2016年2月28日日曜日

大竹 宏(声優)         ・時代を創った声(2)

大竹 宏(声優)            ・時代を創った声(2)
パーマン2号、カッパのカータン、等に出演、今年84歳
いろんな動物の声をしたことがある。
馬が笑う声は難しかったが、何でもやってしまった。
一度時代劇で犯人を知っているカラスの役をしたことがあるが、高尾山に行って研究したりした。
NHKの最初のラジオに出たのは熊の役でした。
6歳ぐらいの時に映画館に連れて行ってもらって、名子役テンプルちゃんにあこがれて、チャップリンンにもあこがれた。
昭和20年明治中学に入った時に、焼け跡整理をやって浅草の芝居の優待券を貰って、当時鞍馬天狗は嵐寛寿郎の映画だったが、その時の演劇は杉山昌三九さんが鞍馬天狗をやっていた、あの戦争中に商業演劇をやっていたのに驚いた。
水の江滝子、ターキーのミュージカルもやっていた。(戦意高揚劇)
芝居をやりたいと思った。
戦争も終わって、演劇部に入り、高校では部室を勝手に作って、演劇部を掲げる。
高校2年、3年は全く勉強しなかった。

卒業して2年目にはNHKのラジオに出て「チロリン村とくるみの木」にでいました。
高校卒業後、劇団ちどりに入り、内田研吉さんんという素晴らしい先生に出会った。
大道具、小道具すべて私一人で作りました。
先生のアシスタントとなり、毎日NHKに通いました。
先生は37歳にして亡くなってしまいました。
医師からは貴方一人に言っておくがもう命がないと言われたました。
人形劇アシンと13人の盗賊 盗賊の親分の一の子分の役を行う。
その後「チロリン村とくるみの木」に選ばれ、8年半つづきました。
人形劇の楽しさを幼児番組に加えたら面白いのではないかと、人形劇そのものを「ピンポンパン」にとりいれた。
アイドルを出そうと言う事で、アイドルの下絵を書いてほしいと言われて、熊とカンガルーを書いたが採用されず、或る方が河童の絵を描いて河童で行く事になる。
着ぐるみに入る様に言われたが、始め拒んだが、おだてられてやることになる。
汗がでてきて、大変だった。
グロテスクなデザインで子供らは出たとたんに怖がっって失敗、かわいくデザインし直して再出発した。

いろいろ苦しいことが有ったが、それは我慢と、子供に応えることでした。
着ぐるみは自分の最高のメーキャップだとおもうようになった。
そのうちに足が動かなくなり、ピンポンパンが始まって16年目に辞める事になります。
カッパのカータンには14年入っていました。
いたずらが好きでいろいろやりました。
「チロリン村とくるみの木」で出演の時に、細かくしたマッチの軸に息を吹きかけていて、色が変わると言って、その女性に息を吹きかけてくださいと言って、唇に寄ったところで下からぽんとやって、細かくしたマッチ棒が口の中に入り、その女性はあたりかまわず吐き出しました。
当時ガリ版で読みにくい文字があり、私が書き直して、その通りに読んだら、それは放送禁止用語だった。(タヌキの・・・、キツネの・・・)
ボランティアで保育園に行って即興で作ってやったりしまいます。(毎月1遍行きます)
子供と話をしているとアイディアが生まれます。
若い声優に言いたいのは、好きな道なので、のめり込めばいい、上達しようと努力する、人がやらないことをやる、それを自分が考える。
今できなくても磨いていけば絶対損はしない、飽きずにやる。(今の若い人は直ぐ飽きる)
あくまで今日が出発点です。














2016年2月27日土曜日

山本美也子(飲酒運転撲滅活動)  ・思いやりで社会を変える

山本美也子(福岡県飲酒運転撲滅活動アドバイザー)  ・思いやりで社会を変える
~飲酒運転撲滅への願い
5年前、飲酒運転による事故の為当時16歳だった長男を奪われました。
その直後飲酒運転撲滅活動を始めて命の大切さを各地で訴え、これまでに行った講演は640回に上ります。

4人家族で長男が今年生きていたら22歳になる予定でした。
2011年2月9日飲酒運転の車に依り友人と共にあっという間に命を奪われてしまいました。
今、次男は高校卒業して専門学校に通っています。
主人は20歳の時の交通事故、バイクに乗ってましたが後ろから乗用車に追突されて、中央分離帯に背骨をぶつけてそれから29年間車椅子に乗っています。
主人は頑張る障害者になりました。
スポーツを通して腕だけで42.195kmのフルマラソンを走るマラソンランナーになりました。
昨年も沢山の海外のレースに出場しました、賞金レーサーをさせてもらっています。
昨年大分国際車いすマラソンがあり、今年リオデジャネイロパラリンピックの選考大会で49歳ですが、主人は1等賞になりました。
リオデジャネイロパラリンピックの代表選手に選ばれました。
NPO法人はぁとスペースの事務所が篠栗町の近くにあります。
長男を失って泣いて泣いているときに友達から篠栗に山登りに誘われ行って見たのが、森林セラピーの山登りでした。
とても癒されて元気になってきました。

車椅子優先駐車場になかなか車椅子の人たちが止められないと言う現実もあります。
注意をしていたのですが、でも怒られるのが私です。
車椅子優先駐車場が広いのはドアを全部開けないと自分で車椅子を降ろすことが出来ないので大きな幅が必要なんです。
だから普通の駐車場ではその動作が出来ないので降りてくることができません。
バスに乗るのも大変で這って登り、そのあと車椅子を乗せると、時間がかかるので早くしてほしいとの文句があり、たびたび喧嘩をしました。
状況が変わらず、NPO法人を2010年に立ち上げ、皆さんに知っていただく事が大事だと思って、車椅子優先駐車場の必要性、夫婦とも車椅子の人達の多いことや、健常者とこうあってほしいという暮らしのことの活動を始めました。
理解してくれる人達が増えてきて、バス乗車も手伝ってくれるような人も現れてきました。
ありがとうが言える自分になりたいとずーっと思っていました。
活動していた1年後に長男が事故にあってしまいました。

長男の遺体をみた時でさえも、こんなに綺麗に包帯を巻いていただいて有難うございますと医師と看護師さんにお礼を言う事が出来ました。
2月9日、朝早く家を出ないといけないので長男の尻をポンと叩いて、顔も見ずに出掛け読み聞かせのボランティアを終えてNPO法人の打ち合わせをして、11時頃長男にメールしました。
事故に遭ったのは11時9分で、私のメールは見ることが無かったようです、返信はありませんでした。
連絡があった時は夜中の2時30分で事故で即死だとの電話でした。
包帯でぐるぐる巻きにされた長男のにっこり笑ってる様な顔を見て「あんたはだいたいなんばしおったと」と言いました。
事故でどなたかに迷惑をかけたのではないかと、ということも気になりました。
朝8時半ごろ家に帰って、荷物を纏めていると、ワイドショーの様に沢山のTVカメラとマイクが向けられて、お母さん息子さんが飲酒運転の車にはねられたんですけれどと、マスコミから知らされました。
友達も亡くなったことも知らされました。
TVカメラの前に踏ん張って、飲酒運転は殺人です、何にも悪いことをしていない二人があっと言う間に奪われる、まるで無差別殺人と一緒です、とTVに答えたのが全国のニュースになったことを後で知りました。

子供達の中には仇打ちに行くぞと元気のいい子がいたそうですが必死に先生が止めたそうです。
彼等は大人の身勝手な飲酒運転と知り、怒りのぶつけどころが判らず、壁に頭や手をぶつける音がたくさんしました。
駅で明日行われるマラソン大会について話した後、自転車を取りに行っている最中に事故に遭ったと言います。
二人がいちばん伝えたいことがあったとすれば、明日が当たり前に来るということはないと言う事、この瞬間瞬間が奇蹟に近い様な素敵な時間で、だからこそこの奇蹟の時間を一生懸命に生き抜いて行かないといけないという事を彼等に教えてもらった様な気がします。
お通夜とお葬式には1500人の友達が来てくれました。
友達から色々知らないことなども聞く事が出来ましたが、もっと息子と話をしていればよかったと思いました。
長男の事故から心に決めたことがあり、「ありがとう」と「ごめんなさい」はその日のうちにちゃんと相手に伝えていこう。
「行ってらっしゃい」と「行ってきます」は相手の顔をちゃんと見て、無事に帰ってきてねの願いを込めて、ちゃんと言おうと今も主人ともそうしていますし、スタッフの皆さんとも声をかけています。
幼馴染の男の子が大きな声で叫びました、「なんで寛大だったんだろう」と言う言葉。
私も「なんで寛大だったんだろう」と思いました。
お酒を飲んで車を運転すると言う事は人の命を奪う大変危険な行為であると言う事を知っていただく活動をしますと言うのが、出棺の挨拶になってしまいました。
毎日毎日朝から晩まで泣いていましたが、マスコミの取材は断りませんでした。
訴え続けていかなければ世の中は変わらないんだなと思いました。
福岡県は飲酒運転が多い、2006年の事故からたった5年で又飲酒運転の事故でした。
その事故は一家5人が乗った車が後ろから飲酒運転の車がぶつかり、車ごと海に落ちてしまって、幼い子3人とも亡くなってしまいました。

わたしは一人の人間として、2006年の事故の時に飲酒運転撲滅を叫び続けなかったんだろうと後悔、反省しました。
我が家の事故をきっかけに飲酒運転は駄目と言ってくれる様になりました。
飲酒運転撲滅のステッカーマーク、ハートのスットップマーク  3つのハート ①隼人(一緒に亡くなった友人) ②寛大(長男) ③二人の想い、飲酒運転撲滅を願う思い、 この三つのハートがかさなっています。
ある自動販売機のわきにこのマークを張っていただいて、ジュースを買っていただいた皆さんから全国から寄付金を募っていただいて、ステッカーを無料で渡す、次世代ステッカー配布プロジェクトをさせてもらっています。
5年間で179校7万枚のステッカーを無料で渡しています。
車が大好きなので車が犯罪を起こさない様にステッカーを他県でも広げますと言う様な手紙ももらいました。
飲酒運転がはじめて犯罪であると言う事を知りましたという様な手紙ももらいました。

息子の事故は歩道を歩いていて加害者はよく酒を飲む再犯者で以前もつかまって30万円払ったこともあるそうです。
加害者は相当飲み過ぎてしまって、居眠り状態で75km/H以上で真後ろから二人にぶつかり殆ど即死の状態でした。
刑事裁判で周りに飲んでいた人も、店の人もまさか加害者が運転するのを知りませんでした、といったが、一人位タクシーを呼んでくれる人がいなかったのか、一人ぐらい運転するのはいけないと言わなかったのか、叫びたかった。
同級生が裁判に来て、加害者に一言文句を言ってやろうと来たと言う事でした、一緒に法廷に入りました。
懲役14年と言われて息子の命は14年なのかと思うと、ワーッと泣いてしまって、同級生も一緒に泣いてしまいました。
同級生は文句を言おうと思ったが、加害者の顔を見たらあまりにも普通の人なので吃驚したと言っていました。
飲酒運転は重大は犯罪ですが、たまたま酒を飲んでたまたまハンドルを握ったが為に起こしてしまう犯罪です。
加害者35歳、年老いた両親がいて、深々と頭を下げる姿を見て、同級生たちが「いかんよね、こんなにご両親にみじめな思いをさせたらいかんよね、だってご両親には関係ないやん」と言ったのを本当に私もそうだと思いました。
「被害者を出さないのは当たり前、本当に大事なのは加害者を作らないことだ」といってくれました。
被害者の周りの人達はとんでもない悲しみを背負って生きています。
加害者の周りにいる方も或る意味被害者かもしれません。
加害者を作らない世の中にしないといけないと思っています。
講演の中から出会いが出来、応援してもらいました。
飲酒運転ゼロ、交通事故もゼロになる様に 福岡県の皆さんで目指すのは「飲酒運転ゼロ」





2016年2月26日金曜日

2016年2月25日木曜日

2016年2月24日水曜日

大石芳野(写真家)       ・生きていることへの答えを求めて(2)

大石芳野(写真家)          ・生きていることへの答えを求めて(2)
戦争は終わっても終わらない。
40年前東南アジアを旅をした時に、地元の人が日本軍の残虐行為について語った。
大変ショックを受けて、この人たちにとってあの時の戦争は終わっていないと強く感じた。
戦争が終わっても心の奥にどっかりと居座っていると言う事が、判った。
「戦争は終わっても終わらない」 という題名の写真集
広島で被爆して、被爆したお年寄りの女性。
しわだらけの両手が大写しになっていて、指が歪んでいて、細かい柄の有る布を持っていて、竹の物差しが乗っている写真。
清水鶴子さんという女性。
話をする中で私の悩みを包んでくれた人、この人と話すことによって広島の写真を撮れるようになった。
爆心地から1.5kmのところで被爆、全身をやけど、指も10本のうち5本しか残っていない。
そんな身体で戦後幼い息子と弟を育てるために一生懸命和栽をして生き伸びてきた女性。
ご主人を戦争でニューギニアの近くで失っている。
筒に収めてある大切な写真を私に見せてくれた。
まるで彼女の息子の様に若いご主人の軍服姿が現れて、夫婦の半世紀の歳月はどんな風なものだったんだろうと思いました。
二度と自分の様な体験を繰り返さないために、伝えてくださいと何度も言われました。

「広島半世紀の肖像」にも彼女の写真が何枚か写っている。
良い顔は生まれ持った美形と良い顔、表情は違うと思う。
鶴子さんは奥の深い瞳を持っていて、いい表情です、人生の厚みが映っているのかもしれない。
「戦争は終わっても終わらない」写真集には200枚ぐらい掲載されているが、沖縄の写真の中に一枚、無数の石ころをぼた山の様に積み上げられた石の山が画面いっぱいに映っていて、背後に大勢の男女の若者たちが写っていて、ぼた山に向かって手を合わせている写真。
1996年、開邦高校教諭金城満さんと、佐喜眞美術館の館長さんが話あって若い人たちに沖縄戦をどうやったら伝えられるかを話し合って、生みだされたのがこの山で、高校生が一人一人が石に番号を付けてゆき、めんどくさいとか、なんでこんなことをするのかとか皆不満たらたらだったが、数字がかさなってゆくに従ってシーンとなり、その内にすすり泣きが聞こえるようになって、出来た石の山で、沖縄戦で亡くなった人たちの数字で23万6095個の石になった。
23万6095人の命という事です、「石の声」と名付けられた。

沖縄の場合には1972年に行ったのがはじめてで、エキゾチックでいいなと思ったりしたが、話をする中で段々彼らの根っこかなと思う様な話がでてくるのが沖縄戦でした。
沖縄戦の事を取材するためではなかったが、そのことがガーンと来て1年に何回も足を運んで沖縄戦の様々な話を聞く事になりました。
今と違って生々しくいろんな人がたくさんの人が心の中に持っている時期でした。
琉球という独立国が薩摩によって平定されて日本の国になり、歴史を辿った結果沖縄戦になり、沖縄戦の結果が米軍基地と言う歴史の流れがあります、沖縄戦が中核にあります。
顔中に一杯しわのあるお婆さんが薄暗い場所で体をかがめて、光が射してくる斜め上の方を見上げていて、そこに誰かいる様な眼差しで見上げて見ている写真。
沖縄には自然の洞窟が沢山あり、戦争中は防空壕として使われた。

これは「轟の壕」というが、終戦となり、沖縄戦の終わった日を平和の日としているが、全県下でいろんなお祈りが行われるがその時にこの女性は「轟の壕」にやってきて、話を聞いたら自分はここにいて、南部の壕を転々と逃げまわって、ある壕で子供を生み、ここに逃げてきたが、生まれて間もなく6月21日に亡くなってしまって、食糧不足で乳もでなくて、3歳の娘もいたが6月22日に亡くなってしまった。
23日に戦争が組織的に終わって、彼女たちが救出されたのが24日だった。
ほんの数日の違いで二人の子供達を一遍に亡くしてしまった。
彼女は6月が来ると子供たちに申し訳なくて、眠れなくなると言います。
勇気を出して来て、ようやく今日お参りが出来て、これで私はようやく眠れるかも知れませんと言っていました。
今でもこういう女性がいるんだということが、戦争が終わっても終わらないんだと何度も痛感しました。

東日本大震災 2011年3月11日
東京は節電があり、5月2日福島に行きましたが、福島は明るい、それでいいのと思ったが、何秒かして福島は東北電力だった、使ったのは首都圏で、福島は使ってはいない東京電力の放射能をあびてこんな大変なことになっているんだと気づいてその瞬間から、私は物凄い生針を飲んだような気分になってしまって、それがずーっと今でも続いています。
体調も万全ではなくて、月に一回訪ねることを続けました。
飯舘村、60歳ぐらいの男性の写真、額に深いしわが刻まれ目には涙がたまっている、大写しの写真。
2012年3月に会った人、田畑を放射能で汚染されてしまって、声を立てて泣いていて、自分の60年間の人生がこの事で壊されてしまったと言って、悲しみだけでなく、くやしがっている、怒っている、憤りをどこにぶつけていいか判らない。
東電のある所から飯館村は距離が離れていて、まさか汚染されるとは思っていなかったが、飯館村に放射能が降り注いで全村避難となってしまったが、彼は飯館村から避難しない。
何故かというと大好きな場所でもあり、家族で過ごしていた話声、笑い声の残っている空間、田畑を見続けたい、避難する友人から預かった犬、そういったために避難しないと言っている。

荒涼とした風景の中に小さくぽつんと犬が遠くからカメラの方に目を向けている写真。
飼い主に置き去りにされた犬が荒れた田畑をさまよいながら、懐かしそうに寂しげな目が向けられた、という言葉がその写真に添えられている。
そこは放射能がいっぱいで、そこには立ち入る事ができない、それはまるで戦争でそこの地域を敵に占領されたという様なもので、そういうものが福島にもあると思いながら歩きました。
どの様に深刻で暗いテーマの写真集でも、かならず心の救いとなる笑顔の写真に出会う事が出来る。
生きていることへの答えを求めて、写真に取り組んでいる。
旅をしていて一番嬉しいのは、人々の屈託のない笑顔に出会う事で、笑顔を見るとここへ来てよかったなと思う。
コソボに行った時に、少年が涙をこらえて笑みを見せた、その少年の顔はいつも目に浮かぶ。
その子は自分の目の前で父親をセルビア勢力によって殺されて、どんなに大きな傷を負ったのかと思うが、彼がその話をしてくれた時に思わずポロっと頬に涙が伝わったが、それをこらえて一生懸命笑みを浮かべたいと思う健気さ、思わず抱きしめたいと思いました。

福島で赤ちゃんをおんぶしているお婆さんと3歳ぐらいの男の子があぜ道に立っている写真。
子供はニコニコ顔、持っている箱の中には沢ガニが入っている。
蟹だよと言って満面の笑みで私のところに走ってきた。
福島にはまだ汚染水の問題とかかなり色々不安になる情報があるが、笑顔があると言う事は希望がある、人間への信頼感、人間の力強さみたいなもの、魂の力強さはあると思う、それが無くなると言うのが戦争とかだと思うし、魂が生き生きしている事に期待するし願っている。
戦争ではなくても、辛い話を聞くと、思い出させてしまって申し訳ないと思うが、私は伝えてほしいから話したんですと言われて、逆に勇気付けられてしまいます。
一番伝えたいことは、人間の尊厳、命の大切さ、それは人間としてみんな一人ひとり平等にある、という事です。
ただし戦争とかで奪われる、悲しんでいる人がいる、その人の体験を無駄にしない。
辛い話を聞いた事の責任から逃れられないと思っていて、潰れるまでやるしかないと思って自分の中で対話しています。



2016年2月23日火曜日

大石芳野(写真家)        ・生きていることへの答えを求めて(1)

大石芳野(写真家)      ・生きていることへの答えを求めて(1)
大学卒業後写真の道に進み、女性にはまだなじみの薄かったドキュメンタリー写真の分野で長年に渡って仕事をされてきました。
とりわけベトナム、カンボジア、コソボ、アフガニスタン、アウシュビッツ、チェルノブイリ、広島、沖縄、福島等、戦争や災害によって心身に深い傷を負った人々と向き合い心に触れ合う対話を通して、深くその内面を表現した写真は、魂との対話とも言われ高い評価を受けています。
大石さんの代表作の一つ、「ベトナム凛と」という写真集は 2001年に土門拳賞を受賞したほか、数多くの写真集や、著書があります。
どの様な人々に出会い、どんな姿にレンズを向けてきたのかを伺います。

日大の芸術学部写真学科、1960年代の半ばで、世の中が荒れていた時代でもありました。
ベトナム戦争も烈しくなって、65年にベ平連が出来て、若い人たちが関心を持ちました。
ベトナムの学生との、交流会が出来てベトナムに行きました。
彼等は生きたくても生きられない、崖っぷちに立たされた様な状態で、兵士、村人、家族もそういう状況になる。
わたし自身何の為に生きるのかと考えて、長いこと鬱の状態にあった。
ベトナムの人達と接して更に、生きると言う事は何なのかを深く考えさせられた。
1965年アメリカの北爆が始まり、1966年はじめてベトナムに行く事になる。
1975年にベトナム戦争が終結。
6年後にベトナムに行く。
何処で何をしていたのかを聞くと、サイゴン軍側、ゲリラ側の人の話しを自由に聞く事が出来た。
ベトナム戦争は世界一強いアメリカと長い間戦争をして、結果的に追い出した。
それは何だったのかという疑問にも多少は話してもらったりもした。
一人ひとりが誰かの命令ではなくて、自分の意志で、故郷を守りたい、家族を守りたい、誇りを失いたくない、という様な基本的なところで戦争をして来たという事を、感じました。
イデオロギーのにおいがしていたが、殆どの人がそうではなかった、と言う事に感動しました。

「ベトナム凛と」写真集
ベトナムの或る農民の家族を写した写真、中年の農民夫婦、息子、祖父。
顔の表情を見る限りはのどかな農村のほほえましい家族写真ではあるが、祖父の左足には大きなブリキ製の義足が長靴の様に付けられている。
息子8歳は背骨は左の方に歪んでいる。
夫の両脚は酷く折れ曲がっていて、左手が地面に着きそうになっている。
枯れ葉剤(ダイオキシン)の被害を受けた人達を取材して訪ねている。
アメリカがどうして使ったかというと、ゲリラはジャングルの中からアメリカ兵を撃ってくるので、森を枯らせばこちらから攻撃できると言う事で、枯れ葉剤を使った。
遺伝子を壊す性質を持ったダイオキシンがあり、大量に撒かれた。
広い範囲に渡って汚染され、直接、間接に影響を受け、亡くなったり、今でも障害を持った人が苦しんでいる。
この家族もダイオキシンの障害を受けて、祖父は戦争で足を失ってしまった。
あの戦争とは何だったのかを付きつけられる家族だと思っている。
この家族は凛とした顔だけに胸に迫ります。
日本人はきらびやかにしているが、同じ時代に生きていながら、ベトナムの人は粗末な着物を着ているが、しかし凛としている、後ろ姿に隙がない。
戦争の傷跡に目を向けて写真を撮ってきた。

アウシュビッツの強制収容所で奇跡的に生還した人々にも会って、その傷跡の深さを写真集にしたりしている。
クオジンスキ・スタニスワフという医者、ポーランド人で地下運動をして強制収容所に入れられた。
遺伝子が壊れたと言っていて、生まれてくる子に自分の体験の負の部分が遺伝してしまった、孫にも遺伝してしまう、といっていました。
いかに過酷であったかという事を裏付けている。
人間の尊厳を奪われた。
「夜と霧は今」という写真集に克明に描かれている。
鋭い目つきではあるがどこか怯えている写真(言葉では表現できない)
ユダヤ人は900万人ヨーロッパにいたと言われるが、600万人が命を奪われたと言われる。
まるでごみの様に捨てられたと言っている。
ポーランド人、ドイツ人(反ナチス)も命を多く奪われている。
戦争になると声をあげられない、戦争になる前にはなかなか気がつかない。(ドイツが典型か)
次への戦争を食い止めるための歴史であり事実ではないでしょうか。

「愛しのニューギニア」 はじめての出版 34歳の頃
石器時代の様な暮らしをしていたパプアの人達。
メラネシアンアートという芸術に学生時代に魅かれた。
どんな人がどういう日常なのかを知りたくて、1971年パプアニューギニアに行って、付き合いが始まる。
一人で行ったが、当時まだ独立してはいなかった。
海岸部は多少文明が入ってきてはいたが高地では石器時代の様な暮らしだった。
小さな飛行機で行って、道が有れば車で入って行って、そのあとは歩いて行った。
通訳の少年とポーターと一緒に部族のところまで行きました。
2000m級に住んでいる人達はメラネシアンアートは無かったがキラキラとした目を持っていた。
目から矢が飛び出てくる様な力の有る強い目をしていて、老若男女そのような目をしていた。
その謎を知りたくて、通って良かったと思います。
薄暗い部屋で老衰で亡くなる前の状態のお婆さんの写真。
木の皮を叩いたものを衣装にしていて、キラキラした目で真っ白い歯を見せて笑って迎えてくれた。
写真を撮ってから数日後に亡くなる。
葬式があり、狭い部屋に大勢集まり、一晩中泣いて、お婆さんの事をみんなで話題にする。
貴重な布を着せられて、土葬される。
遠い村からもお婆さんに会いに来るんです、如何に人気のあるお婆さんだったかを実感できた。
自然を壊さない様に大事にしながら生きていて、自然の中の一人として自然と共に生きている。
それが眼の奥に潜んでいる輝きの一つなのかなと思います。



















2016年2月21日日曜日

投稿累計数 1500になりました

投稿累計数 1500になりました。
2011年2月22日の日付が投稿の始まりで、お陰様で1500回になりました。
併せて明日、2016年2月22日で5周年という日も迎えます。
ほんの表題だけとか、再放送も含めてですが、一応きれのいい数字になり、一つの区切りかと思います。
今宵は、ちょっと多めの酒とツマミで晩酌を楽しみたいと思います。
途中で、頸椎を痛めてしまい、首、肩、左腕が痛くてどうなるのか心配でしたが、その後回復してきて多少の後遺症(左の親指先、人差し指先に若干の痺れがある)がありますが、キーボードをたたくには殆ど影響がないので、続けて来られることが出来ました。
風邪を引いたり、二日酔いの時もありましたが、回りの悪い頭でなんとか投稿を続けられました。
(しかし、そういう場合は誤字等が多いことが判明)
大分誤字等もあり、読みにくかったと思いますが、Kさんからは途中から誤記、誤字、脱字等をチェックしていただき、且以前の分までチェックをしていただき、過去の分を含めて修正を加えることが出来ました。
読んでくださる方々には、読み易くなったのではないかと思います。(投稿日の翌日以降)
Kさんにはこの場を借りて改めて感謝します。
又Mさん、Hさんからは「よくやっているね」との励ましの言葉をいただき、そういった言葉に支えられて、今日まで続けてこられる事が出来ました。
Mさんからは併せて「一日一日を大事に過ごす様に」との言葉をかけてもらい、その言葉の重さを感じつつ、その様に心掛けるようにしようと思いながら、果して自分ではどの程度出来ているかというと、非常に心もとない次第です。
もし、この「明日への言葉」を読んでいただいて、他の人にも薦めてみたいとの思いがあるようであれば、声をかけて広めて頂ければと思います。

いままでのブログについての内容ですが、現時点の総アクセス数は 623583
海外では一位は常にアメリカ(日本のアクセス数の2~5%程度)、その他は時に依って違いますが、カナダ、ロシア、ドイツ、フランスとか、非常に少ないですが、こんな国からもとか、色々です。
2月21日時点でのアクセス数のベスト10は以下の様になっています。
第一位  夏苅郁子(児童精神科医59歳)     ・統合症の母との歩み 22515
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/59.html
第二位  大内順子(ファッション評論家)   ・時代を創った女たち 7614
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/blog-post_12.html
第三位  キュッヒル・真知子(コンサートマスター夫人)・ウィーンの人と音色に魅せられて 5547
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/11/blog-post_5.html
第四位  蓮池薫(新潟産業大学講師56歳) ・北での24年と帰国10年  5497
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/562410.html
第五位  故・深谷義治さんの二男・敏雄  ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵 5313
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.html
第六位  笹森理絵(42歳)           ・発達障害を知ってほしい 5195
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/42.html
第七位  塩崎均(近畿大学学長、医師)   ・医者が癌になって判った事 4688
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/12/blog-post_20.html
第八位  篠田桃紅(女流水墨画家100歳)  ・水墨抽象画一筋に一世紀 4615
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/05/100.html
第九位  永瀬忠志(冒険家56歳)       ・リヤカーマンが教える冒険スピリット 4588 
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/11/560.html
第十位  坂本小百合(動物園長62歳)    ・象の楽園を作りたい 4421
       http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/05/62.html
他にもっと読んでほしい内容もありますが、アクセス数でのランキングになると、このようになっています。

今後ともよろしくお願いします。
秋田 宏









原 晋(大学陸上競技部監督)   ・めざせ!大学駅伝3冠

原 晋(青山学院大学陸上競技部監督) ・めざせ!大学駅伝3冠
大学駅伝は出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の3つの大会を学生3大駅伝と呼んで競合校はこの3冠を目標に掲げているところもあります。
原さんは広島県生まれ、48歳、子供の頃から走る事が大好きで、地元のマラソン大会などに 出場していました。
中学からは陸上部で活躍、広島の世羅高校では全国高校駅伝で準入賞、その後、中京大学、中国電力では全国大会に出場しましたが、大きな記録は残せませんでした。
中国電力では怪我もあり、5年で引退しました。
原さんは心機一転、営業マンとして1から努力して、上司にも恵まれて大成功、会社内で表彰され順風満帆のサラリーマン生活を送っていました。
青山学院大学から陸上競技部の監督として指導してほしいと声をかけられました。
監督要請を受けました。
就任当初、3年で箱根駅伝出場の大学からの願いにはこたえられませんでしたが、5年目で箱根駅伝の本選に出場、去年就任11年目で優勝、今年2連覇を果たしました。

私自身、能力は単純に身体能力だけではなくて、内面に潜んでいる能力をどう引き出すかという事を考えて指導させてもらっているが、その一つが言葉です。
学生たちが自ら考え、言葉に責任を持って行動している、それが強さの根底にあるものではないですかね。
4年間の育成力をもってしてどう強化してゆくか、内面能力をどう引き上げてゆくかがポイントになると思います。
指導者の言う事を黙ってついてこいという様なのが主流だったが、その子の能力をどう引き出してアイデアをどう伸ばしてゆくか、18~22歳の4年間を預かるので、卒業するときにはおとなへの一歩をかけ上がってゆく姿を見て、やはり内面に住んでいる能力をどう引き上げてあげることが、選手の成長に変わってくると思います。
話をする、提案をして行く事はいいことだと思います。
明るいムードでさせてもらっています、それがわくわく大作戦、ハッピー大作戦につながってくるんですね。
やるべきことをやった結果、3冠、箱根連覇に繋がるので、地道な努力をして、その一つの指標として3冠を掲げています。
全日本大学駅伝は準優勝、やるべきことをやっていなかったのではとの思いがあり、その悲しさが強かった、負けて良かったと思いました。(見つめなおすきっかけになった。)

男兄弟の末っ子、やんちゃだった。
家から海に飛び込むことができて、海で泳いだり、ソフトボールをしたりして育ちました。
父が小学校の教員をしていたが、勉強をしなさいとは言われなかった。
小学校入学の直前に海で遊んでいて、ブロック塀ごと海に落ちてしまって、右足くるぶしあたりに20針縫うけがをして、松葉つえを使って入学式に行きました。
ほどけた瞬間に走ることを身体の中から出てきたように思います。
マラソン大会があり、自分からでたい思いがありました。(小学校4年頃から)
マラソンの新聞記事を切りぬいて、自分も世羅高校に行って優勝を目指したいと思いました。
宮崎・小林、広島・世羅、愛知・中京が御三家と当時言われていました。
中学3年生の時に市の大会でキャプテンとして優勝しました。
高校時代は辛かったです。
ハードな練習に耐えて、準優勝しました。
ハードなトレーニングと共にチームの和を学びました。
駅伝は世羅が制すると言う風になってゆきたいと思いました。 
高校は世羅、大学は青山、実業団は中国電力、世羅高OBで優勝するぞと言いましたが、青山は優勝していなかったのでホッとしています。


練習の厳しさには苦にはならなかったが、理不尽な序列の中でやるのは何か抵抗がありました。
大学3年生に時にインターカレッジで3番になることが出来ましたが、もっとやっておけばよかったとの思いはあります。
ほとんどが凡人ランナーなので、凡人ランナーをどう育ててゆくのか、根底にあるものをちゃんと見てあげないといけないと思います。
18歳の学生は遊びたいものなので、それを少し我慢させて辛いことを喜びに変える為にはどうするかを常に考えています。
中国電力に入社、陸上部1期生となる。
1年目に足をねん挫して、残念な思いをしました。
営業マンとしてスタートするが、後輩におそわるという事に内心プライドは傷つきました。
営業所で3年間、その下のサービスセンターで2年間地道な仕事をして、地道な経験をもとに新しい営業マンとして成長出来ましたし、新しい会社の立ち上げにも参画出来ました。
陸上を引退して2年目、28歳で結婚。
空調エアコン販売で全社一番の成績を収めて、表彰を受けることになりました。

本来は大卒一期生として将来の幹部候補生として(監督候補として)入社した訳ですが、成果をだせなかったわたし自身の反省、迷惑をかけた中国電力の幹部の皆さんに対しての恩返し、腐ること無くやってゆくのが最大の恩返しと思って仕事をやってきました。
高校時代の後輩から話を貰って、失った陸上界への思いがあり二つ返事で受けました。
青山学院大学に行く事になりました、(後輩が世羅・青山学院大学のOB)
周りは誰一人賛成しませんでした。(妻、親、友人等)
3年で箱根駅伝に出場してほしいとの要望がありました、
中長期で物事を考える社風と、わたし自身の考えで、長期プランを考えました。
5年で箱根駅伝出場、7,8年でシード、10年で優勝争いをするチームに、というようなプレゼンテーションをしました。
裏付けを持って組み立てて強化してきたので、勢いで勝ったわけではありません、地道な積み重ねです。
前の監督はこうだったとか、対立はいろいろありました。
衝突を繰り返しながら、賛同してくれた多くの学生がいたので心強かったです。
1期生の学生だけが箱根駅伝には出場していない、彼等の礎があるからこそ今日の連覇があると思います。

ものごとの考え方の根底にあるのが、陸上界があって世の中があるのではなく、世の中があってその中に陸上界があるという事を、ベースが私の中にあり、世の中に受け入れられない業界は衰退すると思っている。
世の中は変わるので、陸上界は変わっていない現実があるので、進化しないといけない、そうしないといい組織に成れない、愛されない、注目されない、そうすると内面能力が上がってこない、レベルが下がる。
年間目標管理シートを学生に書かせる。(中国電力時代の目標管理ノウハウの応用)
チームの目標と共に個別の目標を自分自身で管理する様な選手にならないと、自立は生まれない。
同じ材料、レシピで作っても料理の味は違う様に、スポーツの現場も一緒でさじ加減が違ってきます。
真似されても良いと思っています、そうすると業界の発展になると思います。
新しい陸上界の時代を作ってほしいと思っています。
言葉を大切にして、明るい事はいいことだという事を訴えています。
新しい形態の組織にする、20年計画でやっていかないと無理なので、教え子たちが指導者になって変えていってほしいと思います。



2016年2月20日土曜日

福島敦彦(元高校野球部監督)   ・高校野球を見つめ続けて

福島敦彦(元報徳学園高校野球部選抜優勝監督)・高校野球を見つめ続けて
             (元NHK高校野球解説者)
74歳 報徳学園高校で現役時代は内野手、キャプテンとして活躍、慶応義塾、中山製鋼所、後にそれぞれで指導者をしてきました。
特に報徳学園では昭和49年選抜でチームを甲子園制覇に導きました。
その後大学、社会人の監督も歴任、NHKの高校野球解説も務め、現在は新聞の高校野球のコラムなども掲載されています。

秋の大会の成績で何処が出るかは分かるが試合は3月なので長い。
昭和49年に第46回大会で優勝しました。
大会まで長いのでコンディション調整が難しい。
冬場の地道な努力が大事な時期です、生徒の身体も大きくなる。
一回戦が鹿児島商業でピッチャーが良かった。
強いチームと当たって強くなっていった。
一回戦は負けると思ったが暴投したボールがうまく戻ってきてという奇跡的なことがあり、最終的に1点差で勝つ事が出来た。
その後も1点差で勝つ事が出来、準決勝は5-1で平安高校に勝つ。
報徳はあまり候補には上がっていなかった。
当時は4人凄いピッチャーがいてそれぞれプロになっています。(中川、工藤、定岡、土屋)
幸いしたのは木のバットでした。
本当についていました。

池田高校が決勝の相手。(選手が11人のチーム 報徳は50人以上)
報徳の良かった点は守備が安定、バッテリーが安定、ピッチャーが2人いました。(右と左のピッチャー)
はじめて甲子園を制覇することが出来ましたが、優勝するとは思っていなかったので吃驚です。
33歳の時でした。
翌年準決勝で負ける。
慶応から呼ばれて、6年間監督をするが、6校の中で12シーズン最下位が2回有りましたがその時は非常に勉強になりました。
人生山あり谷ありだと思います。
戦力的に優勝するのには難しいが、負けたのは自分の責任だと思います。
選手はちょっとしたことで伸びることがあるし、そうでないときもあります。
大学生とは大人として扱うので或る意味やり易い、高校生は扱うのが難しいが面白いです。
クラブ活動が何故いいかというと、先生からきちんと学んだり、上級生、下級生の縦の繋がり、きずなも生まれるし、将来のプラスになると思います。

今の生徒の方が情報を沢山持っている。
指導者はそれに対応していかないといけないので、指導者は今の方が大変だと思います。
昭和57年の春から平成 10年まで解説をさせてもらいました。
PL学園、58,59,60年全て甲子園に出ていて、優勝2回、準優勝2回、ベスト4一回。
本当に強いチームだった。
残念ですが、休部になっていますが知り合いが必ず復活すると言っています。
松井選手 5敬遠が思い出があります。
平成4年 明徳が勝ったが、5敬遠でブーイングがあったが、彼はずば抜けていた。
4打席目は2アウトでランナーがいなかったが、この場面も敬遠したので勝負をしないのはいけないと放送でいいました。
敬遠されたことに松井選手は苛立つ事も無く、バットを静かに置いて一塁に走って行った。

松坂大輔 平成10年 解説の晩年が平成10年でした。
剛腕で浮き上がってくるようなボールでした。
甲子園で11試合で11勝0敗でした。 6完封。
決勝戦は最後の解説でした。 ノーヒットノーランでした。
公式戦では40勝1敗 (2年生の神奈川大会決勝で暴投をして負けた。)
人間心に隙があるとやられます。(私は優勝旗返還の練習をして地方大会決勝で負けました。)
長くやってこられたのは女房のお陰です。
いま地域ボランティアにはまっています。(子供への交通補導)
校長先生が率先して元気な声で挨拶するので、子供も挨拶がしっかりしています。
高校野球の監督も全く同じです。
子供たちが野球が出来る場所が欲しいと思います。
年を重ねると、日々感謝する、一日一日を頑張って終わったら感謝の言葉を言う。
「有難う、有難う、今日も有難う」と歌って寝ます。

















2016年2月19日金曜日

米山けい子(全国フードバンク 代表)・無駄なく食を分かち合いたい

米山けい子(全国フードバンク推進協議会代表)  ・無駄なく食を分かち合いたい
フードバンクは食品関連の企業などから賞味期限内で有るのにも拘わらず、さまざまな理由で販売できなくなった食品を譲り受け、生活が苦しい家庭や福祉施設などに無償で提供する活動をしています。
全国に40ほどの団体があります。
山梨県南アルプス市のNPO法人フードバンク山梨もその中の一つです。
理事長の米山さんは62歳、2008年からフードバンク山梨の活動を始めました。
フードバンク山梨の支援などを受けている家庭は100世帯余り、集められた食品は月2回支援対象の家庭などに送られています。
フードバンクの活動、活動資金や人材育成など課題も多くこの課題に取り組もうと、去年11月全国の団体が全国フードバンク推進協議会が発足し、米山さんが代表に付きました。

米6トン、缶詰め、インスタント食品等が倉庫にいっぱいあります。
企業は50社と契約しています。
賞味期限が近付いたもの、賞味期限により販売期限があり販売できないもの、社会貢献として支援をしたい企業などがあります。
食糧支援が5名、トータルで10名ぐらいいます。
ボランティアの方も多くかかわってもらっています。
食品の整理、施設への配布、行政との共同に重点を置いています。
かならず食料が必要な方に届く様にしています。
行政の窓口に相談に行くときに、生活保護、制度のはざまにいる人に対して申請書がありますので、申請をしたりしてもらって、行います。
月2回箱の中に食べものもいれますが、心の交流も大切にしていて、手書きの手紙を箱の中に入れて、当事者の方に返信葉書に困ったことなど書いていただいて、市の窓口や関係する窓口などに繋いだりして、改善できてゆくようにしています。

近所に知られたくないという様なこともあるので、活動資金からお金を出して目だたない様に、宅配を使っています。
行政とは違ったNPOが柔軟な対応が出来ると思っています。
返信はがき
「援助有難うございます。 子供を2人育てながら仕事をして不安を抱きながら生活してきましたが、温かいお手紙と食料をいただき涙が止まりません。・・・。」母子家庭からのはがき
「品物が届きました。・・・ここ数年本当に大変な思いをしていました。 2年前一日にとうふ一丁しか食べさせられない時がありました。 身体の大きな孫が空腹で眠れずに夜なかに台所でボーっと立ちすくんでいました。 その姿は今でも忘れません。 ・・・助けていただいて本当に感謝しています。」 孫と二人で暮らす家族からのはがき

1992年 私が仕事をしながらアフリカの子供たちへの米を贈る運動など、海外の貧困問題に関心があり、仲間と一緒に送っていましたが、この活動を始めたのは仕事を2008年に辞めて社会貢献したいとの思いがあり、自宅で一人からフードバンクが必要だと思って始めました。
アメリカでは50年の歴史があります。
苦労はあまり感じませんでしたが、行政にかけあっても、何処にも担当部署がなくて、こういった活動を認知されるまでが大変でした。
食べものを役所の窓口で渡してもらえないかという事で、これは役に立つという事で全県下に広がってきたという経過があります。
企業の方に来ていただいたり出向いたりして交渉したり、又もったいないという思いが最初ありましたが、活動を進める中で貧困の問題が判ってきました。

2009年に事務所が出来てそこに電話があり、食パン一斤も買う事が出来ないという事で自宅に駆け付けて、話しを聞くと、4人家族で大きな家ではあるが家の中もがらんとしていて、暖房も出来なくて、お粥で過ごしていたという事でした。
奥さんが病気になってご主人が仕事を辞めて看病に入ったという事で、数年間は貯金の切り崩し、知人親戚からの借金で、その後僅かの食べものがないという様な状況におちいってしまって、ホームレスとは違って目に見えずに困窮者があるという事に突き当たって、こう言った人達への宅配で 月2回とか送る必要があるのではないかと思いました。
9世帯から始まりました。
フードバンクは政策的には何も明記されていない。(アメリカでは法律に明記されている)
人、事務所、倉庫、車などが必要で、企業との信頼性も必要で、かなり多きな動きになってくるので一般の方からの寄付、補助事業、運営資金は課題になっている。
認知度がまだまだ低いので寄付は少ないです。

2003年から毎年やっているが子供の貧困の調査、食費が1日400円未満が64%。
緑の野菜は食べられず、もやしなどを食べている。
過去一年間必要なものが買えなかった経験があるというのが75%の家庭で有るという事でした。
食べもので買えなかった事の一般の家庭との比較では、よくあった、ときどきあったが80%近くがあり、通常は1~6%程度だが。
重篤な状況にあることが判ってきています。
解決に向かうためには、フードバンクと繋がることによって多くの子供達を広く救う事が出来るのではないかと私は期待をしています。
課題は
①運営資金
②専門家いない、著書などもあまりない
③フードバンク間の情報の共有が進んでいない
④認知度が低い

昨年11月に全国組織が出来る。
次の世代につなげることが大事だと思っています。
シンポジウムをやってきましたが、同意を得て全国フードバンク推進協議会が出来ました。
現在12団体、今後機運が高まってくると思います。
組織がしっかりしてくると、国への政策提言等も進んでいくと思います。
今はコンクリートの上に種をまく様な状況で、今後土壌を豊かにして行くのが全国フードバンク推進協議会の役割だと思っています。
①困窮者支援
②食品ロス
③市民、農家、行政、企業など様々な関係者が集まって出来るという強みがあるのでまさに地域作りだと思っています。

フードドライブキャンペーンをやろうという事で認知度をあげていきたいと思っています。
市民の皆さまから、贈答品、米などの余剰品、等に対するボランティア活動をします。
皆さんに行動していただけるのが、力になります(賛同から参加に!)
子供達を抱えている学校との連携をも考えています。










2016年2月18日木曜日

田中徹二(日本点字図書館理事長) ・みんなに役立つ音声図書

田中徹二(日本点字図書館理事長)   ・みんなに役立つ音声図書
81歳 19歳の時の失明した田中さんは57歳の時、東京高田馬場にある日本点字図書館の創設者本間一夫さんに乞われて2代目館長に就任、現在は理事長をしています。
田中さんはパソコンを使ってデジタル図書の作成とそのネットワークを充実させただけでなく、駅ホームの転落防止柵の設置にも尽力、道路の点字ブロックの在り方にも携わる等、視覚障害者だけでなく誰もが暮らす社会に力を注いでいます。

1991年4月からこの図書館に来ました。
点字もやっとパソコンで打てるようにようやくなった時代です。
録音にくらべるとはるかに少ないデータ量ですので早くなじみました。
1988年にパソコン点訳が正式に始まり普及していきました。
来て最初にしたのは女性団体からお金をもらってパソコンを購入して、点訳ボランティアの方に渡して点訳してもらいました。
音声に使えるようになったのは2000年に入ってからです。
世界統一のソフトになりました。(DAISY Digital Accessible Information System)
目が見えている方が本を読んでいる同じ感覚で、録音した本を読むことが出来ます。
パソコンの性能が上がったので、パソコンで作れるようになりました。
インターネットも発達してきたので、インターネットの中に図書館を作って、自分で本を探してダウンロードして、自分の機械で聞くという事が出来るようになりました。

パソコンを使える視覚障害者は少ない、この図書館登録者が1万3000人いますが自分で出来るのは1/3です。
視覚障害者が高齢化したり、高齢になって視覚障害になった人も多いので、パソコン利用していなかったりする。
電子図書、画面で見るが 音のものも出てきています。(オーディオブック)
特別な機械なので普通に人には使えないし、視覚障害登録をしなければいけない。
目が見えるが学習障害、発達障害の人にも貸すことはできるようになっています。
学習障害→文字だけでは理解できず文章を読んでもらったら理解できる。
マルチDAISY図書 テキストと音声が一緒になっているもの、画面で文字を見ながら音声で聞くもので学習障害には良い。
サピエ図書館 月刊誌、週刊誌もあがる。(5日あとぐらいには出来る)
在宅でボランティアの方が自分が決められたコーナーだけを読んで、それを編集する人のところに音声で送ってしまって編集者は本を見ながら順番どうりに並べていって週刊誌を作るわけです。
盲人にとって今は本当に情報を取るのに、昔に比べて桁違いになりました。
ボランティアの人の力が大きい。

うちの図書館はカセットテープの貸し出しは止めてしまっていますが、地方の図書館ではDAISYをカセットにコピーしてカセットを貸し出している所がまだ沢山あります。
同行援助で外へ出る人が多くなってきました。
1981年国際障害者年を境に障害者が積極的に外に出るようになりましたが、視覚障害者が外に出る事はきつかったです。
ホームから落ちたり、危なかった人はほとんどのひとが経験していて、私が調べたときにもホームから落ちた人は半数近く経験を持っている。
今はホーム柵があるからどんどん歩けます。
点字ブロックもいろいろあったが、視覚障害者を集めて実験をして一番判り易いブロックの形はどうかと見つけだしていまの規格が決まっています。
外国で点字ブロックがあるのは珍しいです。
点字はフランス人が考えて、世界で使われるようになってから日本に来ました。
フランスが点字を公式に認めてから日本で使えるようになるまでに40~50年掛かっています。
石川倉次が日本語の点字を考案して正式に認めた日 11月1日が点字制定記念日

録音図書が普及したのは日本が一番早かったのかもしれない。
テキストDAISY パソコンで一般のひとがだれでも見れるという事になると、著作権が侵害されることにもなるので、テキストDAISYでは保護されている。
インターネットを利用する方法などは日本ははるかに進んでいます。
ドイツでは録音については全部著作者に許可を貰っている。
世界の著作権の協会があり、マラケシュ条約を作って世界の国が批准すればいいと決めたが、盲人用の本を作るのに録音も著作者の許可を得ないでもどんどん作れるようにしようということが決まっていて、日本にも条約を批准するようにとの事ですが、日本では殆どクリアーしている。
手が不自由で本を持って読めないとかの人も対象にしようとなっていてそこが日本では対象になっていないだけだと思います。
マルチメディアDAISYを作ることは大変です、ボランティアがやっていますが。
教科書等もボランティアで作っているがそれでいいのかなあと思います。
点字の盲学校の教科書は文部科学省が作っているが、それ以外の一般の学校に通う目の見えない生徒にはボランティアが作っているが、それでいいのかなあと思います。











2016年2月17日水曜日

福島 智(東京大学教授)     ・ヘレンケラー ワンダーランドを作りたい

福島 智(東京大学先端科学技術研究センター教授)・ヘレンケラー ワンダーランドを作りたい
昭和37年兵庫県生まれ 3歳の時に右目、9歳の時に左目を失明します。
18歳の時には耳も聞こえなくなります。
10代の多感なころに目が見えず、相手の声がどんどん聞こえなくなることへの、恐怖心、福島さんにとって光と音のない状態は、まるで魂がむしばまれていくような状態だったと言います。
そんな福島さんを救ったのは言葉です、母親の令子さんが思いついた指点字でした。
掌に指で言葉をつたえ会話をすることでした。
さらにパソコンなどので電子機器の発達で研究活動も便利になり世界の人達と議論できるようにもなりました。

先生の隣に若い女性が2人いて、話した言葉を福島さんに伝えて、指点字で話していただく形式。
片手3本、両手で6本の指で話している事が伝わる。
「ヘレンケラー ワンダーランド」を思いついたのは 「僕の命は言葉と共にある」という本の中にある、テーマパークみたいなところで光も音もない状態にして、ヘレンケラーと同じような世界を体験する事をやったら、見える人もいる中に、ヘレンケラーの様な人もいる、私にとって理想の社会なので、現実の社会がそういうものになってほしいという事、みんな一緒にその国で暮らしている、そういう状態が・・・だと思っている。(全体的に良く聞き取れず)
障害者や高齢者の前に存在する生活上のバリアの実態を明らかにし、当事者の視点や生活実感を研究の立脚点にバリアの撤廃を目指す研究。
今、日本が抱えている高齢社会、機能が衰えてゆく、段差などで躓いたりするが、障害にならないようにしてゆくためにはどうしたらいいか等、物理的なものだけではなくて、法律、制度の中にあるバリア、壁をどうやったら取りはらっていけるか、人の心の中にある壁、男性と女性の間にもある心の壁、そういった壁をどうすればそれを取り除いっていけるか、広い意味でのバリアーフリーだと思っている。

様々な条件を抱えた人達がそれぞれ社会に加わっている、それが大事なことですし、目と耳が聞こえない人にも・・・・・ ヘレンケラーワンダーランドだと思っています。(全体的に良く聞き取れず)
・・・鍵を握るのが言葉、思いの根っこにあるのがそういう気持ちです。
光と音の代わりに人と人をつないでゆく大事な命綱がここにあるのかなあと思います。
言葉に依って生きている部分があると思います。
2001年10月、初めての国際的な盲ろう者団体、世界盲ろう者連盟が発足した時に、指点字に依って真っ暗な真空状態から救われた時の感動を私は詩にしました。
「指先の宇宙」
「僕が光と音を失った時、そこには言葉が無かった。 そして世界が無かった。
僕は闇と静寂の中でただ一人、言葉を無くして座っていた。
僕の指に君の指が触れた時、そこに言葉が生まれた。
言葉は光を放ちメロディーを呼び戻した。
僕が指先を通して君とコミュニケートするとき、そこに新たな宇宙が生まれ僕は再び世界を発見した。
コミュニケーションは僕の命、僕の命はいつも言葉と共に在る。
指先の宇宙で紡ぎだされた言葉と共に。」

10代で光と音のない世界に入った。
最初凄く落ち込みました。
真っ暗な世界に放り込まれたんで、・・・・。
小さい時から目と耳が悪くなってきて、右目、左目そして右耳、左耳とその過程が不安で、・・・ここまできたらこれ以上悪くなるとはならない、と思って発想を変えて・・・。
言葉のむこうに人の存在が、友達とか、ボランティアとか、私を育ててくれたくれたこと、人間は自分一人では生きていけない、・・・具体的な言葉を伝えてもらうという事があったから、生きていけると思った。
・・・見えないし聞こえないが、メロディーだとか聞こえないが、言葉を語り合い言葉があったらそこにパーっと明るい光がきてメロディーが聞こえてきた。

友達の言葉として思索(詩作?)は君の為にあるという風なことをつたえてもらった。
・・・・・。
対談があり、北方謙三さんにお会いして、落ち込んでた時代があって、その時に北方さんの・・・で凄く救われたことがあって、会談後書いていただいて、先生の言葉は子供ですとおっしゃって、・・・
言葉は大変コミュニケーションの手段として大事だと思います。
不安、孤独に打ち勝つために、・・・ 不安とか、孤独今もあります。
孤独や不安は克服するのではなくて多分寄り添って生きているんだと思います。
9歳で見えなくなり、18歳で聞こえなくなってしまって、音も無くなりあまりにもひどいと思ったが、・・・何に対して言ったらいいのか、判らず、色々考えて、・・・自分の力で生きている訳ではないという事、・・・自然が、神様が、誰かが、・・・ 盲ろう者にしたんだったら何か意味があるのかなと思ったんです。
・・・将来生きてゆくための畑肥やしみたいなもの、・・・思う事にした、こじつけですが。

・・・言葉は単に文字で書かれた言葉よりも、人は人に対して語る言葉というのが凄く大きな力を私に与えてくれたという、そういうメッセージを込めています。

引きこもりの人達が何故引きこもってしまったのかとか、この人が伝えたい社会に出て来る時に、重要なカギを握ると思うが、それをなんとか・・・を通して明確にして行きたい。
科学的な研究のテーマにしてゆきたい。
ライフワークとして研究したいことが二つあって、
①盲ろう者の状態になって光と音を失って、残されたものが言葉だけであった、・・・交流のある世界中の盲ろう者 ・・・ 人間にとってのコミュニケーションの耳とは何なのかという事を明らかにして行きたい。
②生きる意味とは何か、とか、他者との繋がりを持つ事は自分にとってどういう意味を持つのかとか考えるうえで、・・・最近力を合わせてくれている。
(不満?)というものが人生にどんな意味を持つのかというものをなんらかの形で研究できないか、
・・・障害を通した・・・ 障害を通した哲学的な研究が出来ないか。

*非常に聞き取りにくくて、自分でも理解が出来ず、内容が曖昧になり正しく伝わっていないのではないかと思います。

2016年2月16日火曜日

福井貞子(染織家)       ・庶民の文化遺産 倉吉絣

福井貞子(染織家)          ・庶民の文化遺産 倉吉絣
1932年生まれ 郷里倉吉で幻の織りものとなっていた木綿織物の絣を復興させようと多くの資料を収集して技法や模様の研究をすると同時に、製作も手掛けてきました。
倉吉絣は手織りで柄の絵の様に繊細であったため、機械化も進まず、大正時代になると生産は衰えてしまいました。
福井さんは木綿のぬくもりと、模様の多彩さ、美しさを持った絣を捨てさってはならないと、製作に取り組み、その高度の技術は鳥取県の無形文化財に指定されています。
その作品は毎年日本伝統工芸展に出品され、高い評価を受けています。

徳川幕府が奢侈禁止令を出して、木綿と藍で染めた衣料に限ると言う事を決めた。
色ものも禁止、絹ものも禁止という事で柄については何も言わなかった。
そこが絣が爆発的に発展するもとになる。
絵柄に依って良い悪いの値段が違った。
糸が柔軟で保温力があって繊維も加工しやすいし洗っても強いし、着てもあったかい、使ってゆくうちに藍が色変わりをして行って良い色になってゆく。
5~10年経ってゆくうちに、本物の味と絵描いた紋様も生きいきしてくる。
昭和42年の時に、宮本常一、民族学者が来て自分の武蔵野美術館にも来てくれという事で、収蔵庫の中にそのものがでてきたが、広島の竹原という塩田地帯で使った塩田着で、140のつぎが当たっていた。
本当の野良着の姿を見て、破れていても収集しなければいけないと思いました。
綺麗な新品なものだけが文化財ではない。

明治11年に生まれたかねという大姑に師事しました。
外に目を向けることを教わって、名人のところに行くと、20代でよく絣をやると褒められた。
色々なところに行って、頼むからこの絣を残してほしいという事で、一枚一枚絣が集まってきた。
戴けるものであれば戴こうと思って、集めてきました。
何とか絣だけは貴方に預けて死にたいというお婆さんがいたが、出直してきますと言って帰って、その後2年後に行ったら、なんで今さら、紺の色は家が暗くなる、どうなるものはありません、と言われてしまって、一切ありませんと言われてしまった。
これは大変な事だとその時に気付かされて、それからは頂けるものは頂けるようにしようと思いました。(昭和41年)

画廊に絣を見せることになり、資料と絣を展示していたら、あるお爺さんがずーっと見ていて、離れることが出来ないと言って、絣はいいものだといってくれて、絣の良さが身に沁み込んでいるんだなあと思いました。
女の人の苦しい生活の中での働きよって来たんだという事が明治、大正時代は生活してきたんだという事が判りました。(家の方向きを直す、借金の返済、年貢、租税など)
絣の中の模様に願いがあるという事が判った。(鯉の模様で男の子を強く育つ様に願う)
倉吉絣は絵画の様な繊細な模様で、1cm織るのに20本の糸をあわせて織りあげてゆくが、30cmの模様の鷹のくちばし、目、羽根の一枚一枚まで正確に織っていて、布に描いた絵だと見ています。
日本で最初に絣が織られたのが、薩摩絣、次に大阪のぬま絣?、奈良の大和絣、山陰の米子の飛白絣。(皆袢纏の模様)
1800年に井上伝が久留米の絣のあられを織り出した。
1802年に伊予の鍵谷カナという女性が十字みたいな模様の点々を織る。
1820年ころに倉吉の稲嶋大助が花鳥山水の絵絣を織ることに成功する。
倉吉が絵絣の本拠となる。
明治26年にアメリカ、コロンブス万国博覧会で受賞、明治33年フランス万国博覧会で受賞する。

値段が高い(倍した)ので倉吉絣がすたれてゆく。
この地方は寒いから、太い糸を紡いで叩いて織りこんでいるので、重くて厚いので、100年着れる、摩擦に強い、洗濯にも強いし、暖かいが、見る目が体裁ばっかりを見るようになってきて、軽くて体裁がよく、直接染料で、値段が半値のものが他県から出てきて太刀打ちできない様になった。
機械が織り化学染料で染めるものに太刀打ちできなくなった。
時代が違ってきてしまって、手で織る昔からの技法は文化財として世に送り出さないといけない、これが私の任務だと思っています。
織り物は後で補正する事ができなくて、その都度気が付けばほどいいて、スタートに立つ。
身体全部が機織りの道具だなあと学びながら、原始的な工程を学んで、教わってよかったなあと思います。
父が資料館を建立して、ここに置かせてほしいという人達がでてきました。
中央からは志村ふくみ先生も来てくださって、日本伝統工芸展に出す様になって、第29回展に初入選して、今年で第62回展になります。(30数年になります)
絣を織ることによって、絣の布の見方も違って来ますし、絶えず絣のネタになる様な自然界のものを絶えず追い求めるようになります。

日々の生き方が創作に結びつく、そいういう風な見方になります。
絣計算して、縦の糸と横の糸の模様を合わせることが難しい。
予め型紙をつくって、型紙を彫刻刀で彫って、糸を並べた上に型紙を乗せて、墨汁で墨を塗りつぶすと、下の糸に穴のあいた彫った模様が写って、写った黒い模様を一本の糸にずーっと伸ばすと、30~100mにもなり、そういう模様に30~50本の白い糸を一緒に乗せて手縛ってゆく。(括る)
括ってから藍で染めると括った場所が白く残る。
それを一本の糸にして、織り幅に織り重ねてゆき、1cmに20本の密度で織られてゆく。
織りものの中では絣は最高の技術、時間と労力を使い、糸に模様を付け、自分の思う絵がそこに描きだせる。
展覧会を催して、海外の人と話があり素晴らしいという事で、3年前ウラジオストック、国立美術館で46人の作品を展示しました。
今年はハバロフスクの美術館で9月の開催の話が来ています。





2016年2月15日月曜日

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優) ・時代を創った女たち(2)(H24/10/15 放送)

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優) ・時代を創った女たち(2)(H24/10/15 放送)
舞台は露天だったので、大雨の時は舞台のところまで雨が降ってきてしまうが、お客さんは帰らない、それしか楽しみは無かった。
情の世界を描く劇が沖縄では好きだった。
沖縄の心、人に親切、親に孝行、「いちゃりばちょーでー」という言葉があるが、一度会えば皆兄弟という考え。
優しさを若い人たちに伝えなければならない。
沖縄の言葉は沖縄の文化です。

ちゅらさん」で一躍有名になった  おばあ おばあと呼ばれる 方言で呼んでくれる
沢山の人から「おばあ」と呼ばれるようになって、日本中でTV見てくれる人がいるんで、孫ができた様な気がして大変幸せです。
昔はおばあと呼ばれると嫌だったらしい。  
映画「ナビーの恋」でおばあ役をやってブレークする。   
30代ぐらいからおばあ役が多かった、難しかったが、その頃はおばあが一杯いたので見本がいっぱいあった。
今は台本があるがそのころは台本はなくて口だけだった。
沖縄でも方言が一杯ある、首里(主都)、那覇(庶民)でも言葉が違う 
首里(主都)は宮廷の独特の言葉が残っていたし、那覇(庶民)は那覇で庶民の言葉が残っていた。
夫と一緒に方言について教えている。 方言口上とちょっとした芝居をやっている。
首里の言葉ではけんかにならない、丁寧なため、言葉には歴史が有る。   
週に一回遊びながら言葉を教える。 その方がいい
「ちゅらさん」は沖縄でも撮影したし、いろんなんなところでやりました。
小浜島がおばあの出身地という事になっています。
綺麗で沖縄は癒しの島です。 「つるかめ助産院」の撮影は竹富島でやりました。
独特の間があると言われるが、セリフの「間」については考えたことはないです。
沖縄の人は家族、血縁関係を大事にする。  
お盆でも従兄、兄弟 とか挨拶に行ったりするが、段々若い人は薄れてきている
正月は本家に集まり、お仏壇を中心にして、ご先祖様を中心にして集まるという感じです。
ご先祖様が中心に成っているが薄れつつあるので、薄れないようにして貰いたいと思う
悪は滅びる、親孝行しないとよくないと、そういう気持ちは大事です。

震災地、宮城に行き方言で一人でしゃべると言う予定があります。
判ってくれるかどうか心配ですが、大和ぐちをいれたりする予定です。
沖縄の文化を若い人にも知ってもらいたいと思います。
舞台に立つと、まだまだいけるかとも思いますが、もう引退時期かなとも思います。
沖縄の方言は普段使わない言葉だが言葉だけは残していってほしいなあと思います。

2016年2月14日日曜日

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優) ・時代を創った女たち(1)(深夜便H24/10/08 放送)

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優)  ・時代を創った女たち(1)(深夜便アーカイブH24/10/08 放送)
明日への言葉では以前、2013・1・29出演している。

去年12月6日 平良とみ(沖縄伝統演劇女優)が亡くなりました。 87歳でした。
石垣島で小学生の時に地元の劇団に入り、戦前から沖縄芝居の役者として活躍しました。
沖縄の言葉 うちなーぐちを勉強し、長い間伝統ある沖縄芝居心を次の世代に伝えようと取り組んできました。
舞台だけでなく映画やTVにも出演し、親しみやすい笑顔で沖縄のおばあの魅力を全国に伝えました。

那覇で生まれて、私が芝居をやろうと思ったのは小学校6年の末ごろです。
旧姓は比嘉、母と一緒に4年生の時に八重山、石垣島に行きました。
私は母が42歳の時の子でした。
貧しい暮らしをしていました。
食べ物はいも、野菜、豚、折目(ういみ)」(祭ごとを表す言葉? 供え物等を食べる?)などで、食べものにはそれほど苦労はしませんでした。
座長が翁長小次郎さんで南洋から引き揚げてきて、石垣島で芝居をしていました。
6年生のころに女学校が出来て、みんな行くのですが、私はいけないのでせめて尋常高等小学校は出たいと思っていました。
母から小学校6年の時に辞めるように言われ、芝居の道に入りました。
給金を貰えればいいと思っていました。
座長からは難儀な仕事だと言われました。
最初にいただいた給金は5円でした。
母と二人暮らしで、昼間は学校夜は芝居でした、本等も古いものを使っていましたが、新しい参考書などを買いました。
新しい本の臭いは忘れられなかったです。

芝居にはすぐ出られなくて、太鼓を打ったり、習ったり、幕を引いたり、お茶を出したり、等の仕事をしていました。
小さい時に脊髄を患って、今、身長は130cmあるかどうかです。
幕を引くのに重くて、一度舞台から落ちてしまったことがあります。
普段男が女踊りをやっていましたが、座長が女がやれという事で、私が着たら丈が余ってしまって、かつらもぶかぶかで、化粧も自分でやらないといけなくて、鏡を見たら自分の姿ではなくさめざめと泣いてしまいました。
そうすると目は真黒になるし、芝居に出なくてはいけないし、座長から怒られて、辞めてしまえと言われてしまいました。
出て廻るところがあり、お客さんから笑われてしまって、その時は何が何だか判らなくて、どうして入って行ったか判らなかったです。(初舞台)

戦時中だったので、臨検が入って方言を使うことはできなくて、標準語で劇をやっていました。
先輩は標準語が出来なくて、その頃から子役としてやりました。
大和芝居、標準語劇で子役をやっていました。
給金も一応はいるようになりました。
石垣島はマラリアにより、亡くなった人が多かったです。
八重山には米軍が上陸しなかったので、今自分があると思います。
戦争は終わって喜びしかなかったです。
沖縄ではアメリカの払い下げのカバーで露天の芝居小屋で、各地にできました。
20カ所位はありました。
沖縄本島で売れる役者になるのは大変でした。






2016年2月13日土曜日

木原活信(同志社大学教授)    ・神は弱さの中にあり

木原活信(同志社大学教授・社会福祉士)   ・神は弱さの中にあり
50歳 同志社大学大学院まで進み社会福祉を学んだあとカウンセラーを経て大学の教員になりました、海外に留学し、今は母校で福祉の道を志す学生を教えています。
これまで30年近くフィールドワークを続けながら社会福祉の研究と実施に取り組んできました。
自らの活動を、援助する側される側双方の弱さと向き合う歩みと捉えるようになりました。
強さや能力が求められる現代社会において、人間の持つ弱さに意識を向けることが大切だという木原さんに伺いました。

「弱さ」 例えば教師をしていたら、カッコよくしたいが、その像を映したいと思うが、そうすればするほど学生との距離は離れてくる。
自分自身の失敗した経験をしんみり話したことがあるが、非常に食い入るように聞いて近づいたなあと感じました。
人と違っているということは嫌な感じに周りから思われ、言われたくない故に、神様にお祈りしないといけないとの思いとの葛藤があり、周りから言われるのが嫌で手を合わせて瞬間で祈ったという形をしたという事を、話をすると、子供達の輝く様な目をしており、きっと同じつらい経験をしているんだなあと、共感というか、それはもしかしたら、自分の弱さをあえて言う事によって近づいてゆく事があるのではないかと思います。

少年時代、青年時代は強さにあこがれて、強いことが私にとって憧れだったと思いますが、自分の人生を振り返った時に、自分のはかなさ、虚しさ、弱さとかに跪く方がいて、その時初めて神様の力、恵みを感謝する事が私の人生の中でありました。
ある種自分の弱さに気付き、弱いんだと言っていいんだという事を今はつくづく感じて、イエスキリストと重なり、イエスキリストは弱さに同情できない方ではなくて、自ら苦しみ、試練に会い、弱さを体験し、其中にあるからこそ同情できる方だと痛感しています。

第二コリント 12章でパウロが言った言葉で、「しかし主は私の恵みは貴方に十分である、というのは私の力は弱さの内に完全に現れるからであるといわれたのです。 
ですから私はキリストの力が私を覆うために寧ろ大いに喜んで、私の弱さを誇りましょう」
弱さの内に完全に現れるということは、強いということは逆に言うと神などは必要ないという事になり、私は貴方に頼らないと生きていけないんです、という弱さ、弱さの内に神様の力が完全に現れるという事を、啓示されたというんですね。
それを受けて彼は私はキリストの力が私を覆うために、寧ろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
貴方は弱いままでいいんです、その弱さを自覚したら、覆ってくれるキリストの力が完全に覆うんだ、だからこそおおいに喜んで、私の弱さを誇りましょうと云っている。
弱さは福祉で言うと、人間共通のものとして、援助する人間、支える側の弱さを身にまとっているものを相手に見せることによって、近づきやすくなる。
本の中に「自分自身が持っている傷が、人を癒す」、という逆説的な話をしているが、聖書の中のイエスの姿の中に明らかにされているのではない哉と思います。(ヘンリ・ナウエンの本)

昭和40年福岡県で産まれる。
誕生には両親の大きな決断がありました。
アルバムの冒頭に母の寄せ書きがある。
先生は生むのを反対、私たちは神様におゆだねし祈りつつ、貴方を生んだのよ、死ぬはずだったのに生まれたから信じて生きるという意味で「活信」と付けた、という様な内容が書かれている。
お腹にいる命は神様から与えられた命なので生みたいと言って、結果的には産まれてきました。
単純に愛おしかったという話を聞いて、嬉しかった。
高校卒業して同志社大学に入学、両親から独立。
父から分厚い聖書を貰ったので、改めて本気で読んでみようと思った。
自分の信仰は必死で神様にしがみついている様な信仰だった。(一方的な生き方)
人に厳しくなっていたと思う。
聖書を読んでいるうちに、しがみつくのではなくて、抱きかかえられているような姿だと思ったら、感謝と喜びの方がでてくるように思います。

今から25年前大学院で学んでいるころ、嶋田啓一郎先生に、社会福祉における愛という事に対して悩み、探究していたので先生に尋ねたら、「キリスト者として愛するというのは、愛せない、というその自覚から始まる愛のことだと思います。それが世俗の福祉があるならば、違うというのならば底が根本的に違うのではないでしょうか」と言われた。
愛する事だと思っていたが、愛する事が出来ないという自覚から始まるという事を言われた時は一瞬頭が白くなった。
聞く事も出来ず、私なりに見つけた答えですが、愛せないという自覚はある種、自分の無欲、自分の弱さに自覚と言ってもいい、自分の中の力が完全に弱い時にこそ神がそこに働く、という風に思いました。
自力、自己中心的なものの信仰的生き方の中にしか生きてなかったのではないかと思いました。
だからこそ私は神様に助けてもらわないと生きていけない、私は神様に助けてもらわないと人を愛することのできない、自己中心な人間だと、おこがましい人間だったと神様どうぞお許しくださいと、祈りを若い時分ささげたことが私の転換点だったと思います。

1995年広島の女子大学に講師として迎えられる。
或る学生から相談を受けて、これが自分で抱えている苦しみや弱さと向き合うきっかけになりました。
彼女が19歳の時に、自分の父親が自殺したとの事で、「先生どうしたらいいですかね」と言われて、
心の叫びだと思ったが何も答えられなかった。
自分なりに引っ掛かっていたことでもあった。
25歳の頃、わたし自身が、親戚で慕っていた方が自殺していました。
問いと共鳴する部分があり、共に苦しむ、共感共苦、傍観者とならない部分がある。
聖書の物語の中に、あわれむという言葉は、自分の体まで断腸の思いで痛む、という事がある。
自分の痛み苦しみ、弱さはむしろ分かち合うという事の中に光が見えてくるのではないかと思います。
キリストが処刑されたのちに、弟子たちは不安でしょうがなかったが、復活したイエスが入ってきて、
手と脇を示された、生々しい傷があるが、弟子たちはそれを見て喜んだとあります。
そこに真の慰めは、そういうところから来るんだと思います。
弱さを抱えていない人などいない、人間それぞれが持っている弱さを互いに認め合う事で、助けを必要とする人々の尊厳が守られ、自立を支える優しい眼差しが生まれると考えています。

社会の中が強くあらねばならないと歯車の中について行こうとする人間の姿があり、みんな煽られてゆく、そういう世相の中で、福祉社会にあっては尊厳と自立という事があるが、自立とは何なのか、弱さを認めたうえでの自立で有ればいいが、強さを求める様な自立は、さらに追い詰めるのではないかと危惧しています。
存在するという中に価値を見出すことが必要なのではないか。
何かする、何かを達成したから評価するという事ではなく、ある種神の眼差しだと思います。
私は「弱さ」を強調したい。
社会の静かな変革に繋がってくると信じています。
宮澤賢治の「アメニモマケズ」 最後には「みんなにデクノボウと呼ばれ褒められもせず苦もせずそういうものに私はなりたい。」とあるが、デクノボウは役に立たないという様な思いがあるかもしれないが、そういう生き方こそ自分の弱さを身に負って、そういう生き方の中に現代が見失っているなかに、メッセージを呼び掛けているのではないでしょうか。









2016年2月12日金曜日

内山章子(主婦・大学聴講生)    ・いつまでも「学びの心」を

内山章子(主婦・大学聴講生)    ・いつまでも「学びの心」を
米寿を迎えた今でも大学に通い日本の文化や芸術を学び続けている内山さんの話です。
衆議院議員や厚生大臣を務めた鶴見祐輔さんの次女として昭和3年に誕生しました。
姉は社会学者の鶴見和子さん、お兄さんは哲学者の鶴見俊輔さんと弟の4人兄弟です。
女子学習院から東京女子大学に進みましたが戦争と母の看病で、学ぶ機会がほとんどなかったことが心の飢えとして残ってしまいましたと言います。
2002年長年連れ添ったご主人を見送り、翌日、心の飢えを満たそうと、京都造形芸術大学の通信教育を学ぶことにしました。
76歳になってようやくめぐり合えた機会でした。
在学中姉の和子さんが病に倒れ看病しながら、江戸時代の画家、呉春の白梅図屏風の卒業論文を書き上げ8年かけて卒業されました。
リュックサックに本をいっぱい詰め込んで京都の大学に通う姿は当時、ニュースにもなりました。
内山さんの知的好奇心は今も衰えを見せていません。

学校がある信濃町に行き、2日講義を受けるのを楽しみにしています。
母は私が5つの時弟を生む時から病気で、そばにいてくれという事が多くて、小学校は義務教育で行かなくてもよかったが、女学校になるとこれ以上休むと減級にしますという手紙が届くと、学校に出してくれるという様な事で、勉強をいつもやりたいことが出来なかったと言うのが心に残って、戦争にもなり、女学校1年は勉強できたが、女学校の2年からは勤労報国隊女子挺身隊が出来て仕事をしなければいけなくて、勉強はできなかった。
76歳になって主人が亡くなり葬式が終わった晩に大学に行こうと思ってしまいました。
京都造形芸術大学に入る事になりました。
心の飢えが満たされてゆく、又通信教育は職業、年齢、出身地など、とにかく色々でいままで付き合いをしたことのない人達で凄く面白かったです。
「女性の70歳代はまだ無謀な企てを思いつき実行して行くだけの余力が残っている」と本にも書いています。
60,70代は凄く大事な時期だと思います。
今、88歳で、論文と資料を全部広げて頭に入れる、そういうことは88歳になると出来ないです。

母はアメリカの大学で学びましたが、あの戦争は無謀で勝てないことを知っていた人でした。
姉と兄は戦争が始まる時には、アメリカにいて、日米交換船で返されてきて、私と弟は昭和の歴史が変わって国民学校になって学童疎開という悲惨な状態になる。
明治、大正、昭和が一つの家に住むという、価値観がちがう、家族が引き裂かれる、ということは後で戦争の事を書く時になって初めて知りました。
空襲で、防空頭巾をかぶって、朝までぐっすり眠ることはできませんでした。
女学校4年では一週間に一回授業があるだけで、空襲警報があると防空壕に駆け込み碌な勉強もしないで4年生を終わりました。
3月卒業という時に2月に母が倒れて、父に言われて、学校を辞めて母の看病をすることになりました。
3月になると東京の大空襲になり、親戚が焼きだされて皆次々にやってきましたので、その人たちを食べさせなければいけないので、春になって木を切って薪にして、耕して、下肥だけでは足りないので、疎開の人に牛フンを分けると村八分になるので夜来てくれと言われて、30分かけてリヤカーで貰いに行きました。
野菜を作って、親戚の人に食べてもらったりしていました。

終戦間際で東京女子大学に入りました。
3月に大空襲があり4月の入学式は無かった。
8月12日、急に父が来て、14日に入学手続きをして15日にいさんで行ったら、学生は全て講堂に集まれといわれて玉音放送を聞くわけです、大混乱でした。
即時学校閉鎖があり10月に開校するが、アメリカ軍に鶴見の家は接収されてしまいました。
親戚を転々としたり、熱海に家があったが、通うのに大変で勉強どころではなかった。
歴史を学ぼうと思ったが、昭和23年に学制が変わって、私たちが第一期の社会科の高等学校教員の試験を受ける事になりました。
教員免許の国家試験は受かったが、先生になる自信がなくて、保育士になりたいと思ったが父に反対されて、保育園に内緒で務めてしまいました。
出来るだけの家事はやっていたつもりですが、或る日姉が保育園にいて、断りに来られて、6か月で就職も駄目になりました。

心の飢えを満たそうと京都造形芸術大学に入りました。
地域学の面白さ、視野が広がったというか、いろんなところに連れて行ってもらったが、ガンダーラの美術史を学ぶのにガンダーラに連れて行ってもらいました。
アイヌの文化も習う事が出来て、沖縄の文化も習いました。
呉春 江戸時代の画家の研究。
白梅図屏風に2時間見とれて立っていました。
「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」  蕪村辞世の句
明けゆくかどうかの空に浮かんでいる梅の花が耐えられない美しさに見えて、、私の思いと重なってそこから動けなかった、それを卒論に書きました。
8人を看取ってきましたが、人の死を自分自身で慰める事の難しさ、深さ、それが絵に出ているのではないかと思いました。
姉が病に倒れて、休学して看病に当たるが、そこで「鶴見和子病床日誌」を書きました。
背骨が折れていて頭があげられなくて、食べさせることが難しく、書けなくなってしまっていて、毎日の記録を書いていたら、兄がそれを本にしなさいと言う事で、親族の死を何処まで書いていいか思いましたが、全部記録しなさいと兄から言われました。

45日間付き添って最後の最後まで看て、「怖いお姉さんでごめんね サンキュウベリーマッチ」と言ってくれました。
人の死は凄い戦いと苦しみがあって、その終わりの時が来て看取らせてもらう事の方が、慰められているという事がありました。
私自身が幸せだったと思います。
80歳の時に生前葬を行う。 出版記念会として執り行う。
夫の葬式の時は参列者が多くて大変だったので、生前葬をしました。
雪中花 水仙の別名だと知った。
庭の咲いていた水仙に雪が30cm積もって駄目かと思ったら雪が溶けたらしゅんと立っていた。
句画集、句集を作りたいのと、もう一度白梅図屏風について書いてみたいと思っています。
これから何日残されている判らないが 「残されし 日々涼しく たのしまん」 先生から送られた句。




2016年2月11日木曜日

吉田美和(東北農民管弦楽団団員) ・震災を農民楽団で乗り越える

吉田美和(東北農民管弦楽団団員) ・震災を農民楽団で乗り越える
東北農民管弦楽団でチェロを担当している大船渡市、在住、吉田さん
東日本大震災から間もなく5年、被災地の人たちはこの間様々な活動を通して辛い日々を乗り越えてきました。
東北農民管弦楽団というのは東北在住で、何らかの形で農業関係の仕事に従事している人達が作っているオーケストラです。
吉田さんは震災前までは農業と牡蠣の養殖を学んでいました。
2011年3月11日 東日本を襲った大津波で吉田さんのお宅は家、田畑、作業資材が流され農業、魚業とも続けられなくなりました。
津波直後は生活の再建に追われていましたがそれまで引いてきたチェロを心の頼りに、今では農民楽団の活動を通して生きる喜びを感じています。


自宅は津波で流され後、夫と家族3人で仮設住宅で暮らしています。
実家は代々農業をしていました。
嫁ぎ先は牡蠣の養殖と農業をやってきました。
2011年3月11日 東日本大震災。
市役所で仕事をしていて揺れが来た時にはついに来たなと思って、津波が来ると思いました。
避難所に行っておにぎりを配る手伝いなどをしていました。
母親からは揺れが来ると津波が来るとよく言われていました。
光景を見て津波は何処まで大きくなってくるのだろうと思いました。
家族は避難して無事でしたが、家のところには瓦礫が全部集まってきて家も潰れました。
凄く悲しいという気持ちは何故か無かったです。
どうやって瓦礫を片付けようかという思いが印象として残っています。
チェロも家と一緒に流されました。

中学生の時にラジオを聞いていてパブロ・カザルスの演奏が流れていて、物凄い衝撃を受けました。
30台の半ば過ぎに家族が皆次々に病気になった時期があり介護、看病に明け暮れて、自分のことがなにも出来ず、家族も亡くなったり障害を負ったりして、今自分がやりたいことをやっておかないと、と思って先生を紹介していただいてチェロを思い切って始めました。
盛岡の三浦祥子先生を紹介していただいて月1~2回2時間ぐらいかかって通って、あとは一人で練習をしていました。
チェロは弾いていると響きを全身で感じる楽器で、それがとてもいい楽器だと思います。
音色もいろんな音がかさなり合って聞こえる様で素晴らしくて大好きです。
人間の声に一番近いと言われています。
宮澤賢治記念館が花巻にあり、そこでチェロを観た時には触ってみたいなあと思いました。
チェロが無くなりましたが、震災では全部なくなったので何が無くなったという気持ちは無かったです。

しばらくはチェロはできないだろうなと思っていましたが、中古のチェロを知り合いが持っていて、それをいただきました。
楽器屋さんが無償で直してくださり、弓を、楽譜、ケース、譜面台、椅子等を色々な方から戴いて、
津波の年の9月に全部そろってチェロを続けられるようになり、その時は本当にうれしかったです。
去年の5月に千人のチェリストコンサートが仙台であるという情報を新聞で知って、こうして過ごしていられるのは皆さんのおかげと思っていたのでそこに出れば恩返し、感謝の気持ちが伝えられると思って参加しました。
日本中、世界中からチェリスト千人が集まって、弾いて壮観でした。
その前に練習会がありましたが、たまたま隣に座った方が東北農民管弦楽団の関係の方で、紹介されて、チラシを見て農家ですがと言ったらじゃあ弾きましょうと言われました。
誘っていただいたのも、何かの縁ではと思って入団しました。
誘われたのは第二回東北農民管弦楽団の演奏会の一カ月前のことでした。
昨年3月が演奏会で無謀だと思いましたが。参加しました。
「田園」「フィンランディア」「雨にも負けず」(宮澤賢治の音楽)  全部弾きました。
凄く感激しました、素晴らしい経験をしました。

東北農民管弦楽団の団長をやっているのがチェロをやっている白取克之さん。
(白取克之さんは2013年9月12日 明日への言葉に出演
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_12.htmlを参照下さい)
この人にみんながひきつけられて、このオーケストラができ上っているんだなあと思います。
農業が根底にあり、あちこちで農業に関する話が結構あります。
練習会にはりんご、野菜などを持ってきて分かち合ったりしています。
即売会などもやっています。
2月14日仙台市で第三回東北農民管弦楽団定期演奏会が行われます。
スッペ 序曲「詩人と農夫」 平野一郎 二重協奏曲「星巡ノ夜」(宮澤賢治を題材にしたもの。)
左手のピアニスト舘野泉さんとヤンネ舘野(息子さん)がバイオロリンで出演。
練習をしてきましたがとっても難しいので心配はしていますが、練習会では纏まって、舘野先生がソロで弾いてくださるので、きっとすばらしい演奏になるに違いないと思います。
そして「新世界」ドボルザーク
まだオーケストラに慣れていないので、ついきょろきょろしてしまって自分がどこを弾いているのか判らなくなってしまったりします。

歳を取ってから入ったのでわくわくしています。
やっていると次に何をしようかと色々思うので、気持ちが全然違うと思います、生活の張りになります。
仲間もたくさん出来ました。
他にも趣味があり山登り、津波の二週間後にも山登りをしました。
楽しいことをしながら5年間過ごしてきました。
やっと新しい家を建築中です。
常に音楽、山の仲間に支えられてきたので、楽しくやってこられました。
被災はしたけれど日々の生活も成りたってきているので、それぞれ自分がやるべきことを進んできていると思います。
演奏会では楽しく演奏している姿を見て頂ければいいなあと思います。








2016年2月10日水曜日

松田道生(日本野鳥の会理事)   ・僕と野鳥の50年

松田道生(日本野鳥の会理事)   ・僕と野鳥の50年


松田さんは1950年東京生まれ 大学卒業後、日本鳥類保護連盟を経て、日本野鳥の会に就職しました。
高校時代から始めた野鳥観察は50年に及び録音した鳥の鳴き声は340種類にのぼります。
NHKラジオで毎年放送されている夏休みこども科学電話相談の回答者としてもおなじみです。 松田さんと野鳥の50年、鳥たちとどんな出会いがあったのでしょうか 。  

栃木県霧降高原、朝の3時45分ぐらいに収録した小鳥達のコーラス。
コマドリ、きびだき、あかはら、ひがら、ほととぎす、かっこう、フクロウが鳴いていました。
夜明けの前に暗い時に鳥たちは活発に活動します。
朝は風がないので録音には最適です。
メモリーレコーダー 筆箱サイズで重さも500g位です。
性能は昔に比べると物凄いです。
地面に録音機を置きます。
鳥はさえずる時には場所が決まっています。
日本の鳥は約600種類で 340種類は録音して、後残りは鳴かない鳥で殆ど録音したと思います。
一番最初に録音したのはオオルリです。
オオルリは渓流が好きで昆虫も多くて、録音して帰ったら渓流の音しか聞こえてきませんでした。  
最近はコンピュータでその時のイメージを活かす様にノイズを取る事をしますが、自然の広がりが無くなるので取り除き方が難しいです。  
鳥が鳴くのは哺乳類で言うと雄たけびの様なものです。
島フクロウ 大きさは一斗缶位の大きさで世界で1000羽しかいなくて、北海道でも500羽位しかいない。
雪の降っている時に良く鳴く、マイナス10度位だったが、録音機も問題なかった。
静かな時ですと1.5km位聞こえます。
最初に雄が鳴き、直ぐに雌が鳴く、1時間行い、雌雄の結びつきを高める。
自然の中で聞いてみないとなかなかわからない。

山では熊とか猪が大変だと思いますが、小さいもの、じっと座っているのでダニとか山ヒル、などが大変です。
おおとらつぐみ 100羽位しかいない鳥で早朝 10分しか鳴かない。
手に小さな虫が止まっていて、蚊位いいだろうと思ったら、ブヨの仲間で後でグローブの様に腫れました。
自然の中に入ると自然の厳しさも同時に感じます。
如何に彼等に干渉しないか、という事がいい録音を取るコツでもあります。
小さい頃は昆虫などが好きで、生き物が好きでした。
板橋で生まれて当時は回りは田んぼでした。
いろんな生き物と話をしたかった。
動物文学のブームができてきて、「野生のエルザ」 現実だが外国の話だった。
中西 悟堂さんの野鳥記 それを読んだら、自然の中で鳥を見る変遷が含まれていた。
外へ出る世界があることを知って、そとで観察するようになった。
双眼鏡を買って、競馬ですかと言われてしまった。

最初荒川の河川敷で鳥を見る様になった。
野鳥の会は当時2000人で板橋区で2人だった。
明治神宮で鳥を観る会が1カ月に一回必ずあり、30人位が集まりました。(安心感があった)
2000年の頃、東京のカラスが増えて問題になったが、わたし自身カラスが嫌いだった。
カラスを見始めて、調査し始めたら、だれもカラスを調べていなかった。
5年間 近所2km四方調べたり、六義園(300m四方)ではカラスの巣が20個ありました。
東京の緑地を50m歩くとカラスの巣が1個はあり、住宅地では300mぐらい歩くとかならず巣がありました。
調べているとカラスと会話が出来る。
一度見て、一週間後に同じところに行くとカラスは私を覚えて、ここは自分のところだと怒った声で鳴きます。
はしぶとカラスは森のカラスで、森の中でお互いを確かめ合う声で優しく鳴きます。
近づくと、威嚇の声で鳴きますが、声の間隔が狭まると、怒りがさらに強くなります。

調査する中で、生き物と一緒に暮さないといけないという事を皆さんに知っていただきたいというアピールに役だったと思います。
カラスはかならず2羽でいることが判りました。
彼らが自然の中で生きていく事は厳しいことだと思うし、子孫を残してゆく、その仕組みが非常に見事だという事に気付きます。
キツツキが音を立てるが、これも雌を呼ぶが、丈夫な嘴を持っているというアピール、いいえさの有る所だというアピールでもある。
彼らの生活を考えるとそれぞれ理由がある訳で、理由が判った時は楽しいです。
子供のころはひ弱な少年でしたが、今は山道を4~10km歩くので体力はあります。
年を取ってくると耳が弱くなってくるので一番悩みです。
8000ヘルツという高い音でなく鳥がいて、鳴いているのに気がつかなかった。(やぶさめという鳥)
録音していると気が付く様になった。
鳥の繁殖について調査をしていますが、録音機が役に立ちます。
蓄積が出来たので鳥の声の図鑑の様なものを作ってみたいと思います。
気になっているのは去年日光で録音できたとりで「じょうびたき」、冬鳥ですが、冬になると大陸から日本に渡ってきて
日本で冬を過ごすので、本来さえずりはない。
ところが6月に鳴いていた。
聞いた事が無かった声で、あちこちで聞いたという話があり、日本の中で繁殖するのが見つかるかもしれない。
調べれば調べるほど判らないことがでてくる、一つづつ解明されることで、喜びが果てしなく続いている。

2016年2月9日火曜日

岡 真理(京都大学大学院教授)  ・人間の尊厳を問うパレスチナ文学

岡 真理(京都大学大学院教授)  ・人間の尊厳を問うパレスチナ文学
1960年生まれ アラブ文学を通して人間の尊厳を奪われて生きる人の苦悩を見つめています。
東京外国語大学でアラビア語を専攻した岡さんは当初ジャーナリストとしてパレスチナ問題に向き合いたいと考えていました。
大学一年生の時に、パレスチナ難民を主人公に多くの作品を残した、パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーさんの小説を読んだ事が文学の道に進むきっかけになりました。

高校のころから英語が好きで、1年生のころから東京外語大学に進もうと決めていました。
珍しい言語をやりたいと思った。
最終的にアラビア語にしようと思った。
1972年(小学校6年生) 日本人がテルアビブでの空港で軍事作戦を行って、機関銃乱射事件の報道が衝撃的で、ハイジャックとか、記憶に残って、中東の事が衝撃的に受けとめていたように思う。
パレスチナ問題が展開され、ジャーナリスチックに関心を抱いていた。
ジャーナリストとしてパレスチナ問題に向き合いたいと考えていました。
大学4年の時にエジプトに留学、カイロ大学聴講生。
アラビア語にどっぷりとつかって、後から考えると感謝しています。

大学一年生の時に、奴田原睦明先生が貸してくださったのが、先生が訳されたガッサーン・カナファーニーの作品集でした。
それを読んで衝撃的で、パレスチナ難民のことを知らなくて、ユダヤ国家の建設によって、もともと住んでいた土地を追われて難民になった事など知らなかった。
ガッサーン・カナファーニーの作品には「太陽の男たち」「ハイファに戻って」などの作品がある。
1948年にヨーロッパの難民問題を解決するために、国連がパレスチナを分割してそこにヨーロッパのユダヤ人の為の国を作ることを決定するが、その結果としてイスラエルができる。
そこにはもともと100万人位の人たちがいて、70~100万人が難民(民族浄化)となる。
土地を奪われた多くは、ほとんど農民だった。 
「太陽の男たち」は1962年に書かれる。 
難民生活をしている3人が、妻子、家族を養うために産油国に入ろうとするものたちだがビザが無く密入国するが、クウェートからイラクに水を運ぶが、国境を越えるときに給水タンクに隠れるが、灼熱地獄の給水タンク中で、息絶えてしまう、という様な内容。

ガッサーン・カナファーニーの作品、難民キャンプに打ち捨てられて、そこで朽ち果ててゆくしかないパレスチナ難民の姿を象徴させて描いている作品。
世界に向かって自分たちを助けてくれと、その声をあげることさえできない、難民たちの状況をそういう形で象徴している。
エジプト人が監督して、映画化もされている。(ガッサーン・カナファーニー自身が脚本をチェック)
この作品のラストで、トラックの給水タンクの中にいる3人はパレスチナ人は声をあげて叩いているが、クウェートの入国管理事務所がエアコンの室外機の騒音で叫びが聞こえない、結果は叩いているんだけれども死んでしまう、監督は、今パレスチナ人は声をあげている、でも世界はそれに耳を傾けていないと、作品をそう言う風に書き換えている。

昨年シリアの戦争で難民になっている人たちが大量にヨーロッパに押し寄せているが、ニュースでも取り上げられている。
2011年から難民は発生していて、100万人単位のシリア難民を近隣アラブ諸国は受け入れているが、あふれこぼれて、今はヨーロッパが受け入れて、それでようやくニュースになる。
2004年8月にヨルダンに行きました。
2003年3月にイラク戦争が始まる。
ヨルダン、イラクの国境地帯に難民キャンプがあり、イラクにいたパレスチナ人で戦闘終結後も内戦となり、以前は優遇されていたパレスチナ人は迫害を受けて、難民となりそこに留まる。
パレスチナ人は国が無いのでヨルダンが入国を認めないので、戻ることもヨルダンに入ることも出来ない。

ガッサーン・カナファーニー自身 1948年にイスラエルが建国されて12歳で彼自身が難民となり、大人になって小説を書くが、人間が難民となるとはどういうことなのか、難民として生きることはどういうことなのか、そのことを思想的な意味を作品を通じて追求した人です。
「ラムレの証言」 岡 真理訳
1948年7月にラムレの街が占領されて、そこに住んでいたパレスチナ人がどのように難民になったかという事を少年が経験して、その経験を回顧する様な形で書かれている。
その中に床屋さんがでてくるが、彼が娘、奥さんを殺されて最後に自爆をする。
自爆の報道があるが、テロを擁護する気持ちはないが、暴力が生まれてくるその背後、根源には何があるのか、自分たちの人間性を顧みられずに、殺されて人間の尊厳をかけた抵抗なんだという事がこの作品を読むと判ると思います。
未来への絶望、暴力をどうして自分に対して行使するのか、暴力を生みだす根源は何か、占領であり占領の暴力だという、そこを見ないといけない。

ガザ地区 2006年 完全封鎖が始まる前、近代的なビルが立ち並んでいる写真。
完全封鎖→生命に必要な最小限の物資しか入ってこない。(世界最大の野外監獄と言われる 200万人位が閉じ込められている)
2014年夏に51日間に渡る一方的な攻撃により、凄まじい形でガザの市街地が破懐された。
物理的な暴力ではなく、封鎖はじわじわと構造的に人間が生きることを蝕んでゆく暴力、産業基盤が破壊され貧困で十分な栄養もとれず、内側から健康が蝕まれてゆく。
生きながら死んでいる状態と、今戦って空爆で死ぬというどちらかを選べと言われたら、戦って死ぬという方を選ぶと言っている。
完全封鎖は、人間が人間らしく生きる事の可能性の全てを奪われて生きている、そういう事なんです。
2009年 7年前から「国境なき朗読者」を結成。
2008年12月に完全封鎖されたガザ地区に対して、イスラエルから大規模な軍事行動があり、22日間にわたってミサイル、砲弾が加えられて1400名以上が亡くなる。
ガザの英文学の教授が世界に向けていま何が起きているのかを発信していて、私もメールを受け取り、その後「ガザ通信」を刊行されて、ガザ攻撃を日本社会に伝えるという事で関わった。

文学に携わるものとして、文学を通して関わりたいと思った。
パレスチナ難民の物語「ガザからの手紙」 「ガザ通信」 2003年ガザに行った米国女子大生でパレスチナ人の家を破壊する軍事ブルドーザーの前に立ちはだかって殺されたレイチェル・コリーさんの家族に送ったメールなどから、「ガザ希望のメッセージ」という朗読劇を作って京都を中心に色々な都市で上演活動を続けています。
こんな状況でありながら、ほんとうに人間であり続けようとする人たちの力強さ、勇気、人間としての崇高さ、彼らの戦いに触れて、物凄く私が豊かになり学ばせてもらって、それを日本の人たちに伝えたいです。
一昨年来日したラジ・スラーニさん (ガザの人権活動家の弁護士、長年の人権擁護の活動は国際的に高く評価され、ロバート ケネディ人権賞(1991年)、フランス人権賞(1996年)などを数々の国際的な賞を受賞。2013年12月には、“第二のノーベル平和賞”ともいわれるライト・ライブリフッド賞を受賞。)が来日講演していただいたが、自分はパレスチナ人として生まれて幸せだと思うと、理由は家が破壊されて200万人近い人口のうち50万人が戦争でホームレス状態になって、完全封鎖の中で皆が分かち合っている。
同胞であるという事を誇りに思っている、ホロコーストを経験したイスラエル自身がパレスチナ人という他者の人間性を顧みない状況になっている。
これこそが人間としての敗北で有れば、自分達はそうなるまいとしている、あくまでも人間であることを手放すまいとしている。
人間であるということは、他者の苦しみに対する共感、共苦である。
パレスチナに行くと、そういう深い人間の愛情で包みこまれる。
東日本大震災の時に、ガザが最初の攻撃にあってから2年目で、家を失ったことに共感するという事で、完全封鎖の中で物資は送れないので、義援金を届けたそうです。



2016年2月8日月曜日

2016年2月7日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第25回 占領期のベストセラー

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第25回 占領期のベストセラー
戦争が終わった後国土が荒廃したが、精神状態も歪みを持っていたが、栄える文化を確認するのが今日の狙い。
最初の第一位 「日米会話手帳」 32ページ 英会話の基礎として作ったら300万部以上売れた。
昭和20年9月に刊行
昭和21年  「旋風20年」 毎日新聞社会部長森正蔵ほか 真実は、動きは等、国民に知らせる。
表紙は横山大観 言論統制で知らされていない事実を、あからさまに描いた。
日本の国民に知らされていなかった、昭和6年ごろのいろんなクーデターの未遂事件、515事件、226事件の裏話、学問がどう弾圧されたかなどが記載。
軍部の独善主義、軍部を中心にした言論弾圧に対して実際はこうだったんだと国民に知らせた。
アメリカの占領時だったので、アメリカ側にとって都合の悪いことは検閲した。
非人道的な兵器だった原爆の問題等に対しては触れていない。
完全な言論の自由ではなかった。
尾崎秀実 「愛情は降る星のごとく」 (ヒューマニズム)
ゾルゲ事件で 昭和16年10月15日に逮捕 スパイ容疑 昭和19年12月7日死刑で処刑される。
朝日新聞の記者をしていて、辞めた後が外交評論家、政治犯の父親が獄中で妻と娘にあてた手紙を纏めて本にした。

三木清 「人生論ノート」 河上肇「自叙伝」 笠信太郎 「ものの見方について」等の高度の哲学思想を盛り込んだ本が売れる。
外国文学 レマルク 「凱旋門」  サルトル 「嘔吐」 知的欲求がいかに抑圧されていたかを感じます。
永井隆 「この子を残して」 長崎原爆で被爆してどれだけ生きられるか判らない。
子供達をどうやって次の時代は育てってくれるのか、という思いを込めて、この子を残して死んでゆく悲しさ、愛情を書いたもの。(ヒューマニズム)
「平和の発見」 花山信勝 仏教学者 死刑囚として絞首刑にされる人たちと会話をして、東條英機7人のA級戦犯の処刑の場面まできちっと書いて、どういう気持ちで彼等は逝ったのかを明らかにした。
世界50カ国語に訳された。
笠信太郎 「ものの見方について」 朝日新聞論説主幹 海外特派員をしていて欧米のものの考え方がよくわかっている人で、日本人と比較しながら戦後の日本人の生き方はどういう生き方があるのかを説明した本です。
この本の中に書かれたものでの一節で「イギリス人は歩きながら考え、ドイツ人は考えた後で歩きだす、フランス人は考えた後で走りだす」
日本人は独自の考えを持っていない。 まず考えを持つ事。
考えを持たないことが日本人の欠点だとこの本は言っている。
いまだに続いている命題だと思います。














2016年2月6日土曜日

西川ヘレン(タレント)       ・泣いて笑って大家族

西川ヘレン(タレント)         ・泣いて笑って大家族
69歳  昭和21年京都生まれ、父はアメリカ人  18歳で吉本新喜劇に入り、マドンナ役で活躍、スチャラカ社員等TV番組で全国的な人気者になりました。
その後西川きよしさんと結婚して引退 2男1女を育てながら義理の父母と実母の3人と同居、孫や弟子を含めた大家族で暮らしてきました。
今も義理の母、長男夫婦、長女、3人の孫、4世代9人、弟子を併せて10人で暮らしています。
子育て、多重介護、ヘレンさんの体調不良もかさなって大変な時期もありましたが、今大家族の幸せをかみしめていると言います。(昨年1月3日のインタビューのアンコール)

年賀には、70人から120人位が来たころもありますが、今は少なくなりました。
マッサンの番組で夫が家でも頑張ってやっていました。
父の顔を知らない、帰ってしまったので、母の気持ちだけで大きくなってきました。
父はアメリカの兵隊で、母は明治42年生まれで、硬い家で、結婚したが子供が出来なくて戻ってきて、恋愛をしました。
戦後間もない頃だったので、いじめなどは仕方がない事だったと思います。
物ごころついた頃から悲しい思いをした事があります。
悪気なく言っていても心が痛むことがしばしばありました。
学校に行った時に、珍しがられて新聞社が来て写真を撮ってくれて、嬉しかったが、勉強する時になると辛い思いが色々ありました。
叩かれたりしたことはたくさんありました。
母は同情はしてくれなかった、受け入れなさいと言う事だった。
道の隅っこを歩かないで堂々と道の真ん中を堂々と歩きなさいと母からは言われました。

私は朝持ち場の掃除をしないと学校には行かせてもらえなかった。(しつけ)
18歳で吉本でマドンナ役をすることになる。
半年後に夫が入ってきて、熊のぬいぐるみで出て、動きが良かったのでこなす様になった。
私が熱が出て倒れて、横にさせてもらう事になったのが、主人の実家でした。
布団を敷いてもらって、みんなで心優しく見守ってくださって、なんて温かいんだろうと思った。
西川家の優しさ、温かさ、兄弟(私は一人っ子だった)に感動しました。
段々付き合う様になり、私からプロポーズしました。
結婚する事になるが、当時は私の方が相当ギャラが高かったが、二人でやってゆく事になると、紐の様な存在になるのでそれは嫌だ、自分が頑張るから会社は辞めてくれと言われそれに二度惚れしてしまった。
会社にそのことを言ったら、ヘレンを残してお前が辞めろと言われたが、ヘレンを幸せにしたいんでどんな仕事でもしますので、ここにおいてください、ヘレンを引かせて下さいと言われて、三度惚れてしまいました。

なかなか良い役が得られなかったが、横山やすしさんがコンビを別れ相棒を探しているとう事でやって見てはどうかという事になり、相談されたが良いチャンスではないかと言った。
天才漫才の相手となると自分で出来るか心配だと言っていましたが、きっと出来ると後押しをしました。
吉本の偉い方たちに見て頂いて、どうなるかと思ったら駆けてくる力が違って、OKだったという事で涙がぽろぽろ出てきました。
漫才の大人気になり幸せです。
虐められ小さい頃に乗れなかったブランコを買ってもらって一日中乗っていなさいと言われて嬉しかった。
母が先に西川家に寄せてもらいました。
大家族になり、朝まら晩までたいへんでした。
母、義母、私と女三人だと年月が経つうちに色々険悪になりました。
主人がヘレンが台所、義母が掃除、母が洗濯をそれぞれ担当するという様に言って解決しました。

主人が浮気をして、相手から電話がかかってきたときに、住所を確認して、後にそこに伺いました。
お爺さんお婆さん子ども、借金、預金もあります、替りましょうか、と言ったら最後には判ってくださって元に戻りました。
1986年に主人が参議院議員になり3期18年、東京に行き、家を預かることになる。
親が歳を重ねてきて、大変なことが次々に起きてきました。
食べもの、下の世話、等ありましたが、みんなが行く道なので、主人とよく話しました。
40才位に体調を崩してしてしまい、子宮と卵巣を摘出して大手術をして、更年期が早く来て大変でした。
体温、血圧が異常になり、呼吸が出来なくなったりして、救急車には随分お世話になりました。
どうしようもない時には、高級なものを投げたくなり、或るとき部屋着のままで車の運転をして京都まで走っていました。(プチ家出)
ホテルで泊って熟睡しました。
起きた時に楽しい家族の声が聞こえて飛んで帰ってきました。
「大丈夫や 俺が付いているから」と言われて、、家族に見守られて立ち直りました。
思いやり、支えあいではないでしょうか。
大家族は私は大好きです。










2016年2月5日金曜日

ボナ植木、パルト小石(マジシャン) ・コンビの絆は不思議マジック

ボナ植木、パルト小石(コミックマジシャン ナポレオンズ) ・コンビの絆は不思議マジック
1952年生まれ 63才 主にマジックを担当するのが植木さん、おしゃべりで盛り上げるのが小石さんです。
二人は大学で知り合い、日本にはなかったコミックマジッシャンとして40年間活躍してきました。
ナポレオンズのマジックは明らかに種や仕掛けが判り、それでいて大人から子供まで万人が楽しめるのが特徴です。

「あったまぐるぐる」 結果的に傑作になってしまったが不思議なものです。
こういった原理があると言ってくれた人がいて試行錯誤して、段ボールと板で作ったらこうなってしまった。
専修大学マジックサークル、30人位はいました。(出来たばっかりのクラブだった)
マジックが好きで入ったがボランティア研究会だった。(マジックを見せて老人会などで喜んでもらう)
1976年に結成、日本全体が景気良くなってキャバレーにはショーが入っていて、そこでマジックをやっていたが、こんなにお金を貰っていいのかなあと思うほどだった。
初代の引田天功さん、アダチ龍光さん等が活躍していました。
就職はしたが、会社との相性が悪く、辞めて、それで二人がペアを組むようになりました。
「ライフオブマジック」パルト小石著作
スタートは知名度がないので、仕事がなかなか来なくて、最初熱海のホテルでした。
夢中でどうだったか覚えていません。
収入は少なかったが、楽しかったです。

ネタがばればれのものです。
もともとこういう趣向だった。(楽しいエンターテイメント  日本にはなかった)
マスコミに出るのはデビューしてから2,3年後だったと思います。(25歳の頃 NHKでした。)
普通のマジックはやれないのかと言われましたが、それは普通の方々がやっているので、鳩は出るが、飛ばないし、落ちたりしますと言ったら、ディレクターがそれはどうかねと、普通にやったらいいじゃないのと言われたが、抵抗して自分たちのスタイルでやらせてもらった。
永六輔さんから応援してもらいまして、永さんの講演の前にやらせてもらいました。
一般の方々に受けるという事も勉強しました。
捕れた魚、野菜などを終わった後に貰ったりしました。(芸能の原型だと思います)

コンビを組んで45年になります。
同級生なので、解散等は考えないです。
パルト小石さんからボナ植木さんへの素晴らしい点→好きこそものの上手なれ、飽きもせずよくやっているという感じはあります。
ボナ植木さんからパルト小石さんへの素晴らしい点→演出家と一緒にいる気分で、或る意味楽です。
趣味で難しいマジックを挑戦する気はあるが、営業的にはやるつもりはない。
笑いは入れないといけないと思う。
しょうもないネタの方が受けたりします。
ボナ植木:楽屋では私の方がしゃべります。
パルト小石:ボナ植木はマジックの引き出しが多いのにはびっくりします、プロではレパートリーが無い方が多い、やることが決まっていれば食えるので。
何千と持っています。
初代引田天功さんが弟子に成れと言ってきましたが、植木のアイディア、知識がほしかったと思います。
引田天功先生の水槽のマジックは危険だったと思います。

最初海外はアメリカに行きましたが、英語でやらなければいけないので、やりました。
フランス語などもやりましたが(名前のナポレオンズ受けました)、現地語でやると受けます。
余の辞書に不可能の文字はないと言う格言があるが、それにあやかり「我がマジックに不可能は無し」という事で「ナポレオンズ」と付けましたが、実態は酒のナポレオンが飲みたい身分になりたい、一級品になりたいと思って酒を飲みながら付けました。
マインドゲーム 頭の中でのマジック(ラジオなので)
1から9迄のうち好きな数字を思い浮かべる。(〇)
〇+1→×2→+4→/2→-〇  その数字は3ですね。
子供は落語家になっています。(ボナ植木)












2016年2月4日木曜日

浜畑賢吉(俳優)         ・客席と共鳴する舞台を

浜畑賢吉(俳優)            ・客席と共鳴する舞台を
1942年東京生まれ 東海大学工学部機械工学科に進みますが2年で中退、俳優座の養成所に入りました。
俳優座養成所を終了後、1966年劇団四季に入団、舞台俳優の傍らNHKのドラマ「男は度胸」で主役を演じる等,TV時代劇やミュージカル等で幅広く活躍しました。
1994年からはフリーとして数多くの舞台に立ち、2004年からは大阪芸術大学で演劇を目指す若者の指導に当たっています。
趣味も多く、絵画の制作、音楽鑑賞、蔵書票の収集、東アフリカの動物を愛する団体「サバンナクラブ」にも所属しています。
最近の著書「舞台に生きる」の中で俳優として、演出家として、大学で教えるものとして次世代の指導者に残したい事をすべて纏めたつもりだと言っています。

去年、一昨年が舞台の仕事があまりに大変だった。
10年封印していたので、趣味の世界に戻りたいと思っている。
絵、蔵書票、動物の世界などもあるので、そちらに行きたい。
演劇を目指す若い人はみんなまじめです。
教えているというよりもやる気にさせる。
著書「舞台に生きる」 ある種の遺言だと思っている。
体験、経験、考え等を226ページに書きこんでいます。
日本は芸能が民間に沁み通っているので、初歩からのメソードは必要ないかもしれない。

東海大学工学部機械工学科に進みますが2年で中退、俳優座の養成所に入りました。
父が波乱万丈の人生を歩んできたので、せめて子供は安定するようにと、理系に行けと言われて、親の言うなりに学校に入りましたが、その後悩んで人を感動させる仕事に就きたいと思った。
「悲しみは空の彼方に」という映画を高校3年生の時に見に行って、教会で歌を歌うその人の歌を聞いてどういうわけかボロボロ泣いて、2回、3回みてやはりボロボロ泣いて、意味が判らずに泣いたというのが私の原点になったと思います。
俳優座の養成所にはどうして入れたのかと不思議に思います。
所属しながら入団テストを受けて、受かってしまった。
卒業してから四季に入る。(創立後11年目)
四季には30年いました。
営業から、稽古場の掃除、何でもやりました。
自分勝手なことをしてきましたが、集団に入ってからは自分を律しないと仲間とうまくいかないし、先輩、後輩との関係があるので、初めて人生でいい子になったのではないかと思います。

ミュージカルも子供向け位でチャンスはなかった。
午前中3レッスンをやって バレエ、ジャズ 倒れるぐらいまでやり、身体を作りなおして「コーラスライン」をやれて、人生変わりました。
「進め青春」「男は度胸」などに出演。
時代劇も出演するが、かつらの似あわないない人だと言われたりしたが、付けてみたら似合あって、ディレクターから「誤算だよな、かつら似合わない奴を選んだんだが」、と言われた。
わたしはTVドラマをやっていて、回りは舞台をやっていて戻りたいと思っていたが、様々な先輩と一緒にできて、後から考えるとついていた、宝物だと思う。
「俳優は妄想で生きている」  分析だけではその人物はでき上ってこない、どっかで妄想で纏めて固めていって自分の中に作り上げてゆく、そういう妄想力がないと人間が作れないのではないかと思う。
ものを考えていると、回りが見えてこない。(勝さんなどから怒られたりした)

役作りは楽しい、その人を取りこんでいる。
夏目漱石の役は何度もやっているが、漱石を取りこんでいる。
感じ方、感性を頂いている。
臭い演技、説明的な演技はいらない。
臭い演技は説明となる、臭く見えるから詰まらない、ちゃんとリアリティーがあれば臭いことしてもおかしくない、リアリティーとは嘘をつかない。
セリフはおぼえちゃあだめだと言っている、セリフを覚えると覚えたセリフが出てくる。
どうやって覚えるのかといわれるが説明できない、説明するとすればセリフを食べちゃうしかない。
覚えるのは左脳に入れている、左脳は一杯入れるとパンクしてしまうので、右脳(お腹)に入れてしまう様に取りこんでいけば、一杯入れてもどうということはない。
お客さんとの会話みたいなものがあるので、それを感じられるようになると、舞台に立って居るだけでうれしい。(若いころは判らなかった)
音叉の様に心の中が共鳴する、しかしうまくいかなかったら怖い。
経験を積めば積むほど怖くなる。
舞台が終わってホッとするがその瞬間が一番嬉しい。

「君才能がある」と若い人に聞くが、きょとんとしている。
若い人には必ず才能がある。(誰かが押さえ付けているか、自分で押さえ付けている)
50兆の細胞があり、その1/4が脳の中にあり、一個の細胞の中の遺伝子には30億の情報が入っているので、そのうちのどこかがONになるかOFFになるかで人生は決まってくる、自分の才能に自信を持ちなさいと言っている。
コンプレックスは誰にでもある、自分のコンプレックスを逆手に取りなさいと言っている。
そのためには常にいつでも、うきうきキラキラしていなさいと言っている。
ウキウキしているから才能が動く、遺伝子が動く、そのベースが感動です。
大学1年生に左脳を使わないゲームをやらせる(幼児は左脳を使わない  3才に戻す)
2年生は肉体的にも大人になってきて不安定だが、3年、4年生になると安定して凄く魅力的になってくる。

お客の数が減少している、閉館している劇場もある。
高度成長で劇場が増えてきて、今は減ってきてお客さんは減ってきている、お芝居のお客さんが減ってきている。
テアトロンという組織を立ち上げた。
点でやっていても駄目なのでリンクしませんかという事で、安くやれるし、総当数の人達が劇団等を辞めているが、そういう人たちは何らかの形でとってもいい応援団になってくれると思う。
人脈を次の世代に残して行ってあげられたらいいと思って立ち上げました。
日本は縄文時代から伝統文化、伝統芸能はいっぱい残っている。(古典芸能)














2016年2月3日水曜日

平良仁雄(沖縄ハンセン病回復者) ・戦後ずっと、隠して生きてきた

平良仁雄(沖縄ハンセン病回復者) ・戦後ずっと、隠して生きてきた
ハンセン病の患者を強制的に隔離していたライ予防法が廃止されて今年で20年になります。
国は元患者や遺族が裁判を起こせば和解して保証金を支給する仕組みを作りましたが、その裁判を起こす期限が来月末に迫っています、
ハンセン病患者の患者が歴史的にも多かったのが沖縄です。
戦争に依って衛生環境が悪化して、戦争ライという言葉も生まれました。
久米島出身の平良さんは終戦直後にハンセン病と診断され、名護市にある、沖縄愛楽園に入所しました。
戦後沖縄のハンセン病患者がたどった歴史を聞きました。

今、愛楽園のボランティアガイド、ハンセン病の講話などをやっています。
ライ予防法があって隔離されたが、どういう思いで、どういう状況で生きてきたのかを話したい。
予防法に対しては心の底から湧きあがってくる怒りをぶつけるのがわたしの愛楽園のガイドだと思っています。
76歳、ハンセン病が発病するまでは時間がかかると言われていて、愛楽園に入所したのが8,9歳でした。
建物の後ろの部屋で隠れて生活していました。
人の気配がすると又後ろの部屋に隠れるという生活を幼いころしていました。
ハンセン病患者強制収用が久米島では27名でした、その中の一人が私でした。
わたしは7人兄弟の長男でした。
船に乗って、愛楽園の看護師さんが、讃美歌を歌ってくれたのは覚えていますがそれ以外は覚えていません。
一晩かけて上陸しました。

沢山の人が来て、こんなに沢山いると思ったときには勇気付けられたように思います。
米軍の援助物資があって、一般の子供よりは良かったようで、野球、バレーボールもあり楽しかったと思います。
発症した時にいつくか症状がでてくるが、わたしの場合は皮膚の神経が凄く敏感でした。
看護する人が足りないため軽傷者が重症者を看護介護しなければならなかった。
食べものが無くて農作業したり、養豚したりして食料調達をしなければいけなかった。
そこはハンセン病隔離場所だったんです。
子供のころは当たり前だと思っていました、判ったのはずっと後でした。
ハンセン病は人が住んでいる衛生状況、健康状況、体力状態に関連していると言われている。
沖縄の防空壕では衛生状況が悪く、健康、体力がいいわけでもなく、本土とは違う。
1956年 在宅治療も認められ18歳ぐらいで退所したが、戦後療養所以外でもハンセン病患者がいて、愛楽園に入所する余裕がなかったので、軽傷者と重症者との入れ替えがあった。

姉や妹、両親と暮らせると思うと嬉しかった。
ハンセン病患者になったら石を投げられて軽蔑されたが、わたしは石は投げられなかったけれども、或るときから人の視線から石を投げられた。
久米島から沖縄の本島に行き、タクシーの運転手をして、結婚して、バス会社に入社、3年いて、再発して療養所に戻って、1999年出ました。
妻にはハンセン病回復者であることは話して了解を得て結婚しました。
再発後は、妻にとっては後ろ指を指されているという思いがあったのではないかと思う。
妻は精神病院に行ったり来たりして、最終的には自殺という事で最期を遂げます。
妻を殺してしまったという思いがあり、自分を責めたことがあります。
ライ予防法がもっと早く廃止されていれば妻を殺さなくて済んだと思う。

悪くなると病棟に入るが、家族があるのでベッドに寝ている訳にはいかないので愛楽園を飛び出して、タクシーの運転手を内緒でせざるを得なかった。
愛楽園の第一期ボランティアガイド 2008年にHIV人権ネットワークに依る「光の扉を開けて」という芝居の練習に行ってみないかと言われていきました。
劇の中でHIVの少女に先生がハンセン病患者のお婆さんの体験談を聞きにつれてゆき、体験話を聞いて少女は心がいやされる、という内容のものでした。
自分を見ている人の視線をなげつけられる経験から、劇を見て温かさを感じてボロボロ泣いてしまった。
心の温かさ、を見て、触れて、そこで私は変わった。
新聞に第一回愛楽園のボランティアガイド募集があって申し込みました。
ライ予防法が作った隔離の壁はベルリンの壁よりも厚くて高くて、人間の思いや努力では打ち破ることが出来ない。
しかし、私は乗り越えた、温かい心を通して、あの劇の子供たちに出会ったから自分の心を開く事が出来たと思う。

退所者の中でも今もライ予防法は生きているという、提訴すればお金はもらえるのにやらない。
自分が変わっていないのだからだと思う。
被入所者にとってはお金ではなく、問題は心の傷です、ライ予防法は生きているという事、自分がハンセン病だということがばれることが怖いという事です。
ライ予防法という法律が悪いんです。
2回の入所経験の中から、中にいるということは居心地の悪いところで、人生は何があるのか判らないから、外に出るということは一つの戦いでもある。
外へ出て良かったなあと思います。
後10年生きればいいほうだし、どういうボランティアガイドをするのか、やり方を変えないといけないと思う。
もっと湧かせる様な何かを作っていかなければいけない、それが聞いている人に響くと思います。













2016年2月2日火曜日

愛甲次郎(文語の苑理事長)    ・美しい日本語を未来に引き継ぐ ~文語文のすすめ

愛甲次郎(文語の苑理事長)  ・美しい日本語を未来に引き継ぐ ~文語文のすすめ
長崎県佐世保市出身、昭和8年生まれ 82歳 昭和30年に大学を卒業の後、当時の通産省に入省、外務省経済企画庁などに勤務、アメリカのハーバード大学でフェロー、その後クエート大使を最後に退官。
外国での仕事の傍ら日本語、日本の文化、歴史について考えを深められ、自分が子供時代から習い覚えた文語の文章、文語そのものが日本語の伝統の核になっている、先人が積み重ねてきた努力の結晶がここにあると思い当たり、現在文語に親しむ人はあまりに少なく何とか保存できないものかと、2003年に文語の保存運動を始めました。
「文語の苑」というグループを立上げ現在は理事長として活躍しています。

人間はある種のエネルギーを持っていて呼吸法で鍛える。 (気功)
亡くなられた岡崎大使、元ベルギー大使加藤淳平さんと一緒に気功の道場に通っていた。
話しているうちに、昔習った文語は良かったという事から文語の復興、保存について何かできないかというのがきっかけです。
昔は日本語は2種類あった、話し言葉(口語)と書き言葉(文語)に分かれていた。
明治になって言文一致運動がおこり、標準語がうまれた。
文化が進んで来ると、会話語と文章語は乖離してくるという現象が起こる。
中国、ヨーロッパでもある、ラテン語、中東では古典アラビア語が核にあって方言語が日常を取り巻いている。
コーランは古典アラビア語、毎日使っているのがカイロ方言、モロッコ方言とかに分かれていて判らなかったりするが、古典アラビア語で話すと通じる。
民族が言葉を磨く努力は文語があって初めて結実する。

世界に4大文章語があると思っていて、ラテン語、漢文、古典アラビア語、日本の文語。
明治の言文一致が1000年の祖先の努力が捨てられてしまった。
あと敗戦で、日本で戦争に走ったのは精神伝統の問題があるという事で過去のそういうものを一掃しようという事で、あおりを受けて文語も教育の片隅に追いやられた。
公文書、法令用語などには文語が残っていたが戦後は一掃された。
昔の教育はエリート教育で、昔の偉い人が描いた立派な文章をひたすら暗唱して覚えて、目をつぶっても、すらすら出てくるように読みこんだ。
書いた人と同じように行動する様な立派な人間になるという、考え方です。(他の言語でも同じ)
ユダヤ人が優秀といわれるが、ヘブライ語の古典語を持っていて、子供の時から、先生が暗記させ、幼い脳を鍛える訳です。
イスラムもコーランの暗記をやっている。
言葉を通じて民族とつながっている。
言語は民族の魂の入れ物なんです。
昔から伝わってきた文語と口語と両方あって初めて日本語である、国語なんだというのが我々の思いです。
それをなんとか後世につないでいこうというのが「文語の苑」の運動の趣旨です。

世田谷の小学校で週に1時間、古典を教えている。
参観に行ったが、先生が孟浩然という詩人の「春眠暁を覚えず・・・」を教えるが、終わる頃には暗唱してしまう。
一番好きな授業は何かと聞くと日本語が一番面白いとのアンケート結果がある。
国語はどうかというと嫌いだという。
強い魅力を文語は持っている。
律動感、リズム感だと思います。
普段しゃべるのに省エネでしゃべるが、きちんとエネルギーを使ってしゃべると文語になるんです。
口語では暗記しないが文語では意味が判らなくても暗記すると、拓殖大学の学長が言っていました。
昔の聖書は文語で書かれていたが、最近は口語になって、おごそかでなくなってきているとの話を聞く。

山本夏彦 評論家 文学の世界にも新風を吹き込もうと、新体詩運動でいままでの枠にとらわれない和歌や俳句が出てきた、その頃はまだ文語で5,7調だった。
若者が読み、暗記したと言われているが、言文一致運動が進んで詩も書く様になって、黙読するようになり音読しなくなり、暗記もしなくなった。
黙読するようになって、詩が理屈っぽくなってきて、若者が詩を読まなくなり、日本は詩を失ったと山本夏彦は書いている。
千曲川旅情の歌
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ 緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし しろがねの衾(ふすま)の岡邊 日に溶けて淡雪流る・・・
平成15年から文語の復興、保存運動を始めています。
若い人たちも加わってきて、後期高齢者だけではなくなった。
文語は難しくないという事が判ってきました。
古典では、リズミカルな古典を暗唱して、そのうちに意味などを考えていけばいいと思う。
喰わず嫌いで、いざやってみると楽しいものだと思う。

若いころから日記をつけたかったがなかなか出来なかったが、文語で日記を付けるようになってから長続きしました。
永井荷風 の日記 断腸亭日乗
日記を文語で書くのは一番簡単な易しい文から始めればよい。
「夕日燦然たり」とか
文語を使うところは3つあります、①日記、②手紙、③紀行文
メールに合った様な候文を作ろうと思っています。
一般的に写真は撮るが旅日記は書かないので、すこしづつはじめればいい、又写真の裏に簡単に文語文で書けばいいいと思う。

昔の小学唱歌
「春の小川」オリジナル
春の小川はさらさら流る。 
岸のすみれやれんげの花に、 
にほひめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く。」

「早春賦」
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


「鯉のぼり」
  1. 甍(いらか)の波と雲の波、
    重なる波の中空(なかぞら)を、
    橘(たちばな)かおる朝風に、
    高く泳ぐや、鯉のぼり。
  2. 開ける広き其の口に、
    舟をも呑(の)まん様見えて、
    ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
    物に動ぜぬ姿あり。
  3. 百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
    忽(たちま)ち竜になりぬべき、
    わが身に似よや男子(おのこご)と、
    空に躍るや鯉のぼり。
冬景色
  1. さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
    舟に白し、朝の霜。
    ただ水鳥の声はして
    いまだ覚めず、岸の家。
  2. 烏(からす)啼(な)きて木に高く、
    人は畑(はた)に麦を踏む。
    げに小春日ののどけしや。
    かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
  3. 嵐吹きて雲は落ち、
    時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
    若(も)し灯火(ともしび)の漏れ来(こ)ずば、
    それと分かじ、野辺(のべ)の里。
運動を進めてきて段々風がフォローになってきている感じがする。
若い人たちの間に動きを感じます。
11月1日は古典の日  京都を中心に催しが全国的にある。
もっと国とか学校とか制度的なものを活用しながらこの運動を広めていった方がいいかなあと思います。
国際人として通用するためには英語が出来ればいいんだという様な考え方が多いと思うが、外国とのかかわり、付きあってきた経験から言うと、日本人がいくら英語がうまくても尊敬はされない。
英語がたどたどしくても、話す内容が立派なものであれば尊敬してくれます。
今の教育は英語がうまくなることがすべてと思っていて、英語でなにを語れるのか、そこが全くおろそかになっている。
英語の勉強する時間がないから古典の勉強しないという様な考え方は本末転倒だと思います。
日本の文化、歴史を説明するとみんな聞いてくれます。
日本を離れて日本の良さが判ると言いますね。




2016年2月1日月曜日

山口道孝( 神父)        ・アジアの人に恩返し

山口道孝(鎌倉・カトリック雪ノ下教会 神父)  ・アジアの人に恩返し
アジア7カ国で主に政治の目が届かない人達の支援の為に、年に80回は飛行機に乗るという異色の神父さんです。
お父さんはシンガポール育ちの商社マン、2人のお爺さんは軍人と商社マンで、共にアジアを中心に活動した関係で、アジアにはなじみがあった事と、日本が戦争に巻き込んだアジアの人達には常々恩返しがしたいという気持ちがあったことから支援を始めたという事です。

最初タイに行ったと思います(タイとカンボジアの国境の戦場のタイ側)。
1979年~80年にタイに数十万人の難民が出た時です。(ポルポト政権が倒れて、ベトナム軍が進駐し始めて内戦がひどくなった時) 
そこは難民が2万5000人収容されていて孤児院があって650人の孤児がいて、突然そこに行って、子供達の面倒を見てくれとの誘いでした。
14歳~16歳の男のグループ30人位で、何でもいいからやってほしいとの事だった。
中には目の中に爆弾の破片が入っている様な子もいました。
纏めるためには何をしてもいいと云う事でした。(言葉も判らなかった)
チャンタラちゃんという女の子がいて、口もきけない、笑う事も出来ない、大人が来ると逃げてゆく、頭はしらみが湧いている様で、彼女は両親兄弟を目の前で殺されて、一人だけ放置されていたのを他の家族が助けてキャンプまできたという事でした。

私がマラリアで熱があってハンモックで寝ていましたが、チャンタラが私のおなかによじ登って寝ていました、考えられないことでした。
他のスタッフが吃驚して写真まで撮ってくれました。
次の日、今まで声も出なかった子がわたしのところに走ってきて、笑ったんです。
2日目から声が出るようになって、周りの子供とは声を出す様になって、そののち「小さなチャンタラ」という絵本を出しました。
世界中に難民は沢山いるし、親を目の前で殺された子供達は沢山いるわけです。
そういう人たちに気をかけて、何もできないけれども一緒にさせてくださいという様な、上から目線でなにしてやろうかということではないかと思います。

次はヨーロッパに留学した後、フィリピンに行きました。
ドイツのミュンヘン、建築の勉強をしたいという事で行きました。
ドイツはトルコの移民が多く入り込んできた頃でした。(ドイツの東西は分かれていたころ)
ベトナム、東欧からの難民もいました。
難民との出会いもそこでありましたので、留学が終わったらアジアに戻ったらそういう人を忘れない仕事をしたいと思っていました。
都市計画、地域開発で何かできるのではないかと思っていました。
36年前の事でした。 (現在57歳です。)
ODA 援助の仕方に多少疑問を持って、ほんとうに貧しい人たちへの援助になっているのかなあと思って、単身修行に行きたいと思って、フィリピンに行きました。
マルコス政権の一番酷い時でした。
修道女たちがおられる、北部ルソン島のイサベラ州に行き、2年間そこにいることになりました。
年に何回か日本に戻り募金活動をして、支援の支えをしました。

軍事政権と教会とは対立がつづいていて、私の友人の農村のリーダーの5人位は殺されました。
カトリックの神父さんになれば、もうちょっと力が出せるのではないかと思い、相談に乗っていただき、神父さんになる事を目指していこうと思って、日本に帰って神学部で勉強を始めました。
4年日本、3年インドで勉強して、その間も援助活動はやってきました。
神父になってからは、ベトナム、ミャンマー、東ティモール、インドネシア等。
事情はそれぞれ違うが、共通して言えるのは医療、教育、生活の向上、雇用等。
地場産業を起こす、地元の政府と連携して収入の向上を考える。
魚の乱獲をしないで、海藻を一緒に育てることで収入の向上を計る等。
東南アジアは戦争中日本軍がいっていたところで、フィリピンでは52~23万人の日本人が亡くなっていて、地元はもっと亡くなっていると思う。
親しくなってくると日本人に殺されたという様な話をする様になってくる。
和解が出来るなら和解したいという気持ちを持っています、もめたということはないです、いい出会いばっかりです。
中国で多くの人が殺されて、何しに来た、とある老婆からいわれたことがある、反発が全くないわけではないが、ごめんねと言うしかなかった。

知識としてバックグラウンドが入っていないと、すっとは動けないと思う。
日本の人達は割とアジアの歴史を知らない。(太平洋戦争だけではなくて)
事実は受け入れて、もっと相互理解してゆく必要がある。
ベトナム等は戦争による障害者の子供たちが多い。(戦争の後遺症)
南北が統一された後も、北部ベトナムは貧しく、出稼ぎでの差別、仕事がなかったり、子供を捨てる結果になったり、ギャングが入りこんで麻薬を売りつけたりして、HIVエイズの人たちが増えてゆく様なことがある。
貧しい人がよけい状態が悪くなってゆく方向につながってゆく。
政府機関では目が届かなく、草の根的な人達の方が現状が判る場合が多い。

大学生の時に日本に難民(ボートピップル)がきて、(1976年頃)第三国に移る間実家のすぐ近くの施設があって、そこに難民が入ってきて、多くの人がカトリックの信者で教会に来るようになって出会いがありました。
他の国の文化、戦争での難民に接して、ショックだった。
日本の船に会えたが、無視されたとか、追い返されるような行動に出会ったとか、何十回も聞かされました。
日本ももっとたくさん受け入れる必要があるのではないかと、痛みを共有することを考えていかないけないと思う。(金だけ出せばいいという事ではなくて)
少しは受け入れの状況が変わりつつはあるが、国を追われる辛さを共有してゆく必要があると思う。

戦争、災害でTV報道されたところは募金が集まるが、そのとなりにはいかないという様な事を沢山見てきましたので、そのようにはならないでほしいと思います。
仲間を増やしていってその地域の気持ちになんとかなってゆく事が大事だと思います。
もっと日本国内の事をもっとやった方がいいのではないかとの声もあるが、役割分担だと思っています。
今、福島に月1回ぐらい訪ねているグループが一杯あって、その中には海外で一緒に働いていた人もいます。
そういった人達と接してネットワークが広がってくると思います。
風評被害で困っている農家の野菜の販売を援助しているグループもあり、活動しています。
最終的には一番大変な状態にある人達が自分たちで幸せを感じるというためにやっているので、生きていてよかったと思う事に繋がるのがプログラムだと思いますので、そういう意味ではどこで活動していても共通だと思います。
ビジョンを広く持つという事が楽しい、いろんな人、いろんな文化に出会う、知らなかった歴史を知る、それで自分が学ばせて頂いているし、それが役立つのであればずーっとして行きたいです。
①環境を守る。
②平和を構築する。
③人権を擁護する。
この3つはどのプロジェクトをやっていても大切に進めなくてはいけない事だと思います。