2018年4月27日金曜日

柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】愉快に今を生きる(1)

柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】柚木沙弥郎(1)
大正11年生まれ、95歳、柚木さんが生み出すもんようが染められた布の作品は日本だけでなく海外でも高く評価されていて、2014年にはフランスの国立ギメ東洋美術館に作品40点が収蔵され、併せて個展も開催されました。
父親が洋画家だった柚木さんは美術史を学ぶために東京大学に入学します。
しかし大学生活は戦争で中断されて、学徒動員、染色の道を志したのは敗戦後でした。
日常の暮らしの中で使われる手仕事の品に美を見出した運動、民芸運動の提唱者柳宗悦の思想に啓発され、染色の道に進みます。
以来70年、型染めの第一人者として製作を続ける一方で70歳を越えてから次々に新しい分野に挑戦を始めます。
絵本、版画、人形、水彩画など新たな表現を目指して意欲的に創作を続けています。

舟、色んな動物たちがならんでいたり、オモチャ、陶器、絵、人形、彫刻などが飾ってありますが、こういったものと、出会った時の思い出があるので、一つ一つ忘れられないパートナーになります。
出会った時にはピピッとお互いに信号を交換するんですね。
それぞれのものには形があるが、どうしても長い間には壊れててしまうことがあるが、そういう中に無くならないもの、物の持っている物語、歴史、生きざまというか、そういうものなんですね。
本質に触れると言う事、それを知る、捕まえる、それを自分がキャッチすることが僕の出会った日本民芸館の初代館長の柳宗悦先生の言わんとすることだと思うんです。
先生の全人格を表しているのが日本民芸館。
生まれた時から今日までの身体の根幹になって今日まで私は仕事をしているわけです。
或る訓練は必要ですが、段々心がけて来るとどんな人にも出来ることだと思います。
それを育てるように努力する、それによってレベルが上がって行くと思います。
日常生活の中で気を付けていると、いままで見あきるほど見ているものの重みを見ていない場合が多いです。
よく見ると何か気が付く訳です。

日本人は多神教で、どんなものにも命があって、生命の無いものにも、自分が愛着を持っていれば自分に対して発信して来るものがあるんです。
物と人間とのやりとり、交信、そういうことが日常にある。
物であるあなたと長く付き合うと言うことで日付けを入れて行く。
物の経験した時間というものを、物が生きているという、そういうことをインドに行った時に感じました。
手仕事は手間暇掛けてしていると言うことです。
時間も同じで、一日をどういうふうに使うか、今日は良かったと思う日もあるし無駄に一日過ごしたということがあるかもしれないが、時間に捉われない生活というのは今の日本では無理です。
それでもそういうことを心掛ければ出来るのではないかと思う。
勤めを辞めてからの時間が長くなってきているので、その使い方はやろうと思えばできると思う。
自分が主体にならないと駄目。
面白いと思うものを見付けること、出来たらそれを自分から発信する、こういうことをやっているぞ、こういうことに興味を持っていると。

2007年(85歳の頃)にパリで展覧会をやっている時に、今あなたは何に興味を持っているのか、今何をしているのか、どんな仕事をしているのか、と言われた。
学歴とかどういう仕事をしてきたのかとか過去のことを聞かない、今の事を聞いて来る。
柳宗悦先生の言葉に「今よりなきに」という言葉がある。
今というものを大事にするかしないか。
済んでしまった事をとやかく言うのはつまらないと思う。
未来に期待する。
今ヘルパーさんが週に二回、マッサージが来るので、自分だけの時間は日曜、火曜、木曜
の3日間。
本当に考えるのは夜明けで、良い考えが浮かびます。(ノイズが入らない)
5月に民芸館で講演会を行うが、どういう内容を喋るかなどを考えたりします。
無駄な事を省いていくと本当のことだけがいえると思います。
かっこ悪いのが嫌で、かっこ悪いというのは言いわけをしたり、前置きをしたり、挨拶が多くて早く本当のことだけを言ってほしいと思う、じれったくなる。

かっこいいものは今生きているものだなあと感じるんです。
シャープで要らないものをとってしまって、飛行機などもパンダの絵とか余計なものを描かなくていい。
颯爽としているそういうものでありたい。
生まれは東京田端、大正11年生まれ。
明治では田端は文士が多く居て、大正のころは名残があった。
室生犀星さんは家の前にいらっしゃいました。
田端では芥川龍之介がダントツで、僕の兄弟は芥川比呂志さんだとか子供さん達と遊んでいました。
父も洋画家でした。
僕は絵が好きだったので爆弾三勇士に関する絵を描いて学校に持っていったりしました。
家にフランス製映写機があって、チャップリンが出てきたりしていました。
母親の記憶はあまりなくて父親と一緒に居ることが多くて、色んなものを作ってくれました。
父と一緒に新聞を濡らして糊を使って粘土替わりにして色々作りました。
当時の絵描きは絵以外に手仕事が好きでした。

戦争の時代になり、もうおしまいだと言うか絶望感、捨てバチというか、もうしょうがないという感じでした。
和辻哲郎の「古寺巡礼」という本が当時よく読まれていて、見おさめと思って奈良に旅行に行っています。
ぼくらの時が一番仲間が亡くなっています。
今から思うと消耗品で特攻隊も予科練と予備学生を使う訳です。
その人たちの分まで生きて何かしないとつまらないと思う。
何の為にそういう自分の命を引き変えたかということは説明付きませんね、当時。
復員して24歳で結婚、大原美術館に就職することになる。
食うや食わずの時代で美術など見に来る人はいなかった。
美術館長の武内 潔真 (きよみ)さんは柳宗悦先生を崇拝していて、展覧会などしていて、倉敷の一部では民芸の作家たちの物が行き渡っているくらいでした。
日常のその時代には皆が民芸品を使っていたが、それを美の対象とは思っていなかった。
和紙に大胆な民芸模様を型染めした暦に出会い、染物の作品が綺麗だと模様に感激しました。(芹沢 銈介
戦争後これから何をしようかと思って、民芸に興味を持って、染色に行き合う訳です。
民芸に夢中になっていたので東京に行きたくて、芹沢先生の所に弟子入りします。