2022年6月4日土曜日

石津勝(大阪芸術大学デザイン学科 准教授)・雲仙・普賢岳 兄の最期をみつめて

 石津勝(大阪芸術大学デザイン学科 准教授)・雲仙・普賢岳 兄の最期をみつめて

 雲仙・普賢岳の大火砕流から31年となった昨日、消防団員や警察官などが犠牲となった農業研修所の跡地では、発生時刻に合わせて追悼の鐘が打ち鳴らされ、遺族らが祈りを奉げました。   島原市にあった北上木場農業研修所は災害当時、定点と呼ばれる撮影ポイントにいた報道関係者に対応するため警戒に当たった活動拠点で、大火砕流によって消防団員や警察官らが犠牲となりました。  昨日は消防団員や遺族の関係者が現場を訪れて、花を手向けたり線香を上げたりして犠牲者を悼みました。  午後4時8分発生時刻に合わせて追悼の鐘が打ち鳴らされ遺族らが黙とうしました。   1991年6月3日当時噴火活動を続けていた雲仙・普賢岳火口付近から流れ下った高温の火砕流によって、43人が犠牲になりました。  報道関係者16人、消防団員12人、一般の人6人、タクシー運転手4人、火山研究者3人、警察官2人です。  消防団員や警察官は取材者に警戒を呼びかける中で、タクシーの運転手は取材者に同行する中で火砕流に巻き込まれました。  山頂から4kmほど下ったところにある通称定点、正面と呼ばれた場所、山全体が見渡せるこのポイントで噴火を撮影しようとテレビ局や新聞社の取材者が立ち入っていました。  当時この場所には避難勧告が出ていました。   この定点から300mほど下流に北上木場農業研修所があります。  NHKのクルーはこの農業研修所で取材中火砕流に遭遇しました。   矢内万喜男カメラマンと大田義男?ライトマンがなくなりました。  火砕流とはどういうものだったのか、何故これだけ多くの人が命を落としたのか、雲仙災害記念館を訪ねて館長の杉本伸一さんに話を伺いました。

雲仙災害記念館は2002年にオープンしました。   火砕流は火口付近では800~850℃と言われていますが、山腹に来た時には400℃ぐらいと言われています。  スピードも時速100km/hぐらいです。   普賢岳がどのように噴火活動を活発させたかという事を時系列で追った写真パネルがあります。  当時の体験者の証言もあります。  当時北上木場町では報道陣が避難した住民の住宅に無断で入り、電気や電話を無断で使用する問題が起こっていた。  空き巣も多く注意を払っていた。  何が原因かと言うと、自然の驚異に対する人間の認識の甘さが災害を大きくした。  まさか火砕流がここまで来ないだろうという思いがあった、と言う風に証言しています。  

北上木場町は葉タバコの産地で一瞬で焼き尽くされました。  定点の周辺を火砕流が襲いました。  電柱の部分、電話ボックス、三脚などの焼かれて変形しているものなども展示されています。   NHKの矢内カメラマンが使っていた焼け焦げたカメラもあります。消防団12名も高温の火砕流で外もやけどをしていますが、気道熱傷と言って 熱いガスを吸い込んで気道をやけどして次々に亡くなって行きました。   火砕流は本体の大きな岩の部分とその上にある火山灰とか火山ガスを大量に含んだ部分と二つあります。   岩は低い場所を流れますが、サージと呼ばれる火山灰とか火山ガスを大量に含んだ部分は丘の上を駆け昇って行く感じです。   火砕流の動きを理解していなかった。  

石津勝さんは雲仙・普賢岳を取材していた兄勉さんを亡くしました。  勉さんは毎日新聞のカメラマンでした。   兄はどのようにして亡くなったのか、その時どのように考え行動していたのか。  石津さんはデザイナーとして雲仙岳災害記念館の展示パネルの制作に関わるなどして、兄の死と向き合ってきました。   

夜、電話が掛かってきて兄の名前があがっていることを知りました。  翌朝新幹線で駆け付けました。  道路も封鎖されたりして、災害の現場にはなかなかいけませんでした。  双眼鏡を購入して見ましたが、遠くなのでよく見えませんでした。    6月4日に自衛隊の方が現場に入っていただき遺体の収容が始まりました。   6月5日に兄の遺体の確認をしました。   兄は大学では山岳部に入って、危険に対する知見は持っていたと思います。   定点から1,5kmほど下にいたが、何かの理由で定点に向かったようです。何故能動的な行動をとったのか知りたいと思いました。   報道の競争もあり、特落ちと言って、例えばほかの報道各社は或る写真はあるが自分の社にはないという事になるといけないので果さないといけない、と言うような責任感もあったのかなと思います。   情報収集から始めました。   新聞が山積みになりました。   雲仙災害記念館のコンペがありましたが、うちの会社は負けてしまっていて、僕のほうには全然話が回って来ませんでした。(1998年)    

遺族であるという事で、スタッフにいれていただくために県知事に嘆願しましたが実現しませんでした。   フリーになって2000年にスタッフとして入ることが出来ました。  基本設計はすでに出来上がっていて、詳細設計に加わりました。  特ダネ的な溶岩ドームの写真があり兄の撮ったものだと判りました。   マスコミ関係者と地元住民との関係は余り良くなかったが、30年経って杉本さんはじめいろいろな方の働きかけがあって雲仙災害記念館が実現しました。   

定点と呼ばれる場所は被災から30年を迎えた去年、噴火災害の遺構として保存、整備されました。   葉タバコの栽培する段々畑でしたが、火砕流によって埋め尽くされました。(深いところで170m) 3台の車が遺構として残されています。   2台はタクシー、もう1台は毎日新聞が使っていた報道車両です。  石津さんが使っていた望遠レンズ、機材だと思われるものもあります。  碑文があります。「・・・雲仙・普賢岳災害教訓を未来に生かすことを誓う。」と刻まれている。