2020年10月21日水曜日

斎藤雅樹(プロ野球評論家)       ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論

斎藤雅樹(プロ野球評論家) ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論 

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団、1989年日本記録となった11試合連続完投勝利という記録を達成、平成初めの2年間で40完投、13完封を記録してミスター完投、平成の大エースと呼ばれるようになりました。  引退後は巨人のコーチ、2軍監督を歴任、2016年にはサムライジャパンU23代表監督も務めました。  投手人生を振り返っていただきながら投手論を伺いました。

通算勝利が180勝、完投が113完投、11連続完投勝利、沢村賞が3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、勝率第一位3回、ベストナイン、3年連続開幕戦完封などいろんな記録があり、2016年には野球殿堂入りを果たす。

11試合連続完投が誇りですね。  

野球は小学校5年生の時にリトルリーグに入ってキャッチャーをやっていました。  3人ピッチャーがいて自分が入れる余地はなかったです。 中学ではピッチャーと内野手の掛け持ちでやっていて、高校では1年ではセカンドで、ピッチャーもやりました。   高校2年生の秋に地方の高校と練習試合をやる時に投げることになり、その頃スピードも出てきました。

高校3年最後の夏で決勝戦で負けてしまいました。(1-3で負け)

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団しました。 1年目は1軍には上がれなかった。  藤田監督からサイドスローにという事を言われて、9月まで多摩川で練習していました。  腰の回転が横回転になっていると気う事で腕の振り方も合わせるという事でした。 

翌年デビュー、初登板で2/3回で降板して自信を無くて、2軍に行って、8月に復帰して4勝しました。  3年目は12勝しました。 フォームが身についてきて変化球も操れるようになりました。  平成元年(1989年) 藤田監督が戻ってきて、開幕2戦目に先発と言われて、投げれて自信にはなりました。 それからローテーションを守って行きました。 

大洋戦で投げて、8回にピンチになり投げ切って交代だと思っていたら、9回も行けと言われて完投できて勝って自信がついてその後11試合完投できました。

藤田監督時代は抑えはまだ確立していなくて、先発ピッチャーが元気で最後まで投げさせるような展開でした。  最近は役割分担がはっきりしてきているが、最後まで投げてベンチに帰ってゆくという事も何回も体験してくれたらいいと思います。

甲子園で連続完投の記録が途切れてしまいました。  

1994年10月8日 巨人ー中日戦で勝ったほうが優勝という大一番で、この試合の勝利投手になりました。   10月6日にヤクルト戦があり僕が投げて勝ったら優勝だったんですが、負けてしまって、最終決戦になりました。  先発は槇原さんでした。 長嶋監督は事前に槇原、桑田を呼んでいましたが、僕は呼ばれていなかったので、まさか投げるとは思っていませんでした。  敵陣の名古屋球場の雰囲気は異様な雰囲気でした。  先発の槇原さんは不運な展開になっていました。   2回裏2-2同点でノーアウトでランナーが1,2塁の場面で登場することになりました。   ベンチから「斎藤」と呼ばれて流石に嫌だなあと思いました。

この回を抑えることができて、5イニング投げ切って勝利投手になることができました。  あの試合を経験してどんな状況でも出来るというような自信を貰いました。  中途で内転筋を痛めてしまったが行くことになりました。  槇原-斎藤-桑田のリレーになりました。

チームのエースは任された試合にしっかり結果を出せるという事はもちろんですが、何年も連続していい成績を残すことがエースだと思います。

僕は直球、カーブ(スライダー)、シンカーが主な球種でした。

技術的なことで言うとコントロールだと思います。  自分で操れる球が多ければ多いほどいいピッチャーだと思います。  精神的なことを言えば度胸だと思います。

若い人にはいろんな人のいう事をしっかり聞くという事も大事ですが、自分に合っているかどうかしっかり試せるかどうか、言われたことを自分で考えて行動することが大事だと思います。