2011年8月31日水曜日

山田脩二(日本の写真家、瓦師)   ・売れっ子カメラマンから瓦焼き 2

山田脩二(日本の写真家、瓦師)   売れっ子カメラマンから瓦焼き 2  
江戸から明治にかけて、だるまさんが背中合わせになったような釜で、地元の土で瓦を焼いていた  
現在は殆どその形状の釜は無くなてしまった
50年前までは200基有ったが、30年前には3基しかなかった 
現在伝統的にやっていたこの形状の釜は一基もない
だるま釜の復活をしようと思った 
資料をもとに高さ2.5m(内側1.8m) 長さ4m近く 幅2.5m 1000枚焼ける大きさ  
土の釜で土を焼く 原点に帰る 効率効率で、これからの若い世代がこれでいいと云えばいいのかもしれないが、どっしりした瓦屋根を残したい
 
30年前から始める 
無表情な景観で覆われてしまって、これでいいのかと思う 
畳が絨毯になり、壁が別のボードで張られ、障子がカーテンに変わる  
原点に近いようなものを残したい 
だるま釜を作り、地域にのこった若い人と日本特有の風土、瓦を造りたかった  
70代~80代の人に聞きながら、今の残っている20代後半から30代の連中を集めて作った  
80代の人でも初めから作ったのは50年ぶりと言っている
瓦製作に転向して収入も1/10になった 
最初の2年間で小さな窯元に入って、時給700円で瓦にするプロセスを学ぶ  
土を触る労働というのはきつかったが 何とか続けられる  
瓦を造る街で新たに立ち上げるのに、戦争の焼け野原、25,6の時の旅行等の経験が糧になった 
8割以上はもの好ききやがったなあと生まれた時から瓦を触っていた人達からは思われた  
2年で修業先を辞める 
石の上には3年、瓦のうえには2年・・・飲み屋で知り合いから2年で修業を止めたことに対する冗談半分の受け答え  
2割は同調してくれる窯元もいる
2年の修行ぐらいですぐ屋根の瓦は厳しいと思い、地べた感覚で瓦を見直そうと 思い立つ  
屋根の瓦以外の使い方

1995年に淡路・神戸大震災に会う 家は大したことが無く済む  (窯が倒れる  瓦が破壊)  
炭でも焼こうかなと思ったが、もう一回頑張ってみるかと思う  
街を起こしたいんだったら、しっかり寝てから起き出す 
(あっちこっちの街おこしを見に行く  独自の町おこしをしないといけない 地域を感じさせる) 
瓦を焼くのに木を使っていてその後石炭になり (軍需産業で石炭が使えなくなり)、戦後重油になり 今はプロパンガス(化石燃料) 管理しやすい 安定している コンピューター制御  
瓦の作り方はスマートになり、行儀のいい 工業製品となる 
しかし日本特有の風土、 土を火で焼く もう一回 若い連中と焼く事が希望
淡路瓦 いぶし瓦 手作り  
陶芸家になったらとも言われたが瓦と陶器は違う
燻し(いぶし) 土の燻製 燻し瓦 最後900℃以上で焼いた後 火を止める直前に焚き口に、松葉とか木を入れて密閉する その時にすす(炭素)がでる
炭素が行き場が無くなって瓦の表面に付着したのが燻しです 
毎回やるたんびに炭が出来る 
楽しく、冗談と本気を織り交ぜて行かないといけないと思い続けている

2011年8月30日火曜日

山田脩二(日本の写真家、瓦師)   ・売れっ子カメラマンから瓦焼きへ

山田脩二(日本の写真家、瓦師) 売れっ子カメラマンから瓦焼きへ  
昭和6年生まれ 西宮で焼きだされ、母親の実家に小学6年までいて、中学、高校と又西宮に住む その後は東京にて仕事をする
父親は建築設計(終戦までは大手の設計事務所) 戦後フリーの建築設計家として仕事をする 
高校の時は絵を描くようになる  
学校の方針に合わない(大学進学中心主義) 2年の終わりに大学選択 
芸大受けたいと先生に言う(内申書を書いてもらえず)  
桑沢デザイン研究所に入学した  グラフィックデザイナーを目指す  印刷・写真を学ぶ  
写真の仕事をする 
 
2カ月掛って東京から関西まで旅行する(26歳) いろんな方にお世話になり旅が出来た 
建築カメラマン 東京霞が関ビルをいろいろな角度から撮る事がきっかけとなる  
万博の時が忙しかった 撮りまくる  
自動車で旅に出る 1年間3万km日本国内を走り 写真を撮る  
普通の風景(日本の村) 1971年  
写真と文章が関連していない(日本の村 今) 『山田脩二 日本旅 1961-2010』
モノクロ写真が主体 目が本能的に白黒に写し替えている  
わりかし手作業で自分で出来る
自分の表現としては白黒の方が合っていた
紙を焼く、土を焼く、木を焼く  
42歳の時に淡路島(瓦生産地)に家族とともに移住する

2011年8月27日土曜日

中村啓子(女性ナレーター)     ・幸せのありか

中村啓子(富山県出身の女性ナレーター) 幸せのありか  
39歳でがんを患う 人生観が変わる キリスト教に出会う
ナレーターになって40年 最近自分の好きな作家の朗読、自分のしてきたことの話をする事によって、絶望の中から希望を見出したことによって人生が替えられたとか,希望を持てたと云う人がいて、自分の声を通して橋渡しすることが自分にとって幸せです  
アナウンサーになりたかった 父の転勤に伴い富山から東京に住む (高校2年の時) ナレーター事務所を紹介される 
毎日仕事一杯有 充実していた (自分の欲望を満たすのみの幸せ)  
39歳 人間ドックに申し込み エコー検査で発覚  「死」を考える 

人生の薄っぺらさを痛感  仕事をしない自分は何の価値もないように思えた
自分はあまり人に愛されていなかったんだ 
自分が人を愛してこなかったじゃないだろうかと思い至る  
本当の信頼関係はなかった様に思った  
自分に痛みの経験の無い人の言葉というのは人を傷つけてしまう事があるのだなあと感じた(入院中)
食生活 精神生活改善  くよくよする性格は良くないと思う  
讃美歌の中の歌詞に「許し」・・・キリスト教を友人から勧められる  
神に私達は愛されている存在である 
神様が人間を許すためにイエス・キリストが十字架に掛って下さった
人間は弱いものだ  許しあって生きてゆく 

退院後 普通に生活できることの有り難さ マイクの前に立つことの有り難さが判った  
たった一人の人に話すような気持ちで話すようになった
病気前はあまり友達が多くはなかったが、多くの人が来てくれるようになった 
以前には無い深い付き合いをしてくれるようになった
三浦綾子星野富弘の作品を読んで伝えたい 
教会に行く様になってから読みかえしてみると、見方が全然違う 以前は理解していなかった 三浦綾子は自分で自暴自棄の生活になってキリストに出会った事によって変えられることになり、それを伝える為に書いたのですからその気持ちが判らないと理解できないのでは,読み返してみて感動して、これを読み続けてゆきたいと思った  「病める時も」 朗読する    
脳出血で寝たきりの母に詩を朗読してあげる 
痴呆になっていたがどこまで読んだっけと言ったら反応してここまでと云ってくれたのには感動した
生き方に中心がないとすぐ絶望してしまう 
自分の中に中心を持っていけるように、そんなヒントになる作品を読んでいきたいと思っている 暗闇の中の星のように、何か人に希望を与えたり励ましたり 癒しになったり そういう事の為に言葉が使っていけたらいいなと思います  
今、あまり言葉に対して神経が行ってないような話し方をしがちになっているが矢張り人の心に届く話し方しようって皆がおもってくれたら、なんか平和になるんじゃないかなあと思う
辛い事とかって、無い人生はない  
それがあった時に初めて人って言うのは もう一回り大きくなるいいチャンスじゃないかと思う
私もあの癌が無かったら、今の私はいない 
 
「木の葉」  星野 富弘
「木にある時は枝に委ね 枝を離れれば風に任せ 地に落ちれば 土と眠る 神様に委ねた人生ならば 木の葉のように 一番美しくなって散れるだろう」
 
自分のしたい事をするんじゃなくて、人に喜んでいただいて、初めて本当に幸せだなあとこっちも思えるんじゃないかなあと思います

2011年8月24日水曜日

真山 亜子(声優)         ・二つの難病を乗り越えて

真山 亜子(声優)                  二つの難病を乗り越えて  
ぷろだくしょんバオバブ所属(主として声優のマネージメントを行っている)
 『忍たま乱太郎』(乱太郎の母)、『ちびまる子ちゃん』(杉山さとし、石山柿絵)など
大学に行くときに、家を継ぐ必要があったので経済関係の大学に行く、新宿の花園神社で唐十郎さんの劇をみる テントのお芝居をしたいと思い居場所を見つけてしまった
方言を直すことが大変だった 4年生の時に小劇場にスカウトされる 
1年切りやれないと云って入ったら、もう抜けられなくなっていた
卒業後も東京から地元岐阜に帰らずいたが、祖母の手術の時一旦家に帰り、親族会議有、説得されるが東京に戻る  

手塚プロから声優の話あり その間に入院した 身体の事もあり演劇より声優を選択する  オーディションに受かり、チョイ役が来るころ 微熱、関節炎、朝起きられない 
這ってお手洗いに行く状態が続いて どこの病院に行っても何でもないといわれる 
鍼反応 でベーチェット病ではとの診断 ステロイドを飲まなければと対処療法が決まる 
その間も結構忙しく仕事をする
結婚するころが一番具合が悪かった 
半年後に大量下血をして1カ月入院する 
結果的に ベーチェット病クローン病の認定を受ける事になる
難病なので原因、治療法が判らない 症状がつらい 
仕事を貰えるようになった時と、辛い時期が一緒だったが仕事を優先してしまった
腸に穴があき手術 人工肛門となる 

3か月入院していろんなことを学んだ 
その中でラジオ深夜便を聞くようになり朗曲とか落語を聞いたりして 退院したらあれこれやりたいことが浮かぶ 
入院中には命が危うくなるような場面もあった
阪神大震災の時に何かやりたいねと友人と話し合い、紙芝居をやってみようかと話が浮かぶ 絵を描いている友人もおり、入院している時にその友人が来てくれて、彼女が水墨画の個展を開き、その中で具体化する  
退院後2004年に紙芝居を立ち上げる 6年ぐらいになる  
三味線とか小唄をその紙芝居の中に入れる  

紙芝居を子供から老人まで楽しんでもらいたいと云う思い
前向きになる原動力 人に褒められたりとか やってと云っていただけると嬉しい 
おちこんでいるときもあるが何時何日やってくれるといわれるとそれに向かって頑張れる 倒れたりする繰り返しの中で一座(紙芝居)と声優の仕事をこなしてきた 
逆に仕事がなかったらどうなちゃったか解らない  
難病なのでなおらない 今は安定期にあるが何時どうなるかは判らない 被災地にいけたらいいなと思う

2011年8月23日火曜日

鈴木潔(供虐待防止センター)     ・子供虐待について

鈴木潔(60歳)  子供虐待防止センター静岡運営委員
<概要>
立命館大学経済学部卒業  「子ども虐待防止センター・しずおか」の立ち上げに参加 
(財)「たんぽぽの家」主催「親守唄・歌会」にて大賞受賞
「NPO夢楽団・自然体験基地」理事長 子供虐待の実態 虐待に関する作曲をして公演
2000年の10月に静岡市内の主婦5人が立ち上げる
 5人は命の電話とか子育てホットライン等の電話相談員でその頃増え始めていた虐待
相談に対応するため設立
私も一緒に参加 代表等を務め今は運営委員をしている 
主な活動は電話相談と啓発
私のやっていることは虐待かしらという内容から毎日殴っています 
もしかして殺してしまうかも知れませんみたいな相談まである

私が加わったのは子供がいじめに遭ったのがきっかけであったように思います→
家族全員で取り組み半年後に解決→何故虐める子がいるのだろうと云う疑問が子供に
目を向けるきっかけに
非行、不登校、引きこもりの問題などにも取り組む→子供たちに係わる大きな問題は
全てではないが、乳幼児期に起きる虐待が背景にある事に気が付いた
中学1年(13歳)の最強の非行少年と出会う(手に負えないような)→小学校4年から
万引き、おそらく殺人以外のあらゆる犯罪行為をやってきた

彼がどうしてそのようになってしまったのか→家は代々お茶農家 彼が小さいころから
父親が母親に対してDVをする 時々彼にも暴力をふるう事が有った
2~3歳になるに従い母親に対する暴力はエスカレートする→当然家にいるのは嫌になる
 →コンビニにたむろする悪仲間に入ってしまう→坂を転がるように悪い道に進む
DVを子供に見せるだけでも子供の心を破壊する →非行、不登校等の大きな原因になる
2000年に起きた関西に起きた虐待死事件がきっかけとなり曲をつくるようになる
当時シングルマザーとか離婚した母子家庭に男が入り込んで母親の連れ子が虐待され
死亡するという事件が増加する 

当時母親は29歳、 男の子(6歳)、女の子(3歳)の母子家庭 突然現れた男に心を
開くはずはない 
子供が自分になつかない、いらいら感から虐待に走らせた
エスカレートして死へと向かわせる 6歳頃では逃げる、訴えると云う発想はない 
一方的に人権を奪われ心も体も引き裂かれ無念に死んでいった子供たちの叫び、
これはいったい誰が代弁するのでしょうか→私は自作の歌を通してその作業をしているつもり
言わば骨を拾う作業です   その作業の中でこの曲は生まれました
  
 「アビューズ」 子ども虐待防止・啓発CD
「今日は僕の誕生日 やっと6歳になるんだ ママはパパと別れ 僕を連れて家をでたんだ
 6畳2間のアパートに ある日その人が来たんだ 平和な日々は続かなくて」
「部屋に大きな声が響く 目の下の青いあざは 殴られたんじゃない 机の角にぶつけた
んだ だけど誰にも言わないで  僕には妹がいるんだ 3つ下の可愛い女の子さ」
「優しかった僕のママも この頃暗い目をしている そりゃ僕だって駄々をこねたり 
云う事を聞かない時もあるよ お箸も上手に使えなくて ご飯をこぼすこともあるよ」
「脛の赤い傷は蹴られたんじゃないよ 一人で階段から落ちたんだ だけどだれにも
言わないで」

「今では顔も忘れたよ 別れたパパはどこにるの 淀んだ部屋の空気の中 その人は
濁った眼でにらむ おもちゃを片付けなかった事 何度もおねしょしたこともある」
「人参も食べなかったことや おやつを寄こせと泣いた事もある 腕にあるいくつもある
やけどは煙草の火なんかじゃないよ 台所で油が飛んだんだ だけどだれにも言わないで」
「おねしょももうしないから 人参も絶対食べるから お箸も上手に使うから 
これ以上僕をしからないで ご飯も絶対こぼさないから おやつももう要らないから」
「おもちゃもすぐにかたづけるから これ以上僕をぶたないで」

10年間で190回ぐらい公演している 学校、PTA、教育委員会等々 子供たちが受け入れて
くれるか心配だったが、むしろ子供たちの方がすんなり受け入れてくれた
感想文が送られてくる 1000通以上 世の中にこんな悲しい事があったなんて今日は
知る事が出来てよかったです 
今の家族に生まれて自分が幸せなことに気付きました 
毎日喧嘩しているけど自分は幸せなんだと云う事に気が付いた 等々
子供虐待の件数が年々増加傾向にある 
児童相談所に持ち込まれる相談件数は2010年度全国で5万5千件を超えている 
社会の閉塞状況をみれば増えていると言わざるを得ない 
 
年間 40人から50人の命が奪われている(虐待が原因であると特定された場合のみの数値)
増えてきている背景 まず第一に人間関係の希薄さ 1970年以降高度成長に合わせて
消費文化、使い捨て文化が浸透、加えて核家族化も進んだ
この時代物質的に豊かなものが勝ちというよな風潮が出来上がって今に至っている 
 家の構造も頑丈で独立性、機密性が高くなって近所付き合いを遮断してしまった
こうなると人と人との繋がりが希薄になり、他人に関心を持つそのことが悪い事のように
言われ始めました 
そんな中で育ってきた子供たちが今親になっている

彼らは子育てを相談するような人間関係を持っていません 
その結果密室での子育てとなり 虐待が発生します 
実は私達世代が育てた世代かもしれません
第二に、長引く不況 貧困と言ってもいいかもしれません 
親たちは生活に追われ子供たちを顧みる時間がありません 
親の貧困はそのまま子供の貧困です
例えば給食費を払えない子が保健室で擁護教諭に余ったパンを貰っていると云うような
状況もあります  20~30年前では考えられません
国は産めよ増やせよと少子化対策に力を入れているが、その前に折角この世に生を
受けた子供たちがこんな状況に置かれている今ある命を守れずに子供達を増やす事に
意味は有るのか

2004年栃木県で起きた虐待死事件
自分の子供と3人で暮らしていた男の元に暴走族時代の先輩が2人の幼い兄弟
(4歳、3歳)を連れて割り込んできた 
当初は仲よく暮らしていたが、次第に先輩に対して不満が募ってきた
不満の矛先は先輩にではなく、幼い兄弟に向けられるようになり、暴行が日常となる 
その年の7月のある日、顔や体中にあざの有る子供がコンビニのレジに菓子を持ってくる
金がない 水をやると一気に飲み干す 不審に思った店長は警察に通報→
児童相談所に保護→店長は安心→人さらいめと罵声を浴びせて父親が児童相談所に
やってくる

祖母のところに預けるとの約束で引き取る→父親は元の後輩の家に連れ戻してしまう 
→2人の子供に車の中で数時間に及び暴行を加える(瀕死の状態)
2人を川に投げ込む   母親がいない同士の家族 一般に言われる家庭はない 
たった一人の肉親の父親は子供たちを守ってやれなかった
(2人の子供は何度か家出を繰り返すがそのたびに家に連れ戻されてしまった  
家出をするような年ごろではないのに本能的にここにいてはいけない事を悟ったのでは)

「オレンジ色の空に」
「今僕には2人の姿が見える 手を繋いで歩く君たちが オレンジ色の空に向かって 
あてもなく歩く君たちが 今も僕には2人の姿が見える 手を繋いで歩く君たちが」 
「お腹がすいても足が疲れても さまよい続ける君たちが」
「その日神様は きみたちを見過してしまいました 2人は車の中で何度も何度も殴られ
続けました 怖くて痛くて苦しくて 傷ついた2人を抱きしめてくれる人はいません」
「幼い君たちはただ寄り添うだけです そして二人は瀕死のまま 河に投げ込まれました 
ごめんなさい 君たちを守れなくて 」

「いつか僕も天国に行くだろう そしたら君たちと会えるかなあ はじめましてと君たちに
 僕は云うから にこっとはにかんでくれるかい 「いつか僕も天国に行くだろう」 
「そしたら君たちと会えるかなあ もうさ迷い歩かなくていいんだよう 何も心配せずに 
お休み もし2人生まれ変わってきたら 僕のそばにおいでよ」 
「2人の大好きなお祭りに行こう アンパンマンのお面を買おうね  もし2人生まれ変わって
きたら 僕のそばにおいでよ 遊園地に出掛けて トーマスに乗ろう」 
「ソフトクリームを食べながら歩こう もし2人生まれ変わってきたら」
 
2010年7月 締め切ったワンルームマンションの一室に3歳のさくらこちゃん 
1歳のかえでちゃんが置き去りにされた 
母親は以前名古屋でも置き去りにしたが、部屋から抜けだした
さくらこちゃんが夜の街で警察に保護された →今回は室内から出られないように粘着
テープで入念に脱出を阻んだ→猛暑のなかでエアコンもない、食べ物もない
2人は部屋の真ん中で寄り添うように亡くなっていた→おそらく飢えやのどの渇きに
身をよじらせて苦しんだに違いありません→捜査員もその光景に涙を流した
そのワンルームマンションの同フロアーの山本怜奈さん等 桜楓会を結成 

何度か通報したのに救えなかった事に対する無念さを感じた人達です
それまでの人間関係の希薄さに気が付いた これをもう一度考えたいと集まった人達 
 実はこういう動きこそが大切であり、人と人との絆を取り戻すチャンスなんじゃないでしょうか
今東日本大震災に対して支援の輪が広がっています 
優しい雰囲気が冷え込まないうちに 人と人との絆の大切さ これを取り戻すこと 
これこそが子供たちを救う最良のセーフティーネットだと思います
2回 桜楓会を招いて今こそ子供虐待を語ると云う学習会を開催しました
 
もう一度私達が優しい心を作り直し社会に思いやりのある優しいムードを
取り戻そうと、開催したものです 来年福祉医療機構から助成金を頂いて
、静岡を中心に8回今こそ子供虐待を語るオレンジコンサートを開催する予定です
虐待のニュースを見たり聞いたりしたときに すーっと右から左に流してしまうが、
被害に遭った子供たちにほんの少し想いを寄せて下さい
悲しみを共有しましょう そして涙を流しましょう そして怒りましょう  
私も、友人もこういう事件を聞き、自分の孫の事を想うと涙せずにいられない
こういった私達の怒り、悲しみというのは普段心の奥にしまいこんでいる本当の優しさ、
想いやりを呼びもどしてくれる 

そういう一人ひとりの思いやりとか優しさが きっと社会のムードを良くしてくれます 
もちろん法改正、制度作りも大事ですが、まずそれを操る私達の心作りから始めなくて
はいけない
思いやりのある優しい雰囲気のある社会 それこそが子供たちをそして育児に悩む親
たちを救う最良のセーフティーネットだと思う
虐待の予防の難しさがある→ヒントを見つける→人口的に余っているシニア世代
 ゴルフ三昧、旅行三昧もいいが 我々の孫の世代が苦しんでいる現状 を深く理解してもらい
何らかの提言や行動を起こしてほしいと考えています 

 シニア世代も自分の生活が大事です 
自分だけが良ければ幸せかと言えばそうではありません
実は人間の幸福感は他人から評価されたり、大事にされたりすることで幸福感を得る
ことが出来ます
それには自分自身が周囲の人を大切にしなければ自分も大切にされない という事です
そのためにもシニア世代に一肌抜いてもらいたいと思います  
シニア世代には十分な人生経験があります そのノウハウを是非生かしてほしい 
育爺 育婆 「グラン グラン」 雑誌 シニア世代に孫世代ともっと係わろう、
遊ぼうというもの 親のサポートをして育児負担を少なくして 親に自分たちの時間を
もって子育てに余裕を
シニア世代に合わせて生き甲斐を持ってもらう

2011年8月22日月曜日

中川弥生子(障害者就労を進める会 ) ・精神障害者と共に働く場を

中川弥生子(障害者の就労を進める会 そら) 精神障害者と共に働く場を 
レストラン 中野にオープン テーブルは4っ  3名が働いている
長時間労働は苦手 2時間~5時間 障害名 統合失調症、鬱病 
結婚後5年ぐらいは家庭の主婦 
きっかけは「五体不満足」を読んで困っている人に何か自分で出来ることが有るのではないかと思った
きっかけは最初中野区福祉協議会の有償ボランティア 
生活援助のボランティアをした(自給700円)
掃除、買い物、調理、洗濯等が主な労働 認知症の家庭に伺い専門的な知識が必要であると考えるようになる

ヘルパーの資格を取る 介護事業所で働けるようになる 
介護福祉士の資格を取る 精神障害者ヘルパーと云う資格を取る
接し方、実習等 考えていたことと実際の特徴の違い 服薬を拒否する人 言動に不都合があったり、危険を感じる様な人もいる
利用者30~50代の人で出来れば社会に出て働こうという願いはあるが、そういう場がないのが現実
もったいないというのが第一印象だった
働こうと思えば仕事もできるのでしょうがなかなかそこまで至らない 
サポートがあれば働けるだろうなあという気持ちです
精神福祉ボランティア講座をうけそこでいろいろな人に出会う 
そこで在宅の働きたいと思っている人に働けるようになればいいねと話題が集中
働ける場所を作ろうと云う事になる →コーヒーショップ提案有 →安くていろいろな書類のカフェがいっぱいあるので無理かなと思った→食事を提供することにする

起業するためのセミナー等勉強 飲食業は初めて 
いろいろ廻りからのサポートがあれば出来るのではないかと思った
夢は大きく膨らむが実際に周りに伝えていなかった 一歩踏み出せなかった→ビジネススクールで言語化して事業計画を立てる(シュミレーション)
NPO法人にしたのはいろいろな方にヘルプしてもらう事もあるし、有償のボランティアをお願いしようとした(一般企業より有償ボランティアをお願しやすい)
NPO法人申請 (申請してから4か月) 設立 東京都から認可される  
協力者スタッフ 中野区障害支援団体に相談 ハローワークにもお願いする 3人集まる 実習と体験
運営協力者も協力お願い 従業員以外は6名程度  
資金は身内にお願いした(800万円)
ランチが中心 野菜は契約農家から調達 
ホームページにメニュー公開する  825円時賃  
目標に対しての売上は大分下回っている (目標の30%)
地域の方々にもっと利用てもらいたい  イベント コミュニケーションの場に

2011年8月20日土曜日

山泉進(明治大学副学長)     ・大逆事件100年 幸徳秋水の思想

山泉進(明治大学副学長)  大逆事件100年 幸徳秋水の思想 
<概要>
早稲田大学大学院 政治学研究科卒業 日本政治史(社会思想史)
自由」「平等」「博愛」を掲げた平民社の理念が,どうして「大逆事件」という結末にいたる
のか 歴史を振り返り その底流に流れるものを考える
坂本清馬と父親は懇意にしていた
1910年 一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由にして数百名の人が取り調べを
受けた 社会主義者、無政府主義者が弾圧された・・・大逆事件
日露戦争後、日本の社会主義の運動というのは日露戦争に対する戦争反対 
非戦論と当時は云っていたが 平民新聞を出すことで それを展開してゆく
これが日本の社会主義運動の運動としての開始になる  
その後弾圧を受けて地方に読書会のような形で地方にクラブみたいなものが出来てゆく
地方の人達を集めて日本社会党というものが出来る 
桂から西園寺内閣に代わって作られる 

西園寺内閣というのは社会主義運動に対して寛容で、西園寺自身がパリコミューンの頃
フランスにいたと云う事もあり 有る程度社会主義も合法化して
運動として穏健な社会主義を育てた方がいいと云うのが西園寺達の考え方でした
藩閥 山縣 有朋桂太郎らは反対でした ここに政府の中に対立関係が有る 
強圧的に余り国民の意見等は聞かずに国家利益を優先してゆくグループと 遡れば
伊藤博文から来るが政友会を作って有る程度政党の中で国民の意見を聞きながら
政治を運営しえてゆく必要があるグループが対立
山縣 有朋達は社会主義者に対して非寛容でとにかくこれを潰さなければいけない
 西園寺達はある程度合法化して穏健な社会主義を育てて行こうとした
このグループの対立が有った 結局大逆事件の背景に有ったのは西園寺達のグループ
が社会主義者に対しての取り調べが生ぬるいと云う事で
政権内の争い(エスケートボード)にしてしまった側面が非常に強い
 
山県、桂達は国家主義者で軍の方の出身者ですからあくまで日本の国家利益を優先
し国家運営する
それに対して有る程度国民の意見を聞きながら進める  
こういう政治対立の中で大逆事件が起きる
幸徳秋水が大逆事件の中心人物として1911年に39歳で処刑される
幸徳の生まれて中村というところは土佐の小京都と言われた処 高知の中心とは
文化的に違う 自由民権運動は全県的に起こってくるが、隣町に宿毛市があるが
沢山の民権家が育ってゆく 
吉田茂等もこの系統になってゆく 
早稲田を作った小野梓 林有造 こういう人達が出てゆく
中村という街は徳川時代の初めに城下町だったが弾圧を受けて3万石の御城が潰され
てしまう 
それ以降町人の街になる

幸徳は元々は京都の陰陽師の流れをくむと云われているが 中村に来て町人として
成功する
秋水は俵屋と云う商家の跡継ぎとして生まれる 
氏族とは違って寺子屋等に通っている 大変頭の良い子であった 
しかし体が弱かった事と父親が2歳で亡くなる
母親が苦労して育てる 後に社会主義者になってゆく一番の原因は 若いころ日記に
不満を滔々と述べている 自分の人生がうまくいかないと
人間少しはうまく行くところがあるが自分はまったく巧く行かない 
それは環境的にもそうだし、性格的にもそうだ だからどう仕様もない 
逃げ道も無い

私は幸徳秋水の不平というのですが 社会に対する不満というような事が非常に強くて
、その分逆に中江兆民と会って理想に走ってゆく 
子供の時に恵まれて理想に走ってゆくと云うのではなく、不満で不平が有って、それを
ばねにして理想的なものに近づいていった、というのが秋水の思想を作って行った
中江兆民の書生をしていた 
明治20年に保安条例が出され土佐派を中心に当時の大同団結運動の流れがあるが、
そこに加わって行った民権運動家達が
中江兆民:フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の
理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される

東京から追い払われる 兆民も東京から追い払われる 秋水も16歳ぐらい東海道をと
ぼとぼ歩いて帰った 伊藤博文を嫌っていた(伊藤が保安条例出す)
兆民は父親のような関係(親を早く亡くしている) 思想的に兆民の影響を凄く受けた
 秋水には英語を教える 漢文を徹底的に教える
自由、平等にこだわった人(兆民) 秋水は兆民の思想の真髄を受け取って行った 
1903年に朝報社を退社する  
日露の衝突というものが非常に顕著になって来て 主戦論と外交的な努力によって
日露の衝突を回避すべきだと分かれてゆく
ロシアの撤兵計画が有るがロシアが撤兵しないということで、『万朝報』が非戦論から
主戦論に変わってゆく

そこで、幸徳秋水、堺利彦内村鑑三が、『朝報社』を退社する 幸徳と堺が平民社と
いう新しい団体を作って非戦論を掲げてゆく
平民新聞を刊行 (1903年11月15日創刊号) 
1905年アメリカに渡る サンフランシスコにサンフランシスコ平民社 に身を寄せる
1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣が成立  西川光二郎らによる「日本平民党」の
結党  続いて堺利彦らを中心に「日本社会党」が結成
ロシアからの亡命者がかなりサンフランシスコにいてその人達と議論をした 
 アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた
(アナルコ・サンディカリズム:無政府組合主義)は、社会主義の一派、労働組合運動を重視する
無政府主義のこと。
アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のこと)

1906年4月18日 サンフランシスコ大地震が起きる(サンフランシスコが壊滅する)
秋水がそれにでっくわし、お互いが助け合いする様子をみる→権力がなくても人々が
幸福に生きていけるんだと思った(実際は戒厳令で統制・ボランティア活動等)
秋水が無政府共産主義に傾いてゆく大きなきっかけだったのではないかと思う
平民新聞の創刊号で「自由、平等、博愛」を謳っているがこれが秋水の根幹になって
いると思う
自由=民主主義 平等=社会主義 博愛=平和主義  
こう云う考え方になってゆく
秋水は無政府共産主義を言い出してこれが結局大逆事件の逮捕に繋がってゆくが、
当時の社会主義というものを否定する

20世紀初頭 第一次世界大戦前 社会主義勢力というのは非常に強くなる 
フランス等もそうですが、社会主義者達が大臣になったり議員になったりする
そうすると社会主義とは秋水が考えていた理想よりも現実的な出世の為の手段になって
しまっているんじゃないかと思う
社会主義も一つの権力になっていると云う感じ方をした ・・・
それを否定して秋水は無政府共産主義に傾いて行ったと思う
今考えると、1917年ロシア革命なので社会主義が地上に実現するのはちょっと後 
1989年ベルリンの壁が崩壊する 1991年にソ連が崩壊する

如何して社会主義が崩壊してゆくのかという処の一つは秋水が「自由、平等、博愛」と
いった 市民社会の基本的な原理 そこを実現しないまま革命がロシアや
中国もそうですが非常に遅れた国で革命が起こってしまったために非常に強権的な
権力的な全体意識的な体制が生まれてしまった
今になって考えると意外と秋水達 これはのちに大杉栄達に受け継がれてゆくが、
大杉はロシア革命は間違っていると云う 
幸徳秋水達が社会主義というものを権力主義的な有り方だと批判したのはある意味では
先見の明があったということも言えるのではないでしょうか
アジアの中に日本の社会主義を置いて考えることがこれまでなかったんですけれども
、最近は秋水自身が漢字文化圏で育った人なので
中国の古典にも詳しいし、東洋的な思想(特に老荘思想)幸徳秋水が自分の理想社会と
いうものを描いている中に桃源郷と云うのがある

日が昇り、目が覚めて、日が落ちて眠る 昼間働いて 小さな村で平和に暮らす 
近代的な自由、平等な社会というよりも ああいう牧歌的なのどかな田園的な
社会みたいなものを秋水はどこかで描いていたと思う
東洋的なものの考え方が有ったと思う 
平民新聞が廃刊になった後 アジアの留学生を組織して亜州和親会(中国の革命家達
、ベトナム、インド朝鮮半島)を作って
アジアの人達の連携を図ろうとする 中心にいたのは幸徳秋水、大杉栄等 
幸徳らは常に人類、人類ということをいう 
民族だとかを越えての人類としての・・・問題意識を抱えて 平民新聞の思想、
幸徳の思想を支えている
改めてアジアというものと人類というものを繋いで明治期の社会主義というものを評価する
必要があると思う

奥宮健之(53歳大逆事件最高齢)、岡林寅松、小松牛治、坂本清馬
幸徳秋水だけではなくて上記の人達の検証をやる必要があると思っている
大逆事件は冤罪事件であることは間違いない 
如何して起こって行ったのかという事 原因については中々難しい
一つは桂等に言わせると社会主義を根絶するんだと・・・天皇を中心とする国家体制、
国体と合わない だから思想自体を潰してしまうんだと云う考え方
その背景は山県だとか桂だとか軍閥、藩閥中心の人達の国家利益を中心に考えてゆ
くと少なくとも幸徳秋水みたいに現在の国家に満足をしないこういう不満分子
は生かしてはおけない 
 
反体制派を弾圧するという側面がある 
社会主義運動は日本の体制をひっ繰り返す影響力が有ったかというとほとんど
ないわけです
ごく一部の人たちの運動だった
 しかも中が二つに割れて幸徳秋水の一派と片山潜を中心とするもう少し穏やかに
やろうと云う派があった
韓国併合の時期でもあり反対する勢力を弾圧することによって国民に対してはっきりと
した国家意志というものを見せようとしたものと思う(ショーのようなもの)
自由気ままに言わせない 
平沼 騏一郎は東大を出た後に司法省入る大逆事件の時は民事と刑事と両方の局長
ナンバー2のポストにいる 
検事としては検事総長の次の地位にいた
日本の国家官僚 エリートたちが地位を築いてきた 
官僚体制ががちっと固まってくる時期です

平沼は司法省官僚でここを舞台にして出世の階段を見つけてゆく  
利権がからんでくる 政治家の汚職事件、財界の汚職事件が起こってくるが
これを平沼達は取り締まるわけです それで政治家の弱みを握る 
財界人の弱みを握る こういうのを材料にしながら彼らが背後から政治を動かしてゆく
平沼達のグループは皆出世をしていって最後には総理大臣にまでなる 
ある種の階段を登るシステムをこの人たちが作った 
そのきっかけが大逆事件だった
1910年(明治43年)の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した
1960年に再審請求を支える市民団体として作られる
 1961年に再審請求する 1967年に棄却される(最高裁)
 法律的にいうと大逆事件は有罪となる
大原聡(私の先生)が引き継ぐ 1983年私追悼集会があり私が事務局長を引き継ぎ、
今日までやっている

初代局長が弁護士の森長 英三郎 大逆事件の再審請求も担当  
事件を明らかにする会の事務局長 
12人が処刑 12人が無期懲役 
刑死した人物は、幸徳秋水、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、
奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12人
(管野 スガ:赤旗事件で投獄され、出所したのち寒村とは離婚。
そののち幸徳秋水と同棲しアナキズムに共鳴する 天皇暗殺を密謀したとして起訴される)
この事件の持っている歴史上の影響力 いろんなドラマがある (魅力のある人達) 
大逆事件は日本における鉱脈だ・・・ここを掘って行けばいろんなものが見えてくる 
例えばマスコミの有り方 報道の仕方 一つとってみるといろんなことがある
報道規制、報道規制が起きても外国に伝わって外国で抗議運動が起きる 
というようなこともある 

そもそも権力とは一体何だ という事を考えた場合 
権力というのは具体的に見えるもんではなくて 言葉でもって整理をされて判決文という
ものは良く出来ていて
文字通りこの人たちの人生や思想を非常にうまく整理して駄目だと云うんですね
そして権力とは何かというとその人間を何か言葉にしてその言葉をうまく当てはめて
(刑法上の)纏めてしまう
だから大逆事件をみていると誰が悪いんだとかいう個人の問題というよりも権力という
ものが持っている性質そのものが見えてくるような気がする
検察の問題なんかもそうですが、まったく同じ 
当時の警察のストーリーを描いてそのストーリー通りに自白させて自白を中心にして
有罪にしてゆく構造

いろんなものが100年経って変わっているようで変わっていない 
大逆事件をみていると今我々が生きている時代をみる一つの鏡みたいになっている
気がする
人の内面に訴える力 これは幸徳秋水は手紙・遺書を残したり(獄中なので規制ある)
している 
人間そのものが出ている様な手紙なんですね
人間とは何かと考える上でもこの事件を通していろんなことが判るような気がする



2011年8月19日金曜日

入間田宣夫 (歴史遺産科教授)   ・平泉を想う

入間田宣夫  (東北工科芸術大学歴史遺産科教授)  平泉を想う 
開山は寺伝では円仁 (慈覚大師) とされるが、実質的な開祖は藤原清衡である
藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた
戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている
世界遺産に登録する場合の基準がいろいろ有るが、そのうちの2つの基準に有っている
①平泉の寺院と浄土庭園、庭園が日本独特、アジアから伝わった庭の概念 日本に入ってくるといわゆる浄土庭園という独特のスタイルに変わって来て、日本にしかない庭園の形になる 
その庭園の形が後々の日本の庭園の鎌倉時代の庭園の形に影響を与える  
中国やインドなんかの池というのは真四角 (人工的 建物も同じ)大陸は四角四面の世界 処が日本に入ってくると何とも言えない曲線を持った
池の形になってくる  建物も自然にマッチする形になってくる

②日本の庭園をみると日本在来の自然に対する信仰、思いとそれから向こうから伝わってきた仏教、浄土思想が融合合体、混ざり合っていると云う事が一番の理由でしょうか  
人間が住んでいる我々の世界を仏様の住む世界と同じような理想の国にする事が仏国土 
浄土というのは実は少し違っていて 阿弥陀如来がお住まいになっている
人間の世界からずーっと向こうの何十億光年か判らないがそういったところに西方極楽浄土という 
浄土というのは限りなく清らかなけがれの無い土地という意味なんですが、ビューティフルであり同時にピースフルでもある楽園に近いイメージなんですけれども それが西の方には阿弥陀極楽浄土 東は東方薬師瑠璃極楽浄土  
本来の仏教の教えですと我々が人生を終えた後そこに往生する そこに行って生まれ変わる 
極楽の場合ですと池のハスの花の上に生まれ変わる
段々この様に極楽の様子を再現して極楽に行ったつもりになると云う考え方が出てきて、例えば敦煌 中国の壁画に阿弥陀様が真ん中にいて沢山の菩薩達がいて、舞台が有って美女が踊りを踊ってと云うあの光景を実は平安時代の後半に敦煌の絵と同じものを作って藤原頼道等はそこに行っては極楽に来た想いをバーチャルリアリティー というかそういう風にする
  
その考え方が平泉に入って来て浄土の様子をそのまんまこの様に実現した無量光院という建物が有るが平等院をもう一回り大きくした  
金慶山という綺麗な形をした山が有ってその山の真東に年に2回太陽が沈む時阿弥陀様が一直線上になるようにお寺を作り 池の中島に藤原秀衛が座る
宇治の平等院よりも進化したもの 無量光院に沈む夕日の風景も世界遺産の一部
従来 箱もの、お宝、美術一辺倒だった 
アンサンブルを認めさせたと云うのが今回の成果だった 
自然とか宗教とか込みにした形のものが認められてきた
日本で最初の武家の都 京都は中国の長安のような幾何学的な形状 中国直輸入  
平泉の作りは東西の軸線で沈む夕日を拝むような形で出来上がっている

極端に言うと武士と仏教が融合合体してできた街 それがそのまま鎌倉に引き継がれる 
江戸も仙台も盛岡も日本の城下町は皆そうなんですが、必ず後ろが有って殿様のご先祖をまつる廟が有って寺町が有る  
博多にチャイナタウンが出来て当時の最新文化を平泉は取り入れた 
本来仏像は金色にする 極楽の建物を表す為には金にしなくてはいけない 
仏教の教えを完全に体現しようと平泉では進めた
金色堂は平泉を作った清衡、基衡、秀衡の三代の御遺体をまつってある 
藤原3代で作ったお寺は2万程度 100年間に次から次へとお寺を作った
お寺って公共事業 税金だけ取って何もしない王様は直ぐに絶える 
平泉自体が京都の単なるローカルバージョンじゃなくてむしろ日本の歴史の転換点であった 
平泉は京都のなれの果てでは無くて鎌倉や江戸のお兄さん

仏教の思想は平和思想 生きとし、いけるもの 人間であれ、動物であれ、植物であれ 豊かなもの、富めるもの 老人子供女皆 仏教の前では平等
清衡の場合にはこれまでの戦争の時代を平和の時代に切り替えたいという思いから、巨大な寺院を作り その寺院のかたわらに金色堂を作った
お堂にかけた巨大な鐘が有って、鐘の文句が凄くって「この音が三千世界に響き渡る 鐘が響きわたるたんびにこれまでの命を奪われた生きとし、いけるもの、特に度重なる戦争で死んだ人たちの怨みを持った魂が鐘の音の力で洗い清められて極楽に行けるように天皇や日本国全体の人々が極楽に行けます様に、と云うよな事を鐘に書いてある 
梵鐘は無いが梵鐘の文句は「中尊寺落慶供養願文」に残っている  
人類平和 強く押し出した ・・・平泉が世界に対しての使命かなと思う

2011年8月18日木曜日

金時鐘(キム・シジョン)(詩人)    ・戦後を在日として生きて(2)

金時鐘(キム・シジョン)(詩人)  ・戦後を在日として生きて(2)
須磨海岸に昼間着く、舟倉に隠れて時間を過ごす 食事もほとんどしてない
 松林に潜り込んで仮寝 電車の音で気付く 大阪・梅田まで来る
飢えが極度にきて死ぬかと思った ふらふら歩いていたら一緒に船に乗ってきた人に
出会って連れて行ってもらう
ろうそく工場を紹介してもらいそこで働く 
1950年が朝鮮戦争がはじまる年、友人が鶏長屋(鶏が住むような小屋)に住んでいて
そこに一緒に住むようになる
民族団体の活動に入る 
最初に受け持ったのは朝鮮評論という1952年に創刊された雑誌です 
金 石範(キン・セキハン)が創刊から3号まで編集者を担当
4号から廃刊までは私が担当する
 
一日二日水道の水で過ごしたことはざらにあった 
空腹ほど悲しい事はない 路地でイワシを焼くにおいに参ってしまう 
1948年、朝鮮学校が全国に約600あったが、教育は国家の主権だと云う事で日本政府
はGHQの同意を基に朝鮮学校の閉鎖令状を出す 阪神教育闘争
(1947年(昭和22年)10月総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、
「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した)
(1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の
取扱いについて」という通達 (朝鮮学校閉鎖令))
(1948年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を
遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で)
(朝鮮人独自の教育を認、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた)

1951年 1年かけて生徒をひき戻す活動をして機動部隊が取り囲む中学校を再開する
 そこで1年勤めて文化総会という青年たちの文化サークルを組織して
大阪文化総会を立ち上げてそこの書記長になる  
吹田事件 軍事列車を1時間止めると1000名の同胞が助かるというスローガンが有って
軍事列車を止めるため吹田操車場に行ってデモ行う しんがり部隊を担当
(1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した
吹田騒擾事件
朝鮮戦争は同族が争う戦争のように思われるが、北朝鮮とアメリカの戦争だった

 岩国からだと20分ぐらいで飛んで行ける位置にある
ラパーム弾も親子爆弾も日本で作られた 
戦車兵器やその補修も日本でやっていた 
大阪市東部の町工場では「親子爆弾(クラスター爆弾)」を製造していた 
零細な工場に朝鮮人の同胞が働きそこでネジ等の部品を作っているが、兵器の部品と
なって行った 同胞を殺す手助けをしているから止めるような活動するが駄目
私の青春はいいことは一つもない 
苦い苦い記憶ばっかり  国では父が私の為に代理拘留される(2カ月) 
どんなことがあっても日本で生きろ・・・父からのメッセージ
父は1958年に亡くなる 

社会制度何一つない韓国で赤色逃亡者を家族に持った親がどんな状態だったのかは
想像に難くない  
ミイラのようになって亡くなって行った
済州島で生活していた当時の父親とはどのような人であったか 
当時一等地に飲食店を構えていた(裕福だった) 
小学校時代、父は謎めいた人だった 
母によると現場労働者として済州島に来たと云うが、知識があり、本も沢山あった 
北朝鮮のいくつもない中学校の学生だったが、3・1独立万歳事件のデモに加わって
学校を放逐されて、満州を放浪した揚句に、母と釜山で出会ったとの事

父が釣りに行ったときに一緒にいて歌を歌ってくれたあとでそれは「クレメンタイン」 
アメリカの歌だった 歌詞は
「広い海辺に とまやひとつ 漁師の父と 年端もいかぬ娘がいた おお愛よ愛よ
 我が愛しのクレメンタイン 老いた父一人にして お前は本当に去ったのか」
「風の強い日のことだった 母を探すのだと云って 渚へ出たが 
お前はとうとう帰ってこない おお愛よ愛よ 我が愛しのクレメンタイン 老いた父一人にして
 お前は本当に去ったのか」 
記憶が重なってしんみりしてしまう 

自分たちの命をかけてキムさんを日本に送り出してくれた
私が民族意識を取り戻した直接のきっかけはやっぱり「クレメンタイン」の歌・・・
父の気持ちが伝わってきた
在日朝鮮人というのは、本国というのは固有の文化圏ですね 
固有の文化圏から離れて暮らしていると云うのが負い目のように言われてきてるが
実際は負い目ではなくてむしろ 本国 北、南ではない事を作れる展望を持っている
存在だとおもう
私たちこそ民族祖国の南北分断を融和させうるう最も有効な担保なんですよ 
私たちが存在すること自体が抱えている展望、可能性を私達が自覚して生きる時
必ずうちの国の統一への展望を開きうるものをもっている
私達が和やかに交わえられたら明治百年以降のうちに国と日本とのしがらんだ暗い
歴史というものが目に見えて純化されてゆくように期待できる

2011年8月17日水曜日

金時鐘(キム・シジョン)(詩人)    ・戦後を在日として生きて

金時鐘(キム・シジョン)
<概要>
金時鐘(1929年1月17日 - )は、在日朝鮮人の詩人、朝鮮文学者
1948年の済州島四・三事件に関わり生命の危険にさらされる  1952年には吹田事件
に参画   朝鮮の事 事件の経過等語った
1986年『「在日」のはざまで』で第40回毎日出版文化賞受賞。「亡くした季節」で第41回
高見 順賞受賞 1949年20歳の時に朝鮮半島の済州島から日本に渡る
1945年8月15日の玉音放送を聞いたときは立ったまま地の底に沈んでゆくような失望感
でした 
17歳のときに済州島で終戦を迎える
済州島は当時日本の統治下にあり日本そのものだった 本土最終決戦の前線基地
だった 

陸軍3個師団が駐屯していた
(歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民
は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた)
(韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に
渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという)
幼年時代から日本語を使用していた 自分の国の言葉は一切知らないしどのようにして
生きようかと思案した 一週間食事もろくに通らなかった
父が日本語の本を沢山持っていたので乱読した 
日本の近代叙情詩等は早くから読んだ

教育というものは恐ろしい 完全に軍国少年として育てられた
 教育を統括した国家があったと云う事を忘れてはならない
8月16日一番度肝を抜かれたのは辻辻に民族反逆者リストが張り出される 
(対日協力者) 祖国再建の為の組織が出来上がってくる
9月8日 アメリカ軍が進駐してくる アメリカが軍政をひく 
朝鮮はポツダム宣言仁よって民族独立は保障され、戦勝国に準ずる国だった
アメリカが自由主義陣営を防衛するために南側の方に軍政下を敷いた 
38度線の北はソ連軍が駐留しているからアメリカも世界戦略上38度線で対峙をしなけれ
ばいけない

戦勝国に準じる国が軍政下になったことに屈辱を感じる
祖国というものを意識して朝鮮の言葉でもって詩を残した人たちの云わば抵抗の詩を
読んだ      血が燃えたぎる思いだった
自分はあまりにも無智だった 読んで自分の無智の嫌悪と反動だった
 36年ぶりに祖国が日本の植民地のくびきから解放されるわけですね
解放されるが自分のものがない 
学生たちが歌う歌も日本語では歌っても朝鮮語では歌えない
うちの国がよみがえった国として展望を持っていくための下地作りが急務だった 

牢屋に閉じ込められていた人達が解放されその人達が中心になって
文化運動みたいなのが起きて、学生たちが加わって行くと云う
 政治運動というよりも日本の官憲がいる中で自律性を持って自前の国の再建に
立ちあがれるか
という時期でした
キムさんは祖国回復の為の文化運動をしていて、にも拘らず最終的に国の官憲から
追われる立場になってしまう
何しろ自分の国の言葉を全然知らなかったから、歴史等勉強会で教えてもらう 
市民レベルで面のように広がる 秩序だった組織力に感銘した

追われるに至るのは国の軍政の問題もあるし、国連で1947年に朝鮮半島の統一をする
ための措置として信託統治というのが安保理で決まるが
折角植民地統治から抜け出たのに外交の勢力によって信託統治とは何事かということ
で民衆が激高してでもがひきも切らない状態になる
アメリカが独自で大韓民国だけの単独選挙を強行する 
南北が対立分断する事 反対が物凄く起きたが武力弾圧する
1948年5月10日が南朝鮮だけの単独選挙日だった 
反対の行動が済州島で1948年4月3日に蜂起する(単独選挙を実施させない)
 民衆たちがこぞって参同した

その被害たるや想像を絶する 当時人口が24万弱 
その時の犠牲者が3万人と言われている 実際は3万の比ではない 
少なく見ても5万人は下らない
韓国政府は共産暴動だと云っていた 
私が長い間口をつぐんできた理由は南暴徒と言われていた使い走りをしていた 
連絡員の籍をもっていた
名乗り出ると矢張り共産暴動だと云う事になってしまう 
人民蜂起と云って来た 韓国政府は共産暴動だと云っている
(済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある
南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない)
(南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが
1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す)
(日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した)

アメリカ軍政府下で起きた虐殺 アメリカは指揮権を持っている 
統治権も 4・3事件にかかわったと云う事で指名手配を受け 日本に脱出する
両親があらゆるものを金に換えて現地警官を買収し、金を使って、40km離れた岩場の
島に行きそこから日本へと向かった(見つかれば当然殺された)
漁船の甲板にいた  2時間で五島列島に着きほっとする 
(捕まった時に備えて青酸カリをもっていたが日本の領海に来てそれを捨てた)
1949年6月3日に日本に到着する

2011年8月16日火曜日

山内晴子(玉川聖学院講師)     ・朝河貫一に教えられたこと

山内晴子 (玉川聖学院講師)   朝河貫一に教えられたこと
<概要>
 朝河貫一を知る事により其の生涯を調査 博士論文とし 仕上げる 彼の生涯、
考え方(民主主義 戦争回避の行動 戦争反対 その他)を纏める
「朝河貫一論:その学問形成と実践」を出版  10年掛る
日本人として初めてアメリカの大学(イェール大学)で正教授となった朝河貫一(1873~1948)
きっかけ 増田弘教授の日本近代近代外交史のゼミで朝河貫一を知る  
2004年山岡先生の早稲田大学アジア太平洋研究科の国際関係学博士課程に入学
2008年に書き上げる
朝河の父は福島にあった二本松藩士父は旧二本松藩士朝河正澄戊辰戦争で戦った 
 
小学校の校長でもあった父正澄の影響の大きかった少年期における朝河の知的精神的成長 
早稲田大学に入学 坪内逍遥大西祝(倫理学者) にかわいがられる 
六ヶ月後に洗礼を受ける 
東京専門学校が、キリスト教的知識人以外に知識人がいなかった19世紀末の欧米の
影響下にあったことを、新資料を用いて検証
大西や坪内逍遥から思想的学問的基盤を獲得
在学中に日清戦争が起きる 
1895年(明治28年)、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰勝海舟らに渡航費用の援助を
受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学

朝河の理想とする個人を尊重する「民主主義」を、ダートマス大学のタッカー学長の
リベラルなプロテスタントの信仰から学んだ
寛容なプロテスタントの理にに基づく民主主義というものを体得してゆく
寄稿文の第1文目に毎朝礼拝で大学が始まる 
タッカー学長 「教育を受けた人は勇気ある道徳的存在として社会を改良する責任がある」
「自己犠牲に徹して人類に奉仕することこそが人生の本源である」という事を話をする
タッカー学長から体得した民主主義というのは国家至上主義の対極にあって集団ではなくて
個人一人一人を大切に考えて、個人相互の敬愛と信頼に重きを置く民主主義

一人ひとりが違っていること 多様性を奨励して 又反対の意見も平気に淡白に面と
向かって説く事が出来る精神 自由な意見交換を奨励している
他人の成功を喜ぶ度量の広さ ユーモアを忘れない そういう民主主義というものを体得してゆく・・・タッカー学長からえたもの
朝河は「日本の対外方針」という論文(24歳の時の論文)を国民の友に発表する  
ロシアの強硬な南下で日露戦争は不可避であると考えて書く
人種も宗教も違う日本が世界で役に立つ国になるには日本の方針を文明最高の思想
と一致せしむるに至りて初めて東洋における義務を悟り世界に対する
地位を得るんだと云っている  文明最高の思想=民主主義

ラングドン・ウォーナー→京都を爆撃から救った人 この人に100ページの論文を送っている 
この論文の冒頭に「私は民主主義の重要性に気付いて以来、アメリカにおける私の
長い生涯の間たった一人になっても民主主義に踏みとどまってきました」と書いてある
「民主主義は他の政治体制に増して市民にふさわしい良心を持とうと市民一人一人が
個人的責任感を持って初めて成り立つと固く信じております」と書いてある
ずっと民主主義を心に留めながら一生涯を送ったと思う
ダートマス大学で教えている時に日露戦争が勃発する 

戦争後ロシアの利権を受け継いで日本が排他的外交を取るようになる
それを心配して朝河は1909年に「日本の禍機」はこのまま続けば日米戦争は免れず、
必ず日本は負けると強く警告している・・・この時から日米戦争阻止を訴え続けている
大隈重信に対して多くのいさめる書簡を出している(1908~1915年)
今は日本は東洋平和を乱す張本人だと信じられちゃっている 
其の原因は日本が世界の文明の新傾向を十分に判ってないからだと云う事
新しい傾向とはどういう事かという事を大隈重信に書く訳です 
このままだったら文明世界の憎まれものになってしまう ・・・聞き入れられない
朝河貫一氏は日米戦争阻止を幅広く提言されたが結局受け入れられなかった
1938年 甥の斉藤金太郎に手紙を書いている 

もう新聞で真の戦況を国民に知らせていないのが、今後日本に大損害を招く事になり
罪もない忠実な一般人が
最も気の毒でありますと心配して手紙を出している
国民が正確な情報を自由に入手する事が出来れば、戦争という事も防げると云う風に
考えて情報の自由な入手をとても何時も主張している
村田勉という日本女子大学の人  一緒にイェール大学に学んだ人 
オープンレターをだしている

鳩山一郎に回覧している 1939年7月29日の書簡では26日のアメリカの
日本通商条約の破棄は驚かれたろうが、議会で皆賛成である、従来しきりにイギリスを
侮ってアメリカの好意的中立を頼むのは如何にも日本が客観的に現実を見る目がふさがれ
ている証拠だと云う風に書いている
1940/1/28にも鳩山一郎に書簡を書いている
何故日本の政府がたびたび変わって小人物がしきりに出没するようになったのか 
と書いてある 昭和2年から20年までに17人総理大臣が変わっている
何故利害が少ないドイツと国運を結ばんとして失敗したか 
何故もっとも将来にとって国運が繋がっていなくちゃいけない英米を敵としなく
ちゃいけない事になちゃったのか

もし満州事変以来の態度を継続していたらもう国は危機という言葉は今ほど妥当する
言葉はないとう風に鳩山一郎に書簡を出している
それでもやはり日米戦争は突入してしまった  
朝河氏の祖国を思う気持ちが伝わってくる
1941年(昭和16年)11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を
得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、
働きかけを行った
1941年10月10日付「金子宛英訳書簡」 、ラングドン・ウォーナーをして、天皇へ宛てた
ルーズヴェルト大統領の親書を朝河に提案させ
また天皇制度に関する学説を欧米知識人に再確認させ、天皇のみが軍国主義者の
退場を説得できると朝河が説いた

ルーズヴェルト大統領の奏書 スティムソン国務長官、ハル国務次官、アーチボールド・マクリューシュ
議会図書館長をへてルーズヴェルト大統領に渡っている
日米開戦後の12月8日にニューヨークタイムズに掲載されたルーズヴェルト大統領の天皇宛親書は
一部朝河の草案と重複しているが朝河の意図したものとはかけ離れていた
12月10日にウォーナー宛で「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する
に有ります」という風に書いてある
朝河は日本が負けることが判っているから直ぐに日本の戦後構想を描き始めている
「私のたった一つの望みは軍部を改心させる事ではなく彼らを追い払う事が出来る
ただ一つの権力すなわち天皇による追放の可能性だ」と書いている

西暦645年 大化改新 1868年 明治維新  これと同様です  
天皇の詔勅によって皆の従う事になって国民は見事に直ちに忠誠心を持って改革した
んだから今回もそう言ったことにしなくてはいけないというわけです
軍隊は天皇が命令しなければ追い払う事が出来ないと云っているわけです
ウォーナーは何故朝河に大統領親書を提言したのかなあという風に、他の人じゃなくて
朝河に提言したのかなあって思っていたのですけれども
ボートンと云う人がいるが戦後日本の設計者と言われた人 、
ボートンの回想録にアメリカで天皇制廃止を主張する派が制していた1945年の9月に
グルー国務次官も
自分たちも天皇も天皇制も、それ自体戦前日本の超国家主義や拡張政策の原因では
ないと固く信じていたと書いてあった

ボートンと云う人は朝河の諸論文は欧米の学者たちにとって基本的な日本の文献だと
考えていた
朝河の論文の中にボートンやグルー国務次官をこれほどまでに確信させる発想の起源が
あるんじゃないかと私は考えた
朝河の論文1903年に出版した「大化の改新」とかロッジヘンの「ヒストリーネーション」 のシリーズ
の中の「ジャパン」というのがある
それの明治史を書いている  入来文書 マロクブロック ソロボン大学の人と封建制について
共同執筆した

朝河は日本の歴史に於いて圧倒的に優れた異文化を習得して適応する制度的な
大変革を成功させるカギは常に天皇個人ではなく天皇制度である
皇室は長い世紀に渡って存在したが、専制的であった事は少なかったという学説を
繰り返し主張していた
たぶんそれが天皇制 朝河の戦後構想 天皇制と民主主義の共存の異文化融合という
感じですね
民主主義それは結局 敗戦したら日本は民主主義にならなくてはいけないそれを
成功裏にスムースに移行するためには天皇ではなく天皇制にあると彼は云っている

天皇制をうまくつかったほうが日本の占領政策が出来るというアメリカの政府関係者、
世論、が考え出したのはヒュー・ボートンライシャワー等の人がいる
それを裏付ける資料 アメリカ学術団体評議会1930年に日本研究委員会 
太平洋問題調査会 会長ジェロム・グリーンと云う人の要請で7人の中の一人として
1937年まで務めていた 
ボートンとライシャワー、ファーズの3人が最初に出会ったのは日本研究委員会がハーバート大学で
開催した第一回日本セミナーです

この3人は委員会が最初に派遣した留学生で東京大学に2・26事件前後に留学している
1942年9月のライシャワーメモがあるが、これも天皇に関しては朝河と理解がおんなじなんです
日本研究会が育てたボートンは日本研究会1937年に朝河と交代でメンバーになっている
1941年ファーズが日本研究委員会のメンバーになっている 
ライシャワーも通信メンバーになっている 
ボートンは1942年には国務省特別調査部の調査アナリストになっている 

日本研究委員会のメンバーが極東政策の立案と遂行を通して朝河の学説に基づく
天皇制度と民主主義共存の異文化融合の戦後構想を最後まで貫いたことは注目に値すると
おもっている
日本の天皇を(慎重に名前を挙げずに)平和のシンボルとして利用すること プロパガンダ
 天皇の扱いは明らかに異文化受け入れるときにそれをスムーズにさせる鍵は
天皇個人ではなく、天皇制度であると云う学説を知っていなければ設定できない宣伝文
句じゃないかなあと思う

1942年の夏にマッカーサーも読んだことが記録が残っている
日本計画が天皇制を残す基になったもので学問的起源は朝河の学説ではないかと思っている
とにかく戦争への道へは辿りたくない どうしたらいいかをいつも考えている

2011年8月14日日曜日

山川宏治(主任飼育員)      ・象を守った父の教え

山川宏治 (主任飼育員)       象を守った父の教え
<概略>
 東京都多摩動物公園主任飼育員昭和29年2月21日生まれ。東京都立瑞穂農芸高等
学校畜産科を卒業
47年に都の職員となり、多摩動物公園飼育課に配属、アジアゾウ、ライオン、ヒグマなど
を担当する
父が象の花子を飼育担当  花子の経歴 父の飼育の苦労話 父に次いで花子の飼育  
花子は64歳(日本の象の最高齢)  多摩動物公園は昭和33年の5月から開園 
アヌーラは当時5歳で来る タカコ
40年近くになる 象の飼育が主体 アヌーラ(セイロン から頂いた象 首相の息子の名前)
という名のアジア象担当 54歳
昭和48年飼育係になる(アヌーラ、タカコ、ガチャ 3頭) 昭和33年開園と同時にアヌーラの担当
を父が行った
象のいる公園は東京都に3か所ある 多摩動物公園 上野動物園 井の頭自然文化園
花子は父がずっと担当して飼育してきた
花子は2度にわたり人身事故を起こしている 一度目は酔っぱらった人が深夜象舎に中に
忍び込んで花子に殺害されてしまう

数年後飼育担当者が人身事故を起こす(その後亡くなる) 飼育担当が決まらず 
父親に飼育担当が任される 
花子は昭和24年 タイ国から上野動物園にやってきた 
昭和25年から各地を巡回する(都内) 昭和29年井の頭自然文化園に引っ越し(7歳)
象は群れで生きてゆく為に一頭は夜寝ないで見はりをして他の象は眠る  
花子は寝なければいけない、見張りをしなければいけない・・・負担がかかる
花子自体も不安で仕方ない 
そんなことを日々繰り返しているなかで酔っ払いの侵入が有り、それを排除しようとした
精神的に病んでゆく 数年たってから飼育係の人身事故という事で この飼育係は
持病をもっていて餌の中に倒れこんだことで花子は自分の餌を取られてしまう
と考え、足蹴りをしたと言われている 

(揺り動かそうとしたとの話もある)結果として飼育係の人が亡くなってしまう
世間から人殺し象と言われる 
処分について検討がなされたが花子が来た経緯が奥さんたちの希望で夢を与えると
いうことできた象なので殺すのには忍びないとなる
象の飼育係を探すが6週間時間を要する 
多摩動物公園にいる飼育係が井の頭自然文化園に移動することになる(私の父親)
花子の足4つを制約する 鎖を付ける(花子に近寄ることの危険防止策) 
花子はあんなに痩せててかわいそうだ・・・父親の一言  

不信感と敵意に満ちていて目がぎらついていたという印象を父親は持ったようだ 
赴任して4日目に鎖をはずす 花子と飼育係とのきずなの第一歩が始まる
水分を含んだ野菜を沢山食べさせる必要があると判断  
食べさせることを主眼にしたらしい 
象との関係を築くために餌で動物を操ると云う手法があるが、とにかく無条件に食べろ
食べろ ある程度象の体型を維持させるために食べさせた(8年掛っている)
その8年間の間にコミュニケーションを取るために4,6時中花子のそばにいる 
日光浴をさせる 心ない人は石を投げた人もいる 
その人に対して苛立ちをあらわにする 
飼育係として一緒にいることによって石をなげなくなった

一緒にいることが花子にとって、とてつもない安らぎになったと思う  
心を開いていいのかなという糸口が開けてくる
花子が12歳の時 それから42歳になるまで付き合う  
父親と一緒に休みに遊んでもらったという記憶が無い
(何で遊んでくれないのか不満を持っていた)
中学生の時に花子の前で父親が帰るのを待っていたら、(お客はもう誰もいない)花子が
気に入らないのか「鼻打ち」(鼻を体に打ち当てる動作)をする
堀のぎりぎりまで来て鼻を伸ばしたのがこの像は怖い象だとの印象がある
農業高校から東京都の職員になる 
退職後嘱託で1年間花子とともにいる 
体力的に花子と付き合ってゆくには無理と花子の前には立つことがなかった
(自分にけじめをつけたかった)

アヌーラ 58歳 雄では日本最高齢 メスでは花子が64歳(日本最高齢)アジア象が60頭 
アフリカ象が50頭 日本にいる
戦時下 殺処分で象がいなくなる 毒餌(見分けてしまう)、薬殺 注射で殺す方法
(針が皮膚を貫通しない)銃殺(民家が近所にある為駄目と云われる)
殺処分する方法をいろいろ検討したが 適正な方法がなく 食事を与えない方法を選ぶ
一番かわいそうな食べ物を絞る方法 水を与えないでジョン、マンディー、ドンキーを餓死
させることになる 
戦時下動物を飼っている場合ではない、戦争鼓舞するための犠牲
「像の涙」渋谷信吉(もう2度と象には会いたくない) 
象を飼育する達人と言われた人の一人 上野の飼育の仕方にも渋谷さんの考えが
取りれられている
多摩動物公園に配属後、1年後に象の飼育に携わる アヌーラとタカコ、ガチャ子の飼育を
担当する

間接飼育 直接象には触らないで調教するスタンスの飼育方法であった 
父親の姿をみていたので直接象と触れ合う飼育が出来るのではないかと思い、実行する
朝一番に挨拶する(サツマイモを与える) 先輩が見えて殺されててしまうかもしれないと
大目玉を食う 
手鍵で象をコントロール 手鍵を大事にしろ・・・唯一父親からの言葉
圧死を免れるための道具  象に対しての威圧になる 
花子に対して父親は手鍵を持たなかった 悪い事をした時にはしっかり怒る
花子は手鍵に対して他の象より大変な威圧感を感じていた 
私が怪我をすると花子の立場が悪くなる (手鍵で自分を守ることは象を守ることに繋がる)
1996年多摩動物公園から井の頭自然文化園に移籍する 
花子の担当をすることになる 

花子の象の鼻息に接する=もうこれ以上近付くと怒るよという信号
1カ月以上しても鼻息の信号は変わらず 
鼻息の割には目が穏やか→何を考えているんだろう→近付くと鼻息がどんどん小さくなる
→花子にはもっとこっちに来いという信号の様である
人間と接して花子が会得した言葉の様だ 
花子が何を欲しているのかは花子が私の手を取って目をかけとか、指示をしてくる
(花子に受け入れてもらったと確信できた)
以来9年間にわたって花子の世話をする 花子と同じエリアに入ったのは2年後です 
花子が疑心暗鬼 人を恨む、危害を加える 
そう云う感情を持たないように育ててくれた

先人(父親含め)のお陰で大した苦労をしないでコミュニケーションをとれるようになった
花子は世界で一番手のかかる象  象は上下2対の歯がある 
一生のうち6回歯が抜け替える 花子の場合は6回目の後20年前にはげ抜けてしまい
右下あごに1個だけ歯が残っているだけ 噛むことが出来ない→長い草飲み込むと
一種の便秘をしてしまう 父親は大変苦労した
3cm刻みにする(今は業者がやるが、父親の時代は全て自分たちでやっていた
 餌作りに6時間を費やした 10時間から12時間を全体でかける)
花子は1日4回 朝2回 午後2回 の食事をする 
 アヌーラの場合は餌の塊をドンと置けばよかった 

花子の一生 波乱万丈の生き方 仲間がいない さびしい状況にはある 
現在アヌーラの飼育担当になる 
象を通じて何を子供たちに伝えたいか→動物園は絵本の延長だと思っている 
象ってどのぐらい大きいのとかを感じてもらえればいいのかなと思っている
動物たちは精いっぱい生きている 
動物たちをみて癒しを感じてもらえれば幸いです

2011年8月13日土曜日

織田 正吉(放送作家)       ・笑いについて

織田 正吉 (放送作家)  笑い
<概要>
1931年12月4日 -  放送作家、エッセイスト。兵庫県神戸市出身
日本笑い学会理事。関西演芸作家協会顧問。元・園田学園女子大学短期大学部講師
  1982年、上方お笑い大賞功労賞
「笑い」に付いてのいろいろな事を披露する
職場や家庭の笑いの場所にするには笑いのもとの平等が大切だと説く
大阪落語家は200人を超える NHKの漫才コンクールの審査員を長く担当 
 コントがやたらと増えてきたのが特色 コントは大阪には無かった 
夢路いとし、こいし は画期的 上品な漫才 誰にでも無難に聞ける  
毒の部分が必要(毒を抜いてしまうと面白みがなくなる)
面白いもの・・・演者が面白いと思い、聞く人も面白いと思うのが理想的
笑いユーモアの研究 沢山書くためには理論が必要 方程式が必要になる  
笑いの化学分析が必要になる  センスだけでは書けない

なんか訳のわからない舞い降りる様な状態になる時がある(たまに) 
湧いてくる(詩でも俳句でも同じ) 頭で考えて作ったものは駄目
作者は観客の第一号 書いてゆくためには理論が必要 究極の理論は「緊張の緩和」だ
笑いの生まれる方法として例えばジェットコースターを下りてくる人は大抵笑っている・・・
緊張が溶けて笑う(生理的笑い)・・・笑いの一つ
落語家 米朝笑福亭ふくろう との付き合いあり  笑いはいろいろある 
笑いはいろいろある  笑いの性質でいえば「嘲笑する笑い」 (あざけり笑い)・・・
一番原始的な笑い

平安時代の終わりごろの「今昔物語集」というものをみると あざけり笑いが大半 
ものを知らないとか作法を知らないとか言い間違え・・・次元が低い
嘲笑の笑いがまず出発点にある 尾籠(おこ)の笑い 下ネタ  誰でも笑う   
嘲笑には日本人は敏感 人に笑われる事を恐れる・・・
恥の文化 (そんなことをしたら近所の人に笑われるよ)  「菊と刀」の本に記載
人前であんまり笑わない 笑うとその人を馬鹿にしたことになる  しかし日本人は笑いが好き 
笑っていい場所と笑ってはいけない場所をピシッと分けた 笑いの場→宴会 花見等 
暗黙のルール 笑いのスイッチをon、offする(むやみに笑わない)
演芸場は笑いの解放区 昔は下ネタが多かった 大いに笑う  大爆笑
笑いは感情表現 ユーモアは笑いを見つける才能 

子供はおかしな表現をする 常識がないだけ 大人は常識があるけれども常識の中
に取り込まれてしまう→人間が面白くなくなってしまう
子供のような見方もできるセンスがいる 
子供の言葉を面白がってやることが大事・・・ユーモアの出発点
自分の見方が固まってしまっていることを判らない 
子供の背丈で見る環境と大人の背丈で見る環境は違う すべてそうなんです 
自分だけの見方が正しいと云う事を棄ててしまう事が大事
常識から外れるセンス(虹は7色は間違い グラディエーション 何万色もある) 
例えばもも太郎の話(ももを割ったらお爺さんが出てきました)  原形がある
 
原形が有ってそこからはみ出たものに笑う  おかしさを感じるその反応が笑い
人間は笑う動物 というよりはおかしさを感じる動物だと思う  
緊張が続き過ぎると人間は笑いを求める それで心のバランスが取れる 
笑いはNK(ナチュラル キラー)細胞を活性化する NK細胞は癌細胞を攻撃する 
お笑いが市民権を得る 笑うのは健康にいい 
ユーモア感覚は心のバランスに必要 緊張ばっかり続いているとそれをふっと緩める
作用、自分から緩めようとすることが出来るのがユーモアのある人・・・大事
頑張る時は頑張る 真面目な時はまじめにやる そうして大いに笑い多いにユーモアを
楽しむ ユーモアセンスを磨くと云う事が大事

「笑いの基の平等」・・・上役がダジャレをいう→笑う(笑わないとしゃれの判らない男だと
いう) 新人がダジャレを言う→上役は苦い顔をする
上下関係のあるところでは笑いは生まれない 平等なんですよ 
江戸時代 狂歌がはやった 町人も武士も一緒に狂歌を作っている 
武士はよく笑った(仕事から外れれば) 
狂歌、川柳を作る段階になると面白いものをどんどん作った
最高峰は大田南畝 川柳では四方赤良(よものあから ※大田南畝の別号) お笑いの先端を切った人
平等になる為の雰囲気を作る必要がある ユーモアのある人は一方からだけでなく
別の角度から見ることが出来る(頭の中を自由にしておきたい)

心のバランスを保つためには笑いが必要
笑いは常識からずれた所にあり、ユーモアというのはおかしさを見つける感じるセンスの
ことでユーモアを持ちたいなら常識に捉われてはいけない
上下関係のあるところでは笑いは生まれない (生まれるのはお世辞の笑い) 
笑いの基の平等こそ大切
桂 米朝(かつら べいちょう)は、上方落語の名跡。本来は、大名跡である桂米團治を
継ぐ前段階の名跡
入門当時滅びかけていた上方落語の復興に尽力し、6代目笑福亭松鶴5代目桂文枝
3代目桂春団治と共に、昭和以降の「上方落語の四天王」と呼ばれる
上方落語界としては初めて(落語界では2人目)の人間国宝となり、後に演芸界初の
文化勲章受章者となる

2011年8月12日金曜日

小渕真理 (館長)        ・命を考える

 小渕真理 (館長)            命を考える  
<概要>
アウシュビッツ平和博物館の第二代館長
・ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の協力のもと、同館所蔵の関連資料や記念写真等を常設展示する日本で唯一の博物館
この博物館を通して、アウシュビッツのこと、戦争、原爆、命を考える

アウシュビッツ平和博物館  ユネスコ世界遺産「アウシュヴィッツ」を通して、いのちと平和の尊さを学ぶ伝えること
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ
日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある
2003年に開館 様々な戦争と平和に関する企画展や平和を考える交流事業を行っている
私は第二代目の館長をしている 敷地は6000坪 江戸時代の古民家を移築した博物館 常設がアウシュヴィッツ アンネ・フランクの展示 ポーランドの子供たちが第二次世界大戦のさなかに描いた絵とか作文を展示してある  
4年前から企画展示が出来るように増設 パレスチナの写真展、広島から借りてきた原爆関連資料、日本では731資料、女性の差別の展示

福祉関係からこの道に入ってきた 
差別 どうして同じ人間なのに 差別が何で起こるのだろうか→考えさせられた 最初は子供の目に映った戦争という画集がある ポーランドの子供たちが自分たちが戦争体験した事を絵にしたり作文に書いたりした画集を購入した  
その画集が感動的と言ったらいいのか、凄く衝撃を受けて、アウシュヴィッツ収容所という事が頭に浮かんだが、よく判らないことがいろいろあって勉強してみたい思いあり 貨車をリフォームして展示場とした 
アンネ・フランクの展示もある (オランダ・アムステルダム) 物置を改造して小さい展示建物とした  
アウシュヴィッツ博物館から資料を借りてきて展示をする
 
原爆と人間展という企画をしている 年4回企画展を実施している 
チェルノブイリ写真展も開催予定
原発討論会を予定  命の尊さ 大切さを伝えてゆこうと云う事でアウシュヴィッツを取り上げている  
人類が原発と共生できるのかという事は世界中の問題 共通の認識がないといけないんじゃないかなと思う
9月 チェルノブイリ展(今年25周年) チェルノブイリを知らない人がいる 
チェルノブイリから私達は何をどう学んだのか 真剣に考えなくてはいけない
写真展をみていただくと福島原発も見えてくるし、私達がこれからどうやって生活してゆかなくてはいけないと云う事が見えてくる
正確に真実を知ってゆくことは大事なこと
11月に水俣 白河展を開く 水俣の教訓が生かされてない 
事件が起きた時の国の対応がほとんど変わっていない
展示をみていただいて、原発についてのきっかけになるのではないかと考えている 

原発事故の被災地に水俣の経験を 近代とは何か 人間とは何か を考えよう アウシュヴィッツ収容所で人間はどうやって生きてこられたのか 
人間を問い続けてゆく問われてゆくと云うことで繋がっていると思う  
もっともっと多くの人が自分の身に起きたことと考えて、さまざまな角度視点から人権とか差別について考えるきっかけになればいいなあと思う  
命を考える 様々なファクターを提供してゆく必要がある・・・施設の役割
機関紙 題字がイマジン 年4回発行している 
人間の特性を探る研究に、アウシュヴィッツという過酷な状況のなかで「愛」「美」「夢」のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある 

その研究を紹介した佐久間章行著『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』から 生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された  
第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した
アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した  
第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した 鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した
 
第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した
 戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう
この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した