2022年7月6日水曜日

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

1944年(昭和19年)名古屋市生まれ、1967年外務省入省、1996年から1999年までウクライナ大使を務めました。   ウクライナでの経験をもとに2002年「物語ウクライナの歴史」を出版、紀元前の遊牧民族スキタイの登場から9世紀から13世紀キエフルーシ公国、17世紀のコサックの共同体、ロシア革命時のつかの間の独立を経て、1991年にソ連からの独立に至るまでウクライナと言う豊かな土地をめぐる民族の興亡が描かれています。   今年2月ロシアのウクライナ侵攻で再び注目を集め、ベストセラーとなりました。

(20年前に出版したものがべストセラーに) 突然ロシアがウクライナに対して軍事侵攻した。  これまでなかったようなあからさまな方法で誰にでもわかる軍事侵略だったので、皆さん衝撃を受けられたと思います。   ウクライナと言う国はどういう国だろうと関心を持ったのではないでしょうか。   ウクライナは1991年まではソ連の一部でした。  赴任した後いろいろ勉強してみると、これは凄い国だなあと実感しました。  当時人口は5000万人以上、ロシアを除くとヨーロッパでは一番面積が大きい、産業面でも旧ソ連の中心地もであった、穀倉地帯である。  大国となる条件を備えていると改めてびっくりしました。  ウクライナはロシアと非常に近い国ではあるが、自分たちはロシアとは違うんだという意識が非常に強くある。   ウクライナに対する日本の情報がロシアを通じてのものが非常に多かった。   モスクワには日本の新聞、テレビ、ラジオの支局があって、ウクライナにはなくて、ウクライナで何か起こった時、モスクワを通じて日本に来る。  ロシアバイアスがかかっているという風に思って、ウクライナから生の情報が行くようにしないといけない。   以上のような3つのことで書こうという気になりました。

ウクライナの歴史を見てみると本当に今回のようなことが多いですね。  ウクライナの地形、位置が関係しているように思います。   平原の草原地帯で馬でいくらでも行ける。川も冬は凍ってしまうので馬で渡れる。  東から西から蹂躙される、と言うようなことだったと思います。   

知識がないところから本を書き始めたので大変でした。  モントリオールの総領事をしていた時にウクライナへの行く指示がありました。  カナダはウクライナの移民が非常に多いので、本屋に行くとウクライナに関する本がかなりありますので、それらを買って持っていきました。   フランス語を専攻していたので、スラブ地域に行くとは夢にも思っていませんでした。   赴任してロシア語をやるのか、ウクライナ語をやるのかと言うのは迷いましたが、結局ウクライナ語をやる事にしました。    支配が長かったのでロシア語が本来の言葉でウクライナ語は田舎の言葉だと言われてきました。    ウクライナ語でスピーチをすると喜んでくれました。    共産主義体制から自由主義体制に変ったという事で非常に多く混乱が起きました。  経済状態は非常に悪かった。   資金繰りを如何にやるかという事がウクライナ政府の最大の課題でした。   IMFからいくら融通してもらえるかと言うのが生きるための最大の問題でした。    日本はIMFの二番目の拠出国だったので盛んに頼み込んできました。   一緒に東京に取り次ぐという事が私の最大の問題でした。  

当時、ウクライナは西洋に一番近いところだったので、1/3の核兵器があったと言われています。   ウクライナが独立すると、ウクライナが1/3持つことになってしまうわけです。   出来たばかりの国に対して不安を感じたアメリカは核兵器の放棄をもとめました。   今後の経済援助などを考えるとウクライナ政府は手放すという事になりました。    核兵器に携わっていた科学者、技術者は職を失ってしまうため、よその国に行って核兵器を作る仕事に関係するかもしれない。   そういった人たちが平和的な仕事に携わってやって行けるように、と言う事が必要でした。  援助するというスキームに加わりました。

記憶に残る一人と言われると、ユシチェンコ大統領です。   私がいた時には中央銀行の総裁をしていました。   私をよく呼んでこういったことを日本に伝えて欲しいと言ってきました。  戦後の急速な日本の発展に興味を持って、是非いろんなことを教えて欲しいという事でした。   いろんな資料を渡したり、話をして親しくなりました。  その後大統領に立候補するが、毒を盛られて顔にぶつぶつが出来て真っ赤になってしまった。   私が外務省を辞めた後に、選挙監視団の団長にという事を頼まれて、キエフに行きました。 その時にユシチェンコさんにお会いして激励しました。   無事大統領に当選して、顔のぶつぶつもなくなり、元のハンサムな顔に戻られました。 

キエフは歴史のある非常に綺麗な街です。   10,11世紀ごろに出来た大聖堂、修道院があります。  クリミヤ半島にヤルタと言う街がりますが(ヤルタ会談があったところ)、帝政ロシアの皇帝の夏の離宮があります。  黒海に面した丘の上に建っていて、宮殿自体も美しいし、眺めも素晴らしいです。   そこでルーズベルトとチャーチルとスターリンが会談して、日本についての秘密条約を作ったという部屋まであります。  景色の面でも歴史の面でも非常に興味深いところです。  

ウクライナ研究会というのがあり、世界ウクライナ学会日本支部と言うのがありまして、そこに所属しています。  大使もしていたという事でそこの顧問みたいこともしています。 ロシアのウクライナ軍事侵攻に当たってウクライナ研究会として、非難声明を出して、林外務大臣のところに行って非難声明を渡して、ウクライナへの支持を訴えました。   

日本、ウクラウナ国交樹立30周年でいろいろな行事が行われるはずでしたが、中止になりました。   キエフの大学が日本についての連続講義をやりたいという事で、第一回目に私の講義をしてほしいということで2月下旬に予定していましたができなくなり、再度やってほしいとの依頼があり、録画撮りという事で行いました。

キエフルーシ公国は統一した国がなかったころに、スウェーデンあたりから人が来た人たちが来て国を建てた。  9,10世紀ごろで、キエフを中心に大きくなっていって、強力な国になって行きました。   ロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の先祖になった。   ウクライナは、キエフルーシ公国がキエフが中心にあったのだからキエフを引き継いでいる我々が本来の後継者だと言っているわけです。    ロシアでは、モスクワ公国が力をつけてきてある時点でルーシ(ロシア)が名乗って、キエフルーシの後を継いだのだから自分たちが本家筋だと言っている。   これは決着のつかない話だと思います。  キエフルーシ公国の言葉は一つだったが、段々別れていって、ウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語になって行った。   1940年蒙古がキエフルーシ公国に侵攻して滅びる。  今のウクライナの土地は、その後リトアニア、ポーランド、 その後リトアニア、ポーランドは合体して連邦のようになり、長い間支配される。   一方モスクワ公国がのしてくるという事でした。   最終的にはモスクワがロシアに変って、ロシアが段々ウクライナの土地を取って行ってロシアの国に含めてウクライナは霞んでいってしまった。  

ウクライナの草原地帯は遊牧民が行ったり来たりして、いろんな人が略奪をするという事をしていた。  ウクライナで人を略奪してクリミヤ半島からオスマン、トルコ帝国とかに奴隷として売り出すという事をやっていた。   段々無人地帯化していった。   無人地帯化すると、リトアニア、ポーランドで支配に耐えられないと言っていた人がどんどん移り住んできた。   そこでコサックと言うものが出来てくる。   主君を持たない共同体と言うところで、武力がかなりあり、非常にユニークなコミュニティーが出来てくる。   リトアニア、ポーランドが退いた後は、ほとんどのところをロシア帝国が取って行った。  ウクライナの人はコサック精神をずーっと受け継いでいたし、自分たちはロシア人とは違うんだという事で、独立したいという動きが段々強まって行って、ロシア帝国がロシア革命で潰れた時に、独立を果たした。   独立は長く続かなくて、後のソ連に征服されてソ連の一部になってしまう。

1922年に出来た憲法には 、ソ連を構成する共和国では自由に分離する権利を持っている、と書いてある。   しかしスターリンの元では中央集権で独立なんて考えられないことで、100%一地方という事でした。   1991年ソ連が崩壊、独立できた。      戦後日本人抑留者4000人ぐらいがシベリアからウクライナに送られていた。   ドンバス地方に収容されて道路工事などの強制労働に従事させられていた。   

本の最後に、ウクライナの将来性と重要性について、ウクライナが独立して安定しすることが、ヨーロッパと世界の安定にとり重要である、中、東欧の諸国にとってはまさに死活の問題であると書いてあります。   まさかこんな形で表れてくるとは思ってもいませんでした。  ウクライナは大きな国で力もあるわけで、それがロシア側に入るのか、西洋側に入るのかで、双方の力関係がかなり変わって来る。   

外国に赴任すると早くその国のことを勉強しないといけない。  歴史を勉強することは迂遠な様で一番いい方法だと思います。  外務省に入ってフランス語を専攻したので、まずフランス、次にエジプト(ナセル大統領時代)、一旦東京に戻る。 その後2,3年単位でいろんな国に行きました。     外交官の資質と言ってもいろいろあると思いますが、国のために働くと言う事は当然やることですが、同時に国際的なことに対しても働くという、両方が要求されると思います。