神戸孝夫(声楽家・医学博士) ・日本歌曲の世界へようこそ
静岡県静岡市葵区出身(67歳)、3歳でピアノを始め作曲に興味を持ちました。 国立音楽大学声楽科卒業後ドイツ、イタリア、スイスに留学しましたが、声のトラブルで帰国。 この経験から声のケアの必要性を痛感し、専門的な研究を重ねて医学博士となりました。 以来多くの声楽家の指導やケアに当たっています。 又作曲家としても数々の日本歌曲を生み出し、この7月には自身の歌曲集を出版しました。 神戸さんは弱視で生まれ、46歳の時に視力をほぼ失っています。
*「情熱」 歌:神戸孝夫
自分はバリトンだと思うんですが、高い声も出たのでイタリア人の人から言われてテノールに転向しました。
黒板の文字が見えにくかったんですが、日常生活には苦労はありませんでした。 0.3ぐらいしかなかったです。 家にオルガンがありいたずらしているうちに、おばさんがオルガンではだめだからピアノを買ってもらいなさいと言われて、ピアノを買っておばさんに習う様になりました。 弱視だったのでおばさんも匙を投げてしまい、その後は独学で弾いていました。 小学校6年生の卒業演奏会の時には自分の曲を披露したりとかしていました。 母から要望されて月夜の晩に「月光」を弾いたりしました。 自分の好きな様に弾けるので常に弾いて遊んでいました。 先生から中学1年では作曲家は遅い、声楽なら間に合うと言われて、やっていたら段々好きになりました。 発声法はいろんな本を読み漁りました。
ドイツの シュトゥットガルトに24歳の時に留学して、その後バリトンからテノールに変ってイタリアに行きました。 ドイツとイタリアでは全く違う発声法ですね。 喉に結節みたいなものが出来てしまって、声を壊して日本に帰ってきました。 手術をしましたが、声が出なくなってしまって、失意のどん底に落ちてしまいました。 恩師からは良かったじゃないかと言われて、君は音声の道(博士課程)に行くべきだと言われました。 喉の研究のために久留米大学医学部にて喉の構造と発声法を研究し、1997年に医学博士号を取得しました。 宇都宮大学では音響学を学びました。 久留米大学は11年間、並行して宇都宮大学へ行ったりしていたので忙しかったです。 喉を触ったりすることが必要なので、身体を触るのには免除がないと駄目だという事で指圧学校にも行きました。
声帯の神経を反回神経と言って迷走神経から反回神経に枝分かれして、左右の神経の長さが違うのでどぅしても左右のトラブルが出て来ます。 途中に神経を圧迫するようなものがあると、どうしても声にビブラートが出てきたりふらついたりしてしまいます。 神経の動脈と静脈が通っているところを指圧でケアしていきます。 それが一番大切なことで全身医も効きますし、いいケアだと思います。 42~45歳ぐらいでだんだん目が悪くなってきました。 手術をしても駄目でした。 このハンディーが作曲と言う新たな道を開いてくれました。 いい恩師、いい友達の皆さんに支えられて、助けていただきました。 落ち込んで8Fから飛び降りれば、と言うようなことをふと思ったこともありますが、周りに迷惑をかけると思うと、とどまりました。
日本歌曲と言う明快な仕切りはないが、著名な作曲家が作曲した日本語で歌う曲を一応日本歌曲と言っています。 私が弾いたものを楽譜にしていきます。 作詞もします。 生みの苦しみを感じたことは一度もありません。 日本語は一音一音がはっきりしているので、言語的にもこれだけ、ひとつの子音に一つの母音と言う言語はほかにあまり見当たらないような気がします。 日本語はピユアな言語だと思います。 「熊本城讃歌」 熊本城の地震の際に被災した人のために作りました。 娘も声楽の道に進みました。