2011年8月1日月曜日

丸谷明夫(吹奏楽部顧問66歳)    ・吹奏楽とともに50年

丸谷明夫(吹奏楽部顧問66歳)   吹奏楽とともに50年  
金賞23回受賞  淀川工科高校から名誉教諭の称号を貰う
父親が吹いていたハーモニカ  笛が好きになったりしたのがきっかけ 父親が散髪屋をやっていた 母が小学校4年の時に亡くなり、父親も目標を失って、
仕事にもあまり発揮せず 家も悪い方向に行く  
音楽をやっている場合ではないと云う状況 電気、ガスを止められる 
朝3時中央市場に行って仕事をしてから学校に行く生活
栄養失調と睡眠不足で身長が止まる 
アルバイトをしながら高校(電気科)に行く 教師になりたいとの気持ちがあった 大学受験  (世話を焼くのが好きで、音楽をやるのも好きだった) 
助手をしながら吹奏楽部でやっていた 23~4歳で教師になる
 
高校で電気工学を教えながら吹奏楽部(部員7名)で一緒にやっていた
(目標も特になかったし、楽しんでやっていた)
1972年 初めて大阪府の代表になった 
1974年全国大会に出場し銀賞を貰う 生徒は大喜び(天理高校は凄かったが同じ銀賞)  1975年 金賞を取る これが良くなかった 判らないうちに取った 
数年銅賞とかであった 賞を何とか取ろうと云う想いのみが強かった  
自分たちの思いをぶつけてみようとして演奏してみる 金賞 
その後連続で4回金賞を取る 5年連続で金賞を取れば全国大会招待演奏が有った
しかしその年は銀賞だった
普段の頃から一緒になってやっている・・・コツ  
本質的には生徒は変わっていないと思う 

7人→20人→・・・200人になる 全校生徒800人~900人
初心者を勧誘して一緒にやらないかと動いて部員が増えて行った 
2~3年生が面倒をみる(自覚が上がってくる) 
初心者が多いが一生懸命やる 原石がある(磨けば光るような) 
持続してやってゆけるか やりやすい環境を作ってやる 過保護もよくない
人の評価を気にしながら、ああでもない、こうでもないとやっている方がおかしなことで、人が見ようが見まいが、それなりの見えないところの努力
自分自身に嘘をつかない そういう努力を皆でやろうと、子供たちに働きかけた 演奏すると云う事は自分の思いを音に乗せるわけです 
それを大人が拘束してどうなるのかと思う   
自分たちはどうやるか 自主性を育てる 
これは一番難しくて  自主的にやりなさい ハイでは駄目
巧くなろうと思ったら楽しくやったらいいやなあと思う  
楽しさを伝えたらいいが、いろいろやったが全て駄目だった

ゲーム機を夢中にやっている姿を見ると判る 
自分が楽しむことが一番大切なんだと云う気持ちになった
何も子供にごちゃごちゃ言わずに本当に一緒に楽しんでいれば子供たちは楽しむんですね
(最近解った話なんですけど・・・長い間掛りました)
尼ヶ崎でコンサートをやっている、大阪府吹奏楽団が有った 
暴動があったり、車がひっくり返ったりしていた 
ああいう処へいってどうするのかと周りから言われた 
いろんな方に了解を得て行くことに決めた 本当にしんどかった 
バスで行くが止まった時に外からドンドンドンとガラス窓をたたく
いざ演奏が始まってみると一曲終わるごとにありがとうと云う 
童謡を演奏すると何人かは泣いている 

高校野球の曲をやり、皆さんの故郷はどうですかというとシュンとなってしまった 
それぞれ訳があっていろんなことが有るんでしょう
どんなに素晴らしいホールでやるよりもこのなまの反応あんだけ喜んでくれて、涙してくれてそういう演奏というのはやっぱり他には無いんですね
演奏終わってバスのところまで歩くが両脇には花道が出来上がって握手してくれズーとバスを送ってくれた
演奏中におひねりを出したりする 
決してお金はないのに ワンカップを半分だけど飲んでくれとか 本当にいい演奏会ですね  
20何年になる
帰りのバスの中はだれも何も言わない 本当に感激したら言葉はバカバカ出てこない 
なんかそれぞれに思ったらしい

いい経験と云うにはもったいないぐらいの出来事
淀川高校50周年記念に全国に呼び掛け実施 いい演奏会をさしてもらった 
ゲストの知名度で呼ぶのは止めようと 自分等の手作りでお客さんが来ていただくのが本質 1万数千人集まる    
1999年に乳癌になる 手術する 右手が上がらない リンパ腫 サポーターをする 
やっている時は忘れる
棒より大事なものを生徒たちはしっている 
なにを考えているかを子供たちは敏感に察知する能力は備えている 
出来たら子供たちの能力を引き出せたらいいなと思う
先ず指導しよう等とは思っていない 環境を整えてやるぐらいしかできない 
後は一緒にやるぐらいしかない