2022年6月13日月曜日

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて 

藤波さんがプロレスラーとしてデビューしたのが1971年5月9日17歳の時でした。  プロレスラー生活51年、今もリングで戦い続けている。  

アントニオ猪木さんは師匠であることは間違いないんですが、人生そのものですね。   小学校5,6年生からプロレス中継を見てファンになりました。    

アントニオ猪木さんは1943年神奈川県生まれ、家族と共にブラジルに移住、ブラジルで力道山にスカウトされてプロレス界にデビューしました。   1972年新日本プロレスが破綻し、ストロングスタイル、プロレスこそ最強と言う理念のもとボクシングのモハメッド・アリや柔道の金メダリスト、ルスカなどと異種格闘技に挑戦、後の総合格闘技の礎を築きました。  1989年参議院選挙で当選、初の国会議員プロレスラーとなります。  現役を引退したのが1998年、2010年には世界のプロレス界の発展に貢献した業績を高く評価されて、アメリカのプロレス団体WWEの殿堂( ホール・オブ・フェイム)に日本人としては初めて認定されました。  現在、心機能の異常や不整脈などをきたす難病心アミロイドーシス」で療養中です。 

電話で連絡を取ったりしています。  「元気ですか」の猪木さんの声を聞いただけで十分です。   最初あった時には怖かったです。  その時「頑張れよ」と言った言葉が自分の力になっています。   当時は柔道、相撲などの格闘技をやって身体がある程度できた人が入ったんですが、僕は175cm程度で70kg有るかないかぐらいで格闘技はやったことがありませんでした。    猪木さんの付き人としていわゆるカバン持ちをしました。 試合後に背中を流したりしました   

僕は1971年(入門の翌年)デビューしました。  具体的なことは何も言われませんでした。  普段は穏やかな人でよく話をしていました。     デビューした7か月後に、日本プロレスを出た猪木さんは新日本プロレスを1972年に旗揚げします。(6名)    庭に道場の建設から始めました。   日本プロレスにいた方がよかったなどという事は一切なかったです。  1978年師匠との対決試合がありましたが、付き人時代のことが頭に浮かぶと身体が動けないんです。   悔しさがあり後悔ばかりです。  1985年タッグマッチでしたが、猪木さんに勝つことが出来ました。  僕と木村健吾、猪木さんは坂口さんでした。   ドラゴン・スープレックスという羽交い絞めにして後方に投げるというちょっと危ない決め技で猪木さんに勝ちました。    終わったと控室で「ありがとうございました」と言ったら、ニヤッと笑って、弱さを見せないんですね。   本当に勝ったのかいまだに判らない。  

猪木さんが新日本プロレスの運営で大変だったので身体を休めて欲しいという思いがあり、現状改革を訴えようとして、試合後一気に興奮しながらやらせてほしいといったが、「やれるのか」と怒鳴られビンタされ、その時だけは張り返して、救急箱を蹴った拍子に鋏が僕の前に来て、その鋏で髪の毛を切ったことがありました。(「飛龍革命」と呼ばれた。)    

1998年8月8日 横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を猪木選手を相手にして行い、60分フルタイムの名勝負をする。   何人かで挑戦者決定戦をするが、猪木さんは上がってこないと僕は思っていましたが、上がって来るんです。  無心でぶつかっていきました。   結局引き分けとなり防衛する事になりますが、終わりのゴングが鳴った時には寝技で猪木さんが上になっており、負けたくないという思い、ここまで意地を通すのかと思いました。   1998年猪木さんは56歳で引退します。  

猪木さんへの手紙を披露。

2015年3月、WWE ホール・オブ・フェームに迎えられた。 (日本人2人目の殿堂入り) 現役でのプロレスラーとして51年目がスタート。(68歳)