大谷貴子(全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長)・〔わたし終いの極意〕 いのちのバトンをつなぐために
大谷さんは1986年25歳の時に慢性骨髄性白血病と診断されました。 骨髄バンクもなく骨髄移植もほとんど知られていない時代に、日本初の骨髄バンク設立に奔走しました。 現在は骨髄バンクの活動に加えて、若いがん患者や親をがんで亡くした子供たちへの支援にも取り組んでいます。
1986年25歳の時に慢性骨髄性白血病と診断され、このままだと余命1か月という厳しい状況でした。 白血病は或る日突然発症して、医師もどんなに手を尽くしても駄目だという事が病気の特徴でした。 ショックでした。(余命告知のない時代) 姉が「明日のことは誰にも判らへん。」と言ったんです。 何かあるのではないかという事が一つの光でした。 本を持ってきて必死で二人で勉強しました。 父は医者で、医者だからこそ駄目だと思っているので、一番落胆していました。(30年前の医学の知識) アメリカで姉は看護師をして告知のことは知っていました。 告知をするという事は医療者側に情報を提供するという責任があるわけです。
私が発病して10か月後にアメリカでは骨髄バンクが出来ています。 骨髄移植という方法があることを見つけました。 しかし提供者がいることが必要だという事で、兄弟姉妹が一番確率が高いという事でしたが、検査をしたら姉ではなかった。 助かるという夢を持った直後だったので、告知の時よりもつらかったです。 提供者となれるのが兄弟姉妹で1/4で、他人であると1/10000なんです。 大騒ぎしている時にアメリカの骨髄バンクを知ることになりました。 アメリカに行こうと思ったら、アメリカ人と日本人の骨髄は合いませんと言われてしまいました。 アジアに骨髄バンクがあればいいのだと思いましたが、日本にもアジアにも骨髄バンクがありませんでした。 厚労省になんで日本には骨髄バンクがないのか喰って掛かりました。 姉が「この人が悪い訳ではない。 あんたがつくったらいいやん。」と言いました。 姉も駄目だと思っていたようですが、希望を持って死んでいってほしいと姉は思ったようです。
両親は医学部の教科書的には提供者となれる確率はゼロなんですね。 両親は滋賀県県生まれで滋賀県育ちで、凄く近いところで育っていました。 DNAが半分完全に一致していたんです。 母と一致して1988年1月に骨髄移植をしてそれから34年になります。 日本の骨髄バンクが出来たのは1991年です。 署名活動をして120万人の署名が集まり、お医者さんもいろんなところに働きかけをして、メディアの力もあり、議員さんにお願いして、厚労省も動かざるを得なかったようですね。 プロジェクトXでも取り上げられました。 今は2万7000人ぐらいの方が生きるチャンスを貰われたし、臍帯血バンクもでき、来年の2月で5万例を達成します。 約80万人の人がドナーとして登録されています。 登録可能なのが18歳から54歳までとなっています。
結婚するにあたって、自分が思っていた大きな問題は子供でした。 抗がん剤投与で子供が出来なくなるという事を知りませんでした。 婦人科医に行ったら子供は産めませんと言われました。 それを理解してくれる人と結婚することが出来ました。 がんになった患者さんたちが子供が欲しいと若い患者さんたちが声を上げ始めて、抗癌剤を投与する前に精子、卵子を保存しておく、元気になったら受精卵を戻すとか、この30年の医学の進歩と共にサポートが出来てきて、いまでは16歳で悪性リンパ腫でしたが、治療の前に説明があり、受精卵子を保存できたと言っていました。
私が結婚した時に10歳だった姪が、25歳で結婚して双子が生まれて4歳になった時に姪がスキルス胃がんを発症してあっという間に亡くなってしまうという事になりました。 姪の母親(夫の姉)が「私が看取りたい。」と言ったんです。 医療支援が若い人にはないことが判りました。(介護保険を払っていないことが理由) 15~39歳までの若年性の癌の方の支援がない。 知り合いに話をしたら神戸にはあるという事でした。 私は埼玉に住んでいるが埼玉にはなくて、関東だと横浜と言われました。 その子は結婚して横浜に家を建てているからという事で、横浜市に連絡してその支援で家に帰しました。 家でクリスマスをしたりいろいろ世話が出来て看取ることが出来ました。 自治体によって支援に差があるというのは残念ですが、さいたま市、加須市も上尾市も動いています。 神奈川県は全域で支援が動くようになりました。 後は国の支援です。
色々な活動の源になっているのは「怒り」かと思います。 なんで骨髄バンクがないのかとか、支援の問題とか、カチンときてやればなんとか出来ると思います。 子宮頸がん、大腸がん、肺腺がんの初期のがんを経験していて、現在関節リウマチです。 頭には未破裂脳動脈瘤をいくつか持っています。 半年に一回チェックに行っています。 「人財産」 30数年、病気にならなかったら知り合えなかった人たちと一杯知り合えました。 新しい人と出会う事が大好きです。 「人財産」が宝です。 病院に行くときには発症した年月日、病名などの履歴をA4一枚にまとめてゆくと喜ばれます。(細かな内容は不要) 友達がいる間に死にたいし、毎日楽しく生きたいです。 25歳という若い時に物凄いショックを受けて今36年生きてきて、「今生きてるじゃん。」という力とが相まって、今楽しいんだと思います。 骨髄バンクとか、命が繋がってゆくという事をやっていきたいです。 わたし終いの極意としては、冥土の土産を両手にいっぱい持って背中に大きいリュックを背負い、一杯冥土の土産を入れて、三途の川を渡りたい。