木野花(俳優・演出家) ・芝居熱、いまだ冷めず!
1948年(昭和23年)青森県生まれ、弘前大学教育学部美術学科卒業後、中学で美術の先生になります。 その後教師を辞め俳優を目指して上京、1974年女性5人で劇団「青い鳥」を結成し、当時の小劇場ブームの代表的存在になりました。 1986年に劇団を退団、その後は俳優として演出家として活動しています。 2013年には連続テレビ小説「あまちゃん」に出演しています。
コロナ禍でしたが、渡辺えりさんと早い時期にお客さんを半分いれて二人芝居を始めました。 気をつけなければいけないことは全部やりました。 緊急事態宣言でストップをかけられたりしました。 丸々全部やれた公演はないです。 稽古が出来て良かったとか、初日を迎えられてよかったとか、或る意味芝居を新鮮に感じました。
小、中、高校のころまで相当暗かったです。 私が5歳の時に親が離婚して、母親に育てられました。 母は働かなければいけないので、割とほったらかされました。 友達もあまりいませんでした。 中、高校のころ日本文学全集と世界文学全集を毎月3冊送られてきて、本を読んでいました。 大学に行った時には母親との暮らしが別れました。 そこで母親に対する執着みたいなものが吹っ切れました。 美術学科は自由でしたので、自分を解放できました。(友達と酒を飲んだりしていました。) 教師になりましたが、学生時代の時間感覚がすぐには直らず、朝中々起きられなくて、神経性胃炎、片頭痛、低血圧でダメージがありました。 3学期ごろに病院に行ったらストレスだと言われました。 環境を変える事が必要だと言われて、すぐやめました。 職員同士の会話とか付き合いが大変でした。 辞めようと思ったら、片頭痛が治りました。
当時アングラが全盛で、劇団に入ろうとしましたが、劇団を回っても私が入れる劇団はないなと判りました。 養成所で勉強をしている間にそこの人たちと旗揚げすることになりました。 女性5人でした。(青森でも養成所でも男尊女卑の雰囲気がありました。) 1974年に女性5人とともに劇団青い鳥を結成し、一回目の公演でも黒字になりました。 お金も溜まって公演も長くなっていきました。 楽しいことの方が多かったですね。 誰にも遠慮することなく、誰からも嫌なことは言われずに、好きなことが言えて、作れて、そういった環境は本当に楽しいものなんだなと思いました。 「青い鳥」で12年やって、演出もやってみたいと思って、辞めて演出の道に進みました。
女性の脚本家、演出家も増えてきました。 渡辺えりさん、如月小春さん等が当時出て来ました。 演出家としては面白かったけれど、役者としてはしばらく自信がなかったですね。 ターニングポイントになったのが劇団「新感線」の『花の紅天狗』の月影花之丞と言う役でした。 目の回るような課題が出まして、こんがらかって段取りを間違えてしまったりしましたが、何とか終わることが出来ました。 しかし、これは駄目だと思いました。 芝居を辞めるかどうか考えて、48歳でしたが、声の勉強、身体を鍛えるというような役者修業を始めました。 55歳の時には『花の紅天狗』の再演があり、歌も踊りも増えて、さらに難しくなって、まだまだだと思いました。 辞めるのが悔しくてもうひと頑張りしようと思いました。 新人になったつもりでもって辞める覚悟で本気でやろうと思いました。 演出をやる時には左脳をフル回転、役者をやる時には右脳をフル回転させるという感じでやっています。
「阿修羅のごとく」という向田邦子さんの作品がありますが、向田さんは非常にアナーキーな人だと思います。 「阿修羅のごとく」を見て、ドラマの枠(お茶の間的な枠)を越えてきたものだと思いました。 4人姉妹の父親が浮気をしたことからドラマは始まるが、それぞれが問題を抱えていて、不倫をしたりとかあり、めでたく終わるというようなことはなく、非常にリアルでこういう書き方もあるんだと思いました。 戯曲を読んだらセリフが凄くよくて、ストーリーも面白くて、名作だなと思って、舞台化することはできないだろうかと思って、挑戦してみようと思いました。 キャストの皆さんにはよく引き受けてくれたなと思って感謝しています。 セリフをあまり大事にし過ぎないようにと思いました。