2020年10月31日土曜日

若山三千彦(社会福祉法人理事長)    ・最期まで"自分らしく楽しく"

若山三千彦(社会福祉法人理事長)    ・最期まで"自分らしく楽しく" 

若山さんが運営する施設の中には、全国でも珍しいペットと一緒に暮らせる特別養護老人ホームがあります。  ホームの犬や猫の多くは入居者が自宅で飼っていたペットです。 若山さんが施設を運営することで大切にしているのは「諦めない福祉」、ペットと暮らせる施設も「諦めない福祉」から生まれました。   入居者の願いに寄り添い最後までその人らしく楽しく暮らしてほしいという若山さんに伺いました。

自分の愛犬、愛猫と一緒に暮らせるというのは本当の安心になっていると思います。    今施設では犬猫10匹づついます。  保護犬、保護猫もいます。  嫌いな方もいますので4階建てになっている2階だけを犬猫の飼えるようになっています。  3,4階には犬猫は入らないようにしています。  2階には40名の人が暮らしています。

特別養護老人ホームとしては全国的にも特別です。 見学にも全国から来ます。      訓練を受けたアニマルセラピーとは違います。

高齢になって介護が必要になるといろんなことを諦めなければいけない、代表例がお風呂に入ることです。  又外出で旅行に参加することも出来なくなる。

介護の役割は本人ができなくなったこと、諦めていることを我々がサポートすることによってもう一度できる事になる、それをサポートすることが介護の役割だと思っています。  それが私たちの「諦めない福祉」なんです。

福祉の役割は生きる事の助け、最低限の生活を保障することだといわれるが、生活の質を高める事、楽しい暮らしをサポートすることも福祉にも必要だと考えています。      料理の質には非常に力を入れています。  今だとマツタケも出したりもします。    ドクターストップが無ければ毎日酒を飲む人もいます。

今年はコロナで駄目ですが、昨年までは毎月のようにいろんな外出行事をやっていました。

ペットを受け入れるようなきっかけになったのは、このホームの建設を計画し始めたころで、在宅介護の分野で10年間在宅ケアをしていた80代の男性がいます。   その男性はミニチュアダックスフンドを飼っていました。  身寄りもなくワンちゃんとは一心同体の様な暮らしをしていました。  老人ホームに入ることになり、ペットを連れていかれないという事で泣く泣く保健所に連れて行くことになってしまいました。  伺うと毎日泣いていて「俺は家族を自分で殺したんだ」と自分を責めて、生きる気力をなくして半年しないうちに亡くなってしまいました。  

このことがあってペットと一緒に暮らせる養護老人ホームにしようと思いました。

ホームを開設してから8年半になります。

犬や猫と一緒に暮らせることがとても大きな力になっていると思います。  末期がんで余命3か月で愛犬と一緒に入ってきた方がいますが、片時もなく一緒にいて、医師の予想をはるかに超えて長生きして愛犬に看取られて亡くなりました。

入院をきっかけに認知症になり、退院後愛犬ココ君のことはわからなくなっていたが、又一緒に暮らすようになってからそのうちにココ君のことが判るようになりました。 認知症の改善になり、ご家族も驚いていました。

高齢者を幸せにするには伴侶である犬や猫と一緒に暮らすことがその方の幸せになる、それを「伴侶動物福祉」と言っています。

「文福」という保護犬ですが、一緒に暮らしているユニットの人が老衰で亡くなるのを察知して寄り添って看取るという活動をします。  亡くなる少し前になるとベッドにあがってその方に寄り添って枕もとで看取ってゆくんです。    もうこれまでに10人以上の方を看取ってきました。  誰も教えてはいないんですが。  普段は明るい犬です。

なかなか外出できない方がいましたが、その方は漁師をしていてその港に行きたいという話をしていて、亡くなるのも近いという事でなんとか思い出の港に連れて行かないかを考えて、「文福」が一緒に行くことでそれが可能になりました。 帰ってきたときには血中酸素濃度が向上するなど体調がよくなっていました。  ご家族はよかったと涙を流していました。

「文福」のことですが、保健所では1日ごとに犬たちが入っている壁が移動して隣の部屋へと追いやられて行って7日目の部屋が殺処分される部屋で、「文福」は殺処分される前日までの部屋に行ってしまっていました。   壁の向こうからは命を失う犬の悲痛な叫び声が聞こえてきたんです。  そういったところから助け出されたので、想像ですが、「文福」は死という事に敏感になって一人で死んでゆく恐怖を体験したので、入居者が一人で死ぬことが無いようにと看取っているんじゃないかなと思います。 「文福」は最初にうちに来た時からはじけるような生命力を感じました。

両親がボランティアが趣味で幼いころから福祉施設でボランティアをやっていて、自分たちの理想の福祉施設を作りたいという事で夢を持っていました。  父が定年をきっかけに全財産を掛けて社会福祉法人作っていいか聞いてきたので、私も働いていたので、賛成しました。

両親は負荷も多くなってSOSを求めて来ましたが、先生の職を辞めるわけにはいきませんでした。   しかし高校3年生の担任をしていましたが、生徒が交通事故で亡くなってしまって、大きなショックを受けました。  クラスメートが亡くなった生徒の分まで自分たちも頑張ろうと、学校の了解を得て夜9時まで教室に残って生徒が一丸となって受験勉強をし、私も一緒にサポートしました。  当時30代でしたが、教師としてやり切ったという感じになり、両親の夢を手助けしようという思いになり福祉施設へと向かいました。

高齢者のデーサービスセンターを作りましたが、見学先で高齢者がデーサービスセンターで介護を受けることはわかるんですが、何をして楽しむのかという事の回答が返ってきませんでした。

そこで「諦めない福祉」、「高齢者が楽しく生きるための福祉」を思いついたんです。  将来自分が入りたい施設、自分の親を入れたい施設を目指しています。














































2020年10月29日木曜日

香川照之(俳優)            ・【私のアート交遊録】昆虫大好き

香川照之(俳優)            ・【私のアート交遊録】昆虫大好き 

芸能界きっての昆虫好きとして知られる。  ドラマや映画で活躍する一方で国立科学博物館で開かれた特別展昆虫のオフィシャルサポーターに就任したり昆虫デザインの親子向け洋服ブランドのプロデューサー、文科省の子供の教育応援大使も務めています。   さらに昆虫の世界の多様性や自然界の豊かな世界を伝えたいと絵本のシリーズもスタート、中でも昆虫の魅力を子供たちに発信するETVの「昆虫すごいぜ!」では回を重ね、NHKスぺシャルにも展開して子どものみならず大人たちにもファン層を広げています。   昆虫の生態を深く見つめるところから人と自然との関係や命の意味にまで眼差しを注ぐ香川さんに昆虫への思いや、その魅力について伺いました。

54歳ですが、子供と言われる年齢層からは興味の対象外ですが、子供たちからの反響をじかに感じることができます。

カマキリの被り物をして番組宣伝しますと言ったら、どんどん大きくなってそれを見ていたETVの方が、という風になっていきました。  好きだった昆虫のことを真剣に語っているだけで、それと被っているものが変だという事で、子供たちの琴線に触れたのだと解釈していますが。

子供のころから飛んでいるものを捕獲して、手の中において感じるのが好きでした。   カマキリの観察なども好きでした。

生きるという本能だけを見たいので、昆虫はコアの部分だけで生きていて、昆虫ならば安全に観察できる。

夏は静岡の親戚に行っていて、静岡では昆虫の種類が圧倒的に多かった。   

子供のころ母親がいっぱいカマキリを捕まえてきてくれていて、後になって22,3歳の時に太秦の東映撮影所に行ったときに、スタッフからよく君のお母さんからカマキリを獲らされたと言っていました。  母親が直に獲っていてくれていたのではなかったことが判りました。 

カマキリとの最初の出会いは覚えていないです。   

カマキリのエサの取る仕草、食べ方とかを集中して観察していました。

見てきたから昆虫のイラストが描けるが、猫とかなど描けないです。  白板へ書くという事もいろいろ駆け引きをしながらやっています。

カブトムシの育成、今の時期ぐらいから孵化しだすので、土を丁寧に変えないといけないとか、幼虫からさなぎになって成虫になるまでには大変な作業なので、だからこそ成虫になった時はうれしいです。

昆虫の変態には感動します。  どれだけの変化なのかというのを伝えたい。  変化の自覚があるのかどうかとか、一体どうなっているのかと思います。

蝉も鳴き声をどうやって習得するのかとか、鳴かなきゃいけないのかとか、人間よりもよっぽど本能が強いと思います。    

蝉の幼虫でいる期間の意味は何なんだろうとか、それに比してあまりに短い鳴いている時間が、彼らにとっては短くないのかもしれないし、もしかしたら鳴いている時間のほうが長く感じているのかも知れない、と思ったりします。

カマキリのオスは交尾の時にメスに食べられてしまうという事に関して研究してきましたが、そういう例もあるが意外に食べられない、オスはそれほど馬鹿ではないという結論に達しました。 メスは食欲しか持っていなくて、オスは食欲のほかに交尾をして子孫を残すという欲を持っていて、動くものを見たときに違う見方ができる。  これはメスだ、オスだ、これはエサだという見方をするが、メスは動くものをエサだとしか見ない。  メス同士の食べる姿を見てきました。

地球上では一番昆虫が多い。  昆虫にはとめどもなく面白い材料が転がっています。  蜂は精子を入れたらメスで卵子だけではオスになることを女王バチは知っているわけでどういう頭をしているのかと思います。

人間なんて何億年もあとに出てきたくせに、何の断りもなく環境破壊をして昆虫としてはかなり怒っていると思います。   人間は地球に一番最後に出てきて、それまではルールを確立していたのに人間はそのルールを破っていないかという事、ルールを守らないことに対して警鐘を鳴らしているのではないかと思います。   

子供たちからは欠落するような哲学的、宗教的、難しかったりするような話も、子供たちがどうして聞いてくれるのかが僕にもわからないです。


獲った昆虫はその場で後で放してやります。    生と死があることを子供のころから意識してもらいたい、子孫を残すために昆虫が成虫になるのは孵化不全で死んだり、ほかの虫、鳥,カエルなどに食べられたり、1%ぐらいなので、1%ほどの成虫を人間が又殺したくないという事は今思っていて、いいメッセージだと思っています。

絵本2冊出しまして、今度3冊目を出します。   昆虫をモチーフにした子供服の会社を2年前に立ち上げて、9匹の虫をテーマに出しました。  まずはホタルから始めて、カブトムシ、ハナカマキリという風にして、それぞれにテーマを持っていて重いテーマになっています。   地球の環境破壊とかいろいろあります。   昆虫と接するたびに、気候変動、環境問題、今後人間がなすべき方向性を昆虫採集を通してでも見えてきます。

お薦めは3冊目の「カマキリのシャルロットとすずらんでんわ」という絵本で、環境問題について人間に聞いてほしいという本でメッセージ性が強い本です。  



















2020年10月28日水曜日

加藤孝義(サボテン村村長)       ・【心に花を咲かせて】サボテンは最高!

加藤孝義(サボテン村村長)       ・【心に花を咲かせて】サボテンは最高! 

岐阜県にサボテン村というところがあります。   その村長がサボテン栽培を仕事としている加藤孝義さんです。   仕事も趣味もサボテンだという加藤さんは子供のころからサボテンが大好きで、好きが高じてサボテン栽培を始め様々な困難に見舞われたもののそれを乗り越えてサボテン栽培量日本一となってサボテン村を作ったそうです。 現在75歳になるサボテン村の村長の加藤さんにサボテンと共に生きたこれまでの人生をお聞きしました。

面積は10万平方メートルでハウスも100mのものが150本あります。 全部サボテンが入っています。

500万本、種類も300種類あります。  私の知る限りでは世界一です。 日本のサボテンの7,8割になります。

小学校5年生の時に家の玄関のところにサボテンがありました。(魔除け用)  黒いものが伸びてきて毎日見ていたら先っぽに白いものがでてきて、ずーと見ていたら花が咲いて感動しました。

サボテンを集めようと思って小遣いを貰ったり、お年玉を貰ったりしたらサボテンを買いました。   病気になって何が欲しいと言われるとサボテンと言ってサボテンを買ってもらいました。

とげ、形に魅力を感じました。  当時は100種類を持っていました。 

農家で長男で跡取りでした。  家では米の生産と養豚業をやっていました。

どうせやるならサボテンをやりたいと親に言いましたが、親戚を含めてみんな反対でした。

途中であきらめるだろうという事で親が認めることになりました。 紙に「サボテン日本一になる」と書いて、自分の寝ている天井に貼り付けました。 毎日見ることになります。

繁華街の途中にお寺があり門前を借りて、露天商をしました。  よく売れました。

大阪の蘭を販売している人から話があり、一緒にサボテンを売ってもらうことにしました。そうしたら沢山売れることになり、作る量を増やしていきました。    面積が足らなくて、アメリカに行こうかとも思いました。   サボテンを見にアメリカのカリフォルニアのほうに行きましたが、日中は40℃、朝方は薄氷が張るぐらいでした。  サボテンはそんな環境に我慢しているという事でした。

サボテンの歴史を調べてみたら、砂漠では雨が降らない、日照りが強くなり、葉っぱから水分が抜けないように葉っぱをぐるっと丸めることを覚えた。  サボテンは雨が降ったらため込むために水タンクを作って、サボテン以外は枯れてしまった。   丸めた葉っぱをトゲに進化をさせた。   雨が多くて湿地帯になったり、池になったり、湖になったところではサボテンは浮き藻になっていった。  順応できる賢い植物です。

元々サボテンは肥沃のところにいたはずだと思って、そういう環境に植えたら大きくなるのではないかと考えました。   水田に土をもって畝を作ってサボテンを植えました。 1年で3倍のスピードで大きくなり花もいっぺんにパッと咲くようになりました。  飛ぶように売れました。

大雨で長良川が決壊した時には水没してしまいました。 元気なサボテンが全部腐ってしまって、辞めようかと思ったが、天井の文字を見て、又ゼロから始めました。

ある程度回復しましたが、時代が変わってあまり売れなくなってきてしまいました。   食卓に置くようになってきて、食器を使ったらどうかと思ってそれにサボテンを入れてドライフラワーを差し込んだりして、花屋さんに持ち込んで試験的に売ってほしいとお願いしました。  全部売れて、若い人はインテリアとして購入、それを全国的に展開して、爆発的に売れました。  毎日1万個作っても間に合いませんでした。 1年間で200万個売上ました。  ブームは3年ぐらい続きました。

苦労したのはブームになる前、昼間は仕事をして夜トラックで市場に疲れていって、おばさんが仮眠施設があるから休んでいってくださいと言って、缶ビールとパンをくれて・・・・涙が止まらなかったです。(泣きながら)

住所をサボテン村にしたかった。  役所に行ったが駄目だと言われて10万平方メートルだったらどうかと言ったら、どうせできないと思ったらしくそれならばいいという事になり、サボテン村計画を立てました。郵便物もサボテン村で来るようになりました。

小さいのはサボテンの種が発芽して1mmぐらいで、大きいもので丸いものは直径1m、ハシラサボテンは大きいものは高さ3mぐらいになります。  サボテンは全部花が咲きますが、3年で花が咲くものもあれば、10年、50年経たないと花が咲かない種類もあります。  いろんな色の花が咲きます。  冬は暖かい赤い色系統、5月は黄色系統、夏になると白い花が主体になります。  咲いている期間が短く1週間持ちません。

アメリカではサボテンを炒めたり煮たり焼いたりして食べます。  中国では薬草として万能薬のように使われます。  東南アジアではフルーツというキーワードがあり、ドラゴンフルーツはサボテンの実です。

サボテンの魅力を多くの方に伝えることが私の仕事かなあと思います。





2020年10月27日火曜日

三遊亭白鳥(落語家)          ・俺の創作落語はおもしろい

三遊亭白鳥(落語家)          ・俺の創作落語はおもしろい 

新潟県上越市出身の57歳、新潟県の高校から日本大学芸術学部を卒業、学生時代は落語を知らないまま過ごしました。  ある時古今亭志ん生の著書「貧乏自慢」を読んで落語に興味を持ち、その後TVで三遊亭圓丈さんの落語を観て感動、1987年に圓丈師匠の弟子になり、前座名「にいがた」で落語の世界に入りました。 1990年に二つ目に昇進、2001年に真打に昇進し「白鳥」と改名しました。   その後春風亭昇太さん、柳家喬太郎さん、林家彦いちさんなどと一緒にSWA(創作話芸アソシエーション)」という名前で新作落語の会としても活動しました。  およそ300以上の新作落語を作っている白鳥さん、創作落語の天才と言われ、その落語は噺家仲間から面白いと評判、とくに美内すずえさんの漫画「ガラスの仮面」をモチーフにした「落語の仮面」は人気の演目です。   また女性の落語家と一緒にウーマンズ落語会という勉強会を作り、新作落語を提供したり、指導したりと落語界を盛り上げてきました。

コロナの関係で次々にキャンセルがあり、一時期寄席も無くなってしまいました。  新作落語は300以上ありますが、寄席でトリを取るネタは100ぐらいはあります。

最初圓丈師匠からはあまり落語は教えてもらえませんでした。   派手な着物を着てもそれに負けない笑いを取るために頑張りました。  57歳ですが、新作落語は邪道だと馬鹿にされながらやってきて定めだと思ってやってきました。

新潟県高田で次男坊として生まれ、次男は軽く扱われえるのでとにかくここから出たいと思って一生懸命勉強しました。  TVのプロデューサーになりたくて日大の芸術学部に入りました。   うちは自転車屋の問屋をやっていて、1歳ごろに保育所に預けられて親とは会わなかった。   一人で物語を作りながらドラマを作っていたりしてそれが創作の源になっているのかもしれません。

高校では小説を書いてみんなに読んでもらったが、みんなが面白いと言ってくれて小説家もいいかなあと思いました。   冬場では友達が家に来て怪談話をしてそれが結構評判になりました。   

大学では空手部に入りました。   圓丈師匠は天才肌ですが、怒ると激昂してみんな弟子は物凄く怖がったが、僕は空手部だったので、殴られるわけではないのでそのうち終わるだろうと思っていた。  師匠は僕のことをずーと否定していましたが、半年か1年後には俺がこれだけ怒鳴っても平気なのはお前だけだ、お前を弟子にするといわれて、それから師匠と色々話をするようになりました。

大学時代に児童文学研究会にも入っていました。  そこで物を書く力も養うことができました。

新作落語を書いて、圓丈師匠から認められて弟子にしてもらったようなものです。

22歳の時に「貧乏自慢」を読んだら面白くて、急に落語家になろうと思いました。  寄席にいったり色々調べていたりして、TVでうちの師匠が新作落語をやっていて、弟子入りすることになりました。  あの本と出合わなかったら落語家にはなっていなかったです。

圓朝師匠以降は新作落語はくだらないと言われてきたが、圓丈師匠はくだらない新作ではない、哲学的というかある一部の知識人には理解してもらえるような新しい新作を生み出しました。   

1987年に入門、1990年二つ目昇進、1992年ニッポン放送主催「第7回お笑いゴールドラッシュ」で優勝。  優勝するとは思わなかった。  その後売れるかと思ったが、全然売れずに貧乏生活が続きました。   2001年(38歳)真打に昇進、  2005年 - 平成16年度彩の国落語大賞受賞。  古典落語を一生懸命にしている人にあげる会だが、白鳥版「火炎太鼓」をやったら何故か通ってしまいました。

2003年にSWA(創作話芸アソシエーション)」を結成、春風亭昇太さんの言い出しがあり声がかかりました。

2011年「ギンギラ落語ボーイ」を出版。  これを出すのに5,6年かかりました。

落語イコール面白いというだけではなくて、落語はうまいとか、ただ笑わせるだけじゃなくて、終わったあと面白かったと最後に客の口からでる芸人が最高なんや、覚えているかお前が終わったときの拍手を、といったことだと思います。

「芝浜」は圓朝師匠の作で、僕とやっていることと変わらないと思うが、ほかの新作はくだらないとずーっと言われるのが腑に落ちなかった。

僕の作った人情噺女相撲の話(「鉄砲のお熊」)を今度雲助師匠がしっかりとした古典に直してくれて、やってもらっています。   芸は残らないけどネタは残りますのでうれしいです。

女流の噺家さんの勉強会をやっています。  女流目線での話を作ってやり始めて人気が出てきています。



















2020年10月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】ひきこもりの絶望名言

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】ひきこもりの絶望名言

「家に引き籠ることは一番面倒がないし、何の勇気もいらない。  それ以外のことをやろうとするとどうしてもおかしなことになってしまうのだ。」   フランツ・カフカ

頭木:持病があるので2月からほとんど8か月引きこもり状態です。  20歳で難病になり13年間は引きこもりをしていました。  退院しても感染症にならないように、なかなか外に出られませんでした。   

ずーっと引きこもっていると、外に出るとなんかうまくいかないので、又引きこもってしまう。

「僕は一人で部屋にいなければならない。 床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、一人でいれば何事も起こらない。」     フランツ・カフカ

「どれほど期待されたものであっても訪問はいざとなると予想外で、ほとんど常に歓迎されぬものとなる。」                    ハロルド・ピンター

約束していた訪問日が近づくと段々嫌になって会う事を辞めてしまう。   

「一人でいられれば僕だって生きていけます。   でも誰か訪ねてくるとその人は僕を殺すようなものです。」                 フランツ・カフカ

「今日はお客があった。  とても感じのいい興味深い人にあったが不意打ちだ。    予告された訪問であっても十分に不意打ちなのだ。  こうしたことに僕は対応できない。                         フランツ・カフカ

「一人の男が部屋の中にいる。   やがて彼のところには訪問者がやってくるであろう。   部屋の中にいて訪問を受ける男はこの訪問によって何かを悟る、あるいはなにもわからなくておびえるかするだろう。   男が一人きりで部屋の中にいたという元の状態はある変化を被ったことになるだろう。   どれほど期待されたものであっても訪問はいざとなると予想外で、ほとんど常に歓迎されぬものとなる。」 ハロルド・ピンター

誰かがやってくることはドラマチックなことで、何も起きなかったとしても訪問は気持ちがかき乱されてしまう。  

世の中に客ほどうるさきものはない、とはいふもののお前ではなし」  玄関に張り紙がしてあった。                          内田百閒

頭木:人に会うのは好きです。 長く入院しているとお見舞い客しかいないので、いろんな人に会いたいと思いました。  しかし13年も引きこもっていると段々人に会うのも怖くなる。

「渇き行く足裏優し一匹の蟻すらかつて踏まざるごとく。」    中條ふみ子

戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。)

中城さんは病気で長く入院していました。  足の裏が蟻一匹踏んだことがないようにやさしいというのは、ずーっとベッドの上にいて歩いていないので、足の裏が柔らかくなって何も踏んだことがないような感じになったというような事ではないかと思います。    

 引きこもっていると足の裏が柔らかくなって綺麗になって行く。

「人は私に問うた。 2か月も病床にいたらどんなに退屈で困ったろうと。 しかるに私は反対だった。 病気中私はすこしも退屈を知らなかった。  天井にいる一匹のハエを観ているだけでも、または給食の菜を想像しているだけでも十分に一日を過ごす興味があった。   健康の時いつもあんなに自分を苦しめた退屈感が病臥してから不思議にどこかへいってしまった。  この2か月の間私は毎日なすこともなく朝から晩まで無為に横臥していたにも拘わらずまるで退屈という間を知らずにしまった。 私は天井に止まるハエを1時間も面白く眺めていた、  床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。  実に詰まらないこと平凡無為なくだらないことがすべて興味や私情を誘惑する。」 萩原朔太郎 (「病床生活からの一発見」という随筆の一節)

(大正時代近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。)

出られないと観念してしまうと段々心境が変化してくる。  なんで退屈しなくなってゆくかというと、段々観察が細やかになって行く。   ずーっといた部屋なのに見ていないところはあるものだと思います。  引きこもることによって感覚の鋭い人になって行く。

何でもない平凡なことでもじっくり観察すると、無限と言っていいほど興味深いことが沢山ある。  萩原朔太郎は正岡子規の平凡な句を理解できなかったが、2か月病気をしたことで理解できるようになった。  

「私は引きこもっています。  そうしたかったわけではなくそんな生き方は想像したこともなかったのに。  囚人を地下牢に入れるように私は自分自身を部屋に閉じ込めてしまいました。  いまではもうどうやって部屋から出たらいいのか判りません。    例えドアが開いていても外に出るのが怖いのです。」

知り合いに書いた手紙の一節             ナサニエル・ホーソーン

ナサニエル・ホーソーンは大学卒業後12年間部屋にこもった。  たまには叔父さんと遠出したりしたことがあったが。

引きこもるのには多くの場合理由があるが、理由が無くなれば喜んで外に出そうだが、長くひきこもるとそうではない。   心身ともに部屋の中に適応してしまって外に出るのが怖くなってしまう。  

理由が無くなっても無理やり外に連れ出すのではなくて、すこしずつ慣らしていかないといけない。 (大江健三郎 「鳥」 短編小説  引きこもりの青年を騙して外に連れ出す。外でも無理だし、部屋の中の生活も無理になってしまう。)

「僕はしばしば考えました。  閉ざされた地下室の一番奥の部屋にいることが僕にとって一番いい生活だろうと。  誰かが食事を持ってきて僕の部屋から離れた地下室の一番外のドアの内側においてくれるのです。   部屋着で地下室の丸天井の下を通って食事を取りに行く道が僕の唯一の散歩なのです。   それから僕は自分の部屋に帰ってゆっくり慎重に食事をとるのです。」              フランツ・カフカ

 


2020年10月25日日曜日

岩渕慶子(コレペティトゥア・ピアニスト)・【夜明けのオペラ】

岩渕慶子(コレペティトゥア・ピアニスト)・【夜明けのオペラ】 

ピアニストでコレペティトゥアとして新国立劇場オペラ研修所で後進の指導に当たりながら、様々なオペラの舞台を支える岩淵さんに伺いました。

(コレペティトゥア:歌劇場などでオペラ歌手バレエダンサーにピアノを弾きがら音楽稽古をつけるコーチを言う。)

12月23日にコンサートがありますので、それに向けて稽古を再開するところです。

ピアノは4歳から始めて、大学受験の時に音楽を将来どのように生かそうか考えたときに音楽の先生になろうと思いました。  ピアノができるという事で玉川大学に進みました。  歌の伴奏を頼まれて、伴奏したらとても楽しかったんです。  大学卒業後伴奏の勉強をしようと思ってイタリアのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院ピアノ科に入学しました。    

イタリアの友人からコレペティトゥアって勉強になると勧められました。  ピアノを弾きながら歌います。  言葉の勉強もします。  オーケストラでの歌が入るときの指導とかもします。  その後ボローニャ市立歌劇場付属オペラ研修所で研鑽を積みました。(2年)

その後ドイツに行ってコレペティトゥアの仕事が増えていきました。

説明しなくては行けなくてコレペティトゥアの仕事でドイツ語は凄く苦労しました。

レオ・ヌッチはバリトンの先生と友達で、スカラ座でリサイタルをしたときに私も同席しましたが、素敵だなと思って、先生はレオ・ヌッチに手紙を書いたが、レッスンの伴奏をしていたときにレオ・ヌッチから電話がかかってきました。  2018年にレオ・ヌッチが日本に来て「椿姫」の舞台がありましたが、直接私が話す機会がありそのことを話しました。

*「セビリアの理髪師」から「私は町の何でも屋」  レオ・ヌッチ

ヨーロッパには9年いました。 (6年イタリア、3年ドイツ)

コレペティトゥアの試験は課題曲がいくつかあり、「フィガロの結婚」」の2幕のフィナーレを全部弾き歌いするとか、「カルメン」の五重章を弾き歌いするとか、ローゼンカヴァリエの弾き歌いするとかいろいろあります。

楽譜を与えられて直ぐその場で弾くとか、歌い手さんがいて伴奏してみてくださいと言われたりします。

語学は凄く苦労したので語学は耳を鍛えなければいけないと語学の先生に言われて、耳を鍛えるという事に力を入れました。  しゃべれるようになるともっと勉強したいと思うようになりました。

*「カルメン」から「花の歌」   ヨナス・カウフマン

イタリアはシーズン制でオペラは5,6公演上映されます。  ドイツはレパートリー制で何年も同じ演出のものを上演してゆくシステムなので30本以上のオペラが上演されます。

ドイツは忙しかったです。 ドイツは幅も広かったです。

コレペティトゥアをどんどん知ってほしいという事と、どういうものを勉強したらいいのか、ヨーロッパにでる前の基礎作りを日本でも出来たらいいと思っています。

*「ばらの騎士」      作曲:リヒャルト・シュトラウス 



2020年10月24日土曜日

松岡和子(翻訳家・演劇評論家)     ・【私の人生手帖(てちょう)】

 松岡和子(翻訳家・演劇評論家)     ・【私の人生手帖(てちょう)】

松岡さんは昭和17年生まれ、東京大学大学院修士課程修了後、大学教授を務める傍ら、翻訳家、演劇評論家として活躍しました。  松岡さんがシェークスピアの翻訳を始めたのが平成5年(1993年)で、平成10年から彩の国埼玉劇場で蜷川幸雄さん演出による、シェークスピアの全作品の舞台化を目指す壮大なプロジェクトがスタートして、翻訳を松岡さんが手掛けました。  書かれてから400年以上たった今も世界最高の劇作家と言われ、その作品が世界中で上演され続けていますが、そのシェークスピアの言葉に介護や看護など、人生の岐路で支えられたとおっしゃっています。  翻訳の醍醐味、作品の神髄を伺うと共にシェークスピアと共に歩んだ人生について伺います。

シェークスピアの全37作作品の完訳が年内に完成予定。  一番最後になったのが、4幕に入ったところです。(5幕で終了)  翻訳を始めたのは「夏の夜の夢」、でほとんど同時に「間違いの喜劇」が来て上演が「間違いの喜劇」が先になりました。  彩の国埼玉劇場でシェークスピアの全作品を蜷川さんの監修の元にやりましょうという企画が上がって、声がかかって1998年から始まりました。

それ以来27年になりました。  コロナには絶対避けようと思いました。

シェークスピアの時代もヨーロッパが全部ペスト禍に落ちていった。  「夏の夜の夢」、「ロミオとジュリエット」はペストの後かその間に書き始められただろうと言われています。

シェークスピアは詩を書いて貴族に献呈したという事はわかっています。

「ロミオとジュリエット」の内容にも疫病が絡んでいる。 ロンドンの状況が反映されている。

当時は検閲も厳しく、逃れるためのしたたかさもあり。人間観察が何よりですし、ひとりひとりを生かす力も凄いです。   独特の現代性をシェークスピアは持っている。

父が満州国の管理をしていたので私と妹は満州で生まれて、弟は引き上げの途中で生まれましたが、その時点で父は旧ソ連に抑留されて11年間いました。  父が生きているのが判ったのが私が中学生の時でした。

親戚の家になどに厄介になり、父が家を持っていたのでそこにようやく入りました。

貧乏だったので叔父から本を買ってもいいよと言われて本を読んだことがありました。

子供のためのギリシャ神話があり何度読んだかわかりません。 

シェークスピアとの出会いは東京女子大学英文科を卒業するまでに読んでおいたほうがいいと思って、「ハムレット」を読むシェークスピア研究会があり、そこでの出会いでしたが、そこで恥ずかしい思いをしてそこを出てしまいました。

翌年「夏の夜の夢」の劇をやるけれど、やってもらいたいと先輩から言われて、ボトムの役ということでしたが、内容も知らなかったし、ボトムも知らなかったので、「夏の夜の夢」の翻訳を読みました。

ボトムは職人仲間の出たがり屋で、ロバに頭だけ変えられてしまう3枚目中の3枚目だった。

結構受けてお芝居は楽しいと思いました。  今まで使用していた舞台装置を捨てるという事で、どこにもなくなってしまうという事が何か好きに思えました。

一般の翻訳と違って、戯曲の翻訳は原本を読んで、日本語にして、演出家、俳優に渡し、それを彼らが解釈する、実際に舞台で演じて生きた人間の言葉となって目と耳を通して観客に届く、そういうプロセスをとるというのが、戯曲を訳すことの最終的な醍醐味です。

一人一人のキャラクターの気持ちになって訳す、判らないときには違うレベル(作家の気持ちとか)から見るという事をやって解明してゆくことが面白いと思います。

このごろ注釈に命を懸けています。  小田島雄志さんの翻訳で育っているので、なんで新しい翻訳が必要なのか考えたりするが、私なりに読者への解読感のためにやり始めました。

夫の食道がんが判って、ハムレットのなかでの「覚悟がすべてだ」という言葉が私のおまじないになりました。  「雀一羽落ちるのにも天の摂理が働いている。  今来るなら後には来ない。後で来ないなら今来るだろう。  今来なくてもいずれは来る。  覚悟がすべてだ。」というんです。  主語がないところが奥深い。

夫の状態が全部が判らない状態だった時に、「覚悟がすべてだ。」これが出てきました。    死がいずれ来るが今覚悟してれば、いつ死んだって同じではないかと思いましたが。      去年の8月に夫は亡くなりました。

夫の介護の時間から離れるとシェークスピアの翻訳の世界にぱっと変わるのでむしろそれがよかったと思います。  在宅になっても看病をずーとしてきました。

10数年前から夫と一緒に乗馬を始めて、釧路にいって山を登ったり下りたりして本当に楽しみました。  翻訳が終わったら落馬してもいいぐらい乗りたいと思っています。












2020年10月22日木曜日

阿部直美(ライター)          ・おべんとうは人生を映すカガミ

阿部直美(ライター)          ・おべんとうは人生を映すカガミ 

お弁当から見える人生模様を書き続けているご夫妻がいます。  「お弁当の時間」と題する航空会社の機内誌のエッセーコーナーは13年間続く人気コーナーとなり、すでに4冊の単行本にもなりました。   カメラマンはHNKの番組「サラメシ」でおなじみの阿部了さん、ライターは奥様の阿部直美さんです。  直美さんは最近意外にも「おべんとうの時間が嫌いだった」という本を書きました。  中学生時代お弁当の蓋を開けるのが嫌でたまらなかったというご自身の体験をもとに、お弁当はその人の普段の生活を映し、もっと奥深い家庭環境や歩んできた人生をも映し出すといいます。  お弁当の取材を通してどんな世界が見えたのか、伺いました。

「おべんとうの時間が嫌いだった」という本は、逆に私しかこのタイトルはできないのかなという気持ちもあります。   子供時代はお弁当の時間が好きではありませんでした。  中学校時代からお弁当が始まりましたが、母が作るお弁当はちょっとしゅんとなるような感じでした。   前の晩の状況が判るような感じで、父と母は仲が良くありませんでした。  夕飯の残りが入っていて、昨夜の嫌な思いが蘇ってしまいました。

群馬の田舎で育って、家の環境とかもあり、飛び出してどこかへ行きたいという思いがありました。  小学校の時に映画「IT」を観てアメリカに行きたいという思いが募り、アメリカで生活したかったので、高校になったら留学しようと思って、中学時代は過ごしました。  YFUという留学の機関でテストを受けて交換留学しました。   カリホルニア州の効率の高校でした。 

マンモス校でいろんな国の子がいっぱい来ていて日本人でも珍しさはなく友達も作れませんでした。  お昼はカフェテリアにいつも行っていました。  

帰国して大学に行って東京で就職しました。  夫は友達の紹介で知り合いまして、写真家の立木 義浩さんのアシスタントを5年間していました。  食に興味のある人でした。

タイプが違っていて、私は誰と食べるかという事に興味がありましたが、料理そのものに興味がありました。

結婚して、その後夫は手作り弁当を撮るという事に目を向けていきました。

そのころ子育てで私は手一杯でしたが、「一緒に行く?」と誘われました。

撮影していろいろ話をすると楽しそうに弁当のことを話していて残しておきたいと思いました。

子連れで取材をするようになりました。  授乳しながら話を聞いた時もありました。

1週間から10日のルポ巡業しました。  誰が弁当を持っているかなどまるで分らない中、探すのが大変でした。  

10何年も前に始めたころは、なんでお弁当を撮りに来るのかという事でなかなか話が通らなかったので、どう説明したらいいのか難しかった。    兎に角ライターとして、そのうち本にしますという事で繰り返しやってきました。

航空会社の機内誌の「お弁当の時間」というコーナーに2007年から13年間続いています。 4冊書籍になりました。   私はお弁当よりその人に興味があり、その人が歩んできた道とか生き方とかが見えてきて、印象深いです。

熊本県の球磨川八郎さんは船頭をなさっていた方でした。 球磨川の手前側に小屋があり反対側に駅があり、駅を利用する人たちのために渡し舟をしていました。 車利用が多くなり高校生の通学の為だけになっていきました。  行った時には雨が多くて川の水位が上がってしまい取材ができそうもなかったが、ぎりぎり水位が下がってどうにか取材させてもらって、その数か月後に引退されました。  矢張りタイミングを逃してはいけない、という事を思いました。

海外のメディアから取材を受けることがあります。 シンガポールからきたレポーターの方に弁当を作って食べてもらうという場面がありましたが、日本のお弁当がすごく海外で知られてきて興味を持っているという事を最近凄く感じます。

中国の方からのインタビューで印象的だったのは、「日本人はすごく弁当にメッセージを込めたがりますね」と言われて、なるほどとは思いましたが、凄く面白い不思議だという風に言われました。

弁当は日常生活の延長線上にあるものと思っていて、日常生活がどうであるかという部分が大事であって、作る弁当もそうなりますね。 弁当の奥深さはやり始めて気が付きました、弁当を介していろんな方向に話が弾みます。




 

2020年10月21日水曜日

斎藤雅樹(プロ野球評論家)       ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論

斎藤雅樹(プロ野球評論家) ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論 

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団、1989年日本記録となった11試合連続完投勝利という記録を達成、平成初めの2年間で40完投、13完封を記録してミスター完投、平成の大エースと呼ばれるようになりました。  引退後は巨人のコーチ、2軍監督を歴任、2016年にはサムライジャパンU23代表監督も務めました。  投手人生を振り返っていただきながら投手論を伺いました。

通算勝利が180勝、完投が113完投、11連続完投勝利、沢村賞が3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、勝率第一位3回、ベストナイン、3年連続開幕戦完封などいろんな記録があり、2016年には野球殿堂入りを果たす。

11試合連続完投が誇りですね。  

野球は小学校5年生の時にリトルリーグに入ってキャッチャーをやっていました。  3人ピッチャーがいて自分が入れる余地はなかったです。 中学ではピッチャーと内野手の掛け持ちでやっていて、高校では1年ではセカンドで、ピッチャーもやりました。   高校2年生の秋に地方の高校と練習試合をやる時に投げることになり、その頃スピードも出てきました。

高校3年最後の夏で決勝戦で負けてしまいました。(1-3で負け)

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団しました。 1年目は1軍には上がれなかった。  藤田監督からサイドスローにという事を言われて、9月まで多摩川で練習していました。  腰の回転が横回転になっていると気う事で腕の振り方も合わせるという事でした。 

翌年デビュー、初登板で2/3回で降板して自信を無くて、2軍に行って、8月に復帰して4勝しました。  3年目は12勝しました。 フォームが身についてきて変化球も操れるようになりました。  平成元年(1989年) 藤田監督が戻ってきて、開幕2戦目に先発と言われて、投げれて自信にはなりました。 それからローテーションを守って行きました。 

大洋戦で投げて、8回にピンチになり投げ切って交代だと思っていたら、9回も行けと言われて完投できて勝って自信がついてその後11試合完投できました。

藤田監督時代は抑えはまだ確立していなくて、先発ピッチャーが元気で最後まで投げさせるような展開でした。  最近は役割分担がはっきりしてきているが、最後まで投げてベンチに帰ってゆくという事も何回も体験してくれたらいいと思います。

甲子園で連続完投の記録が途切れてしまいました。  

1994年10月8日 巨人ー中日戦で勝ったほうが優勝という大一番で、この試合の勝利投手になりました。   10月6日にヤクルト戦があり僕が投げて勝ったら優勝だったんですが、負けてしまって、最終決戦になりました。  先発は槇原さんでした。 長嶋監督は事前に槇原、桑田を呼んでいましたが、僕は呼ばれていなかったので、まさか投げるとは思っていませんでした。  敵陣の名古屋球場の雰囲気は異様な雰囲気でした。  先発の槇原さんは不運な展開になっていました。   2回裏2-2同点でノーアウトでランナーが1,2塁の場面で登場することになりました。   ベンチから「斎藤」と呼ばれて流石に嫌だなあと思いました。

この回を抑えることができて、5イニング投げ切って勝利投手になることができました。  あの試合を経験してどんな状況でも出来るというような自信を貰いました。  中途で内転筋を痛めてしまったが行くことになりました。  槇原-斎藤-桑田のリレーになりました。

チームのエースは任された試合にしっかり結果を出せるという事はもちろんですが、何年も連続していい成績を残すことがエースだと思います。

僕は直球、カーブ(スライダー)、シンカーが主な球種でした。

技術的なことで言うとコントロールだと思います。  自分で操れる球が多ければ多いほどいいピッチャーだと思います。  精神的なことを言えば度胸だと思います。

若い人にはいろんな人のいう事をしっかり聞くという事も大事ですが、自分に合っているかどうかしっかり試せるかどうか、言われたことを自分で考えて行動することが大事だと思います。














  

2020年10月20日火曜日

赤塚りえ子(現代美術家・プロダクション代表 ) ・笑いはパパの生きる表現~これでいいのだ!

赤塚りえ子(現代美術家・プロダクション代表 赤塚りえ子)・笑いはパパの生きる表現~これでいいのだ! 

日本を代表するギャグ漫画の巨匠と言えば赤塚不二夫さんです。  「おそ松くん」、「ひみつのアッコちゃん」、「天才バカボン」などの大ヒット作を生み出しましたが、2008年肺炎で72歳の生涯に幕を下ろしました。   今月「おそ松くん」が原作のTVアニメおそ松さんの第三期も始まってます。  赤塚不二夫さんの一人娘赤塚理恵子さんは赤塚さんの作品に関する著作権の管理などを行うプロダクションの社長として15年間赤塚イズムを伝えてきました。 りえ子さんが父から受け継いだものは何だったのか伺いました。

もしコロナ禍であっても、父はどんな状況下でも必ず面白いことを見つけて前向きに楽しむという毎日を過ごすと思います。

父はとにかく笑うという事、笑うという事は父の表現なんだと感じています。

父に怒られたことは全くなくてよく遊んでくれました。  褒め言葉が「バーカ」と言って、嬉しそうに愛情をこめて「バーカ」というんです。

アシスタント、編集者を交えてアイディアを出し合ってギャグを纏めてゆくやり方で父が指揮をしていきました。  面白いものはみんなが全部出しあいました。

自分が一番劣っていると思えば人の言葉が耳に入ってくるし、人は何でも言ってくれるよと言っていました。

「俺は笑われながら死にたい」ふっと言った事があります。 それが気になっていました。

笑われると笑わせるの違いは何だろうと思いました。  笑わせるは力が働くと思って、父は自然に場が笑っているみたいな、自分が下になって笑われたい、というのが父が目指していたのかなあと思いました。

8歳の時に両親が離婚しました。  6歳ごろには父は家にはいませんでした。

父は大好きでした。  中学生の時に父と会うことができました。  何も言えなくてただ泣きじゃくるだけでした。

18歳から20歳ごろはかなり頻繁に会っていました。  父の勧めで20歳の時にヌードになることになりました。  「いやだ」と言ったら「お前は赤塚不二夫の娘だろう、つまんねえな」といったんです、そうしたら「つまんねえな」が気になって、父をがっかりさせたくないと思って家に帰って母(2番目の母、眞知子)に相談したら、「有名な写真家の方に撮ってもらうんでいいんじゃない」と言われてやってみることにしました。

29歳の時にイギリスに行くことにしました。  イギリスの音楽が好きなこと、エレクトロダンスミュージックが大好きで、アートを勉強したいと思っていきました。

イギリスでは自由奔放にやれてよかったと思います。

2002年父が脳内出血で倒れてしまったと電話がかかってきました。 ショックですぐに戻りました。  一ヵ月ICUにいてその後普通の病棟に戻ってきましたが、コミュニケーションが取れない状態になっていて、目がこっちを見ないし重度の後遺症が残りました。

周りが父についのことを話し始めて、それを聞いてゆくうちに父は凄い人なんだと思うようになりました。

母(眞知子)は介護をしながら社長の仕事をこなしていって大変だったと思います。

私はイギリスに戻って、2006年の時に母(眞知子)がくも膜下出血になったという連絡が入りました。意識がなくなり、何時なくなるかわからないという状態で、すぐに日本に戻ってきました。 現実ではない感覚でした。  会社を継ぐという事にという話もありました。

12年間イギリスに住んでいましたが、夫は仕事があるので私だけ帰りました。

母(眞知子)は10日目に亡くなり、会社のことは全く分からないまま社長の仕事をやることになってしまいました。極限状態を支えてくれたのは大好きな父への気持ちなのかなあと思いました。

父とはコミュニケーションが取れないのですが、耳元で愚痴を言っていたら、いきなり目が私のほうを向いて、口をもぐもぐし始めて、「馬鹿野郎」といったんだと思いました。 最後の親子喧嘩だったと思います。

実母(登茂子)が子宮がんの末期だということが判って、実母(登茂子)とはなんでも話をしていたので、号泣してしまいました。  病院に着いたら意識がなくなっていました。 68歳でした。

実母(登茂子)が亡くなった3日後に父が亡くなりました。  手を握って「パパを愛しているよ パパ、パパ」と言ったらほとんど心拍数がなかったが、ぱっと戻って聞こえているんだと思いました。  そのまま亡くなりました。 72歳でした。 何が何だか分からないような状態でした。  私は栄養ドリンクも飲めないような状態まで衰弱してしまいました。

祭壇から離れられなくて泣いていたら、発売された「鉄腕アトムなのだ」という父の本がそこにあり、読み始めたらあまりにもくだらなくて、面白くて気が付いたらお腹から笑っていたんです、その時に笑うって凄いなという感覚と、悲しみの底をガーンと足で蹴って浮上した感覚がありました。  笑うって生きるエネルギーなんだという事を体感して、こんな悲しい状況でも人間って笑えるんだと思って、その時にパパってこれがしたかったんじゃないかと思いました。

過去、未来からも解放された瞬間という感じがしました。 笑う事がものすごく大切なんだという事を実感しました。

父の作品を通して皆さんに一人でも多くの人が楽しい気持ちになっていただければ嬉しいなあと思います。  どんな悲しい時でも人は笑えるんだと私は実感で思いました。





2020年10月19日月曜日

古今亭文菊(落語家)          ・【にっぽんの音】

 古今亭文菊(落語家)          ・【にっぽんの音】

1979年2月23日生まれ、学習院大学文学部卒業後落語の道に入る。  高校時代に何をしたいかわからなくて、日本映画学校に行きたかったが、親から駄目だと言われて、大学に行って、大学2年生のころに外部の劇団(文学座から分かれた劇団)のオーディションを受けて研究生として入りました。   フランスのコメディーをやってゆく劇団でした。   君がやると落語っぽいと言われてしまいました。  高校の時に古今亭圓菊を聴いて凄くよかったので、探して寄席とかホール落語に行きました。  大学卒業後劇団も辞めて師匠のところに弟子入りしました。

「付き馬」という話をTVで師匠がやっていて二人が明け方の大門を出てゆく吉原の情景に感動して、落語はお客さんを違う世界に連れていけるものなんだと感じたんです。

うちの師匠は入門のお願いに行ったときには74歳でした。   真打になるのには12,3年かかりますが、真打になる前に師匠が旅だってしまうと預かり弟子になってしまうのでお前を取るわけにはいかないといわれました。   断られたが何度も行きました。

私は10年で真打になることができました。  真打のお披露目をしている最中に師匠が亡くなってしまいました。

師匠は昔気質の考え方の人でした。  直弟子以外の人には優しい人でした。

刑務所の篤志面接員をやっていて刑務所に慰問によく行っていました。  入っている人には優しくて刑務官とか所長には怒鳴るんです。(なんだふんぞり返って・・・みたいに)

師匠は前座見習いの時に理不尽という環境を弟子に与えて生皮をはがざるを得ない状況を作っていくわけです。 前座見習いの時もそうですが、真打になっても師匠が旅立っていなくなっても、なにかしらの師匠の言う苦労が自分の前に現れて、自分がその苦労によって生皮をはいでゆくと、とっても苦しいが、それをやっていかなくてはいけない商売なんだろうと思います。

人前で芸と呼ばれる目に見えないものを、人に感じていただけるようになるのには、そういう作業を人生をかけてやりなさいと、そういう事だったんだと思います。

人を育てるという事には自信がなかったんですが、自分なりにやればいいのかなあと思って、今年の初めにそう思って、見習いを取ることになりました。

私の初舞台は鈴本でして、ほとんど何も覚えていないです。

2015年文化庁芸術祭優秀賞、2020年国立演芸場演芸大賞、受賞。

師匠は新作を少しでもやってしまうと、古典の空気感が消えてしまうので絶対に手を出すべきではないとずーっと言っていました。    私もいまだに古典をやっています。

古典のなかでもふり幅があると思うので、根底にある空気感は損なわれないようにして、すこし変えるという事はあると思います。

「蕎麦を食べる音」 「うどんを食べる音」など 師匠からは一切言われず自分で考えてやっています。  

日本の音とは、お茶のお稽古に行ってましたが、移り変わる四季の自然があり、茶釜の音、水の音、などから自然を感ずるという事で、四季を感じるのが日本の音だと思います。

日本の音の場合、律するほうに行くような音だと思います。 こじつけかな。  






2020年10月18日日曜日

小泉武夫(東京農業大学名誉教授)    ・【美味しい仕事人】発酵を暮らしに生かす

 小泉武夫(東京農業大学名誉教授)    ・【美味しい仕事人】発酵を暮らしに生かす

免疫力向上の効果が期待できる発酵食品に今あらためて注目が集まっています。 東京農業大学名誉教授の小泉さん(76歳)は長年にわたって発酵学を暮らしに生かす研究を続けています。 食文化の研究から発酵技術を地球にやさしい技術として幅広く活用する活動にも取り組んでいます。  27年続く新聞の連載や200冊近い図書の出版など文筆家としても活躍、さらに食にまつわる発明家の顔もお持ちです。 自らを「発酵仮面」と名乗る小泉さんに伺いました。

「発酵仮面」と共に「味覚人飛行物体」(未確認飛行物体ではない)とも自分で考えて名乗っています。 両方とも登録商標してあります。

1943年福島県の造り酒屋の6人兄弟の末っ子として生まれる。  1962年東京農業大学農学部醸造学科に入学、40歳で教授に就任。  酵母が増殖するときに水素電位を出すが(酸化還元電位)を使って、それを電極にして、電気エネルギーに変える研究をしました。  いい論文だといいう事で卒業時の成績は首席で学長賞を与えられました。

発酵の研究で世界40か国の地域に出かけました。  あまり食べられないような蜘蛛とかいろんなものを世界各地で食べてきました。  大学で最初にした仕事は世界の中の発酵食品の研究、食と民族との研究、酒と民族との研究をやっていました。

鹿児島大学別府大学琉球大学広島大学新潟薬科大学客員教授を歴任。

全国地産地消推進協議会の会長、発酵文化推進機構の理事長も兼務。

コロナの関係で発酵商品はとても注目されてきました。  発酵商品には免疫力を高めることは前々から知られていました。  発酵商品は本当にすごい免疫力を持っています。  納豆一個を食べると納豆菌が700万匹います。 発酵食品は生きた食べ物なんです。  ヨーグルト、チーズ、味噌、キムチ、漬物などがそうで、腸まで行くと腸が免疫力を作るところで、そこで作ってくれる事がわかってきました。  日本でコロナの陽性患者が少ないが、日本人は衛生観念が発達しているからというが、食べ物のことは誰も触れていない。

東北6県で全部で現在1500人以下だと思いますが発生率が少ないと思います。  人の出入りも少ないと思うが、発酵商品を一番消費しているのが東北で、納豆の消費量が一番が秋田、山形、福島で、東北では味噌、漬物を一杯食べます。

アジアを見ても発酵食品を持っているのが、東南アジアと、東アジア(日本、韓国、台湾、中国)だけです。  東南アジアもベトナム、タイ、ミャンマーもコロナは少ないが、発酵食品の無いインド、イラク、イランは沢山出ています。   アメリカ、ブラジルも発酵食品はなく、ヨーロッパはチーズぐらいです。

今後新型コロナと付き合っていかなければいけないと思うと、マスク、三密を避けると同時に食べ物で免疫力を高めていかなくてはいけない、発酵食品を意識して食べることが必要ではないかと思います。

大根を漬けた漬物だけでも80種類あります。  野菜の漬物だけで何百種類あると思います。

私には「走る酒壷」「鋼鉄の胃袋」「人間リカオン」「ムサボリビッチ・カニスキー」といった自称を含めたあだ名があります。

日本経済新聞』の夕刊に連載しているコラム「食あれば楽あり」は28年間連載していて一度も休載はありません。  この間まったく病気はしませんでした。  パソコンは使わずに全部手書きでやっています。

日本は米が余っていて牛乳もそうなので、米に牛乳を吸わせて、スチ-ムドミルクライスができて、ヨーグルトから分離した乳酸菌を入れて40℃で発酵させたら3日後にチーズになっていました。  こういった発想でやっています。

南瓜が豊作すぎて、送ってもらって南瓜で甘酒を造りました。  それを絞ると黄色い砂糖ができて販売まで行いました。  特許を取っています。

本来捨てるエビの殻をラードで溶かしたところの鍋に入れてさっと焼いて、冷凍するとラードにエビの香りがしてエビチャーハンとかエビラーメンとかを作って凄く好評でした。

北海道の鮭のアラ(捨てるもの)を発酵させて鮭の醤油を作って、商品化されて、それを使ったラーメンがいまの有名な石狩ラーメンになっています。

マツタケは人工栽培ができない。  マツタケの胞子を集めて液体で培養したら、ある特殊な物質を入れると綿くずのようになって増殖するが、その液体の中にマツタケの味と香りが出てくるんです。

納豆ドリンク、納豆菌だけ培養すると、培養液の中に納豆の味と匂いが出るので、それを一回とって、カルシウムを使うとネバネバが無くなる。  納豆嫌いな人にも飲める納豆ドリンクができるわけです。

発明は人のためになるという事が大前提です。  考えることは若返られます。  食以外でもいろいろ発明もしています。(バックにベルを付けた盗難防止装置とか、自動犬ウンチ取り機とか)

NPO法人発酵文化推進機構,大きな組織で全国の発酵会社が集まって勉強会をやっています。  全国発酵の街作り推進協議会というネットワークを作って発酵で街おこしをしようという事でやっています。  70ぐらいの県、市が参加しています。

千葉県神崎という街がありますが、発酵で街おこしという事で神崎で発酵のお客さんが100万人を越しています。

福島県須賀川市に世界一大きい生ごみを燃やさないで土にするシステムを作っています。 日本では生ごみの90何%は燃やしているので大気汚染、地球温暖化もあり燃料代もかかるので、微生物で発酵させると完ぺきな土になり、それを畑に撒けば肥沃な土になります。  余ったものを山に撒けば山が豊かになり、ひいては海が豊かになります。

発酵によって人間は物凄く助かっています.。  抗生物質を打つことによって手術ができますが、抗生物質は発酵生産物です。  大半の制癌剤、そしてビタミン、ホルモン、アミノ酸まで発酵で作っています。

「大豆は畑の牛肉」と言われていますが、牛肉のタンパク質は17,8%、大豆のタンパク質は16,7%でほとんど変わりません。  

豆腐の味噌汁を作って納豆を引き割り納豆にしていれて、油揚げを千切りにして上にかぶせて飲むと、汁の中に4種類(豆腐、味噌、納豆、油揚げ)の肉が入っているわけで大変なスタミナ食ですが、牛肉ではコレステロールは沢山ありますが、これはコレステロールはゼロなんです。 是非お勧めです。

















2020年10月17日土曜日

菊地まどか(浪曲師)          ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」

菊地まどか(浪曲師)    ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」 

稲むらの火」の話、題材となったのは江戸時代末期の1854年11月5日(現在の12月24日)の夕方4時半ごろに起こった安政の南海地震によって引き起こされた津波の際に和歌山県広村で醤油製造業を営む濱口儀兵衛(梧陵)が取った行動です。  一刻も早く村人を高台に避難させるために田んぼに積んであった稲わらに火を付け丘の上の神社に誘導しました。  このエピソードを明治時代に小泉八雲が取り上げ、さらに昭和の初めに小学校の教諭中井常蔵が子供にもわかりやすい作品にして、これが戦前の国語の教科書に取り上げられました。   この「稲むらの火」を浪曲にして学校などで演じているのが浪曲師の菊池さんです。  菊池さんは2018年9月この舞台となった和歌山県広川町の耐久中学校を訪れ生徒や地域の人達の前で浪曲「稲むらの火」を演じました。   防災をテーマにした作品に取り組む理由を菊池さんに伺いました。

語りがあり節があり浪曲という形で聞けたことによってすんなり頭の中でイメージができたという事を聞くと浪曲でやっていてよかったと思います。

新作で昨年の9月に作り上げました。  実話をもとにしたもので作者は宮本麗子さんです。

濱口儀兵衛らが創設した耐久中学校の卒業生である中井常蔵が小泉八雲の「A Living God」を読み、感銘を受け児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募、この作品はそのまま国語教材として採用されました。(昭和12~22年まで)

地震の後、井戸の水が乾いた時には津波が来るという事が言い伝えられていた。  どうしたら誘導できるか考えたときに、貴重な稲ではあるが積み重なった稲束に火を点けていって、火事になるとみんなが消火に集まるので、積み重なった稲束のを目印として高台を目指していって、高台に向かって人命が助かった、という話です。

「稲むら」は天日で乾かすために刈り取った稲を積み重ねられた稲束のこと。

作品はいろいろつけ足したり削り込んだりしていきました。

1854年11月4日に地震があり、翌日の5日の夕方4時半ごろに起こた安政の南海地震が立て続けに起きました。

浪曲の源流はいくつかあり、その一つが仏様の教えを説くというものもありました。   説教節といわれていて、今の形につながっています。  江戸末期に大阪では浪花伊助という方が四天王寺で今の浪曲という形を披露して、節があり語りがあり三味線を取り入れて浪花伊助が初めて演じたので、浪花節という風に当時言われていて、その後浪曲という形になったといわれてれています。

浪曲は「一声、二節、三啖呵」、と言われて先ずは声が大事で、二番目にどういう風に自分なりの節まわしを付けるか、三番目が情景、喜怒哀楽を表現するのが啖呵です。

「一息三段流し」、一息で長い三段のところを流してゆく。

入門が2003年で古典を教えてもらって、現代風なものは無いか師匠に聞いて、「吉岡訓導」(昭和9年の室戸台風の時の話)をいただきました。

室戸台風は最大瞬間風速が60mで京阪神を中心に3000人を超える死者、行方不明者を出す。 「吉岡訓導」は豊津第一小学校に吉岡藤子先生(26,7歳)が赴任してきたときの室戸台風の災害時の事実を描いた浪曲です。  5人の生徒を自分を犠牲にして身をもってかばって助けたという話です。   2階建ての木造校舎が倒壊、児童51人と先生二人が亡くなりその一人が吉岡藤子先生でした。  毎年9月21日には全校生徒を集めて吉岡先生の話など催しがあり、是非講演をしてほしいという事で体育館でやらせていただきました。









2020年10月16日金曜日

加賀乙彦(作家・精神科医)       ・芭蕉に学ぶ、美しい日本語と人生行路

 加賀乙彦(作家・精神科医)       ・芭蕉に学ぶ、美しい日本語と人生行路

加賀さんは東京生まれ91歳、東京大学医学部卒業、その後東京拘置所医務技官を務めた後フランスに留学、帰国後大学で精神科として勤務するかたわら小説を書きました。  1967年に刊行した「フランドルの冬」が翌年芸術選奨新人賞を受賞して以来、「帰らざる夏」「宣告」「永遠の都」などの長編小説を世に出し続けました。  その加賀さんが今年の1月書下ろしのエッセー「私の芭蕉」を刊行しまた。  長編作家の加賀さんと短詩文学俳句の松尾芭蕉との組み合わせの意外性が注目されました。  加賀さんは芭蕉は美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを与えてくれるといいます。   芭蕉の精神世界が中国春秋時代の思想家荘子の哲学と深いつながりがあると指摘しています。 

俳人の本の中で芭蕉論は抜きんでて数が多い、蕪村、一茶をあわせても芭蕉のほうが多い。 松尾芭蕉に関心を持つようになりこの10年ぐらいの間読書の目標になっています。

80歳からなのでいろんな病気にかかりながらやってきました。  

蕪村、一茶は芭蕉にはかなわないですね。  私は長編作家ですが、小さい沢山の作品が出てくるものは俳句でこの10年初めて経験しました。  文体が凄く上品です。「静かさや岩にしみいる蝉の声」

きちんと読みたいと思うようになったのが5年前です。 2年前に芭蕉論の大きい本に夢中になりました。  

芭蕉の俳句の文体が凄くたくさんあって、次から次に面白い発想で俳句が出てきます。   芭蕉に導かれて新しい世界に行くという感じにもなります。

芭蕉は何度も作り直します。 芭蕉の推敲には頭が下がります。

「静かさや岩にしみいる蝉の声」はすぐにできたと思いますが、最初は「山寺や石に染みつく蝉の声」、その後「寂しさの岩に染みこむ蝉の声」  そもそも蝉の声は静かなものではない。  

それからどういうふうにして「静かさや岩にしみいる蝉の声」になったのか。

騒がしく蝉は鳴くが、ああこれでやっと誰か一人死んだのかなあ、たいしたものだなあ、威厳のある表現の仕方、自分のそばに大きな岩があってその岩が蝉が死ぬためにどんどん声を出して泣いているんだなあと、世の中がひっくり返って見えるんです。  耳を澄ましている人間にとっては不思議な出来事です。

芭蕉は51歳で亡くなりましたが、江戸で多くの弟子たちを自由自在にしていた。(30代のやり方)  36歳になったころから自分の生き方が間違っているというようになってくる。

「櫓の声波を打って腸(はらわた)凍る夜や涙」 

櫓の声や腸氷る夜ハなミだ 
艪声(ロセイ)波をうつて腸氷る夜は涙

櫓の声にはらわた氷るよやなみだ  などの句形がる

「この深川の草庵は水辺に近いので、寒夜、きしる櫓の音が
波音のまにまに枕に近く聞こえてくる。じっと耳を澄まして
いると、腸も氷るような凄涼な思いがしてきて、いつしか
涙が流れているのであった」

古典の知識を取り込んでいる。  芭蕉の一番面白い俳句の一つです。

ぽくぽく という擬音を取り入れている。  私にとっては大変な発見でした。

「馬ぽくぽく 我を絵に見る夏野かな」

箱根に富士山を見に行くが霧が出てきて富士山が見えないが、富士の形にはなって流れてゆく、これは一番面白いぞという事を俳句で読む。  

「雲霧の暫時百景尽くしけり」

「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」 見えない富士を楽しんでいる。

「奥の細道」、「野ざらし紀行」  芭蕉を旅に駆り立てたものはなかなか難しい。

「行く春や鳥啼き魚の眼は涙」  動物たちも私の旅を寂しがっているだろう。  

人生で一番いいのはいつも旅をしている人だ。  旅をすると自分の知らないことが次々に出てくる。  出てきたものは自分のその後の人生において、一番重要なものになることが多い、だから皆さん旅をしよう。 と書いている。

その最後に「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」

亡くなる前の年に「幻住庵の記」を示した。  文章の綾があって面白い。

「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる。

海、山、花、鳥などと自分の生活とを思い出して懐かしく思いだしている。

知人の庵「幻住庵」に3,4か月寝泊まりして書いている。

自分で自分の過去をこれはよかったといいなおすような文章を書き、もうすぐ自分は死ぬと分かっているのに大阪地方を旅して大阪で亡くなる。

冒険もきちんとやるのも芭蕉の術ですね。

「この道や行く人なしに秋の暮れ」 

「秋深き隣は何をする人ぞ」

「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」  口述筆記でした。

「野ざらしを心に風のしむ身かな」

「蓑虫の音を聞き来よ草の庵」

短い文章によって芭蕉は一本立ちの面白さを持っている。  芭蕉の先生として荘子の一生が示されてもいる。

大変素晴らしい日本の文学のたまものだと思っています。

「蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ」 


























2020年10月15日木曜日

辻村深月(作家)            ・物語が現実を救ってくれる

辻村深月(作家)            ・物語が現実を救ってくれる 

山梨県出身の辻村さんは千葉大学教育学部卒業後、2004年に「冷たい校舎の時は止まる」でデビュー、2012年に鍵のない夢を見る』で第147回直木三十五賞を受賞、2018年に「かがみの孤城」で本屋大賞を受賞しています。

「朝が来る」河瀨直美監督、原作者 辻村深月  公開延期になっていましたが、ようやく皆さんに見ていただくことになり楽しみにしています。

ラストシーンを多くの方に見ていただきたという気持ちで小説を書き終えて、しばらくして河瀨直美監督から映画化したいという話があり吃驚しました。

この作品は不妊治療、特別養子縁組など非常に難しいテーマになっています。  テーマは文芸春秋の担当者が書いてほしいテーマがあると言って持ってきました。  資料をたくさんいただいて書きたいと思いました。  2歳の子供がいたので、想像力を伸ばせる作家になってきたんじゃないかと思いました。  特別養子縁組については資料と私が調べてゆく中で驚くことが沢山ありました。

特別養子縁組については先入観感を持っていたことに気づきました。

小学校に上がる前に話してゆくと、自分はそうやって生まれてきたんだという事がわかると同時に、まだ感性の柔らかいころに、あなたにはほかにもお母さんがいるという風に欠けるのではなく増えるという認識で話をされている家がほとんどでした。

人間が書けているといわれている時って、人の負の感情、どろどろしているものとか、嫉妬とかそういうものが書かれていると人間がよく書かれているといわれてしまう傾向が強いが、実はそうではなくて誰かを愛する気持ちだったり信じる気持ちだったり、欠けるのではなく増えるという考え方も実際なのも本当の人間の姿ではないかなと思いました。

血が繋がらないからこそ、その相手を迎え入れて家族になるという事はどういうことなのかというのを描ければと思って飛び込んでみました。

取材の中で特別養子縁組をしている団体について調べたんですが、この制度は子供が親を見つけるための制度ですということが書かれていたことが印象的でした。

知らせることによって親も覚悟を決めるというか、自然なこととして受け入れていくために必要な過程だと思いました。

河瀨直美監督に脚本を書いていただいて、脚本が詩みたいな感じがして凄い感性の持ち主だと思いました。

試写を一緒に見てエンドロールの最後の言葉を聞いた瞬間に涙が出てきて、明るくなって監督と抱き合いました。

子供のころから本が兎に角大好きでした。  学校にいくようになって図書室の本を全部読めるかと思うとはしゃぎました。  心がワクワクするという事がジャンルとしてミステリーでした。

将来本の向こう側で仕事をする人になりたいと思うようになりました。 小説を読めるんだったら書くこともできるのではないかと思って小学校3,4年生の時に書いてみました。

中学ぐらいになると気の合う友達が読んでくれるようになり、高校では続きが読みたいと言ってくれるようになりました。  ひょっとしたらプロになれるのではないかと思いました。

デビュー作の「冷たい校舎の時は止まる」は高校3年生に途中まで書いたものがもとになっています。   進学校の受験のセンター試験があるころの子たちが主人公になっています。  

小さいころからミステリーが大好きで、小学校6年生の時に綾辻行人さんの『十角館の殺人』を読んで衝撃を受けて以来大ファンとなりました。  綾辻さんに何度もファンレターを送り、編集部の厚意で綾辻本人と手紙やメールを交わす間柄になりました。  

大学4年生の時に就職活動が嫌でそのストレスから書き始めて冷たい校舎の時は止まる」を完成させました。  第31回メフィスト賞を受賞しました。(受賞の連絡は綾辻さんから電話がありました。)

それから10年15年経って、作家であり続けることが綾辻さんへの恩返しだと思っています。

2012年に鍵のない夢を見る』で直木賞、2018年に「かがみの孤城」で本屋大賞を受賞しました。   デビューから17年目になりました。

候補になりながらも落ちたりしましたが、落ち込みながらも編集者が一緒に走ってくれました。

受賞が終わった後はちょっと怖くもありました。

デビュー作以後大人を描いて来ましたが、原点に戻って又書いたのが「かがみの孤城」でした。

「冷たい校舎の時は止まる」に対する答えみたいなものを自分が今回書けたような気がして、その作品が評価されたというのが凄くうれしかったです。 

「冷たい校舎の時は止まる」では自分自身がまだ子供で、「かがみの孤城」を書く時には大人になっていて、作中の子供たちを書きながらその子たちが困難にぶつかったときに、「大人がごめんね」というようになりました。  ふがいない大人だけれど頼ってほしいという気持ちが出てきました。

多感な時期の子に自分の本が寄り添えていたとしたら凄く嬉しいと思います。

40代の私も今の私が聞いたら驚くようなことに興味が延ばせたらいいなあと思っていて、過去の自分を驚かせるようなものを何作も書いていけたらいいなあと思います。





 







2020年10月14日水曜日

前田二生(指揮者)           ・"ウィーン"で育まれた、わが音楽人生

 前田二生(指揮者)           ・"ウィーン"で育まれた、わが音楽人生

前田さんは昭和8年福岡県生まれ、86歳の今も東京レディース・シンガーズ、新東京室内オーケストラの常任指揮者として活動しています。  少年時代からクラシック音楽に関心を持っていたという事ですが、当時は音楽を勉強する社会情勢ではなくて、早稲田大学卒業後は会社員として人生をスタートしました。  順風満帆の生活だったんでしたが、40歳半ばで病気になり会社を退職することになりました。  その病床で大好きだった音楽の指揮者になることを決意したという事です。   指揮者になるためにウイーンに飛行機で通って勉強するという大胆な努力が実ってウイーンの楽友協会ホールで指揮を執ることになります。  以後ウイーンで30年間にわたる演奏活動を続けて2010年には「オーストリア科学・芸術栄誉第一等級十字章」を受賞しました。  

経営者でありながら指揮棒を振るという大変珍しい人生を送っています。 「指揮棒と共に半世紀」という本を出版しました。  ウイーンの楽友協会ホールの入り口の大理石のプレートに名前が刻まれていますが、ウイーンの楽友協会ホールも200年近くたっていますが、50名ぐらいの名前が入っていて日本人では初めてとなっています。

古典は音楽や前期ロマンス音楽を発掘して演奏したという事が評価されました。  ウイーンの楽友協会ホールは大きな資料館も持っていて作曲家たちが曲を持ち込むわけですが、大変な数があり、まだ誰も取り上げていないけれど素晴らしいという曲があります。   そういった曲を掘り起していって表に出していこうという作業と実際に演奏を行ったという事です。

モーツアルトが最初に作曲したと思われる交響曲が見つかりました。 2005年に演奏され私が指揮を執ることになりました。

専門家たちが議論しましたが、結論が出ず、楽譜のインク、紙の質など科学的分野からも研究していかなければ結論が出ないという事で、今はこの曲は結論が出ないので演奏禁止になっています。

2010年には「オーストリア科学・芸術栄誉第一等級十字章」を受賞しました。

小学校2年生の時に大東亜戦争が始まって5年生の時に終わりましたが、音楽は軍歌だけでした。  私は占領軍向けのラジオ放送がきけたので、クラシック音楽を流していてそれにかじりつくように聞いて音楽に憧れました。

音楽で身を立てるという事は考えられない時代でした。  予備校に通うことになり、お茶の水には楽器店があり、「ピアノ貸します」という張り紙を見て申し込みました。

そこに通ってピアノを弾いて予備校に使う金を全部使ってしまいました。

翌年早稲田大学に入学して混声合唱団に入って(ピアノがあったので)、2年生の時に選挙で指揮者に選ばれました。  大熊講堂で第一回定期演奏会を開きました。

会社に入りクラブ活動がありそこでの指導をしました。  会社では真面目にやっていたら、40代半ばで身体を悪くして、音楽の道に入ろうかなと考えましたが、社長の理解があり、一生懸命働いて5工場払い下げてもらって、かなり大きな企業体を作って責任を果たしたのかなあと思って、音楽の道に入ろうと始めました。

ウイーンに音楽の飛行機通学をしました。  オペラ劇場の指揮者は職人的な素晴らしい技量を持った指揮者なので、そういう方について実践的な指揮の勉強をしたいと思いました。

オーストリアの国立歌劇場のトップの指揮者でウイーン音楽大学の教授をしていたギュンター・レーマン(指揮者)に弟子入りすることができました。   一日に長い時間を取ってくれ練習場面など目の当たりにしまして凄く勉強になりました。(2年間)

楽友協会で活動をして、ハイドン週間の音楽祭がありそこに登場させてもらいました。

ウイーン芸術音楽週間のプログラムにも参加しました。

楽友協会が主催するところに参加するという事は名誉ある事でした。

ヨーロッパ以外でも日韓、日中での活動もしてきました。

中国は経済優先になってきて残念でした。

音楽を通してコミュニケーションができてきました。

私としてはウイーンがすべて土台になっています。  ウイーンは一味違います。








2020年10月13日火曜日

田所美惠子(針穴写真家)        ・針穴から撮る人生

 田所美惠子(針穴写真家)        ・針穴から撮る人生

針穴写真はレンズの力を借りずにごく小さな穴から光を取り込んで画像として定着させる写真のことでピンホール写真とも呼ばれています。 田所さんは30年前滞在先のフランスで針穴写真に出会いその独特な作品世界に魅了されたと言います。  以来小さな空き缶などで作った自作の針穴カメラで多くの作品を生み出してきました。  帰国後の2005年には日本針穴写真協会を設立、現在は会長を務めています。  針穴写真との出会いやその魅力について伺います。

エッフェル塔の写真、手前の柵の鉄条網も細かいところまで映っていて奥のエッフェル塔も下から上まで見事に映っている。  地面に置いて撮っています。 手前から遠くまでピントが合っていて、これが針穴写真の最大の特徴です。

白菜の写真、30分間針穴を開けっ放しで撮っているが、ライトは近づけないようにして撮っています。  実物では気付かないようなものが針穴を通すと、艶めかしいような不思議な艶を出してくれます。

レンズがない小さな穴で撮る写真で、針穴の場合は全体的にふんわりしているが、シャープではないが一応映ります。  手前から奥まで同じピントですが、写真を撮るのに時間がかかり、何分とか何十分とか時間がかかります。

今手許にある針穴写真のボディーは10cm四方の正方形で高さが4,5cmぐらいでクッキーの入れ物のようなもので缶です。  いろんな形のものがあります。  0.3mmの穴が開いています。(小型ドリルで仕上げます。)  内側は全部黒ペンキで塗っています。

穴の対面に印画紙とかフィルムをセットして、光がもれないように蓋をします。

一個で一枚しか撮れないので20個ぐらい用意してセットしてそれを持ってゆきます。

以前からモノクロ写真が好きでして、夫の仕事の関係でフランスに行っているときに、一台カメラをいただいてパリで写真を撮っていたら針穴写真に出会いました。

1989年にフランスに行ったときに、写真の誕生の年が1839年で150周年記念という事でフランスの展覧会をやっていて、面白い写真集がありそれが針穴写真でした。 ニエプス美術館を見学する機会があり、見終わって出口に今年の夏季講習は針穴写真と書いてありましたので、その場で申し込んで2か月後に5日間の講習を受けました。

一日目はごみの焼却場に行って缶を選んできて、穴のあけ方もやりました。  カメラは何でもいいんだという事がこの時に判りました。

講習が終わって、試しに取ってみましたが、なかなかうまく撮れませんでしたが、面白いものが撮れるということが判りました。

ファインダーがないので構図は頭で考えます。  穴をあける位置も重要ですから、私は5つ穴をあけて、4つは塞いで、いろいろ試したりします。

或る時日刊紙の写真部長から電話があり針穴写真を撮っているという事で興味をもってくれて、特派員としていってほしいと言われて、普段は入れない建物に入ることができました。

他の人達は一般のカメラでしたが、私は20分程度かかるので怪訝に思われましたが、裁判所の建物を撮りました。

カメラを作るところから最後プリントする事が自分ですべてできる事は、自分が表現したいというところに向かって物を作っていけると思うので魅力を感じます。  一枚撮るのにも思い入れがあり記録ではなく記憶として私の中にあります。

凱旋門の写真を20枚撮りたいと思って出かけましたが、シャンゼリゼ辺りを撮っていましたが、最後に何か撮りたいと思っていたら、たまたま雨の後で大きな水たまりがあり、そこに凱旋門が映っていてそれを撮りたいと思って撮りましたが、それが一番よかったです。

針穴写真を介して写真仲間が広がっていき技法などの情報交換もしました。

帰国して2005年に針穴写真協会を立ち上げ、現在は100名ぐらいでやっていますが、始めた当初15年前には500人ぐらいいました。

車とか、人が通り過ぎる分には何も記録はされません。

針穴写真と出会って、針穴写真というものを自分のものにできたかなという達成感があります。  小さいころから根気があるといわれていて、針穴写真と出会う前は編み物が好きで四六時中編んでいました。  針穴写真とは性格上向いていたと思います。

針穴写真でしか撮れないものを撮りたいという事と、古い印画紙(100年前のものから1960年代のものもあるので)を現代を焼いてみたらどうかと思っていて、それをやってみたいです。








2020年10月12日月曜日

松本好二(ボクシング 松本圭佑選手の父)・【アスリート誕生物語】

松本好二(ボクシング 松本圭佑選手の父)・【アスリート誕生物語】 

アマチュアボクシングからプロに転向し8月のデビュー戦を4回テクニカルノックアウトで勝った松本圭佑選手のお父さんです。  元プロボクサーで現在大橋ジムでトレーナーとして2人の世界チャンピオンを育てた松本浩二さんに伺いました。

デビュー戦の第一ラウンドで30秒ぐらいでダウンしてしまってびっくりしましたが、4回テクニカルノックアウトで勝って一安心しました。

川嶋勝重選手、八重樫 東選手の2人の世界チャンピオンを育てました。

圭佑は肉体的才能、運動神経には恵まれていたと思いましたが、実際に試合をしてやらしてみないと分からなかったです。  最初は幼稚園の時にやらせてみたが、嫌がってやらなかったですね。

元々泣き虫だったので心配ではありました。 

小学校3年生の時からちゃんと始めました。 ストレスからか脱毛症になって病院に行ったが、薬を塗ったりしていたが、進展はありませんでした。  夏休み期間だけボクシングをやろうと誘いました。

思ったより泣き言を言わないでやり切りました。 

いつ辞めてもいいんだよと本人には伝えるんですが、本人が成長して来てしまってチャンピオンを目指したいという夢が本人にできてしまって、無理やり辞めさせるわけにはいかなくなっている状態です。

本人がどうしても試合に出たいと言い始めたのは小学校3年生の終わりごろでした。

実際に小学校3年生の終わりごろに試合をしました。  相手はもう何試合かしていて、はたして大丈夫かなと思いました。  判定で勝ってしまって吃驚しました。

マスコミにも話題に乗るようになり映像に子供の成長が残ってくれるという事に関しては凄くありがたかったです。

オリンピックを意識し始めたのは、マスコミも東京オリンピックに向けてホープとして取り上げてくれることが多くなったこともあったので、その辺ですね。

親としてはボクシングだけというわけにはいかないと思って、学力相応の高校をピックアップして受けさせました。  すこし学校で練習してからジムへ移って来てもう一回練習することを3年間続けてきました。

僕がトレーナーになって初めて育てた世界チャンピオンは川嶋勝重選手で、僕が入ったときには日本ランクにも入っていないときで、技術はなく向かっていって自分のパンチを当てよう当てようとしてしているのが眼に見えてわかったので、僕の経験したボクシングを教えました。

打たれないようにしながら、「左は世界を制す」という言葉があるように左でいろんなパンチを打ちながら、ミックスさせてどう戦うか、バランスも必要で、そういったことを教えてメキメキ腕を上げていきました。  僕が習った米倉ジムでは長所を伸ばせという事で同様にやってきました。

師弟関係がうまくいっていると喜んでもらいたいし、気持ちが合致してくるといい相乗効果になると自分の経験上感じたので、自分だけ勝ちたいという気持ちのパワーよりも目に見えない力が生まれると自分の経験上感じたことがあるので、佳祐にも伝わってくれたらいいなあと思います。

川嶋勝重選手の世界チャンピオン防衛戦での相手はアメリカのオリンピック代表の選手で苦しい展開の中、最終ラウンドに行く時に、「そんなにいかなくていい」という指示を出したが、「しかし僕は勝ち負けは関係ないので、倒されてもいいから行かせてください」と言われ、本人がそういうので「好きなように行け」とイチかバチかいった時には生きた心地はしなかったです。

合計50針縫うぐらい傷も負っていて血だらけになっていて、倒されてもいいから行かせてくださいと言うそういう気持ちは本心からいっているので、僕より上だと感じました。

同様なことを圭佑から言われたら、どうするか自分でも想像がつかないです。

圭佑はオリンピック代表を賭けた試合で負けてしまって、凄いショックでした。

圭佑は大学を中退してプロの道を進む事になりましたが、親としては本当にプロでやらしていいのかとか、子供の時とはまた違って変なものですね。

自分の子供の足を引っ張るようでは駄目だと思うし、心配を全部取り除けるかというとそういうわけにもいかないし、どう付き合っていかなければいけないのか、今でもずーと思っています。

デビュー戦でのガウン、トランクス、シューズまで僕がデザインしたものでしたが、佳祐は全部受け入れてくれました。

僕が米倉会長に言われていた「結果未自然」(「結果を気にせず、目の前のことにこだわってほしい」)という言葉をガウンに刺繍して、裏には米倉会長、トレーナー、僕の父親、高校の監督の名前を入れて、僕に取っての精神安定剤、ピンチになったら助けてほしいという親心ですが、本当は誰も助けては呉れませんが、どうしてもそういう心境になってしまいます。

一人の男として生きてきて、これから生きてゆくために、これからの親孝行は僕を越えて世界チャンピオンになってくれたらそれが一番の親孝行だと思います。

















2020年10月11日日曜日

森 公美子(歌手)           ・【私のがむしゃら時代】命の現場で見えたもの

森 公美子(歌手)          ・【私のがむしゃら時代】命の現場で見えたもの 

今年61歳になった森さん、なんでも見る前に飛べの精神でやってきたといいます。  仙台で旅館を営む両親のもとに生まれ、14歳の時に或る歌手のコンサートを見て音楽の世界に憧れた森さんが、プロの歌手としてデビューするまで持ち前の行動力で突き進んだ日々だったといいます。  そんな森さんに大きな試練が訪れたのは、2006年、6年前結婚した夫が交通事故にあい脳挫傷のため右半身がマヒし車椅子の生活になったのです。  歌手の仕事をつづけながら看護と介護で疲れ果て、不安で先の見えない日々、そんなとき介護士のある言葉に救われたといいます。  

3,4,5月の舞台はすべて中止になり、腹をくくって、料理が趣味なので朝から健康食などいろんなものを作っておおくのメニューを習得しました。

新しい自分をと思って、タイムスリップした脚本を書いたりして楽しんでいました。

10月3日からミュージカルがスタートします。  思い切り声を出すという事はストレスが消えてゆく存在でもあり生業としてこの道を選んだのはよかったなあと思いました。

父がアメリカンポップスが好きで、アメリカンポップスの曲が流れていて、祖父母は詩吟をやっていました。  音楽に囲まれた生活でした。   讃美歌のある学校だったので讃美歌をハモッたりしていました。  中学3年生の時にたまたまジャズ歌手・サラ・ヴォーン のコンサートを聴いてしまってかっこいいなあと共にあんなおばさんになりたいと思いました。

ジャズをやりたかったが、母が基本的な勉強をしてからという事で、昭和音楽短期大学に進んでクラシックを学びました。 

在学中に成人式の振袖代わりに親に100万円を出資してもらい、イタリアミラノへ留学する。 なかなかいけると思ったが、挫折に挫折を重ねてこんなにも凄いことなんだと思いました。

テクニックと同時に精神の強さ、表現力の凄さを目の当たりにしました。 その時はプッチーニの「ラ・ボエーム」でした。 

イタリアの友達にいつ頃初めてオペラを聞いたのと聞いたら、3歳ぐらいかなと、ラ・ボエームはレコードで1000回以上聞いたとのことでした。 私はラ・ボエームは初めてでした。

落ち込んで父に「スカラ座には立てない」と言ったら、期待していなかったらしくて「スパゲッティーの3品ぐらい作ってくっれればいいと思っている」といわれてしまいました。   電話の最後に「イタリア人になり切って生活して見ろ」と言われました。

みんなの家に訪問するようになり、コミュニケーションをとるようになりました。

声楽のほうも、自分ではソプラノかなと思っていたら、お前の声はドラマティック・ソプラノだと言われてイタリア人にはあまりいないといわれました。

ロンドンに住む叔母のところへ訪れた際に、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観て衝撃を受け、オペラからミュージカル歌手への転向を決める。

ミュージカルデビューは1983年の東宝ミュージカル『ナイン』でした。  そこからミュージカルの仕事がどんどん入ってきました。

オペラからミュージカルに変わってから、「芸術家から芸能人になるんだったら自分でやりなさい」と言われ父からの援助はぷっつり無くなりなりました。 母からも突き放されてしまいました。

「食べられる野草」という本を5000円で買って、野草でも食べられるものが沢山あることを知りました。  それが料理につながっていきました。

アルバイトで銀座で裏方をやるつもりだったが、英語、イタリア語が話せるという事でホステスとして働くことになりましたが、初日に「よろしくお願いします」と言って顔を上げたら父の同級生で3時間お説教され、父は烈火のごとく怒って帰ってこいと言われましたが、次のミュージカルが決まっていたので、最終に父が『ラ・カージュ・オ・フォール』を見に来て大感激しました。  そこから仕送りが再開しました。

10年間付き合っていた人と2001年にサイパンで結婚しました。  

2006年8月13日に夫は交通事故にあいました。  命は助かったが、脳挫傷でICUに入って、右半身が動かなくなり、飲み込みも出来なくてとろみ食を作らなくてはいけなくて、その後長い間リハビリの病院に入っていました。 

仕事があるので、3人交代でやってもらって120万円かかって、障害者手帳を貰う事も知らなくて、区に相談したら区からの介護士の派遣も出来るという事でした。  ストレスから顔面神経痛になり歌えなくなると思って、1週間入院してその後一ヵ月いろいろ鍼治療とかしてもらって直しました。

区から「介護ベッド、車椅子なども全部補助金で賄えるんですが」、と言われたが既に自分でそろえてしまっていたので、お金は戻りませんと言われてしまいました。

区に相談したり、いろんな方に相談すると光が見えてきて、なんでも抱えたら誰かに相談したほうがいいと思って、スタートしました。

「家族は介護はできないです。 何故なら元気なときも知っているし、楽しい時も知っているし、すべて知っているから、なんでそうじゃないの、という事をずーと考えてしまうんです。 だから介護は家族はできないんです。 だからプロに任せてください。」と言われて「奥さんは時々来て励ましてあげてください。」と言われました。 そういう風に介護士さんから言われました。  

それから14年経ってコロナ禍の中、新しくできた施設に入ってもらってしのいでもらうようにしています。  母が去年亡くなりました。

母は「ゴースト」を見たときには感涙しました。 あなたは凄くよかったと涙ながらに話してくれました。  ほとんど舞台を見てくれたり旅行をしたりして、又よく私を笑わせてくれて、面白い母親に育ててもらって幸せです。

去年還暦を迎えて、65歳で引退しようと思ったりしたが、コロナでこんなに暇になるんだったら引退するものか死ぬまでやろうと思いました。

2020年10月10日土曜日

2020年10月9日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・【人生のみちしるべ】人は"物語"を生きている 後編

柳田邦男(ノンフィクション作家)   ・【人生のみちしるべ】人は"物語"を生きている 後編 

深い悲しみの中から助けてくれた本というのは、息子が私に残してくれた本でとってもいいと思っていますが、フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子さま」という本です。  サン=テグジュペリは亡命先のニューヨークに住んでいましたが、第二次世界大戦でドイツがすでに占領していた祖国フランスに帰り、解放軍に加わってパイロットとして祖国を取り戻すために参加するが、撃墜されて亡くなってしまう。

ニューヨークを発つときに遺作として奥さんに残していった一冊の本があり、それが「星の王子さま」でした。   自身が挿絵を描いていて絵本と言ってもいいものでした。

息子が8月に亡くなりましたが、4月から岩波書店が岩波世界児童文学全集のシリーズを出し始めて、その第一回配本であり第一巻でもあったのが「星の王子さま」でした。  私の誕生日が6月で誕生祝に僕にきれいな豪華な本だからと言って僕にくれたんです。  

その2か月後に息子が自ら命を絶って、呆然としていた中でひと月してから、気になって手に取って読みだしたら、今まで読んだのとまったく違うインパクトがありました。

名作の文学は読む側がどんな状況にあるかによって、意味が違ってきたり、深い意味を感じたりする。  砂漠に不時着したパイロットが主人公で、そこへ空から降ってきた小惑星の星の王子さまが一緒に1年間過ごすわけですが、心にずしんと響いたのが最後のころで、1年後の午前零時に帰らなくちゃというんです。 パイロットは信じられない。 「僕は笑い声を聞きたいんだよ、星に帰るなんて言わないで」と言うんですが、王子さまは「大切なことは目に見えないんだよ」と言ってその次に王子さまが言った事が一番僕の胸に響きました。

「夜になったら星を眺めておくれよ。 僕んちはとってもちっぽけだから、どこに僕の星があるのか君に見せるわけにはいかないんだ。  だけどそのほうがいいよ。 君は僕の星を星のうちのどれか一つだと思って眺めるからね。 すると君はどの星も眺めるのが好きになるよ。 星がみんな君の友達になるわけさ。」 というんです。 

僕の星は小惑星でちっぽけで地球からは見えないけれど、その方がいいんだ。 あれが王子様の星かな、これが王子様の星かなと思うと、すべての星がいとおしくなってくるというわけです。 そして次のように話します。

「僕はあの星の中の一つに住むんだ。  その一つの星の中で笑うんだ。 だから君 夜、空を眺めたら星がみんな笑っているように見えるだろう。  すると君は笑い上戸の星を見るわけさ。」

これはサン=テグジュペリが奥さんに残していった遺言なんです。 自分は帰ってこないかもしれない、だけれども戦争だからどこ行っちゃうかわからない、満天の星のすべてがいとおしく思えるように僕がどこかにいるから、しかも笑っているからという、遺言なんですね。

息子がこの本を僕にプレゼントしたのは、洋二郎の魂の奥深いところでおやじに伝えたいものがあった、その伝えたいものがこの中にあるよ、というプレゼントだったんじゃないかと思って、ここのところがずしんときました。

読んだ後2,3日して町へ出たら、保育園児が歩いているところを見て、みんなキャッキャと笑っていて、星の王子さまが言ったとおりだ、すべての子供に対して僕の気持ちの中で「みんな幸せになれよ、これから人生大変なことがあるかもしれないけれど、しっかり生きろ」と声を掛けたくなうような気持ちがわーっと沸き起こってきたんですね。 これなんだと洋二郎の声が聞こえてくる、そんなことを感じました。  絵本はそういう深いものを秘めて居る可能性があるのではないかというのに気づかされた一つのきっかけです。

宮澤賢治の「よだかの星」に衝撃を受けました。  醜い夜鷹が周りから仲間はずれにされて孤独な中で天に駆け上って、そこで星からも阻害されて、結局孤独な青く輝く星になって燃えてしまう。 

洋二郎が心を病んで物凄く孤独で大学にも行けないような状態になっていた、疎外と孤独が絵本でこんなにすごく表現できるのかとすごくショックで、絵本を見直さなければいけないと思いました。  大人こそ絵本を読むことが必要ではないかと思って、大人の心がすさんではないか、乾ききっていないか、潤いのある感性をどっかに忘れてきたのではないか、そんなことを思うようになって、絵本の活動を始めました。

荒川区で10数年「絵本を読んで柳田さんに手紙を書こう」という呼びかけを小中学生に出してもらって、夏休み後に1000通ぐらい来ますが、一通一通みると感動します。

「ちょっとだけ」福音館書店の児童書がありますが、「なっちゃん」という女の子が2歳になり、赤ちゃんが出来てお母さんをとられてしまうわけです。  喉が渇いても自分で飲みなさいと言われて、牛乳パックを注ぐがこぼしてしまう。   その絵本を3歳の男の子に読んでいたそうです。  こぼしながら注いだ場面で「凄い」といって拍手したんだそうです。  これは完全に大人の目と子供の目の違いを象徴的に表している。   「なっちゃん」は2歳だからこぼれるのは当たり前、それをおいしそうに飲んでいる。  母親である私は「こぼしちゃダメ」と叱っていた。  注げたことに目もくれないで。

牛乳パックからコップに注いでこぼれても叱るのではなく、注ぐことが出来たことに対して褒めて一緒に喜んであげる、これは子育て、教育の一番の基本ですが、だけどついどっかへ飛んで行ってしまう。

大切な絵本は1000冊あります。 大人の感性がいかに枯れてしまっているか、しおれてしまっているか、そんなことを問いかける絵本として、「めをとじてみえるのは」文: マック・バーネット 絵: イザベル・アルスノー  子供が「海ってどうして青いの?」という質問に対して、次ページで親がこう答えています。  「毎晩、君が眠ると魚がギターを取り出して、悲しい歌を歌って青い涙を流すから海は青くなるんだよ。」というんです。  こういう答えができるお父さんはいますかね?

「雨ってなあに?」という質問に対して、次ページでトビウオの絵があり「雨って、トビウオの涙だよ。」というんです。

最後に父親が出ていこうとすると「どうして寝なければいけないの?」と聞くんです。  「それはね、目を閉じたときにしか見られない素晴らしいものがあるからだよ」と言うんです。

「とんでいったふうせんは」ジェシー・オリベロス (著), ダナ・ウルエコッテ (イラスト), 落合 恵子 (翻訳)   思い出のある風船がシンボル。  おじいさんは沢山の風船を持っていて、孫は少ない。  おじいさんが変になってきて、段々同じことしか言わなかったり、風船を手放してしまう、暗に認知症のなっていることを示している。  しかし、両親が説明してくれる。 「おじいちゃんの思い出の風船はすべてあなたのものになっているんだよ」  (君が心の中に全部刻まれて受け継いで持っているんだよ。  おじいちゃんはそうやって旅立つけれど、決してすべてなくなってしまう事ではないんだよ、という事ですね。)

私は人間の命の危機というものを捉えて、その一人一人がどう豊かに生きるか、心の問題になるが、そういうものをずーっと見つめてきたものが僕の取材でもありました。

ガンでなくなってゆく人と残された人との話など、人間の命を考えるときに大事なことは、肉体的、社会的な存在としての命だけではなくて、その人の固有の精神性の命があり、定年を過ぎても老化しても老後になっても下がることはない、むしろ病気をしたり障害を背負ったりすると精神性の命はむしろ成熟の段階に入って行く。

自分が体験することによって初めて実感としてわかってくる、精神性の命は終生上昇する可能性を持っている。  そのためにも感性を豊かにする、感性を枯れさせないようにする。

死で終わるかというとそうでもない、そういう生き方をすると必ず身近にいた家族、親しく付き合った人達の心の中で彼は彼女はこういう生き方を貫いたよねとか、いつもこういう事を言っていたとか、こういう難しい時には彼だったらこうしただろうなと思うとか、亡くなった後も残された人の心の中では生き続ける、そして心の成長をささえる。   亡くなった後でもその人の命はなお成長してくと言うような、私はそれを「死後生」と名付けた。

「とんでいったふうせんは」はまさに「死後生」のことを語っている。  おじいちゃんが持っていた風船が全部孫の風船になる。 ずーっと人間の生き方、家族の生き方は伝わって行く。

「死後生」を考えると、翻って今どう生きるか、自分自身いずれ死がやってくる、死後の生はどうあってほしいとか、死後の未来を考えたときに、今どう生きるかとか、人とどんな関わり合いを持っていくか、家族関係の中で自分は何をするのかとか考えるわけです。   「死後生」を考えることは今を考える事でもある。  未来も過去も現在の中にある、「今でしょ」という有名な言葉がありますが。  人間の命は「今でしょ」という事になって行くんですね。

苦しんでいるときに、今という事を考えたときに自分を否定的に考えるのではなくて、より前向きにたとえ病気、心を病んでも、今という事の意味をそう考えると一筋の光を見つける事ができるのではないかと思います。

自分の人生は無意味だと思う人も少なくはない。 しかしそうではないと思う。  日常茶飯事のこと、ご飯を用意するとか、ごみを捨てに行くとかのつながりが一日の時間の流れになるが、実は その一つ一つの事が物凄く意味を持っている。  日常の茶飯事は空に広がる星の一つ一つみたいなもので、全部意味もなくただそこにばら撒かれているように見えるけれど、それを星座という形で星をつなげてみると物凄い豊かな物語が出てくる。    人間は物語を求める存在、物語によって意味付けを考え納得する。  空の星で星座を作るように、自分の人生の様々な出来事を星座のような形でみると、自分はこういうふうな脈絡で生きてきたのかとか、たいしたことはやってこなかったと思うけれど、ああ意外に誰かの役に立っていたのかとか、非常に肯定的な見方ができる、これが星座という考え方ですが、「人は物語を生きている」という事はまさにそのことです。

僕は作家として、災害、戦争、原爆被害にあった人の話とかを聞いてエピソードを書いたりしますが、その人の物語の文脈としてとらえて、私に気づかしてくれているのかと考えながら原稿を書きますが、根底には物語性を絶えず意識しています。

物凄く世界は危機的ではありますが、負の要素をプラスに転じる力を人は持ってるにちがいないと思います。  一番の危機は核戦争です。 感染症、自然災害、などありますが、人間がどう生き延びてゆくのか、それが今の時代の大きな宿題、課題になっていると思います。  一人一人を生き方を見てゆくと自分自身の人生というものを一つの物語としてみてその中から自分なりの肯定観を持ってゆくという事がとても大事だと思います。

人生のみちしるべとなったのは現場であり、現場の人間と言っていいと思います、そこから自分の思想、生き方をつかんでゆく、それが人生のみちしるべではなかったかと思います。

地道にこつこつ今までの集約をするようなことを書きたいと思っています。




 




2020年10月8日木曜日

久保 瞳(視覚障碍者ランナー)     ・マラソンで得た第二の人生

 久保 瞳(視覚障碍者ランナー)     ・マラソンで得た第二の人生

岡山県にお住いの久保さんは今年74歳、30歳半ばのころ医師から50歳までに失明すると告げられ48歳で目が見えなくなりました。 病名は網膜色素変性症でした。  マラソンで得た第二の人生、久保さんに伺いました。

月、水、金と土(月に2回)、一ヵ月に200kmぐらい走っています。  紐を結んで手を取り合いながら走っています。

岡山市総合運動公園は人見絹江さん、有森さんの像がありオリンピックでメダルを取った人です。

50歳の時にマラソンブームがあり、新緑の風を感じて走れたらどんなに気持ちいいだろうと思ったのがきっかけでしたが、伴奏者がいなくて10年が過ぎて、60歳の時に20歳若い私と同じ病気の彼女が電話をくれました。

紐と言葉で段差があるとかカーブがあるとか説明を受けながら走るので安心できます。

ラジオ深夜便の放送で沖縄の男性で両足義足の人がホノルルフルマラソンを完走したという対談を聞いてしまって、私は目は見えないが自分の足があるのでフルマラソンを走ってみたいと衝動にかられました。  一度でいいからホノルルに行きたいと言ったらリーダーが行こうと言ってくれました。

練習をして、伴奏リーダーが大腸がんになってその年のホノルルマラソンは行けなくなりました。  ホノルルマラソンは時間無制限ですが、ゆるい制限時間で参加できる大会が日本にもあるという事で、63歳の時に宮崎の世界青島太平洋の大会にエントリーしました。

走る時に伴奏リーダーさんに2つのお願いをしました。 一つはゆっくりでもいいから歩くことなくゴールがしたい、5時間が1秒でも切れたらという事でした。 制限時間が6時間30分でした。  結果は4時間44分11秒でした。 うれしくて周りに報告しました。

65歳で吉備路マラソン、第一回神戸マラソン、ホノルルマラソン、そのほか沢山のマラソンに参加して走りました。

72歳の時にはオーストラリアのゴールドコーストのマラソンに行きました。  

岡山の盲学校の元教頭の竹内先生がモンゴルに盲学校を作って、その後キルギス共和国に視覚障害者の訓練施設を作って、それを見届けるために行くのでという事を先生から電話があり、シルクロードマラソンもあるという事で走りたいと思って一緒にいきました。  6000m級の山々が連なっていてまだ貧しい国でした。 走るところは1600mの高地でした。    フルマラソンは100名ぐらいの参加で女性は10人で70歳は私一人でした。  風景などの説明があり想像しながら走りました。

15km付近でお腹具合あが悪くなりトイレに行きたかったが、身振り手振りである男性に伝えて畑のなかのトイレに連れて行ってくれました。  お礼を言ったら大きなチューリップをくれました。 言葉は全く通じませんでした。  チューリップの色は赤でした。 

制限時間は7時間でしたが、5分前にゴールすることができました。  おばあちゃんがゴールしたという事で大変な歓迎を受けました。

NHKだったと思いますが、「世界ののど自慢」がありキルギスで優勝したグルムさんという女性が日本に来て「涙そうそう」を歌って、岡山でもコンサートという事になりました。グルムさんを含めて通訳の方とか4人が我が家に一泊泊まっていただくことになりました。  グルムさんは全盲の方です。

30代半ばで見えない部分がある言うことに医者に行きましたら、網膜色素変性症という事でした。  50歳までに失明すると告げられとてもショックでした。

私は一般臨床検査師をとりました。42歳で段々見えなくなる中で姑さんの介護をしました。

最後は姑さんは入院しましたが、手をさすっていたらしばらく握って離さなかったんで、私の介護に納得してくれているんだなとほっとしました。 母の介護もしました。

そのうち天国で母に逢えたら見えなくなったけど大勢の人に支えられて結構楽しい人生だったよと、報告出来るようにこれからも生きていきたいと思っています。

夢は80歳を目標にフルマラソンを走り続けたらいいと思っています。 自分から笑顔を発信しながら生きていけたらいいと思っています。



2020年10月7日水曜日

伊藤裕作(作家・歌人)    ・寺山修司の背中を追って

 伊藤裕作(作家・歌人 伊藤裕作)    ・寺山修司の背中を追って

1950年三重県生まれ、寺山修司にあこがれて家出同然に上京、寺山修司と同じ早稲田大学教育学部に入学し短歌会にも入り寺山修司の様に行くことを決意、大学を7年かけて卒業、ルポライターとなり寺山修司のメッセージを自分なりに探ります。  55歳で大学院に社会人入学、2009年修士論文をまとめた著書「私は寺山修司・考 桃色編」を上梓し、同時に東京と故郷の津を行き来するハーフターンと名付けた生活を始めました。  以来10年にわたって故郷の再発見と地域おこしに取り組み、その中で近代である東京と前近代である地方との融合といわれた寺山線の世界とそのメッセージがはっきりしてきたといいます。  2018年にはその成果をまとめた著書「寺山修司という生き方望郷編」を、今年4月には歌集「心境短歌(わたくしたんか) 水、厳かに」を上梓、又大掛かりな野外劇を上演する劇団で役者としても活動しています。  いまだ寺山修司の背中を追い続けているという伊藤さんに伺いました。

僕が高校2年生(1967年)進路で悩んでいた時に、受験勉強をして深夜番組を見ていたら、天井桟敷の舞台が映っていてそれに凄い衝撃を受けました。 絶対に東京に行こうと思いました。  早稲田大学教育学部へ何とか入学できました。

芝居、短歌など文学的な部分もかじろうと思って、高校3年ぐらいから短歌も読み始めました。

大学に入ってアルバイトしながら劇団に行けるかどうか考えたときに、新聞配達で朝刊,夕刊もやらなければならず、それはできませんでした。  

1968、9年の4月に三重の実家に帰るが、その日が連続ピストル射殺事件の永山 則夫が捕まった日で、彼とは同年の人でした。

青森から出てきて東京で生きていくのにもがいている人間がいるんだなという思いを強くした事があります。  池袋のアパートに入って早稲田短歌会にも入って本格的に短歌を始めました。

早稲田祭で寺山修司さんは観客参加の芝居をするんだというような話をしていました。

寺山さんの芝居はアルバイトしながらずーとみていました。 

1970年代、ヨーロッパに行ったりした後の寺山さんの芝居は土着性が減っていって僕にとっては難しいという印象を受けました。

どちらかというと短歌を作る生活にのめり込んでいっていました。 

大学には7年いました。 日活が募集をしていて受けましたが、一次、二次が通って役員面接まで行きましたが振り落とされました。  「微笑」という雑誌の編集の人と知り合い週刊誌のデータマンとしてお世話になり、物書き修業が始まりました。

当時ネオジャーナリズム、沢木耕太郎さんがすごい勢いで書かれていましたが、僕自体はネオン街での女性たちの話を聞いてやっていたので、ネオンジャーナリストと名乗って、ネオン街の女性の声を拾い上げる仕事を始めました。

1988年歌集「シャボン玉伝説」を出す。その前年に俵真智さんが「サラダ記念日」という歌集を出して270万部売れる大ヒット作品になる。  それに触発されて100人のネオン街で働く女性の心情を歌にしました。  「ローションが体の奥に沁みてゆく膝肘心つるりつるつる」とか。

30年間ネオンジャーナリストをして、戦後の娼婦小説と寺山さんの娼婦観の違いを纏められないかなあと思って、55歳で法政大学大学院に社会人入学。 

大学院は4年かけて59歳の時に「戦後の娼婦小説の系譜と寺山修司の娼婦観」という修士論文を書きました。  博士課程は語学も必要という事で英語は苦手だったので諦めました。

地元の住職から浄土宗の法然さんは娼婦であっても南無阿弥陀仏を唱えれば救われるんだという話をしていただき、田舎のお寺が浄土真宗、親鸞さんのお寺なので同様であるという事で、僧侶になるための勉強をしようと思って、名古屋に同朋大学別科があり、2年間勉強しました。   

東京と三重を夜行バスで行ったり来たりする生活をハーフターンと名付けて、親鸞聖人の教えを学ぶと同時に、1974年に寺山さんが監督された「田園に死す」という映画のラストシーンと、このバスでの光景は同じではないかと思って、寺山修司の世界をより勉強しようという形で修行のような生活を始めました。

津では劇場を借りて、劇団の人の世話になって4回ぐらい公演をしました。 地元の人には聞いてもよくわからないといわれて、その後津市芸濃町の東日寺境内での「水族館劇場」(東京で親しくしていた野外劇をやっている)による小屋掛け芝居『この丗のような夢 パノラマ島綺譚外傳』を公演しました。

ハーフターンを10年ぐらい続けてきて、津と東京との生活の差があり、「故郷を出た人間は裏切り者であるという事を故郷の人達にはある」と寺山さんが書いていますが、もっともっと故郷にいる時間をもって、短歌を作ったり、親鸞の勉強をしながら、産土神(うぶすながみ)の神社にお参りしたりしていたが、もう少し故郷に帰る期間を多くしながら東京と故郷を行ったり来たりする生活をしたいと思っています。

「この世では産土神に守られて弥陀の光に乗ってあの世へ」    伊藤裕作

神と仏に守られて故郷からあの世へ行ければいいかなあとは思っていますが、どうなるかわかりません。








2020年10月6日火曜日

内田洋子(ジャーナリスト)       ・私とイタリアの40年、そしてこれから

 内田洋子(ジャーナリスト)       ・私とイタリアの40年、そしてこれから

内田さんは神戸市生まれ、、イタリア在住のジャーナリストです。  東京外国大学イタリア語学科に進み、卒業前にはイタリアのナポリ東洋大学におよそ1年間留学、卒業後しばらくして、イタリアのニュースや写真を日本のマスコミに配信する通信社をおこしました。   その一方イタリア各地で出会った人々とその暮らしを描いたエッセー集を執筆、2011年に「ジーノの家イタリア10景」で日本エッセーイストクラブ賞と講談社エッセー賞のダブル受賞しました。  2019年には長年イタリアの魅力を海外に広めた功績が認められイタリアの「ウンベルト・アニエッリ記念 ジャーナリスト賞」を受賞、最近では「金の籠賞」を外国人では初めて受賞しました。  この6月にはエッセー集「サルデーニャの蜜蜂」を出版する一方、出版社のウエブサイトで「デカメロン2020」と題してイタリアの若者たちの心情を伝える連載をこの春から続けていました。  イタリアにかかわって40年の内田さんにイタリアの魅力、エッセーなどに込めた思い、これからの活動など伺いました。

元々外国語を勉強したいという気持ちがあり、英語が主流でしたが、イタリア映画が好きでイタリア語を勉強することになりました。  現地に行ってみないと分からないのでナポリに留学することになりました。(1981年)

1980年11月に大震災があり街中が壊滅状態でした。 大学も閉鎖状態で最初大学にも行けませんでした。  紹介していただいた個人の家に宿泊しました。  1年弱いました。

28歳ごろにイタリアのニュースや写真を日本のマスコミに配信する通信社をおこしました。 デザイン、建築、ファッション、アニメーション、映画、文化イベントの企画などお手伝いしました。

イタリアの日本文化びいきの人たちはすべてアニメーションがきっかけになってるといいと思います。

通信社は今も続いています。

各地に散らばっている記者、カメラマンなどのネットワークがいろいろなニュースが上がってきますので、私の通信社の名前で日本のマスコミ各社に送っています。

イタリアの案内を書いてほしいという事でガイドブック的なことをなぞって、普通の生活を見るという本にしてみようと思ってエッセー集の本を書きました。

エッセー集は短編小説のような感じになっています。 その人の心の中に入る、その人の立場で起こっていることを書いてゆくとなると一つの物語になります。  色々お付き合いをしている人が対象になっています。

2011年に「ジーノの家イタリア10景」で日本エッセーイストクラブ賞と講談社エッセー賞のダブル受賞しましたが、取ろうと思って書くのではないので、驚きましたが結果的にはよかったと思いました。  

イタリアの人は凄く感情が豊かで表現する方法に長けていて、ダイレクトな人と人のつながりが日本よりも良いのではないかという事が一つと、何か問題に直面した時にどう乗り越えるのかを個人個人で解決方法を持っている。  コロナでロックダウンの隔離の政策に入ったが、首相令を発動するときに、疫病に病んでゆくと心も病んでゆくので、そうならないように心を守ろうと、コンテ首相が発明した言葉です。

経済を優先してはいけない、経済も大事だが先ずは人間の健康を守って生きて残ろうという言葉が印象的でした。 

「金の籠賞」 イタリアの本屋さんが作った知られていないが、その賞をいただきました。 1953年にできた賞です。  イタリア以外の外国人では初めてです。

コロナでは知人友人を含めて5人亡くなりました。 通信社としては暗いものを扱わないようにと思っていましたが、今度ばかりは扱わざるを得なかった。

出版社のウエブサイトで「デカメロン2020」を連載。  デカメロンは男性3人女性7人がペストの危機の時にフェレンツエから郊外に逃れて一人10編、全部で100編の話をする前提で、疫病文学の一番最初の原点になり、そういうカテゴリーができた。  前書きでは詳しく感染がどうやって広がり人心がどうやって乱れていくか克明に描かれている。

イタリアの若者24人に元気なことを報告してほしいという事で、原稿、写真、動画などで3か月間毎日行って来ました。  いったん画面は打ち切りにしましたが、彼らとは打ち切らずにしていて、返事を書くような感じで纏めてみようと思ったのが「デカメロン2020を待ちながら」というタイトルで書きました。

最近「イタリアの引き出し」という本、作家ジャンニ・ロダーリさんの児童書の翻訳、などを手掛けています。


 

2020年10月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

ほむほむのふむふむスペシャル、「ほむほむむと短歌を楽しもう」その2番外編、リスナーの皆さんからの短歌を中心に行います。

テーマ「家族」  最優秀ほむほむ賞

*「十二本スプーン曲げをされた日に真顔で元に戻した私」   古賀孝枝さん


*「その花火誰と見たのと尋ねれば自分の膝と素知らぬ顔で」  牛尾渚さん

自分の膝というところが面白い。

*「母だけが少し悲しい顔してる小さな頃の家族写真は」    白素さん

リアルタイムで写真を撮ったときには気づいていないが、時間がたって遠い昔の家族写真を大人の目で見てみると、みんな楽しそうなのにお母さんだけ少し悲しそうだという事に今だから気付いたというように、微妙な感情。

*「猫たちのごろり昼寝に誘われてひんやり床に私もごろり」 向井芳江さん

テーマ「家族」ですが、猫たちが家族なんですね。 一般的に猫を人間側に入れるが、この歌の面白さは猫側に自分が混ざっていっている。

*「三つ編みも編んでくれるし弁当も持たせてくれる母って人は」 西島まどみさん

改めて気付いてくれる、「母って人は」という言い方が面白い。 「三つ編みも編んでくれるし」というのがいいですね。 母と娘のいい時間。

*「誕生日することがないと白状をしている実の母に向かって」  古賀孝枝さん

恋人も友達もいないのかみたいな感じが暗に言っているような、自虐的な感じ。 白状という言葉が使われているのが心理の屈折を表している。

*「群れを成す猿の一家は不思議にも我をいざなう多摩の源流」   石井秀幸さん

猿の一家にスカウトされたような不思議な歌です。 なかなか面白い発想です。

*「読み返すモモのぺージに仕送りの現金封筒メッセージ付き」   縞三毛さん

モモは有名なミヒャエル・エンデの作品   読み返したら多分忘れていた仕送りの封筒が出てきた。 モモというのもいいですね、時間がテーマになっている作品。 

*「何回もほどけてしまう靴紐と折り合いをつけ実家へ向かう」 大西ひとみさん

主に心理的なもので、実家へ帰るのに気が進まない感じ。 心の靴紐を結び直しながら実家に戻っていくんでしょうね。 結婚しろとか親はうるさいですからね。

*「ビートルズに打たれて以来一人きり籠城していたラジオの部屋に」うらはさん

ビートルズにショックを受けて親に言ってもよさが判らないので言っても伝わらない、そこで初めて親の支配権から出て一人の部屋に閉じこもる。 親の管轄外で、それが自分の次の一歩になって行く。

*「包丁を研いで喜ぶ妻待てば一目くれてそれ使ってない」  伊藤正夫さん

年季の入った夫婦ですかね。  妻が喜ぶだろうと思って、自ら進んで包丁を研いで妻の喜ぶ顔を楽しみに待っていたら、ちらっと見てそれ使ってないといわれてしまう。  でもどこか波長が合っているような気がします。

*「ゼロアイスと妻がつぶやく食べ終えたアイスの棒をじっと見つめて」 穂村弘

「ゼロアイス」というのは食べちゃたという意味ですが、独り言を言っていた面白さがあったので作りました。

注:「*」の短歌及び名前は漢字、ひらがな等記載が違っている可能性があります。












2020年10月4日日曜日

潘 恵子(声優)            ・【時代を創った声】

 潘 恵子(声優)            ・【時代を創った声】

アニメ『機動戦士ガンダム』、『美少女戦士セーラームーン』など重要な役柄を演じ、元祖アイドル声優としても活躍しました。  舞台女優や歌手としても、活躍して来ましたが、あることをきっかけに声の仕事に専念するようになったといいます。

芝居に興味を持ったのは3歳の時です。  家から近くに日劇があって宮城まり子さんの「ガード下の靴磨き」を母が好きで一緒に何回も観にいっていました。 

高校の時に「ヘラン・ケラー」をやったときに、先輩の衣装をつくっていたりして、2年生の時には演劇部のトップになって、ヘレン役をやる事になりましたが、その時にトラブルがあり前歯を2本折ってしまって、お金もかかるんだという事もわかって、自分で働いて稼ぐようになろうと思いました。  そして芝居をやろうと決めました。 講堂には満席となり拍手が忘れられませんでした。

劇団四季に18歳になる前に受けましたが、最後まで残りましたが、落ちてしまいました。

後の話では先生が合否の連絡は受けて、実は受かっていたが母親が駄目という事だったという事でした。 今が幸せなのでこれでよかったんだと思うしかなかったです。

劇団未来劇場の公募があって受けて、研究生になりました。(学校との二足の草鞋ですが、ほとんど学校にはいきませんでした。)

俳優座の舞台にも出させてもらって楽しかったです。  TVドラマ、映画へも出演しましたが、流れに沿わないで細切れなのでどうも合いませんでした。

劇団未来劇場は人間関係と大学の論文もあり忙しすぎて、又結婚することになっていたがそれも壊れてしまい、すべてが嫌になって劇団を辞めることになりました。

友達がカナダで勉強していて、来ないかと言われてカナダに行くことにしました。  好きなことをやればいいんじゃないといわれました。

声優の見学をさせていただいて、1週間後に電話があり野村道子さん(『サザエさん』の磯野ワカメの声を担当)から声の仕事をしたらといわれて、誘われてこの道に入りました。

マイクの扱いもよく知らないまま入って、失敗の繰り返しもしながらやってきました。

アニメで初めてのレギュラーが1977年の『超人戦隊バラタック』(ユリ役)  同年、日本アニメーション製作の『女王陛下のプティアンジェ』(アンジェ役)で初主演しました。

当時声優の人も少なくて、日に何本もやらせていただきました。

「トム・ソーヤの冒険」では相手が野沢雅子さんで大先輩でした。 服部克久さんから「歌える?」と言われたときに歌手になりたかったという事もあるので、「歌いたいです。」といいました。

挿入歌『恋するベッキー』を歌いました。(服部克久 作曲) 歌手にならないか?と言われました。  歌手として主題歌・ED曲を担うことになり、歌手活動を開始。(元祖アイドル声優)

『機動戦士ガンダム』出演当時、ニューヨークで1週間の滞在期間中にブロードウェイの舞台を8本観劇、「王様と私」のユル・ブリンナー を観てそのエネルギーに感激しました。

自分の芝居、歌に「もう無理!」と感じ、自分に何ができるか考えて声の仕事に専念するようになりました。

娘の藩めぐみもガンダムの仕事をして時を経て親子でこの仕事をしたという事はありがたいと思っています。

今後絵本を描きたいと思っています。

2020年10月3日土曜日

藤原辰史(京都大学人文科学研究所 准教授)・「パンデミックの社会を生きる スペインかぜからの教訓」

 藤原辰史(京都大学人文科学研究所 准教授)・「パンデミックの社会を生きる スペインかぜからの教訓

新型コロナウイルスの感染が広がった今の社会の状況は、100年前に世界でスペイン風邪が大流行した時と似た状況にあるといいます。  スペイン風邪は1918年から1920年にかけて広まった新型インフルエンザでした。  世界中で4000万人から1億人が亡くなったとされています。  日本でもおよそ40万人、1/125人の割合で亡くなったという結果がありました。  私たちはこの100年前のスペイン風邪の大流行から何を学ぶことができるのか、新型コロナウイルスの感染とどう向き合えばいいのか伺いました。

当時第一次世界大戦があり、メディアも海上ケーブル等を通じて情報が繋がっているグローバルな状況の中で、パンデミックが世界中に広まったという意味ではとてもよく似ていると思います。

ウイルスが病原体で、非常に感染力が強いという事はとてもよく似ています。  船が世界中に運んだ、乗り物が媒体になったという事もおおきいし、有名人が亡くなってみんなが動揺することも似ています。 医者は対応もわからず、医療崩壊して困ったという資料も残っています。  デマが広がったという事も似ています。

第一次世界大戦が1914年から始まって1918年までありましたが、最終年では疲弊していて、ヨーロッパの植民地が東南アジアにあったので そこから多くの人や物がヨーロッパ大陸に移動していた。  兵士、労働者の移動が激しかった。  軍隊の移動も体調が悪くても命令に従わなければいけなかった。  女性、お年寄りも戦時下で低栄養化であり、免疫力も低下していた。

スペイン風邪と一般に言われるが、スペインは当時中立国で報道規制がなかったが交戦国では情報を統制していて、インフルエンザの感染が拡大したニュースがスペインでは一番早く伝わっただけで、実はアメリカが発生源と言われていた。

4800万人から1億人が亡くなっていて、世界の1/7~1/8の規模なので物凄い規模の人が亡くなった。  第一波が来て乗り越えて、第二派(第一波の10倍の致死率)、第三派が来て猛威を振るった。

人々の心理が大変な不安にからっれた。 健康な若者が多く亡くなっている。(戦争の影響)

日本でも感染が多く出た大学へのバッシング、医療従事者の子供への拒否、かかった人へのいわれなき誹謗中傷などいろんな不安と共に社会に渦巻くものがあります。

14世紀のペストの時にはユダヤ人が毒を入れたというようなデマが流れた。(ヨーロッパ)加害者がどういう心理で、どういう社会的背景でそのような行為に及んだかという事をちゃんと学んでいかないと、今回のようなことが何回も繰り返されてゆくのではないかと思って、そこが歴史を学ぶ意味だと思います。

今回も様々なデマがありましたが、100年前アメリカではドイツがばらまいたというデマが新聞に載って人々に広がった。 

ドイツで作られたアスピリン(熱さまし)に毒が仕組まれたのではないかというデマも流布され調べたが、問題はなかった。(医療行政が割かれて対応が遅れた。)

センセーショナルな方に気持ちを持っていかれるという癖があり今の時代でも変わらない。

今のようにマスク、防護服を着るという発想がなかったので医療従事者がバタバタ倒れて、病院自体が機能しなくなってしまった。

拍手で医療従事者、看護師への感謝とかあるが、医療従事者、看護師への給料が低くこれでいいのかというところまでいかないと、いけないと思う。 拍手だけでは何にも解決はしない。

医療従事者、看護師の感染リスクに対して、この100年間その人たちが生きていける社会を作っていたのか反省はいくらしてもし足りないと思っています。

ゴミ清掃、介護、看護師、交通機関の方がいなくなったら生活ができない。 そういった何かを保っている人たちに対する給与が低すぎると思うし、そういったことに気付くチャンスが到来していると思います。

当時のアメリカの大統領としてはフランス、イギリス、イタリアなどの首脳を会談していたが、ウイルソンアメリカの大統領が感染してしまった。  その間に動きがあり戦後処理とか、アメリカの大統領もインフルエンザにかかる前後で性格的なものも変わってしまって、戦後処理の対応など国際的な情勢まで変えてしまうような力があったのではないかと推測されている。

ドイツへ非常に懲罰的な流れになり、ドイツがピンチに追い込まれて、ヒットラーが出てくる基盤ができて、第二次世界大戦になって行くが、もう少し違うドイツへの接し方があったのではないかと、歴史から我々はすこし学んでいる。

歴史は偶然の積み重ねであり、偶然の一つは災害、戦争、感染症などであるが、どう歴史に影響するのか、歴史研究のだいご味でもある。

欧米ではマスクを忌避する傾向にある。

不安に置かれると人々は強い言葉に惹かれる傾向がある。  ヒットラー、ムッソリーニは簡潔でわかりやすく敵を明確にする言葉を使って、民衆の支持を獲得していった。

わかりやすい言葉は人々の心を捉えるが、チェックしなければいけないのは、その力強くて短い言葉からだれが排除されているのか、どういう事象が脇に追いやられて見えなくなっているか、危機の時にこそそういったダークサイドを見極める力を持たなければいけない。

「自分の国中心だ」という考えのリーダーが増えてきて、そのさなかにコロナウイルスが出ていたという事は本当に警戒しないといけない。

話し合いがチャンスだと思うが、どこがワクチンを先に出すのかとか、そういう状況はマイナスだと思います。

「私たちは歴史の女神に試されている。」 私たちは歴史から学ぶ力がないんじゃないか、繰り返しているじゃないか、そういうことを歴史の女神から突き付けられているような気がする。

本当の進歩は他人への想像力、一体どういう風なところにこの問題がしわ寄せされているのかという事を気付くことだと思います。 今まさにテストされていると思います。    歴史の本には戦争、虐殺が書いてないページはない、繰り返していることの愚かさを気付くべきです。

魔女狩りは暗黒時代と我々は教えられてきたが、ある特定の差別意識、SNSとかでの精神的な火あぶりが現在行われている。

パンデミック 多くのリーダーが戦争のメタファーでパンデミックと向き合って発言している。  勝ち負けで捉えてしまうと言う事は、今回の危機に対して脆いと思う。 終息後誰に一番負担が来るのだろうかという、アフターコロナ、ウイズコロナ、そこまで見通した考え方を持っておかないと、いけないと思う。  今回経済危機がセットなので、コロナ不況が長期間続いていく可能性があるわけなので、気を付けないといけない、勝ち負けという言葉で見えなくなってしまうほうを重視したいと思います。

危機の時代は楽観主義に捉われやすいが、歴史を参考にしながら、目の前のニュース、データから、批判力、疑う力、だまされない力が試されていると思います。





2020年10月2日金曜日

舘野 泉(ピアニスト)         ・逆境を乗り越えての演奏生活60年

 舘野 泉(ピアニスト)         ・逆境を乗り越えての演奏生活60年

2002年65歳の時に脳溢血で倒れて右半身不随となるも左手のピアニストとしてカムバックし、今も精力的に音楽活動を続けています。

今年演奏生活60周年、1月にリサイタル2回出来ましたが、2月からコンサートは全部中止か延期になって何もできませんでした。  そうなると勉強もできませんでした。

家内がフィンランド人でついて回ることになっていましたが、フィンランドから出られなくて日本に来られませんでした。

芸大卒業後27歳でフィンランドに移住して家族を作って、義理の母親(99歳)が老衰で亡くなりました。 コロナの関係で入院先にも会う事はできませんでした。  7月1日に運航が始まり帰ることができましたが、フィンランドでは誰もマスクはしていませんでしたし、検査も軽いんです。 音楽祭などは全部中止になりました。 外国との人の交流も全て駄目になりました。

1936年生まれで、戦争の時には8歳でした。  焼夷弾が落ちて家が全焼して、ピアノもまる焼けで、田舎に疎開しましたが、子供としてはとてもポジティブな経験をしたと思います。  しかし今回は全然違う経験です。

ピアノは5歳5月5日から始めました。  おおい時には生徒さんが週に100人ぐらいいました。   戦後の時代はピアノブームといった感じでした。

戦争が終わったころは人々が文化に対する飢えが大きくて、自由になったんだという事で何でもできるという気風が一般的にありました。  みんながいいものを求めてひたむきであの時代はよかったなあと思います。

小さいころから本を読むのが好きで、高校生の頃に北欧文学のいろんな作家に出会って、いいなあと思って憧れがあって、母が室蘭で、北国に対するあこがれもあったと思います。 音楽で留学するというような事は思ってもいませんでした。  27歳でフィンランドに行きましたが、奨学金をとっていくとか、経済的なバックがあるとか、仕事があるとかほとんど考えていなくて、半年ぐらいは大変困って大変な生活をしました。

ヘルシンキの音楽院のピアノの主任教授が冬に亡くなって、前年に日本人がリサイタルをやって凄く評判になってあの日本人がいいのではないかという事で声がかかってきました。

20人教えてほしいという事で勉強ができないという事で断ったが、仕事が何にもないので引き受けざるを得なくなり段々演奏会の注文が方々からくるようになりました。

彼女(妻)は学生の委員の代表みたいなことをやっていて、時々あっていろいろなことを聞かれたりしたが、その時はどうという事は思っていませんでした。  ある時ぽっと出会うことがあり素敵な子だなあと思いました。 その後とんとん拍子で結婚することになりました。

その後世界中を回っていました。  

2002年に脳溢血をおこして右半身不随になって、ピアノが弾けないし、何にもできないという状態が2年続きました。  その時に家内が「あなたとうとう私の家に帰ってきてくれたのね」と言ってくれました。  1年のうち半分はあっていなかった生活をしていましたので。「安心して静かに養生してください」と言われて、2年経ったら左手で引くようになって、それからまた世界に飛び出すようにはなりましたが。

脳溢血をしたのは65歳でしたが、音楽を辞めるという事は考えていませんでしたし、ピアノを弾かないという風に考えたことはなかったです、確信みたいなものを持っていました。 左手でやるという事は一切考えていませんでしたが、ある時左手の楽譜を見つけて「これでやればいいんだ」と初めて思いました。

翌日には間宮 芳生さんにファックスを送って、1年後に復帰のリサイタルを東京、札幌、福岡、大阪、仙台の5つの都市でやりたいが、左手の曲が無いので新しい曲を書いてくれませんかと書いたら、一日置いてファックスが来て、「喜んで書きます、僕からのお祝いです」と返事がきました。  同じようにほかにノルドグレンというフィンランドの作曲家にも書いていただいて、1年後に左手で演奏を始めました。

マインドが切り替わったきっかけの楽譜はブリッジの曲を息子がピアノの前においてくれましたが、これでやればいいんだと思って、それで間宮さんに翌日ファックスを入れたわけです。

70年代には左手でも弾いていたことはあります。

ラヴェルの左手のコンチェルトは大好きでした。

復帰後15年経ちますが、本当によかったと思います。  左手の曲はほとんどないので自分が弾きたいと思うようなものは誰か作曲家に書いていただかないといけなくて、できたものはたくさんいろんなところで弾くようにしていて、吉松隆さんの「タピオラ幻景」などは200回ぐらい弾いています。  ほかにも100回弾いているものもあります。

左手文庫募金を設立。  15年の間にできた曲が100曲を超えました。

11月10日に84歳の誕生日に演奏生活60周年の記念リサイタルが行われるが、世界中を歩き回って演奏してよくやってきたなあと思います、やっぱり純粋に好きなんですね。  いい人たちとの出会いがあり、その人たち、ファンの力で演奏会ができたので、そういった交流があったので音楽が続けられてきたと思います。 幸せだと思います。 弾いている時が生きているという感じがします。







2020年10月1日木曜日

遠藤展子(エッセイスト)        ・藤沢周平記念館10年の歩み

 遠藤展子(エッセイスト)        ・藤沢周平記念館10年の歩み

平成9年に69歳で亡くなった作家藤沢周平、その作品は今なお多くの人に愛され根強い人気を保っています。  平成22年には故郷の山形県鶴岡市に遺失原稿や作品の初版本など3800点余りの資料を収蔵した藤沢周平記念館が開館しました。  城跡のそばに建って鶴岡市立の記念館として市民にも親しまれ今年会館10年を迎えました。  記念館立ち上げから様々な形でかかわってきた藤沢周平の長女でエッセイストの遠藤展子さんに伺います。

父がなくなって23年になります。 『藤沢周平 遺された手帳』3冊目の本を3年前に出して文庫本化しました。

鶴岡市の人たちが熱心で叔父が市役所に勤めていて、父が亡くなってすぐに記念館を市がやりたいという電話が来て、叔父には断ったが、説得されて10年前に作ることになりました。 藤沢周平記念館開設準備委員会が2005年にできました。

鈴木 晃さんが館長ですが、基本構想からかかわってくれていました。  東京にトータルメディア開発研究所があり、記念館を手掛けていてそこの人にも手伝っていただきました。

記念館には以前住んでいた練馬の家の瓦、木などが随所に使われています。 庭にあった木も移設して元気に育っています。

お世話になった編集者の方などにも意見をうかがいました。  

亡くなってからいろいろ原稿が見つかって、それを整理するのは夫の役目でした。    夫は文学部でしたが、最初父よりも吉川英治さんのほうが好きでしたが、父の作品をたくさん読むようになって、同じ作品を何回も読むようになって、凄く詳しくなりました。

夫はサラリーマンでしたが、2005年に藤沢周平記念館開設準備委員会ができたときに、会社を辞めて一緒に仕事をするようになりました。 夫は勉強して学芸員の資格を取りました。

夫が藤沢周平担当(作家)、私が小菅 留治(本名)担当(父親)という風に分担しました。

母は全部を担当することになりました。 母は原稿にも目を通していて裏方に徹していました。

父の字は癖字で私は読みづらいが、夫は読めるんです。

『藤沢周平 遺された手帳』を書こうと思ったきっかけは、手帳、ノートがあるのは父が亡くなってから早い時期に私が持っていて、それを読んだりしていたが、そのころは30代で、母が亡くなってつらいところばっかり目が行ってしまって、亡くなって20年経ってその間何回も読んでいるうちにこれを残しておかないと分からなくなると思って、母のことも書き残しておきたいという気持ちにもなりました。

心にある鬱屈がどういうものなのかという事は表面的には分かったような気にはなっていたが、手帳を読んでるうちによくわかって来ました。  本当はこうなんですという事を知らせたいと思って、記念館ができているということもかかわりがあると思います。  記念館の役割の中には研究という事もあり、ほかの人がやるより私がやったほうがいいという思いがありました。

手帳の中に読まれたくないところは破ってあったりしますので、私が読むことを前提に手帳を残したんだと思うんです。

記念館には九州とかからも来ていただいたりして、本当にありがたいことだと思います。

若い人に読んでもらいたいと気う思いがあり、ただ読んで感想文を書くのは面白くないと思って、本を読んでイメージして題字を書いてもらうようにという事をお願いして、館長が高校に話をして書道で藤沢作品の好きなタイトルを書いて、半紙が展示されていて短い感想も書いてあります。  これは私が提案しました。

運営委員は7,8人で東京の編集長の方とか地元の先生などで構成されていて、企画以外にも実務も行います。 

仕事風景が判るような形にしていて、初版本は全部展示しています。

10年やってきて学芸員、職員も知識が蓄積されてきて、企画展も最初のころよりも充実してきました。

藤沢作品には美味しそうなものが出てきましが、海坂藩(うなさかはん)(藤沢周平の時代小説に登場する架空の藩)という鶴岡の庄内藩とは違うが、父が住んでいた時の景色、食べ物などを思い浮かべて登場します。