2022年6月30日木曜日

観世清和(二十六世観世宗家)      ・コロナ禍で能が果たす役割

 観世清和(二十六世観世宗家)      ・コロナ禍で能が果たす役割

観世能楽堂が移転してから5年になります。  あっという間の5年でした。  コロナ禍で芸道に携わる人もどうしても気持ちが下がってしまいます。    下がらないように立ち止まって振り返ることも大事ではないでしょうか。   日々の稽古の積み重ねが第一です。   古典に世界は反復が必要です。   公演が延期に成ったり、無くなったりする中でも、時間を区切って稽古に打ち込むことは大事で、繰り返し行うための忍耐も大事です。    他ジャンルと違うのは600数十年の歴史の中で、勧進と言う言葉がありますが、戦乱で神社仏閣が倒壊してしまったり、伝染病で多くの尊い命が奪われ、そうした時に積極的に能楽師は勧進の場を設けて、御浄財をあつめ、頂いた御浄財に対して、自分の芸をご披露申し上げる、頂いた御浄財を戦乱や自然発生的な災害に困っている方々に喜捨をしてゆく。   根底にあると言うのは能者供養は全編に流れているわけです。   地獄へ落ちてしまった亡者の彼が生きていた時の一瞬の人生の輝きみたいなものを、もう一回地獄から子の舞台に上げてあげて、開花させてあげるというのが世阿弥の優しさだと思います。    人間が自然界で生きてゆくための糧と言うか、大和心と言うんでしょうか、そういう心を感じてもらいたいと思います。

コロナ禍前は土日は舞台、平日も夜の催しもあるし、申し合わせといってリハーサルも平日の昼間に入って行きます。  従ってお能と離れる時間が少なかったです。   伝書の整理などもしていました。   先祖の人たちの苦労も判るわけです。   魂を削って稽古をして江戸城へ向かって将軍様に披露するわけです。   洗練されてとにかく余計な贅肉を取って行って、研ぎ澄まされた世界における、辛さ、苦労があったわけです。  それがあったからこそいま僕たちが生かされていると思います。  

国立能楽堂で行われる「賀茂物狂 (かもものぐるい)」の企画の目的ですが、「賀茂物狂」という演目は私どもの流儀にはありません。  「賀茂物狂」を復活上演するというのが今回の主眼です。 京都の上賀茂神社が現場になるわけです。  謡いだけ後半に独立してあり、蘭曲として伝わっていました。  私も聞いたことがありません。   復活初上演となります。    「賀茂物狂」は世阿弥の娘婿、金春禅竹の作であろうと言われています。

東国へ行ったまま戻らない夫への想いを断ち切ろうと妻は上賀茂社を訪れますが、賀茂の神職は「逢瀬を祈るべし」との神勅を渡します。やがて帰洛した夫は妻が行方知れずとなったことを嘆きつつ、祭礼で賑わう上賀茂社へと赴きます。するとそこには物狂となった妻の姿がありましたが、再び仲睦まじく暮らすのだった。)

リアリティーが要求されます。  

世阿弥が五番立てで、「神男女狂鬼」と言う言葉を残しています。  江戸時代、能は1日かけて五種類の演目が上演され、神・男・女・狂・鬼と演じる順番が決まっていました。

7月上旬に「熊坂」と言う演目を行います。   63歳でやるわけですが、63歳になっても若々しく観世清和はやるんだよという事を見せたいなと思っています。(熊坂は舞台を縦横無尽に動き回り、義経との奮闘ぶりが舞台いっぱいに表現されます。)  人間は老いていきますが、工夫をして人に見せたり聞かせたり、稽古をしてゆきます。  人々の心に寄り添う事が大事です。   翁のように「天下泰平 国土安穏」は素朴な祈りですが、素朴な祈りだからこそ先人たちが大事にしてきたことだと思います。   先代が「どんなに悲劇であっても、どんなに悪人を演じようとも、品性を失ってはいけない」、とよく言っていました。  

2022年6月29日水曜日

鳥生千恵(ボランティア団体代表)    ・【心に花を咲かせて】 アンネ・フランクのバラを育て平和を学ぶ

 鳥生千恵(ボランティア団体代表)    ・【心に花を咲かせて】  アンネ・フランクのバラを育て平和を学ぶ

区立高井戸中学校は「アンネのバラ」の中学校として知られています。   バラの名前のルーツになったアンネ・フランクは第二次世界大戦中、ドイツ軍によって迫害されたユダヤ人の少女で世界的に有名なアンネの日記の著者です。   中学校にアンネの父親から送られてきたのは46年前のこと。   今はその数を増やして学校や生徒そして地域の皆さんが協力して、「アンネのバラ」の管理に当たっているそうです。   

バラ公開をしましたが、4日間で800人ぐらい来てくれました。   最初の蕾が赤で段々と鮮やかなオレンジになって開いて、色が薄くなって黄色っぽくなり、最後に花びらの縁からピンクにワーッと出て来ます。  4回楽しめます。  数えたら226株ありました。  

50年前に小林桂三郎と言う国語の先生が「アンネに寄せる手紙」という感じで作文を生徒に書かせたそうです。   文集にしてアンネのお父さんのオットーさんに送る事になりました。  そこから交流が始まり、「アンネの形見」と言うバラが出来たらしいという事を知り、目に見える平和のシンボルとしてバラを中学校に植えたいと生徒が言ってきました。   オットーさんの交流のある大槻道子さんが知らせてくれて、直ぐにバラを送ってくださいました。  10株送ってもらって大槻さんが植えてみたら1株しかつかなかった。  次の10株のうち3株を高井戸中学に送られることになり、生育が難しいので、都立農業試験場にあずかっていただき、元気に生育した状態で高井戸中学校に6月12日に送られて、育て上げられました。   6月12日はたまたまアンネの誕生日だったそうです。  その3本が増えていきました。   

3年後に育成が難しくなり、専門家の助けが必要になり、四国の松山で相原バラ園を経営している相原さんが来てくれました。  相原さんも平和への願いの強い人でした。    枝を何本か持ち帰って挿し木とかして、翌年には30株に増やして届けてくれました。  20株を高井戸中学校、5株を神代植物園、残りを近隣の小中学校へ寄贈したと聞いています。 相原さんは全国の学校が欲しいと言うと、無償で3株づつ送ってこられたそうです。   その数は1万株になるのではないかと言われています。  相原さんは数年前に亡くなりましたが、この貢献は大きいと思います。    

生徒は3年で卒業してしまうし、先生も移動があり、バラに対する関心もなくなることになってしまいました。  1996年、7年の2年間は校舎の改築があり、バラの消滅の危機に陥りました。   その時に職員の三浦さん、小林さんが敷地のはずれにアンネのバラを発見しました。    その数株をお二人が挿し木などで増やしていきました。   最初は100本挿し木をして1本しか育たなかったが、凄く勉強したり、相原さんに問い合わせしたりして100%育てられるように腕を上げたそうです。    改築2年後ぐらいには200株に増えたそうです。   モニュメントも作られ今ではバラが高井戸中学校のシンボルになっています。   

2004年に三浦さん、小林さんが一緒に移動することになりましたが、当時はお二人がバラの整備をしていました。   理科の先生が移動で入ってきて、バラの由来を知って、これは生徒自身がバラに関わるようにしようという事で、PTA会長の横山さんが子供たちだけでは厳しいという考えで、継続的に守ってゆくためには地域のグループを作って守って行こうという事になりました。   子供たちのグループと地域のグループが出来、今に至っています。  

アンネの日記を読んで感銘を受けた園芸家のヒッポリテ・デルフォルヘさんが作り出したバラで「アンネの形見」と言う名前を付けて、父親のオットーさん、そのバラに関わったいろんな人たちの思いが凄く重要です。  そういったところを生徒は学んでほしいです。  高井戸中学校では道徳の授業があり、一人一人が平和の大切さを思うこと、ばらの継承など、いろいろな感想が出て来ます。   

「アンネのバラ・サポーターズ」を18年継続してきて、年々大事なバラだな、いいバラだなあと思います。  人がバラを繋いできて、いま新たにバラが人を繋いでいる、それが感動的です。  平和は大事だなあとつくづく感じます。   




2022年6月28日火曜日

川口ユディ(フリージャーナリスト)   ・日本の温泉交流で得たものは

 川口ユディ(フリージャーナリスト)   ・日本の温泉交流で得たものは

ハンガリーのブタペスト出身、ヨーロッパの温泉大国と言われるハンガリーから来日したユディさんは温泉大好き。  これまで北海道から鹿児島まで200か所以上で日本の温泉を堪能、恵まれた自然の中で露天風呂や共同温泉に浸かり、会話を楽しみその土地の暮らしや人の魅力を感じると言います。   川口ユディさんに日本の魅力や人々との触れ合いから見えてきたことなどを伺いました。

ブタペストは「ドナウの真珠」と呼ばれる美しい町で温泉も沢山あります。  地面が薄いために掘るとマグマに近づく、100m掘ると5℃上がり、簡単に見つけられる。  ハンガリーはヨーロッパの温泉大国と言われます。  病気療養で温泉に行きます。   医師からあの温泉のあのお湯で1日3時間入ってくださいとか言われて、全部保険付きです。  病院みたいです、だから小さい時には温泉に行ったことはないです。  町を歩くと飲める温泉があります。   温泉はハンガリー人にとっては大事なところです。   

日本に来て温泉にはまってしまったのが、秋田県の乳頭温泉です。   ブナ林が凄いです。  乳頭温泉の色も白くて凄いです。  日本の温泉は硫黄の匂いとかして面白いと思いました。  濁り湯が多いです。  乳頭温泉は20回ぐらい行きました。   主人と私と犬2匹を連れて旅をしていて、データを持っているのが225か所です。   2010年から記録をつけ始めました。   東日本大震災があって東北の温泉地はお客様が減ってしまって、応援の意味でも、東北の温泉はたくさん行きました。   

ハンガリーの映画学校で学び、アメリカ、イリノイ州立大学の視覚部芸術学科を卒業。   エミー賞を受賞した子供テレビ番組「マジックドア」の製作スタッフとして活躍。   日本に来てNHKの国際放送でリポーターしたり、報告したり、英字新聞のコラムニストとして20年以上各地を取材。    地方に行くと高齢者に会う機会が多く、年寄りからいろいろ学んで、礼儀正しい生き方を学んで、そういうおばあちゃんになりたいです。   日本はどこへ行っても道がしっかりしていて、安全だし、コンビニはあるし、綺麗な国です。 

毎日がハプニングです。  犬を連れてゆくので日帰りが多いです。   車で行って何泊もするときもあります。   93歳で農業をやっているおばあちゃんとも話をしたりして、いろいろなことを語っていただきました。   おおらかですし、勇気を頂きました。 日本での裸の付き合いが出来ました。      ハンガリーの温泉では温度差が低いから水着を着て泳ぐようなところが多いので、日本のような裸の付き合いはないです。  

共同浴場では200円、300円からは入れて高級な旅館でも入浴だけだと1000円ぐらいではいれて安いです。   共同浴場では個性があり面白いです。   同じ街でも違う温泉で、信じられないほどタイプがあります。    共同浴場も段々なくなる傾向があります。    世界ではどこに行きたいかと言うとみんな日本です。   日本ではその街でしか食べれないものとか飲めないものが沢山あります。  ですから温泉に行く旅が楽しい。   景色、歴史も楽しいです。    

高齢化で旅館などの跡継ぎがいなくて無くなってしまう事もあり、コロナ禍で経営が苦しくなってやめてしまうところも結構あります。   外国人向けのホテルよりも古い旅館がいいです。   不便なところもあるがそれが楽しいです。   日本の地方の良さは全世界の皆さんは感じると思います。   山も海もヨーロッパとは違うし、そのままの自然だけで楽しいです。   今迄行った温泉にもまた行きたいです、だから終わりがないです。  はまってしまって人生は温泉です、みたいな感じです。   

日本人は働き者です。  今の日本を復興させたのは、今の年寄りで、日本の宝物は年寄りだと思います。   疲れた身体を温泉に入って疲れを取る、そして日本の宝物に会いたいから温泉に行くというような感じです。  


2022年6月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 夏目漱石

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  夏目漱石

以前正岡子規を放送した時に、友人としての漱石に触れましたが、今日は夏目漱石自身の絶望名言を取り上げます。  

参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_23.html

「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」  夏目漱石

代表作は『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などがある。  生まれたのが1867年(慶応3年)で明治元年の前の年。  亡くなったのが大正5年(49歳)。   小説家としての活動は10年間ぐらい。   もともとは学校の英語の先生で、当時の中学、高校、そして東大の講師になる。  小説家としてデビューするのが37歳。   デビュー作が吾輩は猫である』。  僕( 頭木)は一時期目が見えなくてインターネットで老年の女性の吾輩は猫である』の朗読を聞いたことがありますが、22時間でした。  漱石は吾輩は猫である』だったら、もっといくらでも書けるという事でした。  漱石の妻の証言では、吾輩は猫である』を書いている時にはすごく楽しそうだったと言っています。   

「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」 この言葉も吾輩は猫である』の中にあります。 (猫がつぶやく言葉です。)    

漱石は小さいころは親の愛情に恵まれなかったという事はあるようです。  8人兄弟の末っ子で、父親は51歳、母親が42歳の時の子供です。  あまり大切にはされなくて生後間もなく里子に出される。   その後養子に出されるが、養子先の夫婦がもめて離婚になって、9歳の時に夏目家に戻る。   実父母はおじいさん、おばあさんと教えられていて、父親母親だとは知らなかった。    教えてくれたのが家政婦でそっと教えてくれた。   21歳までは夏目ではなく、塩原という養子先の苗字だった。   僕 頭木)も末っ子で養子の話があり、寂しかった記憶があります。   

「思いがけぬ心は心の底よりいでくる。 容赦なくかつ乱暴にいでくる。」   夏目漱石

「人生」と言う題名の随筆の一節。  思いがけない心は他人の心からも、自分の心からも出てくる。   他人は油断ならないし、自分も油断ならない。   漱石が47歳の時に書いたこゝろという小説がありますが、おじさんからお金のことで裏切られて凄く傷つきます。   ところが自分自身も恋愛のことで友達を裏切ってしまう。  「自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。  人に愛想をつかした私は、自分にも愛想をつかして、動けなくなったのです。」と書いてある。   僕 頭木)は中学生の時にひき逃げをされて、相手が逃げるのはわかるが、自分の方も逃げたんです。  何故か轢かれたたことを隠そうとした。  未だにそれが判らない。   自分には怪我はなかったが、自転車がぐにゃぐにゃになり判ってしまった。 

「ちょうどその晩は少し曇って、から風がお堀の向こうから吹き付ける非常に寒い。  神楽坂の方から汽車がヒューっと鳴って土手下を通り過ぎる。   大変寂しい感じがする。  暮れ、戦死、老衰、無常迅速などどいうやつが、頭のなかをぐるぐる駆け巡る。   よく人が首をくくると言うが、こんな時にふと誘われて死ぬ気になるんじゃないかと思い出す。   ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ。」  夏目漱石

この言葉も吾輩は猫である』の中にあるセリフです。    例の松と言うのは「首掛けの松」と言われている。   「なぜこういう名前が付いたかと言うと、昔からの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると、首がくくりたくなる。  土手の上に松は何十本とあるが、そら、首くくりだと来てみると必ずこの松にぶら下がっている。  年に2,3度はきっとぶら下がっている。」

はっきりした理由もなくふらふらっと死のうとしてしまう事はあるんじゃないかと思います。 僕もちょっとそんな感じになったころがあります。    腸閉塞に何度もなっていて、なりそうなときには何も食べず飲まずひたすら歩くんです。 そうするとつまりが解消される時があります。或る夜、何時間も歩き回って、限界に達するときがある。  病気は投げ出しようがない。   いつもなら車など確認するが、その時には確認もせずにふっと渡ってしまう。  もし車が来て居たら大変な事になる。   なんか投げやりになっている。  後から怖くなったが、交通事故で中にはこういった人もいるのではないかと思います。(自殺にはカウントされないが)

「山道を登りながらこう考えた。  地に働き場角が立つ、情にさをさせば流される、意地を通せば窮屈になる。  とかくに人の世は住みにくい。」  草枕』の一節。

グレン・グールド草枕』が20世紀最高の小説とまで言っていて、亡くなった時には聖書と沢山書き込みのしてある草枕』が枕元に置いてあった。 

「私は死なないのが当たり前だと思いながら暮らしている場合が多い。   或る人が私に告げて、人の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません、と言ったことがある。   戦争に出た経験のある男にそんなに遺体の続々倒れるものを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか、と聞いたら、その人は、いられますね、大方死ぬまでは死なないと思っているんでしょう、と答える。  私もおおよそこういう人の気分で比較的平気にしていられるのだ。」   夏目漱石  「ガラス戸のうち」と言う随筆の一節。

漱石は胃が悪くて43歳の時に修善寺に療養に行っていたが大量に血を吐いて、一時危篤状態になった。  ここから作風が変わったと言われる。    「死ぬのはいつも他人ばかり。」目にするのはいつも他人の死ばかり、自分が死ぬ時には自分では見られない。  漱石は自分の娘を亡くしている。(44歳の時)   1歳9か月の幼い子供だった。   夕食の時に突然亡くなってし待って、原因不明だった。   非常にショックを受けた。  その時の日記に「表を歩いて小さい子供を見ると、この子が健全で遊んでいるのに、我が子は何故生きていられないのかという不信が起こる。  自分の胃にはひびが入った。  自分の精神にもひびが入ったような気がする。」と書いています。  詳しくは小説「彼岸過ぎまで」に書かれている。

「すみれほどな小さき人に生まれたし。」  夏目漱石   俳句

若いころに正岡子規と出会って、仲良くなって俳句を作るようになる。  この句は30歳の時のもの。(熊本で先生をしていた時)    草枕』の「とかくに人の世は住みにくい。」と言うところから、人の世を離れて美しく生きたい、と言うようなこと。 30歳にして小さき人」と言うのがポイントだと思います。 

住みにくさ、お金の問題、実家の夏目家も没落してゆく、妻の実家の方も没落してゆく。  お金に関わる人間関係。   修善寺の大患の後、妻に手紙を書いている。  「世の中は煩わしい事ばかりである。  一寸首を出してもすぐに首を縮めたくなる。 俺は金がないから病気が治りさえすれば、いやでも応でも煩わしいなかに来させて神経を痛めたり,胃を痛めたりしなければならない。」     

当時漱石は大変なエリートだったが、私たちと同じような事を思っている。

「もう泣いてもいいんだよ。」    漱石の弟子の森田宗平が本に書いている、漱石が亡くなる前の言葉。

「亡くなられる9日の朝、お子さんを寝間へ連れて行ったとき、先生は末の男の子二人の顔を見て、何も言わずにすっと笑われたそうです。  それから12歳になる末の女の子を連れて行った時に女の子だけにやつれた先生の顔を見るや否や、声を上げてワーワー泣きました。  そばにいた奥さんは泣くんじゃない、泣くんじゃない、と言ってたしなめられたそうです。  それが先生の耳に通じたのか、先生は弱い声音で「もう泣いてもいいんだよ。」と言われたそうである。  これはいかにも先生らしい言葉ではないか、先生らしいというほかに何とも形容することができない。 誠、先生らしい悲しい言葉である。」

漱石は大好物の南京豆を胃のためを思ってずーっと我慢していたと思うが、この結婚の席の南京豆は我慢できなかったと思われる。  翌日に様態が悪くなる。

「私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。  しかし、恐れてはいけません。  暗いものをじっと見つめて、その中から貴方の参考になるものをお掴みなさい。」     夏目漱石   こゝろ』の先生と遺書という、先生の告白の手紙に出てくる。

  







2022年6月26日日曜日

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】 

東京芸術大学音楽学部声楽家卒業、同大学院オペラ科を首席で終了。  2012年、4年に一度イタリアで行われるトスティ歌曲国際コンクールで第3位入賞。   2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学、二期会に所属し、オペラ「イドメネオ」や「こうもり」に出演、第九や宗教曲のソリストとしても活躍しています。 

秋からテノールからバリトンに転向します。    10月にテノールとしての最後の舞台があります。   僕は最初バリトンで大学に入って大学3年生の終わりまでバリトンとして勉強していました。    4年生からテノールに変更しました。    師匠の川上洋司さんにテノールをやりたいと言って変更しました。   トスティはヨーロッパの第一線で活躍していた作曲家、歌手でもあります。  

*「理想」 作曲:トスティ  歌:又吉秀樹

高校3年生になる前まではバスケットなどスポーツをやっていました。   3年生の時に先生からいい声だから合唱祭でオペラの曲をソロで歌ってみないかと言われました。   歌ったのがきっかけでオペラを勉強するようになりました。   父は東京芸術大学で声楽に入っていました。   家では父が歌ったり、クラシックは身近にはありました。   大学2年生の時にオーケストラでトスティの曲を歌う機会があり、「Good-bye」と言う曲を歌いました。   魅入られました。  

トスティの音楽コンクールがあることを知ったのは大学院の途中だったと思います。   受けようと思って勉強してアジアの予選で代表に選ばれました。    イタリアにはトータルで2年半ぐらい留学しました。   オペラ、リサイタルをいろいろ行いました。  印象に残るのはどの町も趣きがあります。  歌った後の反応が毎回凄く素直なんです。 最初は、トスティが生まれたオルトーナと言う町に住みました。   つぎがスポレートというところで、劇場があり研修生になってそこで勉強しました。  あとローマです。  プッチーニの「トスカ」が大好きで、修士論文がプッチーニの「トスカ」を取り上げました。   ローマは夢にまで見た街でした。  夜明けのサンタンジェロ城に感動して1週間夜明けに通い詰めました。   「星は光りぬ」が有名ですが、一番好きなのが「スカルピア」です。    

*「トスカ」から「テ・デウム」   作曲:プッチーニ 

スカルピア男爵(ローマ市の警視総監)、ヤーゴ?も大好きです。  声を成長させていって人生で一回はスカルピアを歌いたいですね。  

2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学。  モーツアルトを研究したくてウイーンに行きました。   小学校の文集に何故かウイーンに住みたいと書いてありました。   ウイーン国立劇場では12月31日に毎年「こうもり」をやります。   待っている間にワインやシャンパンをもってみんなで飲んでいて印象的でした。   

2020年に4人で「それいけクラシック」と言うyou Tubeで「女のマーチ」と言う動画を配信しました。   毎週考えながらやっていて、人生一つの楽しみです。  

*「納涼」  作曲:瀧廉太郎  歌:吉田連   「四季」の第1曲「花」とかの組曲になっていて「納涼」は第2曲です。

*「マイ バラード」   作曲:松井孝夫 歌:又吉秀樹、吉田連、大川博

7月18日に名古屋フィルと公演します。  今後バリトンとして頑張って行きます。

*「天国と地獄」序曲   作曲:オッフェンバック





2022年6月25日土曜日

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】 

映画「たそがれ清兵衛」や今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の奥州藤原秀衡役など、多くの人は俳優としての姿をご覧になっているのではないでしょうか。   田中泯さんは1945年東京生まれです。   1966年からソロダンスの活動をはじめ、1974年からは独自のスタイルの踊りを展開して1978年にパリデビューしました。   以来、世界的なダンサーとして活躍を続けています。  一方、1985年40歳の時に山梨県に移り住んで、農業を始めました。    田中泯さんが考える踊りとはどの様なものなのでしょうか。   ひたすら踊りを追求してきた人生の話を伺いました。

農業は一生続けたいと思っている仕事です。   夏になると畑ではナス、ピーマン、トマト、キュウリとかいろんなものが食べられるようになります。  すぐジャガイモ、ネギなども収穫しなくてはいけなくて、ほかにもいろいろあります。   物凄く疲れます。  基本的な自分の姿勢を変えながらやって行くとかしてます。  手作業が主です。   運動の質を考えながらしょっちゅうやっています。   膝が硬くなると伸ばしたまま草取りをするとか、どこか関節が硬くなると、別なところでほぐす運動をします。  農作業で身体の調子が判ります。   

俳優としてのスタートは山田洋二監督の映画「たそがれ清兵衛」の 余吾善右衛門 役。(57歳の時)  人前で話すことが苦手なほうだったので凄く吃驚しました。   役を与えられたその人の身体になりたいとまず思いました。   自分の口から出してゆくセリフが本当に自分の身体からでてゆくという感覚が自分で持てないセリフのしゃべり方はしないでおこうと思いました。  その人の身体になってやるぞ、と言う気持ちが強いです。  

動きと言うのはその人の心の発露じたいが踊りになっていたんじゃないかなあと思います。 言葉で表せないこと、言葉の方が早かったり、身体では追い付かないようなスピード感、言葉がどのくらい私たちの身体の中に入り込んできているのかとか、そのような事を一杯考えました。   

子供のころは一人で遊んでいる記憶の方が多いです。  自然が豊かだったのでいくらでも遊んでいられました。    犬、猫、野鳥、兎、ヤギなどを飼ったりしていました。  未熟児で生まれて牛乳を毎日のように飲まされました。   高校から急に大きく成りました。   虚弱だったので中学の時に、母親から「バスケットボールをやりなさい」と言われました。   高校でもバスケットボールをやっていましたが、駄目でした。  テレビで外国から来る舞踊団を観たりして、これが踊りなんだと思いました。   バレエの勉強をしたいと思いました。   身体だけと言うのが気に入り、しゃべるのが苦手でこれなら自分にも出来ると思いました。   踊りの勉強を一生懸命やりました。   もっと身体そのものになって行くという事を考えて、たどり着いたのが裸体でした。  踊りを捜しに行きました、今でもそうですが。   服がどういう植物繊維で出来上がっていて、どういう形をしているか、によって踊りは変わってゆくんです。   風が強かったり、太陽の光加減など、本当は踊りは外で踊るべきものだと思います。   踊り手がいる場所が舞台だと思います。(既存の設えられた場所だけでなく、日常的な場所、または野外などの、ありとあらゆる場所) 

言葉ではないものを沢山発散して、身体の外に飛び出すようにして生きているわけですよね。   それは気配と呼ばれたり、たたずまい と言われたり、いろんな言葉が日本にはあります。   どうしたらそれがキャッチできるのか、不思議です。  踊りたいという事は無限にあります。   旅をしていて、急に踊りたいと思う時もあります。  自分の好きな事ばっかりやって、自分はスーパーラッキーだと思います。   僕はあこがれの強い人間です。  何時かこの人の前で踊りたいとか、と思います。  本に凄く影響を受けていて、ロジェ・カイヨワさん梅原猛さんなど。  押しかけて踊りを見ていただきました。     自分の中に子供時代の子供が棲んでいて、その子供に恥ずかしいことはしたくない、その子供を裏切りたくない。   踊りは人間が考え出してくれた言葉と一緒になって育ってゆくとっても大切な表現、誰にでもできる凄く大切なものだと思います。 言葉をより豊かにするための表現かもしれない。   

今、夢中です、死ぬ瞬間まで夢中で生きて行きたいですね。   踊りに救ってもらっているようなところがあります。   才能があって踊りをやっているのではなくて、踊りに縋り付いて生きてきた、と言ってもいいんじゃないかと思います。  どうして夢中になれたのかは判らないです。   

2022年6月24日金曜日

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 もう一度、子どもたちから教えてもらおう

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・ 【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】もう一度、子どもたちから教えてもらおう

新型コロナウイルスで一斉休校になった2年前、鈴木さんは子供たちが先生となって、オンラインで受業を行う、ワークショップをはじめました。   自分たちが好きなことをテーマに選び、大人たちの前で授業をします。  鈴木さんは現在43歳、勤めていた会社で数百社へのプレゼンをした後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。  ワーックショプは子供の思いを伝える力をはぐくむと注目され、小学校の授業でも採用されるようになりました。  

2年前、小学校1年生の息子がいました。  休校になりずーっと家にいました。 何かしてあげられないか悩んでしました。   彼らにプレゼンテーションだったら教えられるなと思いました。   なんでもいいんですが、自分に詳しいテーマを集めて大人の人への授業してもらうというのが、子供の教える学校のコンセプトなんです。   私がプレゼンテーションのやり方を一か月間伝えて、最後は子供先生として発表するという風になります。  

印刷会社で数百社へのプレゼンを経験しまして、その後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。   子供向けに何かを教えると言うのは初めての経験でした。   私が大事にしているのは、貴方が一番伝えたいことは何、という事を表現していこうと言っています。   例えばテレビを見るのも、夢中になる何か心が動いているからこそずっと見ているんだと思います。   子供のボソっという言葉が意外と真理だなと思う事があって、原点に帰らせてくれるのが息子の存在で、どこの子もそうだと思いますが、大人の視点とは違う視点、価値観、ものの考え方に彼らは生きているという事で、そこから大人は教わることがきっとあるに違いないという仮説の元、子供が大人に教えたら面白いことが起きるんじゃないかと始めました。  

最初は5人の子が発表しました。  コロナで暇な時間が出来て、どういう風に時間管理をしていったらいいかと言うようなことを発表した小学校6年生が居ました。   大事なことは主体的にテーマを選んでもらうという事が、大事です。  次に伝えたいことの一番ど真ん中は何なのか、という事です。   それをどう話してゆくとか資料の作り方は技術として伝えます。  本音の部分、感じている喜怒哀楽を知りたいところです。  2年間で480人の子供たちが参加しました。    授業の前後で子供たちは変わります。  積極的に堂々となって行きます。   大人たちの反応か、子供の話を聞いているようで聞いてはいなかったという反応が凄く多いです。  画面で初めて見た子供に涙したという事もありました。  

私が立てた仮説が一段落したという事と、480人の子供たちと接することで自分のど真ん中を追求する人間に成って行っているなと思います。   私にたくさんのことを教えてくれているなあと思います。   活動を通して、自分の活動はど真ん中ではないのかなと気づきました。  本来の目的は彼らが持っている素晴らしいものを私たちは聞きたいし、教えてもらいたいから、そのための手段だったはずで、ひずみが出てきてしまっているかなと感じたのが、ブログで表現した違和感です。  技術的な発信力も必要だが、ど真ん中を人に伝えるという事が大事だと思います。  自分の活動のど真ん中も少しずつずれていったことと思います。    どの人も自分のど真ん中をあきらめないで生きて欲しいという事です。   そのことに貢献していきたいと思います。  自分の感性が全く違うように見れるようになってきて、480人の発表の子に見えてくるんです。  その子たちが持っているど真ん中を、今の社会のどこかに散らばっている、現実化してゆくものなんじゃないかと思います。   日常の毎日毎日の瞬間にそっちの未来につながる扉が用意されていると思っていて、イエス、ノーの分岐点がずーっと続いていていると思うんです。  夢につながってゆく方のドアを一つ一つ開けてゆけば、夢へと繋がってゆく。  子供たちの言葉の展覧会を開きたいと思っています。  

2022年6月23日木曜日

原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】 妖怪と日本人

 原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】  妖怪と日本人

2015年に93歳の生涯を終えた漫画界の鬼才水木しげる、妖怪のイメージを一般にひろめ表舞台に押し上げてきました。  水木の描く妖怪の世界は多くの日本人に支持され、今もその作品は愛され続けています。  鬼太郎や目玉おやじ、砂かけ婆など水木が生み出す妖怪たちはなぜ今に至るも多くのファンに愛されるのか、2020年はその水木の生誕100周年に当たり、これに合わせて水木が情熱を傾けた妖怪をテーマとした展覧会も開かれます。   水木を一番近くで見つめてきた長女の原口尚子さんに水木が描く妖怪の世界の魅力や妖怪たちに込めた思いなどについて伺いました。

2010年のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」、お父さんというイメージが強かったが、実際は家族のことを大事に思ってくれる父でした。   家族と一緒に過ごそうという父でした。   父が鬼太郎を書いているという事は小さいころから意識はしていました。  中学校の夏休みの宿題で果物を写生するという事がありましたが、水彩で描いて乾くまで待とうといなくなって、戻ってきたら凄くうまくなっているんです。  ああしろこうしろと言うのが好きでなく自分でやってしまいました。  それが校長室に飾られていたということがありました。(父に手伝ってもらったという事は言えませんでした。)    

父が小さいころ、近所のおばあさんがお化けの話だとか、古い言い伝え、あの世の話などをきいて、戦争に行ったりいろいろな苦労など経験して、そういえば自分は妖怪が好きだったなあと思って、古本屋さんで妖怪について書かれた本を見つけたそうです。   これは昔自分が経験したことだと確信を持ったそうです。  それを絵にしてみんなに見てもらおうと思ったようです。    私は父から妖怪の話は聞いたことはないです。   祖父は良くお化けの話はしてくれました。  江戸時代は妖怪を描くブームは有ったようです。  妖怪ものとか民俗学とかそういったものを沢山集めていました。   妖怪は人々の心が作っているんで、理由が判らないことをお化けのせいにしてきたという事があったと思います。   妖怪と神様は紙一重と言うか、そんな存在だと思います。

鬼にもいろんなものがあります。  怖がらせるものから、戒めるために、魔力から守るために存在とか。  父は電気が妖怪を消したと言っています。  夜になっても都会だと暗闇などないですね。   父が書いていたなかで「あかなめ」が一番怖かったです。  お風呂などについている垢をなめに来る妖怪なんです。   父が好きだったものは妹はそのまま受け継いでいるという感はあります。   私は父と距離を取りたいとずーっと思っていました。   18年間小学校の先生を務めていました。   父も段々弱ってきて、水木プロに入って手伝ってくれと言われて、入りました。   それから父と凄く話すようになりました。  父の本もじっくり読むようになりました。   父の考えを改めて知ると言うようになりました。   父からいろいろ聞けたのは良かったです。   

妖怪を書くなんてと言う思いは以前は有りましたが、妖怪に対して深いものがあるんだと知るようになりました。   父は凄いと思うようになりました。   鬼太郎は父を支えた重要なキャラクターですが、最初はおどろおどろしい感じでしたが、少年誌に連載されるようになって、悪い妖怪をやっつけるスタイルになりました。   しかし、父はそういうスタイルはあまり好きではなかったようです。   大人向けの雑誌で「ガロ」がありましたが、それには凄く風刺が効いている短編で、これが書きたいものなんだと母に言っていました。   

鬼太郎の人気には父は戸惑っていました。  偶然に目に見えないものに助けてもらっているという風に言っていました。    鳥取県境港の「のんのんばあ」(近所に住むおばあさんで、父にお化けや妖怪の話を教えてくれた。)との出会いが一番だったと思います。 地獄極楽の世界にも興味があり、極楽よりも地獄が面白いと言っていました。   語り継がれてきた目に見えないいろんなものを父は絵にして形にしていますね。   水木しげるロードには170を超える数になりました。   完璧な観光地になりましたが、偶然が重なってそうなって行きました。    妖怪たちが街を活性化してくれたと思います。  

コロナ禍で話題になったのが「あまびえ」で江戸時代のものです。  コロナも目に見えなくてこれも妖怪ですが、父は妖怪は可愛くないといけないと言っていました。  父は戦争を体験していて、左腕を失って帰って来ましたが、本当に右腕一本で書いてきた人です。 なんでも右腕一本で生活していましたが、爪を切ることだけは母にやってもらっていました。     なんかあるんだというような想像する心のゆとり、そういったものが欲しいなあと思います。  そんなところに妖怪が注目されるのかもしれません。  説明しきれない何かがあるんだと言う人間の謙虚さも必要だと思います。    父は昔のものをモチーフにしているが、もっと現代に伝えやすくするために工夫をしています。  今度行われる展覧会をぜひ見ていただきたい。

2022年6月22日水曜日

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める 

土江さんは短距離の選手として1996年のアトランタ、2004年のアテネ 、2回のオリンピックに出場し、アテネオリンピックでは400mリレーの第一走者を務めましたが、スタートの遅れからわずか0.2秒差の4位となってメダルを逃しました。   その教訓を糧に引退後は強化担当のメンバーとして、北京、リオデジャネイロオリンピックでの男子400mリレーのメダル獲得に貢献しました。   2年後のパリオリンピックに向けての日本陸上競技連盟強化コーチでもある土江さんに1/10秒、1/100秒を競う陸上競技短距離種目の世界について伺いました。

日本選手権では2回優勝、100mと200m。   100mは1999年の日本選手権での優勝。 追い風3.3mで未公認で10.09秒。   僕は頭で考えながら走るタイプで、51歩で走るんですが、一歩一歩をどう走るかを考え、その時は思ったように走れたと思います。  伊東浩司さんが10.00秒を出して9秒台にぎりぎりで入れなかった。  200mは1998年の日本選手権での優勝。   元200m日本チャンピオンの土江良吉は実父。  陸上以外のスポーツをやる事は許されなくて、父親に並べることが出来て嬉しかったです。  ただその2年前に父親が亡くなってしまったため見せられなかった。   

1996年のアトランタ大会出場。  父とは90%ぐらいが陸上競技の話でした。  練習や試合の後にはビデオを見て、指導の会話がほとんどでした。  父は陸上競技は一番が勝者であと2番以降は敗者で駄目だという考え方でした。  高校総体では決勝に残ることが難しいぐらいでしたが、3番になって喜んでいたが、「そんなことで喜んで」と言って、無茶苦茶に怒られました。   指導者になって、あまり1番にこだわるのも選手にとってプレッシャーになることもあると思うので、それも大事だが、どうやったら早くなるのか研究して、実現してゆくプロセスを大事にしたいと思います。  父親との会話もほとんどそうでした。   

1996年のアトランタ大会ではうまくバトンが渡らずにゴールできなかった。  オリンピック出場が目標だったので、達成できて凧の糸が切れてしまったような感覚になってしまった。   海外は初めてだったし、時差ボケなどもあり調整が上手くいかず、リレーのときにはよくなってきたが、うまくバトンが渡らず失敗してしまった。  

2000年シドニーオリンピック代表を僅差で逃す。  2004年のアテネ大会には出場。   100mでは一次予選、400mリレーでは第一走者を務め、第4位となる。   メダルに届くようなレベルでの出場だったと思います。   1回目に緊張のあまり、スタートの音を勘違いしてフライングしたと思って止まって仕舞って、たまたまイギリスの選手がフライングして、助かった。   2回目はでかい音(スピーカからの音)に反応してしまって、普通なら0.1秒ぐらいで反応するところを0.3秒ぐらいかかってしまった。  0.2秒遅くスタートをするという大失敗をしてしまいました。  ナイジェリアが銅メダルだったんですが、僕の遅れぐらいの差で4位になってしまった。  

2006年に引退して、指導、研究へと進む。  アテネでは30歳になっていて、オリンピックの失敗はオリンピックでかえすということが、僕の原動力になっています。    いろいろやりたいことがあったが、バトンの渡し方の手法を提案しました。   バトンを貰うほうは待っていて、ある時点から加速しながら掛け声があったら手を挙げてバトンを受け取るが、或る種職人的な感覚でやっていた。   二人でバトンを渡した時間を単純に出して、その目標タイムを出して、それに取り組みました。  それに対するアイディアがいろいろ出てきて、選手たちと話しながら作り上げていきました。   バトンを渡す範囲の距離40mを3.75秒と言うタイムを設定しました。  2008年は3.75秒で、100mを走る速度も上がってゆくと、バトンタッチのクオリティーもあがってゆき、今は3.6秒台です。  リレーはお互いの信頼関係が大事で、如実に表れる競技です。   

東京オリンピックではバトンが繋がって行かなかった。  失敗してしまうようなぎりぎりのところを攻めてきていました。   オリンピック直前の世界選手権で3位に入って37.43秒でした。(ほぼ金メダルのレベル)    細かいことが沢山重なって結果としてああいう事が起こってしまった。    ぎりぎりのところを追及して、金メダルを取れるか、失格かと言うようなところでしたが、金メダルを取れるようなメンバーだったと思います。   コーチとしては申し訳ないという思いでいっぱいです。    数値化して、いろんなヒントとして得ながらも、最終的には選手の感覚にどうやって落とし込むかと言う、そういうところが一番大切な部分だと思います。   

桐生選手は高校2年生で10.19秒で高校記録で走っています。  その時から合宿に呼んだりしていました。  9.98秒を出したが、順風満帆ではなかった。   9秒台を走る選手が4人もいる状況になりましたが、中国の選手が9.83秒という記録で走ったので、我々の目指すところが2段階、3段階先になったと思います。  パリオリンピックでは100mのファイナルに残れる選手を目指していきたいと思います。  そして400mリレーでは金メダルを目指していきたいと思っています。

2022年6月21日火曜日

田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

 田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

田中さんは長年勤めた中学校を退職後、おもちゃドクターの活動に出会いました。  日夜修理の技を磨く中、今月おもちゃドクターが所属するボランティア団体の会長に就任しました。田中さんに新会長としての意気込みや活動の魅力などを伺いました。

会員そしておもちゃを預けるかたの役に立てる会の活動をしてこうと思っています。  1600人強の会員がいます。   おもちゃ病院が640ぐらいあります。  土日が多いですが、平日をわざと選んでやっているところもあります。   時間も午前、午後とか時間帯もバラバラです。   1996年に「おもちゃ病院連絡協議会」が出来ました。  それが今の協会の前身です。  松尾さんが都内で活動されていた方ですが、おもちゃ美術館が中野にあって、そのなかでおもちゃ病院をやっていました。  そこの館長さんと意気投合して、館長さんは全国につながりがある人で、全国に活動を広げようという事で始まりました。   最初は40~50名程度で始めたようです。   主に60代以上の方で最近若い人もぽつぽつ入ってきました。  

部品代ぐらいは頂いていますが、ボランティアでやっています。   道具はそれぞれ購入しています。  道具もいろいろやり易いように工夫しています。   依頼は電池を使ったものが多いです。   子どもは意外と手で動かすものが好きです。   ですから手でも動くし電動でも動くものがあったりします。    世界で初めてラジコンを取り入れたのが日本のメーカーです。(1955年発売)    私がドクターになり始めた頃に、おばあちゃんが話せるぬいぐるみを持ってきました。   直して返す時に、「お孫さんのものですか」と聞いたら、「私のものです」と言われて、娘さんが自分のことを心配して買ってくれたんだと言っていました。   吃驚しましたが、その後そういうケースが非常に多いです。  年を取った人がコミュニケーションの相手として持つということです。   棺桶に一緒に持ってゆくと言っていました。    

ものとしては全然珍しくないんですが、人形で光が当たるとゆらゆらと左右に揺れるおもちゃがありました。   持ち込まれたのはフラダンスの人形ですが、「いくらかかってもいいから修理をお願いします」、という事でした。   自分の娘が結婚する時に、相手の方がハワイで、結婚式をハワイで行ったそうです。   その人はそのころ鬱状態だったようで、相手のおかあさんにその状況を話したら、「こんなものが慰めになるかどうかわからないが、これを見て思い出して下さい」と言われてくれたのが、その人形でした。  元気になってハワイから帰って来ました、という事でした。  気合いの入る修理になりました。  

おもちゃに物語性があるという事は、修理をしていてつくづく感じます。  大量生産されたおもちゃでも、物語性が加わると唯一無二のものになるんですね。  

手のひらに乗るような犬のぬいぐるみが歩いたり尻尾を振ったりするものですが、直して返したんですが、ちょっと涙ぐんでいて、自分が昔犬を飼っていてすごくかわいがっていたが、犬が亡くなった時に凄い喪失感で、似たぬいぐるみを買って大事にしてきたが、それが動かなくなって持ってきたという事でした。  感動の共有みたいなものがあります。  直って渡す時のお客さんの反応は、凄く喜んでくれて、それが伝わってきてこっちも嬉しくなって、そういったことがしょっちゅうあるんです。  

定年前退職(56歳)して、何をやろうかいろいろやりましたが、偶然におもちゃドクター養成講座に参加しました。  その後活動ができる病院を捜しました。  前会長の三浦さんの四谷おもちゃ病院に通いました。   最初に手がけたおもちゃのことは良く覚えています。  お母さんと一緒に来た女の子で、音の出なくなってしまったピアノのおもちゃでした。  分解しましたが、原因が特定できませんでした。  直せずに返した時に女の子の悲しそうな表情を見て、残念な思いをしました。  その後も別の子が同じ症状のおもちゃのピアノを持ってきましたが、やはり直せず悲しい顔をされてしまいました。  苦い体験でした、いまでは直せると思いますが。   

三浦さんは直すための部品がなければ作るという発想でした。  工夫をして作るという姿勢を学びました。  それぞれ得意分野がありますが、チームプレイで対応することもあり直った時の感動を共有することが出来ます。    現役のころは暇になったらいいだろうなあと思いましたが、暇でいるより好きなことで役に立てることで忙しいという事がベストなんだと思います。    



2022年6月20日月曜日

山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

 山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

昔、映画のことを活動写真と言ったんです。   映画もフィルムで撮られた写真の連なりになって、それが動くというかたちになり、それが活動写真なんです。   その「活」を取って、弁士というのは壇上で講演する人を今でも弁士と言っています。   活動写真の弁士、略して活弁士という事です。  今は映画に音がついているのが当たり前です。   映画が日本に輸入されて初めて興行されたのは明治時代ですが、映画の興行と同時に活弁士も始まっていました。   明治29年からスタートしています。   しゃべる台本も自分で作っていましたので、人によって違います。     チャップリンにも活弁士がついていました。  「放浪紳士チャーリーは・・・・」と言うような形で語られていました。 (ボロボロなものを着ているが正装」)     活弁士は日本だけで、海外では字幕である程度判っていただくことになります。  音楽は生演奏で海外も日本も一緒です。   映画館の専属のオーケストラの楽団がいてスクリーンの前で演奏しました。    楽団に規模は色々だったようです。   日本では琵琶法師の時代からものを語って伝えるという事が一般的でした。  日本は語り好きだと思います。(落語、講談、浪曲など)

*「血煙高田馬場」 サイレント映画の名作    伊藤大輔監督  1928年(昭和3年)公開  仇討ちもので大河内傳次郎が演じています中山安兵衛が助太刀をします。    活弁士:加藤柳美    同作品の別の活弁士:鈴木光太郎  聞き比べする。

小学校のころから映画が好きで、テレビで放送されていた映画とか、映画館などにも行っていました。   東京に出て映画の専門学校に通い、自主制作で映画を撮るという事をやっていました。   ビデオカメラが主流の時代でしたが、あえて8mmカメラでフィルムで撮ったが、作業が遅れて上映の当日を迎えてしまいました。  音を入れる時間が間に合いませんでした。   どうするんだと言われて、もともと無声映画として撮ったんだと言ってしまいました。   「弁士として説明します」と思い付きで言ってしまい、活弁士としてステージに上がる事になってしまったのが最初でした。   やってみたら楽しくてしょうがなかった。   お客さんも沸いていました。 その後活弁士の道がスタートしました。      

「賭場荒らし」  昨年12月撮影。   僕も(大藏基誠)出演させていただきました。  1週間の撮影期間に2日しか時間が取れず申し訳ありませんでした。  フィルムで撮るという事でテンションがあがりました。   

サイレンス映画のサイズで撮りました。(ほぼ正方形サイズ) 何から何までサイレンス映画の作り方に即して撮って生演奏に生活弁をつけるというやり方を踏襲しました。     内容は賭場を荒らす強盗がいるんです。  アウトローが主役の映画です。  僕が大藏基誠)賭場荒らしの主役をさせていただいています。   飛行機の音とか車の音とか、しゃべり声とか全然気にしなくてよかったのが、面白かったですね。

日本の音とは、小学生のころ剣道をやって、竹刀のパシーンと言う音と打ち込むときの足の音、これは日本にしかないと思いました。   映画館を盛り上げたいという思いがあります。  新しい活弁映画をどんどん作っていきたいと思います。

2022年6月19日日曜日

長谷川清美(老舗豆専門店代表)     ・【美味しい仕事人】 豆に魅せられ世界旅

 長谷川清美(老舗豆専門店代表)     ・【美味しい仕事人】 豆に魅せられ世界旅

日本では豆腐や納豆など豆は日々の食卓に欠かせない食品です。   世界でも至る所で様々な種類の豆が健康のため命を繋ぐため、食品として大活躍しています。   横浜市の豆専門店代表のは長谷川清美さん(57歳)は、市場に出回ることがほとんどない在来種の豆に魅力を感じ、国内をはじめ世界各地の豆を訪ね歩いています。   海外へは2012年から66か国をめぐり、暮らしのなかで必要とされてきた豆の力を実感してきました。  在来種の豆を栽培し、伝えている人の生活はそのまま環境保全型の暮らしになっているという事です。 

きっかけは2009年に豆料理の本を出さしていただいたあと、好評でした。  その後世界の豆料理はどうですかと言う話を頂いて、叔母がポルトガルに住んでいるので、まずそこに行ってみようと思いました。    そこで「豆料理がいいです」と言って、作ってもらいました。   その10日後にいきなりボリビアに行きました。   インゲン豆の原産地がアンデスなので飛行機の直行便で行ってしまいました。  そうしたら豆の世界でした。  調査しようとしたらスペイン語圏で英語が通じませんで、日系人が多いので取材させてもらおうとラパス(ボリビア多民族国の首都)とサンタ・クルスに行って1か月ぐらいいて、ペルーにも行きました。   これが豆の旅のきっかけでした。

実家が北海道遠軽町で創業が昭和元年の豆専門店を営んでいました。   2001年に父のところから豆を仕入れて販売会社を作りました。    「前川金時」は地元の豆で地元で流通していました。  「前川金時」を仕入れて売ったら、おいしかったという評判でした。或るライターが取材に行ったら20種類ぐらい展示してくれました。  私も見ましたが、どこにも売られてはいませんでした。   売るとなると粒がそろっていなくてはいけないとか面倒なことが多くて販売されていませんでした。  「日本の豆ハンドブック」を出版しましたが、この時には日本を相当回りました。   豆の多さに気が付いて海外も同じなんだろうなと思いました。   それで海外も回るようになりました。   

中南米では豆がほぼ主食に近いと思います。    コロンビアのカリにシュラットと言う、インゲン豆の種を保有している世界一の研究機関があり3万8000種ぐらいあります。   そこで研究者に概要を聞きました。   品種改良するための手段に在来種の保存が必要でした。   一般の農家も尋ねました。(小農家)   カルガマントというインゲン豆などありました。    日本の物と同じようなものも結構ありました。  樹木のマメ科の植物もあります。  チャチャフルッタというそら豆の巨大なもの、30cmぐらいあり豆粒がそら豆の1,5倍ぐらいあります。    先住民のたんぱく源だったらしいです。  あくを取って塩ゆでにして食べていました。   素揚げにしたり、すりつぶしてパンケーキにしたり、ジュースにしたりしていました。  

メキシコもほぼ豆が主食です。   日本ではお米が主食で豆が大豆、発酵させていろいろな食品になった。    こちらではトウモロコシが主食でそれに必ず豆が付きます。  豆を煮てペーストにしてから炒めます。(リフライドビーン) これをストックして置きます。    トウモロコシを挽いてパンにして豆のあんこをつけて食べる。  これは欠かせないものです。  

アフリカのブルキナファソに行きました。  アフリカは中南米よりも豆に依存しています。  農村に行くと彼らは現金よりも大事だと思っていて、豆の袋を盗まれないようにどさっと寝る場所の横にあります。  トウモロコシを粉にして餅みたいにしてそれを主食にしています。   豆はササゲで種類はたくさんあります。  煮込んで大量な油を入れてスパイスを入れて主食と一緒に食べます。  マヨネーズをかけて労働者がおやつに食べます。(ストリートフード)   ササゲを粉にして売られていてそれをドーナツみたいにして揚げてスパイスとマヨネーズをかけて食べます。   

キプロスではトルコ領とギリシャ領に別れていて、入国するときにトルコ領から入ってしまって、 コーディネーターがギリシャ領だったんです。   運転手がコーディネーターの役割をしてくれて、案内してくれました。     夏だったので、さやの豆,青い実の豆を使ったレモンをたっぷり入れた煮込み野菜料理でした。(地中海料理風)    

ミャンマー(ビルマ)ではビルマ豆で北海道の遠軽町のおばあさんは「バカ豆」と言っていました。  バカのように獲れるからという事で。  遠軽町では凶作の時にも獲れて小豆の替わりに使っていました。  ミャンマーではようやく見つける事が出来ました。   昔にビルマから伝わってきたものと思います。   

興味が豆の食べ方のみならず、彼らの生活が、我々が失いかけている持続可能な農業とか暮らしとかのお手本のようなモデルだなあと、行く先々で確信しています。  彼らにこそ学ぶべきものがあって我々が言っているサステナビリティー(持続可能性)などと言っているが、彼らは地で行っているわけです。  彼らの生活こそ学ぶべきものがあると思います。 日本で言われている在来種を守る活動と言うのは種を門外不出にするために、エリアだけにするとかと言うのは逆に在来種の命を縮めることになってしまう。  私ははそれを危惧しています。  商標登録すると場所が狭くなっていってしまう。   オーナー制度を作って在来種を守る運動をしています。   他に料理教室を兼ねて豆の学校をやっています。  お豆サロンもやっています。  乾燥した豆を料理する人は物凄く少ないです。  生産者は1000軒以上回りましたが、ばらばらになっている関係を、関係性つくりをやって行きたいと思っています。   

2022年6月18日土曜日

2022年6月17日金曜日

奈良橋陽子(キャスティングディレクター・作詞家)・日本とハリウッドの架け橋

 奈良橋陽子(キャスティングディレクター・作詞家)・日本とハリウッドの架け橋

1947年千葉県出身。  1987年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」に奈良橋さんは通訳として参加します。   そしてハリウッド映画の世界に入りました。   その後トム・クルーズの主演映画「ラストサムライ」に渡辺謙さんを起用するなど、多くの日本人俳優をハリウッド映画にキャスティングしてきました。   朝の連続テレビ小説カムカムエヴリバディ』で森山良子さんが演じたキャスティングディレクター安子・ローズウッドは奈良橋さんのご活躍からヒントを得たキャラクターだそうです。    日本とハリウッドを結んできた奈良橋さんに、パイオニアとしての苦労や、文化風習の違いによっておこる摩擦、それでも続けるキャスティングディレクターとしての仕事の醍醐味、今後の夢などを伺います。

75歳になりました。   2003年のクルーズの主演映画「ラストサムライ」に渡辺謙さんはじめ多くの日本人をキャスティングしました。   アメリカではキャスティングディレクターとしての職業があります。    日本ではアメリカほど俳優さんがいないので、キャスティングディレクターがいないと駄目と言う程ではない。    アメリカで日本人の俳優が必要な時に誰に聞けばいいのかわからない。   私は俳優が見つからないということはまずないですね。   この方は絶対出演していただきたいという事もあり、その時にはあきらめずに必死になってやります。   

文化風習の違い、演技自体の違いなどもあり、それを全部お互いの側に情報を与えて、よりスムーズにより融合していいものを作れるように、プラスアルファが大きいんです。   この時間が半分ぐらいかかるんじゃないですかね。    アメリカでは専用のプログラムがあってオンラインで呼びかけられます。   興味があったらオーディションを受けに来て、オンラインで全部見れるんです。  アメリカには何ページもの契約書があるんです。 役者組合があり老後の時にも全部面倒見たりとか、有ります。   日本はマネージャーがサインをするが、アメリカでは俳優がサインをします。   アメリカでは俳優が主体になりますが、日本では俳優は事務所に所属して、事務所が主体になります。  

「ラストサムライ」の時には俳優さんの宿泊先探しなどもしました。   あれから日本とやる映画が増えました。    べースは文化と文化の仕事なので、違いなどをアメリカ側に言うわけです。   最近は日本語でもいいという事がありチャンスは広がりました。 やっと字幕が認められてきました。    渡辺謙さんの素晴らしいところは明るくて、素晴らしい性格です、国際的に通用します。   普通キャスティングが終わればそこで仕事はおしまいですが、毎日現場ついて行って一緒でした。(アシスタントでいました)   私も演出を勉強したくて彼の傍にずーっといました。   

父が外交官だったので5歳でカナダに行きました。   父の影響が大きかったです。  16歳になった時カナダ人にもなれるがどうするかと父が聞いてきましたが、自分の意志を持てるようにという事があったと思います。 これは凄く大事だと思いました。   父は映画が好きでした。  日本に戻って国際基督教大学言語学専攻卒業しました。   その後海外の演劇学校に行きました。   演技から人間の生きることを学ぶんですね。  社会に大変なメッセージを上げているんですね。  ジョニー野村さんと知り合い、結婚しました。  日本に帰ってきて26歳ぐらいから本格的に演出をし始めました。   30代で俳優養成所を立ち上げました。    いい映画を作りたかったので、そのためにはいい俳優がいないといけないので、俳優養成所を作りました。   

ハリウッド映画に関わり始めたのが、1987年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」です。(40歳ぐらいの時)   たくさんのお金が絡んでいる世界なので、悪い人も沢山います。  だから心から作っていきたいという人、信頼出来る人を捜してゆくんです。   誰もやってないことをするのはハラハラドキドキで楽しいんです。 一生懸命やれば失敗しても悔いは無いです。   映画、ドラマをインターネットで楽しめるサービスが出てきて、そちらが主流になってきました。(ストリーミング) 大手の動画配信サービスからオファーがありキャスティングしました。   映画館も少なくなってきて大きく変わりますね。    今後、このやり方が続くと思います。  機械やITの発達とともに皆さんの観る集中力が短くなって行くと思います。  パッパッと変わらないとついてこない、なのでストリーミングがそれをしょっていっていると思います。  

演技の素晴らしさは、生きるという瞬間を作ってゆくんですね。  生きることのすばらしさを味わっていただきたい。   絶対良いことがあると思う、それを信じるんです。  信じる力が呼び起こすんです。  自分が書いたもので映画をやりたいが、それの最中でチャレンジしたいです。  

2022年6月16日木曜日

伊藤浩子(編み物作家)         ・【わたし終いの極意】 幸せを編み込んで

 伊藤浩子(編み物作家)         ・【わたし終いの極意】  幸せを編み込んで

4歳で編み物を始めた伊藤さんは、戦後ヨーロッパの本格的な編み物を学び、89歳の今も指導者として活動しています。  絵画のように美しいその手編み作品は高い評価を受け、去年11月フード付きマントなど2つの作品がイギリスの国立博物館に収納され永久保存されることになりました。  

今着ているのは半袖のセーターでシルクです。  色はワインレッド。  シルクは編みにくいが編んでしまうと1年中着られます。  面を捩じり編みと言って手が大変かかります。  

1932年神戸市生まれ、東京に移って手編みに出会ったのが4歳です。  6人兄弟の3番目で、妹が生まれる時に母から教えてもらいました。  初めて作ったのが15cm幅の10cm縦のお人形に掛ける毛布でした。   戦争が始まってからは毛糸が手に入らないので、頂いたものをほどいたりして編んでいましたが、灯火管制でなかなか出来なくなりました。  群馬県の渋川に疎開しました。   疎開先では真綿を利用して編んだりしていました。   終戦後、東京に戻るとしばらくしてから毛糸が出回るようになりました。   

ルーマニア出身の渡辺イルゼ先生は昭和22年に貨物船に乗ってきたそうで、昭和23年に編み物の本を出しました。  本を見た時には色彩、形などに魅入られました。(高校2年生) 母が弟子にしてほしいと頼んだらしいです。  御茶ノ水の病院の一室に暮らしていました。     そこで初めてお会いした日のことは、今も鮮明に覚えています。   私が通っていた都立駒場高校は自主自立の校風で、必要な単位さえ取ればあとは自由。午後は一目散にイルゼ先生のもとに馳せ参じました。  日本語が覚束ない先生に代わって記者の取材に対応したり、スケジュール調整したり。私は高校生ながら私設秘書、スポークスマン気取りでした。   東京大学文学部で美学の教授だったご主人(渡辺護氏)からは色彩学の基本を教わりました。

先生から「全国編み物コンクールに応募してみたら」と勧められました。  その時点で締め切りまで10日しかなかった。  黒、白、グレーの3色で、フレンチスリーブのセーターを編み上げました。   地区予選の東京大会で最終10作品に残りました。  「最優秀賞・高松宮妃賞」を最年少の19歳で受賞することになってびっくりしました。  

23歳の時に兄の学生時代の友人と結婚しました。  旧家だったので編み物はできないと思っていましたが、義姉(伊藤実子さん)が編み物が大好きな人で。私の高松宮妃賞受賞も知っていて、教えて欲しいと頼まれました。  教室を開くことになりました。  1965年に初めての展覧会をしました。   それから50年、2年に一度展覧会をしてきました。  生徒も1点ずつ展示します。   生徒は一時期100人を超えていましたが、今はコロナ禍で人数が減ったとはいえ、40代から90代まで40人ぐらいです。   

私の夫は10年前に、84歳で突然亡くなってしまいました。  前夜まで元気で、二人でカステラを食べたりしていたのに、翌朝、目覚めなかったのです。  ベッドに持たれて意識がなくて救急車を呼んだんですが、10時間ぐらい生きていましたが、何も言わずに亡くなってしまいました。  脳溢血でした。  編み物に熱中すると世の中のことを忘れさせることが出来ます。    美しいものを作る事は嬉しいです。    設計図は方眼紙に3mm方眼で書きます。  絵を書いて編み図に直してゆき色を付けていきます。  一番大変なのは図案が出来上がるまでです。   後は根気です。 

イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館への収蔵が決まりまり、去年11月フード付きマントなど2つの作品が収蔵されました。   一つが竹林、ジャケットとロングスカートのアンサンブルで、竹の葉っぱが美しく織り込まれている。  京都の染物屋さんに、緑でもいろいろな色を特注で染めてもらいました。   もう一点がフード付きマントで、「紅葉の舞」と言うタイトルで、紅葉の葉っぱが色とりどりに織り込まれている。  実際竹林とか紅葉の現地に行きます。  収蔵されるきっかけになったのは、作品集がロンドンに住むイルゼ先生の息子(ロンドンの芸術大学の教授)さんのもとに届き、それをご覧になった彼が博物館に推薦してくださいました。  1995年にイルゼ先生はイギリスに戻る事になり、翌年にご主人から連絡があり脳腫瘍で助からないとの電話がありました。  徹夜して一生懸命泣きながら千羽鶴を折って届けました。  73歳でした。  

主人のように一瞬にして亡くなりたいと思っています。   手間も時間もかかるけれど、手編みにしか出せない温かな風合いがあります。   毎年、私や生徒さんの作品を集めたチャリティバザーを開催しています。  今年は11月15日から1週間行います。

2022年6月15日水曜日

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 2

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 2 

1956年にエルヴィス・プレスリーがデビューしたのが「ハートブレークホテル」と言う曲でした。   それを最初に聞いたのは米軍放送でした。(20歳)   今でいうセクシーな感じの歌で頭に浮かんだのはアメリカの広大な景色で、そういうところから出てきた人かなと思いました。   それは正解でアメリカ南部の黒人教会、白人教会の影響をすごく受けて、全く何の音楽の素養もない田舎の無名の青年でした。  ロックンロールのその曲に最初に出会いました。  今まで聞いて来たアメリカの音楽とは全く違っていました。   アメリカでのロックンロール革命と言われるようなことは、日本には全然伝わって来ませんでした。    アメリカのお金持ちしか持っていないテレビの画面で、彼は黒人音楽をアメリカの茶の間に運び込んでいった。   

7月に公開されるバズ・ラーマンが作った映画「エルヴィス」があります。    これで初めて1950年代のエルヴィス・プレスリーがアメリカで巻き起こした大騒動を日本人が始めてドラマとしてみることができる。   エルヴィス・プレスリーがいたから、ビートルズがいるんだと、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーがいくら説明しても、なかなか理解してもらえなかったが、初めて理解してもらえる映像が日本にも来るんです。  

エルヴィス・プレスリーに実際に会えたのは1973年ですから、15年後ぐらいに念願がかなうわけです。  色々な知り合いとか、エルヴィスのお父さんを通じて会おうとしたが全然駄目でした。   ラスベガスでライブをやった時に願いが叶いました。   物凄く清潔感のある人でした。  ステージではどこから見ても千両役者で立ち居振る舞いが美しいんですが、実際に会うと朴訥で物凄くシャイです。   結婚して夫と一緒に結婚証明書にサインしてもらった2度目の時には、夫の目の前ですが、キスしてくださいと言ったら、赤くなって夫にお伺いを立てて、夫が「どうぞ」といったので、唇に触れるかどうかぐらいの軽いキスをしてくれて、最大のプレゼントをもらいました。   エルヴィスの父親が17歳で母親が19歳で結婚して双子が生まれて、一方は死産だったという事です。   凄く貧しかったそうです。  19歳でレコーディングの機会に恵まれ、21歳の時には世界の大スターになっていて、南部の青年そのまんまの状況でした。  

エルヴィスは「神様どうして僕をエルヴィス・プレスリーとして世にお出しになったのですか」と生涯問い続けていたという事です。   天国を与えられる人は地獄も深いと思います。   マイケル・ジャクソンの言葉ですが、「自分は人様のスパゲッテーのような気がする、世界中から何千本もの手が伸びてきて、自分のひとかけらでも貰おう、取ろうとする。」 そういうある種の恐怖心、猜疑心がある。   エルヴィスは14歳の子と出会って21歳まで待って結婚して、エルヴィスがつけてくれた護衛の空手の教師と2歳半の子と共に彼女は駆け落ちしてしまう。    そこからわずか5年で亡くなる。(1977年)    ジョン・レノンが言った言葉に「スーパースターと言うのはスーパーの力を持ったマネ―ジャーとスーパーの力を持ったタレントが出会って、食うか食われるか、殺すか殺されるか、せめぎ合いあがあって初めてビジネスとしてスターを生むことができる。」そこまでいろんな面で縛られるんですね。   「エルヴィスが亡くなって、マネージャーが生き残った。  それは本当に気の毒だったと思う。」と言っていました。  

ビートルズが日本に行ってみたいという事から、来日公演があったんですが、来日特集号の編集長を任されたが、いろいろな事情で公式会見一回でした。  永島達司さんにお願いして帰る前日に何とか40分ぐらい話す機会を得ました。   4枚写真を撮った中の一枚には私が入っていて、宝物になっています。   オノ・ヨーコさんの評をある雑誌に書いたら、それを読んだオノ・ヨーコさんが会いたいと気う事であってそれから仲良くなりました。 ジャーナリストとしての質問などはしませんでした。   それでも用心深く、絶対口には出さないことはたくさんありましたし、何重もの鎧を身にまとっていました。   ヨーコさんはあそこまでジョンを愛していても譲らなかった。  それは違うという事には妥協しなかった。  男性と女性ではものの見方も価値観も違う、東洋と西洋でも違う、何が本当に正しいか、何が本当に正しいとしたら人を傷つけないこと、人を傷つけないで愛を全うできること、これは難しいです。    仲良くしてたらいいじゃないと思うが、そこがヨーコさんは違ったんですね。  そこが一番世界に理解してもらえなかったことでしょうね。   ジョンが撃たれて亡くなって、血に染まった眼鏡をジャケットに使ったが、私は理解できなかったが、ジョンが亡くなった日以来、アメリカでは今何人の人が今日銃で殺されているか、数字を毎日出しているんです。  銃の規制を訴え続けてきている。  大変な衝撃でした。   

1万年以上も前から人は戦争をしている、人間が生んだ子供を人間が殺している、なんで世界は法律を作らないのか、国連があるんだったら、食物連鎖のトップにいる人間が人間を集団で殺してはいけないという事、全世界の法律にしてほしいと思います。  戦争は始めてしまうとなかなかやめられない。    1996年ぐらいにマイケル・ジャクソンは「アース・ソング」と言う曲を作っているが、人間の環境破壊の歌で警告し続けてきた。    もう水と食料の奪い合いが始まってきてしまっていると思っていますが、どうやって分け合ったり、食料を増やしたりしたらいいんだろうと、武器を作ったり持ったりするよりも前に、先に考えないといけないことだと思います。オノ・ヨーコさんにいろいろな戦争についてのコメントを伺うと「もしあなたが望むなら、その戦争は終わる。」 といつも同じ言葉が返って来ます。  

今自分にできる事は限界があるが、自分にできる事を精一杯やる事を楽しみとする。   沢山の友人がいた方がいいです。   交流ができるという事は素晴らしいことだと思います。   輝ける時間が少しでも多いと幸せだと思います。


2022年6月14日火曜日

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

 湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

1936年(昭和11年)生まれ、戦後音楽評論家として新しい世界を開拓してきました。   86歳の今も現役の音楽評論家として、精力的に仕事をしています。 

1月26日に86歳になりました。  前日に発熱して、PCR検査になかなか予約が繋がらないんです。   オミクロンという事で1か月半ぐらい入院しました。  公共機関を使ってはいけないという事で、苦労しました。   元夫も独りで暮らしていましたが、コロナにかかって心臓にペースメーカーが入ってたりして4月14日に亡くなりました。    離婚して30年ぐらいになりますが、ここ15年ぐらいは仲のいい友達として付き合ってきましたが、地上からホッといなくなり本当に寂しい思いをしました。    みんなそれぞれ人生って大変だと思います。   

「時代のカナリア」と言う本を出版しました。  アーティストはいろんなものに敏感に反応して自分の創作活動したり、表現したりするが、周囲のものに敏感な人間は、炭鉱のカナリアのように、アーティストは炭鉱のカナリアだと、悪いエネルギーを持ってるものには敏感に反応する、自分も活動してきて「時代のカナリア」なのかなと思いました。  さえずっていられる間はさえずりたいと思います。   


終戦を迎えたのは小学校2年生で、戦後の厳しい世間を体験したのは非常に貴重だったと思います。   父は海軍大佐で中国の駐在武官などを長い間していて、ハイカラな人でした。   昭和19年に戦局が厳しい中、急性の肺炎で亡くなりました。   長兄は18歳で召集されてフィリピンで戦死しました。   自分が命を懸けて踏ん張ることで、1日でも2日でも、日本に残してきている私とか母が攻撃を受けないで済むのなら、と思ったのかもしれません。   ほとんど何も食べるものがないなかで、1か月近く頑張っているんですね。  戦死した場所に行って、地元の人たちとの交流が生まれました。

身体が弱くて寝ている時に母がラジオを枕元に持ってきて、音楽を聴いても何もいい音楽がなくて、ダイヤルを回したらいいにおいのする音楽が聞こえてきて、それが米軍放送でした。   父や兄のことを考えると母の前では聴けないのでそっと布団の中で聴きました。メロディーに合わせて自分が歌っていて、何で知っているのと思ったら、「僕が作った曲だよ」と言った兄の口笛の曲でした。(戦地に向かう直前に口笛を吹いていた曲だった。) 後で判ったが、真珠湾攻撃の年(1941年)から42年にかけて、アメリカでもの凄くヒットした曲でした。   兄としては、アメリカのヒットしている曲だと、母の前では言えなかったと思います。  だから「僕が作った曲だよ」と咄嗟に言うしかなかった。  私の人生には大きな遺言になりました。   調べてようやく判ったのが、ハリー・ジェイムス&ヒズ・オーケストラ『スリーピー・ラグーン』でした。    アメリカの音楽に親しんでいきました。

当時女性でなれる職業は限られていて、原節子さんの映画を見て私も女優に成れるかもしれないと思って、新聞で新人募集の広告があり受けてみようと思って入ることが出来ました。てんぷくトリオと出たりしましたがなんか違うと思って、即興のモダンジャズが日本にも入ってくるようになり、モダンジャズを聴くようになりました。   大橋巨泉さんがジャズ評論家としてものを書くようになり、私も書けるかもしれないと思ってジャズの専門誌に投稿しました。  原稿を書くようになって、ラジオの番組の選曲係、台本書きなどしていましたが、テレビに押されてラジオの方の活動資金も細り、しゃべることもやるようになりました。  女性では初DJでした。   仕事をいただくとやれてもやれなくてもことわりませんでした。   

1960年代海外から歌手がやって来るようになり、仕事を頂きました。   パット・ブーンが日本に来た時に、お金は要らないから司会をさせてくださいとお願いして、パット・ブーンと仲良く成ればエルビス・プレスリーを紹介してもらえると思いました。   1964年東京オリンピックの閉会式のときには飛んでいきました。   吉田正先生から餞別として20万円いただき吃驚しました。   ニューヨークでテレビ出演することになりました。   NHKの「私の秘密」に似た番組があり、それに出ませんかと言う事で、もし20問で私の職業が当たらなかったら賞金500ドルという事で出ることになり獲得しました。   エルビス・プレスリーに会う機会があり、彼に結婚証書へのサインをお願いしてサインしてもらいました。  どうしてそうなったのかという事は結構いっぱいあって、マイケル・ジャクソンとも12回会って、仲良くなれたという事を、どうしてと言われても良く判らないです。   

会いたい人には会いたいと思って、自分で出来る範囲のことは尽くしますが、会えた時に私は言葉を越えて手も足も表情も全部動員して全身でしゃべっていると思います。     その状況がうれしかったです。  

22年間連れ添った元夫が4月に亡くなって、本当に悲しい思いをしました。  でも人は生きなければいけない。  今笑えること、今家族と一緒に楽しめる事、をSNSで発信しています。   高齢のかたも若い方に教えてもらってスマホなど使いこなせば、もっと世界が広がると思います。

2022年6月13日月曜日

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて 

藤波さんがプロレスラーとしてデビューしたのが1971年5月9日17歳の時でした。  プロレスラー生活51年、今もリングで戦い続けている。  

アントニオ猪木さんは師匠であることは間違いないんですが、人生そのものですね。   小学校5,6年生からプロレス中継を見てファンになりました。    

アントニオ猪木さんは1943年神奈川県生まれ、家族と共にブラジルに移住、ブラジルで力道山にスカウトされてプロレス界にデビューしました。   1972年新日本プロレスが破綻し、ストロングスタイル、プロレスこそ最強と言う理念のもとボクシングのモハメッド・アリや柔道の金メダリスト、ルスカなどと異種格闘技に挑戦、後の総合格闘技の礎を築きました。  1989年参議院選挙で当選、初の国会議員プロレスラーとなります。  現役を引退したのが1998年、2010年には世界のプロレス界の発展に貢献した業績を高く評価されて、アメリカのプロレス団体WWEの殿堂( ホール・オブ・フェイム)に日本人としては初めて認定されました。  現在、心機能の異常や不整脈などをきたす難病心アミロイドーシス」で療養中です。 

電話で連絡を取ったりしています。  「元気ですか」の猪木さんの声を聞いただけで十分です。   最初あった時には怖かったです。  その時「頑張れよ」と言った言葉が自分の力になっています。   当時は柔道、相撲などの格闘技をやって身体がある程度できた人が入ったんですが、僕は175cm程度で70kg有るかないかぐらいで格闘技はやったことがありませんでした。    猪木さんの付き人としていわゆるカバン持ちをしました。 試合後に背中を流したりしました   

僕は1971年(入門の翌年)デビューしました。  具体的なことは何も言われませんでした。  普段は穏やかな人でよく話をしていました。     デビューした7か月後に、日本プロレスを出た猪木さんは新日本プロレスを1972年に旗揚げします。(6名)    庭に道場の建設から始めました。   日本プロレスにいた方がよかったなどという事は一切なかったです。  1978年師匠との対決試合がありましたが、付き人時代のことが頭に浮かぶと身体が動けないんです。   悔しさがあり後悔ばかりです。  1985年タッグマッチでしたが、猪木さんに勝つことが出来ました。  僕と木村健吾、猪木さんは坂口さんでした。   ドラゴン・スープレックスという羽交い絞めにして後方に投げるというちょっと危ない決め技で猪木さんに勝ちました。    終わったと控室で「ありがとうございました」と言ったら、ニヤッと笑って、弱さを見せないんですね。   本当に勝ったのかいまだに判らない。  

猪木さんが新日本プロレスの運営で大変だったので身体を休めて欲しいという思いがあり、現状改革を訴えようとして、試合後一気に興奮しながらやらせてほしいといったが、「やれるのか」と怒鳴られビンタされ、その時だけは張り返して、救急箱を蹴った拍子に鋏が僕の前に来て、その鋏で髪の毛を切ったことがありました。(「飛龍革命」と呼ばれた。)    

1998年8月8日 横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を猪木選手を相手にして行い、60分フルタイムの名勝負をする。   何人かで挑戦者決定戦をするが、猪木さんは上がってこないと僕は思っていましたが、上がって来るんです。  無心でぶつかっていきました。   結局引き分けとなり防衛する事になりますが、終わりのゴングが鳴った時には寝技で猪木さんが上になっており、負けたくないという思い、ここまで意地を通すのかと思いました。   1998年猪木さんは56歳で引退します。  

猪木さんへの手紙を披露。

2015年3月、WWE ホール・オブ・フェームに迎えられた。 (日本人2人目の殿堂入り) 現役でのプロレスラーとして51年目がスタート。(68歳)   

   

2022年6月12日日曜日

西條奈加(小説家)           ・【私のがむしゃら時代】

 西條奈加(小説家)           ・【私のがむしゃら時代】

去年心淋し川』で第164回直木三十五賞を受賞した西條奈加さんは、1964年北海道池田町の生まれです。   2005年40歳の時に『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノベル大賞大賞を受賞してデビュー以来、人情味あふれる時代小説を中心に、幅広いジャンルの作品を次々に発表、来月7月にはNHKのBS時代劇で、西條さんの人気シリーズ「善人長屋」の放送も始まります。   20代まで江戸の文化や歴史などにほとんど接する機会のない北海道で過ごした四条さんが小説家を目指し、時代小説を書き始めるまでにどんな出会いが、がむしゃら時代があったのか、人気作家となった今、どんな思いを込めて執筆しているのか伺いました。

デビュー以来17年目になります。  年に3,4作は出ています。   朝、7時から8時の間には机に向かい昼まで執筆して、締め切りが迫っていると午後も執筆します。  そうでない場合はメール、資料を読んだりしています。    

北海道池田町の出身でワインで有名な街です。  音更町で小、中、高校時代を過ごす。  小学校の卒業文集に作家になりたいと書いてありました。  小さいころから本が好きでした。  世界名作、童話とか読んでいました。   父からは高校以降は自立するように言われて頭の中に刷り込まれていました。    父は小さいころ両親を亡くして、歳の離れた姉に育てられましたが凄い貧乏だったようで、早くから自立の思いが芽生えたようです。   高校卒業で、就職試験を4つ受けてようやく製薬会社に入れました。  帯広支社に7年働きましたが、自立するための技術を身に付けようと東京英語専門学校に入りました。    翻訳を目指しましたが、難しいところもあり挫折しました。   自分で書いた方が早いと思って、それが書くようになったきっかけです。  

専門学校ではあらゆるジャンルの人が集まっていて、世界が広がった感じがしました。  歴史、時代小説が好きな人もいて、間口が広がった感じがします。  貿易会社など3社勤めました。   20代後半、30代前半で2本ほど短編小説を書きました。(現代もの)   余りに下手だと思ったのでその後書くのは辞めました。  

30代半ばになって最初に宮部さんの時代ものを読むようになって、時代小説をたくさん読むようになって、『金春屋ゴメス』では時代もののようにしたらと思いました。     読みたいものを書きたいという思いはありました。   NHKのBSで時代劇を毎日やっていて、それを毎日1年間ぐらいは観ていました。    古地図、資料などを読むようになりました。   『金春屋ゴメス』の執筆は正味2か月半ぐらいでした。   生涯で一番頑張りました。 初めて食べることをおろそかにしました。  日本ファンタジーノベル大賞大賞を受賞しました。

時代考証がむずかしい、調べても調べても新しいことが沢山出て来ます。    江戸時代は本音で語れる部分が多かったのではないかと思います。  喧嘩をさせたいとかがしやすい。    2021年心淋し川』で第164回直木三十五賞を受賞。   ピンとこない感じです。   一般庶民の方が書いていて面白いし、書きたい部分でもあります。  現代の視点も物凄くあり繋がっています。 

来月7月にはNHKのBS時代劇で「善人長屋」の放送も始まります。  実はみんな裏家業のある博徒たちで、そこに超お人よしの職人さんが入ってきて、善人がゆえに起こすトラブルを実は悪人たちが解決してゆくというシリーズです。   映像化は初めてなので吃驚しました。  人手と時間とお金がこんなにかかっているのかと思うと吃驚しました。   アイデアは泡のようにポコッと浮かんできます。  30ぐらい浮かんで浮かんだうちの1ぐらいは書いておきます。  書いたメモの10のうち、1も使わないです。 寝かせておくとよく熟成してきて良いものに成ったりとかします。    

がむしゃらに書いて来たという印象は有ります。   この先何を書きたいとかは何も考えていません。  ゴメスが一番好きです。  

2022年6月11日土曜日

鬼丸昌也(NPO法人 理事)         ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」初回:2020/2/22

鬼丸昌也(NPO法人 理事)     ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」初回:2020/2/22 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/02/npo_22.htmlをご覧ください。

2022年6月10日金曜日

中島加名(大学院生・教育支援員)    ・【人生のみちしるべ】 祖父・かこさとしの背中を追って

中島加名(大学院生・教育支援員) ・【人生のみちしるべ】  祖父・かこさとしの背中を追って 

中島加名さんは28歳、東京大学大学院生で、現在は北海道西興部村で暮らし、子供たちの教育支援などに携わっています。   かこさとしさんが生前書き残していた童話集「くもとり山のイノシシびょういん 7つの話」の絵を担当し、去年祖父との共著として出版しています。

祖父は優しい人と言う印象はあります。   中学、高校では面と向かって話したりとかは余り無くなってしまっていました。   「ありちゃん あいうえお かこさとしの71音」に二人の孫を育てるおじいちゃんとして書かれている。   そこの孫の一人が自分だという事は後になって知りました。  (娘である鈴木万里さんがあとがきに孫とのことを書いている。)   28歳ですが、同じ年の祖父に出会って見たかったですね。  情熱は凄かったですね。  

東京大学大学院人文社会研究科の博士課程に在学中の大学院生としての顔、北海道西興部村で子供たちの教育支援など地域つくりを担当する顔、中島加名というペンネームで絵を描いている顔、3つの顔を持っている。  

「くもとり山のイノシシびょういん 7つの話」を昨年出版。  絵の担当を出版社から依頼されました。   中学、高校の頃は絵を描いたりする練習はしていました。  祖父は晩年はほとんど目が見えなくなっていたし腰も悪くなっていて、執念で絵を描いていました。 その絵を真似してしまうとあまり面白くない絵になってしまうんで、彼がどういう絵を描きたかったのかを自分なりに掴んで、自分なりの絵を描くという風にしないとシンクロしないと思いました。   「イノシシびょういん」の外観をどうするかと言う事は凄く悩みました。   病院を建設するにあたって、取り巻く環境がどうだったのかとかまで考えないといけないと思いました。  

北海道西興部村は人口がおよそ1000人で、小学校が二つ、中学校が1つあります。  2020年から教育支援など地域つくりを担当しています。  小学校に毎日行って、アメリカの児童が二人いて、彼らの教育のサポートをしています。    通訳とか、コロナ禍でICT(Information and Communication Technology)の授業も人がいないので自分がやったりしています。  去年の夏あたりから教育支援をする塾みたいな施設を作ることもやっています。   食材に関する支援もしています。    酪農家のところにベトナムから技能実習生10数名来ていますが、生活に関してあまり村に知られていないので、イベントをやったりしています。   西興部村ではギターのボディーを作っていますが、余り知られていなくて、ゲストハウスのオーナーが新潟の音楽グループと交流があり毎年来ていたので、作曲家が公演の管理人として半年ぐらい村に来て、終わったら東京に帰るというような2拠点生活をしてる人がいます。   新潟の音楽グループの曲を編曲してもらって、村の楽器が出来る人たちに演奏できるようにしてもらったりして録音もしています。  自分が楽しんで友達が増えて行ったらいいなあと思います。

祖父のわだちと同じ道を進みたいというような思いがあり、自分が受けてきた教育環境とは違うところを見てみたくて、たまたま西興部村の話を頂いたので行きました。   祖父は子供という事に刺さるものがあったと思いますが、正直僕は子供よりも大人かなという気がしていて、子供の貧困も大人の問題なので子供にフォーカスできないなあと言う思いがあります。   外国人の子供を通して知ったのは、一人では生きてはいけないという事です。直ぐ感情がコントロールできないような子たちでしたが、彼らが安心して友達を作れるようにするのが自分の仕事だと思ったので、それをすることで半年ぐらいで感情が暴発するようなことがなくなりました。   一人では生きてはいけないという事を彼らを通して知りました。  家族の在り方も自分の中で考えないといけないと思いました。  「シェア」、何かを共有することなど、自分の中で価値観が変わっていきました。   

行き当たりばったりで生きているんで、未来のこととかはあまり考えていないんですが、絵の練習はしたいです。   何を描くかが大事だと思っていて、もっと沢山勉強はしたいと思っています。   絵本は読み聞かせがあり、コミュニケーションのきっかけになるのが面白いと思っています。    祖父はもの凄くまともな人でした、真面目で丁寧で、優しくて、人格の破綻はないけれども成し遂げていることはちょっと普通ではない、そういうところが魅力がありかっこいいなあと思います。   「爺山」を目指していきたいと思います。


2022年6月9日木曜日

島田雅彦(小説家)           ・年をとるごとに過激になる

 島田雅彦(小説家)           ・年をとるごとに過激になる

1961年東京都の生まれ、育ったのは神奈川県川崎市。   東京外国語大学外国語学部ロシア語学科在学中の1983年優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー、芥川龍之介賞の候補となる。   2006年、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞を受賞、2008年、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。  2020年『君が異端だった頃』で読売文学賞を受賞するなど著書は多数。  常に文壇の一線で活躍してきました。   大学でも教鞭を取り2010年からは芥川賞の選考委員を務めるなど、後進の育成、教育に携わっています。   今年春、学問や芸術分野で功績を残した人に贈られる 紫綬褒章を受章しています。

私の尊敬する先達の文学者たちが、どちらかと言うと反体制であったり、異端であったりと言う風に分類されることが多いのではないかと思っていまして、その系譜に繋がりたいという思いもあります。   阿部公房、大江健三郎、大岡昇平、中上健次、古井由吉といった先輩方もそういった意味では体制派ではないので、自分から異端の立場に立ってものを考えていたと捉えていたんで、末端に連なりたいという思いからです。   最新刊が「パンとサーカス」   現状の政治の悪政、世界情勢の悪化とか、そういったことに対する批判、批評を含めた暴走という事です。   熾烈な覇権闘争が激化してゆくという感触をずーっと前から思っていて、世界史の流れはサイクルがあるのかなと思います。   アメリカの一極支配からどのような世界秩序に書き換えられるのか、長いスパンで戦争を観たりするのは小説家の得意な領分かなと思います。   長編小説であると構想から4,5年かかってしまいますから、自分で飽きないテーマを選ぶことです。   世界、世相は思ったより早く進む。  ウクライナ侵攻もそういった現象の一つだと思います。   ですからそこに追い越されないようにしなければいけない。  

政治、戦争、経済も人がやる事で、プランがあり、欲望が背景にあり、思惑があり、復讐と言うような動機も伴います。  自然現象のようには論じられない。   政治、戦争に向かってゆく人を批判する私情を書く権利があります。   復讐は古代ローマのころからテーマになっていて、憎しみ、悲しみ、復讐心に共感するように物語は進んでいきますので、復讐は一つのエンターテインメントの要素にもなっているわけです。   10年以上前はデモもなかったが、最近はカジュアルになってきたし、演説も増えてきて大正デモクラシーに遡るような勢いで、政治的に覚醒されているのではないかと思います。  

「パンとサーカス」の前半は若い人たちの就活小説として読めるように書いています。  メインとしてCIAへの就職という事を据えています。  非常に狭き門ではあります。  世界各国にCIAの下部組織があって協力している人々は日本にもたくさんいます。   元戦犯の人がアメリカの対アジア政策の変更に伴い、罪を免除されて、アメリカの政策に協力するようになって、戦犯から首相になった人が岸信介だったりするわけです。     CIAに就職をするという事に設定すると、あらゆる方面に顔が利くというような人物になるわけです。   政治の中枢部ににらみを利かせられるという、こういう人物になるわけです。   当初想定していなかった領域までリサーチの手を伸ばす事が出来ました。   想定していたよりも深く突っ込めたかなと思います。    後半は、他国に対して政治に関心が薄いことは何故かという疑問が私自身にもありましたから、私なりの考えを書いています。   もっと活発に議論されるべきものと常々思っていました。   

学生運動はとっくに終わっていたので、私もノンポリの一人でした。   英語は得意でしたが、バランスが悪いのかなと思って、仮想敵国のロシアの文化、ロシア語を勉強すれば無敵かなみたいに考えました。   優しいサヨクのための嬉遊曲』と言うところに結実しました。    ロシア人との交流もありましたが、彼らの人の好さとは裏腹にソビエト体制自体の風通しの悪さと言ったことをしっかり見てしまいました。   文学者は弾圧されていることは深く認識しました。   それゆえ言論の自由、表現の自由が認められている有難みは、早くから悟りました。  

大岡昇平35歳になって召集されて、死亡率97%というフィリピン戦線に送られてしまうわけです。   戦況が悪化して、反戦を唱えても駄目で仕方なく諦めていくわけです。  言論の自由を死守するという事と戦争反対は表裏一体で、言論の弾圧があると戦争反対も言えなくなる。 

ウクライナ侵攻については、大原則として独立した主権国家をこのような形で軍事侵攻するという事は、許されることではない。   このままロシアのウクライナ侵攻を放置すると、強いものが侵略した者勝ちと言う前例が出来たことになるので、国際法上の秩序をいかに守るべきかと言う、コンセンサスをしっかり構築していかないといけないと思います。   この問題は日本の安全保障を考える一つのきっかけになるかと思います。   一番敵から攻撃を受けにくい安全保障体制を作るにはどうしたらいいのか、という事を最優先で考えるべきだと思います。   戦争の準備をする事ではなくて、外交の努力をするという事に尽きると思います。

「空想居酒屋」出版。  コロナ禍で家にいることが多くなり、料理スキルは上がったかと思います。  一軒家を借りて、新鮮な海の幸を料理して、その日だけの居酒屋を開店すると言うようなことをしていました。  小説に費やす時間は一日2,3時間で筆を走らせるのは1/3程度かもしれません。   妄想にふけっている時間は長いです。  パソコンなので電車の中でもどこでも書いています。   昔は夜型でしたが、最近は早起きするようになってきました。  

大学では一般教養の日本文学を教えていて、一番人気はサブカルチャー論という事で、漫画、観光、聖地巡礼とか、料理、エログロナンセンスとかいろんなジャンルのサブカルチャーをレクチャーしています。  オンラインで800人でやっています。   普通のゼミ、日本研究をやっている留学生の修士論文の指導をやっています。  創作の授業もやっています。(対話的にやっています。)

先達に似てくるんだとしたら積極的に「いいくそ爺」にならなければならないと思っています。   「いいくそ爺」とは多少は我儘は抑圧したほうがいいと思います。   インターネットが無い時代にリサーチするには本を片っ端から読むしかなかったから、雑学的知識が今は教養になっていると思います。   インターネットによる検索でのリサーチでは、誰でも同じような結果が出てしまう。   レポートも似たようなものが出てきてしまうので物足りなさは有りますね。   億劫がらないでやってほしいです。

ヴェートーベンの晩年の曲はのびのびと自由にやっているという風に見えます。  それに憧れます。  最後のピアノソナタ 32番 第二楽章はどう聞いてもデキシー―ジャズに聞こえる  曲想の展開がジャズっぽいんですね。  自由さを追求してゆくと誰も切り開いたことのないジャンルの創始者に成れるかもしれないので、目標は大きく持った方がいいので新しいジャンルが創設出来るように頑張っていきたいです。


2022年6月8日水曜日

大鶴義丹(俳優・作家)         ・アングラ劇団の子に生まれて

 大鶴義丹(俳優・作家)         ・アングラ劇団の子に生まれて

1968年(昭和43年)生まれ。   父は劇作家唐十郎さん、母はアングラの女王と呼ばれた女優李麗仙さんです。  大鶴さんは高校1年の時にテレビドラマで俳優デビュー、大学在学中には第14回すばる文学賞を受賞して作家としてもデビューします。   以来、映画監督、タレントとしても活躍しています。  

現在「下谷万年町物語」に取り組んでいる。   唐十郎さんが生まれ育った街を舞台に描いた大作。 1981年に蜷川幸雄さんが演出、渡辺謙さんが主役、2012年に再演、この時には宮沢りえさんが主演。   蜷川さん演出した時には僕は中学1年生で、それを観ました。   中学2年の時に父が芥川賞を貰いました。   父は「状況劇場」をやっていてそこでの脚本を書いていましたが、これはそとに対して書いたものです。   

「下谷万年町物語」の内容ですが、父が生まれ育ったのは、現在北上野と呼ばれる長屋街でした。  戦後で、アンダーグラウンドのような生活をしている人が沢山いるわけです。  不忍の池をイメージしているところがあって、落ちることによってタイムスリップして、少年だった自分がもう一度街を体験してゆく。 長屋を舞台にしていろんな事件が起きてゆく。  短くして判り易くなっています。  

小学校4年生の頃は両親が地方に芝居の公演に行く時にはよく祖父母に預けられていて、まだ長屋は残っていましたが、今はほぼなくなっていて、2軒残ってるぐらいです。  

私の役は白井と言うヤクザです。  中学3年卒業してNHKのドラマ「安寿子の靴」でデビューしました。  ちゃんと舞台をやり始めたのは30代後半からです。   2013,4年ごろから劇団新宿梁山泊に役者として参加するようになりました。    テントでの公演は凄く声をもとめられます。  声が届かなくて、音が吸われるんですね。  花園神社で大きなテントでやるんですが、救急車のサイレンの音とか酔っ払いの声とかあり、それに負けないように発しなければいけない。  親に似たのか、幸い僕は声が枯れないですね。

父の演劇をやっても、ほかが上手くなるわけではなくて、逆に外の人がやっても父の世界観を上手く表現出来るかと言えばどうかなと思います。  外の演劇、映画などとは違って、全く孤立したものですね、父だけの世界ですね。   ただ「状況劇場」から出て、映像の世界で凄く花開いた俳優は結構います。   

54歳になっていただく役柄も変わってきました。   かっこいい役をやりたいというのはほぼなくなりました。   難しい役をやりたいです。   

1月に「女優」を出版。  劇団の話を書きたいなと思っていましたが、母親が脳梗塞になり引退することになってしまって、ふっと自分の小説のなかに母親がインスパイアされるような、思い出させるような存在として書いたら面白いかなと思ったのが、書き始めるきっかけだったです。  俳優は体を壊してしまったら全部終わりだと思いました。  役者さんを描きたかった。   50歳を過ぎてもアングラ演劇をやっている役者さんもいます。   完成するまで1年以上かかりました。  女優さんには絶対かなわないと言うのが男優にはあるんですね。  男優は何とか名をはせてやろうというところがありますが、女優さんは物語にいることが一番の目的だみたいな方が意外と多いんです。   

45歳ぐらいの時に書くのはもうやめたと言うような思いがありましたが、その後数年でいくらでも書けるような思いになりました。   父とは作風が全く違います。 父は戯曲家。  最近夫婦って面白いなと思います。 恋愛から始まったとはいえ、知らない人が一緒に暮らすことは面白いことをやっているなあと最近思います。   夫婦関係のことをちょっと書き始めています。   

幼少期、家が稽古場でした。  世の中全部がこういったことをやっていると思いました。   パン屋さんへ行くと芝居はしていないなと思うとちょっとショックでした。   うちが異端だという事が判りました。   幼少期から中学あたりまでは両親は演劇に命をかけるみたいなところがありましたから、或る種ほったらかしでした。   母親は普通の親子関係でした。  授業参観にはほとんど来ませんでした。  小学4年生ぐらいには自分でお弁当を作りました。   稽古が始まってしまうと子供のご飯の時間など待ってくれないので、そこで料理を覚えました。   感情的なところは母親に似ているところは有りますが、明らかに違うところもあるし、うまい具合にまだらに入っています。   父の時代と今は時代が違うので同じようにはできないし、人間の質が違いますね。   父の戯曲の書き方はその役者に対しての、あて書きなので、読んでもなかなかわからない。   映像に残していかないと、次の世代は無理なんですね。  だから映像に残していきたいと思っています。

一直線のロードマップは作らないようにしています。 日々寄り道みたいな感じです。  


2022年6月7日火曜日

宇井眞紀子(写真家)           ・アイヌの人々を撮り続けて30年

 宇井眞紀子(写真家)           ・アイヌの人々を撮り続けて30年

1960年千葉県生まれ、武蔵野美術大学、日本写真芸術専門学校を卒業後、フリーの写真家となりました。   1992年から北海道壬生谷のアイヌの女性の家に娘を連れて、毎年訪れて取材をしました。   2004年と2011年に写真集を出版、2017年には第一回笹本恒子写真賞を受賞しました。   去年の暮れには北海道津別町に住む木彫り作家ユキオさんと娘のひろ子さん孫のダイキ君とワカナさんの3世代を描いた写真絵本「伝え守るアイヌ三世代の物語」を出版しました。  アイヌの人を30年間取材して感じたこと、写真絵本に込めた思いなどを伺います。

学校の授業でデザイナーは写真を知らなければいけないという事で、写真の授業が必修でありました。   写真をやってみて、私はデザインではなくて写真だなと思いました。  卒業後日本写真芸術専門学校に行きました。  アイヌに関しては子供の時から興味がありました。   アイヌの集落にダムが出来てしまうと聖地が壊されてしまう、何とか辞めて欲しいという事をある雑誌に掲載されていました。  それを読んでどうしてもそのアシリ・レラさんに会いたいと思いました。  直ぐに訪ねたのが1992年でした。(32歳)  小学校1年生の娘がいました。  1回目は一人でアシリ・レラ(新しい風 と言う意味)さんのところに行きました。   ビックママという感じの人でした。   アイヌの伝統的な料理を時々作ったり、アイヌの衣装なども着たりして伝統を繋いでいきたいという事で実践していました。   2回目以降は子連れでお邪魔していました。(6歳) 人見知りするタイプでしたが、直ぐに馴染んでいきました。 

頑張って一生懸命やって何かを成し遂げるのがいいと思っていましたが、アシリ・レラさんから必要があればうまくいく、上手くいかなかったときはそれはいまではなくて、それをやるのにふさわしい時が来るから、と言われて気が付きました。   カムイの存在、一つの神様がいるというのではなく、あらゆるものがカムイであるという風に考えて、あらゆるものに魂が宿るという考え方をしています。   長い間一緒に暮らす中で徐々に私の中に入ってきました。   最初の2,3年は月一ぐらいで行っていました。(娘は学校を休む)  今は娘は結婚して37歳になります。   

初めての写真集は2001年です。  首都圏に暮らすアイヌの方たちを撮った写真集です。 「アイヌ 100人のいま」ができたのが2017年です。  「アイヌときどき日本人」の後、アシリ・レラさんを中心に「Asir rera:Ainu spirits」 初を2004年に出しています。   2011年には「アイヌ 風の肖像」を出しましたが、これもアシリ・レラさんを中心になっています。  モノクロが中心になっています。  

「自然を保護するなんて大それたこと、だって人間は自然の一部で、自然の中で生かされているんだから」   アシリ・レラさんが日々の生活の中で言った言葉です。 

2017年には第一回笹本恒子女性報道写真家第一号)写真賞を受賞しました。  長く一つのテーマ(アイヌ)を撮り続けてきたことが評価されたという事だと思います。  フィルムは1000本ぐらい撮りました。  ありのままを撮りました。  「アイヌ 100人のいま」はポートレートで、場所、着物などは本人が決めます。   次のステップの200人を今目指しています。   「伝え守るアイヌ三世代の物語」のひろ子さんは大阪在住でアイヌ文化に関することを広めています。   父親は木彫り作家ユキオさんで北海道の津別町に住んでいて木の町です。  孫の二人は祖父は何でもできるので尊敬しています。 ひろ子さんも北海道に移住する事になりました。   ちょど写真絵本を作ろうと思っていたタイミングだったので、必要な時に必要なことが起こると思いました。  この写真絵本はカラーになっていて民族衣装の色模様、食べ物の色とか子供にも伝えられるようになっています。  

  



2022年6月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

還暦を迎えました。(穂村)

先日、現代歌人協会賞を受賞した歌人の平岡直子さん、1984年生まれ、長野県出身。  早稲田短歌会に参加、同人誌を中心に活動してきました。   2012年「光と、ひかりの届く先」で第23回花壇賞を受賞して注目を集めます。   去年は花壇賞受賞作を含む第一歌集「みじかい髪も長い髪も炎」を刊行、今年の現代歌人協会賞を受賞しました。  短歌だけではなく川柳も作っていて、先月末川柳歌集「Ladies and」が刊行されました。  現在はNHK文化センターなどでも講話を務めています。  

 穂村:若手でいま最も存在感のある方だと思います。 

平岡:短歌に一番最初に出会ったのは、子供の絵カードのような教材で凄いなと思ったのがきっかけで、小学校に上がるか上がらないかの頃でした。  小さいころから一人でコツコツ作っていました。   正式に短歌を始めたのは、早稲田短歌会に入った時からです。 大学に短歌サークルがあると思っていましたが、大学にはサークルは有りませんでした。  合宿があって2泊3日で寝ないで歌会をするような状況です。   

第一歌集「みじかい髪も長い髪も炎」から

「手をつなげば一羽の鳥になることも知らずに冬の散歩だなんて」

 穂村:二人で散歩をしていてそれを俯瞰しているような感じで、どちらかが手を伸ばして手を繋いで一緒に歩けば、二人で一羽の鳥になるんだという、この発想が凄く素敵だなと思います。  

「海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した」 

穂村:非常に情景の浮かぶ歌です。  「生き方」ではなく「生き延び方」と言うのがこの歌の印象的なところかと思います。

平岡:東日本大震災の翌年に作った歌で、海沿いで開催される花火大会に行ったんです。 地震の記憶が新しいから、今ここに津波が来たらどうやって生き延びればいいんだろう、と結構ダイレクトに考えて、身近な危機を覚えました。    

「三越のライオン見つけられなくて悲しいだった悲しいだった」

穂村:「悲しいだった悲しいだった」と言うのは変則的な表現だと思いますが、この歌の中ではそこが凄く魅力になっているなあと思います。   

平岡:この歌はどうやって作ったのか思い出せなくて。

「スペインでおとうと死にき私には居らねど誰かのおとうと死にき」  立花開

平岡:私より9歳下で、私と同じ年度に新人賞を受賞して、私と同じ年に第一歌集を出して同級生みたいな意識があります。 叙述トリックみたいな歌で、作者の弟が死んで大変だったような感じですが、下まで読むと意表を突かれる展開になっていて、自分とは全く関係のない弟が死んだという表現があり、距離が近いものを感じさせる。  コロナ禍の後で作られたのでスペイン風邪と関係があるのかなと思い、与謝野晶子がちらちらします。(・・・ 君死に給うことなかれ)  

*「増えながらいなくなる鳩このところ指ではしない約束ばかり」   小島直

平岡:「増えながらいなくなる鳩」は鳩の本質をとらえているような気がして。  指ではしない約束というのはコロナ禍の情勢が写っているような感じがします。  ざわっとした不安を感じました。  

*「もしかしたら眩しいだけの水かもと思いつつまだ旧姓で呼ぶ」  北山あさひ

平岡:歌集が出されていて、社会のことが多く出されていることが特徴で、反結婚がテーマになっている歌集です。  旧姓で呼ぶというのは小さなレジスタンスだと思います。  眩しいだけの水と言うのは「逃げ水」かなと思って。

*「死亡者数一と次の日になるとゼロになるけど一でよくない」  佐藤ひとし?   

平岡:交番に交通事故の死亡者数が毎日更新されるが、この歌は命を軽視するな見たいな、そういう抵抗だと思います。 人の命を数字で数えてリセットするなんて、反射的に反応してしまう危険思想だと思います。

*「東京の頬に小さくしゃがみ込むただ一滴の目薬になる」    平岡直子

穂村:印象鮮烈な歌です。

*「凄い雨と凄い風だよ魂は口にくわえて君に追いつく」     平岡直子

穂村:「口にくわえて」という、通常は胸の中にあるような気がするが、面白い。

平岡:動物になったような時がよくあるので。

*「あまりにも夏とても夜一匹のコガネムシが洗濯を見ていた」  平岡直子

穂村:「あまりにも夏とても夜」と言うところが、いいですね。  夏の夜の臨場感が立ち上がって来る。  「コガネムシが洗濯を見ていた」という事もコガネムシは洗濯を理解しているわけではなく、人間も夕焼け、星空に惹かれるのは結局理解できないから惹かれるのではないかという感じがして、無理なりに理解できないなりに駄目なりに頑張る感じが平岡さんの世界には通底しているかなと思います。

平岡:この歌は雪舟えまさんのとても私きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ」という上句がとても好きで、真似したいと思って作ったんですが、あまりうまくいかなかったかと思うんですが、下の句について穂村さんがいってくださったのは面白くてそういった感覚は生きていてあるかもしれない。  虫の感情にも親近感を抱くことがおおいです。  

リスナーの作品

*「わたしからわたくしになり生きてゆく床に座って履歴書を書く」   高橋唯?

*「日没の空の色がきれいだなとみれば網戸にカメムシのたまご」    うみ?

*印は言葉、漢字、かな等間違っている可能性があります。  名前も同様です。



2022年6月5日日曜日

チョー(声優・俳優)          ・【時代を創った声】

チョー(声優・俳優)          ・【時代を創った声】 

NHK教育テレビの番組『いないいないばあっ!』では、「ワンワン」役、アニメ「ワンピース」のブルック役、映画「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム役の吹き替えなどで出演。

たんけんぼくのまち』と言うのが始まった時に、本名が長島茂で、長嶋茂雄さんとは一字違いで、ディレクターさん等から「チョー」さんと呼ばれていました。  「チョー」さんと言う役名で行こうかという事でそのままやってしまいました。   長島 雄一と言う芸名でやっていましたが、「チョー」さんと呼ばれていて、芸名も「チョー」さんにしちゃおうかという事で「チョー」さんにしてしまいました。  

いないいないばあっ!』は1996年からスタートした番組で、25年以上になりますが、あっという間です。  コロナ禍ではソーシャルディスタンスで、本番以外はマスク着用でタッチしないという感じでした。  収録では声の世界は全く変わりました。  制作者側は大変だと思います。  

埼玉県鴻巣市出身で、小さいころはほとんど一人遊びが大好きでした。   小学校中学年まではそんな感じで一人でぶつぶつしゃべりながら、学校から帰っていました。   中学ではテニス部に入ったんですが補欠でした。  高校はバトミントン部に入りました。   大学に入って落語研究会に勧誘されて、人前で自分を表現すること、お客さんが笑ってくれたり反応してくれることで、これは良いんじゃないかと思いました。  発声練習から始まり、体育系と言った感じでした。    大学4年の時に教員採用試験を受けますが、落ちてしまって、当時青年座には好きな西田敏行さんがいて、そこを受けて半年間過ごしましたが、凄く面白かったんです。  大学を卒業して、文学座の研究所の試験を受けましたが落ちてしまって、もう一度青年座の実習科を受けました。 同期が竹中直人さんでやっぱり違っていました。   24歳の時に自分たちで劇団を作りましたが、食っていけないので全員アルバイトをしました。    辞めてゆく人もいましたが、僕の場合には運よくたんけんぼくのまち』のオーディションがあって受かって、つながりが出来ていきました。(1984年)   

或るマネージャーさんが声のCMの仕事を持ってきてくれました。  アルバイトの数倍のお金を貰えて、もっと仕事をくださいといたら、事務所に入る事になりました。    たんけんぼくのまち』では4泊5日で撮ってほとんどカットで、15分番組でした。  テーマはありましたが,遊んでいるような感じでしたが、何か伝わればいいなあと思っていました。   思うところもあり4年目で辞めたいという事を言ったんですが、結局8年で辞めました。   後から思うと自分から辞めたいという事は言わないほうがいいと思っていて、いないいないばあっ!』では、「ワンワン」役は25,6年続いていますが、自分からは絶対言わないことにしています。    事務所に入りましたが、やる事もなく悶々としていました。 ただ毎日10km走っていました。  何の根拠はないんですが、大丈夫だろうとは思っていました。  1996年にパイロット番組でいないいないばあっ!』にでて、それがここまで続くことになりました。   

声だけの演技はフラストレーションが溜まります。  声の世界は難しいです。  納得した事は一度もないです。  素晴らしい演技をしているので、吹き替えも難しいです。  いつかはスクリーンでどんな役でもいいから出てみたいです。  

2022年6月4日土曜日

石津勝(大阪芸術大学デザイン学科 准教授)・雲仙・普賢岳 兄の最期をみつめて

 石津勝(大阪芸術大学デザイン学科 准教授)・雲仙・普賢岳 兄の最期をみつめて

 雲仙・普賢岳の大火砕流から31年となった昨日、消防団員や警察官などが犠牲となった農業研修所の跡地では、発生時刻に合わせて追悼の鐘が打ち鳴らされ、遺族らが祈りを奉げました。   島原市にあった北上木場農業研修所は災害当時、定点と呼ばれる撮影ポイントにいた報道関係者に対応するため警戒に当たった活動拠点で、大火砕流によって消防団員や警察官らが犠牲となりました。  昨日は消防団員や遺族の関係者が現場を訪れて、花を手向けたり線香を上げたりして犠牲者を悼みました。  午後4時8分発生時刻に合わせて追悼の鐘が打ち鳴らされ遺族らが黙とうしました。   1991年6月3日当時噴火活動を続けていた雲仙・普賢岳火口付近から流れ下った高温の火砕流によって、43人が犠牲になりました。  報道関係者16人、消防団員12人、一般の人6人、タクシー運転手4人、火山研究者3人、警察官2人です。  消防団員や警察官は取材者に警戒を呼びかける中で、タクシーの運転手は取材者に同行する中で火砕流に巻き込まれました。  山頂から4kmほど下ったところにある通称定点、正面と呼ばれた場所、山全体が見渡せるこのポイントで噴火を撮影しようとテレビ局や新聞社の取材者が立ち入っていました。  当時この場所には避難勧告が出ていました。   この定点から300mほど下流に北上木場農業研修所があります。  NHKのクルーはこの農業研修所で取材中火砕流に遭遇しました。   矢内万喜男カメラマンと大田義男?ライトマンがなくなりました。  火砕流とはどういうものだったのか、何故これだけ多くの人が命を落としたのか、雲仙災害記念館を訪ねて館長の杉本伸一さんに話を伺いました。

雲仙災害記念館は2002年にオープンしました。   火砕流は火口付近では800~850℃と言われていますが、山腹に来た時には400℃ぐらいと言われています。  スピードも時速100km/hぐらいです。   普賢岳がどのように噴火活動を活発させたかという事を時系列で追った写真パネルがあります。  当時の体験者の証言もあります。  当時北上木場町では報道陣が避難した住民の住宅に無断で入り、電気や電話を無断で使用する問題が起こっていた。  空き巣も多く注意を払っていた。  何が原因かと言うと、自然の驚異に対する人間の認識の甘さが災害を大きくした。  まさか火砕流がここまで来ないだろうという思いがあった、と言う風に証言しています。  

北上木場町は葉タバコの産地で一瞬で焼き尽くされました。  定点の周辺を火砕流が襲いました。  電柱の部分、電話ボックス、三脚などの焼かれて変形しているものなども展示されています。   NHKの矢内カメラマンが使っていた焼け焦げたカメラもあります。消防団12名も高温の火砕流で外もやけどをしていますが、気道熱傷と言って 熱いガスを吸い込んで気道をやけどして次々に亡くなって行きました。   火砕流は本体の大きな岩の部分とその上にある火山灰とか火山ガスを大量に含んだ部分と二つあります。   岩は低い場所を流れますが、サージと呼ばれる火山灰とか火山ガスを大量に含んだ部分は丘の上を駆け昇って行く感じです。   火砕流の動きを理解していなかった。  

石津勝さんは雲仙・普賢岳を取材していた兄勉さんを亡くしました。  勉さんは毎日新聞のカメラマンでした。   兄はどのようにして亡くなったのか、その時どのように考え行動していたのか。  石津さんはデザイナーとして雲仙岳災害記念館の展示パネルの制作に関わるなどして、兄の死と向き合ってきました。   

夜、電話が掛かってきて兄の名前があがっていることを知りました。  翌朝新幹線で駆け付けました。  道路も封鎖されたりして、災害の現場にはなかなかいけませんでした。  双眼鏡を購入して見ましたが、遠くなのでよく見えませんでした。    6月4日に自衛隊の方が現場に入っていただき遺体の収容が始まりました。   6月5日に兄の遺体の確認をしました。   兄は大学では山岳部に入って、危険に対する知見は持っていたと思います。   定点から1,5kmほど下にいたが、何かの理由で定点に向かったようです。何故能動的な行動をとったのか知りたいと思いました。   報道の競争もあり、特落ちと言って、例えばほかの報道各社は或る写真はあるが自分の社にはないという事になるといけないので果さないといけない、と言うような責任感もあったのかなと思います。   情報収集から始めました。   新聞が山積みになりました。   雲仙災害記念館のコンペがありましたが、うちの会社は負けてしまっていて、僕のほうには全然話が回って来ませんでした。(1998年)    

遺族であるという事で、スタッフにいれていただくために県知事に嘆願しましたが実現しませんでした。   フリーになって2000年にスタッフとして入ることが出来ました。  基本設計はすでに出来上がっていて、詳細設計に加わりました。  特ダネ的な溶岩ドームの写真があり兄の撮ったものだと判りました。   マスコミ関係者と地元住民との関係は余り良くなかったが、30年経って杉本さんはじめいろいろな方の働きかけがあって雲仙災害記念館が実現しました。   

定点と呼ばれる場所は被災から30年を迎えた去年、噴火災害の遺構として保存、整備されました。   葉タバコの栽培する段々畑でしたが、火砕流によって埋め尽くされました。(深いところで170m) 3台の車が遺構として残されています。   2台はタクシー、もう1台は毎日新聞が使っていた報道車両です。  石津さんが使っていた望遠レンズ、機材だと思われるものもあります。  碑文があります。「・・・雲仙・普賢岳災害教訓を未来に生かすことを誓う。」と刻まれている。  

2022年6月3日金曜日

川平朝清(元・アナウンサー)      ・戦後の沖縄を見続けて

 川平朝清(元・アナウンサー)      ・戦後の沖縄を見続けて

戦後初の沖縄のアナウンサー、1927年(昭和2年)台湾で生まれ、1946年沖縄に引き上げてきます。  通訳などを経て1949年に設立されたラジオ局琉球の声放送の初代アナウンサーに就任しました。   1967年にNHK沖縄の前身となる沖縄放送協会を設立し、初代会長に就任します。   1972年沖縄の本土復帰に伴い、東京のNHKに移って国際協力などに尽力しました。   パーソナリティーのジョン川平さん、俳優の川平ジェイさんは息子さんです。

5月15日本土復帰50年を迎える。  ①復帰したことによって沖縄が格段に良くなった。(感謝)  ②アメリカ軍の基地が返還したのにも関わらずいまだに多くあり期待外れだった。(幻滅)  ③施政権は返還されたが、人権と主権が返還されてなかった。(怒り) 

屋良 朝苗(やら ちょうびょう)さんが復帰後県知事になりますが、式典で「今日は喜ばしいけれども、内実は沖縄の人々にとって期待外れであったことは認めざるを得ない」と言っていますが、全く同感と言う気持ちです。   恐れていることはウクライナの状況、中国の軍事力の増強があり、対抗策として軍事力を高めていこうという雰囲気が大きな危惧を持っています。    平和を維持するために沖縄を軍事的に利用し拡張しようとする意向については非常に大きな危惧を持っています。  沖縄に力を注いだのは経済面ではなくて軍事面だったんですね。  日本にあるアメリカ軍基地は沖縄にある基地よりもずーっと多かったんですが、復帰して政府が行ったことはアメリカ軍基地を沖縄にどんどん移してゆくという事をやったんですね。   沖縄は大陸に対して非常に重要な地点だと言いますが、ここには100万の人たちが住んでいるという事をもっと真剣に考えてもらいたい。   平和の礎」にはこれ以上名前を加えるようなことは絶対にしてもらいたくない。  

施政権は返還されたが、人権と主権が返還されてなかった、という事に関しては段々減らしてゆけるものと思ったが、普天間を移転するのには辺野古しかない、というようなかたくなな思いがありますが、アメリカの国防長官が来てこんな危険な状態をいつまで置いておくんだという程、未だに続けている。(20年も)   沖縄の基地を東京に持ってくると23区の約半分になります。  嘉手納基地は品川区に匹敵します。  

戦後沖縄に引き上げてきて、長兄が沖縄の住民側の政府の文化部の芸術課長に任命されました。   上司に進言したことは情報伝達、娯楽を皆さんに提供し、教育、教養面でも一番いいメディアはラジオだということで、ラジオ放送局を作りましょうという事でしたが、政府の上層部は家も満足ではなく電気も望むべくもない状態で、そんなことを言ったらアメリカに笑われるぞと言われたが、ひるまずにアメリカ当局に出したら、沖縄人にもラジオ局を運営できるような人がいるのかと、むしろアメリカ軍政府当局が驚いたんです。  民家を改築したうえでスタジオを作り、別の民家には送信機や発電機を置いてラジオ局を作ってくれました。(1949年)    ほとんど受信機がなかったので、「親子ラジオ」をアメリカ軍は日本のメーカーから取り寄せました。   親のところには発電機、受信機、増幅器をおいて、有線で1セットで300個のスピーカーを各家庭に配りました。   これを85セット導入して、2万5500人の聴取者が出来るわけです。   以前は那覇が中心で2500人ぐらいしか聴取者はいなかったが、一挙に増えました。   ほとんどはNHKからの中継でした。  

最初2時間だったが、増えて行って学校放送も行うようになり、先生方にも喜ばれました。 私はアナウンサーの教育の要員としてアメリカ軍の那覇の空軍基地から飛んで、世田谷の砧にある技術研究所に行きまして、同期では鈴木健二アナウンサーなどがいました。  研修期間は2月から4月まででした。   私はしょっちゅうアクセントで直されていました。  沖縄方言の番組では親しみを持たれるようになってきて、ローカル性と言うものが、沖縄でも堂々と電波に乗るようになって、私は本当に喜ばしいことだと思っています。   沖縄の民謡は次から次と新譜が出るんです。  沖縄のラジオ、放送は非常にカラフルで、バラエティーに富んで非常に力があると思っています。   うちなーんちゅ」とは沖縄生まれ(地元が沖縄)の人の事ことを指す言葉ですが、沖縄の人がアイデンティティーとしてうちなーんちゅ」として対外的にも発言するようになって、一つのシンボルとして使われるようになってきました。  

現在30万~40万の人が世界に沖縄系の人がいると言われていますが、うちなーんちゅ」大会が開かれるようになったという事では、沖縄の自意識、アイデンティティーを強める意識では非常に大きいと思います。   海外のうちなーんちゅ」は本当に元気です。   沖縄の若者はスポーツ面、芸能面であれ非常に元気です。   

芸術的に素晴らしいものを明治政府は古きもの、中国めいたものは存続しないような面がありました。   教育でも標準語を使いましょうとスローガンを作ったりして、琉球の文化、芸能を卑下するような傾向を作り続けた。  民芸的なもの、工芸的なものの価値を見出だしたのは、柳宗悦さんを中心とした日本民芸協会の人たちなんです。    首里城のメンテンナンス、維持管理緒も首里市役所に任されて、朽ち果ててゆき打ち壊すという話も持ち上がり、鎌倉芳太郎さんが美術の先生としてきていて伊東忠太氏に進言して、調査を行い国宝に値するということで、その時に作られた図面は首里城再興のために非常に参考になったという事です。   ジョージ・H・カー先生は台湾史、琉球史の研究家で琉球史を英文で紹介するという事で琉球王国の文献がどの程度あるかイギリス、フランス、ロシアなどで調査をするが、琉球王国の方が徳川幕府よりも西洋にはずーっと知られていたんだという事を私に教えてくれました。  沖縄の人たちにもっと自信を持ってもらいたいと思います。  沖縄を重要な軍事地点とするよりも、世界的な文化地点として東南アジアにおける一つの文化的拠点にするべきだと思っています。   


2022年6月2日木曜日

長崎佐世(バレエ団代表)        ・琉球舞踊と融合したオンリーワンのバレエを

 長崎佐世(バレエ団代表)        ・琉球舞踊と融合したオンリーワンのバレエを

沖縄の古典音楽とクラシックバレエを融合させるという事が琉球クリエーティブと言う風に名前を付けたのですが、古典音楽なので琉球と言う名前を付け「琉球クリエーティブバレエ」としました。   沖縄の文化と関わったことは私にとって誇りかなと思います。   琉球舞踊はバレエそのものです。  日本舞踊は違いますが。  琉球舞踊は真っすぐか、外足なんです。  腰の入れ方もバレエに似ています。  琉球舞踊の方たちはバレエの動きをやっているという事知らないと思います。   扇でも肘はちゃんと上がっている、扇を離したらバレエそのものの手なんです。  お茶、書道でも肘は上げています。  芸術は似ていて凄いと思います。  バレエの場合は舞台の隅から隅まで使って踊りますが、琉球舞踊は動きは少ないです。   洋楽は3拍子、4拍子とか一定ですが、琉球音楽は3拍子、5拍子に成ったり7拍子に成ったりしますので、大変苦労します。   育った環境で芸術が生まれるというのは、やはりその土地で育った人たちが小さいころから聞いているから、その人たちのものになり、芸能に携わってきていると言うのが、このクリエーティブを通して実感しました。    私自身がそれを作って得たこのものが私にとっては宝であり、財産だと思っています。 

私は台湾で育って、身体が柔らかかったので、バレエを基本にした民族舞踊を習う事になり賞を貰ったりしました。   それが出会いかと思います。  祖父は朝早くからヴァイオリンを弾いて、みんな正座して聞いてその後ご飯を食べて、祖父は漁場に行きます。 帰って来ると三味線を弾いていました。   その後沖縄に来て南条先生にバレエを習いました。   日本女子体育短期大学に入りましたが、体育は苦手で寮の人たちからいろいろな種目を教えてもらい感謝しました。   同級生が日本民俗舞踊に入っていたので、見学に行ったらバレエの先生を紹介してもらう事になり、バレエをすることになりました。    インドバレエを習いたいという事で3か月後には居なくなってしまう先生に必死で習って、期限が来た時にインド大使館で踊る事になりました。  できないことができるようになった大学時代のことが自分にとっての大きな転換になりました。  

クリエーティブをやる様になりましたが、生徒がいなくなり生活が出来なくなり、娘と一緒に自殺しようと思った時もありました。   教室を辞めようと思っていたら、「森羅万象」と言う踊りを終えて、或る時に一日で生徒が入会に23名来たんです。  それから毎月2,3人入ってきました。  1,2年後には生徒は80人になり、続けていくために思いついたのがクリエーティブバレエでした。    いろんな民族舞踊の要素を取り入れて作って、いまの琉球クリエーティブバレエ が出来たのもここ7,8年です。   舞台を通してできないという事はない、出来るという事を教えて行きたい。   バレエは出来たが、ほかの体育は全然できなかったんですが、先生が推薦してくれたので日本女子体育短期大学に入る事になりました。  大学時代にはできないことが出来るようになり自信が持てるようになりました。   

子供たちに頑張れば必ずできるという事を伝えて上げられたらいいなと思います。    バレエの振り付けをするときに着物がはだけないようにするのが一番の課題です。    3年振りに12月に舞台があり思案中です。   一生懸命やっていたら必ず導いてくれる人がいます。   いろいろな条件が整って今の自分があると思います。