2020年10月14日水曜日

前田二生(指揮者)           ・"ウィーン"で育まれた、わが音楽人生

 前田二生(指揮者)           ・"ウィーン"で育まれた、わが音楽人生

前田さんは昭和8年福岡県生まれ、86歳の今も東京レディース・シンガーズ、新東京室内オーケストラの常任指揮者として活動しています。  少年時代からクラシック音楽に関心を持っていたという事ですが、当時は音楽を勉強する社会情勢ではなくて、早稲田大学卒業後は会社員として人生をスタートしました。  順風満帆の生活だったんでしたが、40歳半ばで病気になり会社を退職することになりました。  その病床で大好きだった音楽の指揮者になることを決意したという事です。   指揮者になるためにウイーンに飛行機で通って勉強するという大胆な努力が実ってウイーンの楽友協会ホールで指揮を執ることになります。  以後ウイーンで30年間にわたる演奏活動を続けて2010年には「オーストリア科学・芸術栄誉第一等級十字章」を受賞しました。  

経営者でありながら指揮棒を振るという大変珍しい人生を送っています。 「指揮棒と共に半世紀」という本を出版しました。  ウイーンの楽友協会ホールの入り口の大理石のプレートに名前が刻まれていますが、ウイーンの楽友協会ホールも200年近くたっていますが、50名ぐらいの名前が入っていて日本人では初めてとなっています。

古典は音楽や前期ロマンス音楽を発掘して演奏したという事が評価されました。  ウイーンの楽友協会ホールは大きな資料館も持っていて作曲家たちが曲を持ち込むわけですが、大変な数があり、まだ誰も取り上げていないけれど素晴らしいという曲があります。   そういった曲を掘り起していって表に出していこうという作業と実際に演奏を行ったという事です。

モーツアルトが最初に作曲したと思われる交響曲が見つかりました。 2005年に演奏され私が指揮を執ることになりました。

専門家たちが議論しましたが、結論が出ず、楽譜のインク、紙の質など科学的分野からも研究していかなければ結論が出ないという事で、今はこの曲は結論が出ないので演奏禁止になっています。

2010年には「オーストリア科学・芸術栄誉第一等級十字章」を受賞しました。

小学校2年生の時に大東亜戦争が始まって5年生の時に終わりましたが、音楽は軍歌だけでした。  私は占領軍向けのラジオ放送がきけたので、クラシック音楽を流していてそれにかじりつくように聞いて音楽に憧れました。

音楽で身を立てるという事は考えられない時代でした。  予備校に通うことになり、お茶の水には楽器店があり、「ピアノ貸します」という張り紙を見て申し込みました。

そこに通ってピアノを弾いて予備校に使う金を全部使ってしまいました。

翌年早稲田大学に入学して混声合唱団に入って(ピアノがあったので)、2年生の時に選挙で指揮者に選ばれました。  大熊講堂で第一回定期演奏会を開きました。

会社に入りクラブ活動がありそこでの指導をしました。  会社では真面目にやっていたら、40代半ばで身体を悪くして、音楽の道に入ろうかなと考えましたが、社長の理解があり、一生懸命働いて5工場払い下げてもらって、かなり大きな企業体を作って責任を果たしたのかなあと思って、音楽の道に入ろうと始めました。

ウイーンに音楽の飛行機通学をしました。  オペラ劇場の指揮者は職人的な素晴らしい技量を持った指揮者なので、そういう方について実践的な指揮の勉強をしたいと思いました。

オーストリアの国立歌劇場のトップの指揮者でウイーン音楽大学の教授をしていたギュンター・レーマン(指揮者)に弟子入りすることができました。   一日に長い時間を取ってくれ練習場面など目の当たりにしまして凄く勉強になりました。(2年間)

楽友協会で活動をして、ハイドン週間の音楽祭がありそこに登場させてもらいました。

ウイーン芸術音楽週間のプログラムにも参加しました。

楽友協会が主催するところに参加するという事は名誉ある事でした。

ヨーロッパ以外でも日韓、日中での活動もしてきました。

中国は経済優先になってきて残念でした。

音楽を通してコミュニケーションができてきました。

私としてはウイーンがすべて土台になっています。  ウイーンは一味違います。