福井貞子(染織家) ・庶民の文化遺産 倉吉絣
1932年生まれ 郷里倉吉で幻の織りものとなっていた木綿織物の絣を復興させようと多くの資料を収集して技法や模様の研究をすると同時に、製作も手掛けてきました。
倉吉絣は手織りで柄の絵の様に繊細であったため、機械化も進まず、大正時代になると生産は衰えてしまいました。
福井さんは木綿のぬくもりと、模様の多彩さ、美しさを持った絣を捨てさってはならないと、製作に取り組み、その高度の技術は鳥取県の無形文化財に指定されています。
その作品は毎年日本伝統工芸展に出品され、高い評価を受けています。
徳川幕府が奢侈禁止令を出して、木綿と藍で染めた衣料に限ると言う事を決めた。
色ものも禁止、絹ものも禁止という事で柄については何も言わなかった。
そこが絣が爆発的に発展するもとになる。
絵柄に依って良い悪いの値段が違った。
糸が柔軟で保温力があって繊維も加工しやすいし洗っても強いし、着てもあったかい、使ってゆくうちに藍が色変わりをして行って良い色になってゆく。
5~10年経ってゆくうちに、本物の味と絵描いた紋様も生きいきしてくる。
昭和42年の時に、宮本常一、民族学者が来て自分の武蔵野美術館にも来てくれという事で、収蔵庫の中にそのものがでてきたが、広島の竹原という塩田地帯で使った塩田着で、140のつぎが当たっていた。
本当の野良着の姿を見て、破れていても収集しなければいけないと思いました。
綺麗な新品なものだけが文化財ではない。
明治11年に生まれたかねという大姑に師事しました。
外に目を向けることを教わって、名人のところに行くと、20代でよく絣をやると褒められた。
色々なところに行って、頼むからこの絣を残してほしいという事で、一枚一枚絣が集まってきた。
戴けるものであれば戴こうと思って、集めてきました。
何とか絣だけは貴方に預けて死にたいというお婆さんがいたが、出直してきますと言って帰って、その後2年後に行ったら、なんで今さら、紺の色は家が暗くなる、どうなるものはありません、と言われてしまって、一切ありませんと言われてしまった。
これは大変な事だとその時に気付かされて、それからは頂けるものは頂けるようにしようと思いました。(昭和41年)
画廊に絣を見せることになり、資料と絣を展示していたら、あるお爺さんがずーっと見ていて、離れることが出来ないと言って、絣はいいものだといってくれて、絣の良さが身に沁み込んでいるんだなあと思いました。
女の人の苦しい生活の中での働きよって来たんだという事が明治、大正時代は生活してきたんだという事が判りました。(家の方向きを直す、借金の返済、年貢、租税など)
絣の中の模様に願いがあるという事が判った。(鯉の模様で男の子を強く育つ様に願う)
倉吉絣は絵画の様な繊細な模様で、1cm織るのに20本の糸をあわせて織りあげてゆくが、30cmの模様の鷹のくちばし、目、羽根の一枚一枚まで正確に織っていて、布に描いた絵だと見ています。
日本で最初に絣が織られたのが、薩摩絣、次に大阪のぬま絣?、奈良の大和絣、山陰の米子の飛白絣。(皆袢纏の模様)
1800年に井上伝が久留米の絣のあられを織り出した。
1802年に伊予の鍵谷カナという女性が十字みたいな模様の点々を織る。
1820年ころに倉吉の稲嶋大助が花鳥山水の絵絣を織ることに成功する。
倉吉が絵絣の本拠となる。
明治26年にアメリカ、コロンブス万国博覧会で受賞、明治33年フランス万国博覧会で受賞する。
値段が高い(倍した)ので倉吉絣がすたれてゆく。
この地方は寒いから、太い糸を紡いで叩いて織りこんでいるので、重くて厚いので、100年着れる、摩擦に強い、洗濯にも強いし、暖かいが、見る目が体裁ばっかりを見るようになってきて、軽くて体裁がよく、直接染料で、値段が半値のものが他県から出てきて太刀打ちできない様になった。
機械が織り化学染料で染めるものに太刀打ちできなくなった。
時代が違ってきてしまって、手で織る昔からの技法は文化財として世に送り出さないといけない、これが私の任務だと思っています。
織り物は後で補正する事ができなくて、その都度気が付けばほどいいて、スタートに立つ。
身体全部が機織りの道具だなあと学びながら、原始的な工程を学んで、教わってよかったなあと思います。
父が資料館を建立して、ここに置かせてほしいという人達がでてきました。
中央からは志村ふくみ先生も来てくださって、日本伝統工芸展に出す様になって、第29回展に初入選して、今年で第62回展になります。(30数年になります)
絣を織ることによって、絣の布の見方も違って来ますし、絶えず絣のネタになる様な自然界のものを絶えず追い求めるようになります。
日々の生き方が創作に結びつく、そいういう風な見方になります。
絣計算して、縦の糸と横の糸の模様を合わせることが難しい。
予め型紙をつくって、型紙を彫刻刀で彫って、糸を並べた上に型紙を乗せて、墨汁で墨を塗りつぶすと、下の糸に穴のあいた彫った模様が写って、写った黒い模様を一本の糸にずーっと伸ばすと、30~100mにもなり、そういう模様に30~50本の白い糸を一緒に乗せて手縛ってゆく。(括る)
括ってから藍で染めると括った場所が白く残る。
それを一本の糸にして、織り幅に織り重ねてゆき、1cmに20本の密度で織られてゆく。
織りものの中では絣は最高の技術、時間と労力を使い、糸に模様を付け、自分の思う絵がそこに描きだせる。
展覧会を催して、海外の人と話があり素晴らしいという事で、3年前ウラジオストック、国立美術館で46人の作品を展示しました。
今年はハバロフスクの美術館で9月の開催の話が来ています。