2022年7月31日日曜日

宇梶剛士(俳優)            ・悩み苦しんでたどり着いた自分のアイヌ

宇梶剛士(俳優)            ・悩み苦しんでたどり着いた自分のアイヌ 

自らのルーツであるアイヌをテーマに、舞台を作ったり、北海道白老町にあるアイヌ文化の発信拠点民族共生象徴空間「ウポポイ」のPRアンバサダー大使を務めたり、アイヌ文化の伝えてとして活躍しています。   宇梶さんの母親の宇梶静江さんは、北海道白老町出身のアイヌで22歳の時に上京し結婚、宇梶さんが小さいころから、関東地方で暮らすアイヌの暮らしを支援し、人権を訴える活動に力を注いできました。   その影響もあって宇梶さんは幼少期から青年期にかけてアイヌの人権運動に奔走する母との関係に悩み苦しんだ人生を送ってきたと言います。  暴走族の総長となったり、17歳の時には暴力事件をおこして少年院に入ったりした宇梶さんがどのように俳優と言う未来を見出したのか、伺いました。

2018年からアイヌ文化の発信拠点民族共生象徴空間「ウポポイ」のアンバサダーを務める。 一体となって楽しめる場所です。   去年もアンバサダーとしてではなく個人として行って楽しんでました。    白老町に去年11月に母(89歳)が移住しましたが、早めに行きました。   

僕はやんちゃ坊主で親にも先生にもよく叩かれました。(50年以上前)   家には叔父が獲った鹿の角だとか、アイヌの彫刻とかいろいろなものがいっぱいありました。   食事も毎日オハウ(アイヌの伝統料理で、 さまざまな食材で作る汁物)で、これしか食べるものがないのかと思いながら、いやいや食べていました。   50歳になって、楽しみにして居酒屋に行こうと電話したら、御馳走作って待ってるよと言われて行ったら、オハウでした。  お前は毎日御馳走を食べていたんだなと言われて、「えっ」と思い直して40年違う認識を持っていたんだろうと、それからは食べるようになりました。   

僕が小学生の低学年のころから、母がアイヌの人権について身を投じて、女性が当時社会に問題提示するという事はなんで女がと言われるような時代でした。  全国を回って講演したり、シンポジュウムに参加したりして、なかなか家に帰ってくることが出来なくなりました。   父は1級建築士で高度成長期でもあり、父は月に一回、母は10日に一回と言うような状況になっていきました。   母との心が段々離れていき、小学校高学年からは両親とは口もききたくないというような状況になりました。   中学1年からは家を飛び出して、親とは同じ家の下という事がないままになり、野球に打ち込んでいました。  僕たちは先輩に毎日激しい暴力を加えられて、100人いた同期の部員が2年生の時には25人になってしまいました。  僕が首謀者で告発しました。   最初監督から野球をやる事を禁じられて、平日4時間、土日8時間グラウンドの隅に立たされていました。  どんどん戻されてついにひと月目に僕一人になってしまいました。  いろいろもやもやがあり僕が暴力事件を起こしてしまいました。  そこからすさみ度が大加速してゆきます。 

退学となりぐれて、それを聞きつけて北海道から叔父が来ました。  「おい剛士、アイヌは他人に迷惑をかけないんだ。」と言って、北海道に行くことになりました。  北海道でいろいろな肉体労働をしました。  叔父から火はまたぐなとか、川は汚すなとか言われたり、地鎮祭の替わりにカムイの祈りをしました。 アイヌ文化の種まきをされていました。

叔父は浦川治造です。   「ここできちんと仕事をできないやつがよそで何が出来るんだ。 まずここでやってみろ。」と言われて、悔しい思いをしました。  数か月で逃げかえって、荒れて、暴走族に入って、喧嘩をしたりして捕まって施設にいれられました。   茨城県の農村地帯で、農作業をやるなかで、土を耕していると、まさに足元を見ながらやる作業でした。  農作業をするなかで荒れた気持ちが収まって行きました。  なんで自分は悪いことをしたんだろうと遡って行きました。   柵があり鉄格子があるこんなところでお前は何やってんだと思って、これからどうするんだと、先生に相談して、高校に行き直したいという事を言いました。   親にも勉強したいと手紙を出しました。  両親ともにドリルとか問題集とか、送ってきてくれて、高校へ行き直したら活路が見いだせるような気がしました。   本当は5月までの期間でしたが、受験の日に茨城から東京に帰してくれました。  受験して又茨城の施設に戻りました。  合格して、母親がチャップリンの自伝の本を送ってくれました。(1000ページに及ぶ本)    子供のころに父親が家族を捨てて出て行って、貧困にあえぎながら母親は病気で話すことが出来なくなってしまい、心も病んでいき、苦難の歴史が綴られていて、俳優になるんだと努力を積み重ねて行って、チャンスが来た時に努力が認められてスターになって行くチャップリンの人生が絵が描かれていました。   読み終わって途轍もない恥かしさ、悔しさが襲ってきて、涙が止まらなくなってしまいました。     バイクででかい音を出したり暴れまわることを辞めようと反省の心が芽生えました。   その時に俳優になりたいと思いました。   

にしきのあきらさんの付き人を経て、18歳で菅原文太さんに弟子入り、80年代からは「一つ屋根の下」など数々の人気ドラマに、2000年代からはNHKの大河ドラマや、コミカルなCMなどにも出演、俳優として実績を重ねてきました。  2019年自らのルーツ、アイヌへの長年の思いの集大成となる芝居、「永遠ノ矢=トワノアイ」の脚本を書いて、東京や北海道など全国で舞台上演します。  評判を呼んだ舞台は映画化され今年北海道各地で上演されました。  アイヌ語で永遠の飛び続ける矢と言う意味を持つこの舞台、「トワノアイ」には、宇梶さん自身の経験や思いを詰め込みました。   舞台で描いたのはアイヌの人たちが受けてきた苦難の歴史です。  江戸時代にアイヌが一斉蜂起した戦いが描かれます。  宇梶さんは自身の人生を投影しました。

僕が30歳ぐらいの時に書き始めて、不十分なところもあり、学びが浅くて表面的であり、もっともっと学びを深めていかないといけないと思い、畏れをもってアイヌ文化を見つめることになった時間でした、その何十年間。   アンバサダーのお誘いもあり、NHKで作った永永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜 主演:松本潤 でアイヌの役を演じましたが、画面で初めてアイヌ語をしゃべりました。   

自分はいったい何者なんだ、自分は何をどこに向かって歩いて行くんだというようなことを、物語の中で見つけ、歩み出そうとするのかと言うところで物語は終わって行くと思いますが、等身大の気持ちで描いたし見ていただきたい、というのが今回の作品では特にあります。   永遠に飛び続ける矢(=アイヌ語でアイ)、矢が意味することは一体どんなことなんだ、と考え続けることは、何か一つの結果が得ても、抱えてその経験をもとにまた考えてゆく。