2011年8月17日水曜日

金時鐘(キム・シジョン)(詩人)    ・戦後を在日として生きて

金時鐘(キム・シジョン)
<概要>
金時鐘(1929年1月17日 - )は、在日朝鮮人の詩人、朝鮮文学者
1948年の済州島四・三事件に関わり生命の危険にさらされる  1952年には吹田事件
に参画   朝鮮の事 事件の経過等語った
1986年『「在日」のはざまで』で第40回毎日出版文化賞受賞。「亡くした季節」で第41回
高見 順賞受賞 1949年20歳の時に朝鮮半島の済州島から日本に渡る
1945年8月15日の玉音放送を聞いたときは立ったまま地の底に沈んでゆくような失望感
でした 
17歳のときに済州島で終戦を迎える
済州島は当時日本の統治下にあり日本そのものだった 本土最終決戦の前線基地
だった 

陸軍3個師団が駐屯していた
(歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民
は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた)
(韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に
渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという)
幼年時代から日本語を使用していた 自分の国の言葉は一切知らないしどのようにして
生きようかと思案した 一週間食事もろくに通らなかった
父が日本語の本を沢山持っていたので乱読した 
日本の近代叙情詩等は早くから読んだ

教育というものは恐ろしい 完全に軍国少年として育てられた
 教育を統括した国家があったと云う事を忘れてはならない
8月16日一番度肝を抜かれたのは辻辻に民族反逆者リストが張り出される 
(対日協力者) 祖国再建の為の組織が出来上がってくる
9月8日 アメリカ軍が進駐してくる アメリカが軍政をひく 
朝鮮はポツダム宣言仁よって民族独立は保障され、戦勝国に準ずる国だった
アメリカが自由主義陣営を防衛するために南側の方に軍政下を敷いた 
38度線の北はソ連軍が駐留しているからアメリカも世界戦略上38度線で対峙をしなけれ
ばいけない

戦勝国に準じる国が軍政下になったことに屈辱を感じる
祖国というものを意識して朝鮮の言葉でもって詩を残した人たちの云わば抵抗の詩を
読んだ      血が燃えたぎる思いだった
自分はあまりにも無智だった 読んで自分の無智の嫌悪と反動だった
 36年ぶりに祖国が日本の植民地のくびきから解放されるわけですね
解放されるが自分のものがない 
学生たちが歌う歌も日本語では歌っても朝鮮語では歌えない
うちの国がよみがえった国として展望を持っていくための下地作りが急務だった 

牢屋に閉じ込められていた人達が解放されその人達が中心になって
文化運動みたいなのが起きて、学生たちが加わって行くと云う
 政治運動というよりも日本の官憲がいる中で自律性を持って自前の国の再建に
立ちあがれるか
という時期でした
キムさんは祖国回復の為の文化運動をしていて、にも拘らず最終的に国の官憲から
追われる立場になってしまう
何しろ自分の国の言葉を全然知らなかったから、歴史等勉強会で教えてもらう 
市民レベルで面のように広がる 秩序だった組織力に感銘した

追われるに至るのは国の軍政の問題もあるし、国連で1947年に朝鮮半島の統一をする
ための措置として信託統治というのが安保理で決まるが
折角植民地統治から抜け出たのに外交の勢力によって信託統治とは何事かということ
で民衆が激高してでもがひきも切らない状態になる
アメリカが独自で大韓民国だけの単独選挙を強行する 
南北が対立分断する事 反対が物凄く起きたが武力弾圧する
1948年5月10日が南朝鮮だけの単独選挙日だった 
反対の行動が済州島で1948年4月3日に蜂起する(単独選挙を実施させない)
 民衆たちがこぞって参同した

その被害たるや想像を絶する 当時人口が24万弱 
その時の犠牲者が3万人と言われている 実際は3万の比ではない 
少なく見ても5万人は下らない
韓国政府は共産暴動だと云っていた 
私が長い間口をつぐんできた理由は南暴徒と言われていた使い走りをしていた 
連絡員の籍をもっていた
名乗り出ると矢張り共産暴動だと云う事になってしまう 
人民蜂起と云って来た 韓国政府は共産暴動だと云っている
(済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある
南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない)
(南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが
1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す)
(日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した)

アメリカ軍政府下で起きた虐殺 アメリカは指揮権を持っている 
統治権も 4・3事件にかかわったと云う事で指名手配を受け 日本に脱出する
両親があらゆるものを金に換えて現地警官を買収し、金を使って、40km離れた岩場の
島に行きそこから日本へと向かった(見つかれば当然殺された)
漁船の甲板にいた  2時間で五島列島に着きほっとする 
(捕まった時に備えて青酸カリをもっていたが日本の領海に来てそれを捨てた)
1949年6月3日に日本に到着する