ジュディ・オング(歌手・女優) ・【わが心の人】ペギー葉山
ペギー葉山さん、昭和8年東京生まれ、青山学院女子高等部在学中から進駐軍のキャンプで歌い始め昭和27年「ドミノ」でレコードデビュー、昭和34年には「南国土佐を後にして」で大ヒット、歌謡界での人気を不動のものにしました。
又ミュージカルや司会などでも活躍し、更に「ドレミの歌」を自ら訳して歌い広く紹介しています。
2007年からは女性で初めての日本歌手協会の会長も努めました。
昨年4月12日亡くなられました。83歳でした。
元気な姿を見てから台湾に行ったんですが、悲しい知らせでした。
オシドリ夫婦と言われた夫の根上淳さんが2005年に亡くなられました。
ご夫婦は子役としてのジュディー・オングを見ていて下さった。
私はその後17歳になった時に歌手としてレコードを初めて出しました。
父が仕事で台湾からGHQの仕事できて、ラジオ局のチーフを勤めました。
小さい時は寝る時にジャズを選択していたので聞きながら寝ました。
ペギーさんの声にはあこがれました。
TV番組でペギーさんとはNHKの「ザッツミュージック」と云う番組で長い時間ご一緒しました。
その時になんと素敵な方だと思いました。
その時に歌の事、声の出し方など細やかにアドバイスして貰いました。
ペギーさんがルイ・アームストロングに会いに行った時に、赤い振袖を着て行って、黒のドレスの上にそれを肩からパーっと長く付けて凄くかっこ良かったです。
舞台に立った時に後光が射すように姿勢がぴしっとしていました。
言葉も綺麗であこがれの女性です。
ペギーさんに大切にしていただいたということを感じたのは、お葬式の時に一度も会ったことの無い御子息が走って来て、「僕はジュディーさんに会いたかった、いつも話にでていたから」と言われて泣いてしまいました。
根上淳さんは先生のような存在で歴史を面白おかしく、話してくれました。
私は台湾から2歳の時に日本に来ました。
劇団に入って子役としてTV、映画などに出ました。
1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。
のちNHKのテレビドラマ『明日の家族』を2年位続きました。
ペギーさんは細やかで人を大切にして、品も良くて教わることは多かったです。
「出番の前は早く袖にいなさい」ということはよく言われました。
気合いを入れて舞台に立つ直前の姿までが大切である、という事をよく言われました。
常に上を目指していて、「努力をしないと後ろに下がってしまうので、努力をして初めて維持する」、とおしゃっていました。
ペギーさんは新しいことにも貪欲でした。
ドレミの歌も、ニューヨークに行ってブロードウェーで見て大感動して帰って来て、日本の子供たちに是非歌ってほしいという思いからホテルで書いたと言っていました。
ミュージカル、舞台、お芝居、なんでも自分の世界にしてしまうような方でした。
ペギーさんの「ケセラセラ」が好きで、今回シンガポールのレコーディングで「ケセラセラ」を入れました。
一つ一つ曲への思い出を書いたんですが、それにはペギーさんの事を書きました。
「魅せられて」 扇が広がるようなドレス、私自身でデザインしました。
エーゲ海を映したかったが、映像が間に合わなくて、後ろからライトを当てたらいいんじゃないかということで、結構いいじゃないかということで定番になってしまいました。
紅白でもっと大きいドレスにしようと言うことで、手に持って広げて「おーっ」と皆が言って好評でした。
それから大きな衣装が登場するようになりました。
自分の洋服はほとんど自分でデザインしています。(今はチームがしっかりしていますので、スクリーニングに行きます。)
ステージでの衣装は全く自分の手書きのデザインです。
余り横とか後ろは気を使わない事があると思いますが、ペギーさんの後姿の綺麗な事、いつも思っていました。
私は3月21日に「微笑をありがとう」というCDを出しました。
微笑むと言うことは愛に充ち溢れているから微笑む、幸せな気分になる。
版画家としてもやっていて、8月に版画展を名古屋で行います。(版画とスケッチ)
5月に介助犬フェスタがあり3000頭位来て、Tシャツを売って介助犬のサポートにしましょうということで、絵を描いて多くの方に介助犬の事を知っていただきたいと思います。
人生今日が一番若い日、だからこの一瞬一瞬を大事に楽しくということがあります。
絵を描いている時は身体の中が気がバーっと回ってじっとして坐っているという感じではないです、頭がぐるぐる回っています。
台湾は生みの親で日本は育ての親です、どちらも大切です。
生涯現役、身体の細胞を活性化させながら生涯現役を生きたいなあと思います。