2016年2月14日日曜日

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優) ・時代を創った女たち(1)(深夜便H24/10/08 放送)

(故)平良とみ(沖縄伝統演劇女優)  ・時代を創った女たち(1)(深夜便アーカイブH24/10/08 放送)
明日への言葉では以前、2013・1・29出演している。

去年12月6日 平良とみ(沖縄伝統演劇女優)が亡くなりました。 87歳でした。
石垣島で小学生の時に地元の劇団に入り、戦前から沖縄芝居の役者として活躍しました。
沖縄の言葉 うちなーぐちを勉強し、長い間伝統ある沖縄芝居心を次の世代に伝えようと取り組んできました。
舞台だけでなく映画やTVにも出演し、親しみやすい笑顔で沖縄のおばあの魅力を全国に伝えました。

那覇で生まれて、私が芝居をやろうと思ったのは小学校6年の末ごろです。
旧姓は比嘉、母と一緒に4年生の時に八重山、石垣島に行きました。
私は母が42歳の時の子でした。
貧しい暮らしをしていました。
食べ物はいも、野菜、豚、折目(ういみ)」(祭ごとを表す言葉? 供え物等を食べる?)などで、食べものにはそれほど苦労はしませんでした。
座長が翁長小次郎さんで南洋から引き揚げてきて、石垣島で芝居をしていました。
6年生のころに女学校が出来て、みんな行くのですが、私はいけないのでせめて尋常高等小学校は出たいと思っていました。
母から小学校6年の時に辞めるように言われ、芝居の道に入りました。
給金を貰えればいいと思っていました。
座長からは難儀な仕事だと言われました。
最初にいただいた給金は5円でした。
母と二人暮らしで、昼間は学校夜は芝居でした、本等も古いものを使っていましたが、新しい参考書などを買いました。
新しい本の臭いは忘れられなかったです。

芝居にはすぐ出られなくて、太鼓を打ったり、習ったり、幕を引いたり、お茶を出したり、等の仕事をしていました。
小さい時に脊髄を患って、今、身長は130cmあるかどうかです。
幕を引くのに重くて、一度舞台から落ちてしまったことがあります。
普段男が女踊りをやっていましたが、座長が女がやれという事で、私が着たら丈が余ってしまって、かつらもぶかぶかで、化粧も自分でやらないといけなくて、鏡を見たら自分の姿ではなくさめざめと泣いてしまいました。
そうすると目は真黒になるし、芝居に出なくてはいけないし、座長から怒られて、辞めてしまえと言われてしまいました。
出て廻るところがあり、お客さんから笑われてしまって、その時は何が何だか判らなくて、どうして入って行ったか判らなかったです。(初舞台)

戦時中だったので、臨検が入って方言を使うことはできなくて、標準語で劇をやっていました。
先輩は標準語が出来なくて、その頃から子役としてやりました。
大和芝居、標準語劇で子役をやっていました。
給金も一応はいるようになりました。
石垣島はマラリアにより、亡くなった人が多かったです。
八重山には米軍が上陸しなかったので、今自分があると思います。
戦争は終わって喜びしかなかったです。
沖縄ではアメリカの払い下げのカバーで露天の芝居小屋で、各地にできました。
20カ所位はありました。
沖縄本島で売れる役者になるのは大変でした。