2025年2月28日金曜日

宇野和美(翻訳家)            ・〔ことばの贈りもの〕 私は、“わたし”を生きる

 宇野和美さんは大阪の出身、東京外国語大学でスペイン語を専攻、1995年に児童文学「アドリア海に奇跡」で翻訳家デビューして以来、児童書、絵本を中心におよそ60冊を翻訳しています。  現在JBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。  JBBYは子供の本を通して平和をと言う活動を行っている団体で、良質な子供の本の普及、読書活動の推進、子供の本を通した国際理解などを図っています。  宇野さんが翻訳者になる夢を確かなものにする礎となったのが38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学した経験でした。 夢を諦めない宇野さんの人生について伺いました。

昨年は6冊絵本を出版しました。  私の翻訳した7,8割ぐらいが自分で見出して提案した本になります。 日本で書かれていない本とか、こんな面白い本を日本で読んで欲しいとかそういう本を出そうとしています。  翻訳出版は言語によって大きな格差があります。 2024年に国際子供図書館に納められた児童書で英語から翻訳されたものは500点以上ありますが、スペイン語からの本は11点だけです。 

2023年からJBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。 去年が50周年になりました。  素晴らしい作家とお目にかかる機会もありました。  子供の本に関していろいろ話し合う事が出来たことは、とても大きな経験でした。  ボランティア活動をしていていい事は、いろいろな人と信頼関係で結ばれることが有難いことだと思います。  

小学校、中学校は転校が多くて、本を読んで違う世界があることが大きな救いになっていました。  外国の作品を読みたいという思いが強かった。  中学生の頃に翻訳家になりたいと思いました。  東京外国語大学でスペイン語を専攻しました。  出版社に務めました。  新婚旅行でスペインのマドリードに行った時に、児童文学を10冊ぐらい購入しました。   2017年に「太陽と月の大地」と言う歴史小説を翻訳しましたが、そのなかの一冊でした。  29歳で出産し、そこで会社を退職しました。  その後二人を出産しました。 長男が1歳の時に保育園に預けて、翻訳の勉強を始めました。(時間的には厳しい。)    

35歳の時に「アドリア海の奇跡」でデビューしました。  嬉しかったです。 翌年絵本を出版しました。  読み物とは全く別の世界だと思いました。  子供から学ぶことも大きかったです。  38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学しました。  1年のつもりでしたが、2年半になりました。 須賀敦子さんが森さんに「貴方みたいな人はヨーロッパに行くといい、3人連れて行けばいいい。」と言う本の中の言葉に接して、衝撃が走りました。  そこから決心し、計画を立てました。 

時間がない事と語学が厳しかったこともあり、苦しい時期ではありました。  子供がいたから頑張れたという一面もあります。  私は、「わたし」を生きるしかないんだなと、どっかで思っていたのかなあと思います。  仕事、日常で出会う人で素敵な人が沢山います。  そういう人と友達でいられるというのが、とてもありがたい気持ちがあります。  その人と一緒に話せる自分でありたいといったことの積み重ねが、自分を少しづつ上を向いて歩かせて来たといったものがあります。









 

2025年2月26日水曜日

菅野政夫(個人育種家)          ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道

菅野政夫(個人育種家)       ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道 

交配を繰り返してそれまでなかった花を作る育種の世界、菅野さんは最初からはなが好きだったわけではなく、衝撃的な出来事がきっかけで花の世界に入ったそうです。

オステオスペルマムの育種をしています。 オステオスペルマムは南アフリカの原産でキク科の植物です。  夕方、曇天、雨の日のは閉じる性質を持っています。 閉じない花を作るという事で日本で開発されました。 出来たのは平成4年ごろでした。  オステオスペルマムの花の色は白、ピンク、パープルの3色程度でした。  改良を重ねてきて、最近は色々な色があります。  私が作ったものでは色が3,4色に変ってゆくというものがあります。  狙ってできるものではありません。

最初から育種家になろうと思ったわけではありません。  別に花が好きだったわけはありません。  私が中学1年生の時に夏休み前に起きた集中豪雨のよる土砂崩れで一家全員が亡くなった災害がありました。  同じクラスの女の子で、弟も自分に良くなついでくれていた子でした。 彼女の一家の告別式がありましたが、家でふっと窓の外を見た時に、真っ赤なダリアが目に飛びこんできて、電気が身体を貫くような感覚を覚えました。  あの花を告別式に持って行ってやりたいと思い、祭壇に手向けました。   1年後、2年生になった時に先生がダリアの球根が余っているから欲しい人がいるかと言ったので、真っ先に手を挙げていただきました。  家に持ち帰って埋めておきました。 忘れていたが、8月下旬に真っ赤なダリアが咲き、思わずアッと声が出ました。  1年前に感動したダリアの花も今回咲いたダリアの花も、覚えているのが1日だけでした。  

中学卒業後就職しましたが、通信機関係の仕事で自分には向かないと思って辞めてしまいました。  突然赤いダリアのことを思い出しました。  花には人の心を感動させる力があると思った時に、そういう仕事がしてみたいと思いました。  自分が行きたかった夜間の普通高校に行くことを決意しました。  1年後に入学しました。  就職する段になりましたが、行き先が決まっていないなかかで、先生が声を掛けてくれました。  先生の実家が種苗店を営んでいて、その関係で先生が2社に手紙を送って下さいました。  1社は自分の知っている会社名だったので、そちらを受けることにしました。  農場の花の仕事を希望したが、いい返事がもらえなかった。  兎に角花の仕事がしたいという事を力説して、なんとか入社する事が出来ました。  

そこの会社の農場長との出会いが大きかったと思います。  案内されハウスにはオステオスペルマムの最盛期で花が咲いていました。  目を見張るような光景でした。  その日の夜は興奮して眠れませんでした。  ここでの最初の5年間は無我夢中で働いたのが、凄くよかったです。  不器用なほうですが、農場長、先輩からいろいろ教えていただきました。  誰でも最初からは何もできないんだからと励まされました。  農場長からは一株が持っている性質の幅を段々広げてゆく事を教わりました。 新しい花を作る、育種を将来はやりたいと思いました。  

本を読んで勉強もしましたが、本を読んだだけではわからない。  迷ったら現場に行って観察するしかない。  観察力を養う事は3っつ目の農場で出会った直属の上司から教わったことは計り知れないものがあります。  農場長からは「私は仕事を始めて50年以上になるが、50年以上たってようやく最近判りかけて来たんだよ。」と言われて、私にとって重い言葉でした。  今でもわからないことはいっぱいあるが、分かろうとする努力は必要だと思います。   家族には何時も花がある、そういったことを夢見てしまいます。   育種家になるのには相当資金が必要です。  自分ではコツコツ貯めてはいましたが、退職のお祝いの食事会をしてくれた時に、妻からのプレゼントがありました。  これから資金が必要でしょうからという事で目録として手渡されました。  嬉しかったです。 妻の後押しが無かったら、出来なかったことです。   妻が喜んでくれる、お客さんが喜んでくれるという事が理想な形です。  品種登録は妻と連名にして提出しています。 

オステオスペルマムは妻は嫌いだと言っていましたが、アッと妻が振り返るようなオステオスペルマムの花を作ってやろうと宣言しました。  昨年の春に花売り場を妻が眺めていて、「貴方の作るオステオスペルマムは色も形もずっと綺麗。」と言ってくれました。   夢は青い色のオステオスペルマムを作りたいと思っています。  香の付いた赤いカーネーションを作って、母親と妻の母親にも贈りたい。 (二人とも亡くなっている。) 母親を思い出すような、心が和むみたいな香りを作りたい。  感動を届けられる花の仕事をしたい、感動は自分にとって最大のキーワードになっています。 花は人に感動を与えてくれる力がある。













  

2025年2月25日火曜日

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」 

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に贈られるものです。  大西さんは長年に渡る体験実践記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 大西さんは東京都在住の91歳、かつて小学校の教員をしていました。  4人目のお子さん曜介さんに脳性まひがあります。 子育てに奮闘しながら駅のエレベーター設置やグループホーム設置運動に力を注ぎました。  今回の入選作では陽介さんとの56年の日々を、当時の筆記を抜粋しながら振り返っています。 

「障害のある息子と暮らしとぃます。 それは4人目の子供で上に兄二人、姉一人がいます。  夫と6人家族で暮らしていました。 今は夫が8年前に亡くなり長男も去年亡くなって障害のある息子と孫と3人で暮らしています。  息子は56歳、私は91歳になりました。」

曜介は1967年生まれ。 生まれた時には障害はなかったが9か月の時に突然高熱になって、入院しました。 病名は急性脳症と言う名前でした。 左半身麻痺になってしまいましたが、小さかったので障害というイメージがあまりありませんでした。  1歳過ぎても3,4か月の赤ちゃんと言う感じでした。 その後つかまって立つとか、段々と変化はありました。  

「2歳半でお座りが出来る状態でした。 ・・・ リハビリの先生が曜介と一緒に転がりの練習をしてくださいました。 ・・・曜介が自分で転がりの練習をしてるんです。 わざと倒れて右手を出して支えるという練習をやっているんです。 これを観た時に私は感激しました。・・・教えてやれば段々出来るんだと思いました。」  

都立障害者センターへリハビリのため週一回ぐらいで通いました。(2歳半ぐらいから)  5歳ぐらいで歩けるようになったのもリハビリのお陰だと思います。 教えるだけでは駄目で受け手の方でもそれを一緒にやろうという風に、両者が目的に向かってやろうという事が大事です。 小学校に入るまでは障害と言う意識は余り無かったです。 障害は直るという事はないので、その状態のままで生きて行かれるように、周りの環境を良くするために働こうとか思いました。

「息子を通じて参加した障害者運動が私の人生そのものでした。 ・・・晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」の言葉が私にとって最大の褒美でした。」

息子たちが養護学校に入った時(1974年)画期的な出来事がありました。 東京都が障害児の希望者全員入学という制度を打ち出しました。  遠足で電車に乗ることになりましたが、初めて電車に乗ったというのが半分以上でした。  いろいろ会を作ったり署名活動、請願したりして理解が進んで、鉄道の方も承諾して、市役所も実現しようという事で駅にエレベーターが設置されました。  運動を開始して5年ぐらいでエレベーターは設置されましたが、障害者専用とか、時間制限などがありました。  老人、妊婦とか全部制限が無くなるまでには16年掛かりました。 

晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」という言葉は嬉しかったです。  母親からは「上の子たちに我慢ばかりさせるのは良くない。」という事を言われました。  なるべく一緒にしようとは思っていましたが。 反省はしています。 兄弟が弟の面倒をよく見ていました。

長男の言について

「曜介が長靴を履く。 そんな当たり前なことが私たち親子にとっては大事な経験なのです。 ・・・「健康な子なら直ぐに出来ているのに。」と私が言ったた時、高1の長男が「それだからこそそうやって練習する、努力することが意義がある、価値がある。」と言ってくれたのです。 私はその言葉を聞いたときには本当にうれしかったし、励まされました。」 

次男の言について

「或る日次男の友達がやってきて、曜介を見て「なんだよこれ。」と言ったのです。 すると次男は「なんだよって、人間じゃないか。」と言い返しました。 ・・・世の中の冷たさを感じました。  弟を大切に思っている次男の強さに打たれました。」

長女の言について

「娘の言葉で忘れられないのは、「妊娠した時もしも障害があっても育てるから。」です。 思い悩みそして結論を出していたのでしょう。 私は曜介が急性脳症に罹り障害があると判るまで障害児を知りませんでした。 ところが兄弟たちは子供のころから障害の有る弟と暮らしています。  娘は子供を産むとき、そのように考えているのだと強く心を打たれました。」 

エレベーターが出来た後は、これからは住まいの問題だと思いました。  当時は自宅か施設の二つしかなかった。 グループホームがぼちぼち話題になるころでした。  小平でもグループホームを作りたいなあと言いう気持ちになりました。  グループホームを設立しました。(20数年前)  6泊ホームで泊っています。  日曜には戻ってきて音楽を聴いて手足を動かしたりしています。  

息子も50歳を過ぎて、最終的には命が亡くなると言う事になるので、幸せな死に方はどういうものだろうと思っています。  社会はどういった取り組みをしていったらいいのか、と言ったことを考えます。  長男はすい臓がんで亡くなり残念でした。  私がいなくなった時に曜介のことが心配です。 








  






2025年2月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫 

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ、今年生誕100年に当たります。

「鈍感な人たちは血が流れなければ狼狽しない。  が、血の流れた時は悲劇は終わってしまった後なのである。」   三島由紀夫(「金閣寺」の中の言葉)

代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などの戯曲があります。                     16歳の時に「花ざかりの森」と言う小説でデビューしている。(戦争中)  一作一作を遺作のつもりで書いていたと言っている。 三島由紀夫のところにも召集令状が届くが、入隊検査が昭和20年2月10日で、この日から中島飛行機小泉製作所(群馬県)が大空襲を受ける。 この工場にいたら命が無かったかも知れない。 入隊検査でも気管支炎になって熱が出ていたので、軍医から家に戻された。 三島由紀夫が入隊するはずだった部隊フィリピンに行ってほぼ全滅している。  助かったというような気持も書いているが、自伝的な小説のなかで「私が求めていたのは何か天然自然の自殺である。 それなら軍隊は理想的ではなかったのか。」とも書いています。  自分だけが生き残ったのは負い目みたいなものがあったのかもしれない。 20歳で時代遅れになった自分を発見する。  これには途方に暮れたと書いている。    

先の「金閣寺」の中の言葉ですが、「金閣寺」は31歳の時に書かれたものです。 後から考えると割腹自殺を想起させるような言葉です。 最近は更に鈍感になってしまっていないか、三島由紀夫のこの言葉を噛み締めたい。

「自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛して貰おうなどと考えるのは甘い考えで、人生をなめてかっかった考えです。  と言うのは、どんな人間でもその真実の姿などというのは不気味で、愛する事の決してできないものだからです。 これにはおそらくほとんど一つの例外もありません。」三島由紀夫(「不道徳教育講座」の中の告白するなかで、と言う文章から)

ありのままの自分を愛して貰おうなんてとんでもない、告白なんてするなと言っています。 三島由紀夫には「仮面の告白」と言う小説があります。  告白はするがありのままの自分ではなく仮面をかぶっているわけです。(23から24歳の時に書いた作品で作家として確立) 

「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどという事があるだろうか。」  三島由紀夫(「小説家の休暇」より) 

これは太宰治に言った言葉です。 三島由紀夫は生涯に渡って太宰治の悪口を言い続ける。 三島が大学生のころ太宰に会って、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです。」と言っているんです。  太宰に対して「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家も珍しい。 太宰が持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦や機械体操や規則枝的な生活で直されるはずだ。」と言っている。 三島由紀夫は元々身体が弱かったが、鍛えて身体を作り上げた。 だからこういう風に言いたかった。  太宰を嫌う理由は似ていたいたからではないか。  

高校生からのインタビューでこう答えている。 「いろんな似ているところもあるんですよ。  似ていたらしゃくに触るしょう。 太宰に対していつも危険に感じるのは、もし自分が太宰を好きで、太宰におぼれればあんな風になりゃあしなかったって、恐怖感がある。 だから自分は違うんだと立場を堅持しなければ危ないと思った。」 太宰と三島は両極端にあると同時に似ているところがある。 太宰は心中して、三島は割腹自決する。 

「音楽会に行っても私はほとんど音楽を享楽することが出来ない。  意味内容にない事の不安に耐えられないのだ。 音楽が始まると私の精神はあわただしい分裂状態に見まわれ、ヴェ―トーベンの最中に昨日の忘れ物を思いだしたりする。」  三島由紀夫

「あらゆる種類の仮面の中で素顔と言う仮面を僕は一番信用致しません。」  三島由紀夫(林房雄宛ての手紙の一節)  

「仮面の告白」の編集者は坂本一亀。(坂本龍一の父親)

「素顔で語る時、人は最も本音から遠ざかる。 仮面を与えれば真実を語る。」 オスカー・ワイルド(三島が好きだった人) 

「傷つきやすい人間ほど複雑な鎖かたびらを織るものだ。 そして往々鎖かたびらが自分の肌を傷つけてしまう。」   三島由紀夫(「小説家の休暇」のなかの言葉)

続きがあって「しかし、そんな傷を他人に見せてはならぬ。」と言っています。 

三島由紀夫は中々一つのイメージには纏まらない。 

「幸福って何も感じない事なのよ。 幸福ってもっと鈍感なものなのよ。」三島由紀夫(「夜の向日葵」と言う戯曲 から)

例えば胃が痛くなければ、胃のことなどは考えない。  感じないでいられる、鈍感でいられるという事が、幸福なんですね。  敏感で傷つきやすい人であるからこそ、幸福をこういう風に定義するわけです。  

「時間の一滴一滴が葡萄酒の様に尊く感じられ、空間的事物にはほとんど何の興味もなくなりました。  この夏は又一家そろって、下田にまいります。   美しい夏であればよいなと思います。」   三島由紀夫(川端康成宛ての手紙の一節 1970年7月6日)  三島が割腹自決した年。  川端康成とは親交があり、自殺した時にも現場に駆けつけた。

前年の手紙に「ここ4年ばかり人から笑われながら、小生はひたすら1970年に向かって少しづつ準備を整えてまいりました。」と書いている。  随分前から計画をしていた様です。  

「死んでみて初めてその人の一生の言動は運命の形をとるわけですから、我々は死の地点から逆に過去の方をすっかり展望して初めてその人を落ちこぼれなく批評することができるわけだ。」  

最後は「不道徳教育講座」の中の死後に悪口を言うべきと言う文章の一節です。

「我々は死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。 憎まれ嫌われていた死者のことほど早く忘れたいのです。  そのためには褒めるに限る。  ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。  死者に対する悪口はこれに反して、いかにも人間的です。  悪口は死者の思い出をいつまでも生きている人間の間に温めておくからです。 ですから私は死んだら私の敵が集まって飲んでいる席へ行って、皆の会話を聞きたいと思う。 全くいい気味だ、あのいけずうずうしい気障な奴がいなくなって、空気まで綺麗になった、本当だよあんな阿呆に良く長い事世間が騙されていたもんだ、あいつは馬鹿なうえに大嘘つきであいつと5分も話していると反吐がでそうだった、こんなことを言っている連中の頭を幽霊の私は易しく撫でてやるでしょう。  私はどうしてもぴんしゃん生きているうちに、私が言われていたのと同じ言葉を死後も聞いていたい。  それこそは人間の言葉だからです。」 三島由紀夫

































2025年2月22日土曜日

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける 

松浦さんは教会で難民支援にあたっている社会活動センター「シナピス」の副センター長を務めています。 松浦さんはカトリックの一家に生まれ、神戸市で育ちました。 大学で神学を学んだあと、教師となり中学校と高校で社会と宗教を教えていました。 そんな中、松浦さんは聖書学者の太田道子さんと出会います。 太田さんはパレスチナの女性らを支援するNGOを創設し、聖書の学問的研究にとどまらずその実践を進めていました。 松浦さんは太田さんの活動に共感し、太田さんが所属していた教会の組織に転職します。  その後松浦さんは助けて欲しいと教会にやってきたアフガニスタン人との出会いが難民支援に取り組むようになりました。 日本は難民認定されるケースが少ないと指摘される中、どのような思いで難民の支援に取り組んできたのか話を伺いました。

幼稚園の頃は積極的な正義感の強い子でした。  小学校ではいじめられておとなしい子になって行きました。  女の子がいじめられていて、先生が仲裁に入るのかと思ったら、松浦立ちなさいと私が立たされました。 「その時お前は何をしていたのか。」と言われました。 私はいじめられるの唯見ていただけでした。  いじめっ子を怒るのではなくて、傍観者だった私を怒ったんです。 それ以来クラスは強い子が弱い子をいじめようとしたら、周りからやめろ止めろと言って、変って行きました。 私自身は納得できませんでしたが、「冷ややかな傍観者になるな。」と言うメッセージは 、60年生きてきてもまだずっと奥のなかにあります。 小学校2年生の時にまじかに死をみました。  虚しさ、生きている意味は何なのか、死んだらどうなるのか、恐怖が膨れ上がりました。  

 そういった思いが救われたのが、ミッションスクールの授業でした。  「ただ他者のために生きることが人生の名に値する。」と言う言葉でした。  怖さ、虚しさがふっと消えていきました。 大学では神学科の道に進みました。(1982年)   1981年にに日本は難民条約に加盟しました。  ボートピープルが日本に入ってきて2,3年程度の人と出会いました。  関わっていけたらいいなあと思いました。  卒業後教師となり大阪のミッションスクールの中学、高校で社会と宗教を教えました。 語学研修でアメリカまで行きました。  ラオス、ベトナムとかの難民と知り合い難民の実情を知る様になりました。 

太田道子さんの講演会が私の背中を押しました。 アメリカ、イスラエル、ローマ、パレスチナで研究を重ねた聖書学者。 1980年帰国、1995年にはパレスチナの女性を支援するNGO「地に平和」を創設研究だけではなく実践にこだわった人物です。  講演の最初に、創世記の言葉「貴方はどこにいるのか」と言う言葉に衝撃を受けました。 どこに立って物事を考えているのか、誰のところに立っているのか、そういう風に聞こえました。

1991年にはじまった湾岸戦争で、避難者移送で自衛隊機派遣に反対し、民間機をチャーターを計画、寄付を募ると数億円が集まりました。 2機をチャーターし避難者の移送を実現する。  太田さんはこの主要メンバーとして大阪の教会で活動していました。 松浦さんは直接会いに行きました。 

教師を辞めてカトリックの「平和の手」という組織に転職しました。  戦争を未然に防ぐネットワーク活動をやろうという団体です。  外国人労働者が入ってきて、不当に解雇するなど日本で路頭に迷う外国人労働者がカトリック教会に駆け込むようになりました。 外国人労働者との窓口を作って支援するための事務局開設の仕事をすることになりました。 

アフガニスタン難民で、日本に来て会社員でしたが、アフガニスタンの人たちを助けるために走り回っている人でした。 イスラムシーア派の人でしたが、いい関係を作り上げました。  タリバンから迫害の標的にされている人たちが多くいましたが、皆家族などが殺されている人達でした。  チームを作って難民の対策をしました。  対応できた人は30名ぐらいです。  難民として認められたのは1割でした。  困難さをつくづく感じました。 口コミで難民救済のことが広がって行きました。 

難民認定申請中の外国人は原則的に入国管理局の施設に収容されます。 その期間は長い人で数年間にも及びます。 難民条約批准国の中でも難民選定されるケースが極端に少ない日本は国連など複数の国際機関から制度の改善を求める勧告が出されているのです。 仮放免には身元保証人が必要で、保証人にもなることがあります。 100人近いと思います。   

教会本部から少し離れた下町に難民の人たちに対するシェルター「シナピス」ホームがあります。 元々は韓国人シスターたちの修道院でしたが、シナプスが買いあげました。    中東、東南アジアの方が入っています。  難民の認定を待つまでこちらで保護します。      

2021年春、アメリカ軍はアフガニスタンからの撤退を決め、再びタリバンによる統治が始まるといったアフガニスタンの人たちは、国外に逃れようとアメリカ軍機にしがみつきました。 飛ぶ立つ飛行機から振り落とされて地獄かと思いました。  直接私に電話をかけてきて助けてくださいと言うんです。  兎に角一人でも助けたいという思いが湧きました。  或る家族をパキスタンから日本に退避することが出来ました。  ほとんど報いることが難しい中で強制送還される人から、「貴方に会えてよかった。」と言われて救われた気がしました。 








2025年2月21日金曜日

鈴木秀子(シスター)           ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる

鈴木秀子(シスター)         ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる 

鈴木さんは1932年静岡県生まれ、93歳。  聖心女子大学卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、文学博士。 フランスイタリアに留学後、その後国内外の大学(ハワイ大学スタンフォード大学)で長く教鞭をとる。 現在は聖心女子大学キリスト教文化研究所研究員を務める一方、生き方や仕舞に関する講演や執筆活動を精力的に行い、著書の数は170冊を越えています。 

樋口恵子さんとの対談集「何があってもまあいいか」と言うタイトルの本。 93歳の同い年です。 「高齢者は機嫌よくいましょう。」と二人で声をそろえて言っています。    30代の初め頃フランスに行きました。  こんな綺麗なところがあるんだと感じました。 修道院の院長さんが「フランスで大事にしていることはみんなが機嫌よくいる事ですよ。」と言いました。 「機嫌よく」と言う言葉がすとんと落ちました。 不機嫌はハラスメントだと思います。  機嫌がいいということは本当に大切なことだというのは歳をとるとともに強く感じるようになりました。  「まあいいか。」で切らないといつまでも恨みつらみがつながるように伸びてゆくんです。  落ち込まないための大きなきっかけになります。

90歳になってつくづく感じるのはどうやって生きたらいいかお手本がないわけです。 それに向かって鍛えておく必要があるのではないかと思います。 「老いの学校」を自分の中に作る。 先生も生徒も自分です。 特に感謝する習慣をつけるのが大事です。 歳をとると人の世話になることは当たり前ですから。  若いうちから心から感謝できるような自分を作り上げていることが必要だと思います。  90歳になって大きく変わったのは、先のことを考えなくなった。  過去のことも考えなくなった。 だからとても楽になりました。  子供は無我夢中になって今のことをしていますが、私の場合は長い蓄積と経験と英知とかが、今この瞬間に集中しながらも生きているなと言う、或る意味での喜びがあります。 花が綺麗だと思い気持も子供と深みが違います。 深く味わえるというのが歳をとってきたよさでしょう。  

私は40年ぐらい前に高いところから落ちて臨死体験をしました。  あの世は素晴らしくいいところで、人が死ぬことこんなところに来るんだということが判って、それ以来死ぬということに対する恐れは無くなりました。  5時間ぐらい意識はなかったです。 台に立っている自分をもう一人の自分が眺めているんです。  足の周りに、その時はたけのこの皮と思ったんですが、観音様の周りにそれが一つ一つ落ちてゆくんです。 一つ落ちてゆく毎に、人がなんていうことから煩わされなくなった、自分を責めることから煩わされなくなったと思って、最後の一枚が無くなって完全に綺麗になると思った時に、自分が上がって、自分を見ている自分と一体となって、高いところに行って気が付いたら綺麗な光に満ちた世界だったんです。 すべての宇宙、ありとあらゆるもの、エネルギーだとすると、大宇宙のエネルギーのおおもとの方がいて、私のすべてを許し愛し抜いてくれるというのを感じました。 人間は全部こういう愛で包まれて、皆結ばれているんだということを感じました。  あの世(自分がいた世界)に帰りたくないといったんですが、あの世に帰れば愛する事と知る事が大切ですと言って、はっと気が付いたら病院にいました。

臨死体験と言う様な言葉もない時代で、或る人が英語の本を持ってきて、それを読んだら同じことが書いてありました。  私たちは深いところで、創造主の愛によって繋がっているということを強く感じました。  どういう形で死が訪れるかわからない。 死は眠りに入るのと同じだと思います。  今こうして歩けること、話せること、出会えること、そういったことが中心になって来ます。  言い換えれば感謝だけです。  ゴミを拾って捨てる、それが出来る事が有難い事です。   私は亡くなる人に随分接してきましたが、亡くなる時に吸って吐くことが停まるんです。 普通に息を吸って吐くことがどんなに素晴らしく有難い事か身に沁みて感じます。 厭なことが起こったならば、今息を吸って吐いている、自分は生かされている、それが一番大事なことだというところに戻れば、厭なこともそんなに大きく感じないんじゃないかと思います。 

朝5時に起きて祈りから始まります。 次に御堂にいってみんなとい一緒にミサにあずかります。 食事をして自分のする仕事をして、夕食の後にみんなで集まって、災害にあった人、病気の人とかに対しての取次の祈りをします。  祈ることは死ぬまでできます。 他の人に祈ることは喜びにもなります。 祈りによって生かされているようなものです。 

私は小さい時から中学まで戦争期を過ごして、目の前で友達が機銃掃射で殺されたり、体験をしてきました。 戦争が終わって9月から学校に行ったら、教頭先生がそれまでは天皇陛下の御真影の前で必ずお辞儀をして教室に入りました。  或る生徒が終戦前と同じようにお辞儀をしたら、教頭先生は「あのバカはまだあの前でお辞儀をしている。」といったんです。  今迄一番大事だとしていたことを、否定したことに凄いショックを受けました。  生きてゆくうえで決して変わらない価値と言うものは、なんだろうと思いだしました。  

聖心女子大学に入って曽野綾子さんと同級生になりました。 話をする中で本当に変わらないものは神様だと判りました。 洗礼を受けて神様と共に過ごすことを決心して修道院に入りました。(大学3年生)  それまでの修道院では中世の風習があって、一切沈黙で敷地外には出られない習慣でした。 沈黙は当たり前のことでした。 8年間の修行を終えた時に、教会が中世の風習を改革するということになり、風習が可成り改められました。  それで外に出られる様になり、普通の人と同じように生活しながら、祈りを中心にと言う風に変わって来ました。  以前は言葉の沈黙のほかに頭の沈黙もありました。

親しかった仲間が亡くなるのは悲しいです。  悲しみを外に出して、辛いことも外に出して自分を空にして、切り替えてゆく。 愛するということはその人の心の奥に沿いながら、人は何のために生きているかと言うと、死ぬまで成長し続けて、成長するために生きているということを聞いたことがあります。  愛するというのはその人が人間として成長してゆくために、何が自分が一緒にいることで役に立つかと言う事を心掛ける、一緒にいて共に幸せ感を味わう時に人は成長してゆく。 愛するということは役に立つようなことができるのが一番です。  知るということは何を知ればいいのだろうと思いました。  今も良くは判らないが、知るということは人間として成長してゆくということはどういう事なのか、愛に生きるということはどういうことなのか、知恵を働かせて自分で考えて、自分で出来ることをしてゆく事ではないかと思っています。  小さい事で何かできることを心掛ける事とか。  これが愛なんだと言葉を交わさずとも判ることはある。 

〔わたし終いの極意〕とは愛と感謝です。 90歳を越えて、起こってくることを心を広くして「まあいいか」と言って受け入れてゆく事だと思います。 必要なことは必然と起こって来ますから。 





































2025年2月19日水曜日

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない 

小川良樹さんは下北沢成徳高等学校女子バレー部の監督を42年間務め、全日本バレーボール選手権(春高バレー)で3回、高校総体で3回、国体で6回、選抜大会では2回、併せて14回チームを全国優勝に導きました。 その間にロンドンオリンピックで日本女子を銅メダルに導いた木村沙織さん、荒木絵里香さん、メグカナと呼ばれバレー人気を復活させた大山加奈さん、東京オリンピックでの日本のエース黒後愛さん、パリオリンピックでも中心メンバとして活躍した石川真祐さん、岩崎こよみさんなど多くの選手が小川さんの指導の元から巣立っていきました。 2023年3月に下北沢成徳高等学校退任した後、現在は埼玉県の細田学園女子バレー部のコーチをしています。 

1955年名古屋生まれ。 父の仕事の関係で子供のころインドに行きました。 小学校3年の時からボンベイで暮らしました。  5年生から日本人学校が出来ました。 そこでバレーに触れました。  中学にあがる時に、父は残って私は日本に帰ってきました。 バレー部への誘いがあって入りました。 中学の顧問の先生がバレーの専門の方ではありませんでした。 高校の2,3年生のころはOBの大学生が私たちに自主性を持たせるような指導方法でした。 それが影響してきている思います。  名門校のバレーの先生がどんな指導をしているのか、知りたいと思いました。  高2の時には男子バレーがブームの時でミュンヘンで松平さんが優勝した時でした。  松平さんの解説が凄く心に残りました。  指導者の果たす役割は凄く魅力的だなあと思いました。  

早稲田大学法学部を卒業後、早稲田大学教育学部教育学科体育学を専修する。 大学時代も教えていて、教員資格を取ってから下北沢成徳高等学校に入りました。  厳しくすると上手くいかないことを経験しました。  シード権を持つベスト16が目標でした。 1988年関東大会初出場で3位に入りました。(関東大会出場するための東京大会では11位だった。)  本当に嬉しかった。 大山加奈さん、荒木絵里香さんらが3年の時に全国制覇しました。  自主性を重んじる練習法をしてきた関係から、厳しくやたっつもりでも周りからは甘いと言われていました。  より厳しい指導をしてみましたが、辞めて行ってしまいました。  「引退まであと何日」と言うのを見た時に、違うなあと思いました。  指導の改革を迫られました。  

練習の中で指導者が怒るとか、怒りを納めるとかを求められて、やってみたら初全国大会になってしまって、あれっという風に思いました。  バレーボールをどう好きにさせるか、どうやって練習が彼女たちにとって楽しみに変わるかというふうに、私の高校時代の原点に結び付けて、変えて行ったのが私が35歳前後でした。  選手たち寄りにものを考えるという事が定着して大山、荒木と言った大きな選手たちも納得して、バレーが嫌いにならないような形で指導できるんだという形が伝わって入ってきてくれた。

最初のころは指導者として勝ちたいという自分の欲求ばかりで、選手たちにとってどういう指導がいいのかと言うようなことは全く考えていませんでした。  高校3年間は通過点であり、そこで何を学んでその先のプレイヤーとして、それを生かしていけるか、それが指導者としての役割だなと変化していきました。  それぞれ人は違うので、どういう風にその人に関わったらよい指導と言う風に受け止めて貰えるのか、考えると上手くいかない方が多いですね。  一番やりたくないのは私の価値を押し付ける指導はしたくない。  一心不乱に選手たちが練習の中で没頭している時間を見るのが好きでした。 成長してゆくところを見ているので、積み重なっていくところを一番身近で見ているので、幸せだと思っています。














2025年2月16日日曜日

香川靖雄(女子栄養大学 副学長)      ・〔“美味しい”仕事人〕 延ばそう!健康寿命

香川靖雄(女子栄養大学 副学長)      ・〔“美味しい”仕事人〕 延ばそう!健康寿命 

香川さんは現在自治医科大学名誉教授、女子栄養大学副学長を務めています。 大学での講義を初め、研究活動、論文の執筆、学界での講演、副学長として大学運営にも携わっています。  1932年(昭和7年)東京都生まれ。 父はビタミンの研究者香川昇三さん、母は日本の栄養学の母と言われている香川綾さんです。  香川靖雄さんは東京大学を卒業後、聖路加国際病院、東京大学医学部助手、信州大学医学部教授、女子栄養大学大学院教授を経て、現在に至ります。 

92歳で現役で教壇に立っています。 朝は6時に起きてテレビ体操をします。  栃木県から埼玉県の坂戸市まで通勤しています。  自転車に乗って直進していたところに、左折してきた車と衝突して5mぐらい飛ばされましたが、血腫で済みました。 運転していた人が高齢者でブレーキの対応が出来ませんでした。  高齢者だったら骨折してしまいますが、私の場合は骨密度が高くて、筋肉も鍛えています。  筋肉を作るのには抵抗力運動が必要で、バーベルとかスクワットとかやらないと筋肉は増えないです。

昔は歳をとると神経細胞は増えないと言われていましたが、100歳になっても場所によりますが神経細胞は増えます。  記憶力に関する脳の細胞は、海馬と言うところがありますが、私の様に論文を書いたり授業をしていると増えていきます。 退職して家でじっとしているとどんどん細胞は減ってゆきます。 働くことは大事です。  厚労省が日本人の摂取基準を出していますが、非常に大きな欠点が二つあります。  日本だけが葉酸の摂取量を低くしています。  240μgあればいいと言われていますが、世界的には400μg取らないといけないと言われています。  日本人は魚を食べてきましたが、ここ10年で摂取量が半分に減ってしまいました。  DHAドコサヘキサエン酸)が不足してきます。  脳と言うのは一番多い脂肪酸がDHAなんです。  不足すると認知症になったり、危機的な問題なんです。 うつ病、認知症に影響します。 葉酸とDHAをちゃんと摂るようににすれば、元気に過ごすことが出来ます。 

葉酸の摂取量は年々減っていますが、葉酸米とかを作ることはです。  葉酸が不足すると障害児が生まれる。 それを防ごうというのが最初の目標でした。  葉酸は何故老化を防いでゆくかと言うと遺伝子が壊れて行ってもそれを直してくれるんです。  いろいろな病気を予防するのに大変役に立つ栄養素なんです。  坂戸市では病気になる人が非常に少なくて、医療費が少ないのと、コロナでの医療費が全国一位と減っているが、あまり知られていない。 健康寿命では埼玉県は3位です。 かつては埼玉県は40位ぐらいでした。 

日本は平均余命が長いと言っても、認知症は人口当たりでは一番多いし、寝たきりが多いというのも有名です。  女性の半分は90歳を越えますが、実際仕事をしている人は1,5%しかいない。  男性の1/4は90歳になります。  90歳で働ける人は5%しかいない。 健康寿命は心がしっかりしていて動けることです。  今の栄養学の大きな欠点は精神栄養学がないんです。  国が決めている栄養の基準は筋肉労働の時代につくったもので、頭をよくするところのことは何も書いていない。 朝食を摂ってる学生と摂らない学生では2割成績が違うんです。 これは広く認められています。  人間の心と体を活性化するのには朝食は役に立ちます。 高齢者は朝、昼、晩も同じ量ぐらいを摂って行くという事が新しい健康法です。 

父はビタミンの研究者でしたが、疎開先で過労死で早く亡くなってしまいました。 父の遺志を継いで、母は日本の栄養学の母と言われている香川綾です。  精神がしっかりしているということがとても大事です。  テロメアを長く保つような心と身体の健康が大事です。  私のテロメアの長さを測ると100歳までは生きられるだろうということが判るわけです。  












2025年2月15日土曜日

2025年2月14日金曜日

2025年2月11日火曜日

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)  ・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年 

「ミュージックフロム・ジャパン」はニューヨークで日本の音楽を紹介する団体であり、またその音楽祭の名称でもあります。  その代表が現在は福島市音楽文化総合アドバイザーを務める三浦尚之さんです。 三浦さんは福島市出身、現在83歳。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。  1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立し、芸術監督に就任、毎年ニューヨークで音楽祭を開催し今年50周年を迎えます。 その半世紀の歴史の中には世界的ピアニスト中村紘子さんのカーネギーホールでのデビューをプロデュースした経験もあります。

半世紀の間日本の音楽だけを紹介してきたというのは、自分でもよく出来たなと思います。 人間何かをやろうと思ったら、気力と体力と財源が必要ですが、時と共に気力と体力が衰えてきますが、信念というのはおとろえないでやってきた気がします。 

1941年福島市出身です。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。 日本では先生は自分では演奏はしない、駄目だ駄目だという。。 ジュリアードに行くとまず先生が弾いてくれる。 大変よく出来た、こうしたらいいのではないかと、前向きに教えてくれる。 育てようとする気持ちがありました。  コントラバスとしての演奏家でずっと続けることがいい事なのかなと思いました。  日本の作曲家が作った作品はほとんど公演、演奏されることがなかったので、日本の作曲家に少しでもお役に立てればと思ったのがきっかけです。 

1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立しました。 雅楽、太鼓、三味線、琴、尺八などの伝統音楽も紹介してきました。 伝統の楽器で現代音楽を演奏するというものです。  日本人作曲家216人による作品を50年間、およそ660曲を紹介してきました。 湯浅譲二さん、武満徹さん、三枝成彰さん、岩城宏之さん、三味線の二代目高橋竹山さんなど多岐に渡る方々と50年間やってきました。 

ニューヨークタイムスが毎年評価して掲載してくれました。(書かれること自体が凄いことです。)  第一回1975年湯浅譲二さん(当時45歳)の作品を紹介しました。 1982年カーネギーホールで中村紘子さんが凄い演奏して、私も感動しました。 矢代 秋雄さんの現代音楽のピアノコンチェルトです。 ニューヨークタイムスも評価して頂きました。 20周年記念の1995年 三島由紀夫原作 オペラ「金閣寺」黛 敏郎さん作曲を英語版にしてアメリカ初演を実現させた。 すべてがアメリカ人での公演で4回もできて感動的でした。 日本バッシング、テロが有ったり、いろいろあった50年でした。 資金面についてはアメリカの日本の企業を回って支援して頂きました。(最初の10年) 支援者側は華やかに終わって欲しいという事だったが、或る作曲家の方からはこの曲を最後に演奏して静かに終わって欲しいという要望があり、悩みました。 日本の文化の観点からいうと華やかに終わるというよりも、心に沁み渡る音楽を作りたいという気質があるのではないかと私は思いました。  静かに終わってもスタンディングオベーションがあり、アメリカも変わってきました。  

東日本大震災があり、その後2018年に北米音楽評論家協会からお金を出してもらって10名の方が福島に来ました。  福島がいかに安全安心なところになってきたという事を見ていただきたかった。  地元の肉、野菜での素朴な弁当が一番おいしかったと言っていました。 福島出身の作曲家古関 裕而は5000曲余りの作品を作りました。 音楽は知れ渡っているが、古関 裕而を作曲家として紹介したいと思いました。 誰にでも親しまれる音楽を作曲しています。 2020年連続テレビ小説「エール」で実現することが出来ました。 










2025年2月10日月曜日

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

去年の10月俳優の西田敏行さんが亡くなりました。  松崎しげるさんと西田敏行さんの二人が無二の親友だったという事は良く知られていますが、松崎さんにとって西田敏行さんは人生の師匠であったとも言います。 無二の親友であり人生の師匠であるという二人のドラマ、松崎さんにお話しを伺いました。

彼の喜怒哀楽というものに洋服を着たような男、彼は晩年よく表現者と言っていました。  あの人は僕のお手本であったことは確かです。 お互いのいいところを完全に理解してくれるいい相手でした。 お互いに尊敬する部分は物凄くありました。 最近5年間ぐらいでよく言っていた言葉で「老いを楽しもう。」という事、僕が70歳を迎えるころでした。 

西田敏行さんが生まれたのは1947年、福島県出身です。 中学を卒業後俳優を目指して上京、明治大学付属中野高校から明治大学農学部入学しますが大学を中退し、日本演技アカデミーで演技を学びました。 1970年劇団「青年座」に入団、翌年舞台「写楽考」で直ぐに主役を務めます。 1976年森繁久彌さん主演のテレビドラマ三男三女婿一匹』で注目を集めたあとは、映画、ドラマでも活躍し、テレビドラマの池中玄太80キロ』シリーズ、映画「釣りバカ日誌」シリーズ、NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」、「八代将軍吉宗」など数多くの作品で主演を務めました。 又歌手としても1981年にリリースした「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットします。 東日本大震災と原発事故で被災した故郷福島の復興に様々な形で関わって来ました。 突然の訃報が届いたのが去年の10月、西田敏行さん76歳でした。 

僕が柴俊夫さんの家に居候していました。 「坊ちゃん」の坊ちゃん役をやっていて、山嵐役の西田敏行がこの演技に魅了されて、そこから話が始まり会う事になり、そこから意気投合ですかね。 破天荒な役者さんという感じがしました。 即興の歌でお客さんを楽しませてくれました。 70年代前半は楽しい時代でした。  1977年紀伊国屋演劇賞、ゴールデンアロー賞を受賞。 私も愛のメモリー」がリリースされるや64万枚の大ヒット、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞に輝き、第28回NHK紅白歌合戦にも初出場まました。 テレビドラマのオファーが来るようになりました。  「可能性があることは何でもやるんだよ。」と耳にタコができるほど言われました。  

悲しい歌を歌う時に悲しい顔でうたったら、西田から「最初から何で悲しい顔をして歌うんだ。 何でもドラマというものがあって、段々悲しみが行くんじゃないのか。」 と言われました。 一つ一つの積みかさねがサビになってゆくんだと思いました。 1970年代後半に言われた言葉は、僕の歌い手人生の中で非常に的を得たアドバイスでした。 

刑事ドラマ噂の刑事トミーとマツ』に出演したころには、西田も池中玄太80キロ』シリーズが始まって超多忙な時代でした。 朝5時に起きて夜中の2時、3時迄撮影をやっていたのが当たり前の時代でした。 そんな忙しい仲でも二人で飲んでいました。 忙しいなか、二人でお金を貯め込んでブラジル、リオのカーニバルに行くことにしました。。 渡辺貞夫さんと出っくわして盛り上がりました。  イグアスの滝へはヘリコプターで行きました。

2022年にリリースされた「夢に隠れましょう」は 松崎、西田の始めてのデュエット曲です。  ツーテイク目の時に西田が、「おい 大部飲んだな。 でも弱くなったよな。 でも好きな相手と飲んでいる時が一番楽しいな。 じゃあ今夜もいきますか。」という話を間奏で言ったら、そのまんま使われてしまいました。 

訃報を聞いたときには立っていられなかったですね。  深呼吸をした後にとめどもなく涙があふれてきました。  本当に辛い一日でした。  見つめるしか術がなかった。 これで全て肉体が無くなってしまうんだと思った瞬間、奥さん、家族が耐えられなくなって号泣し、僕は「西田 日本一」と声を掛けずにはいられませんでした。 

ラインからのメッセージ

「長く曲がりくねった道をたくさん歩いて来たね。 西田、まださようならは言えない。 ・・・僕の胸の中でさようならの言葉が、こんなに重くてこんなに残酷な言葉だったんだね。 今知りました。 西やんの肉体に思わず叫んだ。 「西田、日本一」 ・・・  西田年行は喜怒哀楽が服を着たそんなような人間です。 半世紀僕は貴方と生きてきました。 思い出と共に生きていきます。  だからさようならという事はちょっと待ってください。」 











2025年2月8日土曜日

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む 

万葉集は現存する最古の歌集で、天皇から庶民まで幅広いい詠み人の歌のおよそ4500首が納められています。 佐々木さんは万葉集に納められた歌を現代の若者たちが使う言葉を使って訳し「愛するよりも愛されたい」 「太子の少年」というタイトルで出版、これが面白いと共感すると口コミでひろがり、発行部数20万部を超える異例のヒットになりました。

右のページに佐々木さんの訳の万葉集の現代版、左のページにオリジナルの歌が書いて注釈がある。 

大伴坂上郎女が恋人の官僚の藤原麿に宛てた歌。

「来(こ)むといふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じといふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じといふものを」

佐々木良 訳

「くんのかいこんのかいくんのこんのいやこんのかい」

プロポーズしてくれるのかくれないのかやきもきした歌ですが。頭で韻を振っているのでいかしたかった。 SNSなどで、令和の言葉は短い。 面白いと思った90首ぐらいを一冊に納めました。 

ますらおや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」 舎人皇子

佐々木良 訳

「イケメンの俺が 片思いなんかするかよ て言ってたけど したわwww」

「愛するよりも愛されたい」が17万部、「太子の少年」は6万部です。 

大阪出身の39歳、京都精華大学で油絵を専攻、卒業後は香川県の美術館で働く。 絵から文章に目覚めました。 手島の美術館設立プロジェクトに参加しました。 万葉集に行きつきました。

最初は500部作って、結婚式の引き出物として配っていましたが、面白いという事で20万部にもなって吃驚しています。  万葉集が出来た時代、当時は奈良弁が標準語だったので奈良弁にしました。 

白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは」 柿本人麻呂

佐々木良 訳

「無数の星で姿が見えなくなっても全集中で君のほうを見てるからね ほなね 織姫」

次は佐々木良 訳を最初に記載。

「いつでも心に愛はあんにゃけど今日は特に気合いはいってんで 仕事終わったら秒で合コンにゆく はっしゅたぐ(#)彼氏ほしい  #恋したい」

元歌

いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋はすべなし」  作者不明


「奈良市内はいろいろ行きやすいけど 市街はどっち行ったらええかわからへん だって地図だらけやもん #奈良 #地図記号卍しかない #マジ卍」

元歌

あをによし奈良の大路は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり」 中臣宅守

元歌

我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ」 大伴家持

佐々木良 訳

「待ちに待った雨が降ってきた 今年は絶対豊作になる 皆が幸せになる」


 











2025年2月7日金曜日

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年 

横浜市保土ヶ谷に英連邦墓地があります。 ここには戦時中シンガポールや香港などで日本軍の捕虜になって日本に送られ、命を落とした英連邦の捕虜など1800人余りが眠っています。 墓地では平和を願う日本人の呼びかけで戦後50年の1994から毎年英連邦捕虜追悼礼拝が行われています。 なぜ追悼礼拝が始まったのか、 追悼礼拝の背景にはどのような経緯があったのか、「平和と和解 横浜追悼礼拝の30年」という事で英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会代表の奥津隆雄さんに伺いました。 

今年31回目になります。  英連邦墓地は日本人に知らない負の遺産ではないかと思います。  日本に連れてこられた方は約3万6000人と言われています。 そのうちの約1割が日本で亡くなられたと言われています。  日本には捕虜収容所が約130か所あったと言われています。  英連邦墓地には約1800人が埋葬されています。 追悼礼拝の呼びかけ人は3名いました。 永瀬隆さん(元日本陸軍通訳)斎藤和明先生(国際基督教大学名誉教授)雨宮剛先生(青山学院大学名誉教授)が呼びかけ人となり始めました。 

永瀬隆さんはタイに通訳として送られましたが、泰緬鉄道建設現場でした。 捕虜とタイ人が使われて多くの方々が亡くなられました。 捕虜の虐待の場面に出くわしました。 戦後墓地探索に通訳として同行する経験がありました。 遺骨が沢山出てきて、日本軍はこんなことをしていたのかという思いから、日本に帰ってきてから慰霊をしなければいけないと思ったそうです。  捕虜の方は6万何千人と言われています。 そのうち1万3000人が亡くなったと言われています。 アジア人労務者は25万人以上の方々が動員され、数万人が亡くなられたと言われています。 その鉄道は「死の鉄道」と呼ばれ枕木一本一人亡くなったという事で、日本に対する嫌悪感を長く持っていた。 捕虜に対する扱いが、非人道的、人間としては見ていなかった。  熱帯病の蔓延する場所であったにも関わらず、薬もほとんどない、食料も乏しい、加えて重労働、虐待があった。 

1944年8月5日オーストラリアのカウラで日本人の捕虜の方たちが一斉蜂起して脱走を試みる。  捕虜になって生き延びるぐらいだったら死んでしまえ、というような軍の教育で、脱走を試みた カウラ事件です。 永瀬さんがカウラに訪問した時期があったようです。 戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、オーストラリアの帰還兵の方が中心になって新たに日本兵の立派な墓地をオーストラリア戦没者墓地の隣接地に作って、日本公園も設置、桜並木も作った。 カウラ市民1万人が一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。 それを知った永瀬さんは、保土ヶ谷には英連邦戦没者墓地があるので、追悼行事を始めようと戦後50年を機に始めたというのがきっかけになります。斎藤和明先生は2008年、永瀬隆さんは2011年、雨宮剛先生、関田先生も亡くなられています。 

1987年青山学院大学に入学した後、英語の先生が雨宮剛先生でした。 授業ではよくフィリピンの話をされて、貧困の問題、戦争の傷跡、国際協力などのことについて話していました。 先生の話に惹かれ、先生との交流が深まって行きました。  先生からアメリカに留学しないかという事と、フィリピンに行ってくれないかという事を言われました。 生の体験から学んでほしいという事でした。  アメリカではキリスト教の信仰を持つようになって、クリスチャンになり牧師の道を進みました。  フィリピンには1989年に行きました。 今日本人として生きているのはどういう意味があるのか、という事を深く考えさせられました。 雨宮先生から追悼礼拝のことを知ってかかわる様になりました。 アメリカではいろいろな人とのいい出会い、いい交流がありました。 

以前、エリザベス女王、ダイアナ妃、王族、首相も日本に来ると墓参に訪れます。  2007年7月、雨宮先生と追悼礼拝の下澪に来ていた時に、アルバート・ベイリーさんという方の墓碑(26歳で亡くなる)に刻まれた言葉にグッときました。 どんなに家族に会いたかったのだろうと思たら、涙がこみ上げてきました。  そこにアルバート・ベイリーさんの甥の方が見えて吃驚しました。 話をしてその年の追悼礼拝に来てくださいました。  

平和を継承するというのは地道な作業の積み重ねだと思います。 追悼礼拝の参加者は200名ぐらいですが、地元の高校生が先生と共に参加してもらっています。 去年は岩手県釜石市から中学の先生と高校生2名が参加して頂きました。 釜石では軍需産業があるという事で艦砲射撃を受けたという歴史があります。 連合軍捕虜収容所も攻撃を受けて32名の捕虜の方が亡くなっています。 

永瀬隆さんは「英連邦墓地はかけがえのない宝物だ。日本と各国の親善と平和を繋ぐ太いロープだ。」と書いています。  雨宮剛さんは「この墓地を訪れ瞑想してほしい。 これに勝る歴史の教科書はない。 日本人の良心の発信地として100年後も継続することを夢見る。」と書いています。 関田先生は「武力による平和ではなく、愛と共生の社会を作ることによる平和を作って欲しい。」と、斎藤先生は追悼礼拝の趣旨文を書いた先生で、書いた数日後に亡くなられているので、これは斎藤先生からの遺言になっています。 「平和を作り出すことは困難だが、困難だからこそ私たちの考えや行為が平和を作り出しことへ向けられるべきです。」とおっしゃっています。

継承は愛のある人間関係の広がりによって行われるんだと思います。 






















2025年2月6日木曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 後編

 母親は戦前は芸者で小唄・端唄の師匠で三味線などの芸を身に付けていました。 子供の頃はよく民謡等を歌っていました。 

*「アキラのダンチョネ節」 作詞:西沢爽 作曲:遠藤実 歌:小林旭

役者は台本があり、作られた世界の中で台本通りにしゃべってそれに感性を乗せて、それなりの世界を演じないといけないという役目があるけれど、歌の場合は書かれたものにメロディーがついて、メロディーという隙間の間でもって出てくる言葉は自分なりに解釈が付くから、全然世界が違う。 歌の場合には一つの言葉についても自分の解釈の中で表現の仕方が変って来る。  制約されないから歌の世界は八方破れで、とっても気持ちがいい。 芝居の方は制約されるだけに、堅苦しいところがあり、やりにくいところはやりにくいところがあります。

ひばりが持っていた歌の世界は裕ちゃんと同じようなオーラを持っていて、歌が始まった時の世界は360度どこから何を突っついてもゆとりばっかりの大変な世界です。 別の道を歩むようになって偶然福岡で再会しました。  「何故待っていてくれなかったのか」と言われましたが、よく判らないが考えると思い当たることはいっぱいあります。 一緒にいたかったという事はあるのかも知れません。 美空ひばりという人の周りの連中が、一人の歌手美空ひばりとして取り扱っゆく世界が別個にあったのが良くなかったんじゃないかな。   人間加藤和江という中で、美空ひばりという世界に溶け込まずにいる部分でもって生活する別の路線があれば、小林旭とも上手く行っていたかもしれない。 

1967年(昭和42年)には女優青山京子と再婚。 長女の真実と長男の一路の二子に恵まれる。 青山京子さんは回顧録のなかで、家庭での素顔について、「スクリーンのうえでは華々しく観られる小林旭はその実仕事を離れると孤独な一面がございます。 内気でもございます。 その人の好さのためから、弱さを女の強い一本芯、そっと目立たない程度に末永く支えることが出来たと思っております。」と述べています。  莫大な負債を抱えている時も支えていきました。 何十億という負債を平気な顔をして後ろで計算していてくれた。 大変で凄かったと思う。 

歌の仕事があって小林旭は助かったと思います。 借金の返済が出来た。

昔の名前で出ています」  作詞:星野哲郎 作曲:叶弦大 歌:小林旭

昔はスターが頂点にいて、憧れがあった。 今は平べったくなってしまって、憧れというものがない。 それだけ世の中がつまらなくなってきている。  

オンラインだけで学ぶサイバー大学に入って4年間ITなどを勉強して卒業しました。 パソコンをやるうえで必要なことは学べたけれど、どこにどう活用できるかというと、ただ自分で楽しむだけになっちゃっています。  ユーチューブを開設する。 ユーチューバーでお金が儲かるみたいなバカげた世界になってきて、ユーチューブは今はピンとこない。 

熱き心に」 雄大な歌です。 1年ぐらいは歌を掌握できなかった。 或る時歌っている時にピリッと掌握しました。 

*「熱き心に」  作詞:阿久悠 作曲:大瀧詠一 歌:小林旭

86歳になりますが、言われるままに好き勝手なことをバリバリやってきて、よくやってきたと思います。 来年は芸能活動70周年になります。  ここまで来られたことがとっても不思議です。 目に見えない多数の力に対して、責任感は感じます。 やれるうちはやろうと思います。















2025年2月5日水曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編 

小林旭さんは1938年東京生まれ。  1956年映画デビューし、マイトガイの愛称で国民的スターとなりました。 歌手としても多くのヒット曲があります。 映画の黄金時代を中心に伺います。 

マイトガイは死なず 小林旭回顧録」を昨年出版。 すべての歯車が良好に回っていた時期で、何をやっても許されると言う様な感覚を持つぐらいに大事にされた時代です。 昭和36年にアメリカに行きましたが、そのころはまだあまり海外に行くことは盛んではありませんでした。 日活に入ったのが昭和30年、デビューが昭和31年。 川島雄三監督映画『飢える魂』で正式にデビュー。  1959年(昭和34年)、映画『南国土佐を後にして』がヒットし、石原裕次郎と並ぶ日活を代表するスターとなる。  シーンを撮るのにも奇跡的なことが映画の中に仕事中の最中にありました。  アクションでもギリギリのところで上手くいっていました。 

昭和36,37,38年ぐらいまでの、ひばりが結婚を申し込んできてごちゃごちゃいう様なことが起きるまでの3,4年の間はやりたい放題やってはしゃぎまわっていました。  すべてついていました。 その後「渡り鳥シリーズ」、「流れ者シリーズ」など沢山あります。 石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。 毎月1~2本撮っていました。  1本撮るのに2週間ぐらいでめちゃくちゃでした。 当時は興行成績で会社の株価が上がったり下がったしました。 映画が産業と言われた時代でした。 ですからアクション一つでもいい加減なことはやらないと、仕事で死んだら本望だとそういった責任感で仕事をしていました。 ビデオでは消せるけれどフィルムの世界は一遍撮ると消えないんだと、厭というほど言われました。 

ジャッキー・チェインは幼少のころから日活の映画をよく観ていたそうです。 その中で小林旭のアクションというのは、とっても面白かったといっていて、小林旭の作品は全作品を観て、アクションが目に焼き付いて、そのアクションを少しでも良く見せようという事をやっていきたくて鍛えて努力した。 だから貴方は俺のアイドルだと彼は言っていました。  会場で「マイ アイドル」と言って飛びついてきましたが、ちょっと照れ臭かった。

石原裕次郎さんは4歳上ですが、錆びたナイフ』で共演することになりましたが、ツーカーの中で兄弟みたいに付き合っていました。 彼は「役者なんていう仕事は男一生の仕事じゃあねえぞ」と言っていましたが、彼は早死したけれど死ぬ間際まで石原軍団を大事にして頑張っていたので、やっぱり男一生の仕事だったんだね。 

銀座で裕ちゃんと飲んで、酔った勢いで京都に行こうと言いう事になり、萬屋錦之助さん、勝新太郎さんと一緒に遊びました。 石原裕次郎という人は稀代のスターですよ。 何ともいえない人間の魅力、でかさは皆さんお持ちではなかったですね。 360度どこから突っついても隙がなくふんわりと受け止めてくれるゆとりがあった。   

歌手デビュー第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名されることになる.。 宍戸ジョーにはエースのジョーと付けることになりました。 ○○ガイというのではなかったので不貞腐れてはいました。 ○○ガイとつけて売り出したかった時代の産物です。  ダイアモンドラインと称していましたが、そこが崩れて新しく赤木圭一郎、和田浩治を加えて新しいダイアモンドラインを作りましたが、中途半端に終わってしまいました。 

アクションがあり正義が勝ち、悪が滅びてというような単純な映画を作るものは今はないです。 












2025年2月4日火曜日

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

 若竹さんは岩手県遠野市出身。(70歳)  63歳にして小説「おらおらでひとりいぐも」で作家デビュー、2017年に文芸賞を最年長で受賞し、翌年には芥川賞も受賞、その後映画化もされました。 若竹さんは20代を臨時採用教師としてすごしたのち結婚、現在千葉県に暮らしています。  夫の死をきっかけに長年の夢だった作家を目指し、55歳で小説講座に通いました。 「おらおらでひとりいぐも」は世界で10か国を越える国々で翻訳され、ドイツでは著名な文学賞リベラトゥール賞を受賞しました。  第二作は「かっかどるどるどぅ」でフリーターや高齢女性たちの共同生活を描き、好評を得ました。 昨年秋には初のエッセー集「台所で考えた」を出版しました。  作家デビューから7年、70歳を迎えた若竹さんに、老いや一人暮らし、作品に込めた思いなどを伺いました。 

おらおらでひとりいぐも」ですが、主人公が方言で内面を語るという小説は今までなかったという事で、属性としてある登場人物を語るために方言で語ることはあっても、主人公が方言を言うのはとても珍しいという事で、印象的だったみたいです。 台所で考えた」の最初のところに最初に受賞した文芸賞受賞した言葉が有ります。 「いつかきっと小説を書くのだと子供の頃から思っていました。」と書いてありますが、本当にそうです。 目指すは青春小説とは対極の玄冬小説(老いとか)。 私自身がそういう風に生きていかなくてはいけないと思っていたので、自分を励ます小説を書こうと思っていました。

子供の頃は本は読みましたが、たくさん読んだという風ではありませんでした。 小説家がキラキラした目標でした。  そこそこ幸せではあったが、自分が学んだことを生かしてなくて、家庭で収まているという事が悔しいというい思いはありました。  その想いが63歳まで続いたと思います。  テーマが見つからなかった。 55歳ぐらいで夫が亡くなったり、考えることが一杯あって、判ったことを書くんだと思いました。 夫は急逝したのでショックでした。 想っていることなどをノートに書き記しました。 長男からのすすめをきっかけに、小説講座に通い始めました。(四十九日の翌日) 小説講座には8年通いました。 

おらおらでひとりいぐも」を書いたのは60歳過ぎてからです。 2017年、『おらおらでひとりいぐも』で第54回文藝賞を史上最年長で受賞しました。  夫が亡くなった悲しみもありましたが、自由というものもありました。 私は私の責任で何もかもやってゆくんだと思いました。  私が経験して判ったことが小説のテーマなので、探しているものがやっと見つかったという感じです。  老いは今までの経験を通して、自分が生きることはどういうことかという結果で成案を得る。  

一作目は一人で力強く生きる70代の女性、二作目は人とつながりを求める、分かち合う喜び、助け合う喜び、但し弱者です。  強い女で孤独を良しとしている人間ですが、世のなかにはそうではない人がいっぱいいる。  その人たちが孤独をどう生きるんだろう見たいな、桃子さん(主人公)は内側に向かう人間ですが、それだけではいけないなあと思っていました、後は私の個人的な体験で、100日入院したこともあり、リハビリで老人ホーム的なところもあり、そこでの生活も結構楽しく過ごせました。 皆とわいわいしているのが楽しかったです。  皆で連帯して生きてゆくというような小説を書いてみたかった。

20代を臨時採用教師としてすごし、挫折の時代でした。 非正規の人の気持ちはよくわかります。 (非正規の人が)4割とかで子供がいないというのが少なくなっているのは当たり前ですよね。 世の中は絶対おかしいなと思っています。  

台所で考えた」はエッセー集です。 エッセーを書くという事は好きじゃないです。 小説の方がやりがいがあるような気がします。  感情がこもった文体、語り物の文体が好きです。 私は若い頃は判らないことが一杯ありました。 歳を取って来ると判ることがいっぱいあります。  衰えはあるが、知性、物事の判断、洞察する力は絶対大きくなっている。  人間は経験を通して大きくなるんだと思います。