2011年8月6日土曜日

上田正昭(京都大学名誉教授)  ・雨森 芳洲が語りかける

上田正昭  雨森 芳洲が語りかける
<概要>
 上田 正昭(うえだ まさあき、1927年4月29日 - )は日本の歴史学者。兵庫県出身。
京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授
 日本古代史を中心に神話学・民俗学などに視野を入れ、広く東アジア的視点から
歴史を究明する著書が多数ある
 朝鮮半島との歴史を調査するうちに雨森芳州に興味を抱きこの人物を世に広めたい
と思い本を出版するに至る 彼の魅力を披露
江戸時代朝鮮王朝から12回にわたって朝鮮使が日本に来ている
 多い時には500人を越える
朝鮮通信使はまず対馬に渡る 対馬藩は江戸までの往復の世話役の担当をする 
対馬藩の儒学者 雨森芳州は朝鮮側との交渉に大きな役割を果たした
1668年生まれ 18歳で江戸に出て木下順庵に入門(同門の新井白石室鳩巣祇園南海
とともに秀才を唱われる)22歳で対馬藩に仕える
1755年(88歳)で対馬で生涯を閉じる

「雨森芳州 互いに欺かず 争わず真実を持って交わり候」を出版する
中学2年の時に 津田左右吉氏の書「古事記および日本書紀の研究」(発売禁止本) 
担任の教師より借りて読み 学校で習っている歴史と内容が違う事を知る
学問とはこういうものかと知ったのが、歴史学を心指す大きな前提になっている
昭和19年国学院大学に入学 堀口忍先生に影響を強く受ける 歌人であり小説家 
柳田國男先生の直弟子 「古代研究」3冊 執筆
古代の研究がいかに大事かという事を教わった  
古代の心が中世にも近世にも現代にも生きているんだとグローバルな古代の捉え方
堀口先生・・・日本は何故敗れたのか・・・日本の神が欧米の神に敗れたのだという→
新しい神の学問を作る必要がある そのための古代研究であったと思われる

昭和22~25年 京都大学 古代研究する 非常勤の先生から朝鮮史を学ぶ 
古代を研究するのに日本のなかだけ研究していたのでは実際の姿が見えてこない
最初の著書「神話の研究」・・・日本の神話の研究したが、中国、朝鮮の神話との比較を
前提に行う
1965年 「帰化伝」を出す  帰化と渡来は違う  帰化:中華思想の産物 
中国の古典にはしばしば出てくる言葉 夷てきの民が課する 国に能くする
それを日本の支配者層が7~8世紀巧みに利用して日本が東アジアの中では東夷の
中の中華だと云う事を考えて百済、新羅、高句麗 朝鮮島の人々が
日本に来ると720年の日本書紀には帰化と云う項が12例ありそのうち10例が全て朝鮮
の高句麗、百済、新羅のひとたち

戸籍、居住地を明確にする・・・帰化 の定義 
691年がもっとも古い戸籍 
東大寺大仏建立の立役者 663年に日本に亡命した百済の官僚の在日3世の
国中公麻呂 
桓武天皇の母親は 百済宗王の流れを汲んだ人
国中公麻呂の祖父・国骨富は徳率の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇2年
(663年)白村江の戦い後まもなく百済が滅亡したため日本に渡来した
桓武天皇の生母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる和氏(やまとうじ)出身
高野新笠

渡来という言葉を使うべき 渡来:古典用語 
朝鮮半島と日本列島との交流には学生時代から研究する
渡来の波に4段階ある 
①弥生時代が始まる前後  
②5世紀前後  
③5世紀後半~6世紀前半  
④7世紀中ごろ 
特に百済滅亡の時期大量の人が日本に渡ってくる  
飛鳥時代を論ずるときに百済、新羅、高句麗との係わりを無しに飛鳥文化を語れない
雄略4年 日本書紀に記載 新しい技術を持った人が列挙されている(馬具を作る人、
織物、絵、その他) 日本の古代文化の形成に参加している

朝鮮文化の影響という人がいるが影響ではなくて文化を持ってきた人が日本文化に
参加している 日本に住んでいた人も対決ではなく調和した
信仰も持ってくる 優所(パスポート)が必要なところは山口県長門 難波だけ
 あとは自由 (如何に開かれていたか)
古代人の島国根性は閉鎖的ではなかった 開かれていた 
「雨森芳州 互いに欺かず 争わず真実を持って交わり候」を出版する
江戸時代の対馬の学者 稀に見る国際人

1968年(昭和43年)桑原武夫先生(京都大学) 新井白石の口語版を出すことになり
執筆を一緒にやることになる
新井白石の自叙伝を読むと白石が雨森芳州をライバル意識していることが判る・・・
このことに疑問を抱く
雨森の事を調査→生誕地の蔵に115点の芳州の文献が見つかった 
そのなかに61歳のときに纏めた朝鮮外交心得『交隣提醒』対馬藩主に献上した書が有った
秀吉の朝鮮侵略を痛烈に批判した文章をみる 無命(ムミョウ)の戦 大儀名分の全く無い
戦 両国人民無数の殺害  

文禄、慶長の役  江戸時代に秀吉の批判をしている学者は何人かいるが芳州程
痛烈に批判した人はいない
誠信の交わりと候は実意をもって互いに欺かず、真実をもって交わり候 
事を誠信と申し候
雨森を世に出したいと思った
江戸時代 江戸幕府 対馬藩、朝鮮王朝との関係
江戸時代は鎖国と言われるが幕府の文書には鎖国という文字は無い  
通商の国 (オランダ 中国) 通信の国(朝鮮王朝と琉球王朝 外交もやるし貿易もやる)
朝鮮王朝と外交をやり交易をやる窓口が対馬藩 芳州は朝鮮語の勉強しているし、
朝鮮史、中国史 中国語やっている

31~54歳まで殿様に儒学を教える又 朝鮮方佐役(朝鮮の補佐役) 外交の正面に
立つ役をこなす
1711年(第8回朝鮮通信使)、1719年(第9回朝鮮通信使)2回 江戸への往復の接待役
交渉担当シム・ヨハンと芳州との友情 最後には涙を流して別れている
申維翰が帰国後に著した『海遊録』に雨森芳洲活躍の姿が描かれている
善隣友好は如何に有るべきかを示している 朝鮮王朝使節と交わるのを幕府は禁止
しているが、それを乗り越えて一般民衆が参加交わる
学者、楽団、舞踊、医者,等 使節団は多彩 民衆の間にも広がっている  
民交 民衆と民衆の交わりが必要、大事

朝鮮は警戒して(歴史問題)日本の外交官、政治家を都に招く事はしなかった 
対馬藩は朝鮮に使節を送っている(1811年で使節は終わるが明治の初めまで行っていた)
現代の外交に携わる人のお手本ではないかと思う  国交 相手の国を知る 
相手の言葉を使う事を考えるがそうではなく、己を知っていなければ発信できない
芳州は己を知り、相手を知る そして真実をもって交わる 
59~61歳 御用人として藩主と役職者との取次の重職にあったが、古典の勉強をやっている 
古今和歌集1000遍読んだ 歌は1万首作る
アジアの中で、特に東アジアの中で日本を見ないと日本の姿は判らない 
歴史を学ぶと云う事はただ単に歴史を知るということでな無くて 過去に学んで、
現在を正確に判断する 
そして未来をしっかり展望する ・・・歴史学の一番大事なこと