2026年5月19日火曜日

佐藤清隆(広島大学名誉教授)        ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

 佐藤清隆(広島大学名誉教授) ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

佐藤さんは愛知県生まれの79歳、 広島大学名誉教授、元は名古屋大学工学部で食品に使われる食品油脂を物理学的に研究していた工学博士です。 ある時その研究が大手チョコレートメーカーの目に留まり、チョコレート研究の世界に足を踏み入れます。 そこで佐藤さんはチョコレートのおいしさを大きく変える仕組みを発見、国内外で高く評価され、数々の賞を受賞しました。 近年はカカオ豆の起源や歴史、生産地の課題にも目を向け、チョコレートを通して生産者を支える活動を続けています。 チョコレートにかける佐藤さんの思いを聞きます。

学生時代は名古屋大学の工学部応用物理学と言う学科で博士課程を出まして、その後広島大学の生物生産学部の食品物理学と言う研究室に入りました。 油の結晶の性質を研究していました。 チョコレートの油ココアバターといいますがそれに出会いました。 ココアバターはチョコレートの原料、カカオ豆を発酵して乾燥してローストしてすりつぶして絞ると、天然の油脂が出てきます。 チョコレートを口の中に入れすっと溶けてとろける感じが出て固まった後、表面がつやつやしてパリッと割れると言う、そういう食感を作ってる主役がココアバターなんです。

チョコレートを作ってる大手の日本の会社から話が来ました。 1986年チョコレートを放って置いたりすると、表面が白くなって美味しくなくなると言う、そういう問題で頭を悩ましていました。 ファットブルーム、油の結晶が性質を変えてしまうことから出てくる現象です。 メーカーでは年間億単位の損失を出していると言う状況でした。 チョコレートの製造の中では、カカオバターの固め方が大事だと言うことで一緒に研究をやってほしいと言われました。 若手社員の育成についても依頼されました。

ココアバターの結晶になる時に結晶の種類が6種類あります。 それぞれ固まる温度、溶ける温度、味も違ってきます。 コントロールが難しい。この5型の結晶を作って維持すれば、チョコレートの製品が安定して、ファットブルームが起きにくなるんではないかと予想しました。 分子設計をすればいいんだと言うことに気が付きました。 1989年にアメリカの雑誌3本論文を発表しました。 世界から注目を集めました。外国のチョコレートメーカーに行っていろいろ教えました新しいチョコレートの製造技術にもつながっていきました。 アメリカ、ヨーロッパで5つの賞を頂きました。

材料のカカオ豆についても関心を持つようになりました。 産地によって味が違います。 その原因を知りたくて、2007年ごろから9カ国を訪ねて、チョコレートはできるまでの歴史を含めた壮大な世界があると言うことに気づきました。 ベネズエラはカカオの発祥の地です。 カカオ豆は熱帯でしか育ちません。 カカオ豆の中には油が半分ぐらい含まれていますが、残りはタンパク質、栄養成分で、カカオ豆の油が固まってしまうと、栄養が不自由な分なので芽が出ないんです。  カカオは豆の周りを甘くして動物を引き寄せますが、豆は渋いので、豆の周りの果汁を食べて糞として豆が出てきます。 それでカカオの生産範囲を広げていってます。

カカオの底知れぬ大きな魅力に引き込まれました。 氷河期があったりするとアマゾンの原流域でしかカカオ豆は残りませんでした。 人類がアマゾン川の流域にやってきて、約15,000年前カカオ食べ始めます。 重要な食料です。 チョコレートにはポリフェノールが豊富にあります。 昔から体に良いと言う事はわかっていたんじゃないかと思います。 2018年に、人類がカカオを飲んでいた痕跡がある最古の遺跡が南米のエクアドルの熱帯雨林あることがわかりました。 偶然土器の中からカカオ豆を発見しました。 それまでは北米と言われていました。 エクアドルでは重要な儀式にカカオが飲まれていたようです。

カカオの農園で起きている問題にも関心を持つようになりました。 天候、異常気象、病害に対して常に戦っています。 貧困と言う問題もあります。 3年前にカカオショックが起こりました。 バレンタインのチョコレートも非常に高くなりました。  異常気象がアフリカを襲いカカオ育たなくなってしまって、去年は数年前の4倍に価格が値上がりしました。  

リスクを分散させる必要があります。新しい土地でカカオ豆を生産するサポートが必要である。 南緯北緯20度以内の熱帯地方では、基本的にカカオを生産できます。 僕はフィリピンに注目しています。  生産地を多様化していくと言うことで力を入れてやっています。 遺伝子の解明がカカオの世界にも入ってきて、異常気象に対して抵抗性が高いとか、病気に負けないと言う種類の開発も今研究されています。 チョコレートの奥深い世界に、次々と引き込まれてきました。 1000万年前にカカオは生まれたらしいですが、何度も氷河期を襲いましたが、彼らはそれを乗り越えて、カカオのしたたかさに見習いたいと思います。 ファットブルームが起きない様な技術が出来そうなので是非完成させたい。 





2026年5月18日月曜日

水島結子(琵琶演奏家)           ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

水島結子(琵琶演奏家)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

水島さんは東京都出身、早稲田大学で琵琶サークルに出会い、演奏のみならず、かつて琵琶愛好家達のために発行された「琵琶新聞」についての研究も始めました。  大学4年生のときにはアジアの芸能をさらに研究したいと、韓国ソウル大学国学科(伝統芸能科)に交換留学。 現在は鶴田流古典曲の研鑽を志し、友吉鶴心に師事しています。 琵琶を始めて今年で25年目、演奏活動を中心に若手の育成、近代琵琶の研究、さらにはSNSでの発信など、琵琶の魅力を広めるために精力的に活動しています

琵琶に関することは歴史だったり、楽器だったり、何でもやりたいと言う形で演奏のみならず首を突っ込んでいます。 琵琶の白い部分は象牙ですが、人工象牙を作っています。(海外演奏が難しくなってきている。)  正倉院にある螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)は、国宝になっている。 頭がまっすぐですが、これは外国からもらったもので、日本の琵琶の特徴として頭の分が直角に曲がってます。  琵琶は4弦が基本ですが、私の鶴田流は5弦5柱の流派になってます。フレッドは昔は米粒でつけてましたが、1674年以降フレッドを高くして音を出すような風に改良されました。 

日本には雅楽の楽琵琶と平家琵琶があります。盲僧?琵琶というのがありまして、近代琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶があり、全部で5種類あります。 平家物語に使うのは平家琵琶です。 薩摩藩独特の琵琶を作ろうと言うことで、薩摩琵琶ができました。  筑前琵琶は、三味線音楽が江戸時代に流行るので琵琶に逆輸入しています。 筑前琵琶は三味線っぽく弾きます。 筑前琵琶は桐でできていて、薩摩病は桑でできています。 バチは柘植を使います。 世界で1番大きいビックと言われています。

ルーツはアラビア半島からシルクロードを伝わってきました。祇園精舎は実はインドです。 平家物語が流行った時代は末法と言われ、仏教で言うお釈迦様の教えがすたりまくっていました。 平家では仏教を信じていたので、仏教の故郷であるインドに思いを馳せてという意味で、祇園精舎が1番最初になっています。

*「祇園精舎」

大学の時に琵琶に出会いました。 「琵琶新聞」は明治42年から昭和18年までありました。 近代琵琶(筑前琵琶、薩摩琵琶)の機関誌です。 琵琶専門の新聞で、琵琶は明治から大正にかけては大流行していました。 明治になって、元薩摩の藩士が明治天皇の前で琵琶を演奏して、明治天皇が薩摩の琵琶かと言うことで、薩摩琵琶になりました。 薩摩琵琶は男性が弾いていましたが、大正になると女性も弾くようになりました。

韓国国立ソウル大学国学科(伝統芸能科)に留学しました。 琵琶はシルクロードを介して中国方面から日本に琵琶が入りましたが、韓国にはなくてなぜないんだと思いました。 その歴史を知りたいと思いもあり留学しました。 日韓併合の時にやるなと言ってそのまますたれてしまいました。 韓国に行って1番驚いたのは、声が1番の楽器だよと言うふうに教えられました。 声に合わせて伴奏しなさいということでした。 そこは日本と違うと思いました。

*「ねずみ教」 ネズミの動きをお経に織り込んでいくものです。

昔はおとぎ琵琶と言うジャンルがありました。 子供のための琵琶の歌がつけられていた時代がありました。 私も自分の演奏会で現代語を入れたり、古典の法を入れたりして、聞きやすいものを作って発表しています。

日本の音は日本語です。 文化とか喋ている言葉とかが音楽とかにも全てに通じていろいろなと言うことがあります。 琵琶の魅力は、自分で歌って、自分で伴奏するということで、自分を見つめ直す道具ということで良い修行になると思います。


2026年5月17日日曜日

野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会)    ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

 野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会) ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

1955年昭和30511日早朝、656分、四国高松を出航したばかりの旅行連絡船紫雲丸が、にわかに立ち込めた瀬戸内海の濃霧に包まれ、対岸の岡山県宇高港から高松に向かっていた第3宇高丸と衝突、紫雲丸丸はわずか3分から4分で沈没してしまいました。 乗客781人のうち167人が死亡1人が行方不明に、亡くなった人のうち、100人が島根、広島、高知、愛媛の4つの小中学校の修学旅行中の児童生徒でした。 この船に乗り合わせていたのが当時島根県の松江市立川津小学校6年生だった 野津幸次さんでした。 川津小学校の一行は四国へ出かけた23日の修学旅行、その帰りに、高松からこの船に乗り込んでいました。 出港して16分後に事故に遭遇、多くの児童が海に投げ出されました。 沈みゆく船から脱出し救出された野津さん現在は82歳です。 紫雲丸遭難事故生存者の会のメンバーとして、あの日の状況を語り継ぐ活動をしています。 今日は野津さんはどういう体験をしたのか、そして今どのような思いで行動しているのかを伺います。

島根県松江市の川津小学校、紫雲丸事故の資料が展示されている教室、紫雲丸の部屋には写真パネルがたくさんあります。 高松の桟橋で遭難の20分前の出発の時の写真です。 紫雲丸に関する歌もたくさん作られました。 命の大切さ、亡くなられた人の悲しい思い、残された人たちの思いなども振り返りながらしっかり学習しています。 特に511日は紫雲丸の日ということで全校でお参りをします。

私は衝突のときには甲板にいました。 視界が100メートル位しかない霧がありました。  第三宇高が汽笛を鳴らしました。双方が汽笛を鳴らしました。 あっという間に衝突しました。 カバンを取りに客室に行って戻ろうとしましたが、既に45度位傾いていました。 船と共に沈んでいきました 。相手の船に乗り移った人が半分ぐらいいたようです。  電源も落ちてしまい、照明も消えてしまい、船内連絡なども全くできませんでした。  船体は船尾から次第に沈み、その後左に傾き始めます。 乗り組み員たちはボートを下ろすこともできませんでしたし、紫雲丸はそのまま転覆、衝突後わずか4分から5分の間の出来事でした。 

私は水泳は得意な方でしたので、立ち泳ぎで海面まで上がっていきました。   イカダがあり、3人ぐらい既に乗っていて、大人が手を引っ張って助けてくれました。 助けに来てくれた漁船にイカダから乗り移りました。 その後第3宇高丸に引き上げていただきました。 船の油が漏れていたので、顔も体も真っ黒でした。  黒い油を飲んで吐き戻した子たくさんいました。 夕方先生とともに遺体を確認に行きました。 遺体安置場所では辛くて、先生と別れて先に帰りました。 

沢山の家族も遺体確認きました。 お母さんの姿を見ていると、子供心に悲しかったです。  生存者はラジオが放送していましたので、兄が来てくれたときには生存した事は知っていて来てくれました。  帰ってから学校に行った時、亡くなった生徒の机の上に献花をしていました。 2つあったクラスが1つになってしまいました。 21人の生徒と先生が2人父兄が2人亡くなりました。 6年生は児童数が61人でした。 最初の1週間ぐらいは普通の授業はできませんでした。

松本敏雄先生と言う修学旅行を引率して助かった先生が、ずっと地元で活動をしました。 それが原点になっています。 三島先生と共に2人で25枚の子供たち先生父兄のお墓に毎年お墓参りをしてました。 それが紫雲丸を忘れないでおこうと言う小学校の原点です。 33回忌を機に毎年お墓参りをお盆にするようになりました。 

小学校では学習に取り入れて、風化させないようにということで、そのお手伝いと言うことも私は続けています。 紫雲丸の部屋を作っていただきました。     子供たちの反応は生存者のお話を聞いて、事故の様子がよくわかったとか、命を大切にしたいと言う風な作文を書いてくれています。 これからも子供たちに伝えていきたいと思っています。  今は着衣泳もしています。  浮いて待つようにと言う指導をしています。 校庭の片隅に記念碑があります。 命の大切さを伝えたいと言う意味で慰霊碑ではなく記念碑にしています。  

ある一定の大きさの船には、非常時には救命ボート、救命イカダに乗るために、甲板などに集合場所、乗客が集合する場所を設ける事が決められていると言うことです。 集合場所、その経路については、船内に表示があると言うことです。    船に乗ったら、まず非常時の集合場所と、そこまでの経路を確認しておくことも大切だと言うことです。 救命ボートや救命イカダ以外に乗れなかった場合には、とにかく浮いているものに捕まる、体力を消耗せずに救援が来るまで浮いて待つと言うことが大切だと言うことです。






2026年5月16日土曜日

村田裕之(東北大学特任教授)        ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」

村田裕之(東北大学特任教授) ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」 

2040年、日本の高齢者人口がピークとなる一方で、労働力不足や年金、医療介護費料といった社会保障費の増大が、市民や高齢者層の暮らしへの大きな影響が懸念されています。 インフレ、物価高が続く中2040年を見据え、私たちは今からどのように準備をしていけば良いのか、また生き生きと働き続け健康寿命を伸ばしていくための具体的な方法などをお伝えします。

2040年と言うとあと15年後です。 結論から言うとちょっと厳しい社会になりそうです。  2040年に高齢者人口がピークに達します。  65歳以上が約3900万人と予想されています。 そして要介護、要支援を含めて988万人と予測されています。4人に1人が要介護高齢者になっています。 厚生労働省が中心になって、どのぐらいのスタッフ(介護士面倒を見るスタッフ)がいるか計算していますが、約272万人と言う数字が出ています。 今よりも32万人人多いですが、生産年齢人口(16歳から64歳まで働ける人の人口)が6213万人ですが、今から1100万人減ります。

1100万人減るのに、介護スタッフだけを32万人増やさないといけないわけです。 介護スタッフが少なくなって、良質な介護が受けられなくなります。   加えて、物価上昇、インフレが結構深刻になりそうです。 2%を政府目標にしています。  毎年2%のインフレが続くと、老後の生活費が、今現在が最低でも月に24万円(夫婦2人)必要です。 ゆとりのある老後生活をすると、月に39.1 万円と言う数字があります。 最低レベルのものが10年後29.1 円、15年後(2040年)には32.2万円、約1.3倍になります。 ゆとりのある老後の生活では今が39.1 万円、10年後は47.7万円 15年後52.6 万円、こちらも1.3倍になります。  

95歳まで生きたとすると、30年間生活が必要になります。 高齢夫婦2人世帯30年で最低レベルの生活費で1億、21 54万円です。 年金は出ますが、物価が2%の上昇の時に年金が2%増えるかと言うと残念ながら増えません。 2004年の年金改正の時に法律で決まってます。 1.1%位しか上がりません。 年金が11011万円位になります。 差額が1143万円です。 それなりの老後資金を準備しておかないと結構厳しいです。 

問題は介護費です。 在宅介護は見かけの費用は安いです。 在宅介護は大変な負担です。 精神的にも病みます。 介護する家族のコストが入っていないので一見安くは見えます。 介護をすると仕事を辞めざるを得ない場合もあるが、こういったものは入っていません。 介護費用とインフレで上がっていく。 できるだけ要介護にならないようにしていく必要があります。 この重要性がますます強くなります。

要介護になる要因は60代前に原因ができてしまいます。 中年期以降の生活習慣で決まってしまいます。 「スマートエイジング」と言うのは、今から20年前に考えたコンセプトです。 スマートは英語で賢いという意味で、エイジングは加齢、歳を離重ねる、賢く歳を重ねるという事です。。「アンチエイジング」は歳を取ることにあがらうと言うことです。 これは変な考え方です。 「スマートエイジング」は歳をとることによるいろいろな変化を受け入れて、その変化に適応していくと言う考え方です。  

認知機能は脳を使う習慣を維持すれば実は衰えません。 病気もちゃんと手を打てば、ある程度は元へ戻れます。 自分が本当はやりたいこととか、こんなふうに生きたいいと言うことをずっと心に秘めて歩み続ける、これが「スマートエイジング」の1番神髄の考え方だと思います。 ①体の健康(自立して生きる) ②精神的健康(元気に生き生きと過ごす) ③社会的健康(辛いのは、社会的に孤立すること)

①有酸素運動 ウォーキングもできるだけ早歩きがいいです。 脈拍で言うと110から120、高齢者は6000歩歩きましょうと言うと基準ができました。 成人は18000歩。 有酸素運動は脳卒中の予防に1番効果的です。 要介護になる原因の1番が脳卒中です。  脳卒中の7割が脳梗塞、2割が脳出血、1割が雲膜下出血です。  特に共通しているのは動脈硬化です。 ②筋トレです。 転倒骨折予防です。 転倒骨折は女性の場合要介護になる1番です。③脳トレです。 脳を使う習慣を維持することが大事です。 

要介護になるもう一つの筆頭が認知症です。 生活習慣を改善することで症状を減らすリスクを下げられると言うことがだいぶわかってきました。 有酸素運動も認知症に良いです。 大きな声で音読することもオススメです。 簡単な計算を素早くやると言うのがいいです。 手書きも脳のあちこちを使います。 前頭前野を活性化することがわかってます。 1日に15分程度やるだけで脳のラジオ体操になります。

次に心の健康の話です。①達成するとうれしい目標を立てる。 人間は目標がないとダラダラと過ごしてしまう。  目標を達成すると、脳の中にドーパミンと言う神経伝達物質を出やすくなります。 元気が出たりやる気が出たりします。    なるべく具体的な目標が良いです。 ②「自分軸」で生きると言うことも提唱しています。 社会的健康に関わるものです。 「会社軸」に対する言葉です。  「会社軸」は会社のリズムに引っ張られる。 自分の基準を中心に生きる、その真ん中にあるのが、自分で生きてゆく言うことです。 ③働き続けると言うことも効果がいっぱいあります。 お金がもらえるほかに何らかの形で誰かとコミニケーションがある。 これは脳を使う時間を維持することにつながります。 自分が達成したいこととか取り組みたいこと、そういうことをやる事は生きる目的になります。    そのためには健康でなくてはいけない。 高齢になると家の中でつまずきやすいので、片付けをするとか凸凹を減らすことが大事です。 家の中の転倒事故は階段、風呂場、居室です。 「エイジテック」(高齢者向け技術)AIもそう言ったものにどんどん使っていったほうがいいと思います。

元気な高齢者の方が増えれば、若い人もあんな生き方をしたいと言うふうに考えます。 私も当時そう思いました。 それでこういう仕事に取り組みました。 要介護人口が約1000万人になると言う事は、今をベースにしての仮説です。    この仮説を変えましょうよと言うことです。 私の好きな言葉は「未来を予測する最良の方法はそれを作ること」。 自分の未来は自分で決められる、人の未来は自分は決められらない。


2026年5月15日金曜日

三石知左子(小児科医)           ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」

三石知左子(小児科医・東京かつしか赤十字母子医療センター名誉院長) ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」 

三石さんは、1955年北海道札幌市に生まれ育ちました。 札幌医科大学卒業後は、東京女子医科大学病院の小児科医として、N ICU新生児集中治療室などに勤務、生まれて間もない命を守るための医療の現場で働いてきました。 1999 43歳でかつしか赤十字産院の副院長となり、その後200650歳で東京かつしか赤十字母子医療センターの院長となります。 以来、20年にわたり医療の現場と組織の運営を担ってきました。 三石さんは副院長として忙しい日々を過ごしていた44歳の時に、俳句に出会い、その面白さに惹かれ詠み続けてきました。 2024年には句集「小さきもの」を刊行されています。 この3月三石さんは院長を退き、1つの大きな区切りを迎えています。 どんな選択を重ね、どんな人生を歩んでこられたのか、三石さんに伺いました。

今は会議等が一切なくなりましたので、精神的には楽になりました。  長く管理職として現場から離れていたので、1小児科医として外来を手伝うと宣言したんですが、薬の調整量とかは必死で今は勉強してます。  父親からは「テレビの前で頭を下げることがないように。」(医療ミスをしないように)と言うことと、「職員250人と家族合わせると500程度はお前の肩ににかかっているので、責任をきちんと覚悟して仕事に当たりなさい。」と言われました 守り通せたのではないかと思います。 

全国に91の赤十字病院があり、赤十字の病院長の全国会議があるんですが、私以外は全部男性ということがでした。 同期で病院長になった人が15,6名いたので、同期会を作ってその中で情報交換等々進めてきました。 2021年に新築移転しました。(以前のものは19 83年に建設したもの) 移転のための土地を2015年に見つけました。2016年から建設計画が始まりました。 建設をするにあたって、いろんな病院を調べました。 最上階にある「ひだまり」と言う部屋があります。   霊安室を1番上に作って欲しいと言う提案がありました。 一般的には地下ですが、 水害に合うと、病院の機能が成り立たなくなる。 陽のあたる1番天国に近いところで、両親と赤ちゃんと別れる場所を用意できたのは良かったと思います 

病院に併設された図書館2万冊ある中の1万冊は、母親と子供たちのための本ということで用意してあります。 NPO「ブックスタート」0歳児健診などの機会に、絵本をひらく楽しい「体験」と「絵本」をセットでプレゼントする活動)の理事をしています 当時副院長で院長に「子供たちに絵本を送りたい。」と言う電話をしたら、「いいですよ。」と言うことをになりました。 それが今も続いています。

私は小さい頃は、体は弱かったです。 身近に先生がいたので親しみを覚えました。 医学部の大学を受けました。 1番勉強したなと思うのは、医師国家試験です。  覚えることが山のようにあり大変でした。  診療科をどこにするかと言うのは迷ったんですが、小児と言うのは未来があるんですね。 院長しているときに看護職の面接もしていました。 看護職の助産師に「どうしてなりたいか。」と尋ねたところ、「私は何週何百グラムで生まれて。」と説明していましたが、彼女は私が大学の時に見ていた赤ちゃんでした。 彼女は優秀だったので採用しました。

俳句もやってまして、20252NHK Eテレ NHK俳句にゲスト出演しました   俳句との出会いは、50代前半でした。 ある俳句のグループに誘われて、参加するようになって、今私が師事している西村和子先生に指導していただけるようになりました。 それをきっかけに先生の夜の初心者教室に通い始めました。 2024年にはじめての句集を上梓しました。 「小さきもの」と言う句集です。

「食卓のすずらん北海道とうし?」  母からすずらんを送ってもらいました。

「しばれると一人となりし母の声」 父が亡くなった後、母一人暮らしで電話で「しばれる」と言う声を聞きました

「初声をあげよ今宵は良夜なり」? 私の仕事の中では、代表の一句としてあげたいなと思っています。

俳句は自分の内面を言葉に出す手段として、とても大事なものと思っています。  私は人のご縁というか、人のつながりでここまで過ごすことができて、仕事にも恵まれましたし、それ以外でも豊かな時間を過ごすことができました。 ちょっとした出会い、ご縁、振り返るとそれは偶然でなく、私にとっては必然であったと思います。 人のご縁は大事にしたいなぁとはずっと思ってます。


2026年5月14日木曜日

岡村孝子(シンガーソングライター)     ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

 岡村孝子(シンガーソングライター) ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

岡村さんは愛知県岡崎市出身。1982年大学生時代に同級生の加藤晴子さんと女性デュオ「あみん」を結成してデビューし、「待つわ」が大ヒットしました。    その後ソロとしても活動を広め、「夢をあきらめないで」など時代を超えて愛される楽曲を数多く生み出してきました。 そんな中20194月急性白血病を患い、治療のため入院。 長期休養に入りましたが、2021年から活動を再開しました。    優しく寄り添うような歌声と日常の中の思いを丁寧に救いあげる歌手は多くの人の心に響き続けています。  ソロデビュー40周年、「歌と共に歩んだ人生」と題してその思いを伺います。

今年はソロデビューしてから40周年になります。 闘病なども含めいろんなことがあったなと思います。 アルバムは頑張ってたくさん出してきました。      ソロは1985年からです。  「あみん」からソロになるきっかけは、相手の加藤さんが就職することになりまして、曲作りだけやろうと思ってしていました。    23歳の時にもう一度やりませんかと言う誘いがありまして、東京に出てきました。そこからソロ活動開始です。 「夢の樹」と言う歌それ言う作です。ヨーロッパサウンドに淡々と歌うと言う歌い方に変えて作ったのが、2枚目のアルバムです。   そこからが岡本孝子のカラーと言う気がします。

「あみん」時代、学生と音楽を両立と言う条件でデビューをしたので、学校に通って東京に出てきて、いろんな番組に出て終わったら岡崎に帰ると言うことをしていました。 ソロになってからは、コンサートとアルバム作りを中心に活動をしました。  そんな中から「夢をあきらめないで」という曲が出来上がりました。   最初は失恋ソングという事で作りましたが、応援歌と言うような感じで捉えていただきました。 NHK「うたコン」に生出演で歌った時は、手拍子をしてもらったり、盛り上がって、私自身も高揚感ありました。

一応退院する時点で完全寛解ですが、2、3ヶ月おきに通っていて、採血の数値を見てチェックしてもらっています。 だいぶ良くなっていますが、病気前の免疫までには行っていなくて、肺炎になったり帯状疱疹になったりコロナにかかってしまったりしました。 この病気はクリーンルームから出られない病気で5カ月間そこにずっといました。 孤独感は感じました。 フアンの方から手紙をいただいたり、お守りを送ってくれたり、千羽鶴をいいただき1人じゃないんだと言うふうに感じました。 家族、あるいは医療スタッフの方々が一緒に戦ってくれてると言う気持ちが1番大きかったです。

年を越したらいないかもしれないと言う様な状況もあったので、音楽も聞きたくないと言う時期もありました。 娘が録音したアルバムを持ってきてくれて置いてってくれました。 それが娘なりの励まし方があると言う風に感じました。 退院してからのツアーで、楽しいと思ったり、おいしいものを食べたり、身近な近くの大切な人に「ありがとう」と言う言葉を伝えておけばよかったと思って、そのことを伝えています。  

2021年からステージに復帰しました。 リハーサルでは大泣きをしてしまいました。 本番ではただただ嬉しいと言う気持ちで歌っていました。  体力が落ちてしまっていたので、マイクも重く感じました。 犬と散歩をしたり、ストレッチをしたりしています。 造血をしなくてはいけないので、肉はいっぱい食べてます。 魚も野菜も食べれてます。 今は1つ年齢を重ねるということが、こんなに幸せなことなんだという事を病気をしてからわかりました。   闘病後、まだまだ失敗をしたり、つまずいたりだめ、だめな自分を出したいと思って、「未来の扉」と言う曲を書きました。  ありのままの自分を出していきたいなと思ってます。   寝る前の時間が私だけの時間なので、本を読んだり、数独をしたり、ゲームをしたり頭の体操をしたりしてます。 新しい曲のテーマ探しをしているところです。


2026年5月13日水曜日

菊池武夫(ファッションデザイナー)     ・「男性はもっともっとおしゃれを!」

菊池武夫(ファッションデザイナー)   ・「男性はもっともっとおしゃれを!」 

菊池さんは1939年東京都の生まれ。 1956年に暁星高等学校卒業、その後文化学院美術科を経て、原のぶ子ファッションアカデミーで服飾を学びました。 企業のポスターやカタログのキャンペーンのための衣装デザインなどを手がけ、1970「BIGI」(ビギ)ブラウンドの会社を立ち上げ、会長としてデザイナー、会社経営者として、活動。 その後その後「MEN'S BIGI」(メンズ・ビギ)ブランドも立ち上げて1970年代のファッション業界を牽引しました。 1984年には大手ファッションションメーカーと自らの名前を冠したブランドを作り、初代デザイナーとして現在も、年に2回新しいデザインを展開しています。

現在86歳(あと1ヵ月で87歳)、自分のやりたいことをやり通せば、自然に楽しくなって、楽しくなるとストレスがないのでそれが良かったのかと思います。  1970年代「BIGI」(ビギ)ブランドの牽引者として、あの時代を境に日本のファッションは変わっていきました。  世界的に大きな波がありました。  音楽が先導して変化していった文化だと思います。 エルビス・プレスリー、ビートルズで文化が変わり、音楽の捉え方が変わっていきました。 ロックの文化が入ってきました。 グループサウンズが流行り、いろいろ影響が出てきました。 

イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどを2か月かけて回って帰ってきたのが68年でした。 ファッションの環境が日本とあまりにも違っていて、溜まってみたものをデザインしたいと思いました。 始めたのが「BIGI」(ビギ)と言う会社を作った時でした。 焦げ茶色にちょっと赤が混じったような色とかジーンズ、パンツスタイルも流行り始めました。 

1970年にファッションブランド「BIGI」(ビギ)を設立しました。 女性を新しい世界にということで作っていました。 1975年にメンズビギを設立して、男ものにスイッチしていきました。  萩原健一主演のドラマ「傷だらけの天使」の衣装を担当して爆発的なブームとなりました。 私の認知度も一般的な人に広がっていきました。  ビジネスとデザイナーをやることは大変でした「タケオキクチ」、「モールラック」などのブラウンドを立ち上げました。 

ビジネスとデザインを両方やっていた時代もあって、第一段階はうまくできましたが、デザインと現実のところはすごく時間差があって大変です。 ファッションの波が狭い時は良いけれども大きくなると大変です。 いつも成功してないとダメでそれが大変です。 柔軟性のある思考してないとうまくいかない。 自分のやった事が終われば、一旦完全に白紙にするます。 

男性もおしゃれになっていろんな格好しておしゃれになってきました。 スーツもだいぶ変わってきました。 ビジネスと普通の生活の差がなくなってきてます。  職種も多岐にわたってます。 クラシックのものに対しても、新しいものに対してもかっこいいと言う事は同じだと思います。 

1945年に第二次世界大戦が終了して、その時に暁星学園(ヨーロッパ的)に入る時でした。 アメリカの文化をすごく受けています。 ヨーロッパの文化とアメリカの明るくて、パワフルな文化を一緒に受けて、当時裕福だったと言うこともあって、アメリカの放出品をはどんどん入ってきて、着るものは全部アメリカの子供が着てる洋服を着ることができました。 中学の頃から、自分のファッションに目覚めていきました。 

「タケオキクチ」を作って2024年で40周年になりました。 年齢を重ねていって、若い人もの同士がいいのかなと思って、一旦30代の人に任せました。 自分に合った年代のものを作っていこうと言う準備はしていました。 しかし、もう一度原点を作るために戻りました。 考えるのは自由だから、若くても歳をとってもあまり差はないんですが、考えた後にそれに対してどういう反応があるかがわからなくなるのが1番怖いです。 それがギャップだと思います。 自信も、それが裏付けになっていないと自信にならないんです。 市場とのギャップについては1番問題だと思います。 ギャップをできるだけなくす。 満足した事は1度ありません。 いつも不安です。 

篠山紀信さんが言っていましたが、我々の時代はものすごいみんな欲張りだった、だからみんな自分の世界を引っ張り込むだけのパワーありました。 それを欲張りだと紀信さんは言っていました。 1日が楽しければデザインはできます。 僕の楽しみの1番の元は、僕自身の自由、人に制約されないで、自分自身が生きられることができていればいいのかなと思います。 人の協力なくして、特に洋服なんていうのは絶対できません。 歳をとってもおしゃれでいると言う事は絶対に必要です。自分で、自分自身をかっこよく見せられれるかなぁとそれだけです。 おしゃれと言うのは自分のためにするものです。


2026年5月12日火曜日

2026年5月11日月曜日

今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

 今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

心に残る数多くの名曲を、世に送り出した作曲家のいずみたくさん、そのいずみたくさんに指導を受けて、昭和43年「ピンキーとキラーズ」のボーカルとして、「恋の季節」がダブルミリオンのヒットをした今陽子さんに師匠のいずみたくさんとのエピソードなどのお話を伺いました。

あんぱんと言うドラマでいずみたく先生が出てきました。 やなせたかし先生とうちの師匠と、ここのところインタビューなどまた多いです。

いずみたく、本名今泉隆雄さんは1930年昭和5年東京日暮里で生まれました。  14歳で陸軍の幹部候補をを養成する陸軍幼年学校に入学しますが、翌年終戦、その後は演劇学校で演技を学び、俳優として活動する一方で、大衆的な社会活動、歌声運動にも参加します。 さらに作曲と、管弦楽法を独学で学び、1955年昭和30年、民放が主催するホームソングコンクールでグランプリを受賞。 三木鶏郎さんの「冗談工房」に所属し、新進気鋭の作曲家としての活躍が始まります。 

NHKのみんなの歌でも取り上げられた「手のひらを太陽」ではピンキーとキラーズの楽曲の数々、岸洋子さんの「夜明けの歌」、デューク・エイセスの「いい湯だな」、レコード大賞を受賞した差良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」中村雅俊さんの「ふれあい」や、「アンパンマンマーチ」などCMソングや番組の主題歌、ミュージカルの作品など幅広いジャンルで生涯15,000曲余りを作曲したいずみたくさん、199262年の生涯を閉じました。 生前こんな言葉を残しています。 「1番うれしいのは僕を知らない、ただただ音楽の好きな人たちが僕の作ったメロディーを口ずさんでくれること、歌われ続けることが作家としての誇り。」、 今日511日はいずみたくさんの34回目の命日です。

出会いは、私が中学214歳の時です。 当時石田あゆみさんがイベントで名古屋にやってきました。 当時、父が司会などをしてました。  石田あゆみに会いたくて、楽屋に行って意気投合してしまいました。  石田あゆみさんのマネージャーが私を見て芸能界に興味がないかと言うことで、とんとん拍子でいずみたく先生のところに入るようになりました。 春休みに東京に行って、いずみたく先生にお会いして、先生から東京駅で勉強する気あるかと聞かれました。 すぐありますと言いました。 いずみたく先生の奥さんと一緒に雪村いづみさんののディナーショーとかいろいろ3,4日連れてっていただきました。 両親ともに賛成してくれました。

先生のご自宅に入ってレッスンを受けました。(内弟子) 学校に通いながら、レッスンレッスンの毎日でした。 歌手として歌うだけでなく、ミュージカルをやりたいと言う思いはありました。  デビュー曲「甘ったれたい」は全く売れませんでした。  後から入ってきた佐良直美さんが「世界を2人のために」で売れて新人賞を取ったという事もありあり、挫折感を感じて田舎へ戻りました。  家に帰ったから母から叱責されて、翌日には東京へ戻りました。  

翌年ピンキーとキラーズの「恋の季節」で大旋風を巻き起こしました。 当時は大柄な女性は売れないと言うジンクスがありました。 周りに男性たちがいれば可愛く見えるということで、男女混成のグループを作ろうと言うことになりました。(いずみたく先生のアイディア)  売れすぎて超多忙になってしまいました。  全く休憩時間もなく寝る暇もありませんでした。 睡眠時間は良いところ1、2時間でした。  専属の医師と看護師さんが常に私についていて、移動の車の中で点滴しながら移動してました。 NHK出演後、グループで会場を逃げ出して、旅館の布団部屋で10時間寝たこともありました

先生からは褒められたことも怒られたこともありませんでした。 甥っ子さんの結婚式で先生とお会いしたときに、珍しく「お前最近すごく歌が上手くなったな。」と言われました。 そんなこと言われたことありませんでした。 それから間もなくして病気になって、入院されてお亡くなりになりました。

ソロに転向したのは、19722月でした。 後から聞いた話ですが、先生はグループにずっと置いて置くつもりはなかったようです。 「恋の季節」の次に出た「涙の季節」の方が私は好きです。  B面に「涙のバラード」がありますが、もっとこれが好きです。 ミュージカル俳優として、「死神」、「屋根の上のバイオリン弾き」などを始めとする大きな舞台での活躍が続きます。 

「基礎をきちっと学んで実力をつけて、長く君臨できるエンターテナーを目指したほうが良いし、そうなってほしい。」と言う事はおっしゃってました。  先生の事務所を辞めた時、出たときには気まずいものがありましたが、しばらくの間先生に対して不義理はありました。 1992511日いずみたくさんは62年の生涯を閉じました。 先生は入院してた時にお酒が好きなので、ベッドの下にお酒を隠して飲んでいました。 私はある程度覚悟ができていました。 お通夜には一晩中お付き合いすることができました。 私もそろそろ75歳になります。 15歳でデビューしてるんで60年になります。 先生との巡り会いがなかったら今の私はありません。

先生の手紙

「・・・62歳で亡くなったのはちょっと早すぎましたよね。 私は先生の歳を通り越して、もうすぐ75歳・・・芸能生活60周年を迎えます。 こうして長く大好きな歌を歌い続けてこられたのも全ては泉先生のおかげです。・・・14歳で弟子入りさせていただきました。 歌だけでなく、踊り、お芝居などみっちり勉強させていただいたので、ミュージカルなどいろいろなお仕事をさせていただけて幸せです。 人気歌手ヒット歌手は寿命が短いから、きちっと基礎を学び、実力をつけなさいと常々おっしゃっていた先生の言葉通り一生懸命頑張ってきて今があります。   これからも80代、90代と歌い続けて行けたら最高に幸せです。先生、いつも見守っていてくださいね。」







2026年5月10日日曜日

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」 

ウェルビーイングと言うのはWHO世界保健機関の憲章に謳われているもので、心身ともに良好な状態を指します。 前野さんは1962年山口県生まれ。  もともとは機械工学が専門で大学院を出てメーカーに就職、エンジニアとして働いていました。大学に戻ってからもロボットや脳科学の研究をしていましたが、科学技術は人を本当に幸せにしたのだろうかと言う思いから、幸福学の研究をした後、ウェルビーイング学会を立ち上げ、その理念を広く発信するとともに、2024年度に開設された武蔵野大学ウェルビーイング学部で未来を担う人材の育成にあたっています。

「ウェルビーイング」とは良い状態です。  1946年にWHO世界保険機関の健康の定義に使われたときに使われるようになったと言われています。  ここ5年ぐらいは一般の人に使われるようになりました。 心と体と社会の状態が良い、これがウェルビーイングです。 国際幸福デーが3月の20日、ウェルビーイングのイベントを10日間やりました。 10年前から始めました。 

残念ながら日本中が幸せとは言えないやる気がなかったり、つながりが薄くなったりすると言うのはあると思います。 世界幸福度ランキングというのが出ています。 残念ながら先進国中最下位、61位です。 フィンランドが何年も連続1位です。  社会福祉が行く届いていて、すべての人が健康で幸せに生きる制度が整っているところが大きいと思います。 日本は心配しやすい国民性というものがあると思います。  遺伝的に幸せになりやすい人となりにくい人がいます。  日本人は心配性遺伝子セロトニントランスポーターS型という遺伝子を持ってる人が多い。    8割が心配になりやすい国民性、アメリカ、イギリスなどはその遺伝子を4割しか持っていません。 日本人はよく言うと、非常に危機に対して準備する能力が高くて、心配事に対して対処する力が高いともいえます。 日本、台湾、韓国、中国あたりが高いです。

武蔵野大学のウェルビーイング学部と言うのは、世界初です。 最先端科学でわかったことが、仏教や東洋思想でわかっていたことと、ぴったり一致言うことで両方教える学校を作ろうと言うことになりました。 開設したのが2024年です。    大学院も作りました。  畑仕事、地域に行ったりなどもします。  生きとし生けるものの幸せを大事にすると言うことになると、植物、食べ物を大切に作って大切に食べさせていただくとか、植物を見て成長する喜びを知るとか 知識と行動体でウェルビーイングを表したい人を育てたい体験重視にしています。 

僕が開発した幸せの4つの因子あります。 やってみよう、ありがとう、何とかなるありのままにです。  多面的に、いろんな主観、客観の幸せ度を測れるのが幸福度診断です。  社会を幸せにする核なって、僕は本当にウェルビーイング革命だと思っています、今までのお金や地位やGDPが高ければ良いと言う世界からウェルビーイングの幸せ度が高い国にならないと、人類は環境問題、貧困問題、戦争などありますが、新しい世界を作る人が育っていく、世界が良くなっていくというのをイメージしてます。

私はもともと物理や数学が得意でした。 好きだったのは心理学では哲学でした。一旦メーカーに行きましたけれども、大学に戻ってからロボットの研究をするようになりました。 ロボットの心の研究をするともともとやりたかった心理学や哲学を含んだ研究ができることになります。  AI作りみたいなことをやっていました。職場を幸せにするには、どうしたらいいかとか、人々を幸せにする家づくりとかいろんな応用研究までやりました。 

幸せと思う4つの因子、1つ目はやってみよう因子 やってみたい、夢や目標があったり、主体的に何かやっていたり、成長意欲が高かったりする人は幸せです。   2つ目はありがとう因子、感謝する人は幸せです。 人とのつながり、友達が多い、利他 思いやりや親切さのある人が幸せである。 3つ目は何とかなる因子、前向きで楽観的でチャレンジ精神のある人。 4つ目はありのままの因子、人と自分を比べすぎるのではなくて、自分らしく自分の個性を生かして、本来の自分と言うのはこうだと言う個性を発揮できる人は幸せです。 4つの因子を知ってるだけでちょっと気になります。 感謝の言葉を言う時に一寸丁寧に感謝の言葉を言うとか。 

職場の幸せの7因子、不幸せの7因子を研究しました。職場が良くなっていくことに繋がります。  地域の幸せは、デジタル庁が地域幸福度を測ってホームページに載ってます。  県名、市町村の名前を入れると、主観的幸福度、客観的幸福度がこうなっていますと言う円グラフのデータチャートが出てきます。 デジタル庁は、各省庁が縦割りでやってるところを横串を刺して、デジタルで合理化します。 その合理化するにあたって、その中心にウェルビーイングを置くことで、行政の統合を図るということです。 デジタル庁と連携してやってます。 

介護の幸せ研究もしてます。  年寄りの方が若い人と会うと元気になります。   核家族、一人暮らしよりも多世代共生の方が幸せです。 保育園と介護施設を一緒にすると言う「ハッピーの家」というのが神戸にあります。  孤独と言うのは、幸せ度が低くなりやすいです。 都会生活においても、いかにいろんな人とつながるかという事は、現代社会の課題です。  

私も幸せの条件を全部満たすように生きています。  失敗したと言う事は次の成功のために学んだと言うことです。 嫌な人が現れたら自分がより人として成長するためのチャンスが来たということです。 父が亡くなった時は悲しかったですけれども、父の分も生きる、父は心の中に生きてると言うことを覚えば、ポジティブに生きる力に変わります。 

研究以外に書道、作詞作曲、歌を歌う写真撮る後はいろいろ好きです。書道は 嶋田彩綜先生に習っています。 世界の平和のために書を書いていらっしゃいます。  弟子入りしました。  書道も写真も歌も全部幸せの世界のためにやってます。  美しいものを見るよりも、美しいものを創造する方が幸福度は高いです。    みんなが生き生きしてたら元気な社会になります。 思いやりを持ってみんなが助け合えば、戦争も、環境問題も解決できて、いい地球になります。 健康に対していろんなことをやっていくように、幸せについても4つ因子などを考えて、ちょっとしたことをやっていくと幸せになっていきます。


2026年5月9日土曜日

2026年5月8日金曜日

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」 

山口さんは1956年埼玉県出身。 1983年に竹田高利さんと「コント山口君と竹田君」を結成、1984年に初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝。 その後コント界の第一線で活躍しています。 山口さんが来月上演の舞台「生きる」の稽古に取り組んでいるとのことです。 テーマは認知症の介護ということで、そこに込めた思いなどを伺います。

今年で70歳です。 竹田さんも「明日への言葉」に昨年出演されて、テーマが「汗かきコントに一筋の涙」となってました。 竹田君は物忘れが器用で物覚えが不器用な方なんです。  竹田君に出会うことで自分の考え方が大きく変わりました。世のなか思い通りにはならないんだなということです。 自分の作ったコントを竹田くんに当てはめても、その通りにはやれない人もいると言う、その中で自分の考え方を変えて行って、竹下君ができることを考えてネタにしていくと言うやり方にしていきました。 ちょっと引いたものの見方ができるようになりました

お笑いスター誕生で優勝。 それから42年になります。 2014年から「生きる」と言う芝居をやってます。 認知症をテーマにした物語です。 2013年にブッチー武者さんから演出を頼まれました。 その後台本もやることになりました。 京都伏見介護殺人事件、54歳の男性が介護疲れと生活苦から親子心中を図ったと言う、その認知症患者の86歳の母親を殺害してしまったが、情状酌量の判決が出ました。    真面目に介護すればするほど、追い詰められていくと言う状況が1番辛いところだと思います。 これを本にすればどうしたらいいかと言うことを考えました。 

彼は3年の執行猶予を終了し、2014年に亡くなっています。 この劇が12年続くとは思えませんでした。 逆に言えば続いてることが問題なのかなと言うところ感じています。 良くならないものを突き続けても希望がなくなってしまうので、希望のある終わり方ができないかということで本を書き直したりしました 。四谷で今度おこないますが、25回目になります。 ブッチー武者に、こんな熱い思いがあったのかと、頭が下がります。 生活の中で起こり得ることであると言うことをポイントにして、それぞれの立場があると言う中で、こうならざるを得ないと言う社会構造をなんとかしていかなければならないんではないのかと言うことで、誰が悪いとかと言う様な作品にはしたくないと思いました。 そのためには喜劇が良いと思いました。是非うちの地域でもやってほしいと言うことで、実行委員会を立ち上げてくれたりして、草の根の力がなかったら続けられなかったと思います。 

自分でも老化と言う事は意識するようになりました。1番いけないのはストレスだと思います。 竹田くんと付き合っているとボケている暇はないですと言いながら、最近私も気になり始めました。  彼はボケをやっていますが、本当に真面目なんです。 未熟な自分に気づかない自分っていると思いますが、自分が未熟だから人を説得できないのに、一方的に攻めてしまう未熟な人間だったと言うことを竹田君に気づかされました。 

竹下君も途中から劇に参加するようになりました。 何回かやってきましたが、その都度ゼロから立ち上げていかなくてはいけないと言うような状況です。 浜田光夫さんが裁判官役、大信田礼子さんも認知症のおばあさん役ということで参加していただきました。 田原総一郎さんにもバックアップしてもらっています。(92歳)

コントについては、その年齢で表現できる生の姿で笑いが取れるんだったら、それまでやろうと言う思いではいます。 作、演出家としては事務所の若手を含めて勉強会をやってます。 若手が育ってゆくのは自分としてもも励みにもなります。     最近のコントは研ぎ澄まされた計算された笑いでそれもいいですが、そこに人間味を入れて欲しいと言う思いはあります。(計算しくされたネタが多い。)


2026年5月7日木曜日

遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

 遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

遠藤さんは東京都港区出身。 1965年に舞台活動を始め、1990年に単身フランスにあたると映画「ツイン・ピークス」などの音楽で知られる世界的な作曲家、アンジェロバダラメンティ氏から才能を見出され、日本人シャンソン歌手としてパリの音楽の殿堂オランピア劇場の舞台に立ちます。 以来32年にわたりパリを拠点にしていましたが、活動の場を日本に移し歌い続けています。 また、世界各国の映画と映画ポスターの比較研究を通じて、独自の視点で映画研究をする形でも活動しています。 今年は俳優のマリリン・モンローが生誕100年を迎えます。  遠藤さんはこのほどモンローが日本に残した知られざる姿を本にまとめました。時代の変化の中で今も残る音楽と映画への思いについて伺います。

パリの地に立った時、ここの地で国際クラブ歌手になろうとと思って決心をしました。  行ったときには、自分がシャンソンと思ってたものは、みんな懐メロです。 本当に歌おうと思ったらメロの酒場に行かないとだめです。 カセットテープを友人がアンジェロ・バダラメンティと言う人に送ったら、彼がそれを聞いて、いきなり一緒にやらないかときました。 結局アメリカには行けませんでしたけれども、それが自信にもなりました。 オランピア劇場で歌うことになって、それがきっかけになって、小さな所でも歌うようになりました。それが勉強になりました。フランスには哲学的文化があり、僕の性格に合ってました。 

僕が小さい頃は空気が悪くて、小児喘息になってしまいました。 各区が保養所みたいなものを持っていて、静岡県の沼津に行きました。 時間がいっぱいあったので、考えたり本を読むことが多かったです。  その後お能をやりました。    自己表現に興味がありました。 句会にも出ました。(12歳から15歳位までの間) 同時に自分とは何なんだろうって言うことを突き詰めていました。 

詩集を作って新宿で自分で売ったことがあります。 ある日、金子光晴さんと言う人が買ってくださいました。 学生に共鳴した詩人でした。 街頭で詩を売る人間として結構有名になりました。 「許すという事に限度はあるの」と言う詩を書きました。 「どんなに未熟な詩でも、若いときのその感性と言うものはずっと一生持っていくものだから大事にして、詩集を出しなさい。」と言われました。       それで自主出版しました

父に連れられて映画をよく見に行きました。 本を読む前、映画が好きになりました。 ロックの原点と言われた人たちがいましたが、そういう人たちもあっという間にコマーシャルベースでなってしまう。  これって違うんじゃないかなと思いました。 坂本龍一君とか出会ったときに、いかにレコード会社が興味を持たない歌を作ろうかみたいなところに僕を燃えた時代がありました。 吸い上げていく大きな権力みたいなものが吸血鬼のように思えました。 吸血と言うことをテーマにしてパフォーマンスをしたことがあります。 彼は彼でオリジナルを模索していたんだと思います。 

日本全国にキャバレーがありました。 そこではラテン、ジャズ、シャンソン、カンツォーネなどを歌う時代でした。 僕たちはその後の時代でした。 「銀パリ」と言うところがありまして、オーディションを受けて受かりました。 

最初に「エマニエル夫人」の映画のポスター、日本のものと海外のものと集めました。 それからポスターが面白くなって興味を持つようになりました。 ポスターは3000枚あります。 僕の友人がマリリン・モンローが大好きでした。  友人はフランスでマリリンのポスターを集めていました。(60数枚)  藤井さんから、このポスターは絶対に買いなさいと言われました。 藤井さんと言う方でマリリンのお化粧をしたことがある人でした。 

マリリンは驚くほど記憶力の良い方で、成分表などを1回見ただけで全部覚えてたって言ってました。  藤井さんはマリリンから黒澤明に会いたい、日本のお手伝いさんをアメリカに連れて行きたいと言う要望を受けましたが、2つとも叶いませんでした。  黒澤明は、自分が使いたい女優はマリリン・モンローだと言うエビデンスを見つけました。 黒澤明とマリリンは符号するようなところが一杯ありました。      それで書いた本が「天使と侍」と言う本でした。 

もう1冊の「マリリン・モンロー100年の孤独」と言う方は、ちょうど今年がマリリンの誕生100年なので、マリリンの人生そのものを見てみようと思って調べました。 この人の孤独は、アリ地獄のような耐えられのような悲しみに満ちた孤独なんです。  僕は「天使と侍」の時に、マリリンが平和を希求していたことと、彼女は政治的な人でした。 反原爆運動でも、最初のハリウッドの俳優たちの中心人物であったりしましたが、それは全く知られないことでした。 初めて去年100年の孤独と言う本を読んだときに、本当に私は人に愛されたことがない。 でも1番悪かった事は自分を愛したことがなかったと言うふうに書いてありました。 

調べてみたら1番感情ができるときに11回も点々としていました。  その中で、マリリンは嫌われないように笑うしかなかったんです。  自分では「孤児ではない、お母さんがいるんだ。」と言ってますが、その母親は精神的にとっても問題のある人でした。 マリリンは大変な苦労をしながら、自分の身1つできたわけです。子供が知らない間に、人間て母親なり父親なりに教えてくるものがありますが、マリリンはそれがなかったんです。  マリリンが1番好きな宝石はパールでした。 お母さんの名前がパールと言う名前でした。それを聞いたときにはグッときました。最終的には母親をマリンが全部面倒を見ていました。 本人が亡くなった時には通帳には500ドルしかなかった。

モンローが今受けている収益を孤児院の子供たちに寄付していると言うのを聞きました。  自分と同じような思いをして欲しくないと言う思いを心に抱えていたですね。  最初彼女は女性の敵と言われていました。 フェミニズム運動とかいろんな問題が世の中が変化するに従って、マリリンの価値というのが1種のジャンヌ・ダルク的な部分があることを認められてきて、女性のファンがすごく増えました。

墓石が彼女たちのキスマークでピンク色になってしまうほどなんです。 2番目の夫であるジョー・ディマジオが週に2回花を届け続けました。 マリリンはジョー・ディマジオとともに広島にも行きました。 1954年の段階では、原爆についてはまだアメリカに遠慮してました。 第5福竜丸の被爆とかいろいろあって、だんだん反原爆が広がっていきました。  最近では、アメリカのハリウッドでも、原爆の映画を少しずつ作るようになってきました。 

僕はフランスでも日本でも恵まれて、幸せでだから、今せめて少しでもお返しができればと言う気持ちはあります。 マリリンの孤独と言うことを確認したときに、自己確認しました。 家に帰ればご飯のある人間が孤独だの、寂しいなどと言えないだろうと言う、凄さですね。




2026年5月6日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前五木寛之さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本が「最終章」として綴り話題になっています。孤立や孤独などについて語っていただきます。

一人でいるのが孤独ではないんじゃないかと言う、有名な思想家が群衆の中の孤独みたいなことを言っています。 みんなと一緒にいながらなおかつ違うなあ、話を合わせているけれども、俺の本当の考えていることとみんなの考えてる事は違うなぁと言う、そっちの方が孤独なんではないかと言う気がします。 一人ぼっちである事は孤独ではないです。 孤独よりも対立ということがきついと思います。   人間と言うのは、自分だけの社会と言うものをみんな持ってるものなので、わかってもらえないと言っても、嘆くとか悲しむとかと言う必要はないですね。

孤立感は孤独感とは違います。 1人で戦わなければならないと言うような、応援してくれる人がいない。  生きていく上での立ち位置として、運と努力2つの言葉に集約される。  偶然に助かったと言う事は何度もあります。 努力だけでもありません。

他力」の問題で大事なのは、「他力」を信じるか信じないかの違いがあると思います。 「他力」に身を委ねるかどうか、これは「自力」です。  「他力」に身をまかせて自らの計らいを全部任せる、と言う決断はこれは相当な自力です。「自他一如」と言う言葉がありますが、その境目正反対という事ではないと思います。  休筆宣言を二度しています。 なんか声が聞こえたりする時がありますが、どっか聞こえるような声はそれに従うか、従わないかの問題だと思います。 逆らって生きる道もあるでしょうが、その声には素直に従うと言う。

石原慎太郎さんは自力の人でした。 石原さんがこんなことを話したことがありました。 宮本武蔵と吉岡一門と決闘することになりましたが、向かう途中で神社があって、「どうぞ神仏のご加護を」と言って手を合わせようとして、その瞬間に神や仏に応援を得ようと言うのは既に負けたことになると考えて、手を合わせるのをやめて、決闘の場に行って結果的には勝ちました。 石原さんは神様などにお願いするような心がけではダメだと言うふうに力説してました。 僕は手を合わせようとした宮本武蔵の心に響いた声と言うのは、これは「他力」の声ではないかと言う気がします。 神仏の力を借りようなんて言うことではダメだと言う声が聞こえた。それは「他力」の声だと思います。 その声に従って、彼は合掌することをやめて、決闘場へ行った。 昔そんなことを石原さんと議論したことがあります。

*「織江の唄」 北九州の方言を使った歌  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ

健康よりも養生である。 少々故障とか問題点があっても、何とかそれと折り合って生きていくと言うという事は養生なんです。 健康は根こそぎに原因を立ち切ってしまうと言うようなところが感じられます。 心と体のお互いの関係というか、どちらも大事なんです、偏らない。 命は自分のものである。 12歳で決意したのが、好奇心のおもむくままに行動する。  自分の思うように生きる。 

*「思い出の街」 作詞:五木寛之,作曲:加藤敏治 歌:松原健之        昔は学生街があって、古本屋などが結構ありました。(昭和の残影)

「老いとてんでんこ」 「てんでんこ」、津波の時にバラバラでいいから、自ら避難しなさいと言った意味で使われたりしますが、「てんでんこ」と言う言葉を一言で言う事は難しい表現だと思います。 ものすごく大事なことを言ってるような気がします。 

高齢期を3つの期に分ける。 前期、中期、後期、これからは高齢期が長い時間になる可能性があります。 高齢期の生き方が大きな問題になると思います。     高齢期は決して余計な生き方ではないんです。 高齢期は考えながら生きていかなければならない、大事な成熟の時期だと思います。 「生きている事そのことが大事」  生きていこうと言う意欲、どこにその基準、どう生きているか、なんでそんなに生きることに執着するのかと言われたときに、それに対する自分の心構えというか、答えをしっかり持っていなければならない。  生きるには理由があると言う理由を考えておく、そういう時期に入ってきたんではないかと思います。   「暗愁」心を暗くするような、言いようのない悲しい物思いやうれいを指す言葉 「暗愁」の持っている強さ。 明治、大正、昭和初期にかけて流行のように広く使われた言葉です。




2026年5月5日火曜日

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

 久保田さんは1990年から20 13年までEテレで放送されていた子供向け工作番組「作って遊ぶ」にわくわくさんとして出演しました。 番組が終了してからも全国各地で親子向け工作教室を開催、現在も工作の伝道師として活動を行っています。生涯わくわくさんを全うしたいと語る久保田さんは、工作の楽しさや、今後の夢など伺いました。

今年65歳になります。 大学4年の時に読んだ雑誌に劇団の募集というのがありました。 田中真弓さんが副座長と言う立場でした。 田中さんはNHKの番組などに出演していました。 のっぽさんの番組の「できるかな」と言う番組が終わることになりました。 新しい工作番組を作りたいということで、若い男の出演者を探してると言うことでした。 田中さんが私を推薦してオーディションを受けて受かってしまいました。 平成元年に「ワクワクおじさん」と言うタイトルでした。(27歳) 同じ年の年末からもう1本放送が始まってそこから「ワクワクさん」」になりました。

19904月からレギュラー放送になりました。 後で聞いた話では、オーディションを受けたのは私1人でした。 子供たちの前で話をしながらやることを勉強しました。 初期の頃の子供たちの反応は全然だめでした。  どうやって見てもらえるようにするかと言う研究がものすごく大変でした。 ノッポさんと言う方が、初めて工作番組を作ってくれた方です。 ノッポさんの最後の番組に私も参加しました。ワクワクさんと言う人物を自分で構築していこうと思いました。 「つくってあそぼ」が3年経過したときに、俳優、声優の仕事を全て止めて、ワクワクさんの活動を1本に絞りました。

結婚して子供ができたので、1本にかけてみようと思いました。 収入面では減りました。  家で自然な形で子供に喋るようになったので、それが良かったのかもしれません。  家でもいろいろ稽古しました。 子供も実験台にしました。子供の気持ちを引き寄せるには、子供たちとどこかの部分で同じレベルに下げる、目線を合わせるということです。 話し方反応の仕方、ある程度落とすことによってこちらを向いてくれます。 もともとは社会科の先生になるつもりでいました。 父親は手先が器用でした。 家にはノコギリ、ノミなどは20種類以上ありました。(趣味)

私はプラモデルなども、キットにないものを、自分で作って加えると言う事をやりました。 それがワクワクさんの番組で生かされるるとは思ってもいませんでした。 ワクワクさん歴36年になります。 ワクワクさんの設定が20代後半なので、演壇に立ったときに、ジジ臭さを出さないようにしようと言うことを考えないといけないと思ってやっています。 

子供たちがワクワクするものを作ってくれる人という意味で、ワクワクさんということです。 工作と言うものが、どのような時代になっても、子供たちの心を惹きつけると言うものは絶対あります。  そのヒントを提示すると言うのが、私の活動です。 だんだん材料を揃えるものと、家庭に道具がなくなってきているので、できるだけおうちにあるようなものを考えながら、大人の方が入手しやすいものを中心に考えてます。  生涯現役でいたいです。





2026年5月4日月曜日

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町さんは1971年埼玉県生まれ。(54歳) 町さんが高校3年生18歳の時に母親がくも膜下出血で倒れ、脳障害が残って車椅子の生活になりました。 そこから町さんは学校に通いながら、母親の介護をすることになりました。 今でこそヤングケアラと言う言葉がありますけれども、当時はそんな言葉がなく支援制度も少なく、11日を乗り切るのが精一杯の日々だったといいます。 その後町さんは日本テレビにアナウンサーとして入社、仕事と介護の両方をしながら働くワーキングケアラーとなって、母親の介護は10年続きました。 2011年にフリーアナウンサーとなってからも、ご自身の経験から医療と介護をテーマに取材、啓発活動をやっていますが、大切なのは「受援力」つまり、支援を受ける力だといいます。 今日は町さんのヤングケアラーとしての体験や、すべてのケアに伝えたいメッセージということで、町さんのお話を伺います。

まだヤングケアラーと言う事はまだ知らない人は、これはどういう意味ですかと知るきっかけになると思ってあえて名刺に入れてみました。 ヤングケアラーに対する認知度はまだまだです。 ヤングケアラーとなったのは、今から30年以上前です。  現在54歳ですが、18歳の時に母が倒れました。 母は最初頭が痛いと言っていました。(始業式の日) その晩に入院して、翌日にくも膜下出血ということがわかりました。 緊急手術が必要になりました。 その日から人生が180度変わりました。 

手術の結果、命は助かりました。 右半身麻痺と言語障害ということで車椅子の生活になりました。(母は40歳)  父は何もしない人でした。 父は酒を飲むと、ものを投げたりすることがあって、父とどう向き合っていくかと言う事のほうが大変でした。 父からは今日からお前が母親だと言うふうに言われました。 共働きでしたが、母が働かなくなって医療費に消えていくような状況でした。 介護の仕方もわかりませんし、とにかく私たちができる形で生きてくしかないと言う状況でした。 

大事な支援が2つありました。 ソーシャルワーカーの人から教えていただきました。 高額療養制度と母親の障害者認定受けるから障害を持っている人が受けられる医療費助成があるから、市役所に行くように言われました。 何十万円の医療費を払っていたら、我が家は破綻したと思っています。 あと奨学金制度があることを担任の先生から説明してもらいました

弟は高校3年生の時に誰にも相談せずに就職すると言うことを自分で決めました。 数年後、弟に聞いたら、もちろん大学には行きたかったと言ってました。    今でも私に力があったらばと言う思いはあります。 厳しい家庭環境でしたが、諦めるという事は悔しかったと言う感じです。  父もヤングケアラーでした。   父も大学へ行きたかったということだったらしいんですが、5歳の時に父親を亡くして、経済的な理由で諦めたそうです。 そういうことで、私の大学進学に対しては行くように後押ししてくれました。 

大学卒業後、日本テレビのアナウンサーになりました。 仕事と介護の両立は選択肢はなく当たり前でした。 妹も弟も当たり前に思っていました。 アナウンサーの仕事は30年前からフレックスでした。 私は夜11時から始まるスポーツ番組の担当でした。  終了が夜中の1時ぐらいなので、夕方8時ぐらいに行けばよかったです。 そういった関係で介護と仕事の両立ができました。 

当時は介護していることを大っぴらに言うような文化はありませんでした。   障害者が住みなれた地域で当たり前に暮らせる社会にするための情報発信がしたいと思ってアナウンサーになりました。 日テレのアナウンサーは5年ほどやりました。その後報道局に異動になり、10年記者をやりました。 最後に情報エンターテイメント局の情報番組のアシスタントプロデューサーをやりました。

母の介護は10年です。 母は最後は末期ガンで見つけたときには、手遅れでした。 母のようなおおらかな性格になりたいとはずっと思ってました。 私は性格的には父に似ている。 「受援力」と言う本を出しましたが、これは母が持っていた力です。 母は周りが助けたくなる人でした。 

ケアラーに対して伝えたい事は、納得して選択すると言う事は大事なことです。  自分の人生も大事にする。 たった1人しかいない大切な人のために介護を選ぶと言う選択肢もあると思います。 選んだ道の中でできる事は何かと言うことを数えて、できることをやればいいと思います。 介護は必ず終わりが来ます。 なくなると言う形で介護が終わります。 父は母が亡くなった喪失感を埋められなくて、食べなくなって酒だけ飲んで、母のためだけに生きていたので、そうならないためにも、母の分を生きると言う選択肢があったはずです。 乗り切るためには、弱音を吐いて欲しいなぁと思います。助けてもらっていいんです。 恥ずかしいことでもないんですから、この人になら本音を話せると言う人を、今から作っておくと言うことを大事かなと思います。






2026年5月3日日曜日

松本泰生(階段研究家)           ・「上って下って32年、我が“階段人生”」        

松本泰生(階段研究家)        ・「上って下って32年、我が“階段人生”」

早稲田大学オープンカレッジ講師の松本泰生さん(59歳)は東京に来て、初めて坂が多く、地形や山並みが複雑に変わる街に興味を覚え、屋外の路地などにあり人々が通り抜けに利用している東京中の階段を巡って、斜面地の研究で工学博士号を取得しました。 形状や段差数、そして傾斜、ステップの幅あるいは段差を計測して、歴史的背景なども調べて写真に収めた階段は、山手線の中だけでも650カ所近くにのぼります。 階段研究家を名乗るほど松本さんを夢中にさせた階段の魅力とは何なのか、30年余りにわたってひたすら登って下った、階段人生を聞きました。

もともと私は静岡県静岡市の出身で街が平らなんです。 大学入学して東京に来ましたが、こちらは割と坂が多くて、街中には階段が多くて、階段を上った先にも街がずっと広がっている。 新鮮に感じました。 私は都市計画を学んでいましたが、フィールドワークがしばしばあって、神社にも階段があるし、そうでないところも階段がたくさんあります。 それから階段を調べ始めました。

最初は山手線の内側の都心部を調べて行ったら、650カ所ぐらいありました。   本を出したらそれに反響がありました。  階段歩き講座をやるようにしました。23区に広げていきました。  3500箇所ぐらいあるようですが、リストアップしたのが2500位です。  住宅地図に階段が載っています。  記録に残したいので写真は撮ります。 段数はできるだけ数えるようにしています。 幅1段の奥行き、高さ1つとして同じようなものがないです。 坂道は車とか自転車で通り抜けられますが、階段は通り抜けられません。 歩行者だけのもの結果的には面白い空間ができています。(穏やかな空間)

港区に愛宕山と言う小さな丘があります。 愛宕神社があって、そこに登る男坂というのがあります。 3代将軍家光がその階段を見て、上のほうに梅の花が咲いてるのを見て、馬に乗ってその梅の取ってこられるものはおるかと聞いたところ、曲垣平九郎と言う武将が馬に乗ったまま取ってきて、馬術の名手ということでしたと言う話があり、今は「出世の石段」と呼ばれています。 急な階段で86段あります。

変わった階段で、文京区のほうに庚申坂と言う階段があります。 地下鉄の丸ノ内線から一瞬階段が見えます。  板橋区の成増のほうに昔は地層が見えていた崖があり、そこの階段が上の方からの景色がすごくいいんです。 武蔵野台地の北の端に当たっていて、埼玉県の方まで景色が見えるところです。  高輪の階段では、品川駅周辺の高層ビル群が見えます。(東京ならではの景色)  赤坂見附の近くの日枝神社では、お稲荷さんが祀られています。 そこの稲荷参道は赤い鳥居がずらっと並んでいて、そこ抜けながら登っていくところでは百基位の鳥居があります。

本郷に樋口一葉が昔住んでいた路地裏がありますが、そこの奥に階段があります。昔ながらの風景があります。 神楽坂に熱海湯と言う銭湯がありますが、その脇をを緩やかに登っていく階段があります。 熱海湯階段と通称を呼ばれています。  両側には料理屋さんが出店していて、雰囲気がいいです。 北の丸公園に清水門と言う門があって、そこの中にある階段は昔のままの姿をとどめています。    緩やかなんだけれども、11段の石が大きくて登るのが大変です。 

港区の麻布台に雁木坂と言う階段がありまして、そこは両側に桜の木があります。絵になる階段です。 王子のほうにある王子神社の近くを流れている音無親水公園に向かって降りてくと、階段の脇に樹齢が600年を超える大きな銀杏の木があります。 秋には黄色い葉っぱが階段を埋め尽くします。

階段に関するガイドをしています。 赤坂とか本郷とかエリアを決めて、そこにある階段を次々に巡っていきます。(2、3時間) 神社やお寺のコース、近代建築コース、昔の大名屋敷の後の坂、階段コース等。 新宿区の四谷、荒木町界隈、ここは大名屋敷、松平摂津守の屋敷、街自体がすり鉢状の窪地になっている。 階段でしかいけないような路地空間が作られている。  四谷に須賀神社があって、アニメの映画などで取り上げられた著名な階段があります。 映画ファンからは聖地のようになっていて、外国からもたくさん来ます。 本郷一帯も坂があり戦災にも会っていないので古い建物もあり魅力的です。

大森駅の西側に山王と言う地区があります。さらに行くと馬込と言う場所がありますが、かなり地形が複雑なところです。 階段が非常にたくさんあります。    多くの作家さんが住んでいた場所です。 赤羽にはもともと軍用地が結構ある場所です。その後が団地になってたり、公園になってたりしてます。 ここも歩いてみないとわからない面白さがあります

東京では高台と下町のところをつないでいるのが確かですが、一方で2つのエリアを切り離している。 階段から上は高台の街、階段から下は下町と階段が目印になってる面があります。  お寺とか神社は階段を上った先に、社お寺があることが多い。 日常生活の俗世間と、神社、お寺の聖域を階段がつないでいるが、一方では俗世間と聖域を切り離ししている。 俗世間から階段を上ることによって、聖域にアプローチする準備ができる空間かなと思います。  江戸時代は高台は武家屋敷が多くて、低い側は町民地になっていた。 明治以降は高台は住宅地、低いところは商業地と言うような区分けになっています。 とりあえず階段から見て、建築だったり、街であったり都市であったり、そこに興味を広げていただければいいなと思います。  ちょっと運動にもなると思います。 

 

2026年5月2日土曜日

海原はるか・海原かなた(漫才師)      ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

 海原はるか・海原かなた(漫才師)    ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

はるか、かなたさんといえば、はるかさんの髪の毛をかなたさんが吹き飛ばすギャグでお馴染みです。 愚直に磨き続けたしゃべくり漫才で、文化振興などに貢献した人に送られる大阪市市民表彰を受けるなど、名実ともに関西の笑いを牽引してきたベテランのコンビです。  大阪を中心に舞台に立ち続けて、去年55年目を迎えたお二人に、漫才人生につきましてお話を伺えました。

コンビ結成55年、はるかさんは熊本市出身で76歳。かなたさんは奈良県天理市出身の77歳。 2人でやってると楽しいから辞めたいとは思わないです。  熊本弁を大阪弁に直すのに苦労しました。 今やめたら今までやって来た積み重ねであろうが何であろうが、全部無駄になるという気持ちの方が強かったです。 (はるかさんの髪の毛を、かなたさんが吹き飛ばす)このギャグはある時、3組が楽屋にいるときに、順番に楽屋話をしてたんですが、我々は苦手なので、それまで隠してた髪の毛をオールバックにしたんです。 戦国時代の落ち武者みたいな感じです。  楽屋で盛り上がって2回目の舞台に上がったときに、夫婦喧嘩のネタをやってるんですが、私がはるかくんの髪の毛をアドリブでふっと吹いたんです。 そうしたら経験したことのないような大爆笑でした。  やったときには「これや」と思いました。 これは我々の商品だと思いました。 40代の肺活量はは平均が3700位です。 けれども、私はその時まだ4900ありました。 だからあのギャグができたんだなと思いました。 なるべくギャグができるような雰囲気の頭にカットしていただいてます。 その美容師さんには20年以上ご厄介になってます。

最初お互いに役者になりたかったんです。 養成所へ同期生として入門しました。      その後、私(はるか)は小浜師匠の住み込みの弟子になりました。 コンビを組む時になって相方しか思いつかなくて手紙を出しました。 お浜・小浜師匠の弟子になることになりました。  師匠からは「長いこと芸人として残るのには紳士的な漫才をしなければいけない。いとし・こいしさんみたいな紳士的な漫才をしないと長くは続かない。」と言われました。 2人とも不器用なんで稽古は一生懸命やります。 稽古が好きですね。 稽古をやってる間にまた新しいネタが浮かびます。

1980年代頃、漫才ブームと言われた時代でした。やすし・きよしさん、ツービートなどがいました。 当時は我々は注目されていませんでした。 あのギャグが見つかってからは、東京の方にも仕事に行くようになりました。  私(かなたさん)が健康を害した時は、脊椎管狭窄症と言う神経を圧迫するもので、手術の2週間ほど前から立てなくなって紙おむつでした。 そこから筋肉つけていくまでで1年以上かかりました。 自信を持っていけるようになったのは17ヶ月位ですね。 漫才をやれて、漫才ってこんなに楽しいものなんだと改めて思いました。

若いものがどんどん出てきてくれるというのはうれしいなと思ってます。 「辛抱が大事だと言う事は常に言ってます。」 「石の上にも3年。」という言葉がありますが、死語になってるような感じがして残念でなりません。 毎日楽しく仕事にときめいて喜べる自分を少しでも多く作りたいなと思います。  お笑いに対しては人それぞれの考え方があるんでしょうけれども、どうしたらお客さんが笑うのかと言う前向いた考え方を自分なりに持っていきたいと思います。 そのためには健康でなくてはいけないと思ってます。


2026年5月1日金曜日

加藤拓馬(宮城県社会教育委員)       ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

 加藤拓馬(宮城県社会教育委員) ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

東日本大震災から15年になるのを前に、3月7日に放送した特集番組「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」をお送りします。

15年前の東日本大震災、あの時全国各地から多くの若者たちが被災地に入り、ボランティア活動に取り組みました。  そうした若者たちの中でそのまま現地に移り住み、今も地域の再生に取り組む人もいます。  宮城県気仙沼市唐桑町入った 加藤拓馬さん(37歳)です。 加藤さんは兵庫県の出身5歳の時に、阪神淡路大震災を経験しました。 その後東京で大学生活を送り、卒業後身一つで気仙沼にやって来ました。  この時間は「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」と題して大災害の被災地で歩んできた、一人の若者の試行錯誤を、過去の取材音声を交えながらお伝えします。

決まっていた会社に就職するのを辞めて、ボランティア活度を続けている若者がいる、と言う話を聞きました。  それが当時22歳だった加藤拓馬さんでした。  震災から間もなく3年になる時に気仙沼を訪れ、25歳になった加藤さんに話を聞きました。  2014年3月に放送したインタビューです。

大学時代に中国でワークキャンプをするボランティアサークルに所属していて、現場で何かをやるという事に凄く意義を感じ、東京でサラリーマンをやっている場合ではないと思いました。 さんざん悩みましたが来たが、4月5日にはここに来ました。 馬場康彦さんの自宅の離れを借りて、長期的に滞在して活動しているからこそ、住んでいる人の本音が見えてした。 仙台は復興が早いが唐桑では復興が進まず、唐桑を出たいとか、唐桑には3種類の人間が住んでいて、避難所の人、避難所から出た仮設の人、在宅避難の人、それぞれがそれぞれに対して、嫉妬、妬みが激しく、みんなバラバラだと言った人もいました。

地域の集落のいいコミュニティーを持っているところが、このように引き裂かれていくのか、目に見えて起こり始めました。  瓦礫作業が終わって、はいさようならでは、もったいないことをしているのではないかと思いました。  コミュニティー作り、街つくりに徐々にシフトし始めたのが、2011年の秋ごろでした。 フリーペーパーというコミュニティーペーパーを作り始めました。(内側に頑張っている人がいて、それを見て自分も頑張らなくてはと言う風に、鼓舞する形)  企画、インタビュー、編集を全部自分で行いました。 

部数は4000部で商店、コンビニ、イベントとかに配布しました。 反応が凄くよかったです。 地域に溶け込んで行って、街つくりのサークルを作ろうという話になりました。(2012年春) 「唐桑丸」を5月10に日に立ち上げました。     街の人からは「将来大丈夫か。」と言われました。  或る人から「唐桑ではこいうふうな街づくりをしましたと言えるものを10年かけて作りたい。」、「10年やって初めて成果が見てくる。」といわれました。  そんなに簡単ではないと思いました。 だからこそ遣り甲斐のある一大プロジェクトだと思います。

加藤さんに自宅の離れを提供したのは、地元の社会福祉法人に務めていた馬場康彦さんでした。  最初は半信半疑でしたが、話を進める中で前向きな気持ちになって行きました。 すべての面で進むべき道を教えてくれたのではないかと思います。 2015年加藤さんは任意団体の唐桑丸を発展させて、NPO「まるオフィス」を設立しました。  船に〇〇丸と言う風に「丸」が付いている意味は、或る漁師さんは「出発したところに、ぐるっと回って無事に帰ってこれる。」、そういった願いを込めている。」と言いました。  地域と言う一つの船の中でコーディネート機能を担えるようなものにしたくて「まるオフィス」と付けました。

苦労しながら試行錯誤するなかで加藤さんはこれだというテーマを見つけました。 それが「教育」でした。 2020年に気仙沼市内にある9つの中学校、小学校などにも通って、主に総合学習の授業で、子供たちの探求的な学びをサポートする様になりました。 震災から14年になる去年の3月、NHKの朝の番組に出演。 「10年やって初めて成果が見てくる。」と言われました。この地域の50年、100年先のことを考えた時に、ここの子供たちがどういう風に育つのかが大事だと思って、「教育」と言うテーマにしぼって行きました。  最初はUターンしてくれればという思いもありましたが、いろいろな生き方があるんだよという事を伝えていく活動をやっています。 14年経って、成功、失敗もありましたが、次の地域に繋いでいきたいなと言う思いがあります。 

復興って元に戻す事ではなくて、この街の豊かさって何だろうという風な、豊かさ探しみたいなものだと思っています。 社会の最前線で活動しているという事は、毎日ワクワク取り組んでいます。  最近は能登半島にも関わっています。    いくつかの地域で、街つくり、教育に取り組みながら自分の生活、仕事がしていけるものが出来ればいいなと思っています。 明日から気仙沼の高校生、大学生を20人ぐらい連れて1週間輪島に行ってボランティア活動をします。

先月中旬、雪が舞う気仙沼へ加藤さんを訪ねました。 ボランティアみたいなものと学びみたいなものは、相性がいいんだろうなぁと私自身改めて感じさせられました。 彼らが活動をしたことで、次の世代がまたそういう風につながると面白いんだろうなとは思います。 15年前気仙沼にやってきた頃、遊び相手をしていた子供たちも今はもう大人になりました。 就活の相談を受けたりとかしています。   今も連絡くれるのでうれしいです。 

15年前にやってきた加藤さんに自宅の離れを提供するなどして応援してきた馬場康彦さんは、現在は地元の福祉法人の理事長をされてます。 馬場さんは次のように語っています。気仙沼にいたんだよと言う風な感じで近所の人と付き合っています。 素晴らしいものを持ってるんだろうと思います。 彼は故郷でも震災経験があります。(阪神淡路大震災) 彼の中に自分のなかでイメージしたものがあるのかなと、今になって思っています。

2月中旬、震災後に再建された公共施設、「気仙沼市、街と仕事、交流プラザ」 ここで地元の高校生たちが大人と一緒に地域や自分の将来を考える産官学のプロジェクト「波風」が開かれました。 運営を担う加藤さんもスタッフの仲間と参加しました。 この「波風」は、気仙沼の企業、行政、学校が連携して、コンソーシアムの共同体を結成して取り組む事業で、スタートしてからまもなく4年になります。高校生は様々な大人と交流しながら、学校の外でも地域や社会の課題を見つけて考える力を養っています。

加藤さんが去年ドイツに行って感じてきたことの経験をもとに、若者が自分たちの地域のことを考える大切さを訴えました。 高校生たちからはいろいろな反応がありました。かつて「波風」に参加したOGの人も参加がありました。      「教育」と言うテーマ自体、私は興味がありませんでした。 そういったところに出会えたと言うことが15年で1番自分の人生にとって大きかったことです。    自分が1つのライフワークとして携われるテーマは施策かもしれないと徐々に実感させてもらった15年でした。 

1つのことを10年やって初めて成果がわかるんだと言う事を昔言われたことがありますが、それを実感しています。 10年かかるかもしれないと言う風に声をかけてくれたのは、当時市の教育長だったと教えてくれました。 

馬場さんは当時を振り返りこう言ってます。 来てくれるんだったらお願いするよと言ったことが間違いじゃなかったと思います。 今は小さい赤ちゃんから我々高齢者まで幅広い人たちと交流の場を持ったり、後は我々の後押しをしてくれる中高生大学生たちにアプローチをして、彼らと一緒になってやって、彼らの成長に関する大きなものをものを見たり聞いたりしています。 彼らの存在、ボランティアを皆さんの罪と言うものは大きなものがあって、今のこの復興した気仙沼になってると思います。 

加藤さんはこれからの夢をこんな言葉で語ってくれました。 色々なことを一から教えててもらいました。 これからもここを拠点にしていきたいと思ってますし、自分も子育てしていますが、子供たちは当時お世話になった人たちに、またお世話になりながら育って行っていると言うことも不思議な感覚ではあります。    次の10年どうしようかなぁと言うのは、当時よりはワクワクしながら過ごすことができるなと言うのは今な気持ちです。 あれやりたいこれやりたいと言う焦りみたいなものを感じます。 何か自分がアクションを起こせば、新たな人とも出会いますし、出会った人がまた新たな気づきをくれる。 芯の部分は、社会教育と言う部分であり、10代の若者たちが何か夢中になれるもの見つける、それを僕たちが応援していく、社会で支えていくんだと言うと言うところはぶれないところです。










2026年4月30日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」 

小椋佳さんは1944年東京上野生まれ82歳。 東京大学法学部を卒業した後、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、銀行員として働く傍ら、作詞、作曲等の音楽活動を行い、1971年に初めてのアルバム「青春 砂漠の少年」を発表しました。「さらば青春」や「潮騒の歌」などのご自身のヒット曲だけでなく、「シクラメンのかほり」、「愛燦燦」「夢芝居」など多数の楽曲を様々なアーティストに提供しています。 3冊目のアルバム『彷徨』(さまよい100万枚のセールスを記録しました。  これまでに2000曲以上を作り、2014年には四日間にわたって100曲を歌う「生前葬コンサート」を行い話題となりました。 胃がんや肝機能障害の劇症肝炎の闘病時期もありましたが、82歳になった今も元気に音楽活動を続けています。 人間にとって1番贅沢な遊びは学ぶこととの考えから、ご自身は自分のことを「慢性現状不満症」と称していて、常に新しい何かを求め続けています。 「小椋佳的生き方」と題して小椋佳さんに伺いました。

自分自身がちゃんと歌えるかどうか、声がきちんと出ているかどうか、節回しが自分の思い通りの節回しになっているかどうか、そのことの方が今日の1番大事なこと思っています。 50年前に初めてNHKのホールで歌ったときに、歌ってる最中に客席の方からふわっと波のようなものが来るんですね。これは一体何なんだろうと思いました。なんか1番気持ちが良かったですね。 

現在82歳ですが、もう体はボロボロです。 足の血管が細くて半年に1回手術をしています。 タバコは今も変わらず140本吸っています。 ここの10日間で歯が5本抜けています。  タバコは生活必需品になってしまっています。 3回禁煙して失敗しています。 40代の頃禁煙学校に通いました。 3ヶ月後には吸っていました。禁煙したら詩が書けなくなってしまってました。 

200157歳の時に胃がんで胃の4分の3を切除、68歳の時に肝機能障害で劇症肝炎と診断され、大変な思いをしました。 若い力の心情として、生きているからには、一生懸命生きようとずっと思ってまして、そのせいかもしれないです。    歌を歌うと言う事は健康に良いのかもしれません。 映画「50年目の俺たちの旅」に合わせて、「俺たちの旅コンサート」を行いました。 どこへ行っても満席でした。 青春時代に郷愁があるんだなぁと言うことを感じました。 主題歌とエンディングテーマを書きました。(アメリカに留学中)

銀行から派遣されての経営学の勉強でした。 学校には行かないでアメリカの旅をしてました。 曲をそこそこ作りました。 一枚目のLPが世の中に出て意外と評判が良くて、第二弾のLPをと言う手紙をもらいました。 ポリドールの重役会議では、こんな者は売れるわけがないと言ってお蔵入りの決定だったそうです。 ヨーロッパでも、アメリカでも詩が主で、歌は詩を読み上げるような静かな歌を歌っていまして、立派に活躍していました。 僕もこれでいいんだと思いました。

*「俺たちの旅」 作詞、作曲 小椋佳

 中学2年から日記をつけ始めて、曲を作るときのベースになっています。    歌って、やっぱり人間の本当の思いを作家の思いを乗せてこそ歌だと思うのに、嘘臭いので、歌いたいのに歌いたくなくなっちゃいました。 自分の日記の中からメロディーをつけて口ずさんだのが始まりです。 日記をつけると自分のことをよく考えるようになります。 大学ノート30冊になりました。 詩を書いて、それにメロディーをつけていく作曲のスタイルです。 

高校時代に哲学病になって、答えを出せないまま社会人になって、銀行員を26年やりましたが、やり残し感があって49歳で銀行を早期退職して大学に行って、哲学を6年間やりました。 本を書き残そうと思って、今書いてる最中です。 人生に希望を持てない人たちへ、人生こう考えていければいいんだと言う本を、僕の哲学の勉強の総まとめとして、生き方の提言をした本です。 

若い頃は3時間に1曲作ってました。 自然に降りてくる感じでした。 これまでに2000曲以上になります。 最初のコンサートは、1976107日、NHKホールコンサートで3300の座席に対して、11万通の応募があったということでした。 良い体験をしました。  古希の時に「生前葬コンサート」をやりました。  四日間NHKホールでやりました。 4日間で100曲歌いました。 あれからもう10年以上生きてます。青春に決別できたコンサートでした。

よく「二足のわらじ」と言われますけれども、銀行員時代の費やす時間と作曲関係に費やす時間は、圧倒的に仕事の方に有りました。 歌のことで、あいつ歌だけやってるから、仕事は中途半端だろうと言う見方で見られるのは嫌だったです。  人一倍業績を上げようと言う思いは強かったです。(頭取候補にもなる。) 

どう生きていいかどうかわからなかった青春時代に、魅力的に輝いた言葉が「創造」という言葉でした。 他でもないこの私が生きていると言う証は、どういうこと、それは「創造」と言う言葉につながるんですね。 「慢性現状不満症」は私の性格の基本にそれがあります。 以前作ったミュージカルはどれ一つとっても納得できるミュージカルではなかった。 死ぬ前に1本だけ妥協を許さず、自分で本当に納得できるミュージカルを1本オリジナルのものを作って死にたいなと思ってます。  2 、3年かかると思います。 「慢性現状不満症」が原動力になってると思います。 遺言も書き上げて、死に支度は整っています。 生きている以上良いことがやりたいと思ってます。

*「顧り見れば」 作詞、作曲 小椋佳





2026年4月29日水曜日

翁家和助(太神楽曲芸師)          ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

 翁家和助(太神楽曲芸師)  ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

翁家和助さんは1977年東京都出身。 和助さんは、高校卒業後、国立劇場第1期大神楽研修生になり、研修終了後翁家和楽さんに入門、寄席を中心に活動しています。 今年2026年大神楽で令和7年度芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞を受賞しました。

何で自分がもらえたんだろうと思いました。 文化庁の公式ホームページに受賞理由が出てます。 どのような出番で高座に上がっても、きちんと存在感を示し、後に上がる落語家の邪魔をしない、わきまえた芸が芸人仲間から高い評価を得ている、と言う事ですが。

妻の翁家小花と弟子のと3人で、翁家社中と言う太神楽曲芸のグループで活動しています。大神楽は獅子舞で、檀家のところを回るんで、檀那場廻りといいます。 廻ってお祓いをして、その家の立身出世とか。家内安全、商売繁盛をお祈りして家々を廻っていくと言うのがもともとが芸能です。 その前は獅子舞もなくて、いけない方々に神社の方からお札を持って、お祓いしますと言うのが始まりでした。

太神楽と言う芸能自体が感謝の気持ちで発展してきた芸能です。行った先がいろいろ持てなしてくれました。 お札だけでは申し訳ないと言うことで、獅子舞をやり出しました。 もてなし側もさらに凄くなって獅子舞だけでなく、曲芸とかを加えることによってさらに喜びました。 さらに漫才と加えることによって発展した芸能でした。 江戸時代より前からです。

傘の上に一升枡とか、土瓶とかそういった台所道具などを回す芸で発展していきました。 最初は毬を使って稽古します。 現在48歳です。 高校生の時に先生から就職するのに公務員で試験もないのもあると言うことを聞いて、それとは違っていましたが、国立劇場第1期生の募集がありましたので、それを受けて入ることになりました。 基礎的なことを2年半勉強しました。 

卒業後、落語協会に入りました。 うちの師匠翁家和楽の元で修行を重ねました。お正月は基本的に獅子舞をやりますが、末広亭の楽屋は狭くて足の踏み間もない位でした。 獅子が置いてあったのを取ってくれと言われて、獅子頭跨いでしまいました。 そうしたら師匠から明日からもう来なくていいと言われました。獅子頭は神様です。 師匠がよく言ってたのは、「お金のため、自分の立身出世のため、名誉とか、自分の私利私欲のために太神楽を使ったやつは神様からバチが当たってろくな事は無いから。」と言われました。 「程を知れ。」と言う事は師匠からよく言われました。

太神楽の演出は必ず神様に向かってお願い事をする儀式的な部分(舞い)があります。  その後お客様に対して楽しませる部分があります。 この2つがセットで初めて神楽になります。 神様に対するお願いと、人々に楽しんでもらうということです。 

経歴は27、 8年になります 寄席では基本的には真打と真打の間にやります。  ですから、自分でも真打芸をやらないといけないと思い、これが大変でした。   おしゃべりもしますが、太神楽でしか起こり得ない面白いことを心がけています。 噺家さんの邪魔にはならない笑いを心がけています。  失敗した場合など、それを笑いに変えたりしてます。 太神楽と言うのは、舞いがあって、獅子舞いとか、神楽があって、その間に曲芸と茶番と最後に獅子舞があります。 太神楽を復活させ10年やって来て、これがだいぶ出てきてきましたので、次は神楽だけで会をやりたいです。






2026年4月28日火曜日

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

富士真奈美さんは静岡県の出身。 1956年に女優デビューしました。 以来幅広い役柄で活躍しています。 一方長年親しんでいる俳句の世界では、句集を出版したほか、選句や選評も務めています。 

吉行和子は私の家から歩いて15分の位のところですが、亡くなるまで3年会っていません。 お互いに大親友だと思っていました。  俳句をして月1回ぐらい会ってたんですが、突然なくなってしまいました。(去年92日) びっくりして1週間ぐらい寝込んでしまいました。 岸田今日子ちゃんとは18歳位からのお友達です。  野球、相撲などに一緒によく行きました。 和子っぺは料理が嫌いでしたが、私は好きでした。 或る時に「一緒に暮らさない」と言われたが、冗談だと思っていたが、今考えると本気だったと思いました。 亡くなってしまってからなんで、そうしようと言わなかったんだろうと思いました。

デビューはNHKのテレビドラマからスタートしました。「この瞳」の主役に抜擢されてデビューしました。 (70年前)  或る時、大山のぶ代さんから一緒に暮らさないかと言われて、ついて行って2 3年は一緒に暮らしました。 まだドラえもんの役に巡りあう前でした。 1970年、「細うで繁盛記」に出演しました。 私は伊豆の人間なので、方言の指導などもしました。 舞台は伊豆の旅館で、若いお嫁さんとして来たのが新珠 三千代さんでした。その新珠 三千代さんをいじめる小姑の役でした。

女優の忙しい時期に結婚しました。 女優として第一線から退きました。     娘が生まれて一緒にいる時間がすごく楽しかったです。 離婚したときにはこんな自由ってあるかしらと思うほど、今日子ちゃんと和子っぺと一緒に遊ぶようになりました。 女優業に復帰しました。 和子ペは「本当にあなたのおかげで、離婚したおかげで、私の後半生がぱっと開けたのよ。」と言ってくれた時は嬉しかったです。

俳句は14 、5人でやるんですが、みんな仲良しで感覚が一緒の人たちってやっぱり親族の次に仲良しになれるかなぁと思います。 和子は「結局、ボーイフレンド、最後の男友達は句会の仲間かな。」と言ったけど、好きとか嫌いとか感情を抜きにして、淡々と付き合えて、俳句を仲立ちに友達になると言うのはすごく強いものがあります。 最初は、中村汀女先生とテレビ句会に出ました。 黛敏郎さんとか、谷川俊太郎さんとかと一緒に出ました。 俳句をやったらいいんじゃないかと言うことになりました。 毎月1回必ず句会をやっていました。

最近はずっと作りませんでしたけれども、和子が亡くなったときに、一句作りました。 「とこしなへ夢見る一人静かな」 

アグリさんのお葬式のときには、「ゆすらうめ乙女の夢を想うまま」と言う色紙を書いたんですが、それをアグリさんの「お棺に入れておいたよ。」と、和子が言いました。 俳句やってて良かったなと思いました。 私の俳号は衾去(きんきょ)です。  「おしとね下がり」という言葉がありますが、おしとね下がりのつもりでつけました。 佐藤愛子先生から、「あなたは俳句はいいけど、「おしとね下がり」なんてよくないわよ。」と言われちゃいました。 

和子っぺは「窓烏」上手くなったら「そうう」と言うふうに言おうと思いますが、今は「窓がらす」と言っていました。 京子ちゃんは「眠女」(みんじょ)といいます。 俳句を上手くなるには、名句を暗記していくことだと言われました。    俳句っていうのは、作っておけば日記みたいなもので、その日の様子とか環境とかまざまざと浮かんできます。 俳句を作るのと言うのはいいと思います。     俳句作るようになったら、自分について1番考えるようになりました。

「百合開く闇一寸の吐息かな」 句集の中からこれが好きだと言われました。

「明日開く百合一輪結ばれる」 百合の句は一杯作りました。

本は小さい頃から好きでした。 最近も俳句に関わるような本を読みます。    食べ物は好きなものを気ままに食べてます。 手紙を書いたりするのも好きです。 電話とかは苦手です。 家のものを片付けたいとは思いますが、いろいろ思い出があって、なかなかそういうわけにはいきません。








 

2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。









2026年4月26日日曜日

宮本益光(バリトン歌手)          ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

 宮本益光(バリトン歌手)  ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

宮本益さんは、愛媛県八幡浜市出身。 東京芸術大学卒業、東京芸術大学院博士課程を終了。 オペラの日本語訳詞とその方法論で学術博士号を取得しました。  二期会オペラ「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビュー、その後新国立劇場、鹿鳴館や神奈川県民ホールのオペラ、金閣寺などで高い評価を受けました。 また、作曲、訳、演出などでも活躍、現在は桐朋学園大学教授、東京芸術大学講師として後進の指導にもあたっています。  2018年からは「モーツァルトシンガーズジャパン」を結成、これまで7作品を上演しています。 歌い手として活躍しつつ、オペラに関して様々な分野にも光を当て続ける宮本益光さんに伺います。

与えられることが自分を活かしてくれると言う思いでもありますので、教えることも舞台に立つことも自分を活かしてくる糧として、私は大切にしたいと常々考えています。 53歳です。 歌手なので、少しの不調が喉に現れたり、歌に影響することがあるので、体調は人一倍気を使っています。 

子供の頃から音楽教育は全く受けていませんでした。 小学校の4年の時の先生が鼓笛隊を作ることになりました。 そして、のめり込んできました。 トロンボーンをやるように言われて、選ばれて音楽の才能があるんではないかと勘違いをしました。  全てが楽しかったです。  女の先生の影響力が多かったです。  歌を歌う事は嫌いでした。 中学では吹奏楽部に入りました。 音楽の先生になると言う思いがありまして、高校に入って嫌いだった歌を克服しようと言うことで歌を専攻しました。  

愛媛大学では、教授の素晴らしい先生に出会えました。 高校時代に愛媛県のコンクール、四国のコンクールに出ましたが、毎回最下位でした。 1位の方が東京芸術大学に入学したと言うことを知りました。 私も東京芸術大学に入りたいと思って、先生に話したら東京芸術大学に受かるわけはないと言われました。 親を説得して3浪まですれば受かると言うふうに言って受けることになりました。    なぜか現役で受かってしまいました。 両親は中学を出てすぐ働いていたという事もあって、子供たちにはやりたいことを、与えられる範囲の中で好きなようにやりなさいと言う後押しは凄く感じていました。

回りからオペラを見に行くと言うふうに誘われましたが、オペラを見に行くと言う事はなんだろうなと思いました。 その劣等感が自分を推進する原動力にはなりました。 教育者になりたいと言う夢があったので、指導教官が博士号を取る手段があると言うふうに言われ、博士課程を受けることになりました。 日本語を音声学から研究しようと思いました。 それをオペラの研究に落とし込むには訳詞が良いのではないかなぁと思いました。 オペラデビューは24歳の時の広島オペラルネサスでした。 2004年に二期会の「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビューしました。 

*モーツァルトオペラの「フィガロの結婚」から「訴訟に勝っただと?」

モーツァルトの作品はほとんど長調で書かれていて、順次進行の作品は推進力があります。 悲しいものも長調で描く。  躍動と煌めきに満ちています。     「モーツァルトシンガーズジャパン」というグループを作りました。 自分たちを作ってくれたモーツァルトの作品と言うものが、心の中にずっと座ってくれています。 それを上演する機会を持ちたいと思いました。 それで活動を開始しました。22作品を全てピアノ伴奏で声楽に特化もしたものとして、レコーディングしてモーツァルトの生涯を追ってみたいと思いました。

「モーツァルトシンガーズジャパン」として、ザルツブルク音楽祭に呼ばれたいとと言う思いがあります。  演じることが好きで、演じることは自分を発見することにすごく似ていて、舞台の上で自分と違うことをやるので、演ずることがより楽しくなります。  「金閣寺」 1つの放火と言う事象が、三島由紀夫の中の文学性、芸術性を刺激したわけです。 私が演じるときに美と対峙している。 美を自分を凌駕するために放火すると言う三島的な発想がありました。 そこに至る葛藤を体現するために、私は何度も金閣寺に行きました。

訳詞の他に自身で作詞もします。

*「うた うたう」 作詞:宮本益光 作曲:信長貴富

良い出会い、良い仲間、良い指導者に導かれて今に至ってるなと思います。






2026年4月25日土曜日

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖 

NHKでは上質なドラマとして人気を博しているBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」でも主要キャストして出演を重ねてきました。 栃木県生まれ、大学進学で上京した頃は唐十郎の「状況劇場」などアンダーグラウンド劇の全盛期、1980年代前半には、劇団「ブリキの自発団」を結成しました。 その後も2010年に第18回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞するなど、当時の熱い思いを潜ませて全身全霊で芝居に向き合ってきました。 その確かな存在感はどのように育まれたのでしょうか。 アングラ演劇の魅力、そして今も呪われているとおっしゃる芝居の面白さ、奥深さについてお話を伺いました。

「ジン・ロック・ライム」と言う芝居で、ソロシンガーとして一時期は華やかだったんだけれども、今は少し落ち目になっている主人公の男の人がいて、その主人公の彼はある時、ライブでお客に対して「お前ら俺を消費しているんだろう」と言う言葉で抜倒したりします。 (それが最初のシーン) 今回の舞台はもともとはイプセンの作品です。 「ヘッダ・ガーフレル」と言う面白い作品です。 人間と言うものはわからないものだと言うふうにおっしゃってます。 それを下敷きにして今回は新しい芝居にしました。 若い人の今の生きづらさ、そういうものに作者は寄り添ってるんだと思います。

NHKBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」で老舗和菓子屋さんの女将をずっと演じてきました。 放送が始まったのは2015年、11年になります。 最初に依頼があったとき、京都弁は大変だと思いました。 京都弁は難しいです。 ひたすらやるんです。 やるしかないんです。 やって大好きになりました。 「京都人の密かな愉しみ」は美しい宝みたいなものです。 着物を着て正座するわけですけれど、膝が悪くて厳しいんですが、朝から晩までしてます。 立ち上がれなくなっちゃう位です。  それで京都弁なんで地獄みたいなものです。

1980年代初頭に劇団「ブリキの自発団」を設立しました。 小さい頃は映画が好きでした。 映画館が遠い親戚なので毎日見ていました。 本も好きで、世界文学全集を買ってもらって読んでました。 今も変わらないです。 大学で東京に出てきました。 私たちの若い頃は、みんな何かをするような風潮でした。 熱気がありました。 いろんなことにみんな興味を持ってそれを表現することにあまり躊躇しないで、みんな乱暴にやれたと言う時代でした。 60年代70年代でした。

最初劇場へ見に行って「状況劇場」いうのがあってそれを見てびっくりしちゃいました。 世界がひっくり返りました。 見てかっこいいと思いました。  大学を出て、芝居やるしかしょうがないと思いました。 会社の試験を受けて受かっちゃいました。 41日が入社日でした。 自由劇場の入団試験がありましたが、その結果発表も41日でした。 入社式で代表で挨拶しました。 昼の合間に結果を見に行きました。 自由劇場では何百人受けて、そのうちの5人が受かったんですが、その中に私が入っていて、電話で会社に私やめますと連絡しました。

入って研究生として活動しましたが、面白くありませんでした。  自分で劇団を作りたいと思うようになりました。 それが「ブリキの自発団」です。 アメリカのフリップ・K・ディックと言うSF作家がいますが、私は心酔していました。   それを本に書いて上演したいと思ってやりました。 ハードボイルドが好きです。ディックには人生の悲しみがあります。 

心が動かないとつまらないから、そういう機会を自分で求めます。  映画を見たり、本を読んだり、好奇心も強かったです。 当時のアングラの様子は、芝居って事件なんで、事件が起きればいいと思います。 見る方もやる方も喧嘩腰なので熱くなります。 熱気がすごかったです。 映画、芝居、音楽、絵などそういうものって人を呪うんじゃないんですか、取り付かれてしまったら離れない。 今も多分どっかで取り付かれてますね。 ふんわり呪われてる分には幸せに思います。 

私は役になると言う感覚が、自分では薄い人間だと思ってましたが、ある時私はなっちゃうんだとわかったんです。  芝居の世界観みたいなものにずっと入る人間なんです。 芝居の場合はその役を獲得するためには稽古するですね。 芝居の相手と交流する。 考えないでいようと思っても、作品を常に朝から晩まで考えちゃいます。 四六時中考えるタイプです。 だから、調べることがたくさんあります。  稽古なんかはあんまり好きじゃないんですが、芝居をしてる時は誰にも負けない位楽しいです。