2018年4月19日木曜日

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)
自分は決して有名になりたいとは思わなかった。
子供のころは引っ込み思案だった。
作った家はエネルギーをチャージする場所だと思っています。
父親が鹿児島出身で次男坊で、東京の大学の建築科を卒業して、中央区役所で働いていました。
母は長野県の上田で代々質屋をやっていた家で次女として生まれて、銀座のOLになって、父と出会って結婚しました。
都営住宅に住んでいました。
庭が広くて、二人とも園芸が大好きで、日曜園芸をやっていました。
父はゆくゆくは鹿児島に帰るつもりでいた様です。
父は都市計画を担当していて付け届けがあったが、硬物ですべて断っていました。
預金をする訳ではなかったので食べ物、エンゲル係数は高かったです。
「趣味の園芸」、「婦人百科」の番組がありテキストを買って勉強していましたが、月に一回生け花があり、今までは花を作ることが専門だったが、生け花と出会ってやってみたいと言うことを強く思うようになって生け花の教室に通うようになりました。(大学2年)

子供のころからスポーツは苦手で、教室で答えを発表することも苦手だった。
薔薇の花が咲いた時に、母を呼んだらその花を切ってしまって、「学校に持って行きなさい」と言われて、教壇の上に一輪ざしで活けてくれて、「綺麗だね」とあちこちから聞こえました。(小学校1年生)
母は家族で花を楽しむのもいいけど、学校の皆が花の美しさを感じてくれることが素敵なことだと教えてくれたんだと思いました。
これが原点になりました。
生け花の教室に通う様になったら本当に面白くて、その後師範になりました。
銀座、神田とかの画廊で展覧会をやっていて時間を作って通うようになりました。
就職したが比較的早く辞めてアルバイトをしていたが、個展をしたいと思うようになってはみたものの、画廊は借りれない。
母に個展をやりたいとポロっといったら、母が100万円出して「これを使いなさい」と渡してくれました。(父はすでに他界していた)
それで個展をやることができました。

父と母のお陰で生け花に巡り会えたし、父と母と云えば園芸、土いじり、土を素材にしてなんかやってみたいと思って、色々アイディアが膨らんで土の作品を作るようになりました。
現代美術の批評家が面白いと注目してくれて、企画展がありお金も出していただいて、色んな人に見ていただき、そのうちに花を教えてほしいということに繋がりました。
空間が自分は好きだったので空間構成を色々手がけて、世界が広がって行きました。
その後自分のスタジオを持つようになりました。
ユニークさが評価されたと思います。
母も他界してしまい、借金をして家を建てました。
私も母も美輪さんが大好きでした。
小劇場で月一回の美輪明宏さんのコンサートがあり、壁に寄りかかって始まるのを待っていた時に「これからは美輪さんのお世話になるんだよ」と云う母の声が聞こえたんです。
それからは足しげく通う様になり、交流が始まりました。
人生色んなことがあるが乗り越えて行くしかないですね。

母は明るくて自分のことよりも人の事を思うような人でした。
私は本当はピアニストになりたかったが、コンサートなどはよく行きました。
園芸、料理、ピアノなど父や母から育ててもらったものだと思って感謝です。
物心ついたころから一般的な男の子とは違っていましたが、虐められるということはなかったです。
虐められるようになったのはお花をやるようになってからです。
新しい事を発表しても真似されるんです。
嫉妬心、ねたみなどほっぽらかしておくしかないと美輪さんから教えられました。
見ざる、言わざる、聞かざる、それに関わらざる、これが秘訣といわれましたがつくづくそう思います。
着物は日本の伝統文化なのでもっと気楽に楽しんでもらえた方がいいと思います。
父母は他界しても存在しているような気持です。