2016年2月6日土曜日

西川ヘレン(タレント)       ・泣いて笑って大家族

西川ヘレン(タレント)         ・泣いて笑って大家族
69歳  昭和21年京都生まれ、父はアメリカ人  18歳で吉本新喜劇に入り、マドンナ役で活躍、スチャラカ社員等TV番組で全国的な人気者になりました。
その後西川きよしさんと結婚して引退 2男1女を育てながら義理の父母と実母の3人と同居、孫や弟子を含めた大家族で暮らしてきました。
今も義理の母、長男夫婦、長女、3人の孫、4世代9人、弟子を併せて10人で暮らしています。
子育て、多重介護、ヘレンさんの体調不良もかさなって大変な時期もありましたが、今大家族の幸せをかみしめていると言います。(昨年1月3日のインタビューのアンコール)

年賀には、70人から120人位が来たころもありますが、今は少なくなりました。
マッサンの番組で夫が家でも頑張ってやっていました。
父の顔を知らない、帰ってしまったので、母の気持ちだけで大きくなってきました。
父はアメリカの兵隊で、母は明治42年生まれで、硬い家で、結婚したが子供が出来なくて戻ってきて、恋愛をしました。
戦後間もない頃だったので、いじめなどは仕方がない事だったと思います。
物ごころついた頃から悲しい思いをした事があります。
悪気なく言っていても心が痛むことがしばしばありました。
学校に行った時に、珍しがられて新聞社が来て写真を撮ってくれて、嬉しかったが、勉強する時になると辛い思いが色々ありました。
叩かれたりしたことはたくさんありました。
母は同情はしてくれなかった、受け入れなさいと言う事だった。
道の隅っこを歩かないで堂々と道の真ん中を堂々と歩きなさいと母からは言われました。

私は朝持ち場の掃除をしないと学校には行かせてもらえなかった。(しつけ)
18歳で吉本でマドンナ役をすることになる。
半年後に夫が入ってきて、熊のぬいぐるみで出て、動きが良かったのでこなす様になった。
私が熱が出て倒れて、横にさせてもらう事になったのが、主人の実家でした。
布団を敷いてもらって、みんなで心優しく見守ってくださって、なんて温かいんだろうと思った。
西川家の優しさ、温かさ、兄弟(私は一人っ子だった)に感動しました。
段々付き合う様になり、私からプロポーズしました。
結婚する事になるが、当時は私の方が相当ギャラが高かったが、二人でやってゆく事になると、紐の様な存在になるのでそれは嫌だ、自分が頑張るから会社は辞めてくれと言われそれに二度惚れしてしまった。
会社にそのことを言ったら、ヘレンを残してお前が辞めろと言われたが、ヘレンを幸せにしたいんでどんな仕事でもしますので、ここにおいてください、ヘレンを引かせて下さいと言われて、三度惚れてしまいました。

なかなか良い役が得られなかったが、横山やすしさんがコンビを別れ相棒を探しているとう事でやって見てはどうかという事になり、相談されたが良いチャンスではないかと言った。
天才漫才の相手となると自分で出来るか心配だと言っていましたが、きっと出来ると後押しをしました。
吉本の偉い方たちに見て頂いて、どうなるかと思ったら駆けてくる力が違って、OKだったという事で涙がぽろぽろ出てきました。
漫才の大人気になり幸せです。
虐められ小さい頃に乗れなかったブランコを買ってもらって一日中乗っていなさいと言われて嬉しかった。
母が先に西川家に寄せてもらいました。
大家族になり、朝まら晩までたいへんでした。
母、義母、私と女三人だと年月が経つうちに色々険悪になりました。
主人がヘレンが台所、義母が掃除、母が洗濯をそれぞれ担当するという様に言って解決しました。

主人が浮気をして、相手から電話がかかってきたときに、住所を確認して、後にそこに伺いました。
お爺さんお婆さん子ども、借金、預金もあります、替りましょうか、と言ったら最後には判ってくださって元に戻りました。
1986年に主人が参議院議員になり3期18年、東京に行き、家を預かることになる。
親が歳を重ねてきて、大変なことが次々に起きてきました。
食べもの、下の世話、等ありましたが、みんなが行く道なので、主人とよく話しました。
40才位に体調を崩してしてしまい、子宮と卵巣を摘出して大手術をして、更年期が早く来て大変でした。
体温、血圧が異常になり、呼吸が出来なくなったりして、救急車には随分お世話になりました。
どうしようもない時には、高級なものを投げたくなり、或るとき部屋着のままで車の運転をして京都まで走っていました。(プチ家出)
ホテルで泊って熟睡しました。
起きた時に楽しい家族の声が聞こえて飛んで帰ってきました。
「大丈夫や 俺が付いているから」と言われて、、家族に見守られて立ち直りました。
思いやり、支えあいではないでしょうか。
大家族は私は大好きです。