2016年2月23日火曜日

大石芳野(写真家)        ・生きていることへの答えを求めて(1)

大石芳野(写真家)      ・生きていることへの答えを求めて(1)
大学卒業後写真の道に進み、女性にはまだなじみの薄かったドキュメンタリー写真の分野で長年に渡って仕事をされてきました。
とりわけベトナム、カンボジア、コソボ、アフガニスタン、アウシュビッツ、チェルノブイリ、広島、沖縄、福島等、戦争や災害によって心身に深い傷を負った人々と向き合い心に触れ合う対話を通して、深くその内面を表現した写真は、魂との対話とも言われ高い評価を受けています。
大石さんの代表作の一つ、「ベトナム凛と」という写真集は 2001年に土門拳賞を受賞したほか、数多くの写真集や、著書があります。
どの様な人々に出会い、どんな姿にレンズを向けてきたのかを伺います。

日大の芸術学部写真学科、1960年代の半ばで、世の中が荒れていた時代でもありました。
ベトナム戦争も烈しくなって、65年にベ平連が出来て、若い人たちが関心を持ちました。
ベトナムの学生との、交流会が出来てベトナムに行きました。
彼等は生きたくても生きられない、崖っぷちに立たされた様な状態で、兵士、村人、家族もそういう状況になる。
わたし自身何の為に生きるのかと考えて、長いこと鬱の状態にあった。
ベトナムの人達と接して更に、生きると言う事は何なのかを深く考えさせられた。
1965年アメリカの北爆が始まり、1966年はじめてベトナムに行く事になる。
1975年にベトナム戦争が終結。
6年後にベトナムに行く。
何処で何をしていたのかを聞くと、サイゴン軍側、ゲリラ側の人の話しを自由に聞く事が出来た。
ベトナム戦争は世界一強いアメリカと長い間戦争をして、結果的に追い出した。
それは何だったのかという疑問にも多少は話してもらったりもした。
一人ひとりが誰かの命令ではなくて、自分の意志で、故郷を守りたい、家族を守りたい、誇りを失いたくない、という様な基本的なところで戦争をして来たという事を、感じました。
イデオロギーのにおいがしていたが、殆どの人がそうではなかった、と言う事に感動しました。

「ベトナム凛と」写真集
ベトナムの或る農民の家族を写した写真、中年の農民夫婦、息子、祖父。
顔の表情を見る限りはのどかな農村のほほえましい家族写真ではあるが、祖父の左足には大きなブリキ製の義足が長靴の様に付けられている。
息子8歳は背骨は左の方に歪んでいる。
夫の両脚は酷く折れ曲がっていて、左手が地面に着きそうになっている。
枯れ葉剤(ダイオキシン)の被害を受けた人達を取材して訪ねている。
アメリカがどうして使ったかというと、ゲリラはジャングルの中からアメリカ兵を撃ってくるので、森を枯らせばこちらから攻撃できると言う事で、枯れ葉剤を使った。
遺伝子を壊す性質を持ったダイオキシンがあり、大量に撒かれた。
広い範囲に渡って汚染され、直接、間接に影響を受け、亡くなったり、今でも障害を持った人が苦しんでいる。
この家族もダイオキシンの障害を受けて、祖父は戦争で足を失ってしまった。
あの戦争とは何だったのかを付きつけられる家族だと思っている。
この家族は凛とした顔だけに胸に迫ります。
日本人はきらびやかにしているが、同じ時代に生きていながら、ベトナムの人は粗末な着物を着ているが、しかし凛としている、後ろ姿に隙がない。
戦争の傷跡に目を向けて写真を撮ってきた。

アウシュビッツの強制収容所で奇跡的に生還した人々にも会って、その傷跡の深さを写真集にしたりしている。
クオジンスキ・スタニスワフという医者、ポーランド人で地下運動をして強制収容所に入れられた。
遺伝子が壊れたと言っていて、生まれてくる子に自分の体験の負の部分が遺伝してしまった、孫にも遺伝してしまう、といっていました。
いかに過酷であったかという事を裏付けている。
人間の尊厳を奪われた。
「夜と霧は今」という写真集に克明に描かれている。
鋭い目つきではあるがどこか怯えている写真(言葉では表現できない)
ユダヤ人は900万人ヨーロッパにいたと言われるが、600万人が命を奪われたと言われる。
まるでごみの様に捨てられたと言っている。
ポーランド人、ドイツ人(反ナチス)も命を多く奪われている。
戦争になると声をあげられない、戦争になる前にはなかなか気がつかない。(ドイツが典型か)
次への戦争を食い止めるための歴史であり事実ではないでしょうか。

「愛しのニューギニア」 はじめての出版 34歳の頃
石器時代の様な暮らしをしていたパプアの人達。
メラネシアンアートという芸術に学生時代に魅かれた。
どんな人がどういう日常なのかを知りたくて、1971年パプアニューギニアに行って、付き合いが始まる。
一人で行ったが、当時まだ独立してはいなかった。
海岸部は多少文明が入ってきてはいたが高地では石器時代の様な暮らしだった。
小さな飛行機で行って、道が有れば車で入って行って、そのあとは歩いて行った。
通訳の少年とポーターと一緒に部族のところまで行きました。
2000m級に住んでいる人達はメラネシアンアートは無かったがキラキラとした目を持っていた。
目から矢が飛び出てくる様な力の有る強い目をしていて、老若男女そのような目をしていた。
その謎を知りたくて、通って良かったと思います。
薄暗い部屋で老衰で亡くなる前の状態のお婆さんの写真。
木の皮を叩いたものを衣装にしていて、キラキラした目で真っ白い歯を見せて笑って迎えてくれた。
写真を撮ってから数日後に亡くなる。
葬式があり、狭い部屋に大勢集まり、一晩中泣いて、お婆さんの事をみんなで話題にする。
貴重な布を着せられて、土葬される。
遠い村からもお婆さんに会いに来るんです、如何に人気のあるお婆さんだったかを実感できた。
自然を壊さない様に大事にしながら生きていて、自然の中の一人として自然と共に生きている。
それが眼の奥に潜んでいる輝きの一つなのかなと思います。