金時鐘(キム・シジョン)(詩人) ・戦後を在日として生きて(2) |
須磨海岸に昼間着く、舟倉に隠れて時間を過ごす 食事もほとんどしてない 松林に潜り込んで仮寝 電車の音で気付く 大阪・梅田まで来る |
飢えが極度にきて死ぬかと思った ふらふら歩いていたら一緒に船に乗ってきた人に 出会って連れて行ってもらう |
ろうそく工場を紹介してもらいそこで働く 1950年が朝鮮戦争がはじまる年、友人が鶏長屋(鶏が住むような小屋)に住んでいて そこに一緒に住むようになる |
民族団体の活動に入る 最初に受け持ったのは朝鮮評論という1952年に創刊された雑誌です 金 石範(キン・セキハン)が創刊から3号まで編集者を担当 |
4号から廃刊までは私が担当する 一日二日水道の水で過ごしたことはざらにあった 空腹ほど悲しい事はない 路地でイワシを焼くにおいに参ってしまう |
1948年、朝鮮学校が全国に約600あったが、教育は国家の主権だと云う事で日本政府 はGHQの同意を基に朝鮮学校の閉鎖令状を出す 阪神教育闘争 |
(1947年(昭和22年)10月総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、 「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した) |
(1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の 取扱いについて」という通達 (朝鮮学校閉鎖令)) |
(1948年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を 遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で) |
(朝鮮人独自の教育を認、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた) |
1951年 1年かけて生徒をひき戻す活動をして機動部隊が取り囲む中学校を再開する そこで1年勤めて文化総会という青年たちの文化サークルを組織して |
大阪文化総会を立ち上げてそこの書記長になる 吹田事件 軍事列車を1時間止めると1000名の同胞が助かるというスローガンが有って |
軍事列車を止めるため吹田操車場に行ってデモ行う しんがり部隊を担当 |
(1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した 吹田騒擾事件) |
朝鮮戦争は同族が争う戦争のように思われるが、北朝鮮とアメリカの戦争だった 岩国からだと20分ぐらいで飛んで行ける位置にある |
ラパーム弾も親子爆弾も日本で作られた 戦車兵器やその補修も日本でやっていた 大阪市東部の町工場では「親子爆弾(クラスター爆弾)」を製造していた |
零細な工場に朝鮮人の同胞が働きそこでネジ等の部品を作っているが、兵器の部品と なって行った 同胞を殺す手助けをしているから止めるような活動するが駄目 |
私の青春はいいことは一つもない 苦い苦い記憶ばっかり 国では父が私の為に代理拘留される(2カ月) どんなことがあっても日本で生きろ・・・父からのメッセージ |
父は1958年に亡くなる 社会制度何一つない韓国で赤色逃亡者を家族に持った親がどんな状態だったのかは 想像に難くない ミイラのようになって亡くなって行った |
済州島で生活していた当時の父親とはどのような人であったか 当時一等地に飲食店を構えていた(裕福だった) |
小学校時代、父は謎めいた人だった 母によると現場労働者として済州島に来たと云うが、知識があり、本も沢山あった |
北朝鮮のいくつもない中学校の学生だったが、3・1独立万歳事件のデモに加わって 学校を放逐されて、満州を放浪した揚句に、母と釜山で出会ったとの事 |
父が釣りに行ったときに一緒にいて歌を歌ってくれたあとでそれは「クレメンタイン」 アメリカの歌だった 歌詞は |
「広い海辺に とまやひとつ 漁師の父と 年端もいかぬ娘がいた おお愛よ愛よ 我が愛しのクレメンタイン 老いた父一人にして お前は本当に去ったのか」 |
「風の強い日のことだった 母を探すのだと云って 渚へ出たが お前はとうとう帰ってこない おお愛よ愛よ 我が愛しのクレメンタイン 老いた父一人にして お前は本当に去ったのか」 |
記憶が重なってしんみりしてしまう 自分たちの命をかけてキムさんを日本に送り出してくれた |
私が民族意識を取り戻した直接のきっかけはやっぱり「クレメンタイン」の歌・・・ 父の気持ちが伝わってきた |
在日朝鮮人というのは、本国というのは固有の文化圏ですね 固有の文化圏から離れて暮らしていると云うのが負い目のように言われてきてるが |
実際は負い目ではなくてむしろ 本国 北、南ではない事を作れる展望を持っている 存在だとおもう |
私たちこそ民族祖国の南北分断を融和させうるう最も有効な担保なんですよ 私たちが存在すること自体が抱えている展望、可能性を私達が自覚して生きる時 |
必ずうちの国の統一への展望を開きうるものをもっている |
私達が和やかに交わえられたら明治百年以降のうちに国と日本とのしがらんだ暗い 歴史というものが目に見えて純化されてゆくように期待できる |