伊藤瑞子(小児科医) ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 「共有」の意識を子育ての出発点に
現在77歳、自ら開業した福岡市のクリニックで、今でも診療を行っています。 日本を代表する歌手MISIAさんのお母さんでもあります。 71歳の時に福岡市にある大学院に入り、「育児の共有」をテーマに論文を書き、社会に向けて発信し続けています。 同じく医師である夫の新一郎さんと共に、3人の子供を育てながら仕事に邁進してきた伊藤さん、今どのようなことを伝えようとしているのか、伺いました。
小児科医をしていて、子供の成長には親御さんをはじめたくさんの方々の、社会の、愛情が必要だと思って来たんですが、核家族が増えて、コロナもあり子供さんに関わる人数も制限されて、両親の協力が育児には大事だと改めて思いました。 育児不安、シングルマザーの貧困、虐待の増加など子供を取り巻く問題が増えてきました。 保育所の問題はお母さんの問題と言うような取り上げられ方だとか、2016年の育児書には父親の役割は、父親は影の存在もしないというような本も多かった。 25年間男性の育児休業を取ってほしいと政府が進めてきましたが、それもなかなか進んでこないという事もあり、社会全体で育児を考えるというより、育児は女性の問題だと、社会全体で思われているとずっと考えながらやってきました。 フランス在住の高崎順子さんの本で、「フランスはどう少子化を克服したか」と言う本を読みました。 「男を2週間で父親にする」、というショッキングな題が付いていました。 日本の男性は実は父親にはなっていないんじゃないかと思いました。
もやもや思っていたことを一回勉強したいと思って、71歳で入学試験を受けて大学院に入りました。 論文のテーマは「育児の共有」、日本の男性に育児を体験して本当に父親になってほしいと思いました。 夫婦だけではなく社会も共有すべきだという考え方です。 父親と一緒に小児科に来るといい子で嬉しそうなんです。 普段泣く注射も泣かないとか。 父親の役割は大きいと感じていました。 大学では以前は良妻賢母を育てるための女子大学だったらしいですが、今は女性のリーダーを育てるという目標に理念を掲げてやっています。 大学院の時にアンケートを取ったんですが、男女ともに70%前後の人が男性の育児休業は必要だと答えています。 職場の理解がない、上司の理解がない、とかいろいろ意見を沢山いただきました。 10月からは父親の産休が取れることになりました。
祖父がこれからの時代は女性でも独りで生きてゆく仕事を身に付けて行かなければならないと、ずーと言われていました。 中学生の時に医者に成ろうと決めました。 結婚して二人の子供を育てながら、基礎医学教室での学ばなければいけないことが沢山あって大変でした。 研究職だったので大きな学会に出さなければいけなくて、2回も十二指腸潰瘍になってしまいました。 素晴らしい小児科医の先生との出会いもあり、小児科医に成ろうと決心しました。 研修医が終わって2か月後に次女が生まれました。(33歳でMISIAを出産) 夫と同じ小児科医に成れて夫の協力も凄く得られるようになって、小児科医としての仕事が充実していきました。 育児の共有があれば働けると思いました。 3年間乗り越えれば仕事が続けて行けると実感しました。
39歳の時に長崎県の対馬に渡ります。 夫が、離島に実際行って新しい医療を届けたり、医療過疎地域の保健、福祉を連携するシステムを作って現地で働いてみたいと言いだしました。 産科と小児科が一緒になって面倒を見ようという周産期医療を立ち上げてみようと重い決心をしました。 子供たちも大変だったと思いましたが家族で引っ越しました。 医療過疎地域だったので大変忙しかったです。 病院のそばに官舎があったので病院と家庭を行ったり来たりしました。(子供が眠ったのを見計らって、眠った振りもしていました。)
病院の一室に小さな保育所があって、看護師さんが働くためには必要な保育所でした。 病院が移転して新しくするときにもっとしっかりして、たくさんの子供たちを見てあげられるような保育所を作りたいと思いました。 病気になると大変なので幼児保育も一緒に作りたいと思いました。 1994年、49歳の時に対馬の病院を退職、2年後に福岡市にクリニックを開業。 1991年夫だった院長が私を副院長にしました。 まるで私立の病院みたいに見えるからそれはできないと言われました。 妻と言う立場に置かれて理不尽だと思いました。 どちらかが辞めないと管理職にはなれないという不文律があったようです。 私は診療部長でしたが管理職ではありませんでした。 1992年に人事院に提訴しましたが、裁定は社会通念に合わないという事で却下れました。 夫は管理責任がとれないということで、夫は辞職して私も不服という事で辞職して福岡に行きました。 両親の介護のこともあり私が小児科院を開業しました。 2年後は夫も合流しました。 色々大変なことはありましたが、辞めると言う思いはありませんでした。
MISIAは小さいころから音楽が大好きでした。 小学校5,6年生のころ私は歌手になりたいと言い出して応援したいと思いました。 高校に成ったら福岡で高校生活をしながら歌のレッスンをしたいという事で姉と一緒に福岡で生活するようになりました。 小学校2年生で自ら合唱団に入りました。 長崎では8月9日は原爆の日として全員登校して祈りを奉げ、戦争について、平和についてみんなで考える日になっています。 徹底して平和教育が行われています。 平和の大事さをみんなに伝えたいという事で反戦歌を歌うという事につながっているのではないかと思います。 MISIAが中学1年の時に湾岸戦争があり、人が死んでゆくことを直接自分の胸に響くような受け止め方が出来るようになり、長崎の平和教育はそうなっているんじゃなかと思います。 自分自身が何かしなければ、と言う思いがあったようです。
ずーっと仕事を続けてきたので、仕事を続けてゆくという面では、子供たちは影響を受け継いでくれていると思います。 夫婦で医療をやってきて、社会に関心を持って、より良い仕事をして何とか社会に対する責任を果たしたいと思ってきました。 それを仕事としてやってきましたが、彼女の場合はボランティアとしてやりたいと思うのは、彼女の周りにいる人から学んで教えていただいて、活動が出来るようになったと思います。 周りの方々に私たちは感謝しています。