観世清和(二十六世観世宗家) ・コロナ禍で能が果たす役割
観世能楽堂が移転してから5年になります。 あっという間の5年でした。 コロナ禍で芸道に携わる人もどうしても気持ちが下がってしまいます。 下がらないように立ち止まって振り返ることも大事ではないでしょうか。 日々の稽古の積み重ねが第一です。 古典に世界は反復が必要です。 公演が延期に成ったり、無くなったりする中でも、時間を区切って稽古に打ち込むことは大事で、繰り返し行うための忍耐も大事です。 他ジャンルと違うのは600数十年の歴史の中で、勧進と言う言葉がありますが、戦乱で神社仏閣が倒壊してしまったり、伝染病で多くの尊い命が奪われ、そうした時に積極的に能楽師は勧進の場を設けて、御浄財をあつめ、頂いた御浄財に対して、自分の芸をご披露申し上げる、頂いた御浄財を戦乱や自然発生的な災害に困っている方々に喜捨をしてゆく。 根底にあると言うのは能者供養は全編に流れているわけです。 地獄へ落ちてしまった亡者の彼が生きていた時の一瞬の人生の輝きみたいなものを、もう一回地獄から子の舞台に上げてあげて、開花させてあげるというのが世阿弥の優しさだと思います。 人間が自然界で生きてゆくための糧と言うか、大和心と言うんでしょうか、そういう心を感じてもらいたいと思います。
コロナ禍前は土日は舞台、平日も夜の催しもあるし、申し合わせといってリハーサルも平日の昼間に入って行きます。 従ってお能と離れる時間が少なかったです。 伝書の整理などもしていました。 先祖の人たちの苦労も判るわけです。 魂を削って稽古をして江戸城へ向かって将軍様に披露するわけです。 洗練されてとにかく余計な贅肉を取って行って、研ぎ澄まされた世界における、辛さ、苦労があったわけです。 それがあったからこそいま僕たちが生かされていると思います。
国立能楽堂で行われる「賀茂物狂 (かもものぐるい)」の企画の目的ですが、「賀茂物狂」という演目は私どもの流儀にはありません。 「賀茂物狂」を復活上演するというのが今回の主眼です。 京都の上賀茂神社が現場になるわけです。 謡いだけ後半に独立してあり、蘭曲として伝わっていました。 私も聞いたことがありません。 復活初上演となります。 「賀茂物狂」は世阿弥の娘婿、金春禅竹の作であろうと言われています。
(東国へ行ったまま戻らない夫への想いを断ち切ろうと妻は上賀茂社を訪れますが、賀茂の神職は「逢瀬を祈るべし」との神勅を渡します。やがて帰洛した夫は妻が行方知れずとなったことを嘆きつつ、祭礼で賑わう上賀茂社へと赴きます。するとそこには物狂となった妻の姿がありましたが、再び仲睦まじく暮らすのだった。)
リアリティーが要求されます。
世阿弥が五番立てで、「神男女狂鬼」と言う言葉を残しています。 江戸時代、能は1日かけて五種類の演目が上演され、神・男・女・狂・鬼と演じる順番が決まっていました。
7月上旬に「熊坂」と言う演目を行います。 63歳でやるわけですが、63歳になっても若々しく観世清和はやるんだよという事を見せたいなと思っています。(熊坂は舞台を縦横無尽に動き回り、義経との奮闘ぶりが舞台いっぱいに表現されます。) 人間は老いていきますが、工夫をして人に見せたり聞かせたり、稽古をしてゆきます。 人々の心に寄り添う事が大事です。 翁のように「天下泰平 国土安穏」は素朴な祈りですが、素朴な祈りだからこそ先人たちが大事にしてきたことだと思います。 先代が「どんなに悲劇であっても、どんなに悪人を演じようとも、品性を失ってはいけない」、とよく言っていました。