2018年4月5日木曜日

鬼頭隆(童話作家)           ・“おじん”が紡ぐ物語

鬼頭隆(童話作家)           ・“おじん”が紡ぐ物語
67歳、元々印刷業を営んでいましたが、子供の誕生日に何を贈ろうかと考えていたときに心の中に童話が浮かんで話をして聞かせました。
子供達の反応に手ごたえを感じた鬼頭さんは思いきって印刷業から童話作家に転進しました。
鬼頭さんに子供達がつけた愛称は「おじん」です。
鬼頭さんが紡いだ物語はこれまでに1000編以上にのぼります。
自宅で子供たちに童話を読み聞かせていましたが、小中学校に招かれて朗読することも多くなり、この30年間で1200校余りの学校を訪れてきました。
童話作家としての歩みを初め、物語を通して子供たちに伝えてきたメッセージについて、うかがいました。

当時毎朝6時半から子供達とソフトボールをして遊んでいました。
その時についたあだ名が「おじん」でした。
しかしその時の年齢は32歳でした。
小学校3年生の時に、担任の林先生が家に来ないかと云われていったときに、おまえは自分のことしか考えていない、お前がもっと友達の事を考えたら先生はもっと好きになれる、いい奴になれるのにと言われていた。
童話を書きだしたときに、ふっと先生の事を思い出して、先輩からもう先生は亡くなったが、先生が先輩と会うと鬼頭はどうしているといつも気にしていて、自分は教師として誰一人子供を救えなかったと云う思いがあり、先生は定年後懺悔の気持ちから木彫を彫っていたということを先輩から聞きました。
童話を書いていることを先生に知らせたかったと思いました。
「6年4組高島学級」という童話の高島学級と云うのは林先生、母親とかがが投影された作品です。
作品の母親ほど酷くはないが、自分の母親は物心付いた時には生むんじゃなかったとよく言っていました。
どうしてそう言っているのか判らなかった、いまだに判りませんが仕方ありません。

若い時にノートに詩を書いていました。
コピーライターになりたった。
印刷会社に入って営業に配属されました。
しばらくしてから独立をしました。
何をやってもむなしかった、やり甲斐を感じられなかった。
働く意欲が持てないでいた時に、転機がおとずれました。(32歳)
息子が5歳の誕生日を迎えると言うことで、今まで何を買ってきたんだろうと思っておもちゃ箱を見たら壊れていて埃だらけになっていて、怒ろうとした瞬間に、そうさせたのは自分ではないか、心ないプレゼントを与えてたと思って、自分の納得するものをと思って探したが、見当たらなかった。
本のコーナーの所に行って童話を長い間読んでしたら、一つの童話が思い浮かんだ。
家に帰って話をし出したら息子も姉も泣きだした。
翌日に娘が友達を連れて来て同じ様に話をしたらやはり同様に泣きました。
大人よりも子供ってすごいと思いました。
お金じゃないんだ、物語で泣くんだと思いました。
毎日毎日童話を読み、子供と付き合わなければ損だと思いました。
「健太と次郎」?という物語で可愛がっていた犬が死んでしまってお墓に埋めるが、おばあちゃんに星になっているのかなあと聞くとお墓の中で骨だけになっている、という。
次郎は土になって行く、お墓の所にタンポポが咲いているが次郎が咲かせたものなので、次郎は死んでも生きている、と云うような話です。

童話を書いていこうという事が強かったです。
新しい物語を書いてゆくとそのうちに、ご飯を食べることも忘れて夢中になって書いていました。
創作して入りこんでゆくことが楽しかったです。
書く時間が多くて、印刷の仕事はおろそかになり、仕事が無くなって来て収入ゼロになってしまいました。
或る時童話とはなんだという疑問にぶつかって、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」の中のサソリの星と云う所に、自分の命を人に与えたら人が一日生き延びられる、自分が死んでゆく時には何の役に立たず死んでいってしまう、そういうことを書いてあってそれが衝撃でした。
「人の為に」それは林先生の言葉ではないか、「誰かの為に」林先生は言っていたな、自分は何もしていない。
生きると言うことは人の為ではなく自分の為にと思っていたのに、人の為にやっている人がいる。
宮澤賢治はどうせ作家だから童話と違って実生活はちゃらんぽらんに生きていたんだろうと思っていたが、調べて行ってみると、自分の生き方が童話と詩になった人と云うことを知った時には衝撃的でした。

宮澤賢治の本を全部読み終わって、探したら宮澤清六さんの「兄のトランク」という伝記が有って、それを泣きながら読みました。
御礼を言いたくて手紙には「とにかく感動しました、僕はこれで何とか生きていけます」と書いて返事は結構ですと書きました。
3年後の元旦に宮澤清六と書いた年賀状がきました。
そのお礼に手紙を書きましたら、遊びに来るようにと云う手紙をもらって、伺うとにしました。
家に伺った時に清六さんは妻に頭を下げて「この人を助けて下さい」と言って、「この国では童話で生きてゆくことは難しいのであなたが助けてあげてください、家では僕も姉も両親もみんなが賢治を助けてきましたから」といってくださいました。
私は金も稼がず子供を集めて暢気なもんだと周りからずーっと言われてきましたから、88歳の清六さんからまさか助けてあげて下さいと言われるとは思いませんでした。
その場に泣き崩れました。
「鬼頭さん童話で有名になろうとかお金儲けするとか、思わないでください。
童話を書いて行くことでお金になったり、本になったりすることはかまわないが金儲けにするため有名になる為にするということは駄目です。
賢治もそうしましたから」と云われ声をあげて泣いたのはその時だけでした。
どんなことが有っても童話だけを書いてゆくと、その帰り道に妻に言いました。

童話の内容としては子供達の置かれた環境の中から自分の体験とドッキングさせたものです、そういう形で書いていきました。
当時毎朝6時半から30~50人集まってきた子供達とソフトボールをして遊んでいました。
色々な子供達がいました。
両親ががんで亡くなっている子供、お母さんが男をとっかえひっかえしている子、朝帰りのお母さんの子、父親が家を出て行ってしまっている子、両親がいるのに寂しそうな子、恵まれた子供もいるし、そういった子が皆一緒です。
求めてるのはソフトボールをやりながら笑うことです。
その子を励まそうと思うと童話が浮かんできます。
1200位は書いてきました。
自分が子供の頃の寂しい状況を無くしたいと思って、寂しそうにしている子には大丈夫と云って励まします。

最後は希望の持てる展開になるような内容になっています。
希望を掴むことは自由ですから。
最初は朗読はしていませんでしたが、小中学校、高校などから頼まれて朗読会を行ってきましたが1000校以上回っていると思います。
体育館でやりますが、暗くしてありますが、子供達の心の眼が段々向いて来るような感じがしてくるのが判ります。
娘と一緒に行きますが、ピアノを担当してくれていて、伴奏のもとに童話を語っていきす。
娘がやってくれているのでピアノの事を気にせず子供たちに全力投球できます。
書き始めたころの作品もそのままになっているので、古い作品を今の感性で書きなおしたいと思ってやり始めています。
書きなおしたものは作品も長くなってくるし、内容も深くなります。