2018年4月17日火曜日

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年
昭和30年函館市生まれ、若いころから3回親の介護、(義理の親を含め)初めての介護は大学入試を目指している時期に母親の付き添いの看護をし、母を見送った後、その後、陶芸家、女優など様々な道を目指します。
その後夫と出会って26歳で結婚、子育て、夫の母親の介護を次に経験、その母を見送ってその後出会ったのが講談で、33歳で講談師田辺一鶴に弟子入りします。
3度目の介護は夫の父親の介護でした。
認知症と寝たきりの父親の自宅の介護、ストレスがたまって家族が崩壊するのではないかという危機を迎えたそうですが、介護の仕方に工夫を凝らして危機を乗り越えたそうです。
その自分の介護の経験が介護で悩んでいる人に役に立てばということで、思い付いたのが現在田辺さんが行っている介護講談です。

今は女性の講談師が増えていて1/3が女性になりました。
やる気のある優秀な女性が多いです。
母親がうっとうしくて逃れたくて東京の大学を受験しましたが、いずれも落ちてしまって予備校に通っていたころに、母に脳腫瘍があるのではないかということで、記憶をつかさどる所に障害が出て、認知症に近い症状でした。
母は美人でおしゃれだったが、病気になって母に対してつっけんどんでした。
手術したところ、脳動脈瘤で近いうちにその手術をしようということだったが、その夜脳圧が上がって痙攣を起こして、緊急手術になりました。
脳が痙攣を起こしてしまって脳がぐしゃぐしゃになり意識の回復がありません、と云われました。
医学が進歩して何年でも生きられると言われました。
母に暴言を吐いたことが罰があたったんだと思って一生懸命看病しようと思いました。
半年、1年と続くうちに孝行はどこかにふっ飛んでしまって、自分だけどうしてこんな目に会うんだろうと思いました。
母の介護が地獄のようで、いやいや介護をしていました。

母は4年ほどで亡くなりました。
好きなことができる自由になり、絵描きだとか女優になりたいと思っていました。
本屋で「マンハッタン自殺未遂常習犯」草野弥生さんという本に目が留まりました。
難解な文章で、この人に逢いたいと思いました。
電話をして会いに行きました。
函館弁で喋って見てといわれてかっこ悪くて話せなくて、荒井由美さんの歌を歌ったりしたら喜んでいました。
草間さんの助手になって、草間さんからあなたの人生を全てを私にかけてと言われて、わたしは自分の花を咲かせたいと思って辞めました。
当時夫は川崎の看護師さんに絵を教えていました。
独身主義ですといわれたが、私は惚れっぽい性格で、プロポーズ大作戦を開始しました。
夫は親友から紹介されましたが、函館の実家の片づけがあり3人で一緒に1週間ほど過ごす機会がありましたが、その時に「1週間もいると情が移るもんだよね」と言ったので、「じゃあいっしょに住みましょう」と言ってしまいました。

夫から言われたのは、おふくろは広島で原爆に遭って腎不全になっていて沢山薬を飲んでいるから、おそらく老後は介護ということになると思うがどうかと言われて、わたしも介護をしますと言いました。
しかし、若い時だったので余り深くは考えていませんでした。
自分はいい人になりたいとの思いがあるので、いい人になりたいと言う介護ということで見返りを期待する。
そうするお腹の中は地獄になる訳です。
間違いは相手に対して病気を治そうとした。
甘いものが好きだったが玄米を食べさせ様とするが、食べたくないということで思い通りにいかない。
ストレスがたまって悶々としました。
或る時ヒステリーの大発作を起こしました。
夫に頭からソースをかけましたが、それを見て大反省しました。
かっこ悪くて仮病を使って寝て夫が介護してくれて、翌朝夫が「所詮他人だものなあ 出来るだけの事をこっちもやるし、おやじにもやらせる」と言いました。
夫の弟も独身で同居していたし、介護もあるし、ストレスがたまりました。
老夫婦は夫が出張で飛び回ったり女性問題等で口もきかない夫婦だったが、あと3年ももたないかもしれない、親爺も罪滅ぼししたらどうかと夫が告げて、それから病院の送り迎え、背中のマッサージを毎晩やりました。
「いまさら何よ」といっていたが、3年後おばあちゃんが亡くなる時は「ありがとう」と言って感謝していました。

表現することをしたかったが、介護をやって来て我慢してやってきて、或る時何か自分の情熱を表現したいと思っていたところ、夢に田辺一鶴がでてきて新聞に道場を開くという記事が出てきて早速行きました。
家でやってみたらストレス発散しました。
私が家でやっていたら子供が直ぐ覚えてしまって、これは凄いということでちびっこ講談師としてデビューしました。
講談師として夫にも了解して貰いましたが、33歳の時でした。
前座から二つ目になり仕事が無くなり、池袋で男の介護教室があり、北欧の介護のビデオを見せられて、プロのヘルパーが快適な環境で介護しているのを見てびっくりしました。
介護講談を依頼されました。
実話を思いだしながら、明るい話を作り上げました。

その後、おじいちゃんが高齢者お見合いの会に入って69回もお見合いしました。
愛人の家で10年ぐらいして、認知症が酷くなり、白内障にもなりました。
大嫌いなおじいちゃんだが、誠実な優しい夫がいるのもおじいちゃんがいたからこそと思って、何か恩返ししないと一生後悔すると思って、明るく楽しい介護をしようと在宅介護をしようと思いました。
脳梗塞をおこして、愛人もお手上げということで、私の大丈夫だという一念から周りも納得しました。
大きな声を出したりするので、外に漏れない工夫をしたり、目薬の購入なども工夫してわざと無いと嘘を言って大急ぎで買ってきたふりをしたりして、献身さをアピールしたりしました。
私の持っている常識とおじいちゃんが考えている世界は違う。
おじいちゃんの世界も間違っていないということに気が付き始めて、おじいちゃんの世界に会わせるようにしました。
おじいちゃんが「たすけてくれー」というと「助けに来たぞ、じじい」というと「おーたすかった」と言って、認知症の世界と私の個性とが凄く合ったんです。

おじいちゃんとの会話の方が面白くなりました。
本音を言うと言うことは大事です。
最初のころは重苦しく疲れてしまってやる気が無くなる様な状態でしたが、段々「ありがとう、お前は天使だよ」というようになり重苦しさが軽くなっていきました。
介護して3年ぐらいすると、あの世と行ったり来たりするような話をしたりしています。
介護で一番大事なのは相手の喜ぶ会話をすることだと思います。
その人の歴史、どの時代一番楽しかったのか、苦労したことなどそういうのを把握しているとその人の満足する話ができる、そうすると介護は楽です。
最初の妻は原爆で亡くなり、2度目の奥さんで夫が生まれ、結婚して娘が生まれたわけです。
誰か一人欠けても生まれてこない、本当に偶然の重なりだと思います。
介護が無かったらおじいちゃんにも興味をもたなかったし、生まれてきたことに感謝して嬉しい楽しい感動を、日々自分のことにして生きていったらぽっくり逝けるかもしれない。
それを決めるのは自分、創意工夫するのは自分です。