2022年7月7日木曜日

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて 

東京にかつて「東洋のハリウッド」と呼ばれた映画の町があるのをご存じでしょうか?   東京都のほぼ中央、多摩地区の東部にある調布です。   色々な映画会社が立ち並んだ全盛期には真夜中まで撮影の照明が煌煌と灯り町は映画関係者であふれたと言います。   宮嶋眞雄さん(79歳)は撮影所の近くで育ち、映画の町調布をよく知る生き字引的存在です。  

昭和25年に「羅生門」を作ってベネチュア国際映画祭に昭和26年に出品したら、誰も予想しなかった金獅子賞を取りました。   日本映画何て大したことはないという評価だったが、一転して凄い映画を作ってるという事になりました。  当時大映の社長がアメリカ、ヨーロッパに行って大変な人気でした。   アメリカからも人が一杯訪ねてきます。  昭和26年に「源氏物語」がカンヌ映画祭で撮影賞、「地獄門」が昭和28年にカンヌ映画祭のグランプリ、昭和28年に「雨月物語」で銀獅子賞、「七人の侍」が昭和29年にベネチュア国際映画祭で銀獅子賞「山椒大夫」が銀獅子賞。  

昭和20年代後半から30年代前半は映画の黄金期と言われています。   昭和33年の観客動員数は11億2700万人。 当時の人口が9200万人なので1人が1年間に12回映画を観たことになる。    昔のフィルムは現像所があちこちにあるわけではなくて、自分たちの敷地の中に現像所を置くわけです。   いい映画を作るという事は「一筋(台本)二抜け(現像)三役者四はなくて五に監督」と言われていた。  現像が悪いのは水質が悪い。   日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督が言った言葉です。  綺麗な水が調布では湧き出ていました。  風光明媚な景色が調布にはありました。  時代劇のロケにはもってこいの場所でした。  東京からの駅も近かった。   京都の東活映画がタイアイアップして映画を作りたいという事で、東活映画のカメラマンだった本多嘉一郎さん(後の調布市長)が調査のため派遣されました。(昭和7年)  水もよくて景色もいいのですぐにOKとなりました。  

僕は昭和18年生まれで、生まれた時には日活はなく大映村に変っていました。  村扱いになっていました。   スターは住まなかったが、中堅以下は村に住んでいました。  女優では浦辺さん、三條美紀さん等は住んでいました。  俳優では宇佐美淳、根上淳さん、等がいました。   大映村はおよそ7000坪あり150世帯ぐらいが住んでいて500人ぐらいいました。    試写会などこっそり観に行ったり楽しかったです。  昭和46年にはなくなってしまって寂しいです。  「旧日活大映村の会」が出来たのは60年ぐらい経ってからです。  会を作った時には40名ぐらいいました。  

6年間かけて本をだしました。  「旧日活大映村」と言うタイトルです。   児童公園のところに「映画発祥の碑」というものがあります。  俳優の手形が調布駅の東口と日活撮影所の食堂のなかにあります。 小林旭、石原裕二郎、赤木圭一郎、吉永小百合とかあります。  見学者の案内をして親しんでもらっています。  

僕は大学では映画研究会に入りました。 大学4年の時に助監督を勤めました。  久松静児監督とは時々一緒に仕事をしました。  杉江敏男監督(若大将シリーズなど)、谷口千吉監督(八千草薫さんの夫)ともご一緒しました。   調布の映画に関わった場所などの看板をいろいろ立てて欲しい。