2011年8月5日金曜日

橋爪文             ・原爆体験を世界に2

橋爪文  原爆体験を世界に
家族と近所の方合わせて13名でがれきの中から柱を持っていて小さなバラックを作った
(焼け残ったとたん板2枚で屋根を作った)
夜露をしのぐ 昼間は太陽が熱く 夜は急に寒くなる 
13人全員が重傷を負っていたので寒さをひとしお感じる
2畳ぐらいの13人がくっつきあって寝る ほとんど食べない 
くっつきあって体温が伝わってくる 相手は生きているんだと云う事を感じる
水は少し後は雨水を飲んだ 草を食べた  辛い事もあのときを思えば乗り越えられる
極限状態にある時の人間の素晴らしさを感じる ・・・私の根っこにある

海外へのきっかけ
30歳で結婚 3人の男の子供をもうける 60歳になった時に長男からせめて5年で
いいから自分の為に生きてほしいといわれる(不可能であると思われるが口にだす)
勉強できない環境で過ごしてきたので、勉強したいと思った 
家にいて勉強出来ると思って放送大学希望するがアンテナ代、等の支出があり断念
NHK基礎英語講座で勉強→近所の英会話教室で勉強(スコットランドの教師)→
この教師の紹介でスコットラントの学校゙に行く
詩を書いていて、友人が英訳してくれる その英訳文をスコットランドの先生にみせた 
被爆者であることに吃驚する 
「空の星を沈めた水槽の雨水でわずかな食べ物を煮焚きした  
星の光が痛いほど降る露天風呂で 湯を浴びた 両手を思いっきり手を伸ばすと
星の話が聞こえた 私は生きている 星がきらめいて答えた
 
お前は生きている 天の下の水槽の底にはみみずが住んでいた 
ミミズと私は一緒に生きていた」
学生たちも 被爆者 生き残りがいると云うのにショックを受けた 
目の前に原爆が落ちたようなショックだった 
私は言葉が通じなくても存在するだけで訴える力があるんだなと思った 
2年後に又チャンスが訪れる シルバー英語研修でニュージーランドに2週間行く
エッセーを英訳したものをリュックに背負って20部 を配るとあっという間に無くなる→
100冊(ハガキ大)配る→それが芽となってあちこちからオファー来る(旅費は自費)
日本に帰って来てから思うのですが、日本人は広島、長崎知っているが、
知っているつもりで知らないのが日本人だと思う
ニュージーランドに毎年行くようになったのは、8/6に毎年広島デーで灯篭流しをやっている
 それを知ったのでそれに参加することにしてから来るようになった

広島を流れている大田川は太平洋に流れている クレストチャーチを流れているエーブン川も
太平洋にそそいでいる 同じ太平洋にそそぐ川を持つ私達は
広島と同じ想いで反核を訴えようというのが趣旨で灯篭流しをするようになったとの事
世界のあちこちで広島デーをやっている フィンランド、スウェーデン、カナダ等 
外国での講演の反応
アメリカ人をにくくないですか?→人間は憎みません アメリカが原爆を落としたと云う事
に対しては許せません
報復を考えたことはありますか?→憎しみとか報復とかが有る限り平和は来ないでしょう
63年経ちましたがアメリカに謝罪してほしいですか?→全人類に対して謝罪するのが
アメリカの良心ではないでしょうか

ニュージーランドにいる日本人から短編小説を貰った 
吃驚したのが広島デーが書いてあった→作家に会いたいと思いL.Cロックという作家に会えた
広島デーを始めた発起人の一人 「貴方は話さなければいけない 
書かなければいけない」広島だけ、日本だけの事ではない 
現在の世界 未来の地球の事ですよ
私達は一人ずつのよせ集めだけでしか知ることが出来ない 
貴方は話さなければいけない 書かなければいけない と云われる
それがきっかけでニュージーランドに行って励まされてずっとやって来ている
詩を作るきっかけは3,6,9歳の子供 貴方は半年の命かもしれませんと医者から言われた時
 子供たちがさみしい思いをするだろうなと思い、
童謡作れないかな と詩を作り始めた 

10年経ち子供たちへのメッセージを纏めようかなと進めた
16歳の次男が(ぜんそく持ち) 反核の集会に出掛けようとするが健康面から考えて
阻止しようとする →涙を流しながら「お母さんは被爆者で平和を求めているのに
何にもしない 家事が大変なのは判るが新聞の投書とか何か出来るでしょ」と言われる
→なにも浮かばない→飯田さんと火事の中過ごした事を思い出し詩が出来た
それまで背中に重い物を背負って生きてきていた それがスーッ薄れてきた→
聞かれれば原爆の事を話せるようになった 原爆の詩も書けるようになった
8/7早朝にひどい下痢をした その後下痢が続く、急性原爆症(高熱、痛み) 鼻血 
大抵の方は無くなっているのに不思議と生き延びれた

原爆ぶらぶら病 (倦怠感 気持ちがいくら動こうと思っても動けない)
ABCC(原爆調査委員会) いろんな検査をする 人体に及ぼす影響 治療は一切しない 
人間扱いしない 非常に大きな屈辱感を覚えた
私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました
アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、
国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました
私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の
実験対象として調査、監視、記録をされたのでした

今は被爆者手帳が有って治療費は免除されているが、当時病院へいこうにも金が
かかるのでいくにも行けない 被爆者法が出来たのは12年後
その間に亡くなった人は沢山いる 
体験記を新たに書き始める 東日本大震災起きる 福島原発事故で衝撃を受ける 
原点である広島に行く フランスからのインタビューがある(フランス原発大国) 
貴方は原爆と原発は同じものだと思いますか?→同じものですと答える→
原発は平和利用、原爆は戦争目的で違うのでは?→同じですとはっきり言う
放射能という意味では同じ

「地球上に生を受けているのは人間だけではありません
 人間が自らの栄徳の為に生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか
自然と調和して生きてゆく道を開くのが人間の英知ではないでしょうか 
又20世紀から21世紀に生きる私達は長い人類史のほんのひと時を与えられているに
過ぎません
先達から引き継ぎ未来へバトンタッチをするほんのひと時を預かっているだけでは
ないでしょうか」
そしてたとえ微力であっても、「生命の尊さ」を次代へ伝えることができれば、
それが原爆に生き残った私自身の証のように思います