森 公美子(歌手) ・【私のがむしゃら時代】命の現場で見えたもの
今年61歳になった森さん、なんでも見る前に飛べの精神でやってきたといいます。 仙台で旅館を営む両親のもとに生まれ、14歳の時に或る歌手のコンサートを見て音楽の世界に憧れた森さんが、プロの歌手としてデビューするまで持ち前の行動力で突き進んだ日々だったといいます。 そんな森さんに大きな試練が訪れたのは、2006年、6年前結婚した夫が交通事故にあい脳挫傷のため右半身がマヒし車椅子の生活になったのです。 歌手の仕事をつづけながら看護と介護で疲れ果て、不安で先の見えない日々、そんなとき介護士のある言葉に救われたといいます。
3,4,5月の舞台はすべて中止になり、腹をくくって、料理が趣味なので朝から健康食などいろんなものを作っておおくのメニューを習得しました。
新しい自分をと思って、タイムスリップした脚本を書いたりして楽しんでいました。
10月3日からミュージカルがスタートします。 思い切り声を出すという事はストレスが消えてゆく存在でもあり生業としてこの道を選んだのはよかったなあと思いました。
父がアメリカンポップスが好きで、アメリカンポップスの曲が流れていて、祖父母は詩吟をやっていました。 音楽に囲まれた生活でした。 讃美歌のある学校だったので讃美歌をハモッたりしていました。 中学3年生の時にたまたまジャズ歌手・サラ・ヴォーン のコンサートを聴いてしまってかっこいいなあと共にあんなおばさんになりたいと思いました。
ジャズをやりたかったが、母が基本的な勉強をしてからという事で、昭和音楽短期大学に進んでクラシックを学びました。
在学中に成人式の振袖代わりに親に100万円を出資してもらい、イタリアのミラノへ留学する。 なかなかいけると思ったが、挫折に挫折を重ねてこんなにも凄いことなんだと思いました。
テクニックと同時に精神の強さ、表現力の凄さを目の当たりにしました。 その時はプッチーニの「ラ・ボエーム」でした。
イタリアの友達にいつ頃初めてオペラを聞いたのと聞いたら、3歳ぐらいかなと、ラ・ボエームはレコードで1000回以上聞いたとのことでした。 私はラ・ボエームは初めてでした。
落ち込んで父に「スカラ座には立てない」と言ったら、期待していなかったらしくて「スパゲッティーの3品ぐらい作ってくっれればいいと思っている」といわれてしまいました。 電話の最後に「イタリア人になり切って生活して見ろ」と言われました。
みんなの家に訪問するようになり、コミュニケーションをとるようになりました。
声楽のほうも、自分ではソプラノかなと思っていたら、お前の声はドラマティック・ソプラノだと言われてイタリア人にはあまりいないといわれました。
ロンドンに住む叔母のところへ訪れた際に、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観て衝撃を受け、オペラからミュージカル歌手への転向を決める。
ミュージカルデビューは1983年の東宝ミュージカル『ナイン』でした。 そこからミュージカルの仕事がどんどん入ってきました。
オペラからミュージカルに変わってから、「芸術家から芸能人になるんだったら自分でやりなさい」と言われ父からの援助はぷっつり無くなりなりました。 母からも突き放されてしまいました。
「食べられる野草」という本を5000円で買って、野草でも食べられるものが沢山あることを知りました。 それが料理につながっていきました。
アルバイトで銀座で裏方をやるつもりだったが、英語、イタリア語が話せるという事でホステスとして働くことになりましたが、初日に「よろしくお願いします」と言って顔を上げたら父の同級生で3時間お説教され、父は烈火のごとく怒って帰ってこいと言われましたが、次のミュージカルが決まっていたので、最終に父が『ラ・カージュ・オ・フォール』を見に来て大感激しました。 そこから仕送りが再開しました。
10年間付き合っていた人と2001年にサイパンで結婚しました。
2006年8月13日に夫は交通事故にあいました。 命は助かったが、脳挫傷でICUに入って、右半身が動かなくなり、飲み込みも出来なくてとろみ食を作らなくてはいけなくて、その後長い間リハビリの病院に入っていました。
仕事があるので、3人交代でやってもらって120万円かかって、障害者手帳を貰う事も知らなくて、区に相談したら区からの介護士の派遣も出来るという事でした。 ストレスから顔面神経痛になり歌えなくなると思って、1週間入院してその後一ヵ月いろいろ鍼治療とかしてもらって直しました。
区から「介護ベッド、車椅子なども全部補助金で賄えるんですが」、と言われたが既に自分でそろえてしまっていたので、お金は戻りませんと言われてしまいました。
区に相談したり、いろんな方に相談すると光が見えてきて、なんでも抱えたら誰かに相談したほうがいいと思って、スタートしました。
「家族は介護はできないです。 何故なら元気なときも知っているし、楽しい時も知っているし、すべて知っているから、なんでそうじゃないの、という事をずーと考えてしまうんです。 だから介護は家族はできないんです。 だからプロに任せてください。」と言われて「奥さんは時々来て励ましてあげてください。」と言われました。 そういう風に介護士さんから言われました。
それから14年経ってコロナ禍の中、新しくできた施設に入ってもらってしのいでもらうようにしています。 母が去年亡くなりました。
母は「ゴースト」を見たときには感涙しました。 あなたは凄くよかったと涙ながらに話してくれました。 ほとんど舞台を見てくれたり旅行をしたりして、又よく私を笑わせてくれて、面白い母親に育ててもらって幸せです。
去年還暦を迎えて、65歳で引退しようと思ったりしたが、コロナでこんなに暇になるんだったら引退するものか死ぬまでやろうと思いました。