山崎章郎(医師) ・病院で死なないということ
1947年福島県生まれ。 千葉大学医学部卒業後外科医としてキャリアを重ねましたが、終末期医療医への疑問を感じていた山崎さんは、ふとであった一冊の本アメリカの精神科医 エリザベス・キューブラー・ロス が死とその過程について書いた「死ぬ瞬間」に心を動かされ新たな道を模索し始めます。 1990年初めての著書『病院で死ぬということ』を発表、患者が人間らしく穏やかな最後を迎えられるように、患者さん本人やその家族と真摯に向き合う姿は後に映画化されるなど、大きな反響を呼びました。 2005年地域に根差した訪問診療所を開設し、在宅緩和ケアの第一人者として活躍されてきましたが、先日病院経営の一線からは退きました。 実は4年前に大腸がんが見つかり、自らを実験台としながら現在の保健医療では零れ落ちてしまうがん患者へのケアの在り方を模索していて、これまでの経緯を綴った「ステージ4の緩和ケア医が実践するがんを悪化させない試み」を先月出版しました。
大腸がんで両方の肺に転移がある状態で、ステージ4と言う状態になっています。 両方の肺に転移が見つかったのが2009年の5月でしたが、肺の転移病巣は大きくなっていない状態で、私の健康に及ぼすほどではないという状態です。
24時間在宅で療養している皆さんの緩和ケアに携わってきました。 2005年から17年やってきましたが、がんが見つかって転移が判ってからは、患者さんの数を少し減らしてきました。 在宅の患者さんを24時間連絡が取れるような形で診療しています。 往診もしています。 この1週間で、長く療養していた人(3~10年)が3人亡くなられましたが、看取りをお願いしますと言われていて、看取ることが出来ました。
2018年夏にお腹がぐるぐるという様なことが頻繁になってきました。 腸に狭いところがあるようなので、大腸がんだろうと確信しました。 がん患者さんを2000人以上の人生とお付き合いさせてもらってきて、がんを経験して人生を閉じてゆくのが、私の宿命なんじゃないのかなと或る時から思うようになりました。 自分から積極的にがんを見つけようという気にはならなかったです。 ショックを受けたというよりも、ようやく来るものが来たなと思いました。 家族、周りに伝えるとショックを与えてしまいました。 手術をして主治医から切除出来ましたと言われました。 ステージ3でしたが、再発を予防しましょうという事で、抗癌剤を勧められました。 一瞬ためらったが、医師として副作用などを自分も味わうべきなんじゃないのかなと思いました。 主治医が優しいので断りにくい思いもありました。
3週間飲んで1週間休むという事を8回、ほぼ半年の治療でした。 2回目から吐き気が出て来て食欲不振になって来ました。 次に手足が黒ずんできて、指の筋にひび割れが入って来ます。 ひびが深くなると血が出てきて、ペットボトルを空けられなくなったり、車の運転時に痛みを感じました。 足裏にも同様な症状が出て来て歩くのが大変だったりしました。 4回目の時に先生に言って、1か月休みました。 そうすると食欲も出てきて手足もよくなりました。 その後薬の量を減らして頑張りました。 半年後、CT検査をしました。 抗がん剤の効果はなく、両方の肺に転移があることが判りました。流石に唖然としました。 ステージ4という事でした。 ステージ4では治癒を目指すことはできないというのはがん治療医の常識ですから、命を少しでも伸ばすことが次の目的になります。
限界のある時間をどう生きるのかという事が最優先だろうと考えた時に、抗癌剤の副作用がなければ普通の生活ができたので、その間に仕事を継続して、でも悪化してゆくだろうから身辺整理をしていこうと思いました。 緩和ケアの仕事をやってきたので、がんがどんな経過を辿るか、どんなことが起こるかを予測されるという事と、何が起こってもどう対処すればいいかという事がわかっているわけです。 ですから死を恐れる必要はないと思っていました。
ほとんどの人はステージ4の状態を経てから亡くなってゆくわけです。 ステージ4に対する全身治療は抗癌剤なんです。 抗癌剤を使わないとなると、そうすると終診と言われるわけです。 私が本を書くきっかけになったのも、抗癌剤を使わないとなると医療保険が使えなくなるので、長く生きたいと思うとさまざまな民間療法、代替医療とかあるのでそういうところに頼ってしまうわけです。 私が抗がん剤治療を放棄して見えてきた大きな課題だろうと思いました。
上手くがんの勢いを押さえておとなしくしていて、と言うような取り組みが出来ないかと思い始めました。 理論的、科学的に筋の通っているもので、副作用のあまりないもの、出来るだけお金のかからないもの、臨床試験的なことに取り組めて、少しでも根拠の持ったものとして皆さんに提案できないかなあと、それに合うものを捜しました。 2019年の5月に見つかった状態よりは今年4月には小さい状態、共存出来ている状態が今も続いています。 自分の経験とかを纏めて提案してもいいんじゃないかと思いました。 今できる時に今出さないと出しそびれてしまう場合もあるかもしれないので、私の体験がヒントに成ればいいと思っています。
ほとんどの先生が抗癌剤の治療がメインでサポートするような形でやっていて、私は抗癌剤治療をやりたくない人の為なので、ちょっと違いますが、医学的観点からみてそんなに外れているとは思っていません。 もし時間が伸びたなら伸びた時間を自分の大切な時間として生きる事の応援が出来るかもしれません。 クリニックをバトンタッチしましたが、自分自身の体力の低下、病気がどう変わるかわからないという不安から、今までのように責任を持った仕事ができないと感じていることも確かです。
日野原先生が105歳の時に私は70歳で、日野原越えをと考えているうちにがんになってしまいました。 『病院で死ぬということ』を出版してから30年ぐらいになりましたが ,当時がんですよと患者さんに伝えることはほとんどありませんでした。 今はきちんと病気のことをお伝えします。 患者さんが自己決定するチャンスも増えてきていると思います。 事実を伝えることは大事ですが、事実を向き合う人たちをきちんと応援してゆくようなこともやって初めてそこは意味のある人生界観になると思います。 がんが暴れ出しても、後2年ぐらいは生きられそうですし、もっと抑え込めたらもっと長く生きられるかもしれません。 今できる事、今思いついたこと、出来そうなことにチャレンジして前に進んでいきたい。 いろいろあの世で会いたい人が沢山いるので合う事を夢見ているので、私は死後の世界を信じたいと思っています。