2022年12月31日土曜日

矢萩春恵(書家)            ・私の書へのまなざし

矢萩春恵(書家)            ・私の書へのまなざし 

今年の10月には銀座で「まなざし」というテーマで個展を開き、多くの人が訪れ話題になりました。   矢萩さんは昭和3年東京神田生まれ、94歳。  共立女子薬科大学を卒業し、東京大学医学部薬科選科を1年で終了、父の会社の運送業を手伝いながら書道を続けました。 その後かなの町春草さん、漢字の手島右卿さんに師事して、めきめき腕を挙げました。   1974年に初の個展を開き、海外でも個展を開いてきました。   1989年にはハーバード大学で書道を教えるなどワールドワイドで書を表現してきました。

特にこれといった運動はしていませんが、考え方を前向きにとらえようとしています。    今年の10月には銀座で「まなざし」というテーマで個展を開き、作品51点を展示。   全部初出品で、140×40~50cmぐらいのが大きいほうです。  「まなざし」というテーマに合わせて言葉を捜しだすのが、第一の問題ですね。  一文字から四文字熟語、文章などいろいろです。   国、桜、鴎、笑う、急転直下、求める、・・・等々。  10日間毎日会場に行きました。   どう感じていただけるのかとか、張り合いがあります。  

兄弟5人で長女(姉)、長男、(弟)を二人亡くして今3人です。   父が49歳で亡くなりました。(20歳の時)  矢萩家を何とか守って行かなくてはいけないという思いがありました。  長女が亡くなったため、私が一番上です。  運送業の仕事を続けて行かなくてはいけなくて、合間にお花、書を習ったりしました。  共立女子薬科大学を卒業し、東京大学医学部薬科選科を1年で終了しました。(薬学は父の意向でした。)    かなの町春草さん、漢字の手島右卿さんに師事しました。   手島先生はとっても深いものをお持ちでした。   目の付け所、運筆が先生としての風格と気迫に圧倒されました。(23歳ごろ)    先生は無口でここが悪いとか一切言いませんでしたが、目が言っていました。  

線質をしっかり学ばないといけないと思います。   どう違うか、自分自身で会得して行かなければ、書の線というものにぶつからないと思います。   それを感じるのは自分が苦労しないといけない。   美しく書くという事はやっているうちに誰にでも出来ると思いますが、相手に訴えるような線質にならなければいけないと思います。   手島先生から教わった唯一の宝物です。   これは経験しないと判らないものだと思いまう。    

色がなくても美しいと感じてもらえるような豊かな表現ができる様な線質になることが大事だと思います。   それが人によって感じ方が違うと思いますが、だから書は難しいと言えば難しいし、表現はまちまちだと思います。  墨を使うという事は、墨のどういう線でどういう風な薄さにするか、濃さにするかによって、墨の美しさを、墨を主体にして出すかという事だと思います。   紙と墨で書を表現するとすれば、それをどう表現してゆくかという事ですが、書くものは別として、表現の仕方として。  紙などもいろいろ広がって来て、それはアートになってきたと思います。  最初書はアートではなかった。  書の線とか表現方法とか線質、間、とかが本来最も基本的なものですね。  最近はアートも入って来て、変わって来ました。  しかし、書の本質はそういったものではないと思います。  

1964年の東京オリンピックの時に選手村でいろいろな先生と共に、海外の選手の前で書道を披露しました。  選手は驚いていただけでした。   平成元年から3年までハーバード大学で書道の指導をしました。  招いてくれた先生は書に対して興味のある方でした。 

薬学を学びましたが、自然と書道の方に向かっていきました。   臨書と言って昔のものを習うということです。  何故こういう風なものをこうやって表現して、勉強しなければいけないのかという、自分自身の方法をちゃんと見極めてからやりなさいと言っています。 この書を書いてどんな表現をしたらいいのか、線質はどうか、そういう事を見極めなさいと、それを練習によって会得しなさい、良いものを多く見なさい、そういう方法です。 

書の線質をどう感じていただけるか、それの追及をやっていきたい。   思いを表現する、表現の仕方をどうするかという事に繋がってゆくと思います。   美しいという事はどう書いても美しいんだという風に言われてしまえばそうなんですが、本当の美しさというものは一つとか二つとかしかないと思うんです。  そこまで見極められる自分を育てたいと思います。  チャレンジ精神、それだけです。  やっていた方が、生きている甲斐がある。  


2022年12月30日金曜日

星野直子(星野道夫事務所・代表)    ・写真家"星野道夫"の遺したもの

星野直子(星野道夫事務所・代表)    ・写真家"星野道夫"の遺したもの 

写真家の星野道夫さんは、1952年千葉県生まれ。  慶応大学卒業後アラスカ大学野生動物管理学部へ進み、約20年間北極圏を中心に取材しました。   しかし1996年カムチャツカで取材中にヒグマの事故で43歳で亡くなりました。   その間星野さんは多くの写真や著作を残し、1990年に第15回木村伊兵衛写真賞を受賞しています。   星野直子さんは1993年に道夫さんと結婚しましたが3年後26歳の若さで夫を亡くしました。   現在は星野さんの著作物を管理する事務所の代表を務めています。  星野さんに大自然の魅力や星野道夫さんとの思い出など伺います。

道夫さんは生きていれば70歳。  私の家族は家族ぐるみでクリスチャンで、毎週日曜日に教会に通っていました。  その教会の牧師夫妻の奥さんが星野道夫の姉でした。  或る時弟に会ってみませんかと言われて、それが最初の出会いでした。    17歳離れていました。   若くて子供のようなという表現が適切か判りませんが、17歳離れている印象はなかったです。  

「旅をする木」に書かれているが、出会う前、アラスカに根を下ろそうと結婚前には決めていて、家は出来ていました。  「一度アラスカに遊びにおいで」と言われて、星野の姉家族と、母と私で行きました。  結婚式は千葉で行ってアラスカに行きました。      私を紹介する意味でホームパーティーをやりましたが100人近い人々が来ました。    英語がまだできませんでしたが、ゆっくりと話しかけてくれました。   受け入れてもらえる温かい気持ちを実感しました。    結婚した年は撮影現場に一緒に行ってほとんど家には居ませんでした。(夏から秋にかけて)  カリブー(トナカイ)をずーっと春と秋に北極圏に移動する時期に撮影に行っていました。   秋の移動の時に小さな群れが少しづつ北極圏から南の森林地帯に帰ってくるという時でした。   河原にいる時にカリブーの群れが現れ、身をうつ伏せにして様子を見ていました。  カリブーはどんどん近づいてきて私たちを取り囲むようにしながら過ぎていきました。   その光景は忘れられないです。   川をさかのぼるボートを貸してくれた友人がカリブの猟に行って一頭を持ち帰り、ナイフで解体が始まりましたが、解体の仕方がとっても綺麗でした。  一番おいしい心臓をご馳走してくれると言って、火を通してごちそうしてくれましたが、とってもおいしくて、結構寒かったんですが、身体の芯からポカポカ暖かくなってきました。  その時には気が付かなかったが、自分のなかでカリブーの命が自分の命に繋がっていった瞬間だったのかなあと思いました。   忘れられない体験でした。

自分がやろうとすることに対しては星野は忍耐強い人だなあとは思いました。  野生動物や自然は自分が思ったようには撮れなくて、長い長い時間を待ってようやく撮れたり、待っても撮れなかったりという事で撮影を続けてきたんだなあと思ったことと、動物個体ごとに個性があって、どのくらい近づいて気にしないのか、気にするのか、熊の様子を見ながら距離を測って撮影しているという事がありました。   3年後に熊の事故に遭って亡くなってしまいました。  最初は現実として受け止められませんでした。    しばらくしたら帰ってくるんじゃないかというような思いがありました。    息子が1歳8か月でした。   家はそのままあり、今も行き来しています。    

星野道夫事務所を設立したのは2000年になってからです。  慶応大学探検部の大先輩のかたの会社の一部門として、星野記念ライブラリーと言う形で場所を作って下さいました。  2000年までは写真を管理してもらっていました。   2000年12月市川市に星野道夫事務所を立ち上げました。  今息子も27歳になりました。  父の通った大学を息子も選びました。   息子は父親に関しての取材は応じていなかったのですが、或る時知り合いだったという事もありNHKのアラスカへの旅の取材に応じました。(社会人になる前)   父親のことをもっと知りたいという機が熟した時だったのかもしれません。 父親の友人たちからいろいろな話を聞いたことはとっても大きかったと思います。  

北極圏も温暖化が進んできていて、星野が大学生だったころに行ったシシュマレフ村が海に突き出たような位置で、波に削られてしまい、移住せざるを得ないような状況になってしまっている。  実際に移住を始めた別の村もあります。  デナリ国立公園の道路に大きな土砂崩れが発生して道路がクローズしてしまって、飛行機でないと奥に入れないとか、氷河の後退など

星野は地元住民に対する温かいまなざしも持っていました。   著書にも環境保護云々ではなく、環境変化をあるがままを伝えていて、読む方がどう受け止めるかという立場で、そういうスタンスでいたんだなと思います。  

写真展「命の循環」 生誕70年という事で巡回展を地元市川市で行いました。   「悠久の時を旅する」と題して別に巡回展を行っていて、東京都写真美術館が締めくくりとなります。   男性女性、たくさんの方に声をかけて頂き励まされています。  写真、文章を見たりして生きてゆく力を貰いましたというような手紙などもいただきました。   いろいろな被写体を撮りながらその奥にそれぞれの命、命のつながりというものをずーっと見続けて居たのではないかなあと感じます。  本に自然の不思議さ、自分が生きている不思議さ、といったものを書いていますが、それと私たち人類はどこからきてどこに行こうとしているのか、という事をずーっと考えながら旅を続けてきたので、もし本人が元気だったら同じように旅を続けて作品を届け続けたんじゃないかなあと思います。



2022年12月29日木曜日

奥田敦子(すみだ北斎美術館主任学芸員) ・〔私のアート交遊録〕 北斎が見た鬼!

 奥田敦子(すみだ北斎美術館主任学芸員) ・〔私のアート交遊録〕 北斎が見た鬼!

葛飾北斎は1998年アメリカのザライフミレニアムの過去1000年で最も重要な100人にただ一人選ばれた日本人です。  一度見たら忘れられないその表現で人々の心をつかみ、浮世絵という枠を超えて世界の北斎となっています。  すみだ北斎美術館ではその北斎が描いた鬼の作品を集めた北斎百鬼見参展を開き大きな反響を呼びました。   テーマや構図がシンプルで 一度見たら忘れられないその表現で人々の心をつかんできた世界の北斎の魅力についてすみだ北斎美術館主任学芸員の奥田敦子さんに伺いました。

北斎は特徴として二つあって、一つは多種多様な絵を描いている。  北斎は数えで90歳まで生きていて活動期間が70年近くで非常にながい。   風俗画、風景画、古典様々で、神話、物語の大作、北斎漫画というスケッチ集まで幅広く残しています。  江戸時代では50,60代で亡くなる中、90歳まで元気で描いていたというのは凄いです。   男性的で力強いという事が特徴としてあります。   鬼の絵で言うとに西新井大師総持寺さんで10月に開帳をしている弘法大師修法図などかっこいい鬼の姿をしています。  

富嶽 三 十 六 景 「神奈川 沖浪 裏」ですと、大きな波が立ち上がって行って、奥にある富士山に襲い掛かるような非常に迫力のある一瞬を切り取ったような、歌舞伎で言う決まった見栄のポーズのような瞬間を迫力のある一枚の絵として納めています。  一本一本のシャープな線が波の力強さに影響していると思います。  波の一瞬を切り取る目、観察力、能力が凄いです。   北斎漫画に見られるように、意識的にいろいろなものを観ていたんだろうと思います。   

赤富士と言われている凱風快晴」、青い空に赤い富士が描かれているシプルな作品。   時の移りを意識して感じさせる、そういう魅力があります。   富士山が赤く染まるのは夏の終わりから秋の初めにかけて朝日が上がった瞬間に赤富士と呼ばれる現象がある。   時の移ろいを一枚の絵の中に閉じ込めていて、雄大な作品だと思います。  

浮世絵というのは庶民に親しみやすい様な絵を、木版技術にむすび合わせて大量生産してゆくので多くの人が絵を観ることができる。  北斎の絵は一回見たら忘れられないような力強さを持っている。   浮世絵としては脇役的な風景画を一躍メジャーのジャンルに押し上げている。   

北斎は画風を一定させない。  名前も30回ぐらい変えている。  脱皮する、捨ててゆく。  勝川派に所属していたが、早々に辞めてしまって自分で葛飾派を立ち上げて、門人も多く抱えてはいるが、普通師匠を真似るが門人も結構バラバラなことをやっている。   自由さを求めて生きていたところがあると思います。  引っ越しも93回引っ越しています。  江戸時代の有名人の住所録があるが、北斎の場合は住所不定となっている。  連絡を取りたい人は苦労したと思います。   

海外からも評価が非常に高いです。  ザライフという写真誌がありますが、ミレニアムという特集で過去1000年で最も有名な100人を選ぶという中で、日本人で唯一北斎が選ばれました。  北斎の絵がジャポニズム全盛の時代にパリ、ヨーロッパに渡っていて、フランス後期印象派の画家たちが影響を受けています。   海外から一番評価される作品と言うと富嶽 三 十 六 景 「神奈川 沖浪 裏」で、作曲家ドビュッシーが有名な交響詩「海」を作っているが、その表紙に成ったり、形を変えて彫刻作品、絵とかにも影響を与えています。  

今年6月に「北斎百鬼見参展」が開催される。  北斎は異例なぐらい鬼の絵を描いていて、北斎を通して日本人の鬼観を見てゆくとともに、鬼によって北斎の魅力が再発見できるのではないかと思って企画しました。   『釈迦御一代記図会』 本の形の浮世絵がありますが、お釈迦様の生涯をたどるというような内容ですが、お釈迦様の一族を皆殺しにするという悪い坊さんが出てきますが、鬼の形態をした雷が破壊するという一図があります。  男性的で角はないが一目で鬼と判る迫力があり、展覧会のポスターにもこの図柄を使っています。  右側に渦巻きが描かれていて、破棄されてゆく様子が描かれている。 北斎が一時期琳派にいた時もあり、俵屋宗達の「風神雷神」がありますが、作品そのものではなくても何らかの作品は目にしたとは思います。  

女性の鬼も描いています。   北斎の肉筆画の掛け軸「道成寺図」 伝説では自分を捨てた男を追って毒蛇となった女が、寺の鐘に隠れた男を焼き殺します。 北斎は能の舞台そのもののように描いています。  シテ柱に絡みついて、僧侶たちの念仏と争いながら苦しんでいる姿が描かれている。   鬼の面ではなく顔が生き生きとした鬼の形相になっている。   

ユーモラスな鬼も描いている。  「念仏鬼図」 僧の衣をまとった赤鬼が美しい女性の描かれた絵を恥ずかしそうに眺めている絵です。   煩悩を捨てようとするが、煩悩を象徴する美しい藤娘の絵姿をみて、やっぱりいいねと顔を赤らめている様な感じです。 

「豆まきをする金太郎」という作品。  北斎が20代で描いた版画の作品。  鬼が豆を拾って食べている。  親しみのあるかわいらしい鬼を描いている。   

北斎が亡くなる時に「あと10年、5年生きながらえることが出来れば真の絵描きに成れたのに。」いい続けた北斎の絵に対する執念、いろんなものを描きたかったという事が鬼一つとってみても感じられると思います。  

私は絵を描くことも好きでしたし、親によく博物館などにも連れて行ってもらいました。   俵屋宗達の風神雷神を見ていいなあと思いました。(幼稚園か小学生のころ)  すみだ北斎美術館が出来る準備段階から携わることが出来ました。  いい経験になりました。    浮世絵は色が退色しやすいので、照明の配置なども考えないといけない。  絵が細かいのでお客さんが見やすいようにケースの奥行なども考えないといけない。  保存と公開の難しさはあります。  北斎の観察力、オリジナリティーなど興味が尽きないです。  今興味を持っているお薦めの一点は、諸国名橋奇覧 足利行道山くものかけはし」 現在の栃木県足利市にある行道山浄因寺の本堂と茶室の清心亭を結ぶ天高橋が描かれている。





2022年12月28日水曜日

2022年12月27日火曜日

佐伯克美(クロスカントリースキーヤー)  ・87歳、銀世界に魅せられて

 佐伯克美(クロスカントリースキーヤー)  ・87歳、銀世界に魅せられて

佐伯さんは今年5月に世界最高齢の現役の女性のクロスカントリースキーヤーとして、ギネス世界記録に認定されまた。  大学生の時にスキーを始めて以来、仕事や子育てをしながら競技を続けてきました。  富山県魚津市を拠点に国内様々な雪山でトレーニングを積み、87歳の今もマスターズ全国大会で優勝するなど、競技者として活躍中です。   佐伯さんのこれまでの歩みと新たな目標、スキーの魅力について伺います。  

この小屋は山の友達、スキーの友達が遊びに来て、自由に泊ったり、しゃべったりする出来る空間です。  立山などの山々、田んぼなどの景色が見えます。  冬は真っ白な世界になり、自分たちでコースを作ってクロスカントリースキーをやります。  毎朝1時間は雪の上を友達と一緒に歩きます。   ギネス世界記録に認定されまた。  続けてこれて今日があります。  

試合に出るとなると又レベルが違ってくるので、もう1年もう1年と思って続けてきて、それだけの事でしたが、たまたま1年前に北海道のスキーの講習会に出たら、先生が凄いと言って目をつけてくれました。   その先生が 日本冬季マスターズスポーツ協会の理事さんでした。   とんとん拍子に光が当たってしまいました。   私よりも周りの人が吃驚してしまいました。   ジムに通っていますが、ジム仲間からも凄いと言ってくれたり、教員をしていたので昔の教え子たちが喜んでくれました。   有難いことだと思っています。   雪のない時に、滑れるように自分の身体を整えておく、これは毎日の当たり前の基本的な生き方になります。   簡単そうだけど難しいです。  ジムの好きな教室(エアロビクス、ヨガとか)に入ります。   自分に合った緩やかな教室を選びます。 1日、2,3つの教室に入り身体を動かします。  自分の動きに合うようにパーソナルトレーナーに付いて週1回トレーニングを受けています。   

11月には立山で一滑りしてきました。   北海道に行って講習会にも行ってきました。 12月にはアルペンスキーの講習会、クロスカントリーの合宿で練習したりしています。  高齢なので前の年と同じことができるかというと、これはとっても厳しい事です。  体力が落ちた分、技術を磨こうと思ってきました。   私は60歳を過ぎてから始めたクロスカントリースキーなので、若い人がやってきたようなベースがないわけですが、努力を重ねて磨いてきました。    今年も滑ってみて去年と同じ様に滑れて、もうちょっと技を磨こうと思っているところです。  

スキーを本格的に習い始めたのは大学生の時です。  子供のころから山が好きでした。  冬の山に登る手段としてのスキーを習おうと思いました。  当時は女の子がスキーをするというような時代ではありませんでしたが。  県の選手権などいろいろ試合に出ました。アルペンスキーでしたが、本当にやりたいのは山スキーでした。  教師として中学校に理科の教師として赴任し、そこでスキー部を自分で作りました。   県体に監督として行きました。  定年退職をした60歳の時に、大学のスキー部の先輩がロスカントリースキーをやらないかと誘ってきました。   それからクロスカントリースキーをやるようになりました。  綺麗に整備された斜面を下って来るのがアルペンスキーで、ロスカントリースキーはリフトを使わず裏山を散歩する,農道をで滑って遊べる、スキー場ではないところでスキーが出来る。   小学校の校長のころは子供たちにロスカントリースキーを指導しました。  

女性が結婚すると家のこと、子育てをしなくてはいけないし、教員の仕事もしなければいけない。  玄関を出ると周りには7人の敵がいると思って家を出ました。  姑も教員をしていて、生徒にも親にも慕われる実力のあるいい教員であったのに、女であるという事で管理職にはなれなかった。  私は仕事をきっちりやって管理職になると思って、仕事をしました。   私は家のことは余りせずに、それを姑が支えてくれ深く感謝しています。   子供をおんぶして滑りました。  いつの間にか長男も長女もスキーが上手くなりました。長男は山岳スキーのプロガイドです。  長女は教員ですが、スキーの指導員の資格を持っています。   今から考えるとよく頑張っていたなあと思います。

ちょっと楽しい事、ちょっと出来そうな事、ちょっとみんなが喜んでくれる事、ちょっとプラスのことを考えて行動すると、周りも喜んでくれる、自分も楽しい、そうすれば続けられる。   ロスカントリースキーをやるようになり、新潟の10km大会に出たり、北海道の85kmロスカントリーの大会に出たりしました。  一方で夫と世界中を歩きました。  世界の山、氷河へスキーを持っていきました。  印象に残っているのは間宮海峡、冬は間宮海峡が凍ります。  間宮海峡を夫と共にロスカントリー板で渡りました。海外の山へも1,2週間単位で毎年1,2回出かけました。  

冬の剣岳に登りたかったが、登れて幸せでした。  一面の銀世界に自分がいる、これは今の自分が楽しめる世界です。  「歳いったからこそ今できることを楽しむ。」これが私のモットーです。  60,70代の若い人たちを誘って散歩スキーをしようと言う回数を増やしたいと思います。    山へ安全に連れて行ける人たちを育てるとともに、魚津市でやっている歩くスキーの楽しむ会を成功させるというのも楽しみの一つです。    富山マスターズのロスカントリー大会をやろうということになり、第1回目(3km)が行われるので出たいと思っています。  世界大会は5kmですが、出てみたいとも思っています。

2022年12月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 ショパン

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 ショパン

5年に一度開かれるショパン国際ピアノコンクールで去年日本の反田恭平さんと小林愛実さんがそれぞれ2位と4位に入賞しています。  今日は「ピアノの詩人」ショパンを取り上げます。

「僕はかつて誰の役に立たなかったことを、僕は承知している。  最もあまり自分の為にも役立ったことはないんだ。  僕の身体を作る土からは子猫のための小さな小屋くらいしかできないだろう。」  フレデリック・ショパン

ポーランド出身の作曲家でありピアニスト、代表的な曲には「英雄ポロネーズ」、「子犬のワルツ」、「舟歌」、「葬送行進曲」、「幻想曲」など多数あります。  

「ショパンの本当の魅力は小さな音で、小さな音では聞こえなくなるから大きな音で演奏するが、そうするとそれはすでにショパンの音ではない」、と言っている人がいます。 

「後ろの席の人々は僕が小さい音で弾き過ぎたとつぶやいている。   僕があまりに柔らかく弾く、むしろ繊細に弾き過ぎるとどこでも言われているようです。  当然の非難が新聞に出る事と思っています。  しかしそんなことは一向にかまいません。  僕に取ってやかましく弾き過ぎたと言われるより、むしろ好ましいのです。  彼は僕の弾いたピアノの音が弱すぎると言ったが、それは僕の弾き方なのだ。」  自分自身も小さい音が自分の音だと言っているわけです。  ショパンは余り大ホールではやっていない。  

「僕は永久に我が家を忘れるために立ち去るだろうと思う。  死ぬために立ち去るだろうと思う。  それまで暮らしてきた以外の土地で死ぬのはどんなにか物寂しい事だろう。 死の床の傍らに家族のものの替わりに、冷淡な医者や召使を並べるとはどんなに恐ろしい事だろう。」  フレデリック・ショパン

ショパンは20歳の時にポーランドを出てオーストリアのウイーンに行く。  その直前のお別れ演奏会でショパン自身がこの曲(ピアノ協奏曲第一番ホ短調作品11)を弾いて共演された。   ショパンは性格もあり、ショパンは大きい決断は苦手だったようです。 

「いつも僕がどんなに決断力がないか、皆さんがご存じでしょう。」と家族への手紙にも書いている。  ショパンは身体も丈夫ではなかったので他の土地に行くことにも不安だった。   ポーランドに対するロシアの弾圧もあった。  ショパンがウイーンに向かったのが1830年11月2日ですが、同じ11月29日に11月蜂起と呼ばれる革命が起きる。   その後一生ショパンは故郷に戻ることはできなかった。  

1810年3月1日にショパンは生まれた。  1812年にはナポレオンのロシア遠征、ロシアに負ける。   ウイーンに行ったがうまくいかなかった。  音楽の流行も変化した。(陽気に踊るワルツが大人気)   ショパンの音楽とは違っていた。  ポーランドの革命によってポーランド人はウイーンでは冷たくあしらわれるようになる。 

「外国に来てから今までも見たものは全て厭わしく思われ、我が家をその値さえ知らなかった祝福された瞬間を恋しく思い、ため息をつくばかりであの頃抱いたと思われたものが今は平凡で、平凡だと思っていたものが比類がなくあまりに偉大で高すぎる。」    フレデリック・ショパンの日記より。

ショパンは生活費にも困るようになり、散々迷ってパリに行くことになる。   そこでショパンの運命は大きく変わってゆく。   

「この瞬間世界に新しい死骸が出来ているだろう。  子らを失う母親たち、母親を失う子供ら、死者への多くの悲嘆と多くの喜び、悪しき死骸と良き死骸、徳も悪もひとつであり、死骸に成れば終いである。」     フレデリック・ショパン

ウイーンからパリに向かう時にワルシャワがロシア軍の総攻撃で陥落したという悲しいニュースを聞く。   革命は1年ももたずに失敗に終わる。  多くの市民が虐殺された。 

「僕は時にただ唸り、苦悶し、絶望をピアノに傾ける事しかできない。」  フレデリック・ショパン

*「革命のエチュード」

*「幻想即興曲」 24歳の時の作曲で未発表の作品で遺言で破棄されるはずだった曲  友人が遺言に背いて発表した。  ゆえに現存している。

ショパンは曲を完成させるためには何度も何度も推敲を重ねたらしい。 

「たとえ誰かと恋に落ちたことが出来たとしても、僕はやっぱり結婚しないだろう。   食べるものも住む家もないだろうから。  そして金持ちの女は金持ちの男を、又もし貧しい男にしても少なくとも病人でなくもっと若くて立派な男を期待する。」 フレデリック・ショパン

ショパンは生涯独身で子供もいません。   恋愛をしてプロポーズしてOKをもらった事もある。(26歳)   健康問題で貴族のマリアとの婚約が駄目になった。      ジョルジュ・サンド(6歳年上)との恋愛もある。   当時子供も2人いた。  ショパンが28歳から37歳まで9年間共に過ごす。  体調を崩してマヨルカ島に行くが、大荒れで悲惨だったマヨルカ島での冬でさらに悪化する。  

「一人は僕がくたばったと言った。  二人目は死にかけているといい、三人目は死ぬだろうと言った。」   マヨルカ島の医師が言った言葉。                 死にそうになったが、その後何とか回復する。  その後何度も体調を崩すが、ジョルジュ・サンドが介抱をする。   この交際期間中に名作が一杯生まれている。

*「雨だれ」 前奏曲作品28の15

「なぜ私はこんなにも酷く苦しまなければならないのでしょうか。  こんなふうにみじめにベッドで死ぬのなら、この苦痛に耐えることが一体誰のためになるでしょう。」  フレデリック・ショパン  亡くなる前月に弟子に言った言葉

ショパンは39歳の若さで亡くなる。  いつから結核になっていたかは諸説あるが、7,8歳からかもしれないという説もあり、30年以上身体が辛かったことになる。  血を吐いたのは27歳の時。 

「不幸な人の何故にはいかなる応答もない。」  シモーヌ・ヴェイユ

答えのないことが余計に辛さを増してくる。  

「何故神は僕を一思いにでなく、こんなふうに徐々にまだらっこしい熱で殺さなくてはならないのか。」   フレデリック・ショパン

ショパンを語るうえでずーっと病気だったという事はとっても大きなことだったと思います。 

ショパンが34歳の時に父親がワルシャワで結核で亡くなる。  ショックで寝込んでしまって命も危ないと思って、ジョルジュ・サンドがショパンの母親に手紙で知らせて、姉がやって来て段々元気を取り戻して、作曲したのがピアノソナタ第三番ロ短調 作品58です。

ジョルジュ・サンドと別れた後、イギリスに行きます。  気候が合わなくて益々体調を崩してしまう。  パリに戻ることになるが、知り合いに部屋を用意してほしいと頼んで、寝込むのですみれの花を買っておいてほしいと頼む。  ささやかな詩に会いたいと言いました。

*エチュード 「別れの曲」 ホ長調 作品10ー3 

ショパンは「別れの曲」について、「一生のうちに二度とこんな美しい旋律を見つけることはできないだろう。」と言っています。

「居間に良い香りがするように金曜日にすみれの花束を買わせてほしい。  帰宅した時に何かささやかな詩に会いたいから。  長い間寝付くに決まっている寝室へと居間を通り抜ける時に。」    フレデリック・ショパン


2022年12月25日日曜日

森麻季(ソプラノ歌手)         ・〔夜明けのオペラ〕

森麻季(ソプラノ歌手)         ・〔夜明けのオペラ〕

東京藝術大学音楽学部声楽科を経て、同大学院独唱専攻を修了,文化庁オペラ研修所修了後、イタリアとドイツに留学、プラシド・ドミンゴ世界オペラ・コンクールを始め沢山の国際コンクールで上位入賞、ワシントン・ナショナル・オペラ、ドレスデン国立歌劇場、トリノ王立歌劇場に出演を重ね、国際的な評価を得ました。  これまでにワシントン・アワード、五島記念文化賞、出光音楽賞、ホテルオークラ音楽賞などを受賞。   2022年からは国立音楽大学客員教授を務めています。

12月はコンサートが多くあり忙しいです。    手芸は形になって達成感を得られるので好きです。  子供のころは最初はピアノをやっていました。   国立音楽大学付属小学校に入って音楽の勉強を専門に始めころは最初はピアノをやっていました。   国立音楽大学付属小学校に入って音楽の勉強を専門に始めました。  ピアノだけではなくいろいろな楽器をやってましたが、いろんなお友達の伴奏をしたりしていました。  高2から声楽になりますが、それまでは伴奏をしていたりしました。  歌を始めた頃は音楽が楽しみになりました。  芸大を受けたら受かったので、この道でやって行こうかなと思いました。  音楽の先生に成れたらいいなあと大学時代は思っていました。  同大学院独唱専攻を修了,文化庁オペラ研修所へ行きました。   

1998年ワシントン・ナショナル・オペラで『後宮からの逃走』でブロンデ役を頂きました。オペラってこんなに素敵なんだと思いました。   ドイツ語のセリフの役でもあって、ドイツに行かないといけないと思ってドイツに留学しました。   ミュンヘンではマイナス10℃とかで寒かったです。   ケルン大聖堂で歌う機会がありましたが、外はマイナス20℃近くでしたが暖房とかしないで石つくりなどで中はさらに寒かったです。  リハーサルでは凄く寒いなかで行いました。  寒さ対応はいろいろやりました。  毎日雪かどんよりしていて晴れないんです。  ドイツでは春の喜びの歌などが多いんですが、判ったような気がします。  

日本では「赤い」というとリンゴとか花とかを思い浮かべると思いますが、イタリアでは情熱とか血とか激しいものを思う、ドイツでは夕焼けとか人生の終わりというような、同じ「赤い」という言葉にもいろいろな裏の意味があり国によって違うんだなという事を外国に行って知りました。    そういったことを理解しないと本当に詩の意味には近づけないんだなと思いました。   

トリノ王立歌劇場でデビューさせてもらった時に、着いたらすぐに電話がかかって来て、都合が悪くなった人がいて代役を急遽頼まれて、衣装やら、靴やら急遽取り揃えてやったことがあります。  回りからの助けがあったからできたと思います。  音楽に国境はないと思います。  

*「ラ・ボエーム」から「私が街を歩くと」  作曲:プッチーニ

アメリカの同時多発テロの時に丁度アメリカに居ました。  「オフマン物語」の人形の役で行っていました。  11日が最後のリハーサルで家で練習をしていました。  母からまず電話があり意味もわからず、リハーサルもできないという電話がありました。 ニュースを見て吃驚しました。  街は逃げ惑う人たちで、戦争のような雰囲気があり凄いことが起こったと思いました。    テロに屈しないという事でオペラも再開しました。(日本だったら再開は無いと思います。)  ホワイトハウスとペンタゴンの間にある劇場でした。  お客さんが一人でも来たら楽しませようという話をしていました。  始まったらほとんどお客さんが入っていました。   みんなが一つになって平和を祈る瞬間で、凄く素敵でした。

クリスマスの後はミニオペラコンサートでチェコのドヴォルザークの作曲の「ルサルカ」の 第1幕のアリア『月に寄せる歌』を行います。   チェコ語は独学で勉強しました。    1月24日は錦織健さんとオペラコンサートがあります。  来年はヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ」の「クレオパトラ」をやります。  全部を歌うのは初めてです。

*「からたちの花」   作詞:北原白秋  作曲:山田耕作  歌:森麻季

2022年12月24日土曜日

藤澤和雄(元・JRA調教師)       ・馬を育て 人を育て そして夢を育てる

 藤澤和雄(元・JRA調教師)       ・馬を育て 人を育て そして夢を育てる

1951年(昭和26年)北海道苫小牧市生まれ。  競馬の本場イギリスで技術を身に付けたのち、日本中央競馬会に入り調教助手を経て1987年調教師免許を取得、1998年(昭和63年)に藤澤厩舎を開業しました。  今年定年退職するまでの34年間で最高クラスのG1で34勝を含む優勝126勝歴代2位の1570勝を記録しました。   それまでの常識としてきたことを覆えす藤澤流とも呼ばれた手法で、数多くの名馬とそこにかかわる人材を育ててきました。  

実家が苫小牧で生産牧場をしていました。  修業は最初近所の「青藍牧場」に入りました。 田中良熊さんがイギリスから馬を買って来て、イギリスの厩舎と牧場を紹介してもらって勉強するように言われてイギリスに出発しました。  1年のつもりが面白くて4年ぐらいいました。   馬の調教が面白そうな仕事だと発見したのと、馬を取り扱う人たちの馬に対する話しかけとか、日本と違って素晴らしいと思いました。  朝、「おはよう」から声をかけて顔、首等を撫でて、夜は「良く寝たか」とか話をして、その後頭絡(頭部に取り付ける、馬具または畜産用具の一種)をつけます。  競走馬は凄く神経質な動物で早い動きが一番嫌いなんです。 

日本に戻って来て、日本中央競馬会に入り調教助手をしました。   イギリスで習ってきたこととはずいぶん違いました。  受け入れは余り親切ではありませんでした。     作業は当時男性ばかりで乱暴な人たちが多く居ました。  昭和53年に日本トレーニングセンターが新しくできて、いろいろな人たちとの交流がありました。    実績を残して認めてもらおうと思いました。   馬も鍛錬で鍛え上げるというか、そういう時代でした。  修行で一番勉強になったのは、馬は年齢と共に成長してゆくから、決してせかせない、急がせないという事で、馬は走れない時には𠮟られて走ると故障をしたり、性格も反抗的な馬になってしまうので、身体が十分に出来てから調教ぺースを上げて競争に使ってゆこうという事を習ってきました。  ゆっくりやって行くことに対しては周りからの抵抗はありました。 

集団調教、馬なり調教という言葉がありますが、私は厩舎から出る時には一緒に出て調教場に行って一緒に帰ってくるようにしようと思って始めました。  1時間ぐらい運動するので、調教師も馬も単独だと調教師も飽きてくるし、馬も1頭では心細くて厭がるので、集団で一緒に行って帰って来る。  調教師も集団で行うと馬へ怒ることも、他人の目があるので少なくなります。   しかし当時はあまり理解してもらえず、厳しい声がありました。  トウショウボーイの子供が欲しかったが、貴方は6番目ですねと言われたりしました。(対応が後手に成ったりした。)   オグリキャップで競馬も盛り上がりました。  武豊氏も出てきて時代が変わりかけてきました。 

「目先の一勝より馬の一生」「一勝よりも一生」 1500勝の記念碑に刻まれています。   現役時代にいい管理をした女の子(馬)は牧場に帰ってもいいお母さんになるという事をイギリス時代から習っていたので、この子たちはきっと恩返しをしてくれるという思いでいました。   1995年バブルガムフェローという馬、最優秀3歳というチャンピオンになってさつき賞で勝って、その後骨折、復帰後は天皇賞を目指す。  他の狙うレースでは3000mなので長距離には向かないと思って天皇賞(2000m)を目指しました。      

「幸せな人が幸せな馬を育てる」  イギリスで仕事をしていた時に、嬉しそうには見えないと彼らには見えたようで、「ニコニコして仕事をしろ。」と同僚から言われました。  それでなければいい馬は出来ないよという事です。  最初のころは岡部騎手に馬の仕上がり、馬の出る距離など相談したり、いろいろ教わりました。 

1998年タイキシャトル という馬、 フランスジャック・ル・マロワ賞 その時に乗っていたのは岡部幸雄さん。  シーキングザパールタイキシャトルの2頭が海外のビックレースを勝った。  タイキシャトルはデビューが遅くゲート試験でも2回落ちました。 神経質なタイプでしたが、無理をさせないためにダートが選ばれ、圧勝しました。   逞しくなってG1で勝つようになりました。 

2017年 レイデオロで日本ダービーで優勝。(開業30年目)  19頭目の挑戦。   競馬のゲームが出てきたり、「ウマ娘」という言葉が出てきて最初は判りませんでした。  ファンの雰囲気も変わってきました。   牧場にも沢山いいお父さん、お母さんが輸入されてきているので、子供、孫がいい成績を出して、海外からも日本の馬の血統を欲しいという声も上がっています。  海外のジョッキーも日本の競馬に乗りに来ます。  馬はとても臆病で優しい動物で、子育てに似ているような気がします。  今は1頭の馬を何十人で共同で持とうという仕組みが出来、ずいぶんよくなってきたし、みんなで参加して競馬もみれるので、楽しい方法だと思います。  12月25日に有馬記念があります。


2022年12月23日金曜日

大日向雅美(恵泉女学園大学学長)    ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 〝母性愛神話″との闘い半世紀 初回:2019/9/13

 大日向雅美(恵泉女学園大学学長)    ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  〝母性愛神話″との闘い半世紀 初回:2019/9/13

1950年生まれ、72歳。  NHKのEテレ「すくすく子育て」にも長年出演、テレビで大日向さんのお話を聞いたり、育児関連の本を読んだりしてきたという人も多いのではないでしょうか。  大日向さんは1970年代からお母さんの育児の不安を和らげようと、社会の中にある母性愛神話、3歳児神話の弊害を訴え育児支援という言葉がまだ存在していなかった時代から50年余りの間子育てについての提言をしてきた方です。   2003年に子育て広場「あい・ぽーと」という施設を開設、親子が集える場所を作り、地域の子育ての支援者の養成にも取り組んでいます。

25歳、32歳で出産しています。  育児ストレスもなく夫は協力的でした。  長女が生まれた時に凄い衝撃的な体験をしました。   予備知識、こう育てようとか思っていたのが新生児室に見に行った時に、すーっと消えたのが今でも覚えています。   10人ぐらいいて生まれて1日、2日なのに自分の個性を持っていて、かなわないなと思ったら私の知識がすーっと消えて、その点では楽になりました。  博士論文を書きたかったし、仕事をしながらの子育てという事で辛かったです。   博士論文に選んだテーマは育児ストレス、育児不安に悩むお母さんたちの声を世の中に訴えて、当時持っているという母性観を疑うという研究をしていたことについてです。   

母性は神話だという事を講演で話すと皆さんが怒るわけです。   最初は女性が怒りました。   「小日向さん あなた子供を産んだことはないでしょう。」という声から始まるんです。   私も母ですと言えなくて、聞いていると懸命に生きて来た50代、60代の人たちで自分の人生を否定されるような思いがあるのかなと思いました。   その方たちは70年代に子育てを終えて、専業主婦として夫を支え家庭を守る、或る種国策だったんですよ。   戦後の高度経済成長を支えるために、夫が企業戦士で働き妻が家庭を守る、立派だったと思います。  しかし、あなた方の娘さんの時代は違うと訴えたかったんです。 時代が変わって女性たちが声を上げるようになると、男性たちは客観視、冷静でいられなくなって国を亡ぼす女とかという本を書いた人もいました。    母親が育児をするのは日本的な美だと、それを崩すから少子化なんだとか、と言うわけです。

或る時小児科医の会合で3歳児神話の話をしました。  3歳児まではおかあさんがみなくてはいけないとという考え方は必ずしも神話ではないという話をした時に、男性が、「貴方がこんなことを言うから、母乳を与えないでミルクなんかを与えている。  哺乳動物でも母乳を与えない動物はいない。あなたはどういう責任を取るんだ。」と言われました。   「他の哺乳動物はミルクを作れないからではないですか。」と答えましたが益々怒られました。   私は母乳を与えなくていいと言ったわけではなくて、日常で母乳を出せない、与えることができない女性に替わってミルクを作ってきたのも文化だと、多様性を認めることがどんなに大事かと言いました。  

夫は貴方の主張は間違っていないと応援してくれたので、めげずに進めました。   70年代のお母さんは育児が辛くてもなかなか言えなくて、今のママは元気で溌剌としています。  でも今のママたちの声を聞くと70年代のお母さんたちと違わない悩みを抱えています。  「すくすく子育て」の番組で母親が夫の協力がないと愚痴を言っていましたが、掘り下げてみると、夫側にも企業側の論理があり、社会問題も考えました。   「社会を変えてゆくことが必要ですね。」と言ったら「じゃあ私は社会を変える主役になれるんですね、」と言ったんです。   一緒に戦いましょうと声がNHKに届いたようです。    ここは大きく変化したことだと思います。  

NPO、「子育て街つくり支援プロデューサー」は凄い人気です。  団塊の世代で高度経済成長期に生きてきた方で、定年を迎えて何をしようかと思った時に、子育て支援をやってほしいと投げかけたら、真剣に勉強してくれて、「ありがとう。」と言われて、心洗われるという事で、娘と会話ができるようになったと言っていました。   

江戸末期、明治初期、外国から来た人で「日本は子供の天国だ。」と言った手記があるんです。  そのころは家族だけで子育てはしていなかった。  みんなで助け合っていた。  高度経済成長期以降は食住分離、核家族、地域の崩壊が生じる。  昔の地域をではなく、新しい地域を作りたいと思っています。   自分の孫ではないが地域の子として愛せるような仕組みですね。  「あい・ぽーと」という中で着実に出来つつあります。 

90年代になって1.57ショック(合計特殊出生率が1.57と、「ひのえうま」という特殊要因により過去最低であった1966(昭和41)年の合計特殊出生率1.58を下回った)で少子化が気が付いて、世の中がお母さん一人の育児ではおかしいのではないかという事に気が付き始めて、そのころ育児不安とか、育児ストレスで母親たちが子供を犠牲にするような事件が続いてきました。  そのころようやく私の研究が注目を集めるようになりました。  講演を行った後で、ある女性の方が訪ねてきて、「私は貴方の研究でバッシングに耐えてくれた姿を見て、ずーっと応援してきましたが、母性愛神話を崩すその先にどんな社会を描いて居ているんですか、新たな神話を作る責任が貴方にはあります。」と言われてバッシング以上に辛かったです。   

「あい・ぽーと」に参加してくれる人があつまってきて、日本も捨てたものではないと思いました。   理由がないと一時預かりは出来なかったが、一時でもいいからホッとしたいというような、理由がなくても一時預かりは出来るという事で、施設を勝ち取った「あい・ぽーと」という施設です。  サポーターも養成して、今、5つの自治体で1900人になりました。    失敗も必要だし、甘えてもいいという事を私はいろんなところでお母さんたちに言い続けてきました。娘がある時期にお世話になった方がいて、「今あなたが一番大事なことは他人に上手に甘える事、あなた方に余裕が出来た時にはできることを出来る方にしてあげるように」と言われ、「人生は支え支えられて お互い様よ。」とも言われました。   私が子育て支援をしている大事な言葉です。   


2022年12月22日木曜日

大谷貴子(全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長)・〔わたし終いの極意〕 いのちのバトンをつなぐために 

大谷貴子(全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長)・〔わたし終いの極意〕  いのちのバトンをつなぐために  

大谷さんは1986年25歳の時に慢性骨髄性白血病と診断されました。  骨髄バンクもなく骨髄移植もほとんど知られていない時代に、日本初の骨髄バンク設立に奔走しました。  現在は骨髄バンクの活動に加えて、若いがん患者や親をがんで亡くした子供たちへの支援にも取り組んでいます。  

1986年25歳の時に慢性骨髄性白血病と診断され、このままだと余命1か月という厳しい状況でした。  白血病は或る日突然発症して、医師もどんなに手を尽くしても駄目だという事が病気の特徴でした。  ショックでした。(余命告知のない時代)    姉が「明日のことは誰にも判らへん。」と言ったんです。   何かあるのではないかという事が一つの光でした。   本を持ってきて必死で二人で勉強しました。   父は医者で、医者だからこそ駄目だと思っているので、一番落胆していました。(30年前の医学の知識)    アメリカで姉は看護師をして告知のことは知っていました。  告知をするという事は医療者側に情報を提供するという責任があるわけです。    

私が発病して10か月後にアメリカでは骨髄バンクが出来ています。   骨髄移植という方法があることを見つけました。  しかし提供者がいることが必要だという事で、兄弟姉妹が一番確率が高いという事でしたが、検査をしたら姉ではなかった。 助かるという夢を持った直後だったので、告知の時よりもつらかったです。  提供者となれるのが兄弟姉妹で1/4で、他人であると1/10000なんです。   大騒ぎしている時にアメリカの骨髄バンクを知ることになりました。   アメリカに行こうと思ったら、アメリカ人と日本人の骨髄は合いませんと言われてしまいました。   アジアに骨髄バンクがあればいいのだと思いましたが、日本にもアジアにも骨髄バンクがありませんでした。   厚労省になんで日本には骨髄バンクがないのか喰って掛かりました。    姉が「この人が悪い訳ではない。 あんたがつくったらいいやん。」と言いました。   姉も駄目だと思っていたようですが、希望を持って死んでいってほしいと姉は思ったようです。 

両親は医学部の教科書的には提供者となれる確率はゼロなんですね。    両親は滋賀県県生まれで滋賀県育ちで、凄く近いところで育っていました。  DNAが半分完全に一致していたんです。  母と一致して1988年1月に骨髄移植をしてそれから34年になります。  日本の骨髄バンクが出来たのは1991年です。   署名活動をして120万人の署名が集まり、お医者さんもいろんなところに働きかけをして、メディアの力もあり、議員さんにお願いして、厚労省も動かざるを得なかったようですね。  プロジェクトXでも取り上げられました。  今は2万7000人ぐらいの方が生きるチャンスを貰われたし、臍帯血バンクもでき、来年の2月で5万例を達成します。  約80万人の人がドナーとして登録されています。   登録可能なのが18歳から54歳までとなっています。     

結婚するにあたって、自分が思っていた大きな問題は子供でした。  抗がん剤投与で子供が出来なくなるという事を知りませんでした。  婦人科医に行ったら子供は産めませんと言われました。  それを理解してくれる人と結婚することが出来ました。   がんになった患者さんたちが子供が欲しいと若い患者さんたちが声を上げ始めて、抗癌剤を投与する前に精子、卵子を保存しておく、元気になったら受精卵を戻すとか、この30年の医学の進歩と共にサポートが出来てきて、いまでは16歳で悪性リンパ腫でしたが、治療の前に説明があり、受精卵子を保存できたと言っていました。   

私が結婚した時に10歳だった姪が、25歳で結婚して双子が生まれて4歳になった時に姪がスキルス胃がんを発症してあっという間に亡くなってしまうという事になりました。   姪の母親(夫の姉)が「私が看取りたい。」と言ったんです。    医療支援が若い人にはないことが判りました。(介護保険を払っていないことが理由)  15~39歳までの若年性の癌の方の支援がない。    知り合いに話をしたら神戸にはあるという事でした。  私は埼玉に住んでいるが埼玉にはなくて、関東だと横浜と言われました。    その子は結婚して横浜に家を建てているからという事で、横浜市に連絡してその支援で家に帰しました。  家でクリスマスをしたりいろいろ世話が出来て看取ることが出来ました。 自治体によって支援に差があるというのは残念ですが、さいたま市、加須市も上尾市も動いています。   神奈川県は全域で支援が動くようになりました。  後は国の支援です。

色々な活動の源になっているのは「怒り」かと思います。  なんで骨髄バンクがないのかとか、支援の問題とか、カチンときてやればなんとか出来ると思います。  子宮頸がん、大腸がん、肺腺がんの初期のがんを経験していて、現在関節リウマチです。  頭には未破裂脳動脈瘤をいくつか持っています。  半年に一回チェックに行っています。      「人財産」 30数年、病気にならなかったら知り合えなかった人たちと一杯知り合えました。  新しい人と出会う事が大好きです。 「人財産」が宝です。   病院に行くときには発症した年月日、病名などの履歴をA4一枚にまとめてゆくと喜ばれます。(細かな内容は不要)   友達がいる間に死にたいし、毎日楽しく生きたいです。  25歳という若い時に物凄いショックを受けて今36年生きてきて、「今生きてるじゃん。」という力とが相まって、今楽しいんだと思います。  骨髄バンクとか、命が繋がってゆくという事をやっていきたいです。   わたし終いの極意としては、冥土の土産を両手にいっぱい持って背中に大きいリュックを背負い、一杯冥土の土産を入れて、三途の川を渡りたい。



2022年12月21日水曜日

岡崎朋美(スピードスケート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 スマイル!で滑り続けるスケート人生

岡崎朋美(スピードスケート オリンピックメダリスト) ・〔スポーツ明日への伝言〕  スマイル!で滑り続けるスケート人生 

1998年長野オリンピックスピードスケート女子500メートル銅メダルを獲得して、そのさわやかな笑顔が朋美スマイルと言われて一躍人気者になった岡崎朋美さん。  長野オリンピックの後、椎間板ヘルニアなどに苦しみながらも、合わせて5回のオリンピックに出場、結婚出産を経て42歳まで第一線で競技を続けました。  氷にのる機会は減っても今なおスケートへの愛情は変わりません。

ソチオリンピックに向け2013年12月28日が最後のレースとなる。  子供を産んで体調を戻すところまではいかずに選考会でオリンピックに参加する夢が途絶えてしまった。  その時娘は3歳でしたが、いまは小学校6年生です。

今年10月に小平奈緒選手が最後のレースを長野で行う。  500mでは金メダルを取った選手。 元々彼女は1000,1500mが得意でしたが、500mのスペシャリストになると決めた時からスケーティング、身体の作り方、いろんな人に聞きまわって自分の身体を改善して超スプリンターになり、結構稀です。  

ソチオリンピック選考会の時には42歳になっていて、体力を維持しつつテクニックを磨く方向、子育てとかで大変だなとは思いました。  体験できたのでこういったことにチャレンジしようとする人にアドバイスはできると思います。  

1971年北海道斜里郡清里町出身。  実家は酪農家。  野山を駆け巡っていました。 同性の転校生が来てスケートで自分の不甲斐なさを感じました。   小学校の校庭には330mのリンクがありました。(400m取れなかった。)   手作り的なリンクでした。   当時はマイナス20,25℃はざらでした。  釧路星園高校のスケート部に入りましたが、2年生の時に富士急スケート部の監督だった長田照正さんに見いだされることになる。  富士急行に入社。   回りからはなんで富士急行に行けるんだと羨ましがられて、このチャンスは逃してはいけないなと思いました。   先輩には橋本聖子さんがいました。   練習はきつかったです。  

リレハンメルで初めてオリンピックに行きました。  長野オリンピックの前にスラップスケートという新しいスケートが登場する。  衝撃的でした。  ノーマルスケートで頂点に行っていたので、ワールドカップでも優勝していて、長野オリンピックでは金が取れると思っていた矢先にスラップスケート(踵が離れるタイプ)が出てしまって、後1年もなかったのでそれに合わせるしかなくて、ずーっとそのスケートに乗っていました。 

1998年長野オリンピックでは最終組で、インスタートで相手はカナダの女性で日本新記録を出しました。   2回目はアウトからのスタート、同タイムで銅メダルを取ることが出来ました。  ホッとしました。  そのさわやかな笑顔は「朋美スマイル」と呼ばれ全国的な人気者となりました。

2000年3月突然に腰に激痛が走る。  椎間板ヘルニアになってしまった。  2002年ソルトレークシティオリンピック500メートルに出場する。 医師からは競技を辞めれば手術をしなくても大丈夫と言われていた。    手術を希望する。  ソルトレークシティオリンピックでは500m6位で入賞。  2006年トリノオリンピック 500m 4位入賞。  2006年12月の全日本スプリント選手権では9年振り3度目の総合優勝を達成。 表彰状授与式で橋本聖子さんが「表彰状・・・優勝、岡崎朋美。35歳!」と、岡崎の当時の実年齢までアドリブで読み上げ爆笑となる。  結婚の予定もあり彼が駆けつけてくれたりもありました。   2010年バンクーバーオリンピックにも出場しました。   プロポーズはカラオケボックスで言われて、夢と現実の違いを感じました。  

主人も野球でピッチャーをやっていてプロを目指したが怪我で断念してサラリーマンになりました。    私に対してはやれるだけやっていいよと言ってくれました。   海外遠征とかもおおくて、離れ離れになることも結構ありました。  結婚式は氷上結婚式(リンク)でした。  私の人間力を高めてくれたのはオリンピックだと思っています。  

2020年3月にカナダで第12回マスターズ国際スプリントゲームズに出場。       F45(45歳以上50歳未満)のカテゴリー500m・スプリントサマリー(4種目総合ポイント)で世界新を記録、金メダルを獲得しました  

2022年12月20日火曜日

山本祐ノ介(指揮者)          ・父・山本直純の功績を後世に

 山本祐ノ介(指揮者)          ・父・山本直純の功績を後世に

山本直純さんは映画「男はつらいよ」、「8時だよ 全員集合」などのテーマ曲、童謡「一年生になったら」など誰もが知る昭和の名曲を残した作曲家で、又テレビ番組「オーケストラがやってきた」で全国を回り、クラシック音楽の普及に尽くした指揮者でもありました。  そうしたお父さんの意志を継ぎという今日、ニューフィルハーモニー管弦楽団やミャンマー国立交響楽団などで活動する山本祐ノ介さんに伺いました。

今年は山本直純さんが亡くなって20年、生誕90年の節目の年です。

父の影響もありましたが、母も作曲家で兄も作曲家で親戚も音楽家と言うようなことで、他の職業が思いつかなかった。  母の実家にはピアノがあって父と小澤征爾さんがピアノの練習に来ていたそうです。   小澤さんに「お前は世界に行け、俺は日本で頑張る」と言ったそうで僕にも何度か言っていました。  父は一言で言うと、「小学校5年生の悪ガキ」だったと思います。  好奇心があって、後先考えずに突き進んでしまう、という人でした。     納豆とバターとチーズとかをどんぶりにいれて捏ねて、パンに塗って食べたり、おでんカレー(おでんとカレーの混ぜ合わせ)を作って、僕に勧めたりしました。  そういった影響か、変曲 ヴェートーベン交響曲「宿命」(運命ではなく)とか、ヴェートーベンの1番から9番まで次々に出てきて、間にいろんな曲も入って曲にしているというのがあります。  「8時だよ 全員集合」も北海盆歌を使っています。   みんなが知っているメロディーをアレンジして流せば、みんなが聞きやすくて楽しいんじゃないかというようなことに気持ちが行くことなのかなと思います。  オリジナルにこだわらない。

*「男はつらいよ」 作曲:山本直純  歌:渥美清

この詩は都都逸になっていて(7 7 7 5)、和風だなと感じてドレミソラしか使わない。詩のイントネーションとかリズムとかイメージを、日本を大事にしている曲を書いたと思います。   渥美さんの歌もうまいです。  

童謡は歌詞の扱いがちょっと違って、歌詞をどう歌わせるかという事に気を使って曲を作っていたと思います。  

*「一年生になったら」  作曲:山本直純   歌:森の木児童合唱団

巧みにメロディーを書いていると思います。  子供のしゃべり方を巧みに取り入れている。 

作る時には長椅子に寝っ転がって、横の低い机に五線紙を一杯広げて書いていました。   あなたの作曲の動機は何ですかと言われた時に、締め切りですと答えていました。(切羽詰まって書いている。)  キーボード的なものは一切使わなかったです。  小さいころから物凄く勉強して引き出しが一杯あって、昭和30、40年代ごろはたくさんの映画音楽を作曲していて、忙しすぎて録音スタジオの廊下で作曲していたらしくて、楽器がないところで作曲する方法を身に付けたと言いうことかもしれません。   遊んでいる自分と音楽を書いている自分というものが一体となって直純というものになっていたという感じがします。  

迷惑が掛かるからやめようというようなことがなくて、突き進んでしまうので飲み屋から出入り禁止になっても、しばらくするとちょっとのぞき込んだりしていると、店の親父さんから「直純さん もういいよ入って」と彼を憎み切れないようなところがあるんです。

大河ドラマ「武田信玄」では風林火山の出だしの風の部分で、相談されたりしたこともあります。  

*「武田信玄」  作曲、指揮:山本直純  演奏:NHK交響楽団、東京混声合唱団

父は、お客さんを喜ばせるという一点に集中していたと思います。  

2014年からミャンマー国立交響楽団で指揮者、音楽監督を務める。(山本祐ノ介)    友人がミャンマーで仕事をしていた人がいて、オーケストラを聞きに行こうといことで聞きに行ったのが最初のきっかけでした。   指揮をすることに成ったり、妻がピアノを弾いて人だかりができたりして、一旦ホテルに帰りました。   電話が来て指導に来て欲しいという事になりました。   僕からすると決してうまい演奏ではないが、みんな楽しそうに演奏するんです。  お客さんも感動するんです。  音楽というのは上手いものだけを求められるのではないだろうと、生き生きとした音楽と言ったものを実現できると、ステージと客席との垣根を突破らって取り組みできるようになって、そういう事が勉強になりました。    父親と同じ方向を向いているなと感じました。   「オーケストラがやってきた」のようなことをミャンマーでもやろうという事になりましたが、コロナ禍があり2年いけなくなり、その後クーデターが起きてしまって中断しています。  再開も見通しが立たない状況です。

12月16日が父の誕生日で生きていれば90歳で、12月23日に「オーケストラがやってきた」という名前でコンサートを行います。 

*「歌え バンバン」  作詞:阪田寛夫  作曲:山本直純


2022年12月18日日曜日

柴田昌平(映画監督)          ・〔美味しい仕事人〕 耕す人々の声を聴く

柴田昌平(映画監督)          ・〔美味しい仕事人〕 耕す人々の声を聴く 

食の原点である農、その農業に誇りを持ち自らを百姓と名乗る人々がいます。  目の前の自然をくまなく観察し、自ら考え、先人たちの知恵と農家同士で得た情報を絶えず学びながら自らの身体を使って作物を育てています。  映画監督の柴田昌平さんはそうした百姓の皆さんの英知を訪ねたドキュメンタリー映画「百姓の百の声」を制作しました。  映画では全国80人の人をインタビューし、農家の人々が何と向き合い、そこからどのような知恵や工夫、そして人生を得たのかを描いています。

「百姓の百の声」  10月に一回授業させてもらったことがあって、百姓と言うイメージをどう思っているか聞いたらマイナスと思っている人が半分ぐらいいました。  農家の人に出会うと、百姓は百のことができる、百の技術を持っている、自分で何でもできる人という事でポジティブな言葉なんです。  イメージを復権させたいと思って「百姓の百の声」と映画のタイトルに付けました。    4年前から取材しようと思ったのですが、最初は農家の方々が本気で話す言葉の意味が全くわからなかったんです。   知恵がずーっと積み重なっていて、ちょっとした状態を見分ける言葉が沢山ある、物凄く豊富な知恵と言葉がある。    50年前の日本人だったらもっと判っていたと思う。   農家の人達との断絶を感じたし、だからこそ農家の人たちが持っている価値、マイナスに思われてしまっている強さを「百姓国」と改めて僕たちとは違う世界観、価値観があるんだという事を思った方が理解しやすいし、素直に可能性が見つけられると思いました。

以前、和食をテーマにした 日仏合作ドキュメンタリー映画を作ったことがありました。  「千年の一滴 だし しょうゆ」   日本酒の杜氏さんのところに1週間泊めてもらって仕事を手伝わせてもらったことがありました。  最初は米を洗うんですが、米の種類によって何秒漬けるのか、秒単位で変えてゆくんです。   お米は種類によっても違いますが、環境、作り方、作る人によって違ってくるというのに吃驚しました。  「百姓国」の人をどうやって探すか判らなくて、農山魚村文化協会(出版社)に相談に行きました。  たまたま学生時代の友達がその編集局長をやっていました。   お米に限らず人を紹介してほしいと言いました。  「農家の人って、誰を選んでも知恵、工夫、物語があるよ。」と言われたのが印象的でした。  どうしたらいいかわからなくなり、農山魚村文化協会が取材に行くところにくっついてゆくしかないと思いました。 実際映画に出てくるのは13組の人で21歳から93歳までの人たちでした。  吃驚したのは千葉でトマト栽培している93歳の方(若梅さん)でした。 トマト栽培では日本でも屈指の人です。  昭和20年に就農(17歳)、当時はトマトのことを西洋の赤茄子と言っていたそうです。 

農業を始めた時に3つの信念を持ったそうです。  ①己の職業を道楽と思え。(自分が好きだと思ってやっていれば失敗しても乗り越えてゆける。)  ②記録を取る。 ③絶えず新しい技術に挑戦すること。 2019年の台風でビニールハウスが全壊しましたが、自分で立て直して、10代の少年のような眼を輝かしながら、今年はこれを試しているんだよと言っていました。   農家は研究者であり、挑戦者であり、クリエーターでもあり、経営もしなくてはいけない。  

茨城県竜ケ崎、横田さんを取材しましたが、稲作をする人が少なくなってきて、横田さんが引き受けて面積を増やしているうちに、今では甲子園球場123個分(東京デズ二ーランド3つ分)だそうです。  面積が増えても田植え機は一つにする。  栽培方法を研究してゆく。スタッフがいますが、田植えは横田さんがやります。 水の管理とかいろいろありますが、専門スタッフがいます。   お米の値段が下がってきてしまっているので、稲作農家が一番負担がかかっています。   稲作では環境も守っている。  

佐賀県でキュウリを作っている山口さん、日本でも有数のキュウリつくりの名人。  冬場に提供したいという事でハウス内の環境をどういう風に作って行けば、キュウリが一番生き生きしてくるのか、オランダからのデータの技術を生かしながら、キュウリと対話する、きゅうりの心を読む、という事だそうです。  それは長年の知恵です。  その技術をオープンにしています。  毎年10人程度の研修生に自分の技術を全部教えています。   農業は独り勝ちは出来ない、みんなで高めてゆくことが大事だそうです。  原田さんという30代のご夫婦は介護の仕事をしながら4人の子供を育てていたそうですが、農業をやろうという事で山口さんのところに来たそうです。  目を輝かしてキュウリ栽培をしています。

料理の取材にも行きましたが、トップシェフであればあるほどオープンなんです。  農家でも同様です。  しかし、いろいろ細かな事には知恵、工夫が必要だという事です。  

今は飽食の時代で、「お百姓さん有難う。」というような気持が食卓から消えてしまっていると思います。  

映画を観終わった後、話をしたり、交流したり、質問したりという時間を大切にしたいと思っています。   自分自身も30平米借りて体験農園をやっていて、いろいろ判ることも多いです。    大学3年生の時に、山梨県の標高の高い村に連れて行って貰って、農家で手伝わしてもらいながら、おじいちゃんおばあちゃんたちの人生を聞くという事があり、それが一番最初の農業との出会いでした。  一番驚いたのは時間軸の違いでした。  明日の事からいろんなスパンの時間軸が暮らしの中に入っていて、時間軸の豊かさに驚きました。 その後NHK沖縄放送局に入って、いろいろなことを沖縄の人から教えられました。    東京に転勤して半年でNHKは辞めました。   姫田忠義さんという記録映画監督を尊敬していまして、宮本常一さんがやっていたことを映像で庶民の暮らし、生活文化を記録するという記録映画の監督です。  NHKを辞めたその日に弟子入りさせてくださいと頼みました。   姫田さんの元で山の村の暮らしを映像で記録するという事を行いました。 

2012年 NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」 (循環型の焼き畑農法を守るクニ子さんのドキュメンタリー) 焼き畑農法は柳田國男などは環境破壊だという事で撲滅論者だったんですが、焼き畑は自然の摂理を判っている循環型の方法だという事で宮本常一さん等は凄く評価しています。   焼き畑を短期的にやると環境破壊になるが、クニ子さんとその家族が伝えてきた焼き畑農法をじっくりと映像にしました。  これも吃驚することだらけでした。  

2013年 NHKスペシャル「和食 千年の味のミステリー」 2014年 日仏合作ドキュメンタリー映画「千年の一滴 だし しょうゆ」 などで多くの賞を頂きました。       「百姓の百の声」は取材してから4年間かかりました。   食材の見え方も随分変わってくると思います。   農業の問題というのは現場を見ないで考えるうえでは、数字だけ考えると凄く危機的状況だという危機的側面もありますが、そこだけ言っててもしょうがない。一緒に考え一緒に参加して、みんなの共通理解になって行くと、もっと「百姓国」が豊かになって行くと思います。  この映画に出てくる皆さんはみんな輝いています。   土と戯れる、生き物と一緒に何かやる、対話してゆくというのは、人間の本能の喜びを引き出す、自分の中に眠っていた子供的な好奇心を引き出してゆくんだと思います。 

2022年12月17日土曜日

Aju(アーティスト)          ・あなたはあなたであっていい

 Aju(アーティスト)          ・あなたはあなたであっていい

 Ajuさんは大阪府出身の33歳。   精密な風景画を描くアーティストとして注目されています。   今年9月に大阪難波で開かれた個展には大勢のファンが詰めかける人気ぶり、作品は多くの行政機関や企業に採用されるなど活躍の幅を広げています。   Ajuさんは幼いころから周りの人と同じ様にできないことを責められるなど、生きづらさに悩んできました。   大学3年生の時に自閉症スペクトラム(“広汎性発達障害”とほぼ同じ概念を指すものであり、自閉症やアスペルガー症候群、特定不能の広汎性発達障害などを含む概念です。)と診断されます。   そんな絶望の時期に出会い、「あなたはあなたであっていい」と伝えてくれたのは、当時の恩師、現在立命館大学スポーツ健康科学部准教授の長浜明子さん(55歳)、それから二人三脚で歩み、Ajuさんは長浜さんのサポートもあり、自身の特性と付き合いながら絵の才能を開花させました。   自身の経験を踏まえ、障害は人と人との関係で生まれたり生まれなかったりするというAjuさん、13年間共に歩んだ長浜明子さんの話を交えてお伝えします。

作品の一つ、東京タワーとその周りの風景。  絵を描く時にはまず良く見ます。  描く時にはいつも画用紙の下から順番に上に上がってゆくように描いていきます。  (航空写真と比較してみるとビルの階数、窓の数などあっている。)  描いている時には図形が頭の中にいっぱいだったりだとか、思い出に浸ってと言う感じが凄く多いです。(その時の気分、周りの音とかなどの状況、空気感など)   

学校は本当は好きだったはずですが、なんか苦しい感じはしました。  文字を観ていると3Dのように浮かびあがって見えてきたりして、重なってうまく読めなくて、国語の時間などは当てられたらどうしようかと、授業はいつも緊張していたと思います。   いろんな音が聞こえてきて、先生の声を聞くことが難しい。   食事も一つづつ、種類をわけて食べていましたが、先生からは「悪い食べ方の見本です」、と言われてしまいました。  

教育大学に進学しました。  長浜明子先生に出会う事が出来ました。  「仲良く一緒にしなさい」、沢山言われてきたのに、「ひとりでおったらいいやん。」と言われて衝撃でした。    大学3年生の時に教室に入れない時期があって、保健センターに行った時に発達障害だと言われました。   落ち込んでいた時に、九州新幹線の絵を描いて先生の机に置いて帰りました。  「うまいやん。」と褒められました。  それまで褒められたことは余り無くて、嬉しかったです。  先生が一冊スケッチブックを手渡してくれたのが、多分画家として絵を描くことのきっかけになったと思います。  

電車が走っていて一両目が崖から落ちてしまう暗い絵は診断を受けた直後のものです。  先が見えなくてどうやって死ぬかというようなことを考えていました。   

長浜:その時はお互いが障害と言う言葉を使わない時期がありました。  

言葉ではなく文字でのやり取りを先生と始めました。    その一番最初に「あなたはあなたであっていいんだよ。」と言う言葉を書いてくれました。   それをお守りのように毎日カバンに持っていたような気がします。    

長浜:どんどん肯定感が下がる一方なので、気持ちのグラフをつけてみようという事で、自己肯定感を上げるのと、客観の両方だったので、私の研究室に来たら100点という事でした。  そうこうするうちに一緒に住むようになりました。   2011年に診断を受けて、授業に出ようとすると全身ジンマシン、過呼吸、痙攣、救急車に運ばれるとかで、限界かと思いました。    自分の事だけを考える時間が必要なのかなと思いました。  祖母のいた離れが空いていたので、ご家族の了解を得て、一人暮らしの練習を始めました。(2012年1月)   10年になります。  分刻みでないと一日の生活が崩れてしなうような感覚がありました。   予定の変更とか、視覚的情報の方が判りやすいと思って、空の箱とかを作ったりしました。   分刻みではなく10分刻みの方が楽なんではないかとか、言ったりしました。

自分が厭ではないことは多分他人も厭ではないと思ってしまっていたのは、よくないことでした。   言葉に出してしまって嫌がられてしまったりしました。  経験の積み重ねで言わない言葉も増えています。   絵を通してコミュニケーションが滑らかになって行ったような気がします。   人に対する視野が広がってきて、自分の見えてくる世界も広がって行ったような感じかもしれません。  今年の個展もお客さんが来て、70万円の絵も売れました。    絵に対する自信はちょっとづつ付いて来た気がします。   自分でもお客さんに話しかけるようにしてきました。   思っていないことを聞かれると駄目になっちゃう。  

長浜:大学時代と比べて楽しそうでいいかなと思います。  自分への対処方法大分見つけてきました。   今は自分を知る(特性)ことで対応する幅が増えたと思います。

障害という言葉ですが、私と先生の間では障害という言葉がなくてもうまく過ごせることが多いです。  障害は人と人との関係で、生まれたり生まれなかったりするするのかなと思っています。   発達障害を生きないという風に思っていて、自分を大切にしながら生きたいと思っています。  お互いが理解しやすいようにな関係増えて行った時に、社会がみんなが過ごしやすくなったよねと言うのが、自分のなかに出来上がってゆく社会のイメージなんです。  

長浜:障害者、障害者ではないという区分がある。  しかし、今も昔もAjuという人は変わってはいない。   Ajuを生きればいい。  それぞれがそれぞれを生きてゆくのが一番いいかなと思います。   

自分が嫌いになならないように、これだったら楽しいとか、やっている時がホッとするというのを大事に自分の中で育てられると良いなあと思います。  緩やかに温かく見守られている、自分の気持ちはどうだと待っている環境は凄く大きかったかもしれない。

長浜:Ajuが自分で選んできたから、振り返ってみればそれは良かったんだと思います。


 

2022年12月16日金曜日

遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 後編

遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 後編 

卡子(チャーズ)を出た後にずーっと難民として鉄道のある場所まで歩いて行きました。  鉄道も共産党により切断されていました。  歩いている途中で食べるものもなく、或る日ゴミ箱の中に新鮮そうに見えたものがありそれを食べてしまって、下痢になって全員が脱水症状になり、道端に横たわっていたところ、シャオリーが通りかかったんです。   こんな広大な大地で会えるなんて奇跡としか言いようがりません。  シャオリーは製薬会社で育てられて、衛生兵として薬を持っていて、お腹を治す薬も持っていたし、お金も貰って私たちは一命をとりとめました。   そして延吉(朝鮮寄りの現在は吉林省延辺朝鮮族自治州 )に着いて、日本人の集合体のようなところがあり、どのぐらい中国共産党を礼賛できるかなど、毎晩のように大会があり、父は製薬工場を経営していたので資本家だというようなことで責める日本人がいて、村八分にされ生きてゆけないような状況になった時、批判大会の会場の中に長春で朝鮮人を夜学に通わせていた夜間学校の校長先生がいて、朝鮮人を大事にしてくれた人だとかばってくれました。  この界隈は70%が朝鮮人なので、校長先生の証言によってバッシングから抜け出すことが出来ました。   

その後天津に行きました。   1950年6月に朝鮮戦争が始まりました。  中国も参戦するという事になりました。  延吉へは戦争から逃れてきた人が難民となってなだれ込んできました。  日本人の技術者は戦禍を逃れていいという事になっていたが、私は骨髄炎になっていて、治す薬はストレプトマイシンしかなくて、父はローンを組んで入手しました。1950年12月に父の製薬会社の知り合いから手紙が来て、天津に来てほしいとのことでした。   お金の送金もありローンを返済して、それで天津に移動ことが出来ました。 

天津は大都会でした。   夜空に輝くクリスマスツリーを観た時に、しゃべれなかった私は「あ 綺麗」としゃべって、父はしゃべったぞと言って、吃驚して喜んでくれました。  記憶喪失はそのままでしたが、ようやくしゃべれるようになってきて、天津の小学校に通えるようになりました。(1951年 10歳の時)    嬉しくてしょうがなかったが、通い始めた学校では、侵略国家日本に対するいじめでした。   憎しみの目を私に向けてきました。  授業で教わったり、本屋さんでのパンフレットなど見ると、日本軍が残虐行為を行ったといういろいろな写真とかで、これはどこかで見ているという気持ちを起こさせて、死体が転がっているのをどこで見たんだと、段々怖くなってきて夜壁に、私が用を足したことによって、浮き出てきた死体の顔とかそういったものがどこの壁にも張り付いて、私を攻めてくるんです。  これは何なんだろうと判らなく、死んだ方がこういうことから逃れられると思って、川の土手を降りて行って入水自殺を試みます。  当時は水上生活者がいて、その一つが転覆して家族が落ちたので、助けようとご主人が飛び込んで、もがいて水面に浮かんだ手首を私が見た瞬間に、動かないはずの手首が動いたというあの瞬間を思いだして、記憶がよみがえってくるんです。   水の深みにはまってゆくのを辞めて土手を這い上がってゆきました。 その瞬間から私は卡子(チャーズ)を背負って生きてゆくしかなかった。

1953年9月11日日本に帰って来ました。   舞鶴に戻って来ましたが山だらけで、一体日本人はどんなところに住んでいるんだろうという事が第一印象でした。    日本に戻ったら革命を起こしなさいと先生からは教えられていたので、ゲリラ活動にはいいと思いました。    パチンコ屋というものをみて、そこには軍艦マーチが流れていて、カルチャーショックというのではなく物凄いショックを受けました。   文化のギャップに適応することが大変な事でした。   

一体人間とは何なのか、という事を考えるようになり、哲学書を読み漁っていました。  行きついたのは「存在とは何か」、「物質とは何か」「空間とは何か」とか、最後に行きつくところに行きつきました。  夜空の星の光を見て「お前はこれが何なのか、答えられるか」という問いを私に迫ってきていると感じて、不思議さに圧倒されて「存在とは何か」、それを極めてやろうと思って、理論物理の世界に飛び込みました。  しかし、「存在とは何か」等々、その答えは出てこないのではないかと思いました。 

一橋大学で市民権を得てコンピューターシュミレーションをやる事が生活になりました。  一橋大学の食堂で中国人同士が中国語をしゃべっているという光景にぶつかり、思い切って声を掛けました。    留学生で私費の留学生は生活に困っていて、いろいろ苦しい状況があるという事を知るようになりました。   段々留学生の相談室の様になっていきました。  留学生を助けることによって心の空洞が埋まってゆくことに気が付いて、留学生、中国残留孤児などにも手を差し伸べるようになりました。   読売新聞のポスターに出会って、 1983年、『不条理のかなた』で読売ヒューマンドキュメンタリー大賞優秀賞を受賞しました。  

理論物理の世界から離れて、自分の経験の世界を活かそうと切り替えることにしました。  中国社会科学院社会学研究所研究員、上海交通大学客員教授、東京福祉大学国際交流センター長などを務めるようになりました。  卡子(チャーズ)を書いたことで、中国の共産党の政府は、この事実というのが、中国共産党が包囲して人民を苦しめて餓死させたと言う風には行きかけてなくて、あくまでも国民党軍が朝鮮市民を苦しめたので、餓死したんだという風にしか位置けてなくて、中国共産党軍が食糧封鎖をしたという事の事実を認めないんです。    卡子(チャーズ)の鉄条網のあったところにはフェンスがあり、その外は物凄い繁華街になっていますが、その内側は卡子(チャーズ)があったままの状況で、餓死体がないというだけで餓死体と山があったところに行くと、野ざらしのトイレでそこで用を足す光景を目にして物凄い強い憤りとショックを受けて、この史実だけは私は残し続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。 墓標を建ててあげなければいけないと思いました。  卡子(チャーズ)で亡くなった方はゴミのように捨てられて、こういった事実はありませんでしたと言う事にぶつかって、卡子(チャーズ)の本は絶版になってしまって、読んでくれる人がいなくなったら、墓標がなくなるという気持ちがあって『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』という本を出しました。 

  

2022年12月15日木曜日

遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 前編

 遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 前編

1941年満州国新京市(現:吉林省長春市)生まれ、81歳。  中国共産党軍と国民党軍との長春包囲戦を体験し、1953年(昭和28年)に日本に帰国、一橋大学、千葉大学、筑波大学などで教鞭を取り中国社会科学院社会学研究所研究員、上海交通大学客員教授などを兼任しました。 2019年に中国問題グローバル研究所を立ち上げ、ウクライナ戦争における中国による対ロシア戦略、世界はどう変わるのか、もう一つのジェノサイド長春の惨劇、チャーズなどを執筆しています。  チャーズとは検問所という意味です。  

中国がゼロコロナ政策を取っていて、民衆が爆発してましたが。  習近平が何故ゼロコロナ政策をしているかというと、医療資源が不足していて、もしゼロコロナを解除したら3か月で160万人ぐらいは死ぬだろうとシュミレーションが出て居たり、100万とか、200万とかいろいろシュミレーションがあります。   2年以上たっているので、ゼロコロナを解除していたら累計で数100万とか1000万人近く死亡していたという可能性もあるかもしれない。 人口減少がとても怖くて、労働力不足が中国でも問題になっていて、一人っ子政策を解除しても全然出生率が上がらない。   大都会程一人当たりの医療資源が少ない。   デモ隊と一般の人との乖離があり、争っている場面もある。  11月11日に新しい20項目の改善案を出したが、まだ間に合わない。  

私は歳を取ればとるほど仕事量が増えてきて、4月に『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』という本を出して、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』を復刻して、『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』を書き終わったところです。  

『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』の内容は、習近平は何のために三期目を狙っているかというと、父親の仇討ちをしているわけです。  鄧小平が1962年に事実無根の罪をでっちあげて、父親の習仲勲を失脚させて16年間牢獄に軟禁させた。  毛沢東が凄く習仲勲を可愛がっていて、後継者にしようと思っていた。  中国西北部の革命根拠地を築いた人で、毛沢東が逃れることが出来た唯一のところで、そこで毛沢東は救われて革命を進めて、中華人民共和国が誕生したわけですが、毛沢東にとって習仲勲は大の恩人で後継者にしようとしたわけです。  しかし鄧小平にとっては気に入らなかった。  2012年に習近平は総書記になる。  1962年から50年経っているが、その間、心の中に復讐してやるという強烈な気持ちが爆発したということで、トップに立ったら絶対降りないぞと、3期目が実現してしまった。  死ぬまでやるのかというと、後継者を考えているようです。 チャイナ・セブンというのは、中共中央政治局常務委員が7名で、胡 錦濤政権の時には9人でしたが。  実はこのチャイナ・セブンの中に後継者がいるという事を発見しました。 『習近平 三期目の狙いと新チャイナ・セブン』はそのことを追いかけていった本です。 

ロシアのウクライナ侵攻についてですが、ロシア軍の侵攻は小さいころ味わいました。   ソ連軍が満州国に侵攻してきました。(1945年8月) 私は4歳でした。  機関銃をもって毎日のように襲ってきて恐ろしい目に遭いました。   PTSD((Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”)の症状になってしまいました。   今は回復しつつあります。   

1941年満州国新京市(現:吉林省長春市)生まれ。  父親は製薬会社を経営、宗教家でもありました。  父は他人の役に立ちたいと思っていました。  麻薬中毒者の治療薬の特許を持っていましたので、中国に渡りました。    父は中国人の孤児を養っていました。  その中の一人が私たちの命を救ってくれる役割をすることになります。   父は教育が大事だという事で、若い朝鮮人の従業員を夜学に通わせていました。  3時のおやつには私たちには粗末なおやつでしたが、母は若い朝鮮人の従業員にはごちそうを食べさせていました。  朝鮮人の学校の校長先生も朝鮮人の方ですが、やがて後になって私たち一家を救ってくれることになります。  麻薬中毒者の治療薬はどんなにインフレになっても値段を上げることはしませんでした。   父は蓄財をせずに関東軍に戦闘機を17機を献上しました。  

1945年8月9日ソ連が日本に宣戦布告、長春にもソ連兵がやってきました。  関東軍は南の方に逃げて行ってしまって長春は空っぽで、ソ連軍の蛮行はすさまじかったです。   その後1946年4月に中国共産党の八路軍が攻めてきて、その年に流れ弾が私の腕に当たって、身障者になってしまいました。   開拓民の人たちを私たちの家に引き取って、一緒に生活していました。  その中に結核のお姉さんがいてうつってしまって、骨髄炎になってしまって、厳しい状況になりました。   1946年5月に八路軍は北の方に行ってしまい、蒋介石の直系の正規軍が入って来て治安が保たれるようになって、百万人戦争という事で中国に残っている日本人を帰国させるという事が起きました。  父の工場は国民党軍の政府に接収されていたので、中国のために尽くせと言う事で帰国は許してはもらえませんでした。  

1947年に2回目の日本人の引き上げが終わって、突然、長春の電気が消えて、ガス、水道も出なくなり、食料も入ってこなくなり、八路軍によって食糧封鎖されたことが判りました。 餓死者が出てきて、道路に這い出してきた幼児を犬が食べたり、その犬を人間が殺して食べるとかそういう状況がありました。  家でも餓死者が出て来ました。  長春市を中国共産党軍が鉄条網で包囲して、中には国民党軍と一般庶民がいて、外には共産党軍がいるという状況でした。(長春包囲戦   卡子(チャーズ。 検問所というような意味、包囲網と解放区の間の緩衝区域)で国民党軍の二重になっているという事を知ったのは卡子(チャーズ)を出た時でした。  父が市長に解除して貰うようにお願いに行って、軍用の食料を貰って脱出することになりました。  脱出前夜4月19日に一番下の弟が餓死しました。   「ごめんね。 まーちゃん。」と父が言っていた記憶があります。 

朝から歩いて夕方に国民党軍の卡子(チャーズ)に着いて、門をくぐれば解放区(共産党)があり豊かな食べ物があると思っていたので、門をくぐったのですが、本格的なこの世とは思えないような、地獄のような光景がありました。   地面には餓死体でうまっていて、腕、足は完璧に肉がなくなってしまっていて、お腹だけが大きく緑色に膨らんで、腐乱している。 銀蝿が黒くなるほど群がっていました。    八路軍によって、二重にある中間地帯に追い込まれ餓死体のなか野宿しました。   それからは正常な神経ではいられませんでした。   お小水を餓死体のないところを捜して済まそうとしましたが、浅く埋められた餓死体の顔が出てきて、泥が流されてここで用をたしたんだと、恐怖と罪悪感で、何十年も苦しみました。   もっと決定的だったのは、夜中になると地面を這うよな唸り声がするんです。  父がお祈りをするという事で一緒について行って、八路軍の鉄条網の近くで吊るされていた死体の山に向かって、父が「どうか救われてくれ。」とお祈りを奉げるんです。  死体と思われた手が動いたんです。  その瞬間に私は限界が来て、記憶喪失にかってしまって、言葉が出せない子になってしまいました。   わからなくなることによって人間は生き延びるという力を持っているんだなという風に、後から思いました。 

4日目に卡子(チャーズ)を出る事になりました。  解放区には技術者がいないので、技術者が欲しいという政策があり、父は麻薬中毒者の治療薬の特許を持っていたので、そのお陰で門をでてもいいという事になりましたが、父は私たち家族だけではなく、父を頼りにして生きてきた人達も一緒に連れて出ました。   その中に面倒を見ていたが、亡くなってしまったご主人の遺族、奥さんと子供がいましたが、技術者ではないので駄目だと言われてしまいました。   父は「この家族が出れないなら私も残る。」と言ってしまいました。  母には子供が5人いて、一番下は餓死してしまって、私もいつ死んでもおかしくないような状況でした。  母は「この子たちの父親でもあるので、どうかそのことを考えてください。」と言って頼んで、父は断腸の思いで、その卡子(チャーズ)を出る事になりました。その家族の「裏切者。」という声が私の耳に残っています。  記憶を取り戻した時にそういったことがよみがえってきました。   そういったのは妙子?ちゃんと言いますが、後日、日本に帰ってから成人して一生懸命探しまくって、ついに再会をすることが出来ました。   父は臨終のときに母の手を取って、「母さん 卡子(チャーズはつらかったのう。 本当に申し訳ないことをした。」と母に最期の言葉を言いました。  私はそれを聞いてどれほど父は悔しい思いをして生涯生きてきたのか、という事を初めて知りました。  絶対この史実を残すことによって、仇を取るという、強烈な気持ちを抱きました。  

  







2022年12月14日水曜日

堅田喜三代(邦楽囃子方)        ・伝統の音楽を届けたい

 堅田喜三代(邦楽囃子方)        ・伝統の音楽を届けたい

東京都出身、邦楽を演奏する伝統の家に生まれ、小鼓や大鼓の音を聞きながら育ちました。  東京芸術大学を卒業後、本格的に演奏活動に入り、邦楽の普及や後進の指導にも取り組んでいます。 

12月14日と言えば討ち入りと思います。  一昔前は映画、ドラマなどでやっていましたし、邦楽の演奏会でも落語でも、必ず忠臣蔵に関わることをやっていました。 

邦楽囃子方は小鼓や大鼓と言った打楽器を中心に演奏するグループです。  長唄の演奏会には5,6人で一組になり、御芝居、日舞になると7,8人と多くなってきます。   祖父は長唄の唄方から囃子までやっていましたが、父は邦楽の囃子方、母は日舞の方のお稽古をしていました。  小さいころから太鼓の音が聞こえていました。  

邦楽の演奏家、俳優さんなどの有志を集めて、邦楽と語りの演奏する和の会を主催しています。  長唄を中心にしたジャンルの会員でもあります。  依頼を受けて東京中心ですが、全国にも伺っています。  新派の公演の「大つもごり」の舞台が今日の夕方予定されています。  水谷八重子さんを中心に毎年12月に公演する舞台で、原作が樋口一葉です。    お峰という18歳の女の子が主人公、山村家に奉公人として働いている貧しい女性。  おじさんが病気になり、お金が必要になり借りることもできず、切羽詰まったお峰はお金を盗んでしまう。 ・・・運命や如何に。  「大つもごり」では邦楽監修と言う風になっています。 自身で演奏もしています。   

格子車?、長細い板の後ろに車がついています。 二倍ぐらい大きい板に細い棒板を打ちつけて、格子戸を開けたり閉まったりする音を出しています。  この音を使って出入りを表しています。  開ける時と閉める時では速度を変えています。  祖父が作ったものです。 ほかにもいくつかあります。   

丸い太鼓は締太鼓と言って、お能などで使っています。  桶胴、御神楽、獅子舞などに使っている楽器で、一文獅子を表しています。  獅子舞にもランクがあって、一文(お金)だと太鼓と獅子舞だけ、二文だと鐘が入り、三文だと笛付きというような形になっています。(実際にはどうかわからないが人数、楽器が増えてゆく。)  「大つもごり」の初めから最後までずーっと一文獅子が流れています。   正月だけではなく、年の暮れから昔は流れていた様です。   黒御簾という下手のところで打っていて、実際には見えないです。  生で一緒に作品を作ってゆくというのは、俳優さんにとってもいい経験になると思います。  

子供のころ、父から指導を受けました。  その後別の師匠について稽古をしてもらいました。(一般的に行われている。)  周りに男の子はいなくて、誰かが継がないと無くなってしまうと思って、自分でやろうと思って、職業を継いでいこうと思ったのが高校生ぐらいの時でした。  東京芸術大学音楽学部邦楽科に進みました。   大学時代の周りの人とは今も一緒に仕事をさせてもらっています。  大学を卒業して、見習いとして先生について仕事をするようになります。   喜三代という名前は大学時代に頂きました。  自分の流派の紋をつけて、その黒紋付で仕事をします。   

お囃子のお稽古は基本的には師匠と一対一でやりますが、ふつけ(譜面)があり手書きですが、打つ音を言葉で言うのがついています。  それを写して覚えて、曲を兎に角覚えます。  「唱歌(しょうが)」には全部、太鼓、鼓、笛とか入っています。 他の楽器も頭に入るようにします。  

自分の主催の会で、楽器の話、長唄とかのほかのジャンルの話などを、スライドや動画など利用して判り易く説明しています。  どういう風にして興味を持っていただくか、目に触れて頂きたい、聞いていただきたいという事が私たちのやるべきことだと思います。   映画、ドラマなどで 若い時に演奏をやったことがあります。  トニー・レオン主演映画「ラスト・コーション」でも、邦楽の演奏をしています。  アン・リー監督は凄く細かいところまでこだわり、いい勉強になりました。  無声映画のイベントの時には演奏しています。  2019年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校で無声映画のシンポジュームがあって参加、演奏しましたが、好評でした。  来年2月には動画配信もやって行きます。

 

2022年12月13日火曜日

鈴木比佐雄(詩人・出版社代表)     ・困難な時代を詩歌の力で切り拓く

 鈴木比佐雄(詩人・出版社代表)     ・困難な時代を詩歌の力で切り拓く

1954年 東京都荒川区に生まれる。  福島県いわき市出身の祖父と父親は戦後の一時期迄石炭の卸業を営んでいました。   鈴木さんは大学で哲学を学びながら詩を書き始め、1987年32歳の時に詩誌「コールサック」(石炭袋)を個人で創刊しました。  2006年には法人化し、これまで多くの作家の詩歌集、小説、評論集などを発行しています。  鈴木さんたちの編集で今年6月「闘病、介護、看取り、再生詩歌集」が発行されました。  パンデミック時代の記憶を伝える、と副題がついたこの詩歌集、アンソロジーには古今の241名の作家の詩、短歌、俳句が収められています。  コールサック社のアンソロジーとしては2007年の原爆をテーマにした第1詩歌集から数えて20冊目になります。  

この20年間ぐらい韓国、ベトナム、中国などの詩人と交流していて、コロナ禍でそういう活動が出来なくて残念です。   その分沖縄の詩人との関係が深まって、この5,6年30冊の本を刊行できたことは奇跡的かなあと思っています。   今年は本土復帰50年でもあり、その作家たちを10名ほど集めて、合同出版記念会を開催して、文字化して最新号に収録することが出来ました。   福島のいわき市で昨年、3・11から10年福島浜通りの震災原爆文学フォーラムを地元の方、作家(玄侑 宗久ほか)とこの10年間の震災原発を纏めるような集まりをしました。  

「闘病、介護、看取り、再生詩歌集」は20冊目になります。  人類が経済発展のために地球環境を破壊し、この数百年に数多くの絶滅種や絶滅危惧種を作り出してきたことへの贖罪の思いをもっているのではないかと思います。  動植物の生き物たちへの尊敬の念があって、それらを作品で明らかにしようと思いました。   新型コロナで世界中で約600万人が、日本でも約4万人が亡くなっています。   悲劇の記録を残すべきだと考えました。    私のアンソロジーの発想の源には、宮沢賢治の童話などがあります。    この時代はパンデミックの時代であり、100年前のスペイン風邪じゃないかなと考えました。   宮沢賢治の「春と修羅」の中の詩「永訣の朝」が重要な作品だと直感しました。1918年に宮沢賢治の妹トシがスペイン風邪に罹りました。  1922年に肺を病んで賢治に看取られながら亡くなりました。  スペイン風邪によって約40万人の日本人がなくなったと言われます。 

「永訣の朝」 

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわん
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

・・・中途略

 (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

この詩は宮沢賢治の詩のなかでも傑作だと思います。  

詩歌は個人原語から発しますが、心の深層を掬いあげることで,未来の公的言葉になる可能性を秘めた言葉の発端なんですね。  詩は抒情詩が重要だと思われるかもしれないがそれだけではなく、歴史的な事実を記録し、歴史を検証し、未来の危機に警鐘を鳴らす叙事詩を想創造します。  優れた根源的な詩は抒情詩と叙事詩の両面を併せ持った重層的な詩だと思います。   ハイデッカーが言った「詩は歴史を担う根拠である。」という事には大きな影響を与えられました。   

2007年に2度と核兵器を使用させないという思いを結集させて、刊行した『原爆詩一八一人集』の日本語版と英語版が最初です。  それから毎年1冊以上刊行してきました。  2018年に刊行した「沖縄詩歌集」からは短歌、柳歌、俳句、詩などの詩歌全般を記録しています。  1997年に、浜田知章さんという詩人がいて、広島、長崎の悲劇を詩に書いて世界に発信すべきだと構想して実践していた詩人でした。  彼と広島の街を歩いた時に「原爆詩集」のようなものを作りたいと思いました。  その10年後に実現しました。    浜田さんは2008年に亡くなったので浜田さんの遺志を引き継いで出来たと思います。 英語版も完成させて国連の広島にある日本支部に寄贈して、国連の人が日本支部に来たら渡して読んでくださいとお願いしました。  宮沢賢治学会という宮沢賢治を研究する団体がありますが、2008年9月に第18回宮沢賢治学会イーハトーブセンター『イーハトーブ賞奨励賞』を受賞しました。  選考理由が世界中の人々の幸せを願う宮沢賢治の精神を世界に発信したという事を言っていただきました。   

2012年「脱原発自然エネルギー218人詩集」 日本語と英語の合併版で海外の大学からの購入もありましたし、アメリカのオレゴン州の詩人が来日して218名から50名を選んでアメリカ版を刊行したいと言う事で実現しました。   

2016年に元教師と共に刊行したいじめに苦しむ人たちや、働き過ぎの教師の学校現場を励ますというのがテーマで、少年少女に希望を届ける詩集という事で刊行しました。  大きな反響がありました。  3版目は1000冊を学童保育所、子供食堂など多くの子供がいる施設に無料で届けることが出来ました。  

2018年には「沖縄詩歌集」2019年には「東北詩歌集」を刊行しました。     「沖縄詩歌集」は吉永小百合さんと坂本隆一さんが2019年1月に沖縄でのチャリティーコンサートで6編を吉永小百合さんが朗読、坂本龍一さんが伴奏しました。  2020年には「アジアの多文化共生詩歌集」を作りました。   

20世紀で最も影響力のあった書物としてハイデッカーの「存在と時間」があげられると思います。  よく存在感があるなとか言われますが、存在者の背後にあるなにかエネルギーを発する輝きのようなものだと思います。   ハイデッカーは存在者の存在に驚き、それは不思議で奇跡的なことだと考えて、存在への問いを発する、現存在、今ここにいる存在であるという。  人間は日常的には世界内という、世界の意味の連関の中に投げだされていて、道具を使用し、生かされる非本来的な共同存在でもあると言われる。  しかし人間は本来的な時間を生きる有限で実存的な存在、ハイデッカーの言葉で言うと「死に臨む存在」なのではないかと言います。  つまり存在とは「死に臨む存在」の自分の有限な時間を言葉にして生きる意志だと私は解釈しました。  

賢治の「永訣の朝」では、賢治は妹のトシの「あめゆじゆとてちてけんじや」と言う魂の言葉を胸に刻みます。  その言葉を自ら生きてゆく指針として「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」と言い、妹とみんなに幸いをもたらすような詩や童話を残そうと誓って、実践した様に思われます。    賢治の仏教的な慈愛に満ちた言葉は、ハイデッカーの言う「良心を持とうとする意志」に近いと私は思えます。    

村山 槐多(むらやま かいた)の詩

「死の遊び」 

死と私は遊ぶ樣になつた

靑ざめつ息はづませつ伏しまろびつつ

死と日もすがら遊びくるふ

美しい天の下に

 

私のおもちやは肺臟だ

私が大事にして居ると

死がそれをとり上げた

なかなかかへしてくれない ・・・

1919年スペイン風邪で23歳で亡くなった天才的な画家でもあった村山 槐多の死生観を示している。

沖縄の玉城寛子さんの短歌

*「残照のごとく内耳にこだまする僕も頑張る君も頑張れ」?               心臓を患う作者と胃を患う夫婦が、極限まで励まし合う愛に満ちた言葉になっている。

梶谷和恵さんの詩

*「抱っこ」

抱っこと母が言う。  まあるい澄んだ瞳の母が言う。  お母さん、今何が見える。  お母さん、今温かいよ、と母の体温と母への感謝を全身で感じ取っている。    

東京の川村蘭太さんの俳句

*朝粥を冬火に混ぜて今日始まる                           失明した妻を介護する川村さんは朝粥に季節の野菜などを入れて妻の食事を食べさせて介護に一日が始まる。

京都の浅山泰美(ひろみ)さんの作品   長い介護の末に母との最後の夜を過ごすが、死に水を取り、その唇に母が好きだった紅を引いたのかもしれない。  

金子兜太さんの作品も載っています。

どれも妻の木くろもじ山茱萸山法師

合歓の花君と別れてうろつくよ

妻が育てていた樹木をうろついて、亡き妻と対話していたと思われます。


中原中也の詩

「春日狂想」 「愛する者が死んだ時には、自殺しなければならない」死をテーマとした作品の重み

黒田杏子さんの俳句

兄に逢ふ弟に逢ふほたるかな 

*母の声ほーたるを呼ぶ母の声 

沖縄の医師の川上正人さん

「ぽつねんと消える さよならは悲しみにあらず  老いて死ぬは又とない幸せ」     

来年は多様性がはぐくむ、地域文化詩歌集を公募して、進めていこうと思っています。

*印は内容、文字等不正確な可能性があります。

2022年12月12日月曜日

平野啓子(語り部)           ・〔師匠を語る〕 鎌田弥恵

 平野啓子(語り部)           ・〔師匠を語る〕  鎌田弥恵

NHKの「おはよう日本」のニュースキャスターや大河ドラマ「毛利元就」のナレーションを担当した平野さんは語り部の第一人者として1997年に第52回文化庁芸術祭大賞を受賞しています。    師匠である鎌田弥恵さんについて伺いました。  

*芥川龍之介の冒頭部分を語る。   平野啓子

顔の表情。体全部を使って身振り手振りで語る。  

 鎌田弥恵さんは1947年NHK放送劇団に二期生として入団。  1952年からNHKラジオで放送され、その時間帯は銭湯の女湯が空になると言われた伝説的な番組「君の名は」のナレーションで鎌田弥恵さんは広く知られるようになりました。  1979年からは語り部として活動を始めています。  1991年度の芸術祭大賞を受賞。  平野さんを筆頭に多くの後進を育成し2019年91歳で亡くなりました。  

私にとって語りの世界の親という存在でした。  語りの会があるから行かないかと誘われました。  それが「鎌田弥恵物語の会」でした。  銀座のバーでお酒を飲みながら語りを聞くという会でした。   杉本苑子さんの「ひばり笛」という作品を、何にも本を見ずに客席に語りかけるんですが、全部文学作品の文章ですが、普通の言葉に聞こえてくるんです。   物語がダイナミックに心の中に広がって来て、自分がやりたかったのはこれだと思いました。   いきなりその後すぐに「弟子にして下さい。」と叫びました。  弟子は取っていないので学校の生徒として来てくださいと言われました。   私は初級コースで鎌田先生は上級コースを教えていたので直には教えてもらえず、2年間頑張り中級コースにあがりました。  中級コースの先生が辞める事になり鎌田先生が中級も教えるようになりました。    クラスは5,6人で順番に一つの作品を読んでいきます。   「違うんじゃない。」と言われるが何が違うのかわからないんです。  手本を示すと言いう事はほとんどないんです。 

中級で2年ぐらいしてから鎌田先生から、「今度の私の秋の舞台に出てみない。?」と言われました。   10~15分で終わるものを一生懸命探し回りました。    言われたのが6か月前でしたが、一つに絞り切れなくて公演の3か月前になってしまいました。  二つ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と宮沢賢治の「いちょうの実」でした。  先生に聞いていただいて芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に決まりました。   覚えるのに時間が掛かっていよいよ2か月になってしまいました。   前座というような形でやる事になりました。  初舞台は言葉のミスはなかったのですが、大きな声で最初から最後まで語り続けて、その時の様子を覚えていないんです。   先生は、私が独立した後も前座にどんどん新しい人を登壇させていました。   思い切った先生で若い人たちにチャンスを与える、という事をしていました。   或る時、お客さんから私に「貴方、先生とそっくりになってきたね。」と言われ、似てきたことに喜んでいたら、後で先生が「私の亜流になっては駄目よ。亜流になってしまったら、独立しても私の亜流でしかなくなる。 それは決してあなたにとっては良いことではないのよ。」と真剣なまなざしで言われました。

自分のなかで戦って作り出した表現がないのではないかもしれないと思って、演劇なども勉強しようかと思ったら、「誰かに習おうとしないで、一流のものばっかり見て歩きなさい。」と言われました。    自分の世界の中に取り入れたいと思うようになりまいた。 やり始めて行ったら自分のなかになにかが見つかって行きました。   自分で考えてやってみて発見して、やってみて又検証してゆくという事の繰り返しでした。  

先生について、6,7年経って独立する事になりました。   4作品をやる事にしました。  先生にリハーサルを見てもらって、山台をもっと広くするようにアドバイスされました。  初の独演会は成功したと言ってよかったのかなあと思います。 

1997年に第52回文化庁芸術祭大賞を受賞して、先生からは「この賞は通過点でしかないので、みなさんこれからも応援してください。」と言われました。   もっともっとたゆまぬ努力をしなさいと言われたような気がしました。   

先生からは自分で考えるように言われていて、年に数回電話する(一回に2時間ぐらい話す。)程度でした。  さまざまな話をしていました。  亡くなる1年前ぐらいに電話をかけたら、「勉強したいものがあったら作品を持っていらっしゃい。  私が教えられる時間はもう僅かよ。 あなたに最後に教えるわよ。」と言ってくださいました。  山本周五郎の作品での悪党のシーンでした。  「常識の外で生きている人たちの日常の声にしなければいけない。」と言われました。   何回も電話口でやり取りしましたが、それが師匠との最後の会話になりました。   

鎌田先生への手紙

『鎌田先生 こうして口にするとなんと懐かしい事でしょう。・・・お亡くなりになった時にまっさっきに思ったことは 、もう先生に直接呼びかけることも、先生の生のお声に触れることもできないという事でした。・・・ 艶のある、遠くからでも耳元に聞こえてくるような、温かい潤いのあるお声、声そのものが芸術の様でした。・・・ 先生のお声がいまある自分の人生の扉を開いてくださいました。・・・先生がお亡くなりになって私の心の中に先生の芸が鮮やかによみがえってきます。・・・自分の世界を築くにしても、自分はまだまだだと初心に立ち返ることができるのは鎌田先生のご存在が何時も心の中にあります。 ・・・最後に先生、謹んで口ずさんでよろしいですか。「忘却とは忘れ去ることなり。  忘れ得ずして忘却を誓(ちこ)う心の悲しさ。」』