遠藤展子(エッセイスト) ・藤沢周平記念館10年の歩み
平成9年に69歳で亡くなった作家藤沢周平、その作品は今なお多くの人に愛され根強い人気を保っています。 平成22年には故郷の山形県鶴岡市に遺失原稿や作品の初版本など3800点余りの資料を収蔵した藤沢周平記念館が開館しました。 城跡のそばに建って鶴岡市立の記念館として市民にも親しまれ今年会館10年を迎えました。 記念館立ち上げから様々な形でかかわってきた藤沢周平の長女でエッセイストの遠藤展子さんに伺います。
父がなくなって23年になります。 『藤沢周平 遺された手帳』3冊目の本を3年前に出して文庫本化しました。
鶴岡市の人たちが熱心で叔父が市役所に勤めていて、父が亡くなってすぐに記念館を市がやりたいという電話が来て、叔父には断ったが、説得されて10年前に作ることになりました。 藤沢周平記念館開設準備委員会が2005年にできました。
鈴木 晃さんが館長ですが、基本構想からかかわってくれていました。 東京にトータルメディア開発研究所があり、記念館を手掛けていてそこの人にも手伝っていただきました。
記念館には以前住んでいた練馬の家の瓦、木などが随所に使われています。 庭にあった木も移設して元気に育っています。
お世話になった編集者の方などにも意見をうかがいました。
亡くなってからいろいろ原稿が見つかって、それを整理するのは夫の役目でした。 夫は文学部でしたが、最初父よりも吉川英治さんのほうが好きでしたが、父の作品をたくさん読むようになって、同じ作品を何回も読むようになって、凄く詳しくなりました。
夫はサラリーマンでしたが、2005年に藤沢周平記念館開設準備委員会ができたときに、会社を辞めて一緒に仕事をするようになりました。 夫は勉強して学芸員の資格を取りました。
夫が藤沢周平担当(作家)、私が小菅 留治(本名)担当(父親)という風に分担しました。
母は全部を担当することになりました。 母は原稿にも目を通していて裏方に徹していました。
父の字は癖字で私は読みづらいが、夫は読めるんです。
『藤沢周平 遺された手帳』を書こうと思ったきっかけは、手帳、ノートがあるのは父が亡くなってから早い時期に私が持っていて、それを読んだりしていたが、そのころは30代で、母が亡くなってつらいところばっかり目が行ってしまって、亡くなって20年経ってその間何回も読んでいるうちにこれを残しておかないと分からなくなると思って、母のことも書き残しておきたいという気持ちにもなりました。
心にある鬱屈がどういうものなのかという事は表面的には分かったような気にはなっていたが、手帳を読んでるうちによくわかって来ました。 本当はこうなんですという事を知らせたいと思って、記念館ができているということもかかわりがあると思います。 記念館の役割の中には研究という事もあり、ほかの人がやるより私がやったほうがいいという思いがありました。
手帳の中に読まれたくないところは破ってあったりしますので、私が読むことを前提に手帳を残したんだと思うんです。
記念館には九州とかからも来ていただいたりして、本当にありがたいことだと思います。
若い人に読んでもらいたいと気う思いがあり、ただ読んで感想文を書くのは面白くないと思って、本を読んでイメージして題字を書いてもらうようにという事をお願いして、館長が高校に話をして書道で藤沢作品の好きなタイトルを書いて、半紙が展示されていて短い感想も書いてあります。 これは私が提案しました。
運営委員は7,8人で東京の編集長の方とか地元の先生などで構成されていて、企画以外にも実務も行います。
仕事風景が判るような形にしていて、初版本は全部展示しています。
10年やってきて学芸員、職員も知識が蓄積されてきて、企画展も最初のころよりも充実してきました。
藤沢作品には美味しそうなものが出てきましが、海坂藩(うなさかはん)(藤沢周平の時代小説に登場する架空の藩)という鶴岡の庄内藩とは違うが、父が住んでいた時の景色、食べ物などを思い浮かべて登場します。