2018年4月2日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】女義太夫 豊竹呂昇と竹本綾之助

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年 明治の群像】女義太夫 豊竹呂昇竹本綾之助
講談師 神田蘭
明治の文豪たちがはまって通い続けた。
現代は女流義太夫と云われている。

義太夫
江戸時代に前期は文化の中心は上方で、竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種だった。
浄瑠璃は三味線を伴奏として大夫が言葉で語る、音曲で劇場音楽。
口演は謡うと言うふうに言わないで語るもの。
浄瑠璃には色々あって○○節と言われて、義太夫は義太夫節と言われて、浄瑠璃の一種。
現在は義太夫節河東節一中節常磐津節富本節清元節新内節宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。
人形浄瑠璃が基本だと思う。
女性の義太夫の活躍の場所は寄席だった。
声帯も違うので、女性だからできるという語り。
女性がやるのは素浄瑠璃だった。
落語の「寝床」で義太夫を披露するものがあるが。

女義太夫の講談による紹介
江戸時代の文化文政時代に寄席などで披露していた。
天保の改革で女芸人禁止令が出来て、寄席に出られなくなり、すたれていった。
明治10年、寄席取締規則により、女芸人が法的に認められるようになる。
女義太夫が一ジャンルとして、隆盛を極めて行く。
歌舞伎と人気を二分していた。
明治33年東京だけでも女義太夫は700人を越えていた。
パフォーマンスにあったと言われる。
若い女性が客席に向かって微笑みかけて、佳境に入って来ると頬を紅潮させ髪を振り乱し(ちょっとエロティック)、袖をめくって二の腕をだして、クライマックスになると、かんざしを客席に落とすという、「かんざし落とし」のパフォーマンスで観客を沸かしていた。
誰が拾うのかということで客席も沸いた。
はやし立てるお客様は学生、書生がほとんどだった。(追っかけが有ったと言われる)
夏目漱石、高浜虚子、志賀直哉などそれぞれにひいきにしている娘義太夫がいたと言われる。

当時2大スターと云われるのが、豊竹呂昇と竹本綾之助。
竹本綾之助は明治8年大阪で生まれる。
母は義太夫の三味線方で幼少から義太夫の芸を仕込まれ、11歳の頃上京、浅草の寄席で男のようにちょん髷姿で登場、名をあげて行く。(容姿端麗で且つ美声)
豊竹呂昇は明治7年名古屋に生まれる。
13歳で仲路と名乗り17歳で結婚、離婚を機に大阪に出て、1892年(明治25年)(18歳)、大阪の初代豊竹呂太夫の門へ移って『呂昇』と改名した。
呂昇は一人で三味線を弾いて、語ると言うことを行った。(弾き語りという斬新なスタイル)
絶大な人気があった。

文政8年の時に江戸では寄席が130軒あった。
天保の改革前211軒、天保の改革後、女義太夫は寄席に出られなくなった。
女義太夫ではイタリアのオペラ 狂乱の場があるがそれと通じるものがある。
「知られざる芸能史、娘義太夫」という本の中には
夏目漱石、「小川亭の鶴蝶」という娘義太夫を気にいる、と書いている。
高浜虚子、「竹本 小土佐 」に入れ込む。
自伝的小説『俳諧師』の中にでてくる主人公は「小光」に入れ込むが「小土佐」がモデルになっている。
志賀直哉、明治34年 「豊竹昇菊」、「豊竹昇之助」姉妹の義太夫が大坂から上京、志賀直哉は「豊竹昇之助」にのめり込むことが日記にも描かれている。

*豊竹呂昇の義太夫 「野崎村の段」

明治33年に学生が娘義太夫を聞きに寄席に出入りするのを差しとめる禁止令が発令された。
明治後半になると歌がはやり始めて、娘義太夫も陰りが出てくる。