2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは192661日に生まれ、196285日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、19631122日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー





2026年6月27日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)     ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)   ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

2025年第97回アカデミー賞、最優秀ドキュメンタリー短編映画賞にノミネートされた作品を製作された「小学校それは小さな社会」が国内外で反響を読んでいます。その作品を制作したドキュメンタリー監督山崎エマさんへのインタビューです。 山崎エマさんは、1989年イギリス人と日本人の母のもとに生まれ、大阪の公立小学校から中高は神戸のインターナショナルスクール、ニューヨークの大学卒業後、アメリカで映像の世界に入りました。 1回目の今夜は映画の内容や作品に込められた思い、ご自身の小学校から大学までの道のりをインタビューします。

「小学校それは小さな社会」と言うのは、ドキュメンタリー映画です。 都内の公立小学校を1年間、入ってくる1年生と出て行く6年生を中心に春夏秋冬を追ってく日常を撮ってるものです。 私の意向としてはこの6年間で日本の社会が作られるのではないかというか、ここで人間形成され、集団生活した人間たちが、いずれその後の社会出ていくので、社会に反映していくのではないかと思いながら、自分の小学校の経験もあるので、10年かけて作ったドキュメンタリー映画です。 2021年度1年間撮って約700時間ほどの映像を撮りました。(コロナ禍)

映画の主人公は人間ではなくて、学校の場所そのものと思ってました。 結果としてその中には生徒、教員12 、3名ほどの方々が出てきます。 中でも小学校1年生のシンバルの子と、6年生の縄跳びの男の子のストーリーなどがあります。 何かを作って、そこに向かっていく、できなかったことができると言う経験を積み重ねていく場所だと思います。 

世界に届く日本の姿はまだ限定的でアニメを通して文化発信されてると思いますが、自分が日本のことを考えたときに、もっといろいろなぁと思いました。    6年間の小学校教育を通して日本の社会が見えてくるのではないかと思いました。日本では当たり前と思っていたことが結構すごいと言うようなことがあります。 掃除をする、給食の配膳をする、子供たちが自分たちで学校を作っていく、飼育委員、放送委員、行事を子供たちが主体となって、運動会や音楽会などをやってくこのこと自体が他の国から見ると驚きということです。 

自分たちの国と比べて考えるきっかけになったと言うが多かったといます。日本の小学校の特徴としては、集団の中で役割があって、責任を持ってそれぞれやっていきましょうと言うことです。小さな境で生きていく練習の場と言うのは私の見る日本の小学校やり方だと思います。 その結果は日本の社会に反映されていると思います。 小学校の6年生のなると日本人になってると言うふうに思います。 

フィンランドは教育大国ということで、今でも毎年のように日本から視察団が行きます。 特徴としては、個人の尊重、自由、子供たちの権利を多く渡すと言うことで有名になった国と言われています。 フィンランドの方としては個人主義に走りすぎたのではないかと言う意見が多くて、自分たちの事しか考えないと言う子供は増えてきている。 その中でこの映画を見ると、コミュニティーの一員としてどうあるべきかを考える教育だと、集団の中で自分の役割を貢献する、自分の役割を果たすと言うようなベースがあるシステムと捉えています。 

父がイギリス人で、母は日本人のハーフと言われていますが、中高はインターナショナルスクールで勉強しました。 その後は映画監督になりたいということで、大学はアメリカのニューヨークに留学して勉強しました。 その後10年位余ニューョークで過ごしました。 自分では普通の仕事をしてるつもりが凄くがんばりましたとか、責任感がある、時間にも遅れない、周りも配慮がある、自己中心的ではないと言うなことを言われました。 でも日本人だけですけどもと言うふうに気持ちが生まれました。 自分はどうしてこういう人間になったんだろうと言う振り返るきっかけにもなりました。 小学校の6年間で学んだ。ちょっとしていろんなことを学んだとが自分の強さとなって得をしたなと言うふうに思いました。 

日本のことを知りたいならば、小学校教育が大事だと思いました。 1人では生きていけない社会で、日本の中で日本のやり方は強さがたくさんある、これは海外の人にも気づいてもらえるのではないかと思いました。 公立小学校を丸々撮りたいと思いました。 5年ぐらいかけて参加してましたが見つかりませんでした。 結局世田谷区の小学校に了解を得ることができました。 

その小学校は基本的にはごく普通の小学校ですが、当時の校長先生が特別活動(勉強い以外の事)に力を入れている方でした。 基本的には私とカメラマンの方と音声の方と3人で1年間挑みました。 撮影時間は700時間ですが、撮影してない時間の方が多く、準備期間、編集期間を含めて約4000時間学校にいました。 学校では200日ぐらいは1年間ありますが、そのうちの150日間ぐらいは学校にはいきました。 なるべく自然な姿を撮ることにして、完成された作品は700時間から99分に編集しました。

先生方も大変で、社会からの求められすぎで、そういう姿を見つつ、先生方もまた人間だと言うことを感じました。 子供たちの成長を期待して導いて、成長をすれば喜んでくれたりしています。 悩んだり喜んだり苦しんだりする姿を入れたいと思ったのもそこで感じた部分が強かったからと思います。 

父も母も祖父母も全員生生でした。 やはり小さい頃から教育が人を作るし、教育が未来を作っていくと言う感覚がありました。 母は日本人父がイギリス人で、母とは日本語、父とは英語、両親の間では英語と言う形です。 中学高校はインターナチュラルスクールに行きましたが英語でした。 小学校の時は行事等いろいろやっていましたが、行事などには力を入れてませんで、周りからは個性がないと言われました。 私って何なんだろうと考え始めました。 映像との出会いは中学校2年生の時でした。 これにハマってしまいました。 小学校の頃にイチローさんの本の影響受けて、小さい頃から努力を重ねて大きな夢を持てば、夢は叶うみたいな人生のシンプルな考え方の本に感銘を受けました。 映像制作に対して、映画監督になりたいと言う夢を持ちました。

自分が感じたことを伝えたいと言う思いがあり、映像であるなら場合一生飽きないんではないかと思いました。 映像を学びたいと思って、大学はニューヨークに行きました。 20代の大半をニューヨークで過ごしました。 私は何者なんだと言うことを経験して自分は日本人なのか、イギリス人なのか、アメリカ人なのかどれかを選ばなきゃいけないと言うふうに思い始めて選びきれず悩みました。 至った結論は、何人とか選ばなくてもいいと、全部自分のものだし、環境によって変わるのはどんな人でもなると言うことで吹っ切れていきました。 

日本の小学校教育も日本社会も良い所と悪いところは隣り合わせ、表裏一体というかありますが、何事も度すぎるとダメだと思います。 この作品を見て思っている小学校教育全般の意見、自身の経験を反映して、掛け算にして感想を持つような作品だと思います。  小学校批判、教育批判はいろんな人たちが声を出して改善もされつつあると思いますが、足りてないのは当たり前すぎて、何もすごいと思わないところに気づくことだと思いました。 作品を見ていろいろ感じるように作ったと言う方が作品が広がる。 作品を後は、いろんな方法でこの作品を活用してほしいと思います。




2026年6月20日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

 「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

投稿累計総数 5000回を迎える事になりました。

年数で15年余りになります。

こうして続けられてきたのも、大きな病気、事故などもなく過ごしてこられたものが第一に挙げられます。 そのほかにもKさんからの校正やほかの方々からの応援もあり、感謝しています。

1年前ぐらいから長くパソコン画面を見るのが辛くなってきて、なんとか今日に至りましたが、最近はよりつらくなってきて不本意ではありますが、一旦5000回と言う切れ目のいい数字でほぼ毎日続けてきたものは終了させていただきます。  この先、きっぱりやめてしまうのか、それともたまにはより興味を引くような内容については投稿をしてみるかは、一休みして考えたいと思います。

「明日への言葉」のブログをご覧いただいた方々には申し訳ないとは思いますが、ご了解ください。

ありがとうございました。


中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す

 中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す(累計投稿数:5000)

兵庫県淡路島の南端、南淡路市灘地区の沖に沼島がありますが、このすぐ西側にかつて半島が延び、白石村と言う村があったと伝えられています。 この白石村は、室町時代による大地震の津波のため半島ごと水没をしたとされていますが、本格的な調査はこれまで行われた事はありません。 海底の鉱物を調査する中で、水中の文化遺産と出会ってきた中田さんが、水中ドローンなどを使って独自に調査を始めました。 調査の大きなポイントは神話。

天より使わされたイザナギ、イザナミが天の沼矛(ぬぼこ)で、大海原を掻き回すと、その矛から滴り落ちる雫が、おのずと凝り固まって島となり、日本最初の国土オノゴロ島(古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま))が生まれ、この島に降り立ったイザナギ、イザナミが次に淡路島を作り、さらに日本の大八島を作ったとされています。 いわゆる国生み神話です。 オノゴロ島は沼島であると言う説があり、中田さんは沼島のすぐ近くにあったとされる白石村は、神話の世界と実際の歴史をつなぐ存在になるのではないかと考えています。 白石村の存在を明らかにすることの意義、また水中文化遺産の調査と保全の実際についてお話を伺いました。

私は白石村はあったと思っています。 1498年に明応の南海地震がありました。  その地震によって生じた津波によって水没したと言う明確な記録が残っています。沈んだのは2年後と記録に残ってます。 古地図に破線と言う形で実際に描かれ、そして郷土史等にも書かれています。  考古学による物証が必要であるかと思います。

私はもともとは海底鉱物資源の国際的規制と言う研究をしていた研究者です。  海においても海底採掘をしていけば、沈没船や遺物も見つかるとなっていくだろうと言うことで、海底鉱物資源の採掘について研究を深めようと言うことで、沈没船やその積み荷にたどり着いたということです。

兵庫県チームの1人の高校生、滝口翔太郎君が「幻の白石村」と言う発表をしました。 それがきっかけとなりました。 地元では漁業者の言い伝え、あるいはもう廃校になってしまいましたが、義務教育の学校がありまして、学芸会等でオノゴロ島と言う台本が書かれて、それを毎年のように演じると言う伝え方をしていました。 

「白石村」を二つの言葉「白石」と「村」に分けたいと思います。 「白石」は弓弦羽神社に行って宮司に話を聞いたところ、今も弓弦羽神社には小さな壁でかこまれたところに白い石がいっぱい敷き詰められていて、ここは聖なる場所だと言われました。 この石は白石村があった場所から拾い上げられた非常に貴重で、かつ聖なる石だと言われました。 オノゴロ島ということで日本の生まれた場所だと言うことでした。 国生み神話の元になった島。 三重県にある生田神社にも、イザナミ、イザナギをご神体とするその神社の中にも、同じような白い石が飾られています。

白石は地層にあると言うわけではなくて、たくさんのものを持ってきて、そこに置いていたものをその残滓と言うように説明していました。 弓弦羽神社はかつては道なき道で、どれだけ運ぶのは大変だことだったかと思われます。 「村」であると言う事は共同体であるはずです。 津波によって沈んだとしても、生活痕や茶碗の1部でも見つかってくれれば、複数の家族がいたであろう1つの類推のきっかけにもなります。

水中ドローンでの調査を行いました。 石畳と言うようなものとか、明確な人工的な凹凸と思われる場所がありました。 それ以外は見つかりませんでした。    もし台所の茶碗とか生活痕のものが見つかれば色々と広がっていくものと思います。 調査は水中考古学と言う分野に属しますが、陸と違ってものすごく費用がかかります。 確実にそこにあるかがわからないと国からの費用は出ません。 元寇で4500隻の船が来たと言われていますが、最初に文化財保護の適用が法的に認められるまでに5,6年、船が一隻見つかるまでに30年かかっています。 35年かけてようやく国の史跡になりました。 白石村も相当するものがあると思います。    学術的調査の段階に来ているなと思います。

もし白石村が実際にあったと確認された場合には、他の遺跡と1番異なるところはオノゴロ島の近くであると言うことに他なりません。 神話の元祖となり、天変地異、災害との関わりもある。 オノゴロ島の近くという意味も含めて、白石村の調査は、日本の今後の水中遺跡の発展のためにも、不可避の事業だと思ってます。 

単に考古学にとどまらず、そこに残されたものから、防災への未来への新たな知見を得られる可能性があります。 それと同時に、オノゴロ島の1段階上に移行するための論拠作りと、我々のアイデンティティーを見つめ直す意味で、この白石村は着目するに値するということだと思います。 私は別途、国際協同研究と言う科学研究の代表もやってまして、イギリス、アメリカ、フィリピン、タイ、東チモール、ベトナムの6カ国の代表者をしています。 その人たちを案内するのにどこが1番喜ぶかと考えて、予備知識の勉強した後、オノゴロ島へ連れて行きました。     大変喜んでくれました。





2026年6月19日金曜日

ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

 ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

ピーター・バラカンさんは、1951年イギリスロンドン生まれ。 ロンドン大学の日本学科卒業した翌年、1974年に来日しました。 音楽出版社での勤務を経て、1980年代からラジオ番組などに出演、ヒットチャートにとらわれない独自の目線で選曲した世界各国の楽曲を紹介し続けています。 一方、日本の文化を海外に向けて英語で紹介する番組、「Japanology Plus」(ジャパノロジー・プラスの司会も長年担当しています。 日本と国際社会の架け橋となった功績によって、2021年度日本放送協会放送文化賞を受賞しました。 40年以上自分の言葉で伝え続けている理由は何なのか、ピーター・バラカンさんからお話をお聞きします。

74歳です。 日本での生活は半世紀以上になります。 NHK FMでやっている「ウィークエンドサンシャイン」は1999年からです。(28年目) 選曲についてはまず自分で聞きたいものを選んでいます。 純粋に音楽として紹介したいものかどうかと言うおぼろげな基準です。 インプットとしては、インターネットの時代なので、これが多いですが、イギリスの音楽の月刊雑誌の定期購読はずっと続けています。 そのほかいろいろな情報源があります。 紹介しきれない、いっぱいかけたいものが沢山あります。 

始めた頃は台本がありましたけれども、今は全くないです。 ですから、時間管理が難しいです。 久しぶりにテレビで音楽番組をやることになりました。(3ヶ月間) 映像とともに紹介できるのは3曲となります。 厳選して紹介します。 局の方で映像を見つけてくれます。

1951年生まれで、テレビを購入したのは1956年でした。(5歳) 1962年位からヒットチャートのカウントダウン番組はありそれを聞いていました。(ビートルズが出てくる直前)  中学から高校1年にかけて、それがラジオ体験として1番貴重な時期だったのかもしれません。 

日本に来るきっかけは求人広告です。 日本の音楽社が募集している広告があり、応募しました。 ロンドンで面接がありました。 1974年に日本に来ました。(23歳) 私は比較的順応性はありました。 音楽出版社の国際部で、海外の会社にビジネスレターを英語で書く仕事をしていました。 会社は120名位いました。  1980年にイエロー・マジック・オーケストラ(細野晴臣、高橋幸宏坂本龍一の3人で結成)YMOマネジメント会社に転職します。 彼らの楽曲の著作権を海外に紹介したいと思って、それまでやっていた海外の曲を紹介することと、逆のことをパターンの仕事をつもりで入りました。 日本語も英語もできると言うことで、発音のお手伝いとか歌詞を作るときのお手伝いを英語の知識が必要な仕事は僕のところに回ってきました。 

YMO1983年に解散(散開)しましたが、坂本龍一と矢野顕子の活動に関係した仕事を86年まで続けました。 ラジオ番組を途中化一人で担当するような形になりました。  音楽番組は当時収録が多かったです  当時、FM雑誌がいくつもあり2週間ごとに出ていました。 それで番組の内容が全部1ヵ月前に決まっていました。 私が初めてNHKFM番組を担当したのが、1986年だったと思います。 リスナーに対して古い情報を伝えたくないと言うことで、事後報告と言う形で新しい扱いをするようになりました。 FM電波の規制緩和がその頃からありました。 新しい曲ができたときに、生ワイド番組と言うのが多くなりました。 たちまちFM誌の存在の意味がなくなりました。 

ある人から「空想の力が大きい。」と言われました。 自分が目指したいもの、行きたい方向とかを頭の中ではっきりと想像して、頭の片隅にその空想を置いておくと、自分の潜在意識にそれが入って、おのずとその方向にチャンスがあれば向くものと言うそのようなことを言われました。 チャンスが巡ってきたときに、それを掴みやすいように空想しておくと言うことが大事かと思います。 

1960年代のロンドンは、凄まじい若者のエネルギーが集中していた時期でした。 そこにどっぷりつかりました。 それはラッキーなことでした。 「使わなければ失う。」と言う言葉がありますが、使わない筋肉が退化して、脳も同様です。    新聞、雑誌、本などを読むことも大事だと思っています。 新しい音楽も聴いているし、映画も好きです。 そういう好奇心が変わらないです。 ラジオが1番好きです。(ラジオは無限に音源がある。)


2026年6月18日木曜日

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」 

山中さんは201942歳の時に、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 子供3人を抱え一家の大黒柱として働いていた時で、家族の将来を思い途方に暮れたいいます。 そんな中、同じように認知症と診断されながら、生き生きと暮らす先輩たちに出会い、少しずつ自身の病を受けることができました。 今では高知県内2箇所で介護施設を運営する一方、講演会などで自身の体験や学びを伝え、認知症への理解を広く訴えています。

認知症ケア学会に参加するために上京しました。 当事者の視点から認知症の理解を考えると言うテーマのシンポジウムで発言しています。 令和4年から高知県の希望大使に委嘱されました。 ADIと言って世界アルツファイマー病協会があります。 そこの国際本人委員としても参加させていただいてます。 今年はリオに行ってきました。(もとは携帯電話の販売会社で営業担当をしていた。)

若年性認知症と認定されたのは2019年です。 3、4年前から時間の間隔のずれというのが結構ありました。 覚えにくなったと言う感覚もありました。 その前に近所の精神外科に行ったら、正式な診断名はわからなかったんですが、チラシをもらって「認知症と共に生きる」と言うもので、22点境界線と書かれていました。   なかなか理解できない状態が3,4年続きました。 若年性アルツハイマー病の主人公のドラマを見て、自分もこれだと確信しました。 そして、若年性アルスファイバー病と診断されました。 

仕事を続く上で、同じ部署だけには理由を説明して仕事を続けていきました。   1年半ぐらい家に引きこもった時期もありました。 ある本の影響で、いつかは自分もオープンにしたいと思って会社を退職することにしました。(20216月)   東京都の希望大使をしている佐藤美樹?さんが働いているDAYSBL Gと言うところに見学に行きました。 社会参加型デイサービスでした。 チラシをポストに投函する仕事をしていました。 そこで人と人との関係性に関銘を受けました。 こんな施設を作りたいと思いました。 

翌年の4月には法人を設立していました。  人の命を預かることになるので、制度、生活とかいろいろな申請とか一生懸命勉強しました。 20224月に「セカンドストーリー」と言う法人をつくりました。 感動した「ストーリー」と言う歌から名前を付けました。 デイサービス「はっぴー」も歌の中から取り入れました。 自動車販売の洗車をしたりする中で、仕事の枠も増えていきました。マンションの清掃もしてます。 働くと言うこともありますが、みんなと会えるとか、いろんな話ができるとか、そういうことが働くより先に大事なんじゃないかなと気づきました。 2024年の暮れぐらいからいろんな検査をして、レビー小体型認知症(レビー小体と呼ばれるたんぱく質が脳に蓄積されることで脳の神経細胞が減少し、認知症の症状を発症 幻視など、ないものが見える症状​・幻聴などもある。)と診断されました。

デイサービス「はっぴー」は2店舗になり、2店舗目拡大のために引っ越ししています。長男は不動産お仕事をしているので移転の為の手伝いをしてもらいました。 次男は次男は介護職員と一緒に働いています。 私の中の家族という言葉は、血縁関係だけの家族ではなくて、大きな意味での家族、エネルギーのことです。   

進行していくのではないかと言う不安はありますが、先の見えない不安で悩むよりも、今日楽しいことをやって、今日1日精一杯生きようと思っています。  認知症になってからもやりたい事は実現できるし、今までの生活も続けることができます。 それは1人では難しいかもしれませんが、仲間や家族、相談できる人などを今から作っていってもらいたいなと思います。  地域のご本人さんと一緒に居場所を作ったり、思いを聞いて、アクションを一緒に起こしていって欲しいなと思います。


2026年6月17日水曜日

屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪さんは、プロ野球横浜大洋ホエールズ時代に俊足の3人の名前を連ねたスーパーカートリオの一角として、ベンチからのサインをまたないノーサインの走塁で3年連続の盗塁王を獲得。 さらにゴールデングラブ賞5回に輝いた守備では、移籍先の長嶋ジャイアンツの優勝につながるファインプレーでも知られています。    子供の頃から大の鉄道フアンであった屋鋪さんは、プロ野球引退後は、子供たちへの野球教室を続けながら、鉄道文化人としても活躍しています。 さらやに知人から株を譲られたことがきっかけで始めた、ラベンダー栽培がカルチャー教室でも指導を行うようなになっています。 自らの観察眼と直感そして勇気で67歳の今なお走り続ける屋鋪さんにそのノーサイン人生を伺います。

子供たちへの野球教室を月、火、水と別の場所でやっていますが、50人ぐらい教えています。 鉄道の写真集は2冊出しました。 鉄道の車両の模型も作っています。レール幅が9ミリで150分の1位です。 野球ではスーパーカートリオと呼ばれていて、横浜時代、1番、2番、3番、1番が高木豊さん、2番が加藤博一さん3番が私です。 それまでは6番とか7番でしたが、近藤監督から言われて、いきなり3番を打つ立場になりました。昭和60年のシーズンから走りまくります。 失敗してもいいからとにかく走れと言われました。 盗塁って意外と難しくて、私の成功率は7割5分位です。 赤星君は8割以上でした。3人とも塁に出て3人とも失敗したことがありました。 盗塁の要点は①スタート②スピード③スライディングです。 私が1番大切だと思うのはスタートを切る勇気だと思います。 

少年時代から自由奔放に生きていました。 両親は細かいことを言いませんでした。 ただしつけが厳しかったです。 遊び呆けていても勉強をしなさいと言う事は1回も言いませんでした。  8歳から12歳までは、兵庫加川川西に住みました。    いろんな動物を飼いました。(蛇などを含めて) マムシも飼って指を噛まれたことがあり、血清がなく血を絞り出してもらいました。 

1985年スーパースーパーカートリオで前年が11個の盗塁だったのが一気に58個になりました。  翌年から3年連続盗塁王になりました。 ゴールデングラブ賞も5回取りました。 1994年巨人に移った後、巨人対西武の日本シリーズで9回にファインプレイがありました。  10で守り切りました。 長嶋監督からはあのプレイが日本シリーズの流れを変えたと言って下さいました。 貢献できたので、人生であの年は忘れられません。

*「大空の大地の中で」  歌:松山千春

大自然のある北海道は大好きです。 11歳の時に蒸気機関車が大好きになり、私の影響で父も蒸気機関車が好きになりました。 それで夏に北海道行くことになりました。 蒸気機関車の荒々しさに魅了されたと思います。  2006年から写真を撮り始めましたが、その頃600両以上ありました。 昔の模型はもう少し大きくて80分の1位の大きさで、それは高価でした。 Nゲージ(150分の1のタイプ)が普及し始めて60年位です。 引退後鉄道の趣味に戻ってしばらくしてから模型を作成するようになりました。 模型のセットが100個ぐらいあります。

野球は小学校4年生からやりましたし、野球が根幹です。 野球をやることで学ぶべきことがいっぱいあります。 野球がうまくなることに越した事は無いんですが、野球をやることで学ぶべき事がいっぱいあります。  例えば礼儀作法とか私の指導をしたことを考える。 我慢も人生にとっては大切なことだと思います。 野球の楽しみは打つことです。 打球が飛んでいくと気持ちいいです。 子供たちにはボールを真っ芯で捉えるような指導をしたいです。 2010年の後半位から山野草の植物を育て始めました。 2019年に友人からラベンダーの苗を譲ってもらいましたが、失敗しました。 翌年からコロナ禍の中、熱中しました。 今、2カ所で50株ぐらい育てています。  関東地区では、夏の暑さでほとんど枯れてしまって難しいです。


2026年6月16日火曜日

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」 

71日の富士山の山開きの日が近づいてきました。 富士山に1度は登りたい、でも体力に自信がない、混雑が気になる入山料もかかるなどと諦めている方がいらっしゃるのではないでしょうか。 実は東京都内にも気軽に登れる富士山がいくつかあるといいます。 一体どんな富士山なのか若い頃はヒマラヤのカラコルム山脈の山などに挑戦し、高校の教諭を退職してからは、東京の富士山巡りを続けている三輪主彦さんに案内してもらいます。

都立高校30年ほどやっていました。 毎日走って学校に行ってました。  理科の先生でした。  研修で海外にも行きました。  大学では山岳部にいたので、1986年にヒマラヤのカラコルムに行きました。 6000メーター位のところで引き返さざるを得なくなり、カラチと言う乾燥地域に行きましたが、そこは意外と面白く乾燥地域回るようになりました。  1978年から79年にかけてトルコのアンカラ大学に留学して、火山の研究をしました。 戒厳令で大学には行けなくて、トルコをバスで回りました。 

宮本常一先生の主催している日本観光文化研究所に出入りさせてもらっていました。  旅の文化を研究するところでした。 地球環境問題に触発され、マングローブを植えることに参加して、湾岸、ミャンマー、ベトナム、エクアドルにも行きました。 1979年から地平線会議第1回目の報告があり、その報告会は現在まで続いてます。カナダに旅行に行った時に、走って旅をすることに出会い、その後続けています。東海自然歩道と言うのは1200キロあって、高尾山から箕面まで30数日間かけて行きました。 四国遍路も1200キロありますが、そこも走って行きました。

生徒と接していて科学離れと言うことを感じて、大人に理解してもらいたいと思って、定年前に辞めて大人のための科学塾を開こうと思いました。 最初は、宇宙の話とか、地球のマントルの話をしてましたが、実践が伴わないので化石川巡り(昔は流れていたけれども、現在は流れていない川)をしました。 次に山巡りを考えました。 品川神社のところに結構大きな山があって富士塚と言うとこでした。  東京には実は富士山がたくさんあります。 江戸時代に富士講と言うものがありました。 富士山は女人禁制でした。 ミニ富士を作ろうと言うことになり、高田馬場に初めての富士塚ができました。 

富士講の代表の人が富士山に行った帰りに溶岩を持ってきて、富士塚に貼り付けるわけです。 女子供もその富士塚に登れば富士山に登ったと、同じご利益が得られるということです。 昔からのものは3つしか残っていません。 上野の小野照崎神社にある富士山が重要文化財として残ってます。(下谷坂本富士)  西武線の江古田駅の前ある江古田富士、東長崎駅のそばに長崎富士、あるいは高松富士と言われる富士、 十条富士と言うのはあります。 東京の中では1番縁日のすごいところです。 山開きに合わせてやります。 

現在都内には77ぐらいあります。 明治の時に廃仏毀釈があり、仏教系のものは全部取り壊してしまいました。 富士講を仏教の1派でということで壊されてしまいました。 神道であると言うことで生き延びるために鳥居を立てるわけです。 明大前と言う駅のそばに松原富士と言う富士山があります。 江戸にはかつては800から1000があったと言われてます。 江戸川区には14の富士が残っています。 めぐると10キロメーターあります。

富士講はみんな仲良くしようと言うのが1つ登拝いろいろ考えながら、自分の体を鍛えながら登るというのがあります。 江戸の七富士は公式には残っていません。下谷坂本富士、品川富士、江古田富士、千駄ヶ谷富士、十条富士、音羽富士、長崎富士、重要文化財が3つ入ってます  現在は無いんですが、江戸の広重が描いた名所江戸百景と言う浮世絵のシリーズがあります。 その中に富士が二つ描いてあります、目黒元富士目黒新富士。 中目黒の駅から目黒川を渡って、代官山に出るちょっと前に大きなマンションがあって、その脇に目黒富士跡と書いてあります。そこにあったと思われます。

8月の末に山終いと言うのがあります。 富士吉田の火祭りがあります。 それに合わせて富士塚でも火祭りをするところがあります。 清瀬中里富士があって、火の花祭りというのをやっています。 大きな松明を燃やします。(91日に実施)  みんな仲良くしよう、男女平等、畏敬の念を持って山に登ろうとか、そういう精神は残していかなければいけないと思います。






2026年6月15日月曜日

高橋克実(俳優)              ・師匠を語る「演出家実栗山民也を語る」

 高橋克実(俳優)          ・師匠を語る「演出家・栗山民也を語る」

映画やテレビ、そして舞台で活躍する高橋克実さんが師と仰ぐのは、舞台、演出の第一人者栗山民也さんです。 演出家栗山民也さんと俳優高橋克実さんの師弟関係を伺いました。

映画、ドラマに憧れてこういう世界に入りましたけれども、舞台と言う魅力と言うものがわからないでやり始めていました。 栗山さんと仕事をするようになってそう思いました。

栗山民也さんは、1953年東京町田市で生まれます。 早稲田大学文学部演劇学科卒業後、小沢昭一さんが主宰する芸能座に所属。その後演出家の木村光一さんに師事して、1980年「ゴドーを待ちながら」で、演出家としてデビューしました。 文化庁派遣在外研修員として、イギリスのナショナルシアターでの研修を経て、1996年「ゲットー」の演出で紀伊国屋演劇賞、芸術選奨新人賞などを受賞、演出化としての評価を不動のものとします。 2000年には新国立劇場演劇部門芸術監督に就任、監督就任後、目玉となった作品を井上さんに依頼します。 これが「東京裁判三部作」です。  第1部「夢の裂け目」第二部「夢の涙」そして第三部「夢のかさぶた」これで完結する「東京裁判三部作」です。 また芸術監督を7年間勤める一方で、新国立劇場演劇研修所の初代所長として、高い水準の演劇教育体制を確立しました。 2013年の紫綬褒章に続いて2023年には旭日小綬章を受賞。さらに今年第82回日本芸術院賞恩賜賞を受賞、活躍観続いています。

私の初主演作は2008NHKテレビドラマ「フルスイング」大河ドラマでは、「龍馬伝」など数々のNHKのドラマに出演しています。 最近では連続テレビ小説「虎に翼」で演じた、新潟県三条市の杉田太郎役、新潟県三条市は私の出身地です。  最初は劇団に憧れて入りました。 劇団離風霊船に入団。 劇団主宰・大橋泰彦の作・演出作品の「ゴジラ」にモスラ役で出演、新進劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞を受賞しました。

栗山さんを一言で言うと、初めて会ったプロの演出家です。  「メディスンの薬」?の稽古の時にサンダル履きで行った覚えがあります。 ジャージに裸足で行きましたが、靴の紐を結ぶというト書きに書いてあることが出来ずに、栗山さんから注意を受けました。 以後稽古への向き合い方が変わりました。 20代から30代に所属した 劇団離風霊船「ゴジラ」で岸田國士戯曲賞を受賞。(1998年 27歳) その時には、栗山さん自身のことも岸田國士戯曲賞がすごいっていうことについてもあまり知りませんでした

ミュージカル「阿国(おくに)」の初演が1990年で栗山さんの演出でした。    観客として初めて見に行きました。 木の実ナナさんが主演。 当時、日本のミュージカルが人気のあると言うものではありませんでしたが、力強さエネルギーを感じました。 「東京裁判三部作」の第一部の「夢の裂け目」が2001年、第二部「夢の涙」が2003年、2006年が第三部「夢のかさぶた」これに出演しました。     栗山さんとは1番距離が縮んだ時でした。 この三部作は自分にとってはターニングポイントとなりました。 井上さんの本と栗山さんは相性が良かったんだと思います。 

それほど面白くない所でも栗山さんがやると面白くなるんです。 女優さんの仕草とかを女優さんよりも上手に栗山さんはやります、やってみせる。  栗山さんは、稽古場のときの仕事の場とそうじゃない時では全然リラックス感が違っていました。  2023年に栗山さん演出の「海をゆく者」にしました。 翌年第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞しました。 海をゆく者」は、僕は初演も再演も見ていて、ものすごく面白かったです。 

初演、再演は、吉田鋼太郎さんが演じた役を3回目の演出では、私のほうに栗山さんからオファーが来ました。 ものすごい大変な役なので、逃げたかったです。 どうなるかなと思いながらやることになりました。  苦労した甲斐があって、第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞することになりました。 栗山さんとの出会いは、1992年の「メディスンの薬」?から、今回の「花よりタンゴ」で34年の師弟関係になります。 教えとしては、言葉と言うよりは、栗山さんの姿勢だと思います。 12ヶ月ずっとここ何十年と演出し続けていてすごい本数だと思います。     常に演出の事しか考えてないんです。 生きるという事は、演出そのものなのです。

栗山さんへの手紙

「・・・今日もどこかで大好きな演出をされていることでしょう。 誰よりも早く稽古場に来て、終わると颯爽と風のように去っていく。 112ヶ月休むことなく演出をやり続けて何十年、やや半世紀。・・・まさに日本演劇界のマグロ、栗山さんとの一番の思い出は、2001年の新国立劇場の 井上ひさしさんの「夢の裂け目」・・・なかなか台本が上がらずに稽古ができず、その分よく飲みに行っていろんな話を聞けたことです。・・・」





2026年6月14日日曜日

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)    ・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー 

近年、新しい時代の価値観や多様性に対応できる柔軟なリーダーシップの取り方に関心が集まってます。  元プロレスラーでプロレス興行団体社長の棚橋弘至さんは個性的なレスラーの皆さんをリード、育成しながら多様化する格闘技ビジネスの世界で強いリーダーシップを発揮されています。 様々な夢、能力、キャラクターを持った人たちを先読みの難しいこの時代どう牽引していけばいいのか、選手として感じできたこと、今会社のリーダーとして思うことをお話しいただきました。

1976年岐阜県大垣市生まれ。 小、中、高と野球をやっていました。  野球選手になれたらいいなぁと思っていました。  高校生の時にたまたま夜のプロレス中継を見てこんなすごい人たちがいるんだと言うことを見て、一気に好きになってしまいました。  立命館大学法学部に入学しました。 大学4年間で体重を25キロ増やしました。 大学ではプロレス同好会に入りました。アマチュアレスリングクラブにも入りました。 22歳で新日本プロレスに入門しました。 2023年の1223日新日本プロレス株式会社の第11代代表取締役社長に就任しました。 選手権社長2年やる。 2026年に選手を引退。

2000年代から格闘技、K1とかテレビで放送され、プロレス業界は方向性を見失う時代でした。 かつて経営は丼勘定だったんですが、数字の分もしっかり見なくてはいけなくなったので、ビジネスとしての成長を求められました。  選手時代は、プロレスのイメージを変えると言うことに力を注ぎました。 「愛してます。」と言う言葉が出てきっかけと言うのは、2006年の北海道の大会でしたが、チャンピオンシップに挑戦することが決まっていました。 チャンピオンがドタキャンでトーナメントで勝ち抜いてチャンピオンになりました。 チャンピオンを目当てにチケットを購入した方に申し訳なくて、その時に「ありがとう。」「愛してます。」という言葉が出ました。(感謝の最大級と言う意味合い) 試合の締めの言葉では「愛してます。」という言葉を使うようになりました。 メインイベンターには決めポーズ、決めゼリフ、きめ技、この3つがないとなかなかなれないと言う型を作りました。

新日本プロレスには現在50名前後います。 みんな個性を出していって、フアンの方にアピールしていかないと生き残れない社会です。 リング上は1つの形ができてるので言う事はありません。  選手が戦いに集中できる状況を常に作っていきたいって言うふうに思ってます。 現在3人ずつランチミーティングを行っていろいろ聞いたりしてます。 ピンチはチャンスだと思ってます。 リーダーがうろたえると、会社自体に動揺が広がると思いますので、常に笑顔でいようと思ってます。   プロスは楽しいとか、盛り上がりとか、そういった外側のところに僕はフォーカスを当てただけです。 

リングの中は以前からのスタイルのままです。 喜怒哀楽の感情が全部詰まっています。  プロレス会場に来たら怒ってもいいし、泣いてもいいし、そういった感情を振ることによって心がすかっとします。 プロレス会場はお客さんと選手のエネルギー交換だと思ってます。 ①疲れない②落ち込まない③諦めない。それを逸材3箇条と呼んでいます。 チャンピオンになってから6年間ぐらいチャンピオンらしくないと言うことでブーイングがありました。 その時に二つの軸が必要だと思いました。 ①会社側の評価、②自分の中で100%出したかと言う軸、それが進化の秘訣です。 

努力している人は、目つき、生き方、生きる姿勢そういったものに全部出てきます。 自分じゃない誰かが、きっと見てくれていると思います。 自分がやりたいことを仕事にできていると言うことが一番大きかったかなぁと思います。 人の喜びを自分の喜びにできる人間でありたいと思います。 仕事の中で自分の充実感を見つけてほしいと思います。 戦いを通じてエネルギーを売ってる会社だと思ってます。  100年続く長寿企業さんのイベントに行った時に、100年続く社訓があって、①会社の方針がしっかりしていること②製品がしっかりしてること③柔軟に時短に対応すること 僕は3つ目に特に注目してコスチュームを派手にしたり、プロモーションもいっぱいしてきました。


2026年6月13日土曜日

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長)    ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長) ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~ 

担い手不足などで衰退の一途をたどる祭りが少なくない中、疫病退散などを祈願する大阪天満宮の天神祭は、ますます盛況で724日の宵宮と25日の本宮、合わせて約130万人の人出があります。  神様を乗せた神輿を中心に、総勢3000人余りが練り歩く陸渡御、神様の乗った船とそれをお迎えする100隻もの船が中心部の大川(旧淀川)を行き交う船渡御、そして奉納花火が有名で、そのほかにもたくさんの神事や行事が、夏の大阪で盛大に繰り広げられます。 高島さんは、天神祭は変革を繰り返すことで、伝統行事としての魅力をいっそう増してきた、その仕掛けのキーワードは、疑似的な伝統、疑似伝統だといいます。 1000年余り続く大阪の天神祭りはどのような変革を繰り返してきたのか、高島幸次さんに伺います。

お祭りの日に着る装束を宮司から重要な人に与える、それが装束賜式(しょうぞくたばりしきといいます。 そういう意味から言うと天神祭は既に始まっています。  江戸時代から始まった2メートル位の豪華なお迎え人形と言う人形がたくさんありますが、事情によって今はそれを船に乗せられないと言う事情があります。   最盛期は50体位ありました。 現在残っているのは16体です。 大阪有形文化財に指定されています。 8体位を設置してスタンプラリーとしてやっています。(71日)

大阪天満宮は、菅原道真公をお祭りしています。 讒言により菅原道真は太宰府に流され亡くなります。  亡くなった後、いろんな天変地異、流行病が流行ったりします。 道真の祟りではないかと言うことで、道真をお祭りするようになります。 大阪天満宮の場合には949年に天満宮ができます。 疫病を鎮めてくださいと祈願する神社としてできています。  太宰府は当時古代の外交の玄関口でしたので、中国大陸や朝鮮半島から人がたくさんやってきて、日本に無かったウィルスを持ち込んでいたようです。 それが道真と結びついてくるわけです。 平安京で起こった疫病、多分天然痘と思われますが、神事で日本中の疫病をお神輿に閉じ込めて川に流していくと、大阪天満宮の前あたりで、一気に海に流れ出す場所でした。 道真公が太宰府へ流される際に天満宮の場所あたりから船で向かったと言われています。 いくつかの条件が重なってそこに天満宮の場所が決まったようです。 

日本には夏祭りと秋祭りがあります。 お祭りは基本的には神様が年に1回だけ外に出てこられます。 村の神様は農業で収穫を気にされます。 刈り入れが終わった頃に出てこられて、今年1年よく働いたねと、そして村人たちも収穫していただきまして、ありがとうございますと感謝する、それが賑やかなお祭りになります。  天神祭は夏祭りですけれども、収穫とは関係なく街の人々は、疫病を退散する祈願をします。  大阪天満宮の場合には、船渡御陸渡御2つあります。  

天神祭の「大阪締め」は独特で、お祭りに特別に参加している人たちと、全く縁もゆかりもない見物に来られた人たちの間で交わされます。 去年、大阪天満宮と天神祭の本を書くときに、大阪天満宮の歴史だけを書くつもりでいました。 お祭りの存続の仕方を天神祭の中にヒントがあるのではないかと思って、疑似伝統と言うことを説明しました。 時代の変化に応じて変わってなかったら途絶えてしまいます。 今伝わっているのは必ず時代の変化に合わせて対応して変革を繰り返しながらやっています。 伝統を感じさせる変革を繰り返す、それは日本の文化の中にちゃんとあります。 例えば、天皇の即位の時に、江戸時代最後の孝明天皇までは中国の皇帝の装束を真似してましたが、明治天皇から初めて現在の装束のように変わりました。 

年に1回神様が神社から外に出てこられるときには、鳳神輿に天神様が乗って、玉神輿と言う乗り物に法性房尊意(天台宗の1番偉いお坊さん)が乗って出てきますが、の神輿と共に2つ出てきます。  明治に神仏分離と言うことで、神社とお寺を明確に分けれるようになりました。 お坊さんをまつわることができなくなり、道真公のご先祖にあたる神様と、天照大神が岩戸に隠れたときに、力づくでその岩戸を開けた人、2人の神様が今度はお祭りにお供する形になります。  天神祭は、静と動のお祭りと言われますが、疑似伝統として新しい形のお神輿の関係性です。(仏法で鎮めようとしたことを力で鎮める考え方)  

陰暦では6月の25日で行われていましたが、新に変わったときに、それに天神祭りが相当するの725日という事にしました。 725日にすることによっての時期からずれて、この30年間雨が降ってない状況でお祭りが行われます。  昔は天神様から大川から下流のほうに行ってましたが、地盤沈下で下流に行けなくなって上流に行くようになりました。 船の上で神事ををやるようになって、それを見物人が見ることができるようになりました。 おもてなしの心が天神様の祭りの中にたくさんあります。 御迎え人形は芝居の1番の決めのポーズをとっています。   町内会ごとにちょうちんの文字が変わっていきますその文字について、地元の人と見学に来た人との間で交流が生まれたりもします。 

天神祭りの1番中心には、神主による神事があり、周辺に氏子の神賑行事というのがあり、一般市民の観光行事の三重の行事があります。 この三重の行事のバランスが全国の中で最もうまくいってると思います。  それがどうしてうまくいっているかと言うと、疑似伝統の使い方とか、おもてなしの心、そういったものが可能にしているものと思います。  伝統を守ろうと思って、無理をして滅びさせてしまうよりも、どのように伝統を変革したが、存続できるんだろうと言う変革の仕方にコツがあると思います。


2026年6月11日木曜日

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」 

持田さんは、1959年東京都生まれ。 1995年から発刊が始まった折口信夫全集の編集解説を担当、荷風研究では、2009年「荷風へようこそ」でサントリー学芸賞を受賞しました。 荷風の他折口信夫や泉鏡花についての著書もあります。最新の著書は去年出版された「ことばで愛し、ことばでたたかう日本文学の宝石箱」です。  また去年創設された永井荷風新人賞の選考委員をされています。 

6月は荷風の季節と言っていいと思います。 梅雨を取材にした「雨、少々」と言う小説も若い時に書いています。  男の方の荷風論と言うのは、非常に尊敬するし、調査も行き届いていますが、遊びの世界、荷風は粋だ、男としては憧れるというのが多いです。 評論家の川本三郎先生が荷風の評論の先人を切ってますが、川本先生自身がエッセイで早く女性の研究家が出て、こういう見方を変えてちょうだいと言うふうに呼びかけていましたので、違った口調で発掘してみたいと思いました。 

平和こそ一番尊いものなんだと言っています。 荷風は甘いものが好きで、「砂糖」と言うエッセイで、日々のおやつこそ平和の証だ。 そういうものはゆとりがないとおやつなどできないと言ってました。 日々のおやつを大事にして平和のシンボルにしましょうと、「砂糖」と言うエッセイで呼びかけていました。 全集も35巻あります。 20歳前から亡くなる直前まで書き続けました。

私の経歴は、大学、大学院では、民族学者、国文学者、歌人でもあった折口信夫の研究をしました。 荷風も折口信夫もずっと独身でした。 結婚するとかなり自由が束縛されるので独身を通しています。 荷風は若い頃2度結婚していますが、その後は独身、平和を愛したということで2人に共通点があります。 乙女、少女を平和のシンボルとして詩や小説で主題にしていると言うところがこれが大きく結構重なっていると思います。 

私は40代の時に体調を崩し折口信夫を研究することは厳しいと思っていた矢先に、荷風の作品との出会いがありました。 荷風は柔らかくて優しくて助けてもらったらという感じがしました。  来青花と言う花のエッセイに引き込まれれました。(38歳の時の作品) 荷風は庭が大好きでした。 荷風といえば、散歩の達人。     荷風は男子たるもの裁縫はできねばならぬ、料理もできねばならぬと言っていました。 真の人間の独立は家事ができなければ話にならいと言う主義でした。 

荷風は24歳でアメリカに留学して、その後銀行員になってフランスも行ってます。 荷風には「アメリカ物語」と言う短編小説集がありますが、アメリカの乙女の自由な姿に感激しています。 荷風は、アメリカやフランスに行く前から、ほとんど乙女が基本です。  結婚などに関する乙女たちの恨み、怒りを初期から荷風は小説にしています。  荷風は最初の結婚が父親の言うなりのお見合いでした。2人目の奥様が芸者さんです。 離婚した後付き合ったのは玄人の女性です。 日本でも自由な女性が出ればいいと思ってたんですが、絶望したんではないでしょうか。 自分は絶対に素人の女性を騙したり遊んだりはしない、それは自分の誇りだと書いています。 

荷風は、子供の頃から芸者さんと言うものに非常にピュアに馴染んでいました。 父親の家にしょっちゅう芸者さんが来てました。 家庭の宴会のお手伝いなどもしました。 乳母のような存在とエッセイで書いています。 荷風の時代には60歳になると隠居、荷風の視点からすると、社会とも競争しなくても良い。社会の外の世界に生きられると言う思いがありました。 組織から抜けた人の尊い眼差しと言うことを荷風は大切にしています。 素敵なおじいさんをたくさん小説に登場させています。  荷風は平和を徹底的に守った文学者と言う面を見ないというのは非常に私たちの損ではないかと思います。  荷風は戦争に迎合するようなことを一切書かなかった。 私が荷風から影響受けたのはすごくありますけれども、あんまり頑張らない、頑張って自分の野心を達成しようとすると、かえって人の迷惑になったり、人を傷つけたり、自分も傷つく。 文体も断言しないと言う風に、柔らかく、素直な文章を書いていきたいと言うふうに意識が変わりました。

私は本が好きで、少女漫画、児童文学、純文学の境目が私にはないんです。   日本画を描くのが好きでした。 手を悪くてしまったので描くことが出来なくなり、見るのも好きです。 荷風と日本の古い伝説は、まだ焦点が当てられていないと思いますので、古い日本の古い良き物に出会おうした柳田邦夫と永井荷風をテーマに書いてみたいなと思っています。  去年創設した永井荷風新人賞の選考委員になりました。 

永井荷風は79歳で亡くなりました。  荷風から学ぶシニアの生き方、生活は、その知恵は荷風のエッセイにいっぱい出て来ます。 孤高を保て、孤独を恐れるなとか、なかなか難しいところはあります。 荷風から教えてもらったものの、1つに毎日夜の空を見なさい、月とか星のことを見てメモすることによって、ちょっと心がロマンチックになります。


2026年6月10日水曜日

松村雄基(俳優)              ・還暦過ぎて、俳優も書道もまだまだ勉強

松村雄基(俳優)          ・還暦過ぎて、俳優も書道もまだまだ勉強 

松村さん(62歳)は、198017歳で芸能界デビュー。 テレビドラマ「不良少女と呼ばれて」や「スクール☆ウォーズ」、「ポニーテールはふり向かない」などで人気を集めました。 今はテレビドラマのほか舞台やミュージカルで活躍、7月にはミュージカル「赤毛のアン」の出演が予定されています。 また松村さんは30歳の時にある本を読んだのをきっかけに、書道を本格的に始めました。 書道を始めて2年で師範の免許を取り、その翌年に東京新聞主催の第17回東京書作展で内閣総理大臣賞を受賞しました。

3月から始まったミュージカルがちょうど5月末で一段落つきます。「天使にラブ・ソングを」という日本では初演から12年目になります。(6回目の再演) 去年は舞台でミュージカルを含めて4本やりました。 ミュージカルは短くて1ヵ月長いと3ヶ月位練習をします。 泣いているように歌う、悲しいように歌う、嬉しいように歌うと言うことが必要です。 本当に感情を込めて歌うと歌えなくなってしまいます。 冷静な気持ちを持ちつつ、音符をしっかり、リズムをしっかり、メロディーをしっかり芝居と芝居の間にしっかりはめて踊りながら芝居をする。これは普通にする芝居の3倍労力がかかります。  初めて会った人と、いきなり恋人、親子、ライバル関係を構築するのは本当に大変です。  役者と役者のキャッチボール、スタッフとのキャッチボール、お客様とのキャッチボール、呼吸、駆け引きが舞台の素晴らしい魅力であり、難しいところであると思います。 

30歳の時に初めてミュージカルの話が来ました。 14歳の時に、同級生から芸能事務所の社長を紹介されました。 社長が私を預からせて欲しいと言うことになりました。 祖母の一声で芸能界の道に入ることになりました。  「劇団俳小」に2年間通って演技の基礎を学びました。  その間公演に2回出ました。1980年高校2年生の時にテレビドラマ「生徒諸君」の沖田成利役でデビューしました。(大阪から来た不良の役) それから学校へは行かず、半年間ずっと撮影ばっかりでした。   留年しました。 手取り足取りの17歳でした。 ただただ現場で怒られ夢中にやっている日々でした。 1984年の放送の「少女が大人になる時、その細き道」で大映テレビドラマの初レギュラーに出演して、僕の運命がそこでぐんと動いたと思います。 「スクールウォーズ」と言う伏見工業高校の実話を元にしたスポーツ根性ドラマでした。  その後、いろんなテレビドラマに出演するようになりました。   「スクールウォーズ」は普通のドラマではないけれども、脚本家の方々がこの作品にかける情熱を言葉に託したその思いがあったからこそ、今40年経っても注目していただけると言うことに本当に感謝しています。

子供時代は内向的で小学校から4年から詩吟と剣舞をやってました。 絵が好きで運動は苦手でした。 中学1年の時に持久走をいつの間にかやらされることになって、1ヵ月以上練習して出場したら、学年で1番になりました。  やればできるんだと言う成功体験を学びました。 私は指導していただいた人たちに恵まれました。 最初は祖母、次が事務所の社長、剣舞の女の先生、書道の先生も女性で、お茶の先生も女性で、女性の先生にとても恵まれました。 うまく字を書くと祖母が褒めてくれて、字を丁寧に書くようになりました。 祖母からはいろんなことを鍛えられました。 事務所の社長からは、今はお前があるのはおばあちゃんのおかげだからと言うことを常に言っていました。 18歳の時に祖母が脳梗塞で倒れてしまいました。高校3年生の時 在宅が10年で10年間ほど特別老人ホームに入って合計20年です 在宅時には祖母の介護をしました。

書道に興味を持ったのは30歳の時です。 書店で「くたばれ日展」と言う本を読んで読んだらすごく面白かった。  著者の大渓洗耳先生のところの体験入学があり、そこに入ることにしました。 女性の先生の前で上手く書くことができなかったのは、あまりも悔しくて、それをバネにしてエネルギーにしました。 書道を始めて2年で師範になりました。 結構大変な試験でした。 当時は、書道の合間に撮影に行くと言う風な感じでした。  

東京新聞社主催の第17回東京書作展で内閣総理大臣賞を受賞しました。 師範試験を受かった翌年でした。 書いた作品と言うのは、自分が映る時があります。   心理状態、自分の持っている何かとか、書は自己顕示欲の塊だと言われました。 良い書をを作ろうと思ったら、どんどん経験して失うと何かを得る。 そこにエネルギーが生まれて創作ができるんだと言われました。 なにくそと思って頑張ったときにエネルギーが生まれて得るものがある。 

書いた自分の字があまりにも形だけだったりすると愕然とします。  芝居でも同じです。 舞台に立つときには役柄として舞台に立つ自分、客席で見ている自分、全部俯瞰して見ている自分、同時に3人ぐらいなさい、そうでないと自己満足だけで芝居したらお客様は喜ばない。 お客様に受けるだけの芝居をしても駄目、全部を見渡した中での役作りとかがあるべき。 冷徹な穂先の冷徹にある気持ちがないと書けない、情にほだされて書いたのはそれだけの書です。 そう言われたときには自分では何も考えてないなぁと思いました。 書の向き合いが自分の仕事芝居にも生きます。 冷静に見ると言うことが芝居にも必要であると言うことを改めて感じてます。  知らないことを知りたいと言う気持ちが湧いてきます。 もっともっと勉強しないといけないと思います。  音楽も書ももう一度勉強ですね。    学ぶと言うものは何か得られるじゃないですか。 そういう得られるものが嬉しいです。 




2026年6月9日火曜日

森本行雄(手話通訳士)           ・「声のない対話が教えてくれること」

 森本行雄(手話通訳士)        ・「声のない対話が教えてくれること」

森本さんは岡山出身70歳 手話通訳士として、長年聞こえない方たちと社会との橋渡しを続けてきました。  森本さんは学生時代に耳が聞こえない友人と出会い、手話を学び始めました。 卒業後は盲学校や聾学校で勤める傍ら、手話通訳のボランティア活動を続けてきました。  34歳の時に始まった第一回手話通訳技能認定試験に合格したことをきっかけに、医療や裁判の現場等でも通訳士として活躍しています。  一方で、多くの人に手話の必要性や魅力を知ってもらうため、大学の授業やエンターテイメントの場でも手話を積極的に取り入れています。  森本さんが 手話通訳士としてたどり着いた伝えることの本質について伺いました。

「よろしくお願いします。」は、鼻のところにげんこつをつけて手刀を前にお願いしますと言うふうに出しました。 「おはようございます。」は、枕から頭を外すと言う意味合いがあって、げんこつを耳のあたりにつけてそれを下におろす、これは意味としては朝です。 お辞儀するということで「おはようございます。」という意味になります。 コンビニエンスストアは両手で24にしてぐるっと回すと24時間という意味になります。 

国によっても、手話の方法が違います。  「ありがとう。」は、手のひらを下に向けて横に向け手刀をちょうんとつけて上に持ち上げる。 これ大相撲で賞金をもらった力士が手刀を切る、その仕草を「ありがとう。」と言う風に手話にしましたと言う説があります。 アメリカでは顎のところに手を当てて前にポンと出します。  投げキッスのような仕草です。  手話は相手の顔を見ないと成り立ちません。 

私は50年前から手話をやってます。 私は大学3年の時に初めて聞こえない女性と出会いました。 最初筆談を始めました。 ある時、相手の書いた筆談の文章を代読しようと思ったら、それが読めませんでした。 助詞が微妙に違いました。 それを読んで返したら、そのメモをビリッと破ってポケットに入れてしまいました。     その後、手話でコミュニケーションを取れるようにはなりました。 その劇団の彼女に地域の手話サークルに連れてってもらって、いろんな手話を覚えました。

21歳の夏に大学のサークルで合宿があり、そのサークルにも聞こえない人がいました。 その方に手話で話しかけたらば、その人は手話を知りませんでした。    相手の唇を読めば、できるんだと言うような考え方があり、学校では手話を禁止された時代がありました。 中学、高校では、先生の唇、黒板等の情報によって勉強ができていたけれども、大学では先生との距離が遠くてそういうわけにはいきませんでした。 友達のノートを借りて勉強していたそうです。 その人と手話の勉強しながら、大学で手話のサークルを立ち上げました。 地元の教員になろうと思って、試験を受けましたが、不合格になってしまいました。 

埼玉県の坂戸聾学校があって、そこの寮に努めることになりました。(7カ月間の臨時採用)  埼玉県の盲学校の寄宿舎で、男性寮母の本採用する話があって、そこに行きました。(10年間)  その後第一回目の手話通訳士試験あって応募して、全国で1000人ぐらいの人が受験し、合格者が190人ぐらいでした。(合格率18%)  私も合格することが出来ました。 仕事として手話を使える仕事になれました。  高度の通訳もできるようになりました。 病院とか裁判とか、弁護士さんでも耳の聞こえない方がいて、日本でも20人程度います。 耳の聞こえない医師もいます。

國學院大学では、2004年から今年1月まで手話学の講座を22年間続けてきました。 大きくは2つあって手話の実技を身に付けてもらう。 手話と言うものはこういうものだと言うことを説明したり、手話の歴史を説明したり、その他いろいろ説明してきて、聞こえない方の理解を進めて行こうという事です。 応募者の学生が200人いました。 音を使わない勉強方法にしました。 何人か手話通訳士を目指す人がいたり、社会福祉士の資格をとって、役所に勤めると言う人たちが出てきました。 声の聞こえない学生もいましたが、それを支援するような状況が生まれていったことも嬉しかったです。

一般社団法人「Get in Touch」と言う法人があって、理事長が俳優でタレントの東ちづるさんです。私は理事を務めさせていただいています。 東日本大震災をきっかけに活動を始めました。 アート、音楽、演劇、映像、そういった楽しいものを使っていろんな混ぜこぜの社会を体験してもらうと言う取り組みをしています。  (ジェンダー、国籍、障害等)  そのPR活動をしています。 伝えるという事は一生懸命伝えると言う事は大事ですけれども、逆に相手が伝えようととしていることを自分も受け取る、伝えてもらおうと言う姿勢も大切な事だと思います。






2026年6月8日月曜日

松島トモ子(女優・歌手)          ・「母逝きて、ひとりを生きる」

 松島トモ子(女優・歌手)          ・「母逝きて、ひとりを生きる」

松島さんは1945年東京生まれ。 3歳でステージに立って以来、映画にテレビに舞台にと活躍を続け、芸能生活は75年を超えました。 私生活では長く自宅で介護してきた母、志奈枝さん 2021年のコロナ禍に看取りました。 志奈枝さんは100歳と8ヶ月、介護生活は6年余りに及びました。 志奈枝さんをなくした後、松島さんはマンションに住まいを移し、生まれて初めての一人暮らしを始めました。 日々の暮らしのあれこれを「ライオンの餌」と題したブログをに軽やかに綴っています。

77歳で引っ越しましたが、写真の量がものすごく多くて私の写真だけではなくて、他の大スターの方々のものもあります。(力道山さん、長嶋茂雄さん、嵐寛寿郎さん、坂東妻三郎さん、美智子様(上皇后様) 等) 松島トモ子の生前葬ということで、舞台で歌ったり踊ったり写真の紹介などを含めて行いました。 3歳から舞台に立ったので、ステージが1番リラックスします。 3歳の時に日比谷公会堂のステージでした。 映画デビューは4歳でした。 嵐貫寿郎さんの「鞍馬天狗」では、杉作をやったり、大友柳太郎さんの「丹下左膳」はちょび安をやったりしました。  江利チエミさんの「サザエさん」では、私はワカメをやっていました。 

スタジオには小学校のそれぞれの学年での先生が来てもらえました。 家に帰ると家庭教師が住み込みでいました。 ステージに出るのから逃げ出したかったけれども、実際に逃げたことがいつもありませんでした。 ライトとドンチョウと拍手のこの3点は味わってみないとわからない快感です。

母を尊敬していましたが、母は壊れていくんですね。 暴言を吐くし、幻視認知症で大暴れをして包丁を持って一緒に死のうと私を追いかけ回したりして、本当に壮絶なことがありました。 美しかった母とゾンビみたいな母と2人いるんだと思って介護していました。 母が自宅介護にこだわりました。 私自身がパニック障害になってしまいました。 私と母は何とか生きてこられたのは、ケアマネジャーの方のおかげです。 「仕事をもらっているならば、とにかく続けなさい。」とアドバイスされました。 「仕事を辞めてしまうと、いざ仕事をやろうとしても声がかかりませんよ。」と言われました。 舞台に立つといろいろなことがすべて忘れられます。  母が亡くなったのは2021年です。 日々の大変な介護を考えると、万歳三唱だと思ってましたが、大変な喪失感でした。

どこの部屋を見ても、母への思い出があります。 ここを出なければと思いました。 引っ越し先のマンションで、昼間ベッドから落ちて失神して、救急車が来たり、消防車が来たり大変なこともあり、すっかり有名になってしまいました。  一人暮らしのあれこれをブログに綴っています。  タイトルは「ライオンの餌」です。以前に海外にロケに行った時に、実際にライオンに襲われたり豹に噛まれたりしました。  ステージで永六輔さんから「ライオンの餌」と紹介されそれをタイトルにしました。 

変形性股関節症でした。 母の介護時も右足が激痛していました。  母が亡くなってから手術ができることになりました。 満州から引き上げるときにカンガルーのポケットのように私をそこに入れて、これだったら顔が見られるので、いつ死んでいるかわかるということで、母は抱いて帰ってきました。 その時の抱き方に問題があって右足が相当ひどい状況のようだと言われました。 母が幻覚認知症で大暴れするときには、ソ連軍の戦車が向かってくると言うことでした。 何十年経っても戦争の恐ろしさは心に残るんですね。 戦争は絶対にやってはいけないと本当に思います。 父は、シベリアに抑留されて私が生まれて3か月後になくなりましたが、ずっと待ち続けていました。(判るまで4年間)  束縛が多かったので自由に恋をしてみたいと言う夢はありますが。 自由に舞台で歌って踊ってと言う日がずっと続くようにと言う思いはあります。


2026年6月7日日曜日

ヒダオサム(造形作家・マリオネット作家)  ・あそびは無限大~造形は“いのち”を吹き込む手作業

 ヒダオサム(造形作家・マリオネット作家)  ・あそびは無限大~造形は“いのち”を吹き込む手作業

 ヒダさんは長年、NHK子供向けテレビ番組に造形作家として携わってきました。 Eテレ「できるかなぁ」の、ノッポさん「つくってあそぼ」ではワクワクさんが作る工作を考えた人です。 現在も全国各地で講演会や工作教室を開催するほか、マリオネット作家としても活躍しています。 ヒダさんに工作の楽しさや今後の夢などお話を伺いました。

ノッポさんやワクワクさんが作る工作を考えた人です。 造形作家と言われますけれども、本当はマリオネットの作家です。 マリオネットは糸で動かす人形です。今年76歳です。 形を作る前に命を作る段階があると思います。 形と言うのは命と言う言葉に通じているんです。 子供たちは形を表現しながら命を創造しているんだと言う認識が大事だと思います。

私は76歳のおじいさんですが、心の中では3歳、4歳、5歳の元気な子供がいるんです。 1970年代ノッポさんとゴン太くんでお馴染みの「できるかな」の立ち上げにも携わりました。 「できるかな」は3歳の幼児向けに始まりました。 大変に喜んでくれましたが、ノッポさんの作るものは非常に上手く、子供たちは真似して作ると言う事はしませんでした。 その後20年も続いた人気番組になりました。 21年目に新番組としてバトンタッチすることになりました。 ノッポさんは本当はとても不器用なんです。 ノッポさんが自分で作るように仕立てました。

「つくってあそぼ」は4歳、5歳の主に5歳児です。 ゴン太くんに代わってゴロリくんになって工作が大好きな5歳と言う設定です。 ワクワクさんは本気でやっていて、ゴロリくんに負けちゃいます。  工作の番組が終わった週に、子供たちは材料をちょうだい、僕も作りたいと言うことになりました。 それが「できるかな」と「つくってあそぼ」の違いですね。  23年続きました。2つ合わせると43年間になります。 「できるかな」はアイディア担当が4人いましたが、「つくってあそぼ」では私1人でした。 台本も担当したようなものでした。 ゴミになるような品物をいっぱい貯め込んで工夫しました

生まれは満州です。 工作が大好きな子供でした。 私の父は満鉄のエンジニアでしたので、いろんな道具がありました。 その道具を好きなように使っていました。手に豆ができるほどハサミを使いましたし、怪我などもしました。 ロボット、飛行機、船などをたくさん作りました。 木なども削って、チャンバラもしました。ブリキのおもちゃをばらして、また組み立てるのが遊びでした。 

3歳の時に、日本の鹿児島に戻ってきました。 父の仕事の関係で2年おきに小学校を転校するような状況でした。  小学校の頃は絵描きになることを夢見ていましたが、高校1年生の時に先生から夢がない絵だなぁと言われてあきらめました。  東京芸大の工芸科があるのを知って受験して合格しました。 芸大では金属のマリオネットを作り始めました。フーフーという人形劇のサークルがあり劇団に入って夢中になりました。 目が動いたり口が動く。軽くに夢中になりました。人形が命を吹き込まれていくような感じになるのが面白かったです。 卒業後フーフーのサークルの仲間で、人形の劇団を作って、マリオネットの仕事を始めました。   公演にはこぎつけず解散しました。 

テレビ番組の「できるかな」に出演するようになりました。 転機になったのは、それから7年後位に、鉄のマリオネットの上演をしました。 そこの養護学校の子供の作品がすごかったです。 綿のロープを3本を切っただけのものを額に川の字に並べてあるだけでした。  障害のない人には何でもないかもしれませんが、養護学校の生徒にはロープを挟みできると言うそれだけの事が大変なことだと言うことがわかりました。 じっと見ていると、お父さんとお母さんと僕が手をつないでいるところと言うふうに見えてきました。 

考えもつかない驚きの作品でした。 そこで作ったものを大切に扱うと言うことを学びました。 それが私の工作の原点です。 それで43年も続けたこられたと思います。  子供たちと工作遊びをするときに大切にしている事は作ったものの、世界を大切に扱うということです。  工作番組は作った後の遊びが大切なんです。  作った作品の物語を考えて感じること、それが作ったものの、世界を大切に扱うと言うことなんだと思います。 工作って子供そのものなんです。 その工作の物語を大切に扱うことがその子供を大切に扱うことと同じことだと思います。 その工作が世界中でたった1つの宝物なんだよと言うこと、あなたにはそれだけの値打ちがあるんだ言うことを伝えることが大切なことだと思います。 作ったものの世界を大切に扱うこと、それが僕の座右の銘です。 

工作は自分を実現する鏡だと思います。 小さい頃にものを作る喜びや生み出す喜び、そして作ったもので遊ぶ喜びを知ることが大切だと思います。 遊びを共感できた喜びを感じて、自分自身の存在に喜びを感じられること、それが積み重ねられたときに、その子が他の世界と繋がり、自信を持って自立していく助けになると思います。 それが人への思いやりやイメージができる創造力や命をいつくしむ心、ものを大切にする心、真の創造力を生むんだと思っています。

54歳の時に小腸出血をしました。 3年半の闘病生活がありました。 その闘病生活から希望を持って、希望は忍耐を助ける、忍耐は希望を育むと言うことを学びました。 去年から毛皮で作った15センチ位の3本の糸で動かすマリオネット毛虫くんを作って、人形屋さんで販売しています。 糸の数の少ないマリオネットを広めていきたいと思ってます。


2026年6月5日金曜日

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」 

中村あゆみさんは、1966年大阪府で生まれ福岡県で育ちました。 198418歳の時にシングル「ミッドナイトキッズ」でデビュー。 1985年には3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」がコマーシャルソングに採用され大ヒットしました。 その後シンガーソングライターとして活躍されるとともに、2021年からは女性アーティストたちによる音楽フェスティバルを主催しています。 

スーパーレディフェスティバルとなってますが、オーガナイザーを担当しました。 2回目からは立川になりました。 昭和公園があって、緑と街のバランスが良くて、子供も一緒にと言う環境にいいと言うことになって、3年ほどお世話になりました。 メジャーにしていこうという事で、そしてNHKホールでやるようになりました。 3500人ほぼ満席でした。来年もまたここに聞きたいです。 

「翼の折れたエンジェル」が大ヒットとしたときに、NHKから紅白出場の話がありましたが、出ないほうがいいと言うような声もありプロデューサーが断ってしまいました。  紅白出場できずじまいになってしまいました。 今年60歳になります。デビューして今年で42年になります。 10年間ほどは子育て等で歌わない時期がありますが、38歳から復帰して現在に至ってます。 10代の頃に六本木で遊んでいたら、女性から声をかけられて、今のマネージャーを紹介されました。 

母親は中州でクラブの大ママで著名な方が来ていました。 平尾昌晃さんと知り合いで、平尾さんの元で内弟子し的に暮らしました。 その後一人暮らしを始めて六本木で遊んでて声かけられました。 あるとき泥棒を入られて、マネージャーの母親の経営しているところに駆け込んだところで、後のプロデューサーである高橋研さん(「翼の折れたエンジェル」を作った。)と出会うことになりました。    そして、その後、加山プロモーションに入ることになりました。  「翼の折れたエンジェル」(19853枚目のシングル)が大ヒットすることになりました。 

私は反骨心で生きてきました。 3、4歳で親が離婚して、父が私を連れて行くわけです。 しかし父は育児ができず、親戚のおばさんに預けられました。 自分の居場所がなくなり、その後義理の母親が来ました。 ストレスが溜まる中で弟ができました。 親は弟を可愛いがるわけです。 そして私は家出をし、実の母親のところに戻りました。 母親はクラブで大成功していまして、新しい父親と新しい家族がいるわけです。そうするとそこ入っていけないところがありました。 それで平尾さんとの出会いがあり、東京に出てくることになりました。  面倒が見られないと言うことで、私の一人暮らしが始まるわけです。 

芸能人がいっぱいいるような定時制高校へ行き、そこに行けたことが、今になってはすごく良かったと思います。 学歴以上の違う宝物がその学校にありました。  今でも仲良しで時々連絡を取り合っています。 高校へ入って2、3ヶ月してから母親が倒産してしまって、仕送りができなくなりました。 バイトで工事現場の警備員をやりました。 その後毛皮と貴金属の営業して、数百万円の売り上げを上げていきました。 今後少し作品つくり、スーパーレディフェスティバルの下準備をやっていきたいと思っています。







2026年6月4日木曜日

吉備カヨ(人材派遣会社社長)        ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」

吉備カヨ(人材派遣会社社長・元フィギュアスケート選手) ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」 

吉備さんは横浜市出身で60歳。  1990年代フィギアスケート選手として国内外で活躍しました。 引退後は母が作った人材派遣会社を引き継ぎ、ビジネスの世界に入りましたが、2020年からの新型コロナウィルスの爆発的な感染拡大が経営を直撃し、会社は危機的な状況に陥ります。 そんな大ピンチの中、吉備さんは従業員の雇用を守るために、全くの異業種に挑む決断をしました。  母から受け継いだ会社のビルの中で野菜などを育て、それを材料にスイーツやお弁当などを作って販売し、さらにケータリングを展開しようと食を提供すると言うチャレンジです。  この事業は今、新たな都市の農業の形として注目されています。  フィギュアスケート時代の経験がチャレンジに生かされたと話す吉備さん、コロナ禍にどんな思いでどう立ち向かたのか、都市での農業のこれからの可能性、そして今も関わっているフィギュアスケートについても伺います。

アイスダンスで1993年に全日本で優勝しました。 世界選手権にも出場した経験があります。 リクリュウ、三浦 璃来さんと木原龍一さんのペアが大逆転の感動の金メダルでした。  10代前半の三浦 璃来さんと出会いがありました。 12年前、中京大学ののスケートリンクで、未来の選手の発掘合宿と言うのがあって当時、三浦 璃来さんは12, 3歳だと思いますが、1人で淡々と動いていくような人でした。   ペアをやるべくして生まれてきたような子だと言う印象でした。  まさか金メダルを取ると言う事は想定外でした。

私はスケートは7歳から始めました。 アイスホッケーをやりたかったのですが、フィギアスケートをやることになりました。 高校1年生の時にイギリス出身の今でもフィギュアスケート界のカリスマと言われるアイスダンスの素晴らしい選手がいました。 すべての審判が6.0と言う得点を叩き出して金メダルを取りました。   それを見たときにこういうアイスダンスを目指したいと思いました。 高校2年生からアイスダンスに種目変更しました。  フィギアスケートは27歳で引退しました。

 母親の人材会社を引き継ぎました。 2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大で会社の危機を迎えました。 母が残した人材事業と不動産事業を何とかさせたいと思いました。 ビルのフロアの3階を野菜の栽培、2階ではそれを使ったケーキ、スイーツ、弁当などの調理加工、1階のレストランショップで販売を手がけました

手がけられやすいのは食品だろうと思いました。 原材料から持っていれば形の安定につながると思いました。 もともと食に関する興味がありました。  フィギュアスケート時代のパーティーに関することでいろいろ勉強できました。 海外の食を通じたコミュニケーションと言うのは、日本における食を通じたコミュニケーションと言うのはちょっと違うと言うことを感じてました 。それを経験していなかったならば会社を創造すると言うことができなかったんではないかと思います。 やりながら軌道修正しながら楽観的な思い込みでやってきました。

ビルを活用した都市農業についてですが、農業人口がどんどん衰退していくと言う中で、建物が空いていると言う実態があります。 日本の食料自給率が低い中でどんどん挑戦していくと言うと言う事はいろいろなところが登場している来ていると思います。  学校も廃校になってきて、どのように活用するのかと言うこともあります。高齢者、障碍者などの人材活用もセットで考えていくと言う事はまだまだ伸びしろがあると思います。 小、中学生の修学旅行の一環としての見学とか、あるいは海外台湾、ベトナム、シンガポールからも訪問団を組んで見学に来ました。

まずは飛んでみる、逆境があっても、まずは飛んでみると言うような気持ちが、やはり大切なんではないかと思います。 普段とは何かちょっと違う工夫の積み重ねの中で、大きな今まで自分が見てこられなかった景色に出会えるかもしれないと言う可能性は秘めているのではないかと思います。


2026年6月3日水曜日

五木寛之(作家)             ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木寛之(作家)        ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木さんはこれまで様々なジャンルで活躍する人たちとの対談を重ねてきました。最近では対談のお話をまとめた本も出版しています。 対談の面白さ、魅力などについて語っていただきます。 

対談を50年間ぐらいやってきましたけれども、その中で1番印象に残ったと思われるような対談をピックアップしました。 吉行淳之介さんとの対談から始まって5 、60年間やってきて数え切れないほどです。 選び抜いて3巻にまとめました。   作家としては珍しいシリーズになりました。 外国人ではカシヤス・クレイから始まりました。 対談と言うのは言葉だけでなくて、身振り、手振り、その時の表情などをひっくるめての対談ですから、むしろそっちの方が本音みたいなものが出てきます。 ですから2人でやっている演劇みたいなものです。 

インタビューっていうのは、聞き手が対象とする相手の思想、考え方、感受性とかを汲み取ろうと思って努力しますが、対談はお互いに交換します。 自分の心の中の贈り物を交換しあって成り立つものです。(相互作用)インタビューは片道切符。 石原さんは日蓮を尊敬してる方です。 自力の方です。 自分で難局を切り抜けてやっていくんだと言う方です。 僕の場合には親鸞と言う先達がいて、親鸞の思想に共鳴しているものですから、手のひらに乗りながら自分で生きていくと言う他力の思想がありまして、他力本願と言うのはあなた任せと言うふうに誤解されがちですが、そうではないです。 石原さんとは誕生日が全く同じです。  

石原さんとの対談も面白かったですけれども、長嶋さんとの対談も面白かったです。  長嶋さんもすごく理論的です。 女性では、作家の塩野 七生ん、イタリアに住んでいて、色々と歩きながら対談をしました。 色々と臨場感のある話をして面白かったです。 松永伍一さんと言う評論家と対談をしましたが、その時には地方の旅先で温泉に入って、録音機を湯船に浮かばせながらやったこともありました。 ぶっつけ対談もやったことがあります。  塩野 七生さんは男っぽいような気がしますが、非常にデリケートな繊細な気遣いのある人で、歴史上の人物を切るときに薙刀でバッサリ切ると言う、そういう感じはありますけども、繊細な神経を持った方です。 

*「インディアンサマー」 作曲:いまなりあきよし 作詞:五木寛之 歌:麻倉未稀

音楽関係の人との対談もたくさんあります。 作曲家の武満徹さん、映画が縁になって知り合いました。 武満さんは国際人でありながら、日本人の意識の強い人でした。  女性作家の林真理子さんとの対談も多いです。  林さんとは対談を9回やっています。 テレビ、ラジオでの対談は消えていってしまって、活字だけの対談になってしまうのは残念に思います。

戦争中などは、ものを大事にすると言う意味で捨てない時代でしたが、戦後一時期捨てるのが美徳みたいな時期もあり、世の中は繰り返しですね。  対談は、人間の生の姿が出てきますから、大きくうなずいたと言うな事は、活字にできませんから、そこでは本当にそうだねと言う風な書きたすことがあります。  言葉にならない言葉と言うものを対談を活字に起こすときには、作っていかなければいけないので、勝手わがままに作ってるわけではないです。 本当のことを伝えるために言葉を挟んでるわけです。


2026年5月31日日曜日

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン)     ・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン・シンガーソングライター)・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」 

上の助空五郎さんは1978年岐阜県の出身です。上の助空五郎さんは幼少期から民謡、和太鼓、ピアノなどを親しみ、中学卒業後はオーストラリアの高校へ留学。 帰国後に様々な修行しながらヴォードヴィリアンとして活躍しています。

令和7年度国立演芸場主催の花形演芸大賞受賞。 令和5年度に銀賞、令和6年度に金賞、7年度は大賞。 まずは家族に報告しました。 ヴォードヴィリアンで受賞は初めてです。 上の助空五郎独演会、約1時間20分でタップ、歌、ギター、パントマイム、寸劇などたっぷりです。(休憩なし) ヴォードヴィルとは簡単に言うと、音楽と笑いの演芸です。もともとはフランス語でフランスの街中のテント小屋みたいなところで始まって、舞台に上がる人をヴォードヴィリアンと呼ばれていました。 

東京に上京後、総合創作、芸術家、だるま森の音楽サーカス団「ロマロマ」に入りました。 そこからだんだんいろいろな芸を覚えたくて、パントマイムの劇団に入ったり、大道芸のほうに行ったり、音楽活動でバンドをやったり、いろんなことをやっているうちに、ある人からやっているのはヴォードヴィルですねと言われました。 そこからヴォードヴィリアンと名乗り始めました。(22歳)  その前オーストラリアの学校に留学していました。(15歳から5年ほど)

飛騨高山は山深いところなので、宴会をするぐらいしか楽しみがなくて、家では子供たちはその場でいろいろな芸をやるようなしきたりがありました。  演芸関係の事をいっぱいしていました。 僕は民謡、太鼓、日本舞踊をやっていました。 

留学先のメルボルンと言う街を歩いていたら、おじさんがサックスを吹きながらタップダンスをとっていました。 それを見て衝撃を受けました。 高校ではジャズをやってました。 一人立ちをしたのは2006年か7年です。(30歳手前)

寄席の中で、落語と落語の間に、音楽などそれほど集中して聞かなくてもいい時間、それが色ものの役割という様になってます。  私としては、徐々に肩の抜けた芸になっていきました。 20分位の一人芝居がありましたが、実体験を話をしています。 チャップリンとかバスター・キートンを見ていて、あの感じが好きでした。 母親からテレビを見るのを禁止された時代がありましたけれども、それでも唯一見て良かったのはチャップリンとかバスター・キートンの喜劇でした。   レンタルで借りてきて見ていました。(小学生4年から6年ごろ)  それが今の芸に生きていると言うところはあります。

日本人では、マルセ太郎(映画の一人語り)、エノケン、寅さんとか雰囲気のある人が好きです。   稽古はウクレレとかタップダンスとか毎日やってます。 口で音を出す、トロンボーンとかトランペット、サックスなど自分でアレンジしてやっています。 人がやっていない芸をやってみたいといつも考えています。 力を抜いても気は抜かないようにしてやっています。 お客さんを飽きさせないと言うことも大事です。 ヴォードヴィルと言うものをもう少し知名度を上げたいと思います。 ヴォードヴィルは街の声と言う意味合いもありまして、昔のヴォードヴィリアンは、街の声を拾ってそれをネタにのネタにしていました。それが風刺になりました。 世界一しゃれた風刺芸をやりたいと思ってます。







2026年5月30日土曜日

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」 

1947年生まれ、静岡県下田市出身。 1973年テレビキャスターの栗原玲児さんと結婚、2人のお子さんがいます。 家族のために作る自由な発想の料理が評判となり料理家になりました。 1992年に料理本「ごちそうさまがききたくて」、「家族の好きないつものご飯」?がミリオンセラーになりました。 以降アイデアあふれる料理を紹介し続け、料理家しての著書発行数3200万部を超える記録を持っています。2005年には料理本のアカデミー賞とも言われる。第10回グルマン世界料理本大賞を日本人で初めて受賞しました。 世界76カ国から応募された5000冊の料理書の中から1等賞になったということです。 NHKの番組にも出演されていて、1990年から「今日の料理」で講師を務めています。  「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出演、「NHKスペシャル」にも出演しました。

ラジオ深夜便にも出演しました。 11時から1時までの番組なので家に帰ると目が冴え切ってしまって寝るのが3時位になってしまいます。  朝5時起きなので2時間位し眠れません。 1 年でやめました。  佐野元春さんの曲を結構選曲していました。 夫が亡くなって泣いてた日々でした。 私は26歳で結婚しましたが、夫は専業主婦でなくていいから、好きなことをやったほうがいいと言われて、料理を選ぶことになりました。 「夕食ばんざい」と言う番組はありましたが、その料理の裏方をやってほしいと言われて、それが私を変えた番組になりました。

1992年に出した「ごちそうさまがききたくて」がいまだに売れ続けています。  あのレシピは私が結婚してから家族に作ったものばっかりです。 私はおいしいと思った料理は、何度も試作します。  調味料は数字でしか現わされません。   人気レシピベストテンの1位「豚肉とレンコンの炒め煮」を作ってみました。(アナウンサー) ミリンが1、醤油が3、砂糖が2、レンコンが3センチの厚さです。色が透き通るまで炒めないといけない。 35分かかりました。 

夫は亡くなって悲しんでいるのを息子が見て、やりたいことがあるんだったら100書いてくれと言われて、それに全部付き合うからと言われました。 それがきっかけとなりました。(8年前) 手が届きそうなことだったり、夢はちょっといいかもしれないです。  アニエス・ベーの船に乗って食事を作ってみたいと言うのが1つありました。 彼女は温暖化をすごく心配して、すごいお金を出して世界の科学者を乗せる探査船をつくりました。 探査船に乗っている科学者の方に、1ヵ月間食事を振る舞うと言うのは夢でした。 8年ぶりに日本に来るからと言うことできませんかとなりました食べてもらってすごく喜んでもらえました。

今は80位あります。リストから消えたのはあります。 行きつけの食べるところを行く前に、おしゃれなバーに立ち寄って、そこでは夫婦で普段の会話ではないような会話ができるのでオススメです。 ギターも習ってます。 練習しかないです。  3、4 年位やってます。 1回決めたら止められない性格です。 SNSの発信も7年以上1日も休まずやってます。 

福島に来るようになって8年になります。 100の中の1つに福島の人と仲良くなりたいと言うものがあります。 日本酒を作ったり、ワインも作ったりして、ワインのラベルは私がデザインしました。 福島は私の夢を叶えてくれます。 家へ迎える側の人になってほしいと思います。 そうすると、家の片付けをするし、花も飾って料理もうまくなろうとするのでいいです。 家は70%位のキレさがオススメです。 玲児さんは、癌になって亡くなってしまいましたが、その生きたい時間の分を私にくれたのかなと思って、無駄な時間はないなと思ってます。  今88書いていて、そのうちの半分ぐらいは実現させています。







2026年5月29日金曜日

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」 

ユカイさんのグループ「RED WARRIORS」は去年結成40年、今年デビュー40年です。  今ユカイさんは3人のお子さんのパパです。 2010年に不妊治療を経て長女を、2011年には双子の男の子を預かりました。 長女が小学6年生の時にアーティスティックスイミングを本格的にやりたいと、大阪へ妻と一緒に行き、ユカイさんと双子の男たちがさいたま市で暮らすと言う別居の生活となりました。 今はそれぞれの場所で子育てをしています。 今日はダイアモンド☆ユカイさんに子育ての話を中心に伺います。

気がついたら40周年になっていました。 時代に逆らって自分たちの好きなロックをやっていました。 1番ビリを走っていたと思ってましたが、気がついたら先頭を走っていました。 いい気になっていて、デビューして3年で解散してしまいました。 8年後に再結成しました。 みんな埼玉出身でした個性がバラバラです。   素晴らしい出会いだったと思います。 映画にも出ていますNHKラジオの「すっぴん」と言う番組のキャスターとして、2012年から2020年までやりました。    言葉の使い方を教えていただき勉強になりました。

男性不妊で子供を授かりました。(40歳過ぎ) 何度か失敗し諦めてました。   知らない人がいっぱいいるんでないかと思って2011年に本を出すことにしました。「種なし」 無知でしたが、不妊は男性の原因が48%あると言うことがわかりました。 世の中に広めなければいけないと思いました。 子供が授かってやってあげることの喜びを初めて知りました。

長女は新菜(にいな)2012年生まれ、17歳アーティスティックスイミングの選手として活躍しています。 母と一緒に大阪にいます。(三村アースティングクラブ)  オリンピックを目指して頑張っています。  今できることをやれると言う事は素晴らしいことだとは思っています。 息子は2人の子がいます。(15歳)  身長は私よりでかいです。 反抗期で、日々いろんなことがあって、子育てで勉強させてもらっています。  別々の生活を始めて5年になります。 料理を教わったりしましたが、今は料理が大好きです。 洗濯も結構大変です。 息子2人は性格が正反対です。

今、NHKのラジオで「さまよえるパパたちへ」と言う番組を担当、司会者としてやってます。 ゲストに呼ぶ方も、一流のアスリートの方から、芸人、ミュージシャン、文化人などバラバラで話を聞けば聞くほど様々で勉強になります。 家族それぞれが1番良い形を作っていくものだと思います。  

絶えず変わっていく=執着しないと言うことを頭に入れておきたいと思ってます。 「子育ては半卒業だ。」と言うことを言ったことがあります。 小学校の頃のような子育ては卒業と言うような思いです。 やり方、方法がどんどん変わっていくと言う意味です。 人のことを一生懸命やってあげること=自分のことを一生懸命やることと言う事につながっていると思います。 あまり気にしすぎると言うことも良くないんだとは思います。 放っておくことも1つの子育てにつながっていくと思います。 放っておく事は自立にもつながることだとは思います。 死ぬまで子育てと言う事はあると思います。 究極の子育ては天国に行くと言う事だと思います。


2026年5月28日木曜日

高嶋美穂(国立西洋美術館 保存科学室長)  ・私のアート交遊録「絵画の素顔に迫りたい」

高嶋美穂(国立西洋美術館 保存科学室長)  ・私のアート交遊録「絵画の素顔に迫りたい」 

絵画に科学的手法で迫る保存科学のエキスパートです。 絵画の保存、環境整備などの仕事を続ける中で、絵画に接触せず、痛めないで研究する方法で絵の具の調査などを当たってます。 こうした調査研究の中で今回貴重な発見がありました。  およそ500年前に描かれ、その後日本とベルギーに渡された2点の絵画が同じ作者のものである可能性が高いことが判明しました。 その決め手は高嶋さんが研究してきた赤外線による下書きの解析等の科学的手方です 。数百年前の絵は必ず劣化する。 絵の持つ本来の姿と魅力を解き明かしたいと語る高嶋美穂さんに研究にかける思いを聞きました。 

保存科学と言うのは、美術品や遺物を保存するための科学のことです。 この分野は主に2つの柱があります。①作品の劣化の原因や仕組みを探って、劣化を防ぐために、温度、湿度、照明などの周囲の環境を整えることを目的とした研究です。 ②作品の構造や材料である技法などを知るために、作品の保存状態を知るために、自然科学的な方法で調査していく研究、こちらは、X線や赤外線などを当てたり、サンプルを取って絵の具の調査などをする研究になります。 

最近よく使用されているのは、赤外線用のデジタルカメラです。 これだと波長が900から1100nm位までしかないので、絵画の下書きを見るのには不十分でした。欧米では1600から1700nmの長い波長を捉えることができるカメラを使用して作品の下書きの調査をしている。  しかしこれは大変高額な機械です。 そこで比較的安価な(それでも200万円)産業用赤外線カメラを用いて撮影して下書きを明らかにしました。 画素数が少なくて130万画素なので、何分割にもして撮影して、それを合成して1つの作品の絵を作っています。小さいものだと20分割、縦横1m以上の作品になると100分割以上になります。 非常に難しいのは、非破壊非接触で、基本的には行わなくてはいけません

描かれた当時のものを見ているわけではない。 古い時代に描かれた絵は傷みます。 ルネッサンス期に作られた作品は、絵の具が剥落したり、亀裂が入ったりして、剥落したところに広い範囲で塗り直したりしています。 色も変わってきたりするので、必ずしも今見ているものがオリジナルの状態ではない。 制作年代が違っていたりして偽物であると言うことがわかる場合もあります。 

およそ500年前のフランドルで描かれて、今は上野の国立西洋美術館と、ベルギーの美術館が所蔵している2つの宗教画が、1連の祭壇装飾ではないかということでしたが、新たな事実がわかってきました。 2作品が同じ祭壇画を構成していたに違いないということが写真の裏に記されていました。 周り張り巡らされた金の装飾帯とか人物が似ていると言うことがわかっていました。 同一人物が描いたかどうかについては、調査がそこまで今までは至りませんでした。 赤外線による調査で、二作品には下きがびっしりかれていることがわかりました。 2作品とも下きの筆のタッチ、下描きのき直しが多いということもわかって、その下きが二作品ともよく似ています。 同じ画家がいたものにないに違いないと言う事はわかりました。 国立西洋美術館の作品についてはサンプリングもできました。ベルギーの作品も、西洋美術館の作品も同じ同じ絵の具を使っていることがわかりました。

絵の中で重要視していた人物に高価な絵の具を使うと言う事はあります。 保存科学と言う分野は1930年代に立ち上がってきました。 日本では1936年の法隆寺の金堂壁画の調査に赤外線写真が使用されました。 1940年代の解体修理の際に、電気器具の出火により金堂壁画が燃えてしまいました。 壁画の修復をどうにか保存しようと言うことで、科学的手法が日本でも発展しました。

下描きには顔にこだわる人がいたり、手の向き、指の角度とかにすごく描き直しがあったりする人もいます。  年輪年代学測定法によって木材に絵が描かたことから、木材が切られた年がぴったりわかります。  製作年代についてもわかります。 国立西洋美術館にあるモネの絵は、保存状態が良くなかったので、サンプルを取って絵の具を調査を行いました。 モネは晩年には6から7色の限られた色を使っていたと手紙に書いています。 混ぜ合わせたり重ね合わせたりすることによって多彩な色彩を作っていました。 6から7色しか使っていないと言うが、晩年の作品でも、実際は10色使っていることがわかりました。  何層も重ねられている絵画よりも、日本画みたいに絵の具層の重なりがない絵の方が、絵の具の調査をしやすいです。  

私としては、科学的にわかったことと、美術史の間をつなげるような仕事をしていきたいなとは思っています。 子供の頃から絵は好きでしたけれども、大学では美術史を学ぶ学部に入りました。  大学の卒論に取り組むなかで、ヨーロッパでは赤外線とかX線を当てたりして、絵の具に含まれている元素を調べることで、どんな絵の具を使ってるかを調べたりする方法を知りました。 それに興味を持ちまして、こちらの学問のほうに入っていきました。 仕事を辞めた後は、絵を描きたいとは思っています






2026年5月27日水曜日

庄野真代(歌手・作詞作曲家・女優)     ・「飾らない心で生きる」

 庄野真代(歌手・作詞作曲家・女優)     ・「飾らない心で生きる」

庄野真代さんは、1954年生まれ大阪府出身。 197651日にデビュー、今年50周年を迎えます。 「飛んでイスタンブール」などのヒットを重ね、人気絶頂にあった1980年、突然の休業宣言、28カ国132の都市を回る世界一周の旅へと飛び出し、人生の歩みは大きく変わります。 帰国後は環境問題に目を向け、2000年に45歳で法政大学人間環境学部に入学、その後イギリスのウェストミンスター大学、早稲田大学大学院で学び、音楽を通した社会貢献活動を展開しました。 2022年に悪性リンパ腫であることを公表しますが、音楽活動を止める事はなく、病の試練を乗り越え精力的に活動を続けています。 「飾らない心で生きる」、常に前向きな気持ちで、迷わず進む庄野真代さんの人生の選択について伺います。

今までしてきたこと、今やってることについては、そんなに深い理由はなくて成り行きできちゃっています。 高校生の時代フォークグループの一員になりました。最初楽器をやって、その後コーラスをやるようになって、リードボーカルをやるようになりました。 オリジナル曲などを作ってコンテストに出ましたけれども、だんだんソロで活動するようになりました。 セミプロみたいな形で歌いに行ったりしてました。(高校生時代)

志望校の大学に行けなくて、浪人を始めました。 自分で作詞作曲をして、ピアノで弾き語りをしたら、関西四国の大会でグランプリを取っちゃいました。  東京の全国大会に出た帰りに、レコード会社の人に声をかけられました。 アルバムを作らないかと言われました 。はじめてのシングル版の曲が「ジョーの肖像」でした。

「飛んでイスタンブール」と出会って、プロの作詞家、作曲家の作品を歌うことができて、いらないメロディーがたくさんある、いらない詞もたくさんある、と言うことに気づきます。  紅白出場もあったりして、波に乗っていましたが、他にもっと自分が吸収する必要があるのではないかと思ってました。  友人に誘われて、80日間の世界一周旅行行こうと思いましたが、もったいないので1年半かけていくことにしました。 しかし、結局2年になりました。 

最初タイに行きました。 「海老の養殖をするためにマングローブの木をたくさん切りますが、その影響で海の風が入ってきて、作物が育たなくなる、水辺の魚も来なくなる。 海老をたくさん食べている日本からきた貴方はこの現状をどう思いますか。」と言われました。 環境が破壊されていると言うことを全然知りませんでした。これから先の旅は地球の素顔をちゃんと見て歩くたびにしないといけないと思いました。 旅を進めていくと発見がいっぱいありました。

見てきたこと、聞いてきたことを絶対日本に伝えなければいけないと思いました。 夫婦で旅をしていたので、長女はロサンゼルスで出産しました。  次女は日本です。 アメリカと日本では赤ん坊に対しての考え方がだいぶ違っていました。   でも2人とも問題なく育ってます。 

日本に戻ってきてから、国連の環境のイベントでテーマソングを作って歌ってほしいと言う話が来ました。 歌ったりスピーチをしていきました。 その数ヶ月前事故と病気で2回立て続けで入院と手術をしました。 人の命と言うのはいつどうなるかわからないと思いました。  法政大学が2年環境学部を新設して、社会人入試もあると書いてあり受験して合格しました。  仕事との両立の心配がありましたが、やることにしました。(45歳) 学校では、サークルを作って老人施設障害者施設病院とかなどにコンサートをする人を集めていって、音楽を楽しむと言うことをやりました。 

海外留学の夢を持っていまして、新聞にぴったりの条件がありました。  それに応募して合格しました。 選んだ学科が人間地理学でした。 途上国問題、英語、パフォーマンスのクラスの4単位取ることになりました。 そして開発人類学というのがあって、それが早稲田の大学院のアジア太平洋研究科でした。 ここで学ぶことになりました。 修士論文を書くときに、テーマが見つからなくて、音楽を通した支援の活動について書いたらどうかと考えました。 フィリピンのストリートチルドレンの施設に勉強に行きました。 そこでは音楽セラピーをやっていました。  暴露療法、歌うことによって子供たちが心を回復させて、みんなと集団生活に溶け込んでいけるということでした。 

NPO法人を立ち上げました。(「国境なき楽団」)                   施設の訪問コンサート 世界の子供たちに楽器を届ける 平和のための世界で行われているコンサートの日本主催者になってするコンサート ④活動費のためのライブカフェを開きました。 この4つを軸にして活動しています。      子ども食堂も2018年からやっています。 ボランティア活動へ向かって行ったのは母の影響かもしれません。 小学校の頃、私は体が弱くて学校の給食が食べられなくて家に帰って食べていましたが、給食費を払えない子供たちが何人かいて、そのことを母に話したら、「家に連れて来なさい。」と言って一緒に食事をした経験があります。 

コロナ禍でいろいろな活動ができなくなりました。  帯状疱疹になってしまい、精密検査をしたら悪性リンパ腫がわかりました。(ステージ4) 抗がん剤治療しながら仕事をしていました。 悪性リンパ腫はゼロにはならないので、友達として良いことをしながら付き合っていくようです。  良いこととは生きがいですかね。  歌を介して一緒になって、そこが輝く時間になる、それが生き甲斐です。    大事だなと思う事はドキドキすること、ドキドキしようと言いたいです。