー、テーマに関係のないものはけずって行く、これは凄いと思いました。
例えばユダヤ人を馬鹿にしたギャグだったら、ユダヤ人の人は笑ってはくれない。
ほかの人種に対しても同じ。
チャップリンは純粋に笑いを突きつめて世界中の人が心から笑える笑いを追求して、その結果チャップリンはヒューマニズムを体得したと思う。
だからあのチャップリンのヒューマニズムは力強いんだと思います。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれる。
両親がミュージックホールの俳優だった。
生まれた所は貧困地区だった。
幼いころに両親が離婚、父はアルコールが原因で亡くなる。
母は貧困のあまり精神異常をきたしてしまう。
チャップリンは色んな施設に入れられながら、力強く這いあがってくる。
母は色んな仕事をして子供達を支え、たまに屋根裏部屋から行き交う人の事を作り話をして笑わせる。
人間が生きていくうえで衣食住は大切だが、人間が生きていくうえで衣食住と同じ位笑いというものが大切だと極貧の幼少時代に体得したんだと思います。
アメリカに渡り24歳(1914年)に映画デビューして瞬く間に喜劇王になる。
「独裁者」あらすじ
トメニア国、ユダヤ人居住区に住んでいた床屋さんは第一次世界大戦に参加、けがをして記憶を無くして病院に収容される。
20年後に病院を抜け出し理髪店を再開、穏やかな暮らしを取り戻す。
入院している間に政変がおこって、トメニア国ではヒンケルによる独裁政権が誕生していた。
ヒンケルはユダヤ人迫害を行う。
反抗した床屋さんは収容所にいれられるが、軍服を盗んで逃げだす。
ところがこの床屋さんは独裁者ヒンケルに間違われて、大群衆の前で演説をすることになってしまう。
登場人物にはほとんど名前を付けない。
全世界の人に共感が得られるように或る象徴的なキャラクターとして考えていたのではないか。
チャップリンは20世紀の色んな戦争に巻き込まれている。
人の命の大切さ、困難な中でも生き抜く大切さにずーっと興味が有った。
1931年に「街の灯」という大傑作を作るが、その後1年半に渡って世界旅行に出る。
政治家などとも意見交換をして世界情勢を学ぶ。
ドイツではファシズムの萌芽を目の当たりにする。
東洋ではバリ島の独特の文化を親しく体験し、その後憧れの日本に来る。
チャップリンの秘書が高野虎市という日本人だったので非常に日本に興味が有った。
5・15事件に巻き込まれて、チャップリンをも標的にして暗殺しようとしていた。
犬養総理と晩さん会で会う予定だったが、その朝に行かないで相撲を見ると言うことでキャンセルして命拾いをした。
ファシズムの勃興を肌で感じて、より社会問題にコミットする作品を作る。
1936年に機械文明を批判した「モダンタイムス」を作り、次に「独裁者」を作ることを計画する。
アメリカでは不況に苦しみ、ドイツでは第一次世界大戦でボロボロの国になっていたものをヒトラーが強力な国へと復興させて、あれぐらいリーダーシップのある人がアメリカの大統領ならば、アメリカでも不況から復活できるのになあということでヒトラーは人気もあった。
西側にとっては共産主義の防波堤にもなっていると政治的には思われていた。
財界もナチスドイツに色々投資をしてきて、ヒトラーを支持していたことも事実だった。
チャップリンがヒトラーを揶揄する映画を発表した時に、各方面から非難ごうごうだった。
一般大衆からも反発がでた。
アメリカの政財界からマスコミを通じて、チャップリンに対して色んなキャンペーンがはられて、ごく普通の主婦とかからの強迫の手紙が沢山あって吃驚しました。
イギリスでは外務省が役人を派遣して、チャップリンの独裁者の制作をなんとか辞めさせるように動く。
イギリスでも公開されないという事はイギリス植民地国、ドイツ同盟国、南米諸国も駄目で、アメリカでも見通しがたたない。
チャップリンは作っても公開の見通しが立たない中で、自分の全財産をかけて作っていた。
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれているが、僅か4日後にヒトラーはオーストリアで生まれている。
「チャップリンとヒトラー」という本を書こうとしたら、次々に面白いことが判ってきた。
ちょび髭 1914年8月1日の開戦を祝う広場での写真が残っている。
チャップリンとヒトラーはほとんど同時期にちょび髭を生やしていた。
髭が接点になってお互いに意識し始めると思われる。
1926年にドイツによるチャップリン攻撃が突如始まる。
きっかけがプレミア上映のパンフレットにドイツの偉い文化人が3人推薦文を寄せたが、3人全員ユダヤ人だった。
ユダヤ人が褒めた映画「黄金狂時代」はそれだけでナチスにとって目障りになる。
チャップリンお前もユダヤ人だろうと言うことになる。(これは恐ろしいことである)
チャップリンは歴史上初めてのメディアにおけるスターです。
世界的に影響力のある人間がヒトラーと同じ髭をしている、ヒトラーが滑稽なイメージになってしまうことをナチスは恐れた。
ヒトラーはメディアを使った政治家、映像、メディアを駆使してあの権力に昇りつめた人。
チャップリンとヒトラーは1920から1930年代メディア上で戦っていたと言うふうに言えることができる、これは重要なことだと思っている。
恐怖と笑いの戦いが始まっていたと言える。
四面楚歌の中チャップリンは制作の準備を始める。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまる。
その8日後に独裁者の撮影が始まる。
フランスにも攻め入ってフランスを占領する。
ヒトラーは元々画家になりたかった人で自分の人生の夢でもあった。
1940年6月23日にパリに入場して、そこがヒトラーのピークで世界が恐怖におびえて、その翌日にラストの民主主義を訴える演説をハリウッドで撮影する訳です。
戦争が激しくなるとイギリス、アメリカなど世論が今作るべきだと言うことになる。
1940年10月に映画が公開されると記録的な大ヒットになる。
ヒトラーの武器は迫力があり神々しい演説であったのに、映画の中ではヒトラーの演説をパロディーにしたことで笑いになってしまった。
映画を公開してしばらくするとヒトラーの演説は激減してしまった。(映画が一つの影響)
映画の最後の6分間に静かに語り掛けるように演説する。
周りからは長い演説シーンに対し大反対されたが、チャップリンは押し通した。
その演説の一部
「人は自由に美しく生きていけるはずだ、なのに私たちは道に迷ってしまった。
貪欲が人の魂を毒し、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の歩調で私達を悲しみと殺りくへと追い立てた。
スピードは速くなったが人は孤独になった。
富を生み出すはずの機械なのに私たちは貧困の中に取り残された。
知識は増えたが人は懐疑的になり、巧妙な知恵は人を非情で冷酷にした。」
「兵士たちよけだものに身を委ねてはいけない。
あなたたちを軽蔑し奴隷にし生き方を統制し、何をして何を考えてどう感じるか指図する奴らに」
この演説が本当に感動的なのは平和と民主主義を訴えている。
この演説には当時アメリカでも批判が有ったが、これを映画の中で必死に訴えている。
戦争の真っただ中で、言いたいことがいえない時代にカメラに向かって自分の言いたい事、信念を貫き通す、これがいかに大事なことかを教えてくれます。
「映像には毒が入っている」その言葉はメディア、映像を考えるうえで凄く重要な言葉だと思っている。
インタネット、映像等 嘘が混じっているので、人間の想像力で本当かどうか見極めなければといけないと教えてくれた感じました。
フィクションの「独裁者」がその想像力で或る種の本質を暴いていったというのは多くの事を教えてくれると思います。